セイの法則、ワルラスの法則、ついでにデロングの法則についてまとめておく
過去にワルラス法則について、『日本国債のパラドックスと財政出動の経済学』(向井文雄氏著)に対する異議申し立てとマクロ経済におけるワルラス法則を『正しく』考える。においてある程度論じたのだが、いま一度再説しようと思う。この論考の目的は二つある。
①各所で曖昧になっているセイの法則について整理
セイの法則とは、供給そのものが需要を作り出すという法則という言葉だけが一人歩きしていて、「需要なき供給なんてないんだから的外れだ!」という感情的な反発を呼んだり、逆にセイの法則が効くような想定――物々交換経済想定――のもとでしている議論でセイの法則の破れに言及すると、「今はセイの法則は関係ない! これだから経済素人は!」とヒステリーを起こされたりする。
もうちょっと冷静にこの"法則"について認識しておこう。それがいつ効いて、いつ効かないのかを明確にしよう。
②貨幣を含むワルラス法則について批判的に捉えるツールとして、デロングの法則を考える
これは、マクロ経済におけるワルラス法則を『正しく』考える。においてすでに論じたものだ。
飯田泰之らによって、ワルラス法則に基づいて不況を貨幣不足によるものと規定する考え方が広められたが、もし本当に貨幣不足が問題なら、貨幣以外の資産として債券において、金利の有意な上昇が観察されるはず。しかし、むしろその逆の金利低下が観察されているとデロングは批判した。本当はどう考えるべきなのか、論じておく。
【①について】
『貨幣は相互の交換を一度におこなうための仮の穴埋めであって、交換が終わってみれば生産品に対しては生産品が支払われている。』(ジャン=バディスト・セイ『政治経済学概論』)
セイの法則が導かれるコアの部分はここにある。
物々交換経済では、何かの財の購入とは、必ず何かの財の提供と表裏一体である。
このことから、経済全体で言って、各々の財の需要の合計は、かならず各々の財の供給の合計に制約されることになる。(予算制約式)
A、Bの二財でものすごく単純化して考えると(あまりにも単純化しすぎて学徒からは叱られそうだが、本筋は外していないはずだ)、
(Aの需要)+(Bの需要)=(Aの供給)+(Bの供給)
となるはずだ。
これを少し変形すると
(Aの需要)-(Aの供給)+(Bの需要)-(Bの供給)=0
となる。
書き直すと
(Aの超過需要)+(Bの超過需要)=0
である。
これこそが、セイの法則のもっとも単純化された表現式である。そして、財だけを対象にしたワルラス法則の表現式でもある。
この式はどんなことを意味するだろう?
ここでは経済の基本は物々交換だ。この場合、Aの需要もBの需要も不足しているという奇妙なことは起きない。Aの需要が不足しているということは、平均してみんながAを手放したがっているということだ。これはA以外に代わりに欲しいものがあるということを意味していて、ここでは財Bをみんなが欲しがり需要過剰になっているということになる。これはどんなに財の種類を増やしても同じことが言える。
以上から、ある財で超過供給(需要不足)が発生しているなら、必ず他の財で超過需要が発生しているということになる。そこで、きちんと価格メカニズムが働き、超過供給の財が値下がりし、超過需要の財が値上がりすることで、各財の需給は理想的な状態で一致し、それを動かすことで効用の"総量"を増やすことができなくなる。
この考えを念頭においていると、所謂不況というものを単なる需要不足だと認識することはできないし、実際セイの議論をもとに経済を考えていたジョン=スチュワート・ミルは消費刺激策等を批判した。産出量が低減し、失業が発生しているとき、セイの法則のおかげで総体的な需要不足が存在しないと"わかっている"から、問題は必ず供給面にあると考えられる。特に、ある財の超過供給を解消する手段は(相対的な)価格の調整なので、あらゆる形態の価格規制(政府の固定価格買取制度なども含む)の存在が槍玉に挙げられる。また、限界効用(追加で一個消費したときに得られる効用)が限界費用よりも小さいような必要度の低い財を作る施設しか作られない歪んだインセンティブが与えられていたり(この意味で、産業政策が批判される)、みんなが欲しがる財の生産販売が規制によって抑えられていたり(参入規制や取引規制が攻撃される)することを問題視し、その解決が求められる。
しかし、このお話のもっとも肝心なところは、貨幣を導入していない物々交換経済であるということである。もし貨幣が一定の所持需要を持つ財であると見なせるなら、貨幣市場についても考えなくてはならず、貨幣ではかる価格に硬直性があるとき、セイの法則が破れることがある。(詳しくは②で論ずる)
ここで重要なのは、純粋な物々交換経済を想定しているのであれば、必ずセイの法則に服する一方で、物々交換経済の想定に変更があったら、セイの法則が破れ、そのことが議論全体に影響を与えることがある。
もし物々交換経済のお話をしつつセイの法則を放置しようという行為があったなら、少し注意してみたほうが良い。セイの法則が成り立っているときの示唆を得るには有効かもしれないが、セイの法則が破れるとき、議論が総崩れになるときがあるからだ。
