火曜日, 2月 25, 2020

何の「貨幣への需要」について話してるんだ?  ブラッド・デロング: 転載

望月慎(望月夜) (@motidukinoyoru)
どんどんMMTとは関係なくなるんだけど、こういう財と貨幣の二元論を批判した(マーケット・マネタリストとの論争の中で)のが、ブラッド・デロング econdays.net/?p=1363 だったのであった。
彼は、起きているのは安全資産全体、貯蓄手段全体の不足であり、貨幣の超過需要こそ”おまけ”だと論じた。

https://twitter.com/motidukinoyoru/status/1232277934041206784?s=21

望月慎(望月夜) (@motidukinoyoru)
⁦‪@Woofer30‬⁩ ワルラスの法則(齊藤誠&リフレ派)に対して、安全資産を含む貯蓄手段全体の超過需要を扱う議論は、デロングの法則と俗称されたわけだ。
ameblo.jp/nakedcds/entry… 
いわゆる”修正”ニューケインジアンの議論は、概ねこの筋に沿って展開されているのだが、齊藤誠氏はご存知ないのだろうか?
https://twitter.com/motidukinoyoru/status/1232278939206184962?s=21


セイの法則、ワルラスの法則、ついでにデロングの法則についてまとめておく | 批判的頭脳
https://gamp.ameblo.jp/nakedcds/entry-12023376731.html?__twitter_impression=true

セイの法則、ワルラスの法則、ついでにデロングの法則についてまとめておく

過去にワルラス法則について、『日本国債のパラドックスと財政出動の経済学』(向井文雄氏著)に対する異議申し立てマクロ経済におけるワルラス法則を『正しく』考える。においてある程度論じたのだが、いま一度再説しようと思う。

この論考の目的は二つある。

①各所で曖昧になっているセイの法則について整理

セイの法則とは、供給そのものが需要を作り出すという法則という言葉だけが一人歩きしていて、「需要なき供給なんてないんだから的外れだ!」という感情的な反発を呼んだり、逆にセイの法則が効くような想定――物々交換経済想定――のもとでしている議論でセイの法則の破れに言及すると、「今はセイの法則は関係ない! これだから経済素人は!」とヒステリーを起こされたりする。

もうちょっと冷静にこの"法則"について認識しておこう。それがいつ効いて、いつ効かないのかを明確にしよう。


②貨幣を含むワルラス法則について批判的に捉えるツールとして、デロングの法則を考える

これは、マクロ経済におけるワルラス法則を『正しく』考える。においてすでに論じたものだ。

飯田泰之らによって、ワルラス法則に基づいて不況を貨幣不足によるものと規定する考え方が広められたが、もし本当に貨幣不足が問題なら、貨幣以外の資産として債券において、金利の有意な上昇が観察されるはず。しかし、むしろその逆の金利低下が観察されているとデロングは批判した。本当はどう考えるべきなのか、論じておく。



【①について】

『貨幣は相互の交換を一度におこなうための仮の穴埋めであって、交換が終わってみれば生産品に対しては生産品が支払われている。』(ジャン=バディスト・セイ『政治経済学概論』)

セイの法則が導かれるコアの部分はここにある。

物々交換経済では、何かの財の購入とは、必ず何かの財の提供と表裏一体である。

このことから、経済全体で言って、各々の財の需要の合計は、かならず各々の財の供給の合計に制約されることになる。(予算制約式)

A、Bの二財でものすごく単純化して考えると(あまりにも単純化しすぎて学徒からは叱られそうだが、本筋は外していないはずだ)、

(Aの需要)+(Bの需要)=(Aの供給)+(Bの供給)

となるはずだ。
これを少し変形すると

(Aの需要)-(Aの供給)+(Bの需要)-(Bの供給)=0

となる。

書き直すと

(Aの超過需要)+(Bの超過需要)=0

である。

これこそが、セイの法則のもっとも単純化された表現式である。そして、財だけを対象にしたワルラス法則の表現式でもある。

この式はどんなことを意味するだろう?

