http://www.freeassociations.org/
ラベル: 削除
今回の失政の責任者 #鈴木康裕 をはじめ厚労省の医系技官は慶應大学の学閥が支配している
今回の四人の経済学者も大竹氏以外は慶應関連
実に分かりやすい
慶應大学経済学が日本を滅ぼす
ただし、
【小浜逸郎】福沢諭吉は完璧な表券主義者だった(その1) | 「新」経世済民新聞
https://38news.jp/economy/11825
今回の失政の責任者 #鈴木康裕 をはじめ厚労省の医系技官は慶應大学の学閥が支配している
今回の四人の経済学者も大竹氏以外は慶應関連
実に分かりやすい
慶應大学経済学が日本を滅ぼす
ただし、
【小浜逸郎】福沢諭吉は完璧な表券主義者だった(その1)
https://38news.jp/economy/11825
(竹森氏も福沢諭吉について書いているがピンぼけだった)
外債論
「福沢健全期『時事新報』社説・漫言一覧及び起草者推定」
https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/the_newspaper_archives_and_conclusion_on_the_writer/#y1885
3.4. 明治 18/1885
18851203 外債論(八日まで計五回、六日休刊)
まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい『学問のすゝめ』 Kindle版 2020/02/28
小浜逸郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0855L3763/
レビュー
Ryouji Ishizuka (@ISHIZUKA_R)
2020/08/18 17:22
借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られているが、そもそもの由来については、リトルトンに書いてあった。逆に見えるのは相手方から見てだから、ということ。 pic.twitter.com/LEM1oKLMd4
https://twitter.com/ishizuka_r/status/1295637198734110720?s=21
福沢諭吉がMMTと接近するのは表券主義的信用貨幣論においてではなく
以下の認識においてであろう。
「天下一夫も仕事を得ざるものなからしむる」(「外債論」)
著作集6解説377頁(大正版全集9,48頁)より
これはJGPに近い
大隈、福沢は緊縮策に反対し、特に福沢は外債に頼るべきとした
外債論に関しては竹森俊平の以下の現代語訳及び引用があった
《「人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、た
とえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけではな
く、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に
余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、経済に
とり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とする
べきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、天然
の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然に
そういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。その生産活動から生じた利益が誰の
手に落ちようとも、自国内にあるならばそれで満足するべきである。政府は極貧にして借金が山の
ようにあっても、人民が豊かなら少しも心配することはない。なぜならば、その借金はすなわち人
民の借金なのだから、払おうと思えばいつでも容易に払うことができるからである。」(福澤全集第
10[=誤,正確には9]巻 一九二五~一九二六年 國民図書)
この文章が明確に述べているように、人的資源をフルに活動させることこそが、経済政策の目的
であるべきだというのが福沢の主張である。財政が緊縮型か、積極型かによって、その目的の達成
に違いが出てくることも、福沢はもちろん認識していた。それで、この文章のように赤字財政でも
構わないという主張をするわけである。それはもちろん福沢の目的意識が、「自分は、国中に身体
障害者や病人の他は、手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む」(前掲書)というとこ
ろにあったからである。》
(竹森デフレは三度来(きた)る上第三章 松方正義と金本位制 79頁)
小浜は南京大虐殺の被害者数の記述でアメリカMMT極左の怒りを買った人物ではあるが、
本書はリベラルな著作と言っていい
まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい『学問のすゝめ』 Kindle版 2020/02/28
小浜逸郎 (著)
レビュー
福沢諭吉がMMTと接近するのは(本書で指摘されたような)表券主義的信用貨幣論においてとともに
以下の認識においてであろう。
「天下一夫も仕事を得ざるものなからしむる」(「外債論」)
著作集6解説377頁(大正版全集9,48頁)より
これはJGPに近い。
大隈、福沢は緊縮策に反対し、特に福沢は外債に頼るべきとした。
外債論に関しては竹森俊平の以下の現代語訳及び引用があった。
《「人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、た
とえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけではな
く、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に
余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、経済に
とり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とする
べきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、天然
の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然に
そういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。その生産活動から生じた利益が誰の
手に落ちようとも、自国内にあるならばそれで満足するべきである。政府は極貧にして借金が山の
ようにあっても、人民が豊かなら少しも心配することはない。なぜならば、その借金はすなわち人
民の借金なのだから、払おうと思えばいつでも容易に払うことができるからである。」(福澤全集第
10[=誤,正確には9]巻 一九二五~一九二六年 國民図書)》
(竹森デフレは三度来(きた)る上79頁)
ちなみに小浜は南京大虐殺の被害者数の記述でアメリカMMT極左の怒りを買った人物ではあるが、
本書はリベラルな著作と言っていい。
すでにMMTが、その心配がないことを証明してくれたでしょう。 福沢は、『民間経済録二編』の後、『通貨論〔第一〕』を著します。 この論考は、彼の経済論文の白眉です。 私が「MMTにあと一歩」と評したのは、この論文が書かれたからです。 まず福沢は、通貨とは、品物の「預かり手形」と同じであり、金銀を用いようが紙幣を用いようが、その機能に何ら変わりはないと言い切ります。 まだ金本位制が確立するはるか以前に、このように現在の管理通貨制度をすでに先取りしているのです。 経済取引は物々交換で行われるわけではなく、その間に時間差や空間差が必ず介入してくるので、預かり手形がどうしても必要とされてくる、と彼は説きます。 そしてその預かり手形=借用証書が、不特定多数への譲渡性を持ったとき、そこに通貨の要件が満たされるというのです。 これは、お金とは何であるかを見事に言い当てています。 《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》 また、こうも言っています。 《人々は屋敷の蔵に千両箱が積まれてあると、何という金持ちだと感心するが、本物の商人はそういう考え方をしない。一年二年金を寝かせておくと価値が下がって損してしまうと考える。活発に商取引や事業が行われてカネが回ってこそ、繁盛している証拠なので、元気旺盛な商人ほど、帳簿を調べてみればたくさん借金をしていることがわかる》 これも、資本主義の精神をよく言い当てていますね。 できるだけ借金をしないで自分の帳簿を黒字にもっていこうとしている財務省は、130年経ったいまも、この資本主義の精神がわかっていないのです。 国民の仕合わせなどまったく念頭にない小あきんど根性でシコシコ算盤をはじいている官僚にいかにもふさわしい。 しかし、と反論があるでしょう。 では紙に対する信用はいったいどこから生まれてくるのか。 これに対して福沢は、「金銀との兌換が可能だから」とは答えません。 金本位制のように、一国政府の保有する金銀という「モノ」の量を通貨発行量の目安とする考え方を初めから取っていないからです。 事実、後に兌換停止になっても、紙幣に対する信用は揺らぎませんでした。 彼はこう答えます。 《今日は全国一政府の時代であって、その政府がお墨付きで発行する紙幣は、拒むも拒まないも、安心するも信用しないも、現に毎日盛んに商取引が行われている以上、その紙幣を使う以外ほかに方法がないではないか。自分は政府を一応信用することを前提にしたうえで論じているのだ。初めから政府を疑うなら、紙幣の発行に限らずいくらでも疑う余地はある。これまで旧政府は年貢のつり上げや小判の質の悪化、私有地の官有化など、いくらでも信用を落とすことをやってきたではないか》 これでは答えになっていないと感じる人もいるかもしれません。 自分はまさに、政府と民間との間の信用関係が成り立っているその原理を知りたいのだ、と。 これが、「MMTまであと一歩」と私が述べた理由です。 MMTでは、政府が租税を現金紙幣で納めることを承認しているからこそ、市場での紙幣の流通が滞りなく行われるというのでした。 ランダル・レイ氏の言葉を借りれば、「租税が通貨を創り出す」。 一国の国民である要件としてまず思いつくのは、その国の法律を守るということです。 しかしふつう、租税をその国の貨幣で納めることが、その国の通貨を安心して使えるための条件なのだとは思いいたりません。 でもよく考えてみると、納税を「円」という紙幣で行うという事実(規則)は、もし「日本経済流通法」というようなルールがあると仮定すれば、ちょうどそれに相当することがわかります。 そしてそのルールの存在こそが、私たちの紙幣に対する相互信頼を保証しているのだということに気づきます。 これは法治主義が近代国家の統治の原則であるのと同じように、国家の経済的な存在意義を表しています。租税についてのルールが、一国の経済秩序を規定しているのです。 福沢は中央集権的な全国一政府への信頼(経済上の信頼)を前提としましたが、その裏には、租税が通貨の流通を保証するという原理が働いていたのです。 これが、先に述べた租税の機能の③に相当するわけです。 福沢は、さらに進んで、国内での通貨の安定を保つ方法にも触れています。 それは、紙幣と同時に少し金貨銀貨を混ぜて通用させるというのです。 こうすると、金銀の1円と紙幣の1円とを比較して、両者がだいたい同じ交換価値として通用しているときには、紙幣量が適切であると判断できます。 もし紙幣の相場が金銀に比べて下落すれば、それは紙幣が多過ぎる(インフレ)と見て回収します。 逆に紙幣の相場が金銀に比べて高過ぎるようであれば、需要不足(デフレ)と見て紙幣の供給を増やします。 こうして金銀を、物価を測る目安にして貨幣供給量を調節しようというのですね。 いまなら物価を統計数字で割り出し、それに従って金利調整や増減税の是非を決めるわけですが、そういう方法が確立していなかった当時としては、この方法は卓抜に思えます。 つまり福沢は、高インフレやデフレにもきちんと配慮していたわけです。 これもMMTと共通していますね。 ちなみに、このとき、市場に出回っている金銀は、もはや通貨としてではなく、単なる商品としての位置に下落していることになります。 さて、福沢のマクロ経済観の本当に凄いところは、この先にあります。 彼は言います。 《以上論じてきたところからして、政府には金の準備はほとんど必要ないのだが、やはり少しだけ必要である。それは、「愚民」の心を思いやるからである。もしいま、「政府は紙幣を発行するだけで、政府の金庫には一片の正金もない」などと触れ回ったらどうだろうか。これまで長い間金銀を価値の源と考えてありがたがって拝んできた「愚民」たちはたちまちパニックを起こすだろう。手持ちの紙幣など早く使ってしまわなければただの紙屑だと考えて、じゃんじゃん使いまくり、結果、たちまち物価が騰貴してしまうだろう。そういう「愚民」の心を鎮めるために、多少の準備金は兌換用として必要なのである》 これは、お金に対する人間心理を読む術にたけているだけでなく、ケインズの言う「合成の誤謬」にも当てはまっています。 つまり、どの個人も、早く使ってしまわないと貨幣価値が落ちると思って焦るので、結果としてかえって急激に高インフレになってしまうというわけです。 このほか福沢は、準備金の必要な理由として、思わぬ災害や飢饉、戦争などのために輸入に頼る必要があるときを挙げています。 当時、国際取引は金で行われていたからです。 結局、準備金の目的は、①紙幣供給量(インフレ、デフレ)調整の目安のため、②「愚民」を安心させるため、③外貨が入用なときのため、の三つということになります。 ちなみに現在では、①は政府の税金調整や財政支出調整、日銀の金利調整がこれを担い、②は不要、③はたっぷりある外貨準備で応えることができます。 しかしなんと福沢の『通貨論〔第一〕』から130年経った時点での財務省は、①でとんでもなく間違ったことを執行中なのです! 福沢は、マクロ経済に関するこれだけのことを(おそらく)誰の助けも借りずに一人で考え抜きました。 ケインズが、「金本位制は過去の遺物だ」と唱えて管理通貨制度への移行を主張する40年前、ニクソンがドルと金との兌換の停止を宣言するじつに80年前のことです。 福沢は、すでにこの時点で、いわゆる「金属主義」や商品貨幣論から完全に脱却しており、信用貨幣論の粋を理解していたのです。 彼こそは、近代の黎明期において、日本人による「よい学問」の見本を示しました。 MMTまであと一歩! 福沢は真正のナショナリストでした。 彼は学問論や国権・民権論、文明論、時局論などに旺盛な筆を振るいましたが、経済論においてもそれは同じです。 帰するところは、日本をいかにして欧米列強に負けない立派な近代国家にするかという一点に注がれていました。 彼の思想の本当の偉さはこういうところにあったのです。 私たちはいま、一万円札で毎日彼の肖像を眺めているかもしれませんが、その精神を忘れてしまっています。 日本を滅亡の危機から少しでも救うために、もう一度、彼の提唱した「学問」の構えを奮い起こすことにしましょう。 安倍政権は、1990年代後半から続いていた緊縮財政や規制緩和など、グローバリズムの政策を思い切り徹底させることによって、日本の凋落にいっそうの拍車をかけました。 これまで、近年の日本人の思考停止状態、安倍政権の経済政策の根本的な誤り、そしてこれらに対する「よい構えと悪い構え」について語ってきました。 さて、日本の凋落を克服するにはどうすればよいかの答案は、机の上ではすでに書かれていると言ってよいでしょう。 「緊縮財政を躊躇なく積極財政に切り替え、国民生活を犠牲にグローバル資本に奉仕するような規制緩和路線を即刻改める」 しかし言うは易く行うは難し。 これを実現するには、大きく言って二つの困難が控えています。 ①私たちに注入されてきた既成の観念をどうやって振り払うか。 ②こうした観念にもとづいて実践してきた中央権力の政策をどのように改めさせるか。
福沢はナショナリストと小浜は断ずるが
どのようなナショナリストかが問題だ
7:4
福沢は、『民間経済録二編』の後、『通貨論〔第一〕』を著します。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