参考になるもの
http://www.zkai.co.jp/ca/g/kyozai/pdf/GS11.pdf
(Z会の公務員試験用経済原論のテキストらしい。ネットで見れるというところに限定すれば、よくまとまったものだと思う)
ワルラス均衡の概念(神谷)
http://web.econ.keio.ac.jp/staff/dikamiya/pdf99/macroecon/0520.pdf
【②について】
①に関する議論で、貨幣市場について考える必要性を示唆した。
というのも、貨幣はセイが考えたような市場媒介機能以外の機能を不可避的に持っているからである。
代表的なものとして考えられるのは、所持需要であろう。貨幣は、曖昧な将来消費欲を満たす効用を持つ財であると同時に、自分のこれまでの生産を交換可能な形で保有しておく予備動機を満たす財でもある。また、将来的に取引財や取引資産の価格が下がると予想される場合は、そのリスクを避けるリスクヘッジ手段の一つとも考えられよう。
このようにして、貨幣は単なるヴェールではなく、市場を行きかう財の一つと見なすべきであるとわかる。
だが、この場合、貨幣の希少度が上がっているだけなら、貨幣以外の財が貨幣との交換比率を変えて、貨幣で計った価格を引き下げることで、貨幣以外の財の需要不足は解決するはずである。
しかしながら、貨幣はケインズが論じたように、その価値の安定性ゆえに選好され、取引用財として信頼されている。他のそれぞれの財に対して急激に価値が下がったり、あるいは希少性が高くなりすぎたりすると、取引用財としての機能に不全が生じる。前者では貨幣の信用が弱まり、後者では貨幣の退蔵が亢進する。そういったことが起こらないものが、歴史的に貨幣として扱われてきたし、これが循環的に、貨幣をそういったものとして認識する傾向を生んでいる。
貨幣を安定的指標として扱う典型的な例としては、貸付・負債である。貸付・負債は、物々交換経済的観点からは、物価スライド方式(物価に応じて元本の額を変化させる)にしない理由を何ら持たないが、物価スライド方式が導入している貸付・負債はごくごく僅かだ。それは貨幣の(他のそれぞれの財に対する)価値評価の安定性を期待しているからだし、その根源に、価値評価が安定するものを貨幣と認めてきた歴史があるからである。
貸付・負債が貨幣的(名目的)に固定的である以上、借入による設備投資計画も名目的に固定的になり、したがって扱う商材の価格も固定的になる傾向があると考えられよう。また、メニューコストが近年強調されたように、価格の変更自体にコストがかかる。
他にも、既存労働者は、賃金の値下げに対し、もしそれが単なる物価スライドであっても、自身の労働力への価値評価の毀損として抵抗する。雇用主側も、それを懸念して、最初から賃金の値下げには慎重になるインセンティブがある。
こうして、貨幣で計った価格(名目価格)の硬直性が、少なくとも短期・中期で無視できないという事実を確認した。以上から、貨幣という特殊な財を含めた方程式を考えてあげる必要が出てくる。
ここで、何かしらの理由で、貨幣の超過需要すなわち財の超過供給が発生したとしよう。これを解消するためには通常、財の名目価格が低下することで、財の超過供給が解消されればいい。
もし名目価格が十分に下がらなかったら、財は価格ではなく数量の調整によって超過供給を解消しなければならなくなる。これが不況であろう。ここで名目価格がフレキシブルになるように、安易に過当競争を促進しても意味がないことに注意しよう。社会の慣行、特に貸付・負債が名目基準のままであったら、それに対して一方的に財価格を下げると、実質的な債務負担が急上昇してまたしても貨幣の超過需要が促進され、不況が深まってしまう。(フィッシャーの負債デフレ効果)
こういった状況では、貨幣を追加供給することが有効になる。これが貨幣と財を峻別するワルラス法則から得られるインプリケーションである。
ところが、「したがって、貨幣を追加供給しさえすればよい」という結論には問題がある、と噛み付いたのが、すでに挙げたブラッドフォード・デロングである。
彼はそこで「安全資産」について強調する。安全資産とは、貯蓄手段となるような債券・証券のことである。
もし、貨幣が一方的に超過需要になっているなら、安全資産に分類される資産・・・例えば国債などの金利は著しく上昇しているはずである。
しかし、実際には国債金利は凄まじい低空飛行を続けている。不況が深まれば深まるほど、むしろその高度を下げるばかりだ。これは「貨幣不足」という観点からは大いに矛盾する。
それでは、どう解釈すべきなのだろう? デロングは、貨幣を含めた安全資産の供給不足が問題なのだと考えた。
先ほど説明したワルラス法則が、
(財の超過需要)+(貨幣の超過需要)=0 (飯田泰之は一応、自身の記事で資産の項目を加えているが、資産の需要不足が生じているという、部分的に誤りを含む前提を加えてしまっている。)
だったのに対し、デロングの法則は