ここでは経済の基本は物々交換だ。この場合、Aの需要もBの需要も不足しているという奇妙なことは起きない。Aの需要が不足しているということは、平均してみんながAを手放したがっているということだ。これはA以外に代わりに欲しいものがあるということを意味していて、ここでは財Bをみんなが欲しがり需要過剰になっているということになる。これはどんなに財の種類を増やしても同じことが言える。

以上から、ある財で超過供給(需要不足)が発生しているなら、必ず他の財で超過需要が発生しているということになる。そこで、きちんと価格メカニズムが働き、超過供給の財が値下がりし、超過需要の財が値上がりすることで、各財の需給は理想的な状態で一致し、それを動かすことで効用の"総量"を増やすことができなくなる。

この考えを念頭においていると、所謂不況というものを単なる需要不足だと認識することはできないし、実際セイの議論をもとに経済を考えていたジョン=スチュワート・ミルは消費刺激策等を批判した。産出量が低減し、失業が発生しているとき、セイの法則のおかげで総体的な需要不足が存在しないと"わかっている"から、問題は必ず供給面にあると考えられる。特に、ある財の超過供給を解消する手段は(相対的な)価格の調整なので、あらゆる形態の価格規制(政府の固定価格買取制度なども含む)の存在が槍玉に挙げられる。また、限界効用(追加で一個消費したときに得られる効用)が限界費用よりも小さいような必要度の低い財を作る施設しか作られない歪んだインセンティブが与えられていたり(この意味で、産業政策が批判される)、みんなが欲しがる財の生産販売が規制によって抑えられていたり(参入規制や取引規制が攻撃される)することを問題視し、その解決が求められる。

しかし、このお話のもっとも肝心なところは、貨幣を導入していない物々交換経済であるということである。もし貨幣が一定の所持需要を持つ財であると見なせるなら、貨幣市場についても考えなくてはならず、貨幣ではかる価格に硬直性があるとき、セイの法則が破れることがある。(詳しくは②で論ずる)


ここで重要なのは、純粋な物々交換経済を想定しているのであれば、必ずセイの法則に服する一方で、物々交換経済の想定に変更があったら、セイの法則が破れ、そのことが議論全体に影響を与えることがある。
もし物々交換経済のお話をしつつセイの法則を放置しようという行為があったなら、少し注意してみたほうが良い。セイの法則が成り立っているときの示唆を得るには有効かもしれないが、セイの法則が破れるとき、議論が総崩れになるときがあるからだ。

参考になるもの
http://www.zkai.co.jp/ca/g/kyozai/pdf/GS11.pdf
(Z会の公務員試験用経済原論のテキストらしい。ネットで見れるというところに限定すれば、よくまとまったものだと思う)

ワルラス均衡の概念(神谷)
http://web.econ.keio.ac.jp/staff/dikamiya/pdf99/macroecon/0520.pdf


【②について】

①に関する議論で、貨幣市場について考える必要性を示唆した。
というのも、貨幣はセイが考えたような市場媒介機能以外の機能を不可避的に持っているからである。
代表的なものとして考えられるのは、所持需要であろう。貨幣は、曖昧な将来消費欲を満たす効用を持つ財であると同時に、自分のこれまでの生産を交換可能な形で保有しておく予備動機を満たす財でもある。また、将来的に取引財や取引資産の価格が下がると予想される場合は、そのリスクを避けるリスクヘッジ手段の一つとも考えられよう。
このようにして、貨幣は単なるヴェールではなく、市場を行きかう財の一つと見なすべきであるとわかる。
だが、この場合、貨幣の希少度が上がっているだけなら、貨幣以外の財が貨幣との交換比率を変えて、貨幣で計った価格を引き下げることで、貨幣以外の財の需要不足は解決するはずである。

しかしながら、貨幣はケインズが論じたように、その価値の安定性ゆえに選好され、取引用財として信頼されている。他のそれぞれの財に対して急激に価値が下がったり、あるいは希少性が高くなりすぎたりすると、取引用財としての機能に不全が生じる。前者では貨幣の信用が弱まり、後者では貨幣の退蔵が亢進する。そういったことが起こらないものが、歴史的に貨幣として扱われてきたし、これが循環的に、貨幣をそういったものとして認識する傾向を生んでいる。

貨幣を安定的指標として扱う典型的な例としては、貸付・負債である。貸付・負債は、物々交換経済的観点からは、物価スライド方式(物価に応じて元本の額を変化させる)にしない理由を何ら持たないが、物価スライド方式が導入している貸付・負債はごくごく僅かだ。それは貨幣の(他のそれぞれの財に対する)価値評価の安定性を期待しているからだし、その根源に、価値評価が安定するものを貨幣と認めてきた歴史があるからである。
貸付・負債が貨幣的(名目的)に固定的である以上、借入による設備投資計画も名目的に固定的になり、したがって扱う商材の価格も固定的になる傾向があると考えられよう。また、メニューコストが近年強調されたように、価格の変更自体にコストがかかる。
他にも、既存労働者は、賃金の値下げに対し、もしそれが単なる物価スライドであっても、自身の労働力への価値評価の毀損として抵抗する。雇用主側も、それを懸念して、最初から賃金の値下げには慎重になるインセンティブがある。