《人々は屋敷の蔵に千両箱が積まれてあると、何という金持ちだと感心するが、本物の商人はそういう考え方をしない。一年二年金を寝かせておくと価値が下がって損してしまうと考える。活発に商取引や事業が行われてカネが回ってこそ、繁盛している証拠なので、元気旺盛な商人ほど、帳簿を調べてみればたくさん借金をしていることがわかる》
#4
彼の経済論をていねいに読むと、その認識は、当時の水準をはるかに超えているどころか、なんとMMTの一歩手前まで達していたのです。 いまから130年前のことです。 おそらく彼は経済論としては、時期的に見て、アダム・スミスとJ・S・ミルくらいしか読んでいなかったと思われます。 しかも彼らは、貨幣を金銀などの現物と見るいわゆる「金属主義者」でした。 しかし福沢はそうではありませんでした。 完璧と言ってよいほど貨幣流通を信用関係と見なす「表券主義者」だったのです。
追記すると小浜は中国側が死者数を雑に扱うと指摘しただけで
そこまで反動的ではなかった
小浜は福沢の『通貨論』を引用していたがやはり『外債論』の方が重要ではないかと思う。
竹森との重複を避けたのだろう。
追記すると小浜はクライテリオンwebで中国側が死者数を雑に扱うと指摘しただけで
そこまで反動的ではなかった
小浜は福沢の『通貨論』を引用していたがやはり『外債論』の方が重要ではないかと思う。
竹森との重複を避けたのだろう。
追記すると小浜はクライテリオンwebで中国側が死者数を雑に扱うと指摘しただけで
そこまで反動的ではなかった
小浜は福沢の『通貨論』を引用していたが、やはり『外債論』の方が重要ではないかと思う。
竹森との重複を避けたのだろう。
7:4
福沢は、『民間経済録二編』の後、『通貨論〔第一〕』を著します。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
《人々は屋敷の蔵に千両箱が積まれてあると、何という金持ちだと感心するが、本物の商人はそういう考え方をしない。一年二年金を寝かせておくと価値が下がって損してしまうと考える。活発に商取引や事業が行われてカネが回ってこそ、繁盛している証拠なので、元気旺盛な商人ほど、帳簿を調べてみればたくさん借金をしていることがわかる》
>>601
追記すると小浜はクライテリオンwebで中国側が死者数を雑に扱うと指摘しただけで
そこまで反動的ではなかった。
本書で小浜は福沢の『通貨論』を引用していたが、やはり『外債論』の方が重要ではないかと思う。
竹森との重複を避けたのだろう。
#7:4
福沢は、『民間経済録二編』の後、『通貨論〔第一〕』を著します。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは
質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
…
《人々は屋敷の蔵に千両箱が積まれてあると、何という金持ちだと感心するが、本物の商人はそういう考え
方をしない。一年二年金を寝かせておくと価値が下がって損してしまうと考える。活発に商取引や事業が
行われてカネが回ってこそ、繁盛している証拠なので、元気旺盛な商人ほど、帳簿を調べてみればたくさん
借金をしていることがわかる》
福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ
中野剛志は福沢諭吉をプラグマチズム、ナショナリズムの観点から評価するが、、
「日本は外圧がないと変われない」は本当か?|ちくま新書|中野 剛志|webちくま
http://www.webchikuma.jp/articles/-/895
「日本は外圧がないと変われない」は本当か?
ちくま新書
昨年、TPP(環太平洋経済連携協定)の交渉参加の是非が大きな論争になりましたが、その際、「第三の開国」ということがしきりと言われました。「第一の開国」は幕末・維新、「第二の開国」は敗戦であり、現在は「第三の開国」を迎えているというのです。
私はこの通俗的な歴史観に、大変な不快感を覚えていました。というのも、それが「幕末は黒船来航による外圧によって近代化し、敗戦時は占領によって民主化したのだから、現在も、グローバル化という外圧に屈すればよいのだ」という主体性を欠いた外交姿勢を正当化するものに思えたからです。実際、「日本は、外圧がなければ変われないのだ」などという台詞を吐いて恥を知ることのない政治家や知識人が、後を絶ちません。
しかし、我が国の歴史を築いてきた先人たちは、本当にそのような外発的で順応主義的な態度に終始してきたのでしょうか。
そう感じた私は、「開国」を唱える時流に逆らい、幕末の尊王攘夷論のバイブルとして悪名高い会沢正志斎の『新論』を繙いてみました。そして、この書が狂信的な排外主義というイメージとはまったく異なり、卓越した先見性、精緻な情報分析、冷徹な論理によって貫かれていることを発見しました。それは、TPPの問題を「開国か、鎖国か」などという大ざっぱな空気だけで議論している現代日本人にはまったく期待できないような、高度な戦略的知性です。
驚いた私は、思わず正志斎の他の著作も読み始め、研究書にも目を通しました。そして、正志斎が古学の伝統を引き継いでいることを知りました。「古学」とは、伊藤仁斎に始まり、荻生徂徠が発展させた日本固有の儒学の一学派です。そこで私は、正志斎の思想を解読すべく、伊藤仁斎そして荻生徂徠にさかのぼってみて、古学の伝統の中に、現代でも十分に通用する優れた思想があることを学びました。この古学の思想は、現代哲学の用語で敢えて一言にて要するならば、「プラグマティズム」と呼ぶにふさわしいものです。
正志斎の尊王攘夷論は、西欧列強の脅威に刺激を受けた感情的反発などではありませんでした。それは、古学の伝統から受け継いだプラグマティズムを国際問題に応用することで編み出された理論だったのです。正志斎は、時代の制約の中にあって現実を直視し、実践的に思考していました。そして、国民国家を建設して富国強兵をはかるという結論に達したのです。
さらに私は、このプラグマティズムとナショナリズムの思想が、明治維新後、福沢諭吉に引き継がれていることに気づきました。一般に、福沢諭吉と言えば、攘夷論を批判して文明開化を説き、攘夷論者から命まで狙われていた人物として知られており、その思想は正志斎と対極にあるもののように考えられています。しかし、私の読むところ、福沢の文明論とは、「天皇を中心として国民を統合し、国民の連帯から生じるナショナリズムのエネルギーをもって、西洋列強と伍して独立を確保できる強力な近代国民国家を建設する」という構想でした。そして、この福沢のナショナリズムの構想を支えたのもまた、「実学」というプラグマティズムでした。福沢諭吉とは、会沢正志斎とおなじくらいに尊王攘夷論者であったのです。
本書は、プラグマティズムとナショナリズムをキーワードにして、伊藤仁斎、荻生徂徠、会沢正志斎、そして福沢諭吉という四人の思想家を直列させ、近代前後で断絶しない日本の政治思想の伝統を探っていきます。そうすることで、現代日本人が「外圧がないと変われない」などという敗北主義の呪縛から解放され、危機を乗り切る戦略的知性と独立自尊の精神を回復できればという願いを込めて、少々大胆ではありますが、本書を『日本思想史新論』と名づけた次第です。
福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ
【小浜逸郎】福沢諭吉は完璧な表券主義者だった(その1) | 「新」経世済民新聞
https://38news.jp/economy/11825
中野剛志は福沢諭吉をプラグマティズム、ナショナリズムの観点から評価するが、、
「日本は外圧がないと変われない」は本当か?|ちくま新書|中野 剛志|webちくま
http://www.webchikuma.jp/articles/-/895
やはり福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ
《借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られているが、そもそもの由来については、
リトルトンに書いてあった。逆に見えるのは相手方から見てだから、ということ。 》
https://twitter.com/ishizuka_r/status/1295637198734110720?s=21
【小浜逸郎】福沢諭吉は完璧な表券主義者だった(その1) | 「新」経世済民新聞
https://38news.jp/economy/11825
《しかりしこうしてその大切なる由縁は、
品の質にあらずして
その働きにあるものなり。
今、金銀と紙とその質は異なれども、
これを貨幣に用いて
働きに異なる所あらざれば、
紙を大丈夫なりと言いて
毫も異論あるべからず。》
中野剛志は福沢諭吉をプラグマティズム、ナショナリズムの観点から評価するが、、
「日本は外圧がないと変われない」は本当か?|ちくま新書|中野 剛志|webちくま
http://www.webchikuma.jp/articles/-/895
851 金持ち名無しさん、貧乏名無しさん (アウアウウー Sa6b-IXLD)[sage] 2020/12/10(木) 12:09:36.19 ID:4C4b2+0Ka
>>841
現在、税金は円の価値の担保と流通量の調整
この2つの目的しかないよ
国の予算は日銀引受しちゃえば税金必要ねえんだもん
それだとインフレ率やばいから税金である程度回収して調整してんの
>>848
赤字国債を発行している状態が正常な財政です
https://i.imgur.com/EBZdK9d.png
追記(2020/12/28):
借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られている(リトルトンによれば逆に見えるのは相手方から見てだから、ということ)。
以下、竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁における現代語訳より、
《人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、経済にとり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とする
べきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、天然の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。…》(福沢諭吉『外債論』1925~6)
以下はJGPに近い。
「…手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む」(『外債論』)
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では福沢諭吉の『通貨論』を重視している。
外債すら容認する福沢諭吉はMMTより過激である。
福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ。
福沢諭吉はMMTに近い考え方をしていたのに
追記(2020/12/28):
借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られている(リトルトンによれば逆に見えるのは相手方から見てだから、ということ)。
以下、竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁における現代語訳より、
《人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、経済にとり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とする
べきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、天然の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。…》(福沢諭吉『外債論』1925~6)
以下はJGPに近い。
「…手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む」(『外債論』)
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では福沢諭吉の『通貨論』を重視している。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
外債すら容認する福沢諭吉はMMTより過激である。
福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ。
福沢諭吉はMMTに近い考え方をしていたのに
追記(2020/12/28):
借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られている(リトルトンによれば逆に見えるのは相手方から見てだから、ということ)。
以下、竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁における現代語訳より、
《人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、経済にとり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とする
べきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、天然の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。…》(福沢諭吉『外債論』全集所収1925~6)
以下はJGPに近い。
「…手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む」(『外債論』)
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では福沢諭吉の『通貨論』1878を重視している。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
外債すら容認する福沢諭吉はMMTより過激である。
福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ。
福沢諭吉はMMTに近い考え方をしていたのに
追記(2020/12/28):
借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られている(リトルトンによれば逆に見えるのは相手方から見てだから、ということ)。
以下、竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁における現代語訳より、
《人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、経済にとり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とする
べきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、天然の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。…》(福沢諭吉『外債論』1885)
以下はJGPに近い。
「…手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む」(『外債論』)
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では福沢諭吉の『通貨論』1878を重視している。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
外債すら容認する福沢諭吉はMMTより過激である。福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ。
慶應義塾大学経済学部教授の御用学者 土居丈朗の正体(三橋貴明)
https://youtu.be/qiqL9GEBiYA