(財の超過需要)+(貨幣の超過需要)+(安全資産の超過需要)=0
と表現できることになる。
ここでは、貨幣と安全資産の供給不足が、財の需要不足を引き起こし不況に至っているのだと考察される。
どういう意味か。
安全資産とは、消費者にとっては貯蓄の手段であり、生産者にとっては投資の元手である。(銀行をはじめとした金融機関は、その間を取り持っている)
貨幣が追加供給されると、一般に安全資産の需要が追加される。貯蔵が必要と判断した水準以上の貨幣は、投資か消費に振り分けられることになるからだ。
当然、定常的には貨幣需給も安全資産需給も一致する。そのためには、セイの法則で説明したのと同様、価格メカニズムが働く必要がある。
ここでは、安全資産を主に形成する債券について考える。債券の価格とはすなわち金利のことだ。
ケインズが考察したとおり、金利とは、貨幣を手放すことに対する報酬である。ここで貨幣が追加供給されるなら、貨幣逼迫が減ずることで貨幣を手放す報酬は下がるだろう。すなわち、金利が引き下がる。これは投資コストを引き下げることで、債券の発行とそれによって得た資金の投資を促すだろう。すなわち、安全資産の供給を引き上げるのである。安全資産の供給追加とはすなわち投資追加のことであり、これは財市場における財生産をもたらすものである。財市場と安全資産市場において"生産"が活発化すると、そのために新たに貨幣需要が生まれる。以上によって、安全資産の需給と貨幣の需給は、財市場の需給水準を引き上げながら均衡する。
ところが、金利がゼロ下限に達してしまったらどうなるだろう? 貨幣とは、金利がゼロでリスクのない債券と見なしてもよいから、債券にゼロ以下の金利をつけることは出来ないだろう。こうなってしまうと、単なる貨幣の追加では上記で説明した安全資産の供給が起こらず、説明したようなリバランスは生じない。
この場合、貨幣は供給した分だけ強制的に退蔵されることになってしまう。これは、現実には銀行における超過準備の増加という形で観測されている。
貨幣+安全資産の総量が増えない形での貨幣の追加は、方程式からもわかるように、財市場への効果を持たないのである。
ここでは暗黙裡に、貨幣が(通常行われるように)安全資産(普通は国債)を購入して供給されるということを仮定している。そのため、理論的には、リスク資産を買い増して、リスク資産を貯蓄手段として追加することは、貨幣+安全資産の総量を増やすので有効になる。これが所謂信用緩和であり、質的緩和である。もっとも、異次元緩和について論じた拙エントリでは、結局金利メカニズムの限界そのものを乗り越えているわけではないという致命的な点も指摘している。
ゼロ下限を回避するもっともまともな貨幣+安全資産の追加は、貨幣供給を前提とした国債発行ということになるだろう。これが財市場の超過供給をきちんと解決する、ほとんど唯一の手段であると思われるが、なかなか実施されることはないし、上記と同じレベルで批評されることすらあまりないというのが、悲しい現状である。
参考:DeLong's law (Economist's View)
私が記述した方程式は、ほぼこのサイトのものを真似たものである。
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2016/2/7 追記
上記記事で引用した飯田泰之(『需要不足を認めるならば、残された問題は、貨幣供給の不足をどのように埋めるのか、という点に絞られているはずなのだ。』)や、以前議論した蝙蝠氏(『
しかし、上記記事で私が非難したように、貨幣の存在が不況の原因だとしても、それが単純な貨幣の追加供給で解決するとは限らない。この世界には貨幣に準拠した安全資産(特に債券)が存在し、安全資産を購入して資金を供給する従来のオペレーションは、貨幣+安全資産の総量を増やせずに無為と化してしまうからだ。
ところが最近、リフレ支持者は「国債が足りない」と言い始めた。
以前議論したすまん寝氏(すでにブロックされている)のブログでは、しれっと「いわゆるリフレ的政策支持者だけでなく、デフレ派や財政破綻派を含めて、国債が足りないが共通のコンセンサスになってきているようです。」などと述べられているし、蝙蝠氏も「現実に国債足りないからね」などと放言している。
しかし冷静に考えてみてほしい。
債務残高GDP比が200~300%である日本において、貨幣供給の見合い資産としての国債が不足しているというのは、直観的にはかなり奇妙だ。
それを説明する方法は簡単である。そもそも貨幣供給それ自体には意味がないのだ。
もっと言えば、もともと足りなかったのは貨幣ではなかった。
すでに指摘したように、不足していたのは貨幣+安全資産だったのである。それは、政策変数的には、(貨幣ではなく)「国債の不足」だったのだ。
リフレ支持者の人々は、これまでのリフレ政策論と根本的に矛盾するこの現象について、もっと見識を深める義務があるように思われる。
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