こうして、貨幣で計った価格(名目価格)の硬直性が、少なくとも短期・中期で無視できないという事実を確認した。以上から、貨幣という特殊な財を含めた方程式を考えてあげる必要が出てくる。

ここで、何かしらの理由で、貨幣の超過需要すなわち財の超過供給が発生したとしよう。これを解消するためには通常、財の名目価格が低下することで、財の超過供給が解消されればいい。
もし名目価格が十分に下がらなかったら、財は価格ではなく数量の調整によって超過供給を解消しなければならなくなる。これが不況であろう。ここで名目価格がフレキシブルになるように、安易に過当競争を促進しても意味がないことに注意しよう。社会の慣行、特に貸付・負債が名目基準のままであったら、それに対して一方的に財価格を下げると、実質的な債務負担が急上昇してまたしても貨幣の超過需要が促進され、不況が深まってしまう。(フィッシャーの負債デフレ効果)

こういった状況では、貨幣を追加供給することが有効になる。これが貨幣と財を峻別するワルラス法則から得られるインプリケーションである。


ところが、「したがって、貨幣を追加供給しさえすればよい」という結論には問題がある、と噛み付いたのが、すでに挙げたブラッドフォード・デロングである。
彼はそこで「安全資産」について強調する。安全資産とは、貯蓄手段となるような債券・証券のことである。
もし、貨幣が一方的に超過需要になっているなら、安全資産に分類される資産・・・例えば国債などの金利は著しく上昇しているはずである。
しかし、実際には国債金利は凄まじい低空飛行を続けている。不況が深まれば深まるほど、むしろその高度を下げるばかりだ。これは「貨幣不足」という観点からは大いに矛盾する。

それでは、どう解釈すべきなのだろう? デロングは、貨幣を含めた安全資産の供給不足が問題なのだと考えた。

先ほど説明したワルラス法則が、

(財の超過需要)+(貨幣の超過需要)=0 (飯田泰之は一応、自身の記事で資産の項目を加えているが、資産の需要不足が生じているという、部分的に誤りを含む前提を加えてしまっている。)

だったのに対し、デロングの法則は

(財の超過需要)+(貨幣の超過需要)+(安全資産の超過需要)=0

と表現できることになる。

ここでは、貨幣と安全資産の供給不足が、財の需要不足を引き起こし不況に至っているのだと考察される。
どういう意味か。
安全資産とは、消費者にとっては貯蓄の手段であり、生産者にとっては投資の元手である。(銀行をはじめとした金融機関は、その間を取り持っている)
貨幣が追加供給されると、一般に安全資産の需要が追加される。貯蔵が必要と判断した水準以上の貨幣は、投資か消費に振り分けられることになるからだ。
当然、定常的には貨幣需給も安全資産需給も一致する。そのためには、セイの法則で説明したのと同様、価格メカニズムが働く必要がある。
ここでは、安全資産を主に形成する債券について考える。債券の価格とはすなわち金利のことだ。
ケインズが考察したとおり、金利とは、貨幣を手放すことに対する報酬である。ここで貨幣が追加供給されるなら、貨幣逼迫が減ずることで貨幣を手放す報酬は下がるだろう。すなわち、金利が引き下がる。これは投資コストを引き下げることで、債券の発行とそれによって得た資金の投資を促すだろう。すなわち、安全資産の供給を引き上げるのである。安全資産の供給追加とはすなわち投資追加のことであり、これは財市場における財生産をもたらすものである。財市場と安全資産市場において"生産"が活発化すると、そのために新たに貨幣需要が生まれる。以上によって、安全資産の需給と貨幣の需給は、財市場の需給水準を引き上げながら均衡する。