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福沢諭吉はMMTに近い考え方をしていたのに
追記(2020/12/28):
借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られている(リトルトンによれば逆に見えるのは相手方から見てだから、ということ)。
以下、竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁における現代語訳より、
《人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、経済にとり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とする
べきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、天然の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。…》(福沢諭吉『外債論』1885)
以下はJGPに近い。
《…手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む》(『外債論』)
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では福沢諭吉の『通貨論』1878を重視している。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
外債すら容認する福沢諭吉はMMTより過激である。福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ。
慶應義塾大学経済学部教授の御用学者 土居丈朗の正体(三橋貴明)
https://youtu.be/qiqL9GEBiYA
福沢諭吉はMMTに近い考え方をしていたのに
追記(2020/12/28):
借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られている(リトルトンによれば逆に見えるのは相手方から見てだから、ということ)。
以下、竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁における現代語訳より、
《人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、経済にとり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とする
べきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、天然の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。…》(福沢諭吉『外債論』1885)
以下はJGPに近い。
《…手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む》(『外債論』)
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では福沢諭吉の『通貨論』1878を重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
外債すら容認する福沢諭吉はMMTより過激である。福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ。
慶應義塾大学経済学部教授の御用学者 土居丈朗の正体(三橋貴明)
https://youtu.be/qiqL9GEBiYA
福沢諭吉はMMTに近い考え方をしていたのに
追記(2020/12/28):
借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られている(リトルトンによれば逆に見えるのは相手方から見てだから、ということ)。
以下、竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁における現代語訳より、
《人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、経済にとり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とする
べきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、天然の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。…》(福沢諭吉『外債論』1885)
以下はJGPに近い。
《…手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む》(『外債論』)
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では福沢諭吉の『通貨論』1878が重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
外債すら容認する福沢諭吉はMMTより過激である。福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ。
慶應義塾大学経済学部教授の御用学者 土居丈朗の正体(三橋貴明)
https://youtu.be/qiqL9GEBiYA
福沢諭吉はMMTに近い考え方をしていたのに
追記(2020/12/28):
借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られている(リトルトンによれば逆に見えるのは相手方から見てだから、ということ)。
以下、竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁における現代語訳より、
《人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、経済にとり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とするべきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、天然の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。…》(福沢諭吉『外債論』1885)
以下はJGPに近い。
《…手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む》(『外債論』)
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では福沢諭吉の『通貨論』1878が重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
外債すら容認する福沢諭吉はMMTより過激である。福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ。
福沢諭吉はMMTに近い考え方をしていた。
借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られている(リトルトンによれば逆に見えるの
は相手方から見てだから、ということ)。
以下、竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁における現代語訳より、
《人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、
たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけで
はなく、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の
財政に余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、
経済にとり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的と
するべきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、
天然の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然
にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。…》(福沢諭吉『外債論』1885)
以下はJGPに近い。
《…手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む》(『外債論』)
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では
福沢諭吉の『通貨論』1878が重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が
異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
外債すら容認する福沢諭吉はMMTより過激である。福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ。
アカロフが参照したのは学問のすすめだから福沢諭吉の
表券主義は知らない
福沢諭吉はMMTに近い考え方をしていた。
借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られている(リトルトンによれば逆に見えるの
は相手方から見てだから、ということ)。
以下、竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁における現代語訳より、
《人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、
たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけで
はなく、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の
財政に余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、
経済にとり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的と
するべきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、
天然の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然
にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。…》(福沢諭吉『外債論』1885)
以下はJGPに近い。
《…手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む》(『外債論』)
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では
福沢諭吉の『通貨論』1878が重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が
異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
外債すら容認する福沢諭吉はMMTより過激である。福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ。
アカロフアニマルスピリットが参照したのは学問のすすめだから福沢諭吉の
表券主義は認識されていない
福沢諭吉はMMTに近い考え方をしていた。
借方、貸方の邦訳は福沢諭吉ということは知られている(リトルトンによれば逆に見えるの
は相手方から見てだから、ということ)。
以下、竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁における現代語訳より、
《人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、
たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけで
はなく、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の
財政に余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、
経済にとり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的と
するべきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、
天然の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然
にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。…》(福沢諭吉『外債論』1885)
以下はJGPに近い。
《…手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む》(『外債論』)
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では
福沢諭吉の『通貨論』1878が重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が
異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
外債すら容認する福沢諭吉はMMTより過激である。福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ。
アカロフアニマルスピリットが参照したのは学問のすすめだから福沢諭吉の
表券主義は認識されていない
福沢諭吉がMMTと接近するのは表券主義的信用貨幣論においてではなく
以下の認識においてであろう。
「天下一夫も仕事を得ざるものなからしむる」(「外債論」)
著作集6解説377頁(大正版全集9,48頁)より
これはJGPに近い
大隈、福沢は緊縮策に反対し、特に福沢は外債に頼るべきとした
やはり福沢諭吉は日本人MMTerとしては検証すべき存在だ
《借方、貸方との邦訳は福沢諭吉ということは知られているが、そもそもの由来については、
リトルトンに書いてあった。逆に見えるのは相手方から見てだから、ということ。 》
https://twitter.com/ishizuka_r/status/1295637198734110720?s=21
【小浜逸郎】福沢諭吉は完璧な表券主義者だった(その1) | 「新」経世済民新聞
https://38news.jp/economy/11825
《しかりしこうしてその大切なる由縁は、
品の質にあらずして
その働きにあるものなり。
今、金銀と紙とその質は異なれども、
これを貨幣に用いて
働きに異なる所あらざれば、
紙を大丈夫なりと言いて
毫も異論あるべからず。》
中野剛志は福沢諭吉をプラグマティズム、ナショナリズムの観点から評価するが、、
「日本は外圧がないと変われない」は本当か?|ちくま新書|中野 剛志|webちくま
http://www.webchikuma.jp/articles/-/895
《しかりしこうしてその大切なる由縁は、 品の質にあらずして その働きにあるものなり。 今、金銀と紙とその質は異なれども、 これを貨幣に用いて 働きに異なる所あらざれば、 紙を大丈夫なりと言いて 毫も異論あるべからず。》
通貨論1878
福沢諭吉著作集〈第6巻〉民間経済録・実業論
PDF
www.keio.ac.jp/ja/press_release/2011/.../110422_1.pdf
1/2 慶應義塾大学講演会 福澤先生ウェーランド経済書講述記念 ...
2011/4/22 -小室 正紀 慶應義塾大学経済学部長) ... 慶応 4 年 5 月 15 日(1868 年 7 月 4 日)、戊辰戦争のさなか、上野において官軍と彰義隊の戦闘が行.
ja.wikipedia.org/wiki/福澤諭吉
福澤諭吉 - Wikipedia
福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、新字体:福沢 諭吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉 - 明治34 ... 学費を払う経済力はなかったため、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写 ...
経歴-人物・思想-エピソード-研究・評価史
PDF
pub.maruzen.co.jp/index/100nenshi/pdf/109.pdf
エーランド氏経済書講義福沢諭吉 - 丸善出版
1837)は、彼が大学で学生に講義した経済学の大要を纏めたものであって、第一部 ... 明治元年五月に、上野の戦争のあった時、北方に起る砲声を耳にしながら、福沢が新 ...
PDF
www.econ.shiga-u.ac.jp/ebr/Nenpo-vol26banno.pdf
近代日本における経済学教育事始め
飯田 鼎「黎明期の経済学研究と福沢諭吉(その一)─日本経済学史序説─」『三田 ... 新の折,官軍と彰義隊とが上野で戦っていると ... 上野 格「明治二年の経済学教科.
kotobank.jp/word/福沢諭吉-15113
福沢諭吉(読み)ふくざわゆきち - コトバンク
上野戦争のさなかに経済学の講義をしていたエピソードは有名。この年(1868)8月幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上、明治政府からのたびたびの出仕要請も断る。1871年の ...
www.youtube.com/watch?v=g33BhUpVkBk
福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会(2020年12月2日 ...
福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会(2020年12月2日 ...
【講師】池田 幸弘 君(慶應義塾大学 経済学部長) 【演題】福澤諭吉と経済という言説:新旧両理念のはざま ...
再生時間:65:07
投稿日:2021年1月5日
PDF
core.ac.uk/download/pdf/233921219.pdf
233921219.pdf - CORE
芝新銭座にあった慶応義塾の授業時間割では,当日午前10時からは福沢諭吉に. よるウェーランド『経済学』 Francis Wayland, The Elements of Political Economy.
PDF
www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/38/38/38.../_pdf
日本経済思想史研究のこれまでと今 杉 原 四 郎 - J-Stage
年前後より住谷悦治 『日本経済学史の一鮪』(昭 ... r福沢諭吉』(昭和19年), 西田長寿r大 島貞益』 ... 上野文庫(京 大), 大原文庫(大 阪府立図書館),.
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では
福沢諭吉の『通貨論』1878が重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が
異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
原文は旧大正版福沢全集5,7頁、
《しかりしこうしてその大切なる由縁は、 品の質にあらずして その働きにあるものなり。 今、金銀と紙とその質は異なれども、 これを貨幣に用いて 働きに異なる所あらざれば、 紙を大丈夫なりと言いて 毫も異論あるべからず。》
通貨論1878
近年の福沢諭吉著作集では〈第6巻〉民間経済録・実業論2003年,220頁に所収。
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では
福沢諭吉の『通貨論』1878が重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が
異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
原文は旧大正版福沢全集5,7頁、
《しかりしこうしてその大切なる由縁は、 品の質にあらずして その働きにあるものなり。 今、金銀と紙とその質は異なれども、 これを貨幣に用いて 働きに異なる所あらざれば、 紙を大丈夫なりと言いて 毫も異論あるべからず。》
通貨論1878
近年の福沢諭吉著作集では〈第6巻〉民間経済録・実業論2003年,220頁に所収。
6:21 午後 削除
Blogger yoji さんは書きました...
福沢諭吉がMMTと接近するのは表券主義的信用貨幣論においてではなく
以下の認識においてであろう。
「天下一夫も仕事を得ざるものなからしむる」(「外債論」) 1885
著作集6解説377頁(大正版全集9,48頁)より
これはJGPに近い
大隈、福沢は緊縮策に反対し、特に福沢は外債に頼るべきとした
https://www.dl.ndl.go.jp/api/iiif/979059/manifest.json
福沢全集9,47~63頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979059
https://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F979059&contentNo=36&outputScale=
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では
福沢諭吉の『通貨論』1878が重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が
異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
原文は旧大正版福沢全集5,7頁、
《しかりしこうしてその大切なる由縁は、 品の質にあらずして その働きにあるものなり。 今、金銀と紙とその質は異なれども、 これを貨幣に用いて 働きに異なる所あらざれば、 紙を大丈夫なりと言いて 毫も異論あるべからず。》
通貨論1878
近年の福沢諭吉著作集では〈第6巻〉民間経済録・実業論2003年,220頁に所収。
6:21 午後 削除
Blogger yoji さんは書きました...
福沢諭吉がMMTと接近するのは表券主義的信用貨幣論においてではなく
以下の認識においてであろう。
「天下一夫も仕事を得ざるものなからしむる」(「外債論」) 1885
著作集6解説377頁(大正版全集9,48頁)より
これはJGPに近い
インフレの現状に対応したものでもあるからだ
大隈、福沢は緊縮策に反対し、特に福沢は外債に頼るべきとした
https://www.dl.ndl.go.jp/api/iiif/979059/manifest.json
福沢全集9,47~63頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979059
https://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F979059&contentNo=36&outputScale=
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では
福沢諭吉の『通貨論』1878が重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が
異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
原文は旧大正版福沢全集5,7頁、
《しかりしこうしてその大切なる由縁は、 品の質にあらずして その働きにあるものなり。 今、金銀と紙とその質は異なれども、 これを貨幣に用いて 働きに異なる所あらざれば、 紙を大丈夫なりと言いて 毫も異論あるべからず。》
通貨論1878
近年の福沢諭吉著作集では〈第6巻〉民間経済録・実業論2003年,220頁に所収。
福沢諭吉がMMTと接近するのは表券主義的信用貨幣論においてではなく
以下の認識においてであろう。
「天下一夫も仕事を得ざるものなからしむる」(「外債論」) 1885
著作集6解説377頁(大正版全集9,48頁)より
これはJGPに近い
インフレ後の現状に対応したものでもあるからだ
(通貨論[時事新報]1882は江戸明治の貨幣価値、インフレを分析)
さらに大隈、福沢は緊縮策に反対し、特に福沢は外債に頼るべきとした
https://www.dl.ndl.go.jp/api/iiif/979059/manifest.json
福沢全集9,47~63頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979059
https://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F979059&contentNo=36&outputScale=
外債論に関しては竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁が詳しい。
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では
福沢諭吉の『通貨論』1878が重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が
異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
原文は旧大正版福沢全集5,7頁、
《しかりしこうしてその大切なる由縁は、 品の質にあらずして その働きにあるものなり。 今、金銀と紙とその質は異なれども、 これを貨幣に用いて 働きに異なる所あらざれば、 紙を大丈夫なりと言いて 毫も異論あるべからず。》
通貨論1878
近年の福沢諭吉著作集では〈第6巻〉民間経済録・実業論2003年,220頁に所収。
福沢諭吉がMMTと接近するのは表券主義的信用貨幣論においてではなく
以下の認識においてであろう。
「天下一夫も仕事を得ざるものなからしむる」(「外債論」) 1885
著作集6解説377頁(大正版全集9,48頁)より
これはMMTにおけるJGPに近い
インフレ後の現状に対応したものでもあるからだ
(通貨論[時事新報]1882は江戸明治の貨幣価値、インフレを分析)
さらに大隈、福沢は緊縮策に反対し、特に福沢は外債に頼るべきとした。
外債論に関しては竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁が詳しい。
https://www.dl.ndl.go.jp/api/iiif/979059/manifest.json
福沢全集9,47~63頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979059
https://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F979059&contentNo=36&outputScale=
小浜#4
まず福沢は、資本主義(富国への道)が成長によって成り立っていることを明瞭に理解していました。 そしてその成長が民間の経済活動によるだけではなく、公共投資の効果によるところがたいへん大きいこと、そしてたとえ赤字が出ても、公共的観点からは投資に踏み切るべきことも。 次の部分はそのことを示しています。(現代語意訳は引用者。以下同)
《いま国の財政支出によって鉄道を作るとしよう。(中略)たとえば青森から鹿児島まで通すと、合計7200万円ほどかかる。純益が300万円得られたとして、年利6%で432万円払うと、132万円の損失である。私企業ならこの企画はやめた方がいい。しかし日本国を一家として公の経済から見れば、この鉄道によって沿道の地価は一気に上がり、山奥に埋もれていた木材や鉱物もたちまち市場価値を生じて、それらを生産する利益は莫大なものとなる。国家財政を費やすことで国益が生ずるのである》(『民間経済録二編』)
どうでしょうか。 見事な積極財政派です。
#6,185
では紙に対する信用はいったいどこから生まれてくるのか。 これに対して福沢は、「金銀との兌換が可能だから」とは答えません。 金本位制のように、一国政府の保有する金銀という「モノ」の量を通貨発行量の目安とする考え方を初めから取っていないからです。 事実、後に兌換停止になっても、紙幣に対する信用は揺らぎませんでした。 彼はこう答えます。