ところが、金利がゼロ下限に達してしまったらどうなるだろう? 貨幣とは、金利がゼロでリスクのない債券と見なしてもよいから、債券にゼロ以下の金利をつけることは出来ないだろう。こうなってしまうと、単なる貨幣の追加では上記で説明した安全資産の供給が起こらず、説明したようなリバランスは生じない。
この場合、貨幣は供給した分だけ強制的に退蔵されることになってしまう。これは、現実には銀行における超過準備の増加という形で観測されている。
貨幣+安全資産の総量が増えない形での貨幣の追加は、方程式からもわかるように、財市場への効果を持たないのである。
ここでは暗黙裡に、貨幣が(通常行われるように)安全資産(普通は国債)を購入して供給されるということを仮定している。そのため、理論的には、リスク資産を買い増して、リスク資産を貯蓄手段として追加することは、貨幣+安全資産の総量を増やすので有効になる。これが所謂信用緩和であり、質的緩和である。もっとも、異次元緩和について論じた拙エントリでは、結局金利メカニズムの限界そのものを乗り越えているわけではないという致命的な点も指摘している。
ゼロ下限を回避するもっともまともな貨幣+安全資産の追加は、貨幣供給を前提とした国債発行ということになるだろう。これが財市場の超過供給をきちんと解決する、ほとんど唯一の手段であると思われるが、なかなか実施されることはないし、上記と同じレベルで批評されることすらあまりないというのが、悲しい現状である。


参考:DeLong's law (Economist's View)
私が記述した方程式は、ほぼこのサイトのものを真似たものである。


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2016/2/7 追記

上記記事で引用した飯田泰之(『需要不足を認めるならば、残された問題は、貨幣供給の不足をどのように埋めるのか、という点に絞られているはずなのだ。』)や、以前議論した蝙蝠氏(『』)のように、一般的にリフレ政策論者は、総需要不足の要因を単に貨幣不足に求め、貨幣の追加供給それ自体が問題を解決するという考えを持っていた。

しかし、上記記事で私が非難したように、貨幣の存在が不況の原因だとしても、それが単純な貨幣の追加供給で解決するとは限らない。この世界には貨幣に準拠した安全資産(特に債券)が存在し、安全資産を購入して資金を供給する従来のオペレーションは、貨幣+安全資産の総量を増やせずに無為と化してしまうからだ。

ところが最近、リフレ支持者は「国債が足りない」と言い始めた。

以前議論したすまん寝氏(すでにブロックされている)のブログでは、しれっと「いわゆるリフレ的政策支持者だけでなく、デフレ派や財政破綻派を含めて、国債が足りないが共通のコンセンサスになってきているようです。」などと述べられているし、蝙蝠氏も「現実に国債足りないからね」などと放言している。

しかし冷静に考えてみてほしい。

債務残高GDP比が200~300%である日本において、貨幣供給の見合い資産としての国債が不足しているというのは、直観的にはかなり奇妙だ。

それを説明する方法は簡単である。そもそも貨幣供給それ自体には意味がないのだ。

もっと言えば、もともと足りなかったのは貨幣ではなかった。
すでに指摘したように、不足していたのは貨幣+安全資産だったのである。それは、政策変数的には、(貨幣ではなく)「国債の不足」だったのだ。


リフレ支持者の人々は、これまでのリフレ政策論と根本的に矛盾するこの現象について、もっと見識を深める義務があるように思われる。


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何の「貨幣への需要」について話してるんだ?  ブラッド・デロング – 道草
http://econdays.net/?p=1363

何の「貨幣への需要」について話してるんだ?  ブラッド・デロング

下はブラッド・デロングのブログポスト”What Is This “Demand for Money” of Which You Speak?” 2010年9月30日の翻訳です。これは貨幣需要と倹約のパラドックスについての、ウルフ(日本語訳)→ベックワース(日本語訳)→デロング(ここ)→クルーグマン(日本語訳)→サムナーという一連のブログポストの中のひとつです。
タイポ・誤訳等ありましたら、コメント欄にお願いします。
追記:ayakkaさんの指摘をうけて引用部分のタイポを修正しました。ありがとうございました!
 