《今日は全国一政府の時代であって、その政府がお墨付きで発行する紙幣は、拒むも拒まないも、安心するも信用しないも、現に毎日盛んに商取引が行われている以上、その紙幣を使う以外ほかに方法がないではないか。自分は政府を一応信用することを前提にしたうえで論じているのだ。初めから政府を疑うなら、紙幣の発行に限らずいくらでも疑う余地はある。これまで旧政府は年貢のつり上げや小判の質の悪化、私有地の官有化など、いくらでも信用を落とすことをやってきたではないか》
これでは答えになっていないと感じる人もいるかもしれません。 自分はまさに、政府と民間との間の信用関係が成り立っているその原理を知りたいのだ、と。
#6:241
さて、福沢のマクロ経済観の本当に凄いところは、この先にあります。
彼は言います。
《以上論じてきたところからして、政府には金の準備はほとんど必要ないのだが、やはり少しだけ必要である。それは、「愚民」の心を思いやるからである。もしいま、「政府は紙幣を発行するだけで、政府の金庫には一片の正金もない」などと触れ回ったらどうだろうか。これまで長い間金銀を価値の源と考えてありがたがって拝んできた「愚民」たちはたちまちパニックを起こすだろう。手持ちの紙幣など早く使ってしまわなければただの紙屑だと考えて、じゃんじゃん使いまくり、結果、たちまち物価が騰貴してしまうだろう。そういう「愚民」の心を鎮めるために、多少の準備金は兌換用として必要なのである》
これは、お金に対する人間心理を読む術にたけているだけでなく、ケインズの言う「合成の誤謬」にも当てはまっています。 つまり、どの個人も、早く使ってしまわないと貨幣価値が落ちると思って焦るので、結果としてかえって急激に高インフレになってしまうというわけです。
#6:230-1
福沢は、『民間経済録二編』の後、『通貨論〔第一〕』を著します。 この論考は、彼の経済論文の白眉です。 私が「MMTにあと一歩」と評したのは、この論文が書かれたからです。 まず福沢は、通貨とは、品物の「預かり手形」と同じであり、金銀を用いようが紙幣を用いようが、その機能に何ら変わりはないと言い切ります。 まだ金本位制が確立するはるか以前に、このように現在の管理通貨制度をすでに先取りしているのです。 経済取引は物々交換で行われるわけではなく、その間に時間差や空間差が必ず介入してくるので、預かり手形がどうしても必要とされてくる、と彼は説きます。 そしてその預かり手形=借用証書が、不特定多数への譲渡性を持ったとき、そこに通貨の要件が満たされるというのです。 これは、お金とは何であるかを見事に言い当てています。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
#6:220
また、こうも言っています。
《人々は屋敷の蔵に千両箱が積まれてあると、何という金持ちだと感心するが、本物の商人はそういう考え方をしない。一年二年金を寝かせておくと価値が下がって損してしまうと考える。活発に商取引や事業が行われてカネが回ってこそ、繁盛している証拠なので、元気旺盛な商人ほど、帳簿を調べてみればたくさん借金をしていることがわかる》
これも、資本主義の精神をよく言い当てていますね。 できるだけ借金をしないで自分の帳簿を黒字にもっていこうとしている財務省は、130年経ったいまも、この資本主義の精神がわかっていないのです。 国民の仕合わせなどまったく念頭にない小あきんど根性でシコシコ算盤をはじいている官僚にいかにもふさわしい。
#6:??
《たとえばここに、不用の米十俵を所持して
これを綿に易えんと思えども、
差向き気に叶う綿の品物もなし、
さりとて、所持の米は不用なるゆえ、
まずこれを近処の綿屋に渡して
代金を受け取りおき、
追ってその店に綿の上物あるときに至りて
先に受け取たる代金をもって綿を買えば、
つまるところは米と綿と交易したる訳にて、
その代金はしばらくの間綿屋より受け取たる
米の預り手形に異ならず。(中略)
この預り手形に金銀を用いれば
何程の便利あるや、
紙を用いれば何程の不便利あるや、
いささかも区別あるべからず。
ただ、その約束の大丈夫なるとしからざる
との一事心配なるのみ。
この一段に至りて、金銀は人の苦痛の塊
(掘り出して精錬し鋳造する労働力
が込められている――引用者注)
なるが故に、
これを質に取りて大丈夫なりと言わんか、
決して頼みにするに足らず。
紙にてもまた大丈夫なる訳あり。》
#6:219-220
また、こうも言っています。
《人々は屋敷の蔵に千両箱が積まれてあると、何という金持ちだと感心するが、本物の商人はそういう考え方をしない。一年二年金を寝かせておくと価値が下がって損してしまうと考える。活発に商取引や事業が行われてカネが回ってこそ、繁盛している証拠なので、元気旺盛な商人ほど、帳簿を調べてみればたくさん借金をしていることがわかる》
これも、資本主義の精神をよく言い当てていますね。 できるだけ借金をしないで自分の帳簿を黒字にもっていこうとしている財務省は、130年経ったいまも、この資本主義の精神がわかっていないのです。 国民の仕合わせなどまったく念頭にない小あきんど根性でシコシコ算盤をはじいている官僚にいかにもふさわしい。
#6:??
250あたりの要約か?
福沢諭吉 しなやかな日本精神 (PHP新書) Kindle Edition
by 小浜 逸郎 (著) Format: Kindle Edition
4.2 out of 5 stars 13 ratings
2018
明快な論理と平易な語り口 では、それぞれについて、一つずつ例を挙げましょう。 次の例はすでに第四章の経済論ブロックの項で引用しましたが、これに該当します。
《富人に金なきにあらず、金を貸すべき相手を見出さゞるなり。その相手なきにあらず、これを貸して、たしかに返済すべき人物を見出さゞるなり。これがために、富人の金は金箱の内に蟄伏して外に出るを得ず。通貨、内に蟄伏すれば、金銀も瓦石に異ならず、紙幣も反故に等し》(『民間経済録』)
ケインズ経済学で言う「合成の誤謬」に通ずることを明快な論理で、たたみかけるように述べています。お金はフローしてこそ意味がある。貨幣の大切さについて「その大切なる由縁は、品の質にあらずして、その働にあるものなり」(『通貨論[第一]』)として金属主義を否定した名言も、この部類に属する文体の特長としてここに含めておきましょうか。 次に、平易な語り口についてですが、これは、『通俗国権論』の冒頭部分を引くのがよいでしょう。
《一家の本は婦人にあり、一国の本は民にあり。今世間の家族を一見すれば、家の権柄(実権)は主人の手にありて、婦人はただその差図にのみ従うがごとくに見ゆれども、こはただ表向の有様にして、その内実は婦人の勢力甚だ強きものなり。(中略)夫婦差向き新に家を持て子を生めば、その子は必ず父方の祖父祖母よりも母方の祖父祖母を親み、母方の叔父叔母は父方の叔父叔母より遠慮少なし。天下古今の習俗、さらに怪しむに足らず。 されば日本にても、家の子供は過半母の支配にあるものというて可なり。すでに家の子供を支配せり、然ばすなわち衣服飲食住居家具に至るまで、大抵は婦人の注文通りに行われざるものなし》
なるほどそうだと、思わず釣り込まれますね。男性に比べて権力を持たなかった当時の弱い立場の女性のほうが、私生活では実権を握っているのだという、誰もが納得する事実を持ち出しています。
しかしこれは実は、そうしておいて、国の場合も弱者である人民のほうが政府に対して実権を握っているのだという論理を導き出すためのテクニックなのです。だから書き出しの部分に「一国の本は民にあり」という言葉をひそかに忍び込ませているわけです。
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明快な論理と平易な語り口 では、それぞれについて、一つずつ例を挙げましょう。 次の例はすでに第四章の経済論ブロックの項で引用しましたが、これに該当します。
《富人に金なきにあらず、金を貸すべき相手を見出さゞるなり。その相手なきにあらず、これを貸して、たしかに返済すべき人物を見出さゞるなり。これがために、富人の金は金箱の内に蟄伏して外に出るを得ず。通貨、内に蟄伏すれば、金銀も瓦石に異ならず、紙幣も反故に等し》(『民間経済録』) [#6:4正直:109]
ケインズ経済学で言う「合成の誤謬」に通ずることを明快な論理で、たたみかけるように述べています。お金はフローしてこそ意味がある。貨幣の大切さについて「その大切なる由縁は、品の質にあらずして、その働にあるものなり」(『通貨論[第一]』)として金属主義を否定した名言も、この部類に属する文体の特長としてここに含めておきましょうか。 次に、平易な語り口についてですが、これは、『通俗国権論』の冒頭部分を引くのがよいでしょう。
《一家の本は婦人にあり、一国の本は民にあり。今世間の家族を一見すれば、家の権柄(実権)は主人の手にありて、婦人はただその差図にのみ従うがごとくに見ゆれども、こはただ表向の有様にして、その内実は婦人の勢力甚だ強きものなり。(中略)夫婦差向き新に家を持て子を生めば、その子は必ず父方の祖父祖母よりも母方の祖父祖母を親み、母方の叔父叔母は父方の叔父叔母より遠慮少なし。天下古今の習俗、さらに怪しむに足らず。 されば日本にても、家の子供は過半母の支配にあるものというて可なり。すでに家の子供を支配せり、然ばすなわち衣服飲食住居家具に至るまで、大抵は婦人の注文通りに行われざるものなし》
なるほどそうだと、思わず釣り込まれますね。男性に比べて権力を持たなかった当時の弱い立場の女性のほうが、私生活では実権を握っているのだという、誰もが納得する事実を持ち出しています。
しかしこれは実は、そうしておいて、国の場合も弱者である人民のほうが政府に対して実権を握っているのだという論理を導き出すためのテクニックなのです。だから書き出しの部分に「一国の本は民にあり」という言葉をひそかに忍び込ませているわけです。
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永続的識別子
info:ndljp/pid/783495
タイトル
通俗国権論
著者
福沢諭吉 著
出版者
福沢諭吉
出版年月日
明11.9
明治11年
1878年
維新論集
瘦我慢の説 本論 †立国は公ではない 立国(国を建てること)は、私である。公ではない。 地球上の人類が、山や海の自然の境界に隔てられて、各地域に集まったり分かれたりしているのはやむを得ないことだが、各地域でそれぞれ衣食を供給できるならば、それで生活できる。 もし、各地域に余りや不足があれば、互いに交易すればよい。天が与えた恩恵により、耕し、食べ、物を作って使い、また交易して豊かな生活を送る。人生の望みは、これ以外にはない。どうして人の手によって国を分け、人工の境界を定めなければならないのだろうか。 人は国を建て、隣国と境界を争ったり、隣国の不幸を顧みず自国の利益をはかろうとする。また、国に一人の首領を立てて君主として仰ぎ、その君主のために多くの国民の生命財産を失わせる。一国の中でもいくつもの小地域が分立し、その地域ごとに一人の主君をもち、彼に服従して隣の地域と競争して利害を争ってさえいる。 これらはすべて人間の私情(個人的な感情)から生じたもので、自然の公道ではない。
†瘦我慢とはなにか 国を建て、政府を作った後は、平時においてはたいした苦労もない。しかし、時勢が変化するにしたがって国には盛衰がある。 国が衰勢に向かう時は、それを押しとどめることができない。しかし、廃滅する運命がすでに明らかであってもなお万一の僥倖を期待して屈せず、実際に力が尽きるまで倒れないというのは、人情によってそうなるのである。 それは、たとえて言えば、父母の大病の際、回復の望みがないことを知りながら、実際に臨終に至るまで医薬の手当をするようなものである。 これも哲学流に言えば、死にゆく病人であれば、望みのない回復をはかろうとして無駄に病苦を長引かせるよりも、モルヒネなどを与えて臨終を安楽にする方が賢い。しかし、子として考えれば、奇跡的に助かることを期待することはあっても、ことさらに父母の死を早めることは情において忍びないのである。 そうであれば、自国が衰退に向かう時、敵国に対し勝算のない場合でも、力の限りを尽くして戦う。いよいよ敗北が眼前に迫った時、はじめて講和を考え、また死を決意するのは、立国の正義であって、国民が国に報ずる義務である。 これが俗に言う瘦我慢である。 強い者と弱い者が対峙して、弱者が地位を保つことができるのは、この瘦我慢があるからである。ただ、戦争の勝敗だけに限らず、通常の国交においても、瘦我慢ということは、決して忘れることはできない。 ヨーロッパでは、オランダやベルギーのような小国が、フランス、ドイツの間にあって小さな政府を維持している。大国に合併する方が安楽だろうが、なお独立を保っているのは小国の瘦我慢であって、よく我慢して独立国の栄誉を保っていると言うべきだろう。
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2014-11-13
ブログ「日本を安倍晋三から取り戻す」
http://ameblo.jp/datoushinzoabe/
(見出し)
「2014-11-02 07:26:47NEW !