 
何の「貨幣への需要」について話してるんだ? 2010年9月30日
現在生産されている財とサービスへの需要不足という我々のこの大きなマクロ経済問題が、もし流動性のある現金、つまりあなたのポケットの中にあって、決済の為に使われ、交換の媒介として機能するものの供給不足の結果なのならば、現金への代替となるもの全ての価格は非常に低くなっているはずだ。流動性のある現金の束を積み上げるために人々はその他の保有資産を投売りしようとするだろうから、それを押し止めるにはそういった代替のものの価格が非常に低くなり、その期待収益率が非常に高くならなければならない。よって、流動性のある現金の不足により引き起こされた不況では、たとえば政府債券などの利子率は非常に高くなっているものと予想される。政府債券は貨幣の安全性という特徴を共有し、また購買力を未来に移転する為の貯蓄手段としても働くが、交換の媒介として現金ほどの流動性がないためだ。
にも関わらず、デビッド・ベックワースは下のように書いている。
Macro and Other Market Musings:マーティン・ウルフ、倹約のパラドックスと貨幣への超過需要
ウルフは更なる借り入れこそが、まさに経済が今必要としているものだと結論している...[彼の]倹約のパラドックスのアイデアは、貨幣への超過需要により貨幣的な不均衡が生じているということの別の表現以外のなんでもない。そして勿論、貨幣への超過需要は貨幣の量を増やす事で解決するのが一番だ。苦痛に満ちた他の手段は、貨幣需要が貨幣供給に等しくなるまで、貨幣の超過需要が現行の支出総額を減らしてデフレを起こさせることだ...倹約のパラドックスには連銀が仕事中に居眠りしている事が必要になる。
倹約のパラドックスがなぜ本当は貨幣の超過需要の問題でしかないのかを説明させてもらおう...各家計は貯蓄をする事ができる...消費支出を減らし、貨幣を退蔵することによって...所得を株や、債権、あるいは不動産に使う事によって...負債を返済することによって...支出を減らすことで、所有する貨幣を増やす...超過需要を生み出し、そして苦痛に満ちた調整プロセスがはじまることになる。しかしもしも、連銀が増加した貨幣需要に見合うように供給を調整したならば、その苦痛に満ちた調整は回避できる...後の二つのケースにおいては資産が購入され、負債が返済されて貨幣が資産の売り手か債権者に移動している。これらにおいては、苦しい調整が起こるには、その売り手や債権者、あるいは貨幣の交換の連なりのさらに先にいる誰かが貨幣を退蔵しなくてはならない。もし債権者や売り手が貨幣を退蔵しないならば、その貨幣は支出と価格の安定を維持し続けることになる。まったく結構な事だ。そうすると、倹約の促進が経済全体での問題となるのは、それが貨幣への超過需要につながる時だとなる...貨幣理論(Monetary Theory)の根本的な主題は、各家計はその貨幣のストックを望ましい額まで調整する事ができるが、経済全体としては出来ない...
ベックワースの主張の穴は、私が考えるに、彼が「連銀が貨幣供給を調整する」と述べる時、どうやるのかを述べていないところにある。まさに我々がそうであるような状況、つまり人々が安全資産のストックを積み上げるために現在生産されている財とサービスへの支出を減らそうとしている状況を考えてもらいたい。安全資産とは、人々がその富を保持できるもの、目を離している間に消えてしまう事がないと安心できるもののことだ。人々は現在生産されている財とサービスからその支出を移して、安全資産のストックを積み上げようとしている。極度に低リスクでとてもよい担保のついている民間の債権や、政府証券、そして流動性のある現金などをだ。さてここで、連邦準備が政府証券を現金で買って貨幣供給を増やしたとしてみよう。確かに貨幣の供給は変わった。しかし、短期の政府証券の金利はすでに非常に低いのだから、もし貨幣の価値がその流動性からではなくその安全性から来ているなら、家計とビジネスがいまだに安全資産が足らないぞと、現在生産されている財とサービスへの支出をさらに削らなければと感じるだけのことで、貨幣供給の拡大は何の効果も持つ事はないだろう。貨幣のストックの増加はその流通速度の低下により相殺されてしまう。経済の中の取引を促進する貨幣の総額(the transaction-fueling balances of the economy)は変わらない事になる。連邦準備により作られた追加の貨幣は、家計とビジネスが所有しようと望む貨幣以外の安全資産のストックの低下により引き起こされた貨幣への追加の予防的需要により吸い上げられてしまうからだ。
よって、確かにベックワースが貨幣への超過需要があると言うのは正しいが、連邦準備がそれを単に「貨幣供給を調整する」ことで解決できると述べるのは間違っている。問題は、根っこにある問題が完全雇用下での安全資産への計画需要がその供給を上回っていることである時、公開市場操作による貨幣供給の増加は貨幣需要の同じ規模の増加により相殺されてしまうという事だ。安全資産として政府債券を持っていた人達がそれを手放すと、かわりの安全資産として流動性のある貨幣への需要が高まるからだ。
貨幣供給を増やす事は助けになりえる。ただし、連邦準備が安全資産の供給を一定に維持するというその政策を守らずにそれを行なえば、だ。追加の現金を刷って、政府にそれを使わせる。ヘリコプターから追加の現金をばら撒く。政府に支出をさせて、それを借り入れによりファイナンスさせ、政府負債の追加の形で追加の安全資産を作り出す。民間債権を保証して、安全なものにする。短期の安全な財務省証券についてではなく、他のリスキーな資産について公開市場操作を行って、公開市場操作が経済の安全資産のストックを一定に保つのではなく、増やすようにする。
これらは全て、貨幣供給を増やす、あるいは流動性のある資産としてではなく安全資産としての貨幣への予防的な需要の一部を新しく作り出された貨幣以外の安全資産に移すことで貨幣への実質的な需要を減らす方法だ。
これらは全て上手く働くはずである。主がお許しになられ、問題が起こらなければ(the Lord willing and the creek don’t rise)。
しかし、貨幣への超過需要が問題だと述べるのは、私が思うに、ミスリーディングだ。それでは貨幣のストックを増やす通常の手法、経済の中の安全資産の総額を一定にしたまま流動的な現金とその他の資産を交換する公開市場操作もまた上手く働くかのように示唆してしまうからだ。そしてこれまでで、それが上手く働かないという多くの証拠を我々はすでに得ていると私は思う。
そして、追加の現金を刷って政府にそれを使わせる、ヘリコプターから追加の現金をばら撒く、政府に支出をさせてそれを借り入れによりファイナンスさせて政府負債の追加の形で追加の安全資産を作り出す、民間債権を保証して安全なものにする、短期の安全な財務省証券についてではなく他のリスキーな資産について公開市場操作を行って公開市場操作が経済の安全資産のストックを一定に保つのではなく増やすようにする、といった別の手段を「金融政策」と呼ぶのは、私には大きな混乱につながるように思える。流動性のある現金への超過需要がそれ自体、より根本的な投資に対する(計画)貯蓄の、あるいは供給に対する安全資産の(計画)保有の超過からのスピルオーバーの結果なのなら、安全資産のストックと貯蓄手段のストックを一定にするように意図されている通常の公開市場操作ではうまくいきそうにない。そして、連邦準備の金融拡張が上手く働いたなら、それは貨幣供給を増やしたからではなく、より重要である安全資産の供給を、あるいは貯蓄手段の供給を増やしたからということになるだろう。
要点は、私が思うに、流動性のある現金は交換の媒介であるだけでなく、価値の保蔵手段、貯蓄の手段、そしてヘッジの手段、予防的な需要を満たすためにポートフォリオの中に組み込んでおける安全性の保管所であり、よって貨幣の取引の為の需要は全体のなかの一部でしかない、という事だ。しかし他の資産もまた価値の保蔵手段でありヘッジでもあるのだから、貨幣の供給と需要についてだけ注目すると、現在のような情勢においてのその働きの多くを見逃してしまうことになる。
私には非常に明らかに思えるこの事が、非常に多くの諸賢には明らかでない事には、いまでもフラストレーションを感じる。個人的には、大学院での私の初年度においてオリバー・ブランチャードがロイド・メツラー(Lloyd Metzler)の”Wealth, Saving, and the Rate of Interest”に三週間も費やさせた事にその責を置きたかったり、する。
追記:ニック・ロウがデビッド・ベックワースにコメントしている。
イエス!倹約のパラドックスなんてない。あるのは交換の媒介の退蔵のパラドックスだ。それは貨幣を買うのには二つの方法があるからだ。貨幣以外のものを売るか、貨幣以外のものの購入を減らすか。これら二つのオプションのうちの一つはいつでも個人には可能だが、全員にはそうではない。
セイの法則が間違っている唯一のケースは、交換の媒介である貨幣の超過需要(あるいは供給)がある時だ。
この意味においても「倹約のパラドックス」がある事を述べて、ニック・ロウを幸せにしておこう。
投資に対する(計画)貯蓄の超過があるとき、貯蓄者はその需要を満たすのに充分な債券を見出す事ができず、かわりに流動性のある現金に超過需要を振り向けることになる。よって彼らは、貨幣の取引需要に利用可能な貨幣の供給を減らし、そのインバランスがセイの法則を破る超過需要を作り出してしまう。ゆえに、問題は貨幣への超過需要ではあるのだが、通常の公開市場操作ではそれを解決できない。たしかに貨幣供給を増やす事はできる。しかしその他の貯蓄手段の供給を減らす事で、取引目的には利用できない貨幣のストックもまた増えてしまう。それらは貯蓄の(あるいは安全性の為の)手段として使われてしまうのだ。
これでなにか明らかになっただろうか?それともさらに闇が深まっただけかな?