テーマ:書評・オススメ本
竹森俊平「世界デフレは三度来る 上」 ① 」
(引用開始)
P.74
(前略)
それで明治10年に西南戦争が勃発すると、その戦費の調達のために、明治政府は不換紙幣の大量増発に追い込まれた。
その時、財政を仕切っていたのは大隈重信である。
このころから福沢は大隈と協力関係にあり、時には言論によって大隈を援護した。
たとえば、不換紙幣が大量に増発されて兌換がますます遠のくのは嘆かわしいことだとする世論に対して、
福沢は、通貨など不換紙幣で十分だという開き直った議論をして、大隈を援護する。
明治10年の『通貨論』がそれである。不換紙幣を正当化するというのは、当
時の欧米の経済学界においても革新的な立場だった。
福沢の通貨論は革新的だったと書かれていますが、著者の竹森氏は他の書籍で、
最初の不換紙幣発行者としてジョン=ローを挙げています。
この人物は、新大陸(ニューオーリンズ)でミシシッピ計画の事業を起こし、
バブルを発生させました。
ゲーテの戯曲「ファウスト」にも似たようなエピソードがあります。
皇帝をそそのかして、悪魔メフィスト=フェレスが不換紙幣をばらまいて景気を回復させたエピソードです。
竹森氏は経済理論だけでなく、こうした深い教養に裏打ちされた記述が魅力です。
P.79
「人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、
政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。
なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、
毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、
始めからこれを取りたてずに国民の手元に残しておいたほうが、経済にとり都合がよいからである。
このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とするべきことは、
ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、
天然の人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、
また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。
その生産活動から生じた利益が誰の手に落ちようとも、自国内にあるならばそれで満足するべきである。
政府は極貧にして借金が山のようにあっても、人民が豊かなら少しも心配することはない。
なぜならば、その借金はすなわち人民の借金なのだから、
払おうと思えばいつでも容易に払うことができるからである。」
[外債論]
旧全集9
該当48頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979059/37
https://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F979059&contentNo=37&outputScale=1
https://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F979059&contentNo=37&outputScale=1
この文章が明確に述べているように、人的資源をフルに活動させることこそが、
経済政策の目的であるべきだというのが福沢の主張である。財政が緊縮型か、
積極型かによって、その目的の達成に違いが出てくることも、福沢はもちろん認識していた。
それで、この文章のように赤字財政でも構わないという主張をするわけである。
それはもちろん福沢の目的意識が、「自分は、国中に身体障害者や病人の他は、
手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む」(前掲書)というところにあったからである。
なんと、世界でも最も早い時点で、ケインズ型の財政政策を主張していたことになるのです。
福沢諭吉がここまで経済について深い洞察をしていたとは、この本を読むまで知りませんでした。
今の日本の経済学者や政治家は、100年以上前の福沢諭吉の認識に負けているといわざるをえません。
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「2014-11-02 07:26:47NEW !
テーマ:書評・オススメ本
竹森俊平「世界デフレは三度来る 上」 ① 」
(引用開始)
P.74
(前略)
それで明治10年に西南戦争が勃発すると、その戦費の調達のために、明治政府は不換紙幣の大量増発に追い込まれた。
その時、財政を仕切っていたのは大隈重信である。
このころから福沢は大隈と協力関係にあり、時には言論によって大隈を援護した。
たとえば、不換紙幣が大量に増発されて兌換がますます遠のくのは嘆かわしいことだとする世論に対して、
福沢は、通貨など不換紙幣で十分だという開き直った議論をして、大隈を援護する。
明治10年の『通貨論』がそれである。不換紙幣を正当化するというのは、当
時の欧米の経済学界においても革新的な立場だった。
福沢の通貨論は革新的だったと書かれていますが、著者の竹森氏は他の書籍で、
最初の不換紙幣発行者としてジョン=ローを挙げています。
この人物は、新大陸(ニューオーリンズ)でミシシッピ計画の事業を起こし、
バブルを発生させました。
ゲーテの戯曲「ファウスト」にも似たようなエピソードがあります。
皇帝をそそのかして、悪魔メフィスト=フェレスが不換紙幣をばらまいて景気を回復させたエピソードです。
竹森氏は経済理論だけでなく、こうした深い教養に裏打ちされた記述が魅力です。
P.79
「人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、
政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。
なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、
毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、
始めからこれを取りたてずに国民の手元に残しておいたほうが、経済にとり都合がよいからである。
このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とするべきことは、
ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、
天然の人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、
また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。
その生産活動から生じた利益が誰の手に落ちようとも、自国内にあるならばそれで満足するべきである。
政府は極貧にして借金が山のようにあっても、人民が豊かなら少しも心配することはない。
なぜならば、その借金はすなわち人民の借金なのだから、
払おうと思えばいつでも容易に払うことができるからである。」
原文
《人民の一家には貯蓄貸金の多きを以て無上の目的と為すと雖も政府の経済
は假令ひ負債あるも蓄積ある可らず如何となれば政府は本来無一物、たゞ年々國民の財を集めて年々
これを消費する筈のものなるが故に若しも政府に余裕生ずる位なれば初めより之を取らして國民の
手元に残し置く方こそ便利なる可ければなり
一家の世帯と一國の経済と其相違すること斯の如くにし
て政府の目的とする所は唯全國の人民が其智力のあらん限り、腕力のあらん限り心身を労役して天然
の物に人為を加へ以て人間の快楽を多からしむるやう其仕組を作り又自然に此仕組あるのを妨げざ
るに在るのみ其労力より生じたる利金が誰の手に落るも自國の内にさへあれば夫れにでて満足す可し政
府は極貧にして借金山の如くなるも人民富實[?]なれば少しも憂ふるに足らず如何となれば共借金は即ち
人民の借金なるが故に払ふ可き時には之を払ふこと容易なればなり》
外債論1885年 旧全集9:47~8頁
[外債論]
旧全集9
該当48頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979059/37
https://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F979059&contentNo=37&outputScale=1
この文章が明確に述べているように、人的資源をフルに活動させることこそが、
経済政策の目的であるべきだというのが福沢の主張である。財政が緊縮型か、
積極型かによって、その目的の達成に違いが出てくることも、福沢はもちろん認識していた。
それで、この文章のように赤字財政でも構わないという主張をするわけである。
それはもちろん福沢の目的意識が、「自分は、国中に身体障害者や病人の他は、
手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む」(前掲書)というところにあったからである。
なんと、世界でも最も早い時点で、ケインズ型の財政政策を主張していたことになるのです。
福沢諭吉がここまで経済について深い洞察をしていたとは、この本を読むまで知りませんでした。
今の日本の経済学者や政治家は、100年以上前の福沢諭吉の認識に負けているといわざるをえません。
福沢諭吉「外債論」1885年 旧全集9:47~8頁より
原文
《人民の一家には貯蓄貸金の多きを以て無上の目的と為すと雖も政府の経済
は假令ひ負債あるも蓄積ある可らず如何となれば政府は本来無一物、たゞ年々國民の財を集めて年々
これを消費する筈のものなるが故に若しも政府に余裕生ずる位なれば初めより之を取らして國民の
手元に残し置く方こそ便利なる可ければなり一家の世帯と一國の経済と其相違すること斯の如くにし
て政府の目的とする所は唯全國の人民が其智力のあらん限り、腕力のあらん限り心身を労役して天然
の物に人為を加へ以て人間の快楽を多からしむるやう其仕組を作り又自然に此仕組あるのを妨げざ
るに在るのみ其労力より生じたる利金が誰の手に落るも自國の内にさへあれば夫れにでて満足す可し政
府は極貧にして借金山の如くなるも人民富實[?]なれば少しも憂ふるに足らず如何となれば共借金は即ち
人民の借金なるが故に払ふ可き時には之を払ふこと容易なればなり》
[外債論]
旧全集9
該当48頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979059/37
https://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F979059&contentNo=37&outputScale=1
以下、竹森俊平「世界デフレは三度来る 上」 P.79より現代語訳
「人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、
政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。
なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、
毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、
始めからこれを取りたてずに国民の手元に残しておいたほうが、経済にとり都合がよいからである。
このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とするべきことは、
ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、
天然の人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、
また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。
その生産活動から生じた利益が誰の手に落ちようとも、自国内にあるならばそれで満足するべきである。
政府は極貧にして借金が山のようにあっても、人民が豊かなら少しも心配することはない。
なぜならば、その借金はすなわち人民の借金なのだから、
払おうと思えばいつでも容易に払うことができるからである。」
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福沢諭吉はMMTも理解していた。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》通貨論
原文
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979055/17
最新著作集では第6巻所収
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1570988068408299520?s=21
小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)では
福沢諭吉の『通貨論』1878が重視されている。
《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と紙とは質が
異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには異論のさしはさむ余地はない》
《しかりしこうしてその大切なる由縁は、 品の質にあらずして その働きにあるものなり。 今、金銀と紙とその質は異なれども、 これを貨幣に用いて 働きに異なる所あらざれば、 紙を大丈夫なりと言いて 毫も異論あるべからず。》
通貨論1878
近年の福沢諭吉著作集では〈第6巻〉民間経済録・実業論に所収。
ただし福沢諭吉がMMTと最も接近するのは表券主義的信用貨幣論においてではなく
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該当48頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979059/37
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https://nam-students.blogspot.com/2020/04/blog-post_22.html@
https://nam-students.blogspot.com/2020/04/blog-post_30.html
まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい『学問のすゝめ』 Kindle版 2020/02/28
小浜逸郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0855L3763/
まだ M M Tを知らない貧困大国日本 ─ ─目次
はじめに
第 1章日本に迫りくる衰退の兆候
Ⅰ .貧困化する日本
Ⅱ .日本の科学技術が衰弱している
Ⅲ .国防の脆弱さ
Ⅳ .領土侵略に対しても無力
Ⅴ .情報戦における敗北
Ⅵ .少子高齢化のどこが問題か ?
Ⅶ .若者の生活不安定
第 2章なぜインテリは思考停止するのか
第 3章安倍政権はなぜ大失敗しているのか
第 4章よい学問と悪い学問の違い
終章日本の凋落を克服するたった一つの方法
あとがき
5つ星のうち5.0 MMTと福沢諭吉、小浜逸郎さん渾身の良書です。
2020年3月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
平成30年間の日本の衰退は緊縮財政とグローバリゼーションがもたらした政策的人災であることは明白です。
福沢諭吉は130年も前にMMT現代貨幣論の一歩手前まで自力で理論構築していた、と目の覚める論理構成です。
緊縮財政とグローバリゼーションで失われた国力を取り戻し、将来に希望を持てる日本国に再生させたい、そういう思いがふつふつと湧き上がり元気になりました。
この本や令和の政策ピボットメンバーの著書、講演、動画などで、緊縮財政脳から目を覚まして、正しい政治を選択しませんか。
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【小浜逸郎】福沢諭吉は完璧な表券主義者だった(その1)
『福沢諭吉 しなやかな日本精神』
を上梓する運びとなりました。
宣伝を兼ねて、
その一端を紹介させていただきます。
欧米列強の餌食にならないよう、
日本の自主独立を切に願っていたことは、
よく知られています。
しかし、彼が経済に対して
どういう考え方をしていたかは、
ほとんど知られていません。
世の福沢論者も、あまりこの領域には
手を染めてこなかったようです。
このたび福沢論を書くにあたって、
彼の一連の経済論文にも
丁寧に目を通してみたのですが、
驚いたことに経済に対する彼の見識は、
現代の凡百の経済学者やエコノミストより
はるかに高いものがありました。
ことに、明治11年に発表された
『通貨論 第一』では、
まだ本位貨幣制度も整っていない時代に、
それを飛び越して、
現代の管理通貨制度と完全に等しい考え方を
採っているのです。
それは単なる品物の預かり手形と同じであると
言い切ります。
これは最近、三橋貴明氏が強調している、
「貨幣は債権と債務の記録であり、借用証書である」
という本質規定とまったく同じです。
また、その「預り手形」として
金銀を用いようが紙を用いようが、
その機能において何ら変わるところがない
とも言い切ります。
こちらも、最近、中野剛志氏が、
貴金属に価値の本源があると
錯覚してきた長きにわたる慣習(金属主義)
が無意味であって、
貨幣はただ価値を明示する印(表券主義)
と指摘した、
その議論とぴったり一致しています。
たいへんわかりやすい例で説明しています。
これを綿に易えんと思えども、
差向き気に叶う綿の品物もなし、
さりとて、所持の米は不用なるゆえ、
まずこれを近処の綿屋に渡して
代金を受け取りおき、
追ってその店に綿の上物あるときに至りて
先に受け取たる代金をもって綿を買えば、
つまるところは米と綿と交易したる訳にて、
その代金はしばらくの間綿屋より受け取たる
米の預り手形に異ならず。(中略)
この預り手形に金銀を用いれば
何程の便利あるや、
紙を用いれば何程の不便利あるや、
いささかも区別あるべからず。
ただ、その約束の大丈夫なるとしからざる
との一事心配なるのみ。
この一段に至りて、金銀は人の苦痛の塊
(掘り出して精錬し鋳造する労働力
が込められている――引用者注)
なるが故に、
これを質に取りて大丈夫なりと言わんか、
決して頼みにするに足らず。
紙にてもまた大丈夫なる訳あり。》
互いの需要を満たすために
必ず時間差や空間差が介入してくるので、
そのために「預り手形」(約束の証書)が
どうしても必要とされるというところに
通貨の本質を見ているわけです。
中略部では、それが不特定多数との間で
流通性を持てば、
通貨となるのだと説いています。
ふつう貨幣のはたらきとして列挙される、
支払いの手段とか、蓄財の手段とか、
価値の尺度とか、富を誇示するためなどは、
あくまでその「機能」であって、
「本質」ではありません。
それでは紙でも大丈夫だという信用
はどこから得られるのか
という問いが出てきます。
福沢はこれに対して、
商売取引が現に繁多に
行われていさえすれば
世人はみな貨幣を大切に思うので、
その現実こそが信用を実現させている
と答えます。
品の質にあらずして
その働きにあるものなり。
今、金銀と紙とその質は異なれども、
これを貨幣に用いて
働きに異なる所あらざれば、
紙を大丈夫なりと言いて
毫も異論あるべからず。》
品質の如何ではなく働きにこそある
というこの指摘は、コロンブスの卵です。
真理を鋭く簡潔に言い当てていますが、
なかなかこううまくは
表現できないものです。
この論考の後の部分にも出てきます。
世間の人々は千両箱が積まれていると
すごい金持ちだというが、
本物の商人はそういう見方をせず、
千両が運用されずに一年間寝かせてあると
百両か二百両は損してしまうと考える。
活発に商取引や事業が行なわれている
その実態こそ、
金持ち(豊か)である証拠なので、
だから元気旺盛な商人ほど、
帳簿を調べてみれば
たくさん借金をしていることがわかる、と。
帳簿では貸方、借方のダイナミズムに
目をつけなくてはならないという、
当然と言えば当然の指摘ですが、
これなどは、
財政収支の黒字化ばかり気にして、
日本経済をひどい不活発に追いやっている
現在の財務省にぜひ
聞かせてやりたいくだりです。
第一に、そもそも一つの閉ざされた
共同体市場(たとえば一国内)で
紙を使って商売取引が繁多になるためにこそ
まず紙に対する信用が先立つのではないか。
それはどうして得られるのか。
第二に、貴金属に対する尊重の感情は
根深く人情として根付いているので、
簡単に金属主義を超えることは
難しいのではないか。
それは後述しましょう。
●『福沢諭吉 しなやかな日本精神』(仮)を脱稿しました。PHP新書です。
出版社の都合により、刊行は5月になります。
中身については自信を持っていますので(笑)、どうぞご期待ください。
●『表現者』76号「同第29回──福沢諭吉」
●月刊誌『Voice』3月号「西部邁氏追悼」
●『表現者クライテリオン』第2号「『非行』としての保守──西部邁氏追悼」
(4月16日発売予定)
●現在、『日本語は哲学する言語である』(仮)という本を執筆中です。
●ブログ「小浜逸郎・ことばの闘い」
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo
【小浜逸郎】福沢諭吉は完璧な表券主義者だった(その2)
便利さを列挙していきます。
再び「苦痛の塊」を苦労して作らなくてはならないが、
紙ならば、本人の損害だけで、
経済活動全体には影響がない。
それは印刷技術を高めればよいので、
金銀の場合も同じ偽造の危険はいくらでもある。
浪費乱用の危険があるという人がいるが、
それは習慣の問題で、
すべて紙幣を用いる習慣が定着しさえすれば、
それを大切にするようになる。
福沢は、まだ中津にいた少年時代の
面白い経験を記しています。
一分銀か二朱金で支払おうとすると、
店の主人から、暗くて真贋を見極めにくいので、
札(藩札)の方がありがたいと言われたというのです。
札を両替して銀で取引したのでしょうが、
中津藩内では、藩札が重宝されて出回っていたわけです。
ここから、一藩(一国)の統治が安定していれば
信用が生まれてくるということが示唆されます。
むやみに通用させることはできないが、
紙幣の場合、政府の都合でいくらでも増刷できるから、
物価騰貴を抑えられないという反論に対して、
いかにももっともだが、と断ったうえで、
次のように答えます。
初めから政府を疑うなら、紙幣の発行に限らず、
いくらでも疑いの材料はある。
年貢のつり上げ、小判の質の悪化、新紙幣の発行、
私有地の官有化など、
現に旧幕府は人民の信用を落とすことを
いくらでもやってきた。
紙幣発行がいかに便利かという論点で議論を進める。
このように、議論の原則をはっきりさせるわけです。
という議論が蒸し返されます。
それを国民が現金紙幣で納めることを
政府が承認しているという事実が、
一国の紙幣信用を生み出す要因である
という説を打ち出しています
(『富国と強兵』東洋経済新報社)。
旧藩時代と違って今日は全国一政府の時代なのだから、
そこが発行する紙幣は拒むも拒まないも、
安心するも信用しないも、
現に毎日盛んに商取引が行なわれている以上、
その紙幣を使う以外他に方法がないのだという点を
強調しています。
合意が遅滞なく成立している「事実」のほうを
信用成立の原因としてやや重く見ているわけです。
二人の議論は対立しているのでしょうか。
そうではありません。
政府が承認しているという事実は、
全国一政府の下に、経済人としての人民の
国民意識が統合されていることそのものの証しです。
商取引が行なわれていることは、
人民がその国の統一性を信用していることの証しです。
預金通帳からの引き落としという
書類上の納入の場合でも同じです。
AがBを信用することだけを意味するのではなく、
常にそれを受けるBの側からもAを信用する
という相互性の上に成り立つものです。
Bに対するAの信用は、
現にBが発行した通貨を用いて
盛んに経済活動をやっているという
事実によって示され(福沢説)、
Aに対するBの信用は、
現金紙幣を租税徴収の手段として認めているという
事実によって示されます(中野説)。
国際的取引では金銀が本位通貨となるので、
紙幣の発行に関して警戒すべきことを、
実例を挙げて示しています。
不換紙幣の名目として高くなっているだけで、
金銀との関係では、
逆に低いこともありうると注意を促します。
もしそういう時期に輸出をすると、
その輸出品は、より少ない量の金銀としか
交換できないので、
それで得た金銀は、国内で紙幣と両替すれば、
値打ちの低い物品と同じということになります。
つまり損をしてしまうわけです。
(少ない額のドルとしか交換できない時期)
の輸出と似ていますね。
わが国で紙幣と同じ名目価値しか持たない
一分銀を通用させ、
金と銀との実質的な割合について
おろそかだったからだと指摘します。
万国普通の相場に従って金と銀との価値の比率を定め、
その貨幣の名目に準じて紙幣を発行するしかない
という提案をします。
癪な話ではあるが、開国してしまった以上、
通貨問題は国際標準に合わせざるを得ない
というわけですね。
●『福沢諭吉 しなやかな日本精神』(仮)を
脱稿しました。
PHP新書です。
出版社の都合により、刊行は5月になります。
中身については自信を持っていますので(笑)、
どうぞご期待ください。
●『表現者』76号「同第29回──福沢諭吉」
●月刊誌『Voice』3月号「西部邁氏追悼」
●『表現者クライテリオン』第2号
「『非行』としての保守──西部邁氏追悼」
●月刊誌『Voice』6月号
「自殺幇助はどこまで許されるのか」(仮)
(5月10日発売予定)
●現在、『日本語は哲学する言語である』(仮)
という本を執筆中です。
●ブログ「小浜逸郎・ことばの闘い」
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo
https://38news.jp/economy/11850
【小浜逸郎】福沢諭吉は完璧な表券主義者だった(その3)
言及しています。
紙幣と同時に少し金貨銀貨を混ぜて通用させ、
これを通用の目安とします。
そして絶えず通貨量に対する監視と
コントロールを怠らないようにします。
金銀の一円と紙幣の一円とがだいたい同様に
通用している時には通用している紙幣量は
適切であると判断し、
紙幣の相場が金銀に比べて下落した時には、
紙幣過多とみて回収するというのです。
ただの商品として扱われていることになります。
これは当時のインフレ対策としては、卓抜に思えます。
現在は当然とされている管理通貨制度の考え方を
先取りしていたと書きました。
簡単に説明を加えておきましょう。
通貨量を決める制度で、
商品価値もこれによって決まります。
本来は金を通貨として流通させる建前ですが、
実際には一国の経済活動にとって
金の量が十分とは限らないので、
金と交換可能な兌換紙幣や補助貨幣を発行して
間に合わせる形を取ります。
そのため政府は常に相当量の金を
準備しておかなくてはなりません。
それが政府に対する国民の信用を保証するからです。
国際取引は普通、金で行われます。
すると、金の保有高の多少が一国の経済力にとって
決定的となり、それによって物価は
常に不安定にさらされます。
稀少にしか存在しない金の争奪戦も起きます。
こうした貴金属に価値決定の基準を置く考え方で、
人々の経済的価値観は、
金銀という「モノ」に依存することになります。
この社会心理に支配されてきましたが、
これは、貨幣というものの本質を
理解しない間違ったあり方です。
経済学者のケインズは、
福沢がこの論考を書いてから約50年後に、
金本位制復活を唱えたチャーチルを批判して、
「金本位制度は未開の遺物だ」と喝破しました。
「モノ」の保有にいっさい依存せず、
通貨当局(政府及び中央銀行)が、
物価、経済成長率、雇用状態、国際収支など、
自国の経済情勢を常ににらみながら、
それに応じて通貨の発行量を決める制度です。
「モノ」に拘束されるのではなく、
経済活動をする人々(政府も含む)の
相互信用にかかっているという考え(表券主義)
を徹底させたものです。
いくらでも通貨を発行できます。
国民が政府・中央銀行を大筋で信用し、
政府・中央銀行が極端なバカ政策に走らない限り、
この制度が揺らぐことはありません。
人間どうしの関係のあり方に宿っている
という正しい経済哲学が基本になっています。
展開していたばかりではありません。
本当は金準備は必要ないのだが、
長きにわたる習慣からくる民衆の人情を忖度して、
若干の金準備は必要だとまでことわっているのです。
そのフォローの手厚さには舌を巻かざるを得ません。
当時の政府の財政事情の苦しさに鑑みて、
楽観主義と批判する経済学者もいるようですが、
楽観主義かそうでないかといった政策論的な批評は
問題になりません。
福沢がここでなしていることは、
通貨とこれを管理する政府との関係に関する
「原理」の展開であり、
それゆえ、普遍的に当てはまる理論なのです。
少し長くなりますが、
ここはぜひ原文を味わっていただきましょう。
紙幣と金銀貨との間に大なる差もなくして
いよいよ安心の点にあれば、
準備金はほとんど不用のものなり。
元来通貨の行わるるゆえんは、
前にも言えるごとく、
開けたる世の中に欠くべらざるの効能あるに
よってしかるものなれば、
今世間の商売に定めて入用なる数の紙幣を
発行するときは、
その通用は準備の有無に関係あるべからず。》
と言えり。
このほとんどの字は、
ことさらにこれを用いたるものなれば、
等閑に看過すべからず。
準備の正金は、経済論において事実不用なれども、
いかんせん今の不文なる通俗世界においては、
千百年来理屈にかかわらずして
金銀を重んずるの習慣を成し、
ただ黄白の色を見て笑みを含むの人情なれば、
いかなる政府にても、
紙幣を発行して絶えて引き替えをなさざるのみならず、
公然と布告して政府の金庫には一片の正金なし、
この紙幣は百年も千年も金銀に替えること
あるべからずと言わば、
人民は必ず狼狽して、
事実入用の紙幣を厄介のごとくに思い、
様々にこれを用いんとして無用の品物を買入れ、
物価これがために沸騰して紙幣も
いわれなく地に落つることあるべし。
これを西洋の言葉にてパニクと言う。
根も無きことに驚き騒ぐという義にして、
はなはだ恐るべき変動なり。
ゆえに愚民の心を慰むる為には
多少の準備金なかるべからず。
これ即ちそのほとんど不用にして
全く不用ならざる由縁なり。》
福沢は、不時の災害や飢饉、戦争などのために
物資が不足して輸入に頼らなければならない時
を挙げています。
①紙幣発行額の目安として市場に少し混入させるため、
②金属主義に取りつかれた「愚民」の不安を鎮めるため、
③不時の異変に遭遇した時の輸入のため、
の三つということになります。
①は主として日銀の公開市場操作
(公債の売り買いによる金利の調整)、
②は不要、
③は外貨(ドル)準備残高の維持
によってそれぞれ保障されているわけです。
この段階では、金銀などの貴金属は、
貨幣としての特権的地位を保てず、
ただの「商品」に下落しています。
経済の専門家でもない一人の思想家が、
貨幣の本質と妥当な通貨制度のあり方について、
ここまで考えていたのです。
福沢は、経済に関しては、
おそらくアダム・スミスとJ・S・ミル
くらいしか読んでいなかったでしょう。
しかもこの二人はいずれも金属主義者でした。
「経済学」など学ばなくても、
社会を正確に見る目さえあれば、
経済についてこれだけのことができるのです。
現代にも多くの福沢が甦ってほしいと
切望するゆえんであります。
●新著『福沢諭吉 しなやかな日本精神』
(PHP新書)は5月15日に発売です。
どうぞご期待ください。
●『表現者』76号「同第29回──福沢諭吉」
●月刊誌『Voice』3月号「西部邁氏追悼」
●『表現者クライテリオン』第2号
「『非行』としての保守──西部邁氏追悼」
●月刊誌『Voice』6月号(5月10日発売)
「西部邁氏の自裁死は独善か」
●現在、『日本語は哲学する言語である』(仮)
という本を執筆中です。
●ブログ「小浜逸郎・ことばの闘い」
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo