Quantum economics - Wikipedia (量子経済学,ベルナール・シュミット)
ダブルバインド(Double bind)Bateson, G.1956
「…してみると、カント哲学はもしかして、オイディプスの後継者ではないだろうか。」
(財津理訳『差異と反復』、単行本版、p.144)。
A.O#2:3
《カントがみずから批判的革命と呼んでいたことにおいて提起していたことは、意識の総合の正当な使用と不当な使用とを区別するために、認識に内在する規準を発見することであった。だから、彼は、超越論的哲学(諸規準の内在)の名において、形而上学に見られるような諸総合の超越的使用を告発したのである。同様に私たちは、精神分析はその形而上学すなわちオイディプスをもっているといわなければならない。》
以下、グレーバーが批判的に言及
負債論 貨幣と暴力の5000年 デヴィッド・グレーバー 著
負債への着目はドゥルーズが先。柄谷行人もここから影響を受けているはず。
115#4ニーチェ
^
654ドゥルーズ
AO#7
《 現代人類学の偉大なる著書は、モースの『贈与論』であるよりは、むしろニーチェの『道徳の系譜』である。少なくとも、そうでなくてはならないだろう。というのも『道徳の系譜』の第二論文は、「英国式の」交換や利益の考察をすべて消し去って、原始経済を〈債権者-債務者〉の関係における負債の用語で解釈しようとする試みの成功として、他にないものであるからだ。交換や利益を心理学から消し去るのは、それらを構造の中に位置づけるためではない。ニーチェは、古代ゲルマン人の法や僅かなヒンドゥの法といった乏しい材料しかもっていない。しかし彼は、モースのように、交換と負債との間で迷いはしない(バタイユもまた、彼を導くニーチェの刺戟によって、迷いはしないであろう)。登記、コード、刻印といった原始社会体の基本的問題を、これほど鋭い仕方で提起したひとは、これまでに存在しない。人間は、強度的な胚種的流体を、つまり生物的-宇宙的な大いなる記憶を抑圧することによって、自分を人間として形成しなければならない。
この問いに対する答えは簡単である。それは負債によってである。
法の馬鹿らしさと恣意性、通過儀礼の苦痛のすべて、抑圧や教育のまったく倒錯的な装置、赤熱の烙印、残虐な仕打ち、こうしたものは、人間を調教し、生身の肉の中に刻印し、人間に縁組を可能ならしめ、債権者-債務者の関係の中で人間を形成するという意味しかもってはいない。債権者-債務者の関係は、債権債務のいずれの側においても、記憶に属する事柄である(未来にまで引きのばされる記憶である)。負債は、交換が装う見かけであるどころではなく、大地的そして身体的登記からじかに生ずる効果であり、この登記が用いる直接の手段である。負債は、まったく直接的に登記から生ずるのである。》
定本柄谷行人集(付『世界共和国へ』『NAM原理』)総合索引
http://nam-students.blogspot.com/2006/05/nam_31.html#5
ニーチェ.Nietzsche,Friedrich Wilhelm,
❶J.126-7@,149-151@,274,276(『反時代的考察』)/❷M.26-7@,28,130- /❸T.171,186@,428/❺H.81,216-7@(手紙)/◉W(『道徳の系譜』).91@,94-96@,
『偶像の黄昏』,❷M.26-7@,
『権力への意志』,❶J.126-7@/❸T.186@,
『善悪の彼岸』,❸T.187,
『道徳の系譜学』,❶J.149-151@/❸T.187,428?/◉W.91@,94-96@
L'ANTI-ŒDIPE
著者: ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ,
Gilles Deleuzes + Félix Guattari
翻訳者 :宇野邦一
出版社 :河出文庫
原書刊行年 :1972
ISBN / C :
4-309-46280-4 / c0110
『「機械と少年」というリチャード・リンドナーの絵では、大きな太った少年が、自分の小さな欲望機械のひとつを巨大な技術的社会的機械に接木し、これを作動させている。』
『アンチ・オディプス』(単行本P.19,文庫本P.24
)
目次
(MEMO:『アンチ・オイディプス』の目次には、節の下位に接続線で連結された語群が続いている。これら小題的な語は本文中には示されていないし、各段落に厳密に一対一対応しているとは限らないようだが、ここでは敢て接続線を除き改行して記しておく)
第一章 欲望機械 (15)
第1節 欲望的生産 (15)
分裂者の散歩
自然と産業
プロセス
欲望機械、部分対象と流れ:そして……そして……
第一の総合:接続的総合あるいは生産の生産
器官なき身体の生産
第2節 器官なき身体 (27)
反生産
反発とパラノイア機械
欲望的生産と社会的生産:反生産はどのように生産緒力を自分のものとするのか
占有あるいは吸引と、奇蹟を行う機械
第二の総合:離接的総合あるいは登録の生産
〈これであれ……あれであれ〉
分裂症の系譜
第3節 主体と享受 (40)
独身機械
第三の総合:連接的総合あるいは消費の生産
「だから、これは……である」
物質、卵胞、強度:〈私は感ずる〉
歴史上の様々な名前
第4節 唯物論的精神医学 (50)
無意識と生産のカテゴリー
劇場か工場か
生産のプロセスとしてのプロセス
欠如としての欲望という観念論的発想(幻想)
現実的なものと欲望的生産:受動的総合
集団幻想の現実
欲望的生産と社会的生産の間の体制の差異
社会体と器官なき身体
資本主義とその極限としての分裂症(相反する傾向)
神経症、精神病、倒錯
第5節 欲望機械 (72)
欲望機械は機械であり、これは隠喩ではない
切断の第一の様式:流れと採取
切断の第二の様式:連鎖あるいはコードと離脱
切断の第三の様式。主体と残滓
第6節 全体と諸部分 (82)
多様性の規定
もろもろの部分対象
オイディプス批判、オイディプス的欺瞞
子供はすでに……
孤児としての無意識
精神分析においては何が変なのか
第二章 精神分析と家族主義 すなわち神聖家族 (99)
第1節 オイディプス帝国主義 (99)
その様式
精神分析におけるオイディプス的転回点
欲望的生産と表象
欲望機械の放棄
第2節 フロイトの三つのテクスト (109)
オイディプス化
シュレーバー控訴院長の妄想と破壊
どんな点で精神分析はあいかわらず敬虔なのか
欠如のイデオロギー:去勢
あらゆる幻想は集団のものである
流れとしてのリビドー
流れの反抗
第3節 生産の接続的総合 (132)
この総合の二つの使用、包括的かつ特殊的使用、部分的かつ非特殊的使用
家族とカップル、出自と縁組:三角形化
三角形化の原因
精神分析の第一の誤謬推理:外挿法
超越的使用と内在的使用
第4節 登録の離接的総合 (146)
その二つの使用。排他的制限的使用と包括的無制限的使用
包含的緒離接。系譜学
排他択一的な区別と未分化状態
精神分析の第二の誤謬推理。オイディプス的ダブル・バインド
オイディプスはいつも勝利する
象徴界と創造界との間には、国境があるのか
第5節 消費の連接的総合 (164)
その二つの使用法、分離的かつ一対一対応的使用法と遊牧的かつ多義的使用
器官なき身体ともろもろの強度
旅行、移行:私は……になる
あらゆる錯乱は社会的、歴史的、政治的である
人種
同一化することの意味
どんなふうに精神分析は社会的 - 政治的内容を抹殺するのか
頑迷な家族主義
家族と社会野
欲望的生産と社会的生産の備給
幼年期から
精神分析の第三の誤謬推理:一対一対応の「適用」としてのオイディプス
歴史における精神分析の恥
欲望の下部構造
隔離と遊牧生活
第6節 三つの総合の要約 (204)
オイディプス笑話集
オイディプスと「信仰」
意味とは、使用法である
欲望的生産の内在的指標
欲望は、法、欠如、シニフィアンを知らない
「あなたはハムレットに生まれたのか」
第7節 抑制と抑圧 (217)
法
精神分析の第四の誤謬推理:抑圧されたものの移動、あるいは歪曲
欲望は革命的である
抑圧を委託された代行者
オイディプスを発明するのは、精神分析ではない
第8節 神経症と精神病 (235)
現実
逆の関係
「決定不可能な」オイディプス:反響
現働的因子が意味するもの
精神分析の第五の誤謬推理:〈事後に〉
欲望的生産の現働性
第9節 プロセス (250)
出発すること
画家ターナー
プロセスの中断:神経症、精神病、そして倒錯
脱領土化の運動ともろもろの領土性
第三章 未開人、野蛮人、文明人 (263)
第1節 登記する社会体 (263)
登録
どのような意味で資本主義は普遍的なのか
社会的機械
社会体の問題、流れをコード化すること
交換することではなくて、刻印すること、刻印されること
諸器官の備給と脱備給
残酷:人間に記憶をつくること
第2節 原始大地機械 (273)
大地の充実身体
縁組と出自:両者の非還元性
村の倒錯者と地縁集団
出自のストックと縁組の負債ブロック
機能的不均衡:コードの剰余価値
〈それ〉はまさに調子を狂わすことによって作動する
線分機械
脱コード化した流れへの大きな恐れ
内から立ち現れる死、しかしそれは外からくる
第3節 オイディプス問題 (288)
近親相姦
大地の充実身体の上における包含的離接
強度から外延へ:記号
近親相姦はいかなる意味で不可能なのか
極限
コード化の条件
表象の深層の諸要素:抑圧される表象音、抑圧する表象作用、置き換えられた表象内容
第4節 精神分析と人類学 (313)
オイディプス問題の続き
アフリカにおける治療のプロセス
オイディプスの諸条件と植民地化
オイディプスと民族虐殺
オイディプス化を行う人びとは、自分が何をしているのかを知らない
抑圧は何を対象としているのか
文化主義者たちと普遍主義者たち:両者に共通の公準
どんな意味でオイディプスはまさに普遍的なのか:極限の五つの意味、そのひとつとしてのオイディプス
人類学における使用法または機能主義
欲望機械は何も意味しない
モル的なものと分子的なもの
第5節 大地的表象 (347)
表層におけるその諸要素
負債と交換
交換主義的発想の五つの公準
声、書体、眼:残酷の劇場
ニーチェ
領土的システムの死
第6節 野蛮な専制君主機械 (364)
専制君主の充実身体
新しい縁組と直接的な出自
パラノイア人
アジア的生産
楝瓦
国家の欺瞞
専制君主による脱領土化と無限の負債
流れを超コード化すること
第7節 野蛮な、あるいは帝国の表象 (377)
その諸要素
近親相姦と超コード化
深層の諸要素とオイディプスの移動:近親相姦は可能なものとなる
表層の諸要素、声 - 書体の新しい関係
天上の超越的対象
脱領土化した記号としてのシニフィアン
専制君主的シニフィアンと近親相姦のシニフィエ
恐怖、法
無限の負債の形式:潜在、復讐、怨恨
それはまだオイディプスではない……
(以上上巻)
http://library.tail-lagoon.com/books/one/796/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA/
『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症(下)』»
目次 (承前)
第三章 未開人、野蛮人、文明人 (11)
第8節 〈原国家〉 (11)
国家はただひとつなのか
カテゴリーとしての国家
始まりと起源
国家の進化:〈具体的になること〉と〈内在的になること〉
第9節 文明資本主義機械 (20)
貨幣 - 資本の充実身体
脱コード化と、脱コード化した流れの連接
シニシズム
出自資本と縁組資本
コードの剰余価値の、流れの剰余価値への変容
貨幣の二つの形態、二つの登記
傾向的低下
資本主義と脱領土化
人間による剰余価値と機械による剰余価値
反生産
資本主義的内在性の異なる様相
もろもろの流れ
第10節 資本主義の表象 (50)
その諸要素
形象または〈流れ - 分裂〉
〈流れ - 分裂〉の二つの方向:資本主義と分裂症
コードと公理系との差異
資本主義国家、これと〈原国家〉との関係
階級
階級の二極性
欲望と利益
資本主義の脱領土化と再領土化:両者の関係と、傾向的低下の法則
公理系の両極:専制君主的シニフィアンと分裂症的形象、パラノイアと分裂症
三大社会的機械の要約:大地機械、専制君主機械、資本主義機械(コード化、超コード化、脱コード化)
第11節 最後はオイディプス (93)
適用
社会的再生産と人間の再生産
イメージの二つの秩序
オイディプスと極限
オイディプスと三つの状態の要約
専制君主の象徴と資本主義のもろもろのイメージ
良心の呵責
アダム・スミスとフロイト
第四章 分裂分析への序章 (113)
第1節 社会野 (113)
父と子供
オイディプスは父の概念である
循環としての無意識
社会的備給の優位:その二つの極としてのパラノイアと分裂症
モル的なものと分子的なもの
/|\
/ | \
/ | \
ア/ | \
イ/----|----\
ノ/ 大地の|身体 \分
ラ/ | \裂
パ/ | \症
/--------|--------\
/ 専制君主の|身体 \
/ 資本の|身体 \
/-----------|-----------\
/ | \
↙︎____モル的諸集合___⚫️___分子的諸要素____↘︎
器官なき|充実身体
a図 ↓
大地の身体
_____
\| |
| |
|\ |
| \ |
| \ |
| \ |
| \| 専制君主の身体
| | _____
|_____|\| |
△ | |
o |\ |
| \ |
| \ |
| \ |
o | \|〈貨幣-資本〉の身体
| | _____
|_____|\| |
△ | |
o |\ |
o | \ |
| \ |
専制君主の | \ |
o 臨床実体と | \| 器官なき充実身体
しての o | | _____
土地の パラノイア |_____|\| |
臨床実体 精神病 △ | |
としての o 家庭の o |\ |
倒錯 o 臨床実体 | \ |
としてのo | \ |
o オイディプ | |\ |
ス的神経症 | | \|
o o | | |
o |__|__|\
o ooo| \
o o o oo| 脱 \
o o o| 症 土 \
o o | 的 地 ↘︎
o | 過 化
o o | 程 の
b図 o o ↓ 分
臨床実体としての分裂症化 裂
《一般的な臨床の見地からすれば、バラノイアと分裂症とは、充実身体としての社会体を(極限においていえば、
器官なき身体を)中心にして左右にゆれる振子の振幅の二辺に対応するものとして説明することができる〔a図参照〕。こ
の二辺のー方の側面は、種々のモル的な集合によって占められており、他方の側面は、種々の分子的要素によって住まわ
れている。しかし、また同時に、一線上に並ぶ三つの異なる社会体を貫くただー本の線によってこの事態を示すこともで
きる〔b図参照〕。つまり、社会体のそれぞれの局面とその局面の大集合がこの線上に並べられる。それぞれの局面には
〈倒錯のもうひとつの別の次元〉、〈バラノイアのある次元〉、〈ある型の家庭の位置〉の三者が配当され、さらに逃走〔漏
出〕線すなわち分裂気質の突破線が点線で示される。軸線は、器官なき身体に到達する。ところが、そこでこの軸線が
壁を通り抜けるか、それとも壁に当ってはねかえるか、することになる。》(邦訳単行本337頁4:1「社会野」より)
第2節 分子的無意識 (130)
欲望と機械
生気論と機械論の彼岸へ
機械の二つの状態
分子的機能主義
もろもろの総合
リビドー、大きな集合とミクロの多様性
欲望の巨人性と矮小性
非人間的な性:ひとつの性でも、二つの性でもなく、n個の性
第3節 精神分析と資本主義 (152)
表象
表象と生産
神話と悲劇に抗して
神話と悲劇に対する精神分析の両義的な態度
どんな意味で、精神分析は表象を破壊し、どんな意味でそれを再建するのか
資本主義の要求
神話的、悲劇的、精神分析的表象
演劇
主観的表象と構造的表象
構造主義、家族主義、そして欠如の崇拝
分裂分析の破壊の仕事、無意識の清掃:敵対的活動
脱領土化と再領土化:両者の関係、そして夢
機械的諸指標
政治化:社会的疎外と精神的疎外
人工的なものとプロセス、古い大地と新しい大地
第4節 分裂分析の肯定的な第一の課題 (197)
欲望的生産とその諸機械
部分対象の規定
受動的総合
器官なき身体の規定
シニフィアンの連鎖とコード
器官なき身体、死と欲望
死を分裂症化すること
精神分析における死の奇妙な崇拝:擬似本能
モル的なものと分子的なものの親和力の問題
分裂分析の機械技術的な課題
第5節 第二の肯定的課題 (230)
社会的生産とその諸機械
二極理論
第一命題:あらゆる備給はモル的社会的である
群居性、その選別と形式
第二命題:社会的諸備給の中で、階級ないしは利害の前意識的備給と、集団ないしは欲望の無意識的リビドー備給とを区別すること
社会野のリビドー備給の本性
二つの集団
性愛の役割、「性の革命」
第三命題:社会野のリビドー備給は、もろもろの家族的備給に先立つものである
フロイトにおける「女中たち」の理論、オイディプスと普遍的家族主義
精神分析の悲惨:4、3、2、1、0
反精神医学でさえも……
分裂症者は、何を病んでいるのか
第四命題:リビドーの社会的備給の両極
芸術と科学
革命的運動との関係における分裂分析
補遺 欲望機械のための総括とプログラム (311)
第一節 欲望機械と他のさまざまなものとの相対的差異-アイディア製品との差異-幻想あるいは想像的投射のシステムとの差異-道具あるいは現実的投射のシステムとの差異-私たちを欲望機械に導く倒錯機械との差異 ☆
第二節 欲望機械とオイディプス装置、つまり抑制-退行に抵抗する反復
第三節 機械と充実身体。機械のもろもろの備給
原注 (348)
あとがき──世紀を超えてこの本が生き延びる理由 宇野邦一 (391)
人名索引 (I)
☆
Man Ray Dancer Danger 1920 「人間と機械との間にコミュニケイションを形成…」邦訳単行本460頁より
参考
『狂人の二つの体制 1983-1995』 ジル・ドゥルーズ (宇野邦一監修 河出書房新社 ISBN 4-309-24311-8)
44「『千のプラトー』イタリア語版への序文」(宮林寛 訳)p.170 より
『アンチ・オイディプス』でとりあげた三つの主題は次のとおりである──
(1) 無意識は工場のように機能するのであって、劇場とは違う(生産の問題であって、再現=上演の問題ではない)。
(2) 妄想、あるいはロマンスが語るのは世界の歴史であって、家庭の問題ではない(妄想の内実は人種、部族、大陸、文化圏、社会階級など、いずれも全世界規模のものばかりである)。
(3) そこにはまさしく世界史がある、しかしそれは偶然性の世界史である(歴史があつかうさまざまな流れは、原始のコード、専制の超コード化、そして独立した流れ同士の結合を可能にした資本主義の脱コード化と、そのようにかかわり、循環していくのか)。
QUOTE
アンリ・ミショー『精神の大試練』 (孫引き)
「ひとたび注目されてから、この机はずっと精神を引きつけてきた。何か分らないが、この机はおそらくずっと自分自身の関心事さえやり続けてきたのだ……。
驚くべきことに、この机は単純ではないが、かといってそれほど複雑でもなかった。つまり始めから複雑だったり、意図的に、あるいは計画的に複雑であったり
したわけではない。むしろ、加工されていくにつれて、この机は単純でなくなってきたのだ……。この机はそれ自身としては、いくつもの付加物のある机であっ
た。ちょうど、分裂症者の描くデッサンが詰め込み過ぎといわれるように。この机が完成するとすれば、それはもう何もつけ加えるてだてがなくなったときであ
る。この机にはだんだんいろんなものが積み重ねられ、それはますます机でないものになっていった……。この机は、机として用いるには、また机から期待され
る何かには、まったく適さないものとなった。重くてかさばり、ほとんど運ぶのが難しかった。この机をどう扱ったらいいのか、誰も分らなくなっていた(気持
ちのうえでも、手をつけるにしても)。平たい板、つまり机の普段使う部分は、かさばる骨組みとはだんだん関係がなくなって減少し、消滅してゆき、机という
全体はもはや考えられなかった。それは例外的な家具のようなもの、誰も何の役に立つのか分らない未知の道具のようなものだった。これは人間と無関係の机
で、ちっとも快適でなく、ブルジョワ風でも、民芸風でも、田園風でもなく、料理用でも、作業用でもなかった。それは何ごとにも役立たず、用途やコミュニ
ケーションを拒否し、堅く身を守っていた。この机には、何か愕然とし、石化したようなものがある。それは、故障したモーターを思わせたかもしれない。」
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『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』
23
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第一章 欲望機械 (15)
第二章 精神分析と家族主義 すなわち神聖家族 (99)
第三章 未開人、野蛮人、文明人 (263)
第四章 分裂分析への序章 (113)
千のプラトー
01リゾーム
02狼はただ一匹か数匹か?
03道徳の地質学
04言語学の公準
05いくつかの記号の体制について
06いかにして器官なき身体を獲得するか
07顔貌性
08ヌーヴェル三編,あるいは「何が起きたのか?」
09ミクロ政治学と切片性
10強度になること、動物になること、知覚しえぬものに
11リトルネロについて
12遊牧論あるいは戦争機械
13捕獲装置
14平滑と条里
15結論
A
03道徳の地質学
04言語学の公準
05いくつかの記号の体制について
06いかにして器官なき身体を獲得するか
07顔貌性
B
09ミクロ政治学と切片性
12遊牧論あるいは戦争機械
13捕獲装置
14平滑と条里
15結論
C
01リゾーム
02狼はただ一匹か数匹か?
08ヌーヴェル三編,あるいは「何が起きたのか?」
D
10強度になること、動物になること、知覚しえぬものに
11リトルネロについて
BA
CD
B以外は交換図の外側を模索する
『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』
23
14
第一章 欲望機械 (15)
第二章 精神分析と家族主義 すなわち神聖家族 (99)
第三章 未開人、野蛮人、文明人 (263)
第四章 分裂分析への序章 (113)
帰納と
演繹
1082夜『アンチ・オイディプス』ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/1082.html
われわれは原始古代からずっと道具や器具を作りつづけてきた。その道具や器具とともに欲望や思索を開発してきたわけである。
たとえば、望遠鏡を発明して天体の謎をもっと深く解きたくなったのだし、蒸気機関車に乗ってからもっと速度を官能したくなった。ピストルがあるから離れた相手を殺したくなったのだし、カメラを手にしたから記念や証拠の写真を残したくなった。あるいは破り捨てたくなった。パソコンがあるからハッカーになれたのだし、ケータイがあるからメールをしたくなった。
そうだとすれば、こうした道具や機械とわれわれの思索や欲望や身体はくっついていると見なしたほうがいい。ドゥルーズ=ガタリはそのように人間の活動と道具や機械がつながっている状態になっていることを「欲望機械」とか「機械状」とかと名付けた。
これが、ドゥルーズ=ガタリが「機械」という用語を駆使する理由だった。ときに二人によってマシニスム(機械状主義)といわれる。まあ、わかりやすくいえば「みんな機械仕掛けになっている」という意味だ。
しかし、その機械状なるものがわれわれの思索や欲望と切っても切れないものになっているとして、そのことを表明することがどうして「資本主義と分裂症」という奇怪な統合標題があらわすためのホットワードになっているのかというと、これについてはもう少し深入りして説明する必要がある。まして「無意識は機械である」というような言いかたを理解するには、ドゥルーズ=ガタリとともにこのことをしばらく考えてみる必要がある。
Φ 可能的 U
現実的---+---潜在的
F 実在的 T
http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20070203
◎ガタリ『分裂分析的地図作成法』の四つの機能体によって与えられる区域。──
実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象機械状の「門」(Φ:Phylum)。
実在的で現実的(re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)。
潜在的(virtualite')で現実的なものの実存的「テリトリー」(T:Territoires)。
潜在的で可能的なものの非物体的(意識的)「世界」(U:Univers)。
◎ここでたとえば、知覚世界:actuel、想起世界:virtualite'、現実世界:re'el、理念世界:possible、と対応させることはできるだろうか。そして、知覚世界と想起世界を媒介する仮面は時間に関係し、現実世界と理念世界を媒介する顔は空間に関係する、などということはできるだろうか。さらに、前者からは心身問題の、後者からは他者問題の「解明」の手がかりが得られる、などといえるのだろうか。
◎いまひとつの(謎めいた)思いつき。その一、顔の解析学。──力の「流れ」を堰き止めつつ解放(微分)する「門」。そして「テリトリー」(土地)を高次元で造形(積分)すると「世界」が得られる。──その二、仮面のトポロジー。「世界」と「門」をめぐるカフカ的寓意性。そして「流れ」と「テリトリー」(土地の名?)をめぐるプルースト的単数性。(あるいはジョイス的複数性やバタイユ的過剰性、等々。)
◎ところで‘Univers’すなわち宇宙とは、自らに折り返したもの(universe=unus[one]+vertere[turn])である。それこそ「虚ろな器」の造形原理ではないか!──盤にせよ碗にせよ壷にせよ、そして管にせよ、いずれも「自らに折り返したもの」なのだから。(かくして仮面的なものは「時間問題」「心身問題」に加えて「自己(意識)問題」にまでかかわっている?)
◎あるいは(ジンメルが準拠している?)ショーペンハウアーの世界の四区分に対応させること。──たとえば、表象としての世界とは知覚世界であり、意志としての世界とは想起世界である、そしてイデアとは現実世界を積分する(すなわち possible な)表象であり、物自体とは理念世界を微分する(すなわち re'el な)意志である、などということができるのだろうか。
◆ガタリの四つの機能体とは、実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象機械状の「門」(Φ:Phylum)、実在的で現実的(re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)、潜在的(virtualite')で現実的なものの
実存的「テリトリー」(T:Territoires)、潜在的で可能的なものの非物体的(意識的)「世界」(U:Univers)のことなのですが、これでは何のことやらさっぱりわかりません。私自身は「リアルなもの=実」「可能的なもの=虚もしくは無」「アクチャルなもの=現」「バーチャルなもの=空もしくは夢[む]」と訳して、現実だとか空虚だとかの概念を導き出せないかと考えをめぐらせてはいるのですが、これもまた夢現の類でしかありませんし、だからどうなんだと自分でも思います。
実在的(actuel)と現実的(re'el)の訳語は逆になる場合がある?
◎ガタリ『分裂分析的地図作成法』50頁参照
http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU/24.html
【309】神学的、伝導的(素材と概要-4)
●舘*(表示不能:日+章)氏の『ロボットから人間を読み解く』(NHK人間講座テキスト:1999.10~12)によると、ヴァーチャル(virtual)とは「みかけや形は原物そのものではないが、本質的あるいは効果としては現実であり原物であること」(existing in essence or effect though not in actual fact or form:‘The American Heritage Dictionary’)であり、虚構や仮想とは似ても似つかない概念である。
<バーチャルの反義語はノミナル(nominal)すなわち「名目上の」という意味の言葉であって、バーチャルは決してリアル(real)の反義語ではありません。「虚」は、imaginary に対応し、虚数(imaginary number)などの訳に適しています。[略]また、「擬似」は pseudo であり、外見は似ていても本質は異なる偽物です。「仮想」はあくまでも supposed で、「仮に想定した」という意味を表しており、これもバーチャルとは全く異なる概念です。>(70-1頁)
たとえば日本語の「仮想敵国」とは「サポーズドエニミー」であって、これを「バーチャルエニミー」と訳すと「友好国のように振る舞っているがほんとうは敵」という意味になってしまう。
<従って、バーチャルリアリティは、そのままカタカナで表記するのがよいと思います。もしどうしても日本語に訳したければ、「人工現実感」という言葉のほうが、誤訳するよりはよいと思います。[略]
明治以来このかた、バーチャルという言葉を嘘や仮想と誤って訳し続けてきたのは、実はバーチャルという概念がわが国にはまったく存在しなかったためです。我が国だけではなく中国にもありません。そのことは、それを著わす一文字の漢字あるいは二文字の熟語が存在しないことからも明らかです。つまりバーチャルという見方は、東洋にはない極めて欧米的な概念であるといえましょう。>(72-3頁)
●補遺。次の二つの図を比較せよ。──下図は、ガタリ『分裂分析的地図作成法』(訳書50頁)から。
┌──―──┬─―─―─┐
│nominal │virtual │
┌─――───┼――───┼──――─┤
│imaginary │ │ │
├――────┼───―─┼─―─―─┤
│real │ │ │
└──――──┴─―─―─┴─────┘
┌───―─┬──――─┐ガタリ
│actuel │virtuel │
┌─――───┼―─―──┼─―─―─┤
│possible │ │ │
├――────┼───―─┼──――─┤
│re'el │ │ │
└──――──┴──――─┴─────┘
「クレタ島の人は嘘つきだとクレタ島の人が言った」という命題は、真実か否か?
これを、クレタ島人は嘘つきだ、と見なせば、間違いです。なぜなら、この命題を主張したの
がクレタ島人であるために、主張を真に受けることは、嘘を受け入れることになる、と。
ならば、クレタ島人は嘘を言わないのか、といえば、これも間違いです。クレタ島人は嘘つ
きである、とクレタ島人が言っているからです。嘘を言わないはずのクレタ島人が、クレタ島
人は嘘をつくと主張しています。
「クレタ島人の嘘つき」パラドックス問題を解決したのは、バートランド・ラッセルです。と、
そのようにラッセルが主張しました。「私は、ついにこの難攻不落と考えられてきた矛盾命題
を解いた」と。それが、クラス理論です。
文章を分割する手法です。
いかにもラッセル哲学の特徴をよく表しています。文章は記号の固まりである、とする見方です。
Commented by ようじ at 2011-12-23 15:32 x
AO文庫版上P156
「この状況を定式化することを覚悟の上で言えば、これはラッセルのいう
別の種類のナンセンスにかかわるのである。すなわち、二者択一あるいは
排他的離説はひとつの原理との関係で決定されるが、にもかかわらず
この原理そのものが二者択一の両項または二つの下部集合を構成していて、
この原理自身が二者択一のなかにはいっている。」
http://lapoupeequifait.blogspot.jp/2013_10_01_archive.html
器官なき身体 Corps sans organes
「人間に器官なき身体をつくってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。」
アントナン・アルトー 「神の裁きと決別するため」
アントナン・アルトーは、身体は器官とは別のもので、器官はあらゆる制度や形式や序列や拘束が身体に侵入したものに過ぎないと考え、「身体は器官を必要としない」と宣言した。
誰にも侵されていないはずの身体=「器官なき身体」のみを受け入れることができた。
この身体は器官がないにも関わらず、満ちた身体、充実した身体。
『身体は身体だ/他になにもない/器官などいらない/身体は決して有機体ではない/有機体は身体の敵なのだ』 P.28
「バリの演劇」アントナン・アルトー
『器官は彼の肉に打ち込まれる釘、数々の拷問に等しい。もろもろの〈器官機械〉にむけて、器官なき身体はすべすべした不透明な、はりつめた自分の表面をこれらの器官機械に対抗させる。結び付けられ、接続され、また切断されるもろもろの流れに、器官なき身体は、自分の未分化な不定形の流体を対抗させる。』 P.28
『この器官なき充実身体は、非生産的なるもの、不毛なるもの、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーはいかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。』 P.26
「アンチ・オディプス」 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
この場合の器官はドゥルーズ とガタリによって、機械と解釈されているが、はたして器官は可視化できない事象や感情を含むものではないのか。
器官=機械
器官=感情、事象、作用
消化器官、呼吸器官、生殖器官、それぞれの器官は分離しているわけではなく、身体全体の機能として考えられている。しかし、ドゥルーズ 、ガタリによると、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだという。
『器官なき身体は、根源的な無の証人でもなければ、失われた全体性の残骸でもない。とりわけそれはなにかの投影ではない。固有の身体そのものとは、身体のイメージとは無関係である。それはイメージのない身体なのである。それは非生産的なものでそれが生産されるまさにその場所に、二項的ー線型的系列の第三の契機において存在する。(中略)器官な充実身体は、反生産の領域に属している。しかし、生産を反生産に、また反生産の一要素に連結することは、やはり接続的総合のひとつの特性なのである。』 P.27
「アンチ・オディプス」 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
アルトーが言うように、固有の身体は、身体のイメージとは無関係である。それはイメージのない身体なのである。アルトーは充実身体というものを見ていた。そしてそれには魂が存在する。
『「私はあやゆる流れるものを愛する。あの月経の流れさえも。受精しなかった卵を運ぶあの月経の流れさえも・・・・。」ミラーは彼の欲望の賛歌においてこう言っている。羊水の袋と腎臓の結石。毛髪の流れ、涎の流れ、精液。糞、尿の流れ。これらの流れはもろもろの部分対象によって生産され、またたえず他の部分対象によって切断され、これがまた他の流れを生産し、生産された流れはまた別の部分対象によって再び切断される。あらゆる「対象」は流れの連続を前提とし、あらゆる流れは対象の断片化を前提としている。おそらく、それぞれの 〈器官機械〉 は、自分の流れにしたがって、自分自身から流れ出すエネルギーにしたがって、世界全体を解釈する。眼はあらゆることを、語ることも、聞くことも、排便することも、性交することも、見るという言葉で解釈する。』 P.22
「アンチ・オディプス」 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
分泌物の流れ、つまり、よだれや髪や排泄物による「流れ」、が存在する。
あらゆるものには流れがあるのである。
しかしひとつの機械は他の機械の流れを切断し、あるいは自分の流れが他の機械によって切断される。いたるところに連結と接続を伴う機械があり、機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。
〈欲望的生産〉 とは生産し再生産する、根源的な普遍的生産であり、欲望機械とは連合的体制をそなえた機械である。連続する流れと断片化された部分対象との間に、欲望はたえず、連結を実現する。欲望は流れ、そして切断する。
『「機械と少年」というリチャード・リンドナーの絵では、大きな太った少年が、自分の小さな欲望機械のひとつを巨大な技術的社会的機械に接木し、これを作動させている。』 P.24
「アンチ・オディプス」 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
Boy with Machine Richard Lindner
レヴィ=ストロースはブリコラージュを規定するとき、緊密に結びついた諸特性の総体としてそれを提案している。すなわち、多数のちぐはぐな、限られたストックやコートを持っていること。もろもろの断片を、たえず新しい断片化に導く能力を持つこと。したがって生産する働きと生産物は区別されず、用いる道具の全体と、実現すべき仕事の全体も区別されない。(「野生の思考」レヴィ=ストロース P.28) P.24
「アンチ・オディプス」 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/philo/1392654002/537
537 :考える名無しさん:2014/07/24(木) 12:23:10.87 0.net
吉本隆明
「「アンチ・オイディプス」論―ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ批判」(『吉本隆明全集撰』第3巻)
「ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』」(『新・書物の解体学』)
柄谷行人
『探究2』にドゥルーズへの言及あり。以下参考:
観 念
:
普遍性
|
概 一 | 特
・・般___|___殊
念 性 | 性
|
単独性
(柄谷行人『探究2』より)
<たとえば、ドゥルーズは、キルケゴールの反復にかんして、「反復は、単独なものの普遍性であり、
特殊なものの一般性としての一般性と対立する」といっている(『差異と反復』)。つまり、彼は特殊性
(個)ー一般性(類)の対と、単独性ー普遍性の対を対立させている(図参照)。だが、すでに明らかなように、
これはスピノザが概念と観念を区別したのとほとんど同じことである。>
(柄谷行人『探究2』文庫版150頁)
<…わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりでの一般性と、 特異(サンギュリエ)な
ものに関する普遍性としての反復を対立したものとみなす…>
http://blog.livedoor.jp/captainahab/archives/50551139.html
(『差異と反復』邦訳単行本20頁、文庫上22頁)
(『トランスクリティーク』定本版単行本156頁、文庫150頁)
http://blog.goo.ne.jp/adawalt/e/87f88a695fd372ac63bd8051eee8a890
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ところで,ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』冒頭には
以下のような文章が並んでいる.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<源泉機械>には,<器官機械>がつながれている.
一方の機械は流れを発する機械であるが,他方の機械は,
この発せられた流れを切断する機械である.
乳房は母乳を生産する機械であり,口はこの機械に連結されている機械である.
食思欠損症の口は,いくつかの機械を前にしてためらっている機械である.
すなわち,食べる機械であるのか,肛門機械であるのか,話す機械であるのか,
呼吸する機械であるのか(この場合には喘息の発作が起こる)を決めかねているのだ.
だから,ひとはすべてなんでも器用にこなす存在なのである.
<エネルギー機械>に対して,<器官機械>があることは,常に流れと切断とがあることである.
シュレーバー控訴院長は,尻の中に太陽光線を持っている.これは,太陽肛門なのだ.
<それ>は作動するのですから,どうぞ安心を.シュレーバー控訴院長は何かを感じ,
何かを生産し,そしてこの何かの理論を形成することができる.何かが生産される.
この何かは機械が生み出した結果であって,単なる隠喩なのではないのである.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(引用は文庫版ではなくて市倉宏祐訳,改行は適当)
「乳房は母乳を生産する機械」もまずいですね,(日本の)政治的には.
『アンチ・オイディプス』は現代思想の極地のひとつ.
なんだこれ?と気になった人は,本屋で立ち読みしてみて下さい.
河出文庫から出ています.
フロイト、バタイユ参照
前スレより
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/philo/1392654002/537
537 :考える名無しさん:2014/07/24(木) 12:23:10.87 0.net
吉本隆明
「「アンチ・オイディプス」論―ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ批判」(『吉本隆明全集撰 政治思想』第3巻)
「ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』」(『新・書物の解体学』)
特に前者は自分を唯心論、D&Gを唯物論と率直に位置付けていて興味深い。
後者は文庫化されたはずだが前者は入手困難なのが残念。
吉本のアンチオイディプス評は、率直な読みとしてこの本のもっとも優れた批評だと思う。
スターリン的云々というのが唐突だが、哲学史的な知識と無関係に独立して読める。
《…わたしが『共同幻想論』でやったことは、この
本でD—Gのやったのと、まったく反対のことだった。国家や社会体は「共同幻想」であり、家族は「対幻想」
であり、個人は「個人幻想」であり、この三つはまったく異なる次元の幻想として扱われなければならない。こ
の著者たちか「一切は機械をなしている」と述べているのになぞらえていえば「一切は幻想をなしている」とい
うのがわたしの理念の生産であった。この本の著者たちがいうように「一切は機械をなしている」というのが唯
物論的だとすれば、わたしは極度の観念論的だということになるし、著者たちからわたしの「対幻想」の分離と
設定が反動的にみえるとすれば、その度合に応じて、わたしの方からはD—Gたちはスターリン的マルクス主義
のラジカルな変種にみえることになる。
D—Gが人体機械が欲望を生産するというとき「機械」も「欲望」も実在理念としてかんがえられている。ま
た「無意識」が欲望を生産する機械だというときに、この無意識は父ー母—子のオイディプスに育まれたのでは
なく孤児的なものだと主張されている。
こどもは、その最も幼いころからまるまる欲望するひとつの生命である。つまり、家庭的でない仕方で欲望の
諸対象や諸機械との間に結ばれた、ひとまとまりの関係そのものである。…
…無意識は孤児であり〔両親をもたず〕、無意識自身は自
然と人間とが一体であるところに生産されるものである…。》
「『アンチ・オイディブス』論」(『吉本隆明全集撰3 政治思想』590-1頁より)
訂正→反動的
吉本の『アンチ・オイディプス』評は、率直な読みとしてこの本のもっとも優れた批評だと思う。
スターリン的云々というのが唐突だが、哲学史的な知識と無関係に独立して読める。
《…わたしが『共同幻想論』でやったことは、この
本でD—Gのやったのと、まったく反対のことだった。国家や社会体は「共同幻想」であり、家族は「対幻想」
であり、個人は「個人幻想」であり、この三つはまったく異なる次元の幻想として扱われなければならない。こ
の著者たちが「一切は機械をなしている」と述べているのになぞらえていえば「一切は幻想をなしている」とい
うのがわたしの理念の生産であった。この本の著者たちがいうように「一切は機械をなしている」というのが唯
物論的だとすれば、わたしは極度の観念論的だということになるし、著者たちからわたしの「対幻想」の分離と
設定が反動的にみえるとすれば、その度合に応じて、わたしの方からはD—Gたちはスターリン的マルクス主義
のラジカルな変種にみえることになる。
D—Gが人体機械が欲望を生産するというとき「機械」も「欲望」も実在理念としてかんがえられている。ま
た「無意識」が欲望を生産する機械だというときに、この無意識は父—母—子のオイディプスに育まれたのでは
なく孤児的なものだと主張されている。
こどもは、その最も幼いころからまるまる欲望するひとつの生命である。つまり、家庭的でない仕方で欲望の
諸対象や諸機械との間に結ばれた、ひとまとまりの関係そのものである。…
…無意識は孤児であり〔両親をもたず〕、無意識自身は自
然と人間とが一体であるところに生産されるものである…。》
「『アンチ・オイディブス』論」(『吉本隆明全集撰3 政治思想』590-1頁より)
価値は潜在的かつ実在的、価格は現実的かつ可能的。
ただし前者は現実的=使用価値、可能的=交換価値に転化する。
問題は潜在的かつ可能的なもの=Xの名前を我々が知らないことだ。
邦訳『分裂分析的地図作製法』(ガタリ、Felix Guattari. Cartographies Schizoanalytiques)
50頁の図を改変するなら、以下になる。
実在的
(使用価値)| 価値
現実的__|___潜在的
(交換価値)|
価格 | X
可能的
「マルクス-フロイトの平行論」はAO第一章(邦訳単行本だと44頁)で
自ら否定しているものだ。だがなぜ自らが否定する方法を選んだのか?タネ明か
しは『千のプラトー』の序にある。
「われわれみんなが求めている<多元論>=<一元論>という魔術的等式に、
敵であるすべての二元論を経由して到達すること。」(邦訳単行本34頁)
スピノザの平行論を使ってライプニッツの多元論に至るというプログラム。
ここではじめてスピノザとライプニッツが総合されるのだ。
エディプス的三角形には金子光晴のように円環で対抗しなくてはならない
富士?
徴兵を拒否する姿勢
ガタリの思考回路は
カントに近い
ドゥルーズは多元的なスピノチスト
唯物論=汎神論という図式が両者をつなげている
邦訳『分裂分析的地図作製法』(ガタリ、Felix Guattari. Cartographies Schizoanalytiques)
50頁の図を改変するなら、以下になる。
実在的
|
現実的__|___潜在的
|
|
可能的
これはカントのカテゴリー論と相似。柄谷とも近いが柄谷右下をX、空白にすることで
神秘主義を避ける
邦訳『分裂分析的地図作製法』(ガタリ、Felix Guattari. Cartographies Schizoanalytiques)
50頁の図を改変するなら、以下になる。
実在的
|
現実的__|__潜在的
|
|
可能的
これはカントのカテゴリー論と相似。柄谷とも近いが柄谷右下をX、空白にすることで
神秘主義を避ける
邦訳『分裂分析的地図作製法』(ガタリ、Felix Guattari. Cartographies Schizoanalytiques)
50頁の図を改変するなら、以下になる。
実在的
|
現実的__|__潜在的
|
|
可能的
これはカントのカテゴリー論と同じだ。
柄谷とも近いが柄谷は右下をX、空白にすることで神秘主義を避ける
邦訳『分裂分析的地図作製法』(ガタリ、Felix Guattari. Cartographies Schizoanalytiques)
50頁の図を改変するなら、以下になる。
実在的
|
現実的__|__潜在的
|
|
可能的
これはカントのカテゴリー論と同じだ。
柄谷とも近いが柄谷は右下をX、空白にすることで神秘主義を避ける
ドゥルーズはこの図を別方向から見る
内部から、斜めから
内部から見る時はベルクソンに
斜めから見るときはスピノザに依拠する
細部を見る時はライプニッツか?
邦訳『分裂分析的地図作製法』(ガタリ、Felix Guattari. Cartographies Schizoanalytiques)
50頁の図をわかりやすく改変するなら、以下になる。
実在的
|
現実的__|__潜在的
|
|
可能的
これはカントのカテゴリー論と同じだ。
柄谷とも近いが柄谷は右下をX、空白にすることで神秘主義を避ける
ドゥルーズはこの図を別方向から見る
内部から、斜めから
内部から見る時はベルクソンに
斜めから見るときはスピノザに依拠する
細部を見る時はライプニッツか?
邦訳『分裂分析的地図作製法』(ガタリ、Felix Guattari. Cartographies Schizoanalytiques)
50頁の図をわかりやすく改変するなら、以下になる。
実在的
|
現実的__|__潜在的
|
|
可能的
これはカントのカテゴリー論の構図と同じだ。
柄谷とも近いが柄谷は右下をX、空白にすることで神秘主義を避ける
ドゥルーズはこの図を別方向から見る
内部から、斜めから
内部から見る時はベルクソンに
斜めから見るときはスピノザに依拠する
細部を見る時はライプニッツか?
あと、レヴィストロースとの論争の後サルトルが構造主義について語った
インタビューから彼の考えがよく出ている箇所を抜き書きしておきましょう。
《たしかに構造的分析は、血縁関係の複雑な組織や古代社会における神話のん
意味をよりよく理解することを可能にします。しかしながら、レヴィ=スト
ロースが考え、実行している構造主義とは、たとえば神話のように、すでに
構成済みの体系にしか適用されないという意味で、現在みられる歴史への
不信に大いに与って力があったのです。》
《人々は、たびたび私の〈歴史主義〉について非難します。ある人々の言う
ところによれば、私は人間と主体とを何の媒介もなしに歴史の広大で不分明
な動きの中に投じているということになります。しかし私はけっしてそんな
ことを言ったことはありません。人間とは、私にとって構造の産物ではあ
りますが、しかし同じ程度に構造を乗り越えるものなのです。こう言った
ほうが良ければ、歴史の停止の相があり、それが構造なのです。人間は諸構
造を受け取ります。−そしてこの意味で諸構造は、人間を作るということが
できるのです。しかし、人間は自分が歴史に参加している限りにおいて、
それらのものを受け取るので、その参加の仕方の結果、彼はそれらを破壊
して新しい構造を作り出し、今度はそれが彼を条件づける、というふうに
ならざるをえないのです。》「構造主義について」1964年
下3:10
階級の2極性
p307単
http://6305.teacup.com/mappen/bbs/9190
「レーニンやロシア革命の巨大なる成果は、客観的存在(つまり、客観的利益)に合致した階級意識を鍛えあげ、その結果、階級が両極に分かれるのを資本主義の国々に承認せしめたことであった。ところが、レーニン主義のこの偉大なる切断は、『国家』資本主義が社会主義そのものの中に甦ることを妨げなかったし、また同じく古典的資本主義が、まことに文字通りもぐらのように土を掘りかえす仕事を続けながらたえず切断の切断を実現して、このレーニン主義の切断を回避することをも妨げなかった。じじつ、(資本主義によっても、公式の社会主義によっても、同じく統制されることのない)革命的諸要素は、こうした切断の切断によって遥か彼方の周辺や飛び地に吐きだされてしまい、このためんに古典的資本主義にとっては、新しく認められた階級の種々の地区を自分の公理系の中に統合することが可能となったからである。レーニン主義と古典的資本主義とが対立する場合には、選択が残されているのは、もはや次の新旧二つの公理系の間においてでしかない。すなわち、<社会主義『国家』の、早くも飽和してテロルの様相をもった厳格な新しい公理系>と、<資本主義『国家』の、柔軟で決して飽和されることのないだけにそれだけ危険な、古い厚顔無恥の公理系>との間においてでしかない。しかし、じつは、最も直接的なる問題は、産業社会が次のものなしですますことが可能であるかどうかを知ることではない。つまり、剰余価値物なしで、剰余生産物なしで、すますことが可能であるかどうかを知ることではない。こうした問いの答えが否であることは明らかであるが、同時にまた、こうしたことばで提起された問題は問題が適切な仕方で提起されていないということも明らかである。また、最も直接的なる問題は、党や『国家』の中に具体化された階級意識が客観的な階級利益を裏切ることがあるか、ないか、を知ることでもない(この客観的な階級利益といわれるものは、一種の自発性を潜在的に具えたものとされているが、この自発性は、この階級利益を代表すると主張する種々の決定機関によって窒息させられているからである)。『弁証法的理性批判』におけるサルトルの分析によれば、階級の自発性というものは存在せず、ただ『集団』の自発性のみが存在するにすぎないということであるが、この分析はわれわれには極めて正当であるように思われる」(「アンチ・オイディプス・第三章・第十節・資本主義の表象」)
下3:10
階級の2極性
p307単
http://6305.teacup.com/mappen/bbs/9190
「レーニンやロシア革命の巨大なる成果は、客観的存在(つまり、客観的利益)に合致した階級意識を鍛えあげ、その結果、階級が両極に分かれるのを資本主義の国々に承認せしめたことであった。ところが、レーニン主義のこの偉大なる切断は、『国家』資本主義が社会主義そのものの中に甦ることを妨げなかったし、また同じく古典的資本主義が、まことに文字通りもぐらのように土を掘りかえす仕事を続けながらたえず切断の切断を実現して、このレーニン主義の切断を回避することをも妨げなかった。じじつ、(資本主義によっても、公式の社会主義によっても、同じく統制されることのない)革命的諸要素は、こうした切断の切断によって遥か彼方の周辺や飛び地に吐きだされてしまい、このためんに古典的資本主義にとっては、新しく認められた階級の種々の地区を自分の公理系の中に統合することが可能となったからである。レーニン主義と古典的資本主義とが対立する場合には、選択が残されているのは、もはや次の新旧二つの公理系の間においてでしかない。すなわち、<社会主義『国家』の、早くも飽和してテロルの様相をもった厳格な新しい公理系>と、<資本主義『国家』の、柔軟で決して飽和されることのないだけにそれだけ危険な、古い厚顔無恥の公理系>との間においてでしかない。しかし、じつは、最も直接的なる問題は、産業社会が次のものなしですますことが可能であるかどうかを知ることではない。つまり、剰余価値物なしで、剰余生産物なしで、すますことが可能であるかどうかを知ることではない。こうした問いの答えが否であることは明らかであるが、同時にまた、こうしたことばで提起された問題は問題が適切な仕方で提起されていないということも明らかである。また、最も直接的なる問題は、党や『国家』の中に具体化された階級意識が客観的な階級利益を裏切ることがあるか、ないか、を知ることでもない。「この客観的な階級利益といわれるものは、一種の自発性を潜在的に具えたものとされているが、この自発性は、この階級利益を代表すると主張する種々の決定機関によって窒息させられているからである」。『弁証法的理性批判』におけるサルトルの分析によれば、階級の自発性というものは存在せず、ただ『集団』の自発性のみが存在するにすぎないということであるが、この分析はわれわれには極めて正当であるように思われる」(「アンチ・オイディプス・第三章・第十節・資本主義の表象」)
主体か構造かという論争はラカンがひとり二役で引き継いだ。
(ドゥルーズは初期サルトルを絶賛してはいるが、)
ドゥルーズの構造主義論でもラカンが中心であり、
ドゥルーズにとってはラカンがより重要だ。
ちなみに柄谷は初期サルトルをデリダと対応するものとしている。
ドゥルーズは初期サルトルを絶賛する。
そしてその構造主義論ではレヴィ=ストロースではなくラカンを中心に論じている。
(ラカンが構造か主体かの議論を引き継いだからだろう)
ドゥルーズ的にはラカンが重要だ、ということだ。
歴史的には主体か構造かという論争はラカンがひとり二役で引き継いだ。
(ドゥルーズは初期サルトルを絶賛してはいるが、)
ドゥルーズの構造主義論でもラカンが中心であり、
ドゥルーズにとってはラカンがより重要だ。
ちなみに柄谷は初期サルトルをデリダと対応するものとしている。
(ドゥルーズにとって表象の問題はさほど重要ではない。欲望は機会的仕組み
であり、表象のなかに閉じ込められない(AO4:3参照))
ドゥルーズは初期サルトルを絶賛する。
そしてその構造主義論ではレヴィ=ストロースではなくラカンを中心に論じている。
(ラカンが構造か主体かの議論を引き継いだからだろう)
ドゥルーズ的にはラカンが重要だ、ということだ。
歴史的には主体か構造かという論争はラカンがひとり二役で引き継いだ。
(ドゥルーズは初期サルトルを絶賛してはいるが、)
ドゥルーズの構造主義論でもラカンが中心であり、
ドゥルーズにとってはラカンがより重要だ。
ちなみに柄谷は初期サルトルをデリダと対応するものとしている。
(ドゥルーズにとって表象の問題はさほど重要ではない。欲望は機会的仕組み
であり、表象のなかに閉じ込められない(AO4:3冒頭参照))
歴史的には主体か構造かという論争はラカンがひとり二役で引き継いだ。
(ドゥルーズは初期サルトルを絶賛してはいるが、)
ドゥルーズの構造主義論でもラカンが中心であり、
ドゥルーズにとってはラカンがより重要だ。
ちなみに柄谷は初期サルトルをデリダと対応するものとしている(ダイアローグ2)。
(ドゥルーズにとって表象の問題はさほど重要ではない。欲望は機会的仕組み
であり、表象のなかに閉じ込められない(AO4:3冒頭参照))
歴史的には主体か構造かという論争はラカンが一人二役で引き継いだ。
(ドゥルーズは初期サルトルを絶賛してはいるが、)
ドゥルーズの構造主義論でもラカンが中心であり、
ドゥルーズにとってはラカンがより重要だ。
ちなみに柄谷は初期サルトルをデリダと対応するものとしている(ダイアローグ2)。
(ドゥルーズにとって表象の問題はさほど重要ではない。欲望は機械的仕組み
であり、表象のなかに閉じ込められない(AO4:3冒頭参照))
主体か構造かの問いを一身に受け継いだラカンは、精神分析の組織に飲み込まれた
ドゥルーズはさらに主体か構造かの問いをラカンから受け継いだ
ドゥルーズの解決策は特異で、汎神論的唯物論、独我論的唯物論といったものだった
主体と構造(他者と言い換えられる)はSF小説のように肥大化することで一致するのだ
ただし、主体とと構造を形成する最小単位である分子は常に流動的である
主体か構造かの問いを一身に受け継いだラカンは、精神分析の組織に飲み込まれた
同じ課題を受け継いだドゥルーズはどうしたか?
ドゥルーズの解決策は特異で、汎神論的唯物論、独我論的唯物論といったものだった
主体と構造(他者と言い換えられる)はSF小説のように肥大化することで一致するのだ
ただし、主体とと構造を形成する最小単位である分子は常に流動的である
主体か構造かの問いを一身に受け継いだラカンは、精神分析の組織に飲み込まれた。
同じ課題を受け継いだドゥルーズはどうしたか?
ドゥルーズの解決策は特異で、汎神論的唯物論、独我論的唯物論といったものだった。
主体と構造(他者と言い換えられる)はSF小説のように肥大化することで一致するのだ。
ただし、主体「と」構造を形成する最小単位である分子は常に流動的であり、
誰とでも接続する。
主体か構造かの問いを一身に受け継いだラカンは、精神分析の組織に飲み込まれた。
同じ課題を受け継いだドゥルーズはどうしたか?
ドゥルーズの解決策は特異で、汎神論的唯物論、独我論的唯物論といったものだった。
主体と構造(他者と言い換えられる)はSF小説のように肥大化することで一致するのだ。
ただし、主体「と」構造をとを共に形成する最小単位である分子は常に流動的であり、
誰とでも接続する。
主体か構造かの問いを一身に受け継いだラカンは、精神分析の組織に飲み込まれた。
同じ課題をラカンからさらに受け継いだドゥルーズはどうしたか?
ドゥルーズの解決策は特異で、汎神論的唯物論、独我論的唯物論といったものだった。
主体と構造(他者と言い換えられる)はSF小説のように肥大化することで一致するのだ。
ただし、主体「と」構造をとを共に形成する最小単位である分子は常に流動的であり、
誰とでも接続する。
主体か構造かの問いを一身に受け継いだラカンは、精神分析の組織に飲み込まれた。
同じ課題をラカンからさらに受け継いだドゥルーズはどうしたか?
ドゥルーズの解決策は特異で、汎神論的唯物論、独我論的唯物論といったものだった。
主体と構造(他者と言い換えられる)はSF小説のように肥大化することで一致するのだ。
ただし、主体「と」構造とを共に形成する最小単位である分子は常に流動的であり、
誰とでも接続する。
主体か構造かの問いを一身に受け継いだラカンは、精神分析の組織に飲み込まれた。
同じ課題をラカンからさらに受け継いだドゥルーズはどうしたか?
ドゥルーズの解決策は特異で、汎神論的唯物論、独我論的唯物論といったものだった。
主体と構造(他者と言い換えられる)はSF小説のように肥大化することで一致するのだ。
ただし、主体「と」構造とを共に形成する最小単位である分子は常に流動的であり、
誰とでも何とでも接続する。
「…してみると、カント哲学はもしかして、オイディプスの後継者ではないだろうか。」(財津訳『差異と反復』、単行本版、p.144)。
差異と反復
ジル・ドゥルーズ
財津 理 訳
河出書房新社 ISBN4-309-23029-6
pp.143-144.
第二章 それ自身へ向かう反復
ひび割れた《私》、受動的な自我、そして時間の空虚な形式
デカルトは、《コギト》を瞬間に帰し、時間を排除することによって、あるいは連続創造を行う神にその時間を委ねることによって、はじめて結論を出すことができた。 一般的に言うなら、〔デカルトにおける〕《私》の前提的な同一性の保証は、神自身の一性にほかならないのである。 そのようなわけで、《私》が、まさしく神に負っている同一性を保持するかぎり、〔中世的な〕「神」の視点のかわりに〔近代的な〕《私》の視点を〔デカルトが〕用いたということの重要性は、世間で言われているよりもはるかに小さいのである。 《私》が、神との類似を余すところなく表現するおのれの存続、単純性、同一性を所有するかぎり、神は生き続けるということになる。 逆に言うなら、神が死ねば、《私》の同一性は存続せず、反対に、《私》のうちにおいて、本質的な非類似が、「印の消去(デマルク)〔投げ売り用の商標外し〕」が、神の印(マルク)〔商標〕あるいは刻印のかわりに創設され内化されるのである。 これこそ、カントが、少なくとも一度は、つまり『純粋理性批判』において、きわめて深く見抜いたことである。 すなわち、合理的神学と合理的心理学の同時的消滅、および神の思弁的な死が《私》の亀裂を惹起するその仕方。 〔『純粋理性批判』における〕先験的哲学の最高の主導性が、思考そのものに時間の形式を持ち込むことにあるとするならば、今度はこの形式が、純粋で空虚な形式であるかぎりにおいて、死んだ神と、ひび割れた《私》と、受動的な自我を、破棄できないかたちで意味するのである。 カントはその主導性を徹底していない、というのは確かである。 というのも、神と《私》は、〔『実践理性批判』における〕実践的な復活を体験するからである。 しかも〔『純粋理性批判』における〕思弁的な領域においてさえ、その亀裂は、新たな形式の同一性によって、つまり能動的な総合的同一性によってたちまち埋め合わされてしまい、その一方において受動的な自我は、受容性によって定義されるにすぎず、そのかぎりにおいて、いかなる総合の力能もそなえていないからである。 反対に、すでにわたしたちが見たとおり、もろもろの触発を受け取るキャパシティーとしての受容性は、ひとつの結果でしかなく、そして、受動的な自我は、それ自体受動的な総合(観照-縮約)によって、さらに深いところで構成されるのである。 もろもろの印象や感覚を受け取る可能性は、そうした受動的な総合に由来しているのだ。 カントによる総合と受動性の割りふりは、表象=再現前化の世界を救うための至高の努力である以上、それを維持するわけにはいかないのである。 すなわち、カントによるそのような割りふりにおいて、総合は、能動的なものとして考えられ、《私》における新しい形式の同一性に依拠し、受動性は、総合なき単純な受容性として考えられている。 いま言及したカント的な主導性が繰り返されうるのは、そして時間の形式が死んだ神とひび割れた《私》を同時に維持するのは、受動的な自我に関するまったく別の評価においてである。 そうした意味において、カント哲学の帰趨は、フィヒテあるいはヘーゲルにではなく、ひとりへルダーリンのみにあると言ってよい。 というのも、ヘルダーリンは、純粋時間の空虚〔な形式〕を発見し、この空虚のなかに、神的なものからの連続的な逸脱〔転回〕と、《私》に走る長い亀裂と、そして《自我》を構成する受苦〔受動〕を同時に発見しているからである。ヘルダーリンは、そのような時間の形式のなかで、オイディプスの悲劇と冒険の本質とを、相補的な諸形態をそなえたひとつの死の本能として見てとったのである。 してみると、カント哲学はもしかして、オイディプスの後継者ではないだろうか。
《われわれが、一方に種々の社会機械や技術機械の無意志を、他方
に欲望する諸機械の無意識を定立するとき、問題であるのは、
複雑に結びついている次の二つの力の間の必然的な関係であ
る。そのひとつは、無意識を生みだす要素的なる諸力であり、
いまひとつは、これらの要素的なる諸力に反作用を及ぼす種
種の合力(つまり、統計学的な諸集合)である。これらの統
計学的な諸集合を通じて、無意識は自分を表象することにな
り、早くも無意識自身は自分の生産的な要素的なる諸力の抑
制抑圧を蒙ることになるわけなのである。》
(A.O邦訳単行本338頁4:2「分子的無意識」より「欲望と機械」末尾)
これはガタリの意見だろうが、狭義の統計学批判と読める。
表象ではなく抑圧がキーワードだ。
/|\
/ | \
/ | \
ア/ | \
イ/----|----\
ノ/ 大地の|身体 \分
ラ/ | \裂
パ/ | \症
/--------|--------\
/ 専制君主の|身体 \
/ 資本の|身体 \
/-----------|-----------\
/ | \
↙︎____モル的諸集合___⚫️___分子的諸要素____↘︎
器官なき|充実身体
a図 ↓
大地の身体
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| \ |
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| \| 専制君主の身体
| | _____
|_____|\| |
△ | |
o |\ |
| \ |
| \ |
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o | \|〈貨幣-資本〉の身体
| | _____
|_____|\| |
△ | |
o |\ |
o | \ |
| \ |
専制君主の | \ |
o 臨床実体と | \| 器官なき充実身体
しての o | | _____
土地の パラノイア |_____|\| |
臨床実体 精神病 △ | |
としての o 家庭の o |\ |
倒錯 o 臨床実体 | \ |
としてのo | \ |
o オイディプス | |\ |
的神経症 | | \|
o o | | |
o |_*|__|\
o ooo| \
o o o oo| 脱 \
o o o| 症 土 \
o o | 的 地 ↘︎
o | 過 化
o o | 程 の
o o | 分
b図 臨床実体としての分裂症化 裂
《一般的な臨床の見地からすれば、バラノイアと分裂症とは、充実身体としての社会体を(極限においていえば、
器官なき身体を)中心にして左右にゆれる振子の振幅の二辺に対応するものとして説明することができる〔a図参照〕。こ
の二辺のー方の側面は、種々のモル的な集合によって占められており、他方の側面は、種々の分子的要素によって住まわ
れている。しかし、また同時に、一線上に並ぶ三つの異なる社会体を貫くただー本の線によってこの事態を示すこともで
きる〔b図参照〕。つまり、社会体のそれぞれの局面とその局面の大集合がこの線上に並べられる。それぞれの局面には
〈倒錯のもうひとつの別の次元〉、「バラノイアのある次元〉、〈ある型の家庭の位置〉の三者が配当され、さらに逃走〔漏
出〕線すなわち分裂気質の突破線が点線で示される。軸線は、器官なき身体に到達する。ところが、そこでこの軸線が
壁を通り抜けるか、それとも壁に当ってはねかえるか*、することになる。》(邦訳単行本337頁4:1「社会野」より)
専制君主l大地
-----十---
貨幣=資本lCsO(→パラノ)
差異と反復と違って個体化は主要なテーマではない
哲学の舞台は劇場から機械へ移る
aからbへの移行は、スピノザからカント批判哲学(ガタリはカントのカテゴリー論を踏まえている)
への以降に対応する
差異と反復と違って個体化は主要なテーマではない
哲学の舞台は劇場から機械へ移る
以下の柄谷モデルの方がわかりやすい
専制君主l大地
-----十---
貨幣=資本lCsO(→パラノ)
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ア/ | \
イ/----|----\
ノ/ 大地の|身体 \分
ラ/ | \裂
パ/ | \症
/--------|--------\
/ 専制君主の|身体 \
/ 資本の|身体 \
/-----------|-----------\
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↙︎____モル的諸集合___⚫️___分子的諸要素____↘︎
器官なき|充実身体
a図 ↓
http://2.bp.blogspot.com/-ffARZ1hq-Lw/UNM-6on8QCI/AAAAAAAAHUs/AR2r_mD7mH8/s1600/universal+history_Anti-Oedipus.jpg
大地の身体
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o 臨床実体と | \| 器官なき充実身体
しての o | | _____
土地の パラノイア |_____|\| |
臨床実体 精神病 △ | |
としての o 家庭の o |\ |
倒錯 o 臨床実体 | \ |
としてのo | \ |
o オイディプ | |\ |
ス的神経症 | | \|
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o o o oo| 脱 \
o o o| 症 土 \
o o | 的 地 ↘︎
o | 過 化
o o | 程 の
b図 o o ↓ 分
臨床実体としての分裂症化 裂
https://smoothspaces.files.wordpress.com/2010/12/bwo.gif
《一般的な臨床の見地からすれば、バラノイアと分裂症とは、充実身体としての社会体を(極限においていえば、
器官なき身体を)中心にして左右にゆれる振子の振幅の二辺に対応するものとして説明することができる〔a図参照〕。こ
の二辺のー方の側面は、種々のモル的な集合によって占められており、他方の側面は、種々の分子的要素によって住まわ
れている。しかし、また同時に、一線上に並ぶ三つの異なる社会体を貫くただー本の線によってこの事態を示すこともで
きる〔b図参照〕。つまり、社会体のそれぞれの局面とその局面の大集合がこの線上に並べられる。それぞれの局面には
〈倒錯のもうひとつの別の次元〉、「バラノイアのある次元〉、〈ある型の家庭の位置〉の三者が配当され、さらに逃走〔漏
出〕線すなわち分裂気質の突破線が点線で示される。軸線は、器官なき身体に到達する。ところが、そこでこの軸線が
壁を通り抜けるか、それとも壁に当ってはねかえるか*、することになる。》(邦訳単行本337頁4:1「社会野」より)
aからbへの移行、フィードバック装置の作動は、スピノザからカント批判哲学(ガタリはカントの
カテゴリー論を踏まえている)への以降に対応する
差異と反復と違って個体化は主要なテーマではない
哲学の舞台は劇場から機械へ移る
ただし、以下の柄谷モデルの方がわかりやすい
専制君主l大地
-----十---
貨幣=資本lCsO(→パラノ)
マルクスを崇拝する人間はマルクスを理解していないし、
馬鹿にする人間は読んでない
ドゥルーズA.Oでマルクスについての原注をめくってみると、
なぜかフーコー『言葉と物』について書いてある。
これはドゥルーズ/ガタリがフーコー経由でマルクスを理解したということだ
フーコーのマルクス理解は本物で、例えば、資本論第二部について「複数の権力」が
あることを示していると指摘するなど、的確だ。
リカードとの関係性の把握も正しい。吉本との対談でもわかるように、
経済学の歴史性をわかっている。
ドゥルーズはアナーキストであり、マルクスとは資質的に逆だ。
資本の分析が足りないという意味でマルクスの偉大さについて語ったが、
本を仕上げるつもりはなかったと思う。
マルクスを崇拝する人間はマルクスを理解していないし、
馬鹿にする人間は読んでない
だから状況は絶望的なのだが例外もある*
ドゥルーズA.Oでマルクスについての原注をめくってみると、
なぜかフーコー『言葉と物』について書いてある。
これはドゥルーズ/ガタリがフーコー経由でマルクスを理解したということだ
フーコーのマルクス理解は本物で、例えば、資本論第二部について「複数の権力」が
あることを示していると指摘するなど、的確だ。
リカードとの関係性の把握も正しい。吉本との対談でもわかるように、
経済学の歴史性をわかっている。
基本的にドゥルーズはアナーキストであり、マルクスとは資質的に逆だ。
晩年、資本の分析が足りないという意味でマルクスの偉大さについて語ったが、
本を仕上げるつもりはなかったと思う。
マルクス及びその後のマルクス主義の問題点は柄谷『世界史の構造』に引用された
プルードンとの往復書簡にすべて書きつくされている
*
カレツキは数少ない例外だ
エンゲルスはデューリングを真似て弁証法を作り上げた
マルクスもプルードンを真似て経済決定論を展開した
対してドゥルーズは影響を受けた先達やライバルに対してフェアだ
少なくとも盗んでおいてその相手を批判するようなことはしていない
(プラトンやカントなど敵とみなされる人の扱いがうまい。敵の歌を歌うことが出来るのだ。)
生前精神分析を受けたことがないと言っていたが、その必要がなかった
無人島上に収録された「彼は私の師だった」も、
サルトルに対して実にフェアだ
『記号と事件』冒頭の若いストーカーへの対応もフェアといえばフェアだ
最近浅田彰が言った言葉「素直が一番」が想起される
ただし、ウィトゲンシュタインに対してだけは、、、、、、、
今度ABCを見て確認したい
市倉訳邦訳単行本508頁、原注(22)。
対応する本文は同360頁、第四章第3節「精神分析と資本主義」(単行本352~,文庫版下152~)内の、
「いかなる(文庫版:どんな)意味で、精神分析は表象を破壊し、どんな意味でそれを再建するのか。
資本主義の要求」の項のラスト=
「神話的表象。悲劇的表象。精神分析的表象(神話的、悲劇的、精神分析的表象)」の項の直前。
以下該当箇所引用。
《…換言すれば、資本主義は、たしかに、普遍的内的本質としての
生産というものを確立するために、規定されたー定の大きな
客観的表象の崩壊をもたらしたわけであるが、しかしこの資
本主義は、そのために、表象の世界から逃れでたというわけ
なのではない。この資本主義は、この世界に無限の主観的表
象という新しい形態を与えて、この世界のー大変換を操作し
ているだけのことなのである。(22)》(A.O市倉訳単行本360頁)
直前の同段落内において、マルクスの言葉が自由間接話法的に紹介
されていた(《マルクスは、次のようにいって一切を要約している…
「かつては、人間は自分自身の外に外在し、人間の状態はじっさいに
疎外された状態であった。いまやこの状態が、疎外され没収されてゆく
働きに変わったのだ」…》同359頁)。
これに対する原注が、
《(22)フーコーが指摘していることは、次のことである。「人文
諸科学」はその原理を生産の中に見いだし、表象が破綻した
ところに構築されたものであるが、しかし、これらの人文諸
科学は、無意識の表象といったものとして新しい型の表象を
再建しているのだ、ということである。(Les Mots et les
choses, pp. 363-378).》(同508頁)
直前のマルクスの言葉に対しての原注はない。また本文の一連の流れの
なかにはフーコーの名前はない。表象と資本主義とを同時に批判してい
るのだが、『言葉と物』におけるフーコーのマルクス理解に関しては、
『世界認識の方法』等に所収された吉本との対談がやはり参考になる。
_______
>《「かつては、人間は自分自身の外に外在し、人間の状態はじっさいに
>疎外された状態であった。いまやこの状態が、疎外され没収されてゆく
>働きに変わったのだ」…》(A.O第四章第3節内邦訳単行本359頁)。
参考:
《生産物の形を取った労働者の外化は、かれの労働が対象となり外的存在となるという意味をもつ
だけでなく、それがかれの外に、かれから独立した疎遠なものとして存在し、独立した力としてかれ
に立ちむかうようになることを、いいかえれば、かれが対象に投入した生命が疎遠なものとしてかれ
に敵対することを意味する。》(長谷川宏訳、マルクス『経済・哲学草稿』「疎外された労働」より)
ただし、ここでドゥルーズ/ガタリはマルクスの名を出す際に、『経哲草稿』ではなく『資本論』
(とその体系)を念頭に置いているように読める(『差異と反復』では『ブリュメール〜』が言及される)。
差異と反復の時点ではアルチュセール経由だったが、
A.Oではフーコー経由になった
それは共に構造主義以降の思考だが、より脱政治主義的な歴史観に基づくものになった
という見たてができる
『差異と反復』の時点ではドゥルーズのマルクス理解はアルチュセール経由だったが、
A.Oではフーコー経由になった。
それは共に構造主義以降の思考だが、より脱政治主義的な歴史観に基づくものになった。
という見たてができる。
ドゥルーズ&ガタリの制度論とマルクス経済学とが呼応するとはどういうことか?
以下はマルクス経済表(生活=人間と機械)、
http://3.bp.blogspot.com/-19fBFbP8WwA/Tq_GZpwzZgI/AAAAAAAADDk/lAm4SlJbWhc/s1600/12.jpg
http://2.bp.blogspot.com/-xuLhbrxVrHI/Tq_GZcWjCMI/AAAAAAAADDY/svEAgSpeGFg/s1600/13.gif (邦訳)
ケネー(上記図下部)からマルクス経済表への変化は以下のA.Oにおける二つの図の間の変化に対応するだろう。
http://1.bp.blogspot.com/-WKESvJNyUas/VOR3wFsrepI/AAAAAAAAqwg/OBfG0nRUVtw/s1600/IMG_08037.jpg
↓
http://3.bp.blogspot.com/-YFO5YVBTofA/VOR3xMeSREI/AAAAAAAAqwo/c7Vdd5yCtxI/s1600/IMG_08038.gif
(邦訳単行本336頁4:1「社会野」より)
両者の図共に斜めの補助線がポイントだ。マルクスの社会制度論「経済学批判序文」と比較するよりも対応がはっきりする。
ただし、マルクスが結果として人間(生活)と機械との間の疎外を強調するのに対し、
ドゥルーズはMan Ray Dancer Danger ↓1920 に仮託して、
http://1.bp.blogspot.com/-kcXl9dnMIcw/VORzKTAvqsI/AAAAAAAAqwU/f5Fo3xR1aKg/s1600/IMG_08036.jpg
こう述べられる。
「人間と機械との間にコミュニケイションを形成…」(邦訳単行本460頁より)
M.Pではこの方向性がさらに推し進められる。
>>708
まったくその通り。マルクスもちゃんと読みさえすれば、、、、
さて、
ドゥルーズ&ガタリの制度論とマルクス経済学とが呼応するとはどういうことか?
以下はマルクス経済表(生活=人間と機械)、
http://3.bp.blogspot.com/-19fBFbP8WwA/Tq_GZpwzZgI/AAAAAAAADDk/lAm4SlJbWhc/s1600/12.jpg
http://2.bp.blogspot.com/-xuLhbrxVrHI/Tq_GZcWjCMI/AAAAAAAADDY/svEAgSpeGFg/s1600/13.gif (邦訳)
ケネー(上記図下部)からマルクス経済表への変化は以下のA.Oにおける二つの図の間の変化に対応するだろう。
http://1.bp.blogspot.com/-WKESvJNyUas/VOR3wFsrepI/AAAAAAAAqwg/OBfG0nRUVtw/s1600/IMG_08037.jpg
↓
http://3.bp.blogspot.com/-YFO5YVBTofA/VOR3xMeSREI/AAAAAAAAqwo/c7Vdd5yCtxI/s1600/IMG_08038.gif
(邦訳単行本336頁4:1「社会野」より)
両者の図共に斜めの補助線がポイントだ。マルクスの社会制度論「経済学批判序文」と比較す
るよりも対応がはっきりする。
ただし、マルクスが結果として人間(生活)と機械との間の疎外を強調するのに対し、
ドゥルーズはMan Ray Dancer Danger ↓1920 に仮託して、
http://1.bp.blogspot.com/-kcXl9dnMIcw/VORzKTAvqsI/AAAAAAAAqwU/f5Fo3xR1aKg/s1600/IMG_08036.jpg
「人間と機械との間にコミュニケイションを形成…」(邦訳単行本460頁より)と述べている。
M.Pではこの方向性がさらに推し進められる。
追記:
『「機械と少年」というリチャード・リンドナーの絵(↓)では、大きな太った少年が、
http://3.bp.blogspot.com/-OhN_ixu3sPA/Uyg2mcKGx8I/AAAAAAAAcns/uAQamtTMXak/s3200/IMG_05861.png
自分の小さな欲望機械のひとつを巨大な技術的社会的機械に接木し、これを作動させている。』
『アンチ・オディプス』(単行本P.19,文庫本P.24)
http://d.hatena.ne.jp/femmelets/touch/20120215/1329232117
ジル・ドゥルーズ「思い出すこと」(聞き手:ディディエ・エリボン、鈴木秀亘訳、『批評空間』誌第II期第9号、太田出版)、p.11-12
〈マルクス〉
私は共産党に入ったことは一度もありません。(精神分析を受けたことも一度もありません。そういったことはすべて免れました。)60年代以前は、自分をマルクス主義者だと思ったこともありません。共産党員にならなかったのは、党が党員の知識人に何をさせていたかを見て知っていたからです。
当時私がマルクス主義者でなかったわけは、つきつめればマルクスを知らなかったからだということもことわっておかなければなりません。
マルクスを読んだのはニーチェと同じ時期でした。素晴らしいと思いました。彼の生み出したさまざまなコンセプトは、私にとって今でも役立つものです。そこにはひとつの批判、根本的な批判が存在しています。『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』はマルクスに、マルクス主義に完全に貫かれた作品です。現在私は、自分を完全にマルクス主義者だと考えています。例えば、「管理社会」について書いた記事は(月刊ロートル・ジュールナル1号 1990年5月号に掲載、ミニュイ社刊『記号と事件』に収録、邦訳河出書房新社)、マルクスが彼の時代には知りえなかったことを語っているにもかかわらず、完璧にマルクス主義的なテクストです。
マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終ったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。
〈著作〉
次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。
〈絵を描くこと〉
私は今もう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を描くでしょう。
マシニズムについて
文庫A・O下p134
「この散逸点(point de dispertion)においては機械は器官であるといっても、あるいは器官は機械である
といってもどちらでもいいことになる。」
4:2
サミュエル・バトラー
AO補遺より
バスター・キートンは、すべての部屋がひとつの部屋の中にある彼の家-機械を、母なき家として提示していた。すなわち、ここでは、あらゆることが欲望機械によって生み出される。たとえば独身者たちの食事(『案山子』一九二〇年)。
Buster.Keaton.-16-.The.Scarecrow.(1920).avi - YouTube
https://m.youtube.com/watch?list=PLMr9gAZ7JUf2uI3aiQKSoVpagFCGx9Z2X&v=D4r0VBxV5jY
バスター・キートンは、『海底王キートン』において、巨大機械を個人的な、またはカップルや小グループの目的に適応させるという問題を提起することができた。
THE NAVIGATOR (1924) -- Buster Keaton - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=wxQUytJTh2A&sns=em
590 名前:考える名無しさん :2015/08/18(火) 00:58:07.70 0≫そのカント論が物自体を重視していないことからわかるように
「カントの批判哲学」では、、物自体の軽視がある。なんてことは初耳だな。
出ているのだけれど、応答がないだけだな。
《かりに諸物自体がまず第一に、そして真実に、理性の他の関心の対象になっていなかったとし
たら、思弁的理性もこれに関心を寄せることはなかったであろう。それゆえ、このいっそう高い
関心とは何か、と我々は問わねばならない。》(中島盛夫訳『カントの批判哲学』)
ちなみに↑は、第一章の結びの文の訳。
ドゥルーズは共通感覚を重視しているので
物自体への言及は極めて少ない
それ以外に物自体への言及はありますか?
AO補遺より
《ティンゲリの〈ロトザザ〉のように、機械が組織的にそれ自身の対象を破壊することもある。》
Tinguely Rotozaza
http://youtu.be/f80SLYonPO4
《シュヴィッタースの作品〈メルツ〉Merz は、この絵に描かれている〈コメルツ〉Komerz の最後の音綴である。これらの欲望機械の有用性または無用性、可能性または不可能性について問うことは無駄なことである。》
独kommerz、英commerce
http://www.moma.org/wp/moma_learning/wp-content/uploads/2012/07/Schwitters.-Merz-Picture-32A-313x395.jpg
MoMA | Kurt Schwitters. Merz Picture 32 A. The Cherry Picture. 1921
http://www.moma.org/learn/moma_learning/kurt-schwitters-merz-picture-32-a-the-cherry-picture-1921
物自体はデータを提示する未来の他者だと解釈できる
が、それは一歩間違えれば神秘主義への危険を孕む
判断停止を招き、物と物との関係性を捨象するからだ
ボルツァーノのように「命題自体 Satz an sich」、「真理自体 Wahrheit an sich」、
「表象自体 Vorstellung an sich」が問われなければならない。
物自体はデータを提示する未来の他者だと解釈できる
が、それは一歩間違えれば神秘主義への危険を孕む
判断停止を招き、物と物との関係性を捨象するからだ
批判を様式化した批判主義は批判主義の名に値しない
ボルツァーノのように「命題自体 Satz an sich」、「真理自体 Wahrheit an sich」、
「表象自体 Vorstellung an sich」が問われなければならない。
言葉を捩るならドゥルーズは判例それ自体を問題に浮上させた
芸術作品の重視はその一例だ
ヤコービ × カント - nifty
homepage1.nifty.com/kurubushi/card35063.html
哲学と信仰の関係問題(→シゲルス対トマス)に関して、カントは(我々から見れば) スピノザよりも遥かに穏健だったし慎重だった。 ...
ヤコービが言ったように、
「物自体を仮定しなければカントの体系の中に入ることはできないし、しかも物自体によればカントの体系の中に留まれない」
(物自体をヌーメノンと呼ぼうがおなじことである。)
ドゥルーズはこのジレンマを機械と器官の変奏に置き換えた。スピノザとライプニッツの変奏とも言える。
無論ジレンマはジレンマのまま終わらない。サミュエル・バトラーやアルトーが生きた事例となる、、、
ヤコービ × カント - nifty
homepage1.nifty.com/kurubushi/card35063.html
哲学と信仰の関係問題(→シゲルス対トマス)に関して、カントは(我々から見れば) スピノザよりも遥かに穏健だったし慎重だった。 ...
ヤコービが言ったように、
「物自体を仮定しなければカントの体系の中に入ることはできないし、しかも物自体によればカントの体系の中に留まれない」
(物自体をヌーメノンと呼ぼうがおなじことである。)
ドゥルーズはこのジレンマを機械と器官の変奏に置き換えた。スピノザとライプニッツの変奏とも言える。
無論ジレンマはジレンマのまま終わらない。サミュエル・バトラーやアルトーが生きた事例となる、、、
ヤコービが言ったように、
「物自体を仮定しなければカントの体系の中に入ることはできないし、しかも物自体によれ
ばカントの体系の中に留まれない」
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card35063.html
(物自体をヌーメノンと呼ぼうがおなじことである。)
ドゥルーズはこのジレンマを機械と器官の変奏に置き換えた。スピノザとライプニッツの
変奏に置き換えた
も言える。
無論ジレンマはジレンマのまま終わらない。サミュエル・バトラーやアルトーが生きた事例とな
る、、、
ドゥルーズA.O補遺注より(文庫版より。単行本版にはなかった。)
(13) ライヒの生物宇宙論的あるいは生物発生論的な最後の研究の全体は、『オルガスムの機能』の終りにまとめられている。La Fonction de l'orgasme, ch.9. 発生や生殖に対する性の優位は、この場合、細胞分裂を伴う性のサイクル(力学的緊張-電気的充電、等々)を根拠としている (p. 224-227)。しかし、ライヒは彼の著作で、きわめて早い時期から、フロイトが性的な立場を放棄したことを非難している。性的な立場を断念したのは、フロイトの批判者ばかりではない。ある意味ではフロイト自身である。最初は、フロイトが死の本能を導入して、性愛の代りに〈エロス〉について語り始めるときである (Reich, pp. 103-104〔『オルガスムの機能』上、178ページ〕)。ついでフロイトが不安を、性的抑圧の原因とみなし、もはやその結果とはみなさなくなるときである (Reich, pp113-114〔同、上、188-189ページ〕)。もっと一般的にいえば、フロイトが性愛に対する生殖の優位という伝統的見解にもどるときである。(Reich, p. 225.〔同、下、399ページ〕「生殖は性愛の一機能であって、ひとが主張していたように、その逆ではない。性的な観念と生殖的な観念を分けたとき、フロイトは、心理-性愛に関して、すでにこのことを前提としていた。ところが、私には全く不明な理由から、かれは、生殖に奉仕するものとして、思春期の中に性器体制を新たに位置づけたのである」)。ライヒは、明らかに、フロイトのショーペンハウエル的、あるいはワイスマン的なテクストを考えている。そこで性愛は、種と生殖質に依存するものになっているのである。例えば、〈Pour introduire le narcissisme〉, in La Vie sexuelle , P. U. F., pp. 85-86.〔「ナルシシズム入門」懸田克躬・吉村博次訳、『フロイト著作集』5、113-114ページ〕
ライヒ邦訳著作集1,175,192,381頁
アンチ・オイディプス
第一章 欲望機械 (15)
第二章 精神分析と家族主義 すなわち神聖家族 (99)
第三章 未開人、野蛮人、文明人 (263)
第四章 分裂分析への序章 (113)下
マルクス フロイト
2 1
+
3 4
1:5
欲望機械
それは転轍機やくじ引きのシステムの全体のようなもので、部分的に相互依存する確率的な諸現象を形成し、マルコフの連鎖に類似している。
《(11) マルコフ連鎖について、またこれの生物種および文化的形成物の適用については、cf. Raymond Ruyer*, La Genèse des formes vivantes , ch. VIII. コードの剰余価値の諸現象は、「半偶発的連鎖」という見方によって的確に説明されるが、リュイエは、繰り返しこれを分裂症的言語と比較している。》
(ドゥルーズAO第4章原注より)
4:第二節 分子的無意識
《この移行は有機的機械の中にも現われるが、また同様に、別の法則や別の形象を具えた社会的機械の中にも現われる。この意味で、人間の文化と生物の種とに共通の特徴を、「マルコフの連鎖」(部分的に依存関係にある偶然的現象)として強調することが可能となったのである。なぜなら、遺伝子のコードにおいても、社会的諸コードにおいても、シニフィアンの連鎖と呼ばれるものは、言語活動である以上に、ひとつの隠語であって、非シニフィアン的要素からなっている。これらの諸要素が意味や、意味作用の効果をもちうるのは、大きな集合の中においてでしかない。これらの非シニフィアン的諸要素が、籤引きの連鎖や、部分的な依存関係や、中継の積み重ねを通じて大きな集合を形成するのである(11)。》271
4:第五節 第二の肯定的課題
《刻印し登記する選別のプロセスとしての「文化」は、多数を発明し、多数に有利なように、「文化」は実現される。だからこそ統計は機能的なものではなく構造的なものであり、現象の連鎖を対象とするが、選択によって現象の連鎖はすでに部分的従属の状態に入っている(マルコフ連鎖)。このことは、遺伝子コードの中にさえみられる。言い方を換えるなら、群居性は決して任意なものではなく、規定された形態を指示しているのだ。》319
1:第五節 欲望機械
《それぞれの連鎖は、他のもろもろの連鎖の断片を捉え、そこから剰余価値を引きだすのであるが、それはちょうど蘭のコードがすずめ蜂からその形を「抽出する」ようなものだ。これがコードの剰余価値の現象である。それは転轍機やくじ引きのシステムの全体のようなもので、部分的に相互依存する確率的な諸現象を形成し、マルコフの連鎖に類似している。》43
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/24966/1/ahs34_247.pdf
《ドゥルーズとガタリは『アンチ・オイディプス』で、「無意識のコードの豊かな領野を発見したのはラカンの功績である」と述べているが、ソヴァニャルグ(『ドゥルーズと芸術』未邦訳**)はそれに対して、マルコフ連鎖を用いることの多産性を示したのはレイモン・リュイエの功績である、と指摘する。リュイエは、ロシアの数学者マルコフの仕事を独自に援用し、生命や文化や歴史など多くの現象のコード化の様態を、諸要素の自動的反復によって機能する統計的異質混成過程[jargon statistique]と捉える。シニフィアン連鎖はこのマルコフ連鎖の一部でしかない。ラカンの言う象徴界が「シニフィアンの可能な用法の束」としての大文字の〈他者〉に支えられているのに対して、マルコフ連鎖はそのような可能な用法の総体平面を前提とせず、その都度の局所的な要求という部分的依存性だけにしたがう半偶然的な連鎖である。ドゥルーズとガタリは、このようなマルコフ連鎖をモデルに機械的コード化を定式化することによって、意味作用とは無関係な記号のプロセスを扱う独自の記号論を打ち立てるのである。》
補遺 欲望機械のための総括とプログラム
第一節 欲望機械と他のさまざまなものとの相対的差異-アイディア製品との差異-幻想あるいは想像的投射のシステムとの差異-道具あるいは現実的投射のシステムとの差異-私たちを欲望機械に導く倒錯機械との差異
第二節 欲望機械とオイディプス装置、つまり抑制-退行に抵抗する反復
第三節 機械と充実身体。機械のもろもろの備給
ドゥルーズ:マルクス、フロイト関連(作業中)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_3.html(本頁)
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ体系:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_72.html
ドゥルーズ体系: 分子化
スピノザ 【 分 析 】 Heidegger、Kant、カント
Hegel\ | /
千のプラトー/
ライプニッツ| ベルクソン☆
\|/
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学【反省】
/|\ [修辞学]
フーコー/ | (ヒューム)
(Marx)アンチ Freud
/・オイディプス\
サルトル 【 総 合 】 ニーチェ、Nietzsche
上はカント、ハイデガーの準備したマトリクスである。これらを
スピノザ、
ニーチェが横断し、マルクス、フロイト(懐疑論)が左右において上下の断絶を決定づける。
出発点にはサルトル、Sartreがいた。
AO
第四章 分裂分析への序章
第二節 分子的無意識
ところが、マルクスは、もっと神秘的なことをいっている。真の差異は、人間における二つの性の間の差異ではなく、人間の性と「非人間的な性」の間の差異である、と(15)
(15) Marx,〈Critique de la philosophie de l'Etat de Hegel〉, in Œuvres philosophiques , IV, tr. fr. Costes, pp. 182-184.〔マルクス「ヘーゲル国法論批判」真下信一訳、『マルクスエンゲルス全集』1、大月書店、1959、329ページ〕マルクスのこのテクストについては、L-F・リオタールの美しい注釈がある。Discours, figure , pp. 138-141.
AO下4原注より
(4) 神秘学の周縁的な現象の見地からも、無意識のコミュニケーションの、しかも基本的な問題はまずボーリングあての書簡一七におけるスピノザによって提起され、ついでF・E・H・マイヤー、W・ジェイムス、H・ベルクソンなどによって提起される。
(7) 『無意識』に関する一九一三年の論文において、フロイトは、包括的対象を必要とする神経症に対して、精神病はいくつもの小さい多様性を介入させることを示している。例えば、穴の多様性(しかし、フロイトは、この精神病的現象を、単に言語的表象の力にたよって説明しているにすぎない)。
(9) Raymond Ruyer, La Genèse des formes vivantes , Flammarion, 1958, pp. 80-81. ボーア、シュレディンガー、ジョルダン、リリーの若干の主張をとりあげ直して、リュイエは次のことを示している。生物は、有機体の内的な力学的回路にも、外的な技術的活動にも現われる群れの効果を超えて、原子の個体的現象にじかに結合されている。「古典物理学は、群れの現象にかかわるだけである。逆にミクロ物理学は、必然的に生物学につながる。原子の個体的諸現象から出発して、実際われわれは二つの方向に進むことができる。これらの統計学的蓄積は、通常の物理学の諸法則に直結する。しかし、これらの個体的諸現象が、分子、マクロ分子、ウイルス、単細胞といったもののただなかで群れの現象を自分に従属させ、みずからの個体性を確保しながらも、システム的な相互作用を通じて複雑化するとき、ついにわれわれは有機体にたどりつく。これは、いくら大きいとしても、この意味で顕微鏡的な大きさにとどまっている。」(p. 54)。こうした主題は、リュイエによって『新目的論』の中で大きく展開されている。Néo-finalisme, P. U. F., 1952.
補遺 欲望機械のための総括とプログラム
第一節 欲望機械と他のさまざまなものとの相対的差異-アイディア製品との差異-幻想あるいは想像的投射のシステムとの差異-道具あるいは現実的投射のシステムとの差異-私たちを欲望機械に導く倒錯機械との差異
第二節 欲望機械とオイディプス装置、つまり抑制-退行に抵抗する反復
ダドゥンは次のことを指摘している。『夢判断』〔一九〇〇年〕とともに、いかにフロイトは『科学的心理学草稿』〔一八九五年〕の頃にはまだ可能であった方向を放棄して、その後、精神分析を袋小路の中に追いやることになるかを。
参考:
NAMs出版プロジェクト: フロイトの性図式 : 転載
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_24.html
フロイトの性図式 :
http://yojiseki.exblog.jp/5678903/
第三節 機械と充実身体。機械のもろもろの備給
極限への移行としての欲望機械、すなわち充実身体の推論、単純な諸形態の抽出、絆の不在の指定。マルクスの『資本論』の方法は、この方向に進んでいるが、弁証法的な諸前提によって、下部構造の部分をなすものとしての欲望に到達することは妨げられている。
欲望のパラドックスとは、この両極を識別し、欲望機械にとっての集団的革命的試練をあらわにするためには、無意識のこんなにも長い分析が、あらゆる分析が常に必要であるということだ。
MP
2 一九一四年──狼はただ一匹か数匹か?
フロイトが知っているのは、オイディプス化された狼や犬、去勢され去勢する者である狼-パパ、犬小屋の犬、精神分析学者のワンワンだけだ。
13 BC七〇〇〇年──捕獲装置
三つの頭をもつ捕獲装置、マルクスの定式から派生した(三つはマルクスと同じ仕方で配分されてはいないが)「三位一体の定式」は次のようになる。
土地(領土とは区別されるものとして)|
(a)各土地の直接比較、差異地代 >地代
ス (b)土地の独占的所有、絶対地代 |〈所有者〉
ト 労働(活動とは区別されるものとして)|
(a)活動の直接比較、労働 >利益
ッ (b)労働の独占的所有、余剩労働 |〈事業主〉
ク 貨幣(交換とは区別されるものとして)|
(a)交換物の直接比較、商品 > 税
(b)比較方法の独占的所有、貨幣の発行 |〈銀行家〉
(ガタリの功績かもしれないが、税に着目してマルクスを改定しているところは流石である。)
記号と事件
《…フェリックス・ガタリと私は、各人の流儀に違いがあるだろうとはいえ、やはりふたりともマルキシストでありつづけていると思います。私たちには資本主義とその発展の分析に焦点をしぼらないような政治哲学が信じられられないのです。私たちがマルクスでいちばん面白いと思ったのは、資本主義を内在性のシステムとして分析しているところです。つまり資本主義はみずからのリミットを絶えず押しやっていく、しかしリミットすなわち資本である以上、尺度を拡大したかたちで、どうしてもまた同じリミットに逢着するということですね。》
590 名前:考える名無しさん :2015/08/18(火) 00:58:07.70 0≫そのカント論が物自体を重視していないことからわかるように
「カントの批判哲学」では、、物自体の軽視がある。なんてことは初耳だな。
出ているのだけれど、応答がないだけだな。
《かりに諸物自体がまず第一に、そして真実に、理性の他の関心の対象になっていなかったとし
たら、思弁的理性もこれに関心を寄せることはなかったであろう。それゆえ、このいっそう高い
関心とは何か、と我々は問わねばならない。》(中島盛夫訳『カントの批判哲学』)
ちなみに↑は、第一章の結びの文の訳。
ドゥルーズは共通感覚を重視しているので
物自体への言及は極めて少ない
それ以外に物自体への言及はありますか?
つまりドゥルーズは物自体の不可知論とは違うレベルで個体の存在、連結が可能だと考える。
共通感覚は、ライプニッツの共可能性につながる。
カントは倫理的次元を創成したが、ドゥルーズの美学も倫理的次元にある。
ドゥルーズ体系:
分子化
>>788スピノザ 【 分 析 】 プラトン、カント
Hegel\ | /Heidegger
千のプラトー>>590
>>786ライプニッツ| ベルクソン>>188
ABC\|/
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学>>782【反省】
>>792,>>440 /|\
>>554フーコー/ | ヒューム>>433
(Marx)アンチ フロイト>>39
/・オイディプス\
>>287,>>798サルトル 【 総 合 】 ニーチェ>>788
哲学とは何か?>>484
潜在的
実在的+可能的
現働的
virtualite
realite+possibilite
actualite
この図はKant、ハイデガーの準備したマトリクスである。これらをスピノザ、ニーチェが
横断し、マルクス(決定論)、フロイト(懐疑論)が左右において上下の断絶を決定づける。
出発点にはサルトルがいる。
千のプラトーをアンチ・オイディプスに対して潜在的なものと考え、
分析を分子化として二重に捉え直したところが味噌だ 。
かいてい
2016/10/27(木) 12:28:26.19 0
ドゥルーズ体系: 改
分子化
>>788スピノザ 【 分 析 】 プラトン、カント
\ | /
千のプラトー>>590
>>786ライプニッツ| ベルクソン
ABC\|/
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学>>782【反省】
>>792,>>440 /|\
フーコー/ | ヒューム
(Marx)アンチ フロイト
/・オイディプス\
>>287,>>789サルトル 【 総 合 】 ニーチェ
哲学とは何か?>>484
潜在的
実在的+可能的
現働的
この図はカント、ハイデガーの準備したマトリクスである。これらをスピノザ、ニーチェが
横断し、マルクス(決定論)、フロイト(懐疑論)が左右において上下の断絶を決定づける。
出発点にはサルトルがいる。 千のプラトーをアンチ・オイディプスに対して潜在的なものと考え、
分析を分子化として二重に捉え直したところが味噌だ 。
2016/10/27(木) 12:28:26.19 0
ドゥルーズ体系:
分子化
>>788スピノザ 【 分 析 】 プラトン、カント
\ | /
千のプラトー>>590
>>786ライプニッツ| ベルクソン
ABC\|/
【規定】差異と反復ーーーシネマーーー意味の論理学>>782【反省】
>>792,448 /|\
フーコー/ | ヒューム
(Marx)アンチ フロイト
/・オイディプス\
>>287,798サルトル 【 総 合 】 ニーチェ
哲学とは何か?>>484
潜在的
実在的+可能的
現働的
この図はカント、ハイデガーの準備したマトリクスである。これらをスピノザ、ニーチェが
横断し、マルクス(決定論)、フロイト(懐疑論)が左右において上下の断絶を決定づける。
出発点にはサルトルがいる。
千のプラトーをアンチ・オイディプスに対して潜在的なものと考え、
分析を分子化として二重に捉え直したところが味噌だ 。
共通感覚の重視は共通概念への牽制である
スピノザが
マルクスハイデガー
の二項を調停しドゥルーズがそれを受け継ぐ
シネマ英語序文を読めばわかるがドゥルーズ自身は第二次大戦の影響下にある
ドゥルーズ『シネマ2 時間=イメージ』英訳版への序文(拙訳)
ギリシャの哲人ども以来カントまで何世紀にもわたって、哲学にはある革命が起こっていた。運動に対する時間の従属は転倒され、時間は普遍的な運動のものさしであることをやめ、いよいよそれそのものとしてあらわれ、矛盾にみちた運動を創造するようになる。時間はタガが外れてしまった、というハムレットのことばは、時間がもはや運動に従属させられることもなくなり、むしろ運動が時間に従属させられるようになったということを意味している。これと同じ経験、同じ転倒を、映画はそれそのものの領域で、より早く推移する状況のなかで繰りかえしている、といえるだろう。戦後、古典映画と呼ばれる運動=イメージは、直接的な時間=イメージに道をゆずった。こうした一般的観念はもちろん、適切化され、修正され、具体的な事例に当てはめられねばならない。
なぜ第二次世界大戦は一個の変化とみなされるのか? 実はヨーロッパでは、もはやどう反応すればいいかわからないような状況や、もはやどう描写すればいいかわからないような空間が戦後の時代にぐっと増加したのである。見捨てられて誰も住まないような、廃倉庫や、不毛の大地や、破壊あるいは再建の途上にある都市などといった「空間以上の何ものでもない空間」だ。そして空間以上の何ものでもない空間には、ミュータントのたぐいの、新種の登場人物が跋扈する。彼らは行動するよりまず見ようとする、見者たちである。それゆえロッセリーニの三部作、『ヨーロッパ1951年』、『ストロンボリ、神の土地』、『ドイツ零年』に出てくるのは、破壊された都市にいる子供であり、ストロンボリ島にいる異邦の女性であり、周りにあるものを「見る」ことにつとめはじめるブルジョワ女性なのである。状況は異常なものであるか、あるいは真逆に日常の陳腐なものであったり、またその両者が同時にあらわれていたりする。崩壊しつつあるもの、あるいは少なくともそのポジションを失いつつあるものこそが、古い映画の行動=イメージを構成していた感覚=運動図式である。そして感覚=運動の結びつきがゆるめられたおかげで、スクリーン上にあらわれてきたのが「純粋状態にある若干の時間」という時間なのだ。時間は運動に由来するものであるのをやめて、それそのものとしてあらわれるとともに「偽りの運動」として自らをあらわす。それゆえ現代映画においては「間違ったつなぎ」が重要なのであって、イメージどうしはもはや理にかなったカット割りやつながりによって結びつけられることもなく、間違ったつなぎ方と不合理なカット割りによって結びつけなおされる。身体でさえもが、もはやまったく運動するもの、すなわち運動の主体あるいは行動の道具ではなくなり、むしろ時間の現像者[レヴェラトゥール]となって、その飽きや待ちぼうけを通して時間を見せつけるようになる。
映画的イメージが現前している、ということはまったく適当でない。現前しているものは「表象=再現前している」イメージであるが、絵画におけるそれのように映画においては、イメージそのものでないかぎり、それが表象=再現前しているものと混同されるということは決してない。イメージそのものはその要素どうしの間における関係性の体系であり、すなわち、ただ流れていくだけのうつろいやすい現前=現在からなる時間の関係性の一群である。わたしはこの意味において、タルコフスキーがショットにおける「時間の圧力」によって映画を定義するとき、彼はモンタージュとショットの区別をこころみているのだと考えている。イメージに固有のものは、それが創造的であるかぎりで、表象された対象のなかには見られないような、そして現前するところにまで自らをおとしめさせることのないような時間の関係性を知覚可能にし、可視化するのである。たとえば、ウェルズにおけるフィールドの深さや、ヴィスコンティにおけるトラッキング・ショットをとりあげよう。われわれは交差する空間よりもむしろ、時間のなかへと追いこまれる。サンドラの車は、ヴィスコンティの映画の冒頭において、すでに時間のなかで運動しているし、ウェルズの登場人物は空間内において場所を変えるよりもむしろ、時間において広大な場所を占めている。
これは時間=イメージがフラッシュバックや、あるいは回想とさえも何の関係もないということである。回想は以前のものの現前にすぎないが、現代映画における記憶喪失の登場人物たちは、文字どおり過去へと沈降していったり、回想においても隠されているものを可視化することによって警告をうけたりする。フラッシュバックは手がかりにすぎないが、偉大な作家に用いられるとき、そこにはもっとずっと複雑な時間構造を見せつけることになる(たとえば、マンキーウィッツにおける「分岐する」時間という、時間が異なったコースをとりえた瞬間の再獲得など)。あらゆる場合において、われわれが時間構造とか直接的な時間=イメージと呼んでいるものは、純粋に経験的な時間の連続――過去=現在=未来、を明らかに超えていっている。それはたとえば、別個の持続どうしや持続の複数のレベルどうしの共存である。ある単独のできごとはさまざまなレベルに属しうる。過去という広がりは、非=年代的な秩序においても共存するのだ。われわれはこれを、ウェルズの力強い大地の直観や、さらには死地から帰還するレネの登場人物たちに見いだしている。
9:59 午後
Blogger yoji said...
まだたくさんの時間構造が存在する。この本の全体的な目的は、映画的イメージが把握し、また明らかにしてきたものであったり、科学の教説、その他の芸術がわれわれに明らかにするもの、あるいは哲学がわれわれに理解できるようにするものなどに影響を与えうるものであったりを、それぞれの方法で提供することである。映画はまだ、イメージの創造物においてしかあらわれえないような時間の関係性を可視化しようとする研究の出発点にあるのだから、映画の死について語るのはばかげている。テレビを必要としているのは映画ではない――映画芸術によって豊かにされないかぎり、テレビのイメージは残念ながら現前でありつづけるのだから。ヴィジュアルとサウンドの間の、あるいは見られるものと話されるものとの間の関係と分離は、(ピエール・ペローやストローブ、ジーバーベルクらがそれぞれ異なった方法でしているような)イメージにおける時間の獲得のために問題をよみがえらせ、映画に新たな力をもたらす。そう、当初の力を保っているかぎり、映画は虐殺によって命を落としたりはしないのだ。逆にわれわれは戦前の映画やさらにはサイレント映画にさえも、すでに運動=イメージを画期的に進歩させたり、あるいは押しとどめたり、または包括したりしてきたような、きわめて純粋な時間=イメージに目をむけなければならない。たとえば小津の静物画は、時間の不変の形態としてのものなのか? など。
この運動と時間についての冒険を翻訳するという労について、ロバート・ガレータとヒュッフ・トムリンソンに謝意を表したい。 ジル・ドゥルーズ 1988年7月
http://blog.livedoor.jp/aryusan_nikki/archives/51568752.html
9:59 午後
「人間と世界が、〈と〉という小さな語の崇高な意図によって分かたれながら隣り合っているのを見るだけで、私たちは爆笑する(42)。」
AO2:6
(42) Nietzsche, Le Gai Savoir , V, 346〔ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、ちくま学芸文庫、1993、376-378ページ〕EtMarx, Economie et philosophie , Pléiade II, pp. 88-90.〔『経済学・哲学草稿』100ページ〕
ドゥルーズガタリがAO2:6で引用
ゴダールが企画書で引用
ニーチェは、マルクスやエンゲルスとまったく同じことを指摘している。「人間と世界が、〈と〉という小さな語の崇高な意図によって分かたれながら隣り合っているのを見るだけで、私たちは爆笑する(42)。」人間と自然が外延をともにしているという共通外延性は、まったく別のことなのだ。これは循環的運動であり、これによって無意識は、たえず主体にとどまりながら自分自身を生産し、再生産するのである。
(42) Nietzsche, Le Gai Savoir , V, 346〔ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、ちくま学芸文庫、1993、376-378ページ〕EtMarx, Economie et philosophie , Pléiade II, pp. 88-90.〔『経済学・哲学草稿』100ページ〕
ドゥルーズガタリがAO2:6で引用
ゴダールが企画書でドゥルーズガタリ経由で引用
Moi Je , projet de film (1973)
Jean-Luc Godard, documents p.199,215,219
NAMs出版プロジェクト: "Moi Je"(ゴダール1973年の草稿とドゥルーズ&ガタリ)
http://nam-students.blogspot.jp/2014/03/moi-je.html
ニーチェは、マルクスやエンゲルスとまったく同じことを指摘している。「人間と世界が、〈と〉という小さな語の崇高な意図によって分かたれながら隣り合っているのを見るだけで、私たちは爆笑する(42)。」人間と自然が外延をともにしているという共通外延性は、まったく別のことなのだ。これは循環的運動であり、これによって無意識は、たえず主体にとどまりながら自分自身を生産し、再生産するのである。
(42) Nietzsche, Le Gai Savoir , V, 346〔ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、ちくま学芸文庫、1993、376-378ページ〕EtMarx, Economie et philosophie , Pléiade II, pp. 88-90.〔『経済学・哲学草稿』100ページ〕
ドゥルーズガタリがAO2:6
ニーチェの言葉はゴダールが企画書でドゥルーズガタリ経由で引用
Moi Je , projet de film (1973)
Jean-Luc Godard, documents p.199,215,219
NAMs出版プロジェクト: "Moi Je"(ゴダール1973年の草稿とドゥルーズ&ガタリ)
http://nam-students.blogspot.jp/2014/03/moi-je.html
共通感覚の重視は共通概念への牽制である
スピノザが
マルクスハイデガー
の二項を調停しドゥルーズがそれを受け継ぐ
マルクスの内部でも二項は維持される
宇野弘蔵はスピノザを国家と経済政策の二項として再解釈している
シネマ英語序文を読めばわかるがドゥルーズ自身は第二次大戦の影響下にある
http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1605.html
http://www.ne.jp/asahi/net/jpn/segawa/dgd/essay_1.htm
『差異と反復』はじめに
「本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、つぎの四つの点をあげて良いだろう。まず、 ハイデガーが存在論的≪差異≫の哲学にますます強く定位しようとしていること、つぎに構造主義の活動が或る共存の空間における差異的=微分的(différentiel)な諸特徴の配分に基づいていること、さらに現代小説という芸術がそのもっとも抽象的な省察ばかりでなくその実際的な技法においても差異と反復をめぐって動いていること、最後に無意識の、言語の、そして芸術の力でもあろうような反復本来の力(puissance)があらゆる種類の分野において発見されていること。これらのすべてのしるし(シーニュ)は、或る一般化した反ヘーゲル主義に数え入れることができる。つまり、差異と反復が、同一的なものと否定的なものに、同一性と矛盾に取ってかわったのである。」邦訳文庫上11-12頁
http://kokorotoha.com/tetugaku/?p=59
『差異と反復』はじめに
「……。哲学史は、絵画におけるコラージュの役割にかなり似た役割を演じるべき だと、わたしたちは思われる。
哲学史とは、まさに哲学の再生産である。哲学史に おける報告は、正真正銘の分身として作用しなければならず、
その分身本来の最高 度の変容を包含しなければならないだろう(口髭をはやしたモナ・リザと同じ意味 で、哲学的に
ひげをはやしたヘーゲル、哲学的に髭をそったマルクスを想像してみ よう)。」
「ばかな人間を利口にすること以外なら、精神分析は何でもできる」ラカン
《La psychanalyse peut tout sauf rendre intelligent quelqu'un d'idiot.》
http://network.architexturez.net/pst/az-cf-56379-817742161
(ドゥルーズ「思い出すこと」批評空間1996Ⅱ-9より)
"Le 'Je me souviens' de Gilles Deleuze" (interview by Didier Eribon)
in Le Nouvel Observateur 1619 (16-22 November 1995), 50-51.
http://d.hatena.ne.jp/rothko/comment?date=20040926
残念ながらまだ刊行されていない講義録のなかで、ラカンがドゥルーズに触れた機会が二度ほどあります。一度は1967年4月19日。ドゥルーズの『マゾッホとサド』に関する非常に好意的な論評です。
「しかし驚くべきことではないかと思うのは、こうしたテクストが本当の意味で、私が今実際に、今年切り開いた途上でいうべきことをすでに先取りしているということです。」
もう一度は1969年3月12日。今度は『意味の論理学』に関するコメントです。ここでは若干の見解の相違点を指摘しつつも、こんな指摘を。
「喜んで労を払おうという方なら、この《他者》のレベルに、ドゥルーズの本の中では出来事、上演と題され、呼ばれているものを位置づけることが出来るでしょう。これは厳密さと尊敬すべき正確さでもって、判明に、それも現代論理学思考が定義しうるものすべてとも調和を保っています。あるいは、ランガージュの存在と結びついたあらゆるパレードと呼んでもいいかもしれません。ここにこそ、《他者》の中にこそ、無意識は一つのランガージュとして構造化されているのです。」
ついでにいえば、この翌週3月19日の講義では、ジャック・ナシフが『意味の論理学』のレジュメを発表しています。
まあそんなわけで、『批評空間』1996年春号でドゥルーズが、『アンチ・オイディプス』発表後の数ヶ月後のラカンとの思い出話のなかで「ラカンは、ミレールを除くあらゆる弟子の悪口を言ったあげく、『私に必要なのは君のような人だ』」と言った」というのも、まあそういうことあったろうなあ、という気もするのです。すくなくともドゥルーズ側がこういうネタを吹聴する必要もなさそうですから。
1フロイト4
2ニーチェ 3マルクス
AOは三つ巴構造
ゴダールは、1973年AOから何らかのインスピレーションを受けた映画を作るつもりだったらしい。
企画書には以下の文言がある。
MOI , JE SUIS
UNE MACHINE
nous dirons avec Gilles Deleuze : repetition (premiere partie) ,difference (deuxime partie) ,
machine desiro-sociale(troisime partie).
「私、私は機械である」
「私たちはジル・ドゥルーズとともに言うだろう──反復(第一部)、差異(第二部)、欲望-社会機械(第三部)」
追記:
《ニーチェは、マルクスやエンゲルスとまったく同じことを指摘している。「人間と世界が、
〈と〉という小さな語の崇高な意図によって分かたれながら隣り合っているのを見るだけで、
私たちは爆笑する(42)。」人間と自然が外延をともにしているという共通外延性は、まっ
たく別のことなのだ。これは循環的運動であり、これによって無意識は、たえず主体にとど
まりながら自分自身を生産し、再生産するのである。
…
(42) Nietzsche, Le Gai Savoir , V, 346〔ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、ちくま
学芸文庫、1993、376-378ページ〕EtMarx, Economie et philosophie , Pléiade II,
pp. 88-90.〔『経済学・哲学草稿』100ページ〕》
ドゥルーズガタリAO2:6より
上記のAOで引用されたニーチェの言葉をゴダールが1973年の企画書でやはり引用している。
Moi Je , projet de film (1973)
Jean-Luc Godard, documents p.199,215,219
http://www.amazon.fr/gp/product/2844262996/
…哲学は、(「空は青色である」といった)属性判断と(「神がある」といった)存在判断をめぐる
議論によって、そしてこれが還元可能かどうかという議論のせいで、まったく身動きがとれ
なくなっている。ところが、この種の議論ではいつも「ある」という動詞が使われるのです。
三段論法を見ればわかるとおり、接続詞ですら、動詞の「ある」と釣り合うように使われている。
接続詞を解放し、関係一般について考察した人は、イギリスとアメリカの思想家以外には
ほとんどいません。ともあれ、関係判断を一個独立した類型に仕立てあげれば、この類型が
いたるところに入り込むということがわかってくる。この類型はいたるところに浸透して、
あらゆるものを変質させるのです。…
記号と事件
以下、『記号と事件』より
《逆に、感覚運動の図式が崩壊した結果、方向づけを欠き、調和を乱した運動が優先されるならば、その
ときはまた別の形態があらわれ、物語にかわって生成変化が前面に出てくるわけです……。》2映画より
《ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化で
あり、絶対に歴史の一部ではないからです。》4哲学より
《「生成変化」をとげるためには、つまり何か新しいものを創造するためには、これらすべての条件に背を
向けるしかないのです。ニーチェが〈反時代的なもの〉と呼んだのはこのことにほかなりません。六八年
五月は純粋状態の生成変化が発現し、なだれこんできた出来事でした。》5政治より
…
《たいして、マイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけです
からね。マジョリティは誰のことでもないともいえるでしょう。》5政治より
生成変化:
以下、『記号と事件』より
《逆に、感覚運動の図式が崩壊した結果、方向づけを欠き、調和を乱した運動が優先されるならば、その
ときはまた別の形態があらわれ、物語にかわって生成変化が前面に出てくるわけです……。》2映画より
《ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化で
あり、絶対に歴史の一部ではないからです。》4哲学より
《「生成変化」をとげるためには、つまり何か新しいものを創造するためには、これらすべての条件に背を
向けるしかないのです。ニーチェが〈反時代的なもの〉と呼んだのはこのことにほかなりません。六八年
五月は純粋状態の生成変化が発現し、なだれこんできた出来事でした。》5政治より
…
《たいして、マイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけです
からね。マジョリティは誰のことでもないともいえるでしょう。》5政治より
《問題は人間としてかくかくしかじかのものであるということではなく、人間以外のものになることだ。
つまり、動物になるという、誰にでもあてはまる生成変化だ。でもそれは自分が一匹の野獣だと思い込む
ことではなくて、身体の人間的組成をときほぐし、身体の強度域を横断すること、そしてひとりひとりの
人間が自分の強度域を見出し、そこに巣くった複数の集団、複数の生物群、複数の種を見出すことだ。》
口さがない批評家への手紙
1『アンチ・オイディプス』から『千のプラトー』へ
《一冊の本は、はるかに複雑な外部の機械装置に組み込まれた小さな歯車にすぎない。そして書くと
いうことは、その他もろもろの流れに組み込まれたひとつの流れにすぎないし、他の流れにたいして
特権をもつわけでもないから、糞の流れ、精液の流れ、言葉の、行為の、そしてエロチシズムの流れ、
また貨幣の、政治の流れなど、自分以外の流れを相手にして順流と逆流が渦を巻くところに関係づけ
られる。》口さがない批評家への手紙
1『アンチ・オイディプス』から『千のプラトー』へ
Un livre, c'est un petit rouage dans une machinerie beaucoup plus complexe extŽrieure. ƒcrire, c'est un flux parmi d'autres, et qui n'a aucun privil•ge par rapport aux autres, et qui entre dans des rapports de courant, de contre-courant, de remous avec d'autres flux, flux de merde, de sperme, de parole, d'action, d'Žrotisme, de monnaie, de politique, etc.
《表層は深層と対立するのではなく(表層は表層につながるものだから)、解釈と対立するのです。
フーコーの方法は一貫してあらゆる解釈法に対立するものでした。どんなことがあっても解釈するな、
ひたすら実験せよ、というわけです……。フーコーにおいてあれほど重要な主題だった襞とその折り
かえしは表皮につながっているのです。》3ミシェル・フーコー
Gilles Deleuze:“POURPARLERS” © 1990 by Les Editions de Minuit.
426:
「一冊の本を読むには二通りの読み方がある。一つは本を箱のようなものと考
え、箱だから内部があると思い込む立場、これだとどうしても本のシニフィエ
を追い求めることになる。・・・こうして注釈が行われ、解釈が加えられ、説
明を求めて本についての本を書き、そんなことが際限なくつづけられるわけだ。
もう一つの読み方では、本を小型の非意味機械と考える。そこで問題になる
のは『これは機械だろうか。機械ならどんな風に機能するのだろうか』と問う
ことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、
何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。・・・説明すべきこ
とは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続
するような読み方だと考えていい。」口さがない批評家への手紙
(記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)のp.21)
C'est qu'il y a deux mani•res de lire un livre : ou bien on le consid•re comme une bo”te qui renvoie ˆ un dedans, et alors on va chercher ses signifiŽs, et puis, si l'on est encore plus pervers ou corrompu, on part en qu•te du signifiant. Et le livre suivant, on le traitera comme une bo”te contenue dans la prŽcŽdente ou la contenant ˆ son tour. Et l'on commentera, l'on interprŽtera, on demandera des explications, on Žcrira le livre du livre, ˆ l'infini. Ou bien l'autre mani•re : on consid•re un livre comme une petite machine a-signifiante ; le seul probl•me est « est-ce que •a fonctionne, et comment •a fonctionne ? » Comment •a fonctionne pour vous ? Si •a ne fonctionne pas, si rien ne passe, prenez donc un autre livre. Cette autre lecture, c'est une lecture en intensitŽ : quelque chose passe ou ne passe pas. Il n'y a rien ˆ expliquer, rien ˆ comprendre, rien ˆ interprŽter. C'est du type branchement Žlectrique. Corps sans organes, je connais des gens sans culture qui ont tout de suite compris, gr‰ce ˆ leurs « habitudes » ˆ eux, gr‰ce ˆ leur mani•re de s'en faire un. Cette autre mani•re de lire s'oppose ˆ la prŽcŽdente, parce qu'elle rapporte immŽdiatement un livre au Dehors. Un livre, c'est un petit rouage dans une machinerie beaucoup plus complexe extŽrieure. ƒcrire, c'est un flux parmi d'autres, et qui n'a aucun privil•ge par rapport aux autres, et qui entre dans des rapports de courant, de contre-courant, de remous avec d'autres flux, flux de merde, de sperme, de parole, d'action, d'Žrotisme, d
https://ec56229aec51f1baff1d-185c3068e22352c56024573e929788ff.ssl.cf1.rackcdn.com/attachments/original/0/6/5/002742065.pdf
ダブルバインド(Double bind)Bateson, G.1956
http://nam-students.blogspot.jp/2017/02/double-bindbateson-g1956.html@
ベイトソンの1956年に発表した論文「精神分裂症の理論 化に向けて」
(「精神分裂病の理論化へ向けて」『精神の生態学 上』思索社)
Bateson, G., Jackson, D. D., Haley, J. & Weakland, J. (1956), Towards a Theory of Schizophrenia. in Behavioral Science, Vol 1, 251–264
http://solutions-centre.org/pdf/TOWARD-A-THEORY-OF-SCHIZOPHRENIA-2.pdf
deleuze A.O#2:4
(20) G. Bateson et collab.,〈Towards a Theory of Schizophrenia〉, Behavioral Science , 1956, I(cf. les commentaires de Pierre Fédida,〈Psychose et parenté〉, Critique, oct. 1968).
ベイトソンは、たがいに矛盾する二つの秩序のメッセージを同時に発信することをダブル・バインド〔二重拘束〕と呼んでいる(例えば、父が息子に、さあ、私を批判してみろ、という。ところが父は、あらゆるほんとうの批判、少なくともある種の批判は歓迎されないことを強力にほのめかす)。ベイトソンは、ここに、とりわけ分裂症をひき起す状況を認めて、ラッセルの階梯理論の見地から、この状況をひとつの「ナンセンス」として解釈している(20)。私たちにはむしろ、このダブル・バインドつまり、二重の袋小路はありふれたものであって、とりわけオイディプス化的な日常状況であるように思われる。さらに、この状況を定式化することを覚悟の上でいえば、これはラッセルのいう別の種類のナンセンスにかかわるのである。すなわち、二者択一あるいは排他的離接はひとつの原理との関係で決定されるが、にもかかわらずこの原理そのものが二者択一の両項または二つの下部集合を構成していて、この原理自身が二者択一の枠の中に入っている(これは、離接が包含的である場合に起きるのとは、まったく異なる事態である)。まさにここに精神分析の第二の誤謬推理がある。要するに「ダブル・バインド」はオイディプスの総体そのものなのである。この意味でオイディプスはひとつの連続状態として現前し、神経症的な同一化と、いわば規範の内面化という二極の間をゆれ動いている。どちらにしても、オイディプスがいて、それは二重の袋小路である。したがって、ここに分裂者が臨床実体として生みだされるとすれば、それがいわばこの二重の道を逃れる唯一の手段だからである。この二重の道においては、規範性も神経症と同じく出口をもたず、解決も問題も同じく道をふさがれている。ここでひとはみずからを器官なき身体の上に折りたたむしかないのだ。
吉本隆明ガタリ1987
善悪を超えた資本主義の遊び方 「marie claire Japon」1987年4月号
『よろこばしい邂逅』青土社 1987年より
…
資本主義は「最高の作品」か
…
ガタリ 吉本さんの考え方で資本という言葉のかわりに市場、国家という言葉
のかわりに社会的実践と、もし入れかえていただけたら私は吉本さんに全面的
に賛成です。つまり資本とは、ある一定の国際的なカーストの力ですからね。
それに対して市場経済とはまさに財、思想、文化、研究といったものの自由な
流通、サーキュレーションです。ですから私は市場経済には全く賛成ですが、
資本に対しては反対です。国家が軍であり官僚組織であるならば、私は国家に
は反対ですが、もし国家が社会のある一定の組織であれば、私は反対はしませ
ん。もちろんわれわれはそれぞれ違う観点から話をしております。日本及び日
本人は、いま地球という惑星の中で経済的なリーダーであります。ですから吉
本さんのおっしゃることもその点からはわかるような気がします。ところが、
吉本さんのお話をたとえばチリのような国に適用したとすると、それはもう社
会、経済の根本的な破壊につながることだと思います。フランスはもちろんチ
リではありませんが、しかし、ヨーロッパの中では第三文明化、第二世界化す
る道を選んだ国だと思います。日本についても、いまの吉本さんのお考えのま
までいくと、その後、大きな問題が数多く出てくると思います。
資本という経済的な原則は、確かに経済的問題に関してはうまく機能すると
いうことは認めますが、それは社会的問題に関しては全く解決をもたらすこと
はできません。つまり一番大事な問題は、集団的というか共同的な価値づけの
システムだと思うんです。ソヴィエト型の官僚的な価値決定システムが全く否
定的なものでしかないことに関しては私も吉本さんと全く同意見です。しかし
、それにかわるものとして資本による価値決定システムを導入するということ
については全く反対です。資本は、いまの社会的な問題、たとえば社会のエコ
ロジーという問題に関しては何の解決ももたらしてくれないと思うからです。
吉本 いや、正にその問題がガタリさんの著書を読んでいてぼくが一番違和感
を感じるところなんです。いま何を一番考え直さなきゃいけないか。それは資
本主義と社会主義を先験的に分けてしまうその考え方です。ガタリさんの著書
を読むと、資本あるいは資本主義は先験的に悪なんです。ところがぼくはそう
思わないので、資本主義は人類の歴史が無意識に生んだ作品としては、最高の
作品だという観点からみたいと思うんです。…
…
ガタリ 私は資本主義が悪だと言ったことはないし、資本を全面的に否定した
つもりもありません。私は資本の優越性は、あるタイプの社会・経済関係をよ
く整理することができるということにあると思うんです。その点に関しては、
私は資本主義が社会主義より劣っているとは考えていません。また私は社会主
義と資本主義とを対立させても考えておりません。私は、さまざまなタイプの
社会主義はすべて資本主義のヴァリエーンョンの一つだと思うんです。つまり
私が吉本さんに答えていただきたいのは、一体いま現在、地球上で現実に存在
するさまざまな具体的問題に対して、資本主義は応えることができるのかどう
かということです。アフリカはいま死につつあり、ラテンアメリカは貧困と悲
惨で崩壊しかかっています。吉本さんは、いまの資本主義がそういう問題を解
決することができるというふうに考えていらっしゃるのでしょうか。
ですから大文字の資本、単一の資本について語るのをやめて、それぞれの共
同体に属する日本の資本主義、中国の資本主義、ソヴィエトの資本主義という
形で具体的な問題について語ることにしましょう。いま現在、地球上に存在す
るさまざまな多くの具体的な問題、たとえばアフリカの飢餓や南米の荒廃を解
決するためのいかなる方法。政策も日本、アメリカ、そしてヨーロッパの資本
主義は持っていません。そして知識人の役割とは、世界、とりわけ第三世界で
いま起こっている問題を正確にとらえて報告することだと思います。
…
ガタリ まず最初に矛盾を一つ指摘したいと思います。古木さんは先ほどは国
家には何も期待してはならないとおっしゃったにもかかわらず、アフリカの飢
餓の救済問題では、二つの国家間の関係を提起なさっており、また、いまおっ
しゃった第二陛界についての分析は、非常にマルクス主義的であるにもかかわ
らず、吉本さんは先ほどらいマルクス主義を否定なさっている。つまり吉本さ
んは一方ではマルクス主義者であり、他方ではマルクス主義者ではないように
思われますが、私は、現在の問題分析に関しては全くマルクス主義者ではあり
ませんが、十九世紀から二十世紀初頭にかけての経済分析に関してはマルクス
主義者です。
…
ガタリ マルクス主義というのは、基本的に経済的、技術的、科学的なパラダ
イムの上に成立していますが、私は今日の世界を見ると、一番重要な問題は経
済的な要因ではなく主体の問題、主体性の生産ということだと思うんです。経
済の生産ではなくて主体の生産ですね。マルクス主義的な経済分析はいままで
経済・社会的な関係に完壁に依拠していました。しかし私は、社会的実践はも
う一つ別の、マルクス主義の経済的。社会的分析とは違うファクターに依拠し
なければいけないと思います。経済的なパラダイムではなくて私が倫理・政治
・美学的と呼ぶパラダイムですね。つまり社会がもう一度新たに産み直される
ということです。私は、資本主義的なレセフェール、放任原則といったものに
身を任せることはできません。私が放任原則と言うとき、それはアメリカ的な
資本の実践と同時に社会主義のほうの実践も含まれています。
少なくとも私は先端科学によって産み出された新しい生産様式によって人間
や社会のすべてがもう一度産み直される可能性があると思います。そのために
は決して受動的な態度をとっていてはなりません。創造的な態度をとる必要が
あります。それゆえに美学的なパラダイムが非常な重要性を持っているのです
。音楽家が音楽を創り、画家が絵を産み出すように、いま社会を生み出さなけ
ればならないと思います。そして日本の現在の社会にはそういう創造的な息吹
があると私は思います。昔からの社会関係が、いま最新のテクノロジーのあり
ようと結びついて、新しいインスピレーションの源泉になり得ています。
第三世界に対して食糧を運ぶことが必要なのではありません。飢餓自体は吉
本さんのおっしゃるとおり現地の権力の腐敗や収奪といったものにも起因して
いるわけですから。そうではなくてむしろ最新のテクノロジーや新しい生産様
式を彼らが自分のものにすることの方が大事だと思います。マルクス主義的な
、つまり現実の社会関係をすべて破壊して、全く新しい社会を産み出すといっ
たやり方は私自身も全く間違いだと思います。つまり、段階を追って前資本主
義から資本主義へ、そして社会主義へというようなマルクス主義的な社会変革
を私は完全に否定します。
私がどうしても認められないのは、まず最初に荒廃があって、その荒廃の上
に進歩みたいなものをつけ加えるという考え方なんです。その荒廃がいけない。
吉本 いや、ぼくは、国家なり社会なり制度というものは無菌的よりも、デカ
ダンスを包括していないとダメなんじゃないかと思うので荒廃に対してあまり
否定的ではないんですよ。もう時間がなくなってしまい残念ですが、またいつ
かお会いする機会がありましたら是非とも続きをやりたいと思います。
(一九八七年一月二十一日、銀座三笠会館にて)通訳 小林康夫
初出誌
善悪を超えた資本主義の遊び方 「marie claire Japon」1987年4月号
よろこばしい邂逅 青土社
一九八七年一〇月一日第一刷印刷
一九八七年一〇月八日第一刷発行
著者 吉本隆明
発行人 清水康雄
吉本隆明&ガタリ1987
善悪を超えた資本主義の遊び方、マリクレール1987年4月号(『よろこばしい邂逅』青土社 より)
…
ガタリ 吉本さんの考え方で資本という言葉のかわりに市場、国家という言葉のかわりに
社会的実践と、もし入れかえていただけたら私は吉本さんに全面的に賛成です。つまり資
本とは、ある一定の国際的なカーストの力ですからね。それに対して市場経済とはまさに
財、思想、文化、研究といったものの自由な流通、サーキュレーションです。ですから私
は市場経済には全く賛成ですが、資本に対しては反対です。…吉本さんのお話をたとえば
チリのような国に適用したとすると、それはもう社会、経済の根本的な破壊につながるこ
とだと思います。
…
吉本 いや、正にその問題がガタリさんの著書を読んでいてぼくが一番違和感を感じると
ころなんです。いま何を一番考え直さなきゃいけないか。それは資本主義と社会主義を先
験的に分けてしまうその考え方です。ガタリさんの著書を読むと、資本あるいは資本主義
は先験的に悪なんです。…
ガタリ 私は資本主義が悪だと言ったことはないし、資本を全面的に否定したつもりもあ
りません。私は資本の優越性は、あるタイプの社会・経済関係をよく整理することができ
るということにあると思うんです。その点に関しては、私は資本主義が社会主義より劣っ
ているとは考えていません。また私は社会主義と資本主義とを対立させても考えておりま
せん。私は、さまざまなタイプの社会主義はすべて資本主義のヴァリエーンョンの一つだ
と思うんです。…創造的な態度をとる必要があります。それゆえに美学的なパラダイムが
非常な重要性を持っているのです。音楽家が音楽を創り、画家が絵を産み出すように、い
ま社会を生み出さなければならないと思います。…
第三世界に対して食糧を運ぶことが必要なのではありません。飢餓自体は吉本さんのお
っしゃるとおり現地の権力の腐敗や収奪といったものにも起因しているわけですから。そ
うではなくてむしろ最新のテクノロジーや新しい生産様式を彼らが自分のものにすること
の方が大事だと思います。…
私がどうしても認められないのは、まず最初に荒廃があって、その荒廃の上に進歩みた
いなものをつけ加えるという考え方なんです。その荒廃がいけない。
吉本 いや、ぼくは、国家なり社会なり制度というものは無菌的よりも、デカダンスを包
括していないとダメなんじゃないかと思うので荒廃に対してあまり否定的ではないんです
よ。もう時間がなくなってしまい残念ですが、またいつかお会いする機会がありましたら
是非とも続きをやりたいと思います。
(一九八七年一月二十一日、銀座三笠会館にて)通訳 小林康夫
DRはまだ劇場モデルだった
AOは機械モデルになる
レンツ (小説) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/レンツ_(小説)
『レンツ』(Lenz)は、ゲオルク・ビューヒナーの中編小説。シュトゥルム・ウント・ドラングの作家ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツをモデルとし、1835年頃に執筆された。レンツがヴァルトバッハの慈善家ヨハン・フリードリヒ・オーベルリーンのもとに滞在する間、次第に狂気に陥っていく様子を描いている。作者の生前には発表されず、死後の1839年に初めて雑誌に掲載された。
あらすじ 編集
1月20日にレンツが山を越える描写から始まる。レンツは山道を歩きながら、周囲の景色に精神を圧迫される。オーベルリーン宅に着くと暖かく迎えられ、彼の家族との会話で穏やかな心地になるが、しかしその晩、案内された部屋でひとりになると得体の知れない恐怖に駆られ、発作的に部屋を飛び出して池の中に飛び込んでしまう。心配して駆けつけた人々に、自分には冷水浴の習慣があるのだと言ってごまかし、彼は部屋に戻っていく。
翌日からレンツはオーベルリーンについて谷を周り、彼の話相手になったり、仕事を手伝うなどして過ごし、次第に落ち着きを取り戻していく。ある日曜日にはオーベルリーンに代わって教会で説教を行い、またオーベルリーンと超自然的な体験について語り合う。しかし知人であるカウフマンがやってくると、レンツはにわかに落ち着きを失う。彼はカウフマンと芸術上の主題について議論しあうが、カウフマンが家に戻るようにと言うレンツの父親からの手紙を持ってきたことを知ると逆上する。
翌日カウフマンはオーベルリーンと連れ立ってスイスへ旅立ってしまう。残されたレンツは不安になり、山道をさまよい歩いてとある山小屋にたどり着き一晩を過ごす。彼はそこで、精霊が呼び出せると噂される不思議な男が少女の病を治すのを目にし、強い印象を受ける。この日から精神の病がされに悪化していき、オーベルリーン宅に戻ったレンツは「あの女性はどうしているか」といった意味の通らないことをオーベルリーン夫人に話しかけるようになる。
2月3日に、レンツはフーディという場所で子供が死んだことを聞く。彼はその日一日断食し、翌日になると顔に灰を塗りたくり、古い袋を体に巻きつけてフーディへむかう。彼は死んだ子供の前で神に祈り、子供を甦らせようとするが、甦らないと分かると絶望に陥る。数日後にオーベルリーンが帰宅するがレンツの状態は回復せず、わけのわからないうわごとを言ったり、幻覚を見るようになる。オーベルリーンは付き添い人としてセバスティアーンという人物を呼びレンツを監視させる。レンツはしばらく彼とその兄弟に従っていたが、彼らを振り切ってフーディに戻り、そこで自分は人殺しだから縄で縛ってくれと人に頼む。ついにレンツは馬車でストラスブールの町に送られていく。
素材とテクスト 編集
作中では年は書かれていないが、史実のレンツがオーベルリーンのもとを滞在したのは1778年1月20日から2月8日までの約20日間である。レンツは1776年11月ころ、理由は明らかでないが親しくしていたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによってヴァイマルを追い出され、知人の家を渡り歩いていたが、1777年5月にやはり親しくしていたコルネーリア・フリーデリケ(ゲーテの妹)の死を知り大きな衝撃を受けた。その後作家のクリストフ・カウフマンのもとを滞在中に統合失調症の発作を起こし、こうした患者を診た経験のあるオーベルリーンのもとに送られることになった。
レンツの滞在中、オーベルリーンは彼の様子を詳細に書きとめていた。『レンツ』の直接の資料はこのオーベルリーンによる手記である。ビューヒナーはストラスブール大学に医学生として留学している間、神学生のサークル「オイゲニア」に出入りしていたが、ここの会員であったシュテーバー兄弟がヴァルトバッハ滞在中のレンツの様子を詳しく知っていた。ビューヒナーはシュテーバー兄弟の話を通じて興味を持ち、彼らを通じてオーベルリーンの手記を手に入れこれを資料とした。またビューヒナーは留学中、ヴァルトバッハがその一区域であるヴォゲーゼンの山々をたびたび散策している。
ビューヒナーは当初カール・グツコーが新たに創刊するはずだった雑誌『ドイツ評論』に掲載するつもりで『レンツ』を執筆していたが、この雑誌は検閲によって創刊前に出版が差し止められたため掲載の機会を失った。『レンツ』は結末の直前に中断箇所があり完成されてはいないが、中断箇所を埋めるオーベルリーンの手記からの写しが残されており全体像の把握は可能である。作品はビューヒナーの死後の1839年に、グッコーによって『テレグラーフ』誌に分割掲載された。
参考文献 編集
ゲオルク・ビューヒナー 『ゲオルク・ビューヒナー全集』 手塚富雄、千田是也、岩淵達治訳、河出書房新社、1976年
ゲオルク・ビューヒナー 『ヴォイツェック ダントンの死 レンツ』 岩淵達治訳、岩波文庫、2006年
河原俊雄 『殺人者の言葉から始まった文学―G・ビューヒナー研究』 鳥影社、1998年
ノート
「人々はなぜ、あたかもそれが自らの救済であるかのように、自らの隷属を求めて闘うのか」(スピノザ『神学政治論』)
AO上61
というものであり、ヴィルヘルム・ライヒはそれを大衆のファシズムへの欲望という形で再発見した(『ファシズムの大衆心理』、一九三三年)。
三つの革命
吉本の『アンチ・オイディプス』評は、率直な読みとしてこの本のもっとも優れた批評だと思う。
スターリン的云々というのが唐突だが、哲学史的な知識と無関係に独立して読める。
《…わたしが『共同幻想論』でやったことは、この
本でD—Gのやったのと、まったく反対のことだった。国家や社会体は「共同幻想」であり、家族は「対幻想」
であり、個人は「個人幻想」であり、この三つはまったく異なる次元の幻想として扱われなければならない。こ
の著者たちが「一切は機械をなしている」と述べているのになぞらえていえば「一切は幻想をなしている」とい
うのがわたしの理念の生産であった。この本の著者たちがいうように「一切は機械をなしている」というのが唯
物論的だとすれば、わたしは極度の観念論的だということになるし、著者たちからわたしの「対幻想」の分離と
設定が反動的にみえるとすれば、その度合に応じて、わたしの方からはD—Gたちはスターリン的マルクス主義
のラジカルな変種にみえることになる。
D—Gが人体機械が欲望を生産するというとき「機械」も「欲望」も実在理念としてかんがえられている。ま
た「無意識」が欲望を生産する機械だというときに、この無意識は父—母—子のオイディプスに育まれたのでは
なく孤児的なものだと主張されている。
こどもは、その最も幼いころからまるまる欲望するひとつの生命である。つまり、家庭的でない仕方で欲望の
諸対象や諸機械との間に結ばれた、ひとまとまりの関係そのものである。…
…無意識は孤児であり〔両親をもたず〕、無意識自身は自
然と人間とが一体であるところに生産されるものである…。》
「『アンチ・オイディブス』論」(『吉本隆明全集撰3 政治思想』590-1頁より)
以下のヴィトゲンシュタインの言葉が示唆的だ
「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなもの
として世界から分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見て
とるには、私もまた残余の世界に属するのである。従って一方には何も残存し
なく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論
は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。」
(ウィトゲンシュタイン、1916年10月15日、
「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁より)
吉本の『アンチ・オイディプス』評は、率直な読みとしてこの本のもっとも優れた批評だと思う。
スターリン的云々というのが唐突だが、哲学史的な知識と無関係に独立して読める。
《…わたしが『共同幻想論』でやったことは、この
本でD—Gのやったのと、まったく反対のことだった。国家や社会体は「共同幻想」であり、家族は「対幻想」
であり、個人は「個人幻想」であり、この三つはまったく異なる次元の幻想として扱われなければならない。こ
の著者たちが「一切は機械をなしている」と述べているのになぞらえていえば「一切は幻想をなしている」とい
うのがわたしの理念の生産であった。この本の著者たちがいうように「一切は機械をなしている」というのが唯
物論的だとすれば、わたしは極度の観念論的だということになるし、著者たちからわたしの「対幻想」の分離と
設定が反動的にみえるとすれば、その度合に応じて、わたしの方からはD—Gたちはスターリン的マルクス主義
のラジカルな変種にみえることになる。 》
「『アンチ・オイディブス』論」(『吉本隆明全集撰3 政治思想』590-1頁より)
両者の関係を考える時、以下のヴィトゲンシュタインの言葉が示唆的だ
「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなもの
として世界から分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見て
とるには、私もまた残余の世界に属するのである。従って一方には何も残存し
なく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論
は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。」
(ウィトゲンシュタイン、1916年10月15日、
「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁より)
吉本の『アンチ・オイディプス』評は、率直な読みとしてこの本のもっとも優れた批評だと思う。
スターリン的云々というのが唐突だが、哲学史的な知識と無関係に独立して読める。
《…わたしが『共同幻想論』でやったことは、この
本でD—Gのやったのと、まったく反対のことだった。国家や社会体は「共同幻想」であり、家族は「対幻想」
であり、個人は「個人幻想」であり、この三つはまったく異なる次元の幻想として扱われなければならない。こ
の著者たちが「一切は機械をなしている」と述べているのになぞらえていえば「一切は幻想をなしている」とい
うのがわたしの理念の生産であった。この本の著者たちがいうように「一切は機械をなしている」というのが唯
物論的だとすれば、わたしは極度の観念論的だということになるし、著者たちからわたしの「対幻想」の分離と
設定が反動的にみえるとすれば、その度合に応じて、わたしの方からはD—Gたちはスターリン的マルクス主義
のラジカルな変種にみえることになる。 》
「『アンチ・オイディブス』論」(『吉本隆明全集撰3 政治思想』590-1頁より)
両者の関係を考える時、以下のヴィトゲンシュタインの言葉が示唆的だ
《私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなもの
として世界から分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見て
とるには、私もまた残余の世界に属するのである。従って一方には何も残存し
なく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論
は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。》
(ウィトゲンシュタイン、1916年10月15日、
「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁より)
AOに関してはガタリを無視出来ない
以下参考:
吉本隆明&ガタリ1987
善悪を超えた資本主義の遊び方、マリクレール1987年4月号(『よろこばしい邂逅』青土社 より)
…
ガタリ 吉本さんの考え方で資本という言葉のかわりに市場、国家という言葉のかわりに
社会的実践と、もし入れかえていただけたら私は吉本さんに全面的に賛成です。つまり資
本とは、ある一定の国際的なカーストの力ですからね。それに対して市場経済とはまさに
財、思想、文化、研究といったものの自由な流通、サーキュレーションです。ですから私
は市場経済には全く賛成ですが、資本に対しては反対です。…吉本さんのお話をたとえば
チリのような国に適用したとすると、それはもう社会、経済の根本的な破壊につながるこ
とだと思います。
…
吉本 いや、正にその問題がガタリさんの著書を読んでいてぼくが一番違和感を感じると
ころなんです。いま何を一番考え直さなきゃいけないか。それは資本主義と社会主義を先
験的に分けてしまうその考え方です。ガタリさんの著書を読むと、資本あるいは資本主義
は先験的に悪なんです。…
ガタリ 私は資本主義が悪だと言ったことはないし、資本を全面的に否定したつもりもあ
りません。私は資本の優越性は、あるタイプの社会・経済関係をよく整理することができ
るということにあると思うんです。その点に関しては、私は資本主義が社会主義より劣っ
ているとは考えていません。また私は社会主義と資本主義とを対立させても考えておりま
せん。私は、さまざまなタイプの社会主義はすべて資本主義のヴァリエーンョンの一つだ
と思うんです。…創造的な態度をとる必要があります。それゆえに美学的なパラダイムが
非常な重要性を持っているのです。音楽家が音楽を創り、画家が絵を産み出すように、い
ま社会を生み出さなければならないと思います。…
第三世界に対して食糧を運ぶことが必要なのではありません。飢餓自体は吉本さんのお
っしゃるとおり現地の権力の腐敗や収奪といったものにも起因しているわけですから。そ
うではなくてむしろ最新のテクノロジーや新しい生産様式を彼らが自分のものにすること
の方が大事だと思います。…
私がどうしても認められないのは、まず最初に荒廃があって、その荒廃の上に進歩みた
いなものをつけ加えるという考え方なんです。その荒廃がいけない。
吉本 いや、ぼくは、国家なり社会なり制度というものは無菌的よりも、デカダンスを包
括していないとダメなんじゃないかと思うので荒廃に対してあまり否定的ではないんです
よ。もう時間がなくなってしまい残念ですが、またいつかお会いする機会がありましたら
是非とも続きをやりたいと思います。
(一九八七年一月二十一日、銀座三笠会館にて)通訳 小林康夫
分析哲学とドゥルーズの相性は悪いが
一応分析哲学の成果を
ドゥルーズは踏まえている
例えば、
AO文庫版上P156
「この状況を定式化することを覚悟の上で言えば、これはラッセルのいう
別の種類のナンセンスにかかわるのである。すなわち、二者択一あるいは
排他的離説はひとつの原理との関係で決定されるが、にもかかわらず
この原理そのものが二者択一の両項または二つの下部集合を構成していて、
この原理自身が二者択一のなかにはいっている。」
ただしドゥルーズの関心はオイディプス的な社会構造が強いるダブルバインドの
解消にある
論理学のレベルで正解を出すことにはない
両者は背反しないが論理学自体がオイディプス的教育システムになっているから
現状では背反する
分析哲学系の人には差異と反復を薦めるが
哲学史の本だと割り切ってもらいたい
ダブルバインド(Double bind)Bateson, G.1956
http://nam-students.blogspot.jp/2017/02/double-bindbateson-g1956.html@
ベイトソンの1956年に発表した論文「精神分裂症の理論 化に向けて」
(「精神分裂病の理論化へ向けて」『精神の生態学 上』思索社)
Bateson, G., Jackson, D. D., Haley, J. & Weakland, J. (1956), Towards a Theory of Schizophrenia. in Behavioral Science, Vol 1, 251–264
http://solutions-centre.org/pdf/TOWARD-A-THEORY-OF-SCHIZOPHRENIA-2.pdf
deleuze A.O#2:4
(20) G. Bateson et collab.,〈Towards a Theory of Schizophrenia〉, Behavioral Science , 1956, I(cf. les commentaires de Pierre Fédida,〈Psychose et parenté〉, Critique, oct. 1968).
ベイトソンは、たがいに矛盾する二つの秩序のメッセージを同時に発信することをダブル・バインド〔二重拘束〕と呼んでいる(例えば、父が息子に、さあ、私を批判してみろ、という。ところが父は、あらゆるほんとうの批判、少なくともある種の批判は歓迎されないことを強力にほのめかす)。ベイトソンは、ここに、とりわけ分裂症をひき起す状況を認めて、ラッセルの階梯理論の見地から、この状況をひとつの「ナンセンス」として解釈している(20)。私たちにはむしろ、このダブル・バインドつまり、二重の袋小路はありふれたものであって、とりわけオイディプス化的な日常状況であるように思われる。さらに、この状況を定式化することを覚悟の上でいえば、これはラッセルのいう別の種類のナンセンスにかかわるのである。すなわち、二者択一あるいは排他的離接はひとつの原理との関係で決定されるが、にもかかわらずこの原理そのものが二者択一の両項または二つの下部集合を構成していて、この原理自身が二者択一の枠の中に入っている(これは、離接が包含的である場合に起きるのとは、まったく異なる事態である)。まさにここに精神分析の第二の誤謬推理がある。要するに「ダブル・バインド」はオイディプスの総体そのものなのである。この意味でオイディプスはひとつの連続状態として現前し、神経症的な同一化と、いわば規範の内面化という二極の間をゆれ動いている。どちらにしても、オイディプスがいて、それは二重の袋小路である。したがって、ここに分裂者が臨床実体として生みだされるとすれば、それがいわばこの二重の道を逃れる唯一の手段だからである。この二重の道においては、規範性も神経症と同じく出口をもたず、解決も問題も同じく道をふさがれている。ここでひとはみずからを器官なき身体の上に折りたたむしかないのだ。
分析哲学とドゥルーズの相性は悪いが
一応分析哲学の成果を
ドゥルーズは踏まえている
例えば、
AO文庫版上P156
「この状況を定式化することを覚悟の上で言えば、これはラッセルのいう
別の種類のナンセンスにかかわるのである。すなわち、二者択一あるいは
排他的離説はひとつの原理との関係で決定されるが、にもかかわらず
この原理そのものが二者択一の両項または二つの下部集合を構成していて、
この原理自身が二者択一のなかにはいっている。」
ただしドゥルーズの関心はオイディプス的な社会構造が強いるダブルバインドの
解消にある
論理学のレベルで正解を出すことにはない
両者は本来は背反しないが論理学自体がオイディプス的教育システムになっているから
現状では背反する
分析哲学系の人には差異と反復を薦めるが
哲学史の本だと割り切ってもらいたい
固有名詞のない純粋な哲学などない
そうした哲学はヘーゲル精神現象学と大差ない
A.O#2:4
ベイトソンは、たがいに矛盾する二つの秩序のメッセージを同時に発信することをダブル・バインド
〔二重拘束〕と呼んでいる(例えば、父が息子に、さあ、私を批判してみろ、という。ところが父は、
あらゆるほんとうの批判、少なくともある種の批判は歓迎されないことを強力にほのめかす)。
ベイトソンは、ここに、とりわけ分裂症をひき起す状況を認めて、ラッセルの階梯理論の見地から、
この状況をひとつの「ナンセンス」として解釈している(20)。私たちにはむしろ、このダブル・
バインドつまり、二重の袋小路はありふれたものであって、とりわけオイディプス化的な日常状況で
あるように思われる。さらに、この状況を定式化することを覚悟の上でいえば、これはラッセルの
いう別の種類のナンセンスにかかわるのである。すなわち、二者択一あるいは排他的離接はひとつの
原理との関係で決定されるが、にもかかわらずこの原理そのものが二者択一の両項または二つの
下部集合を構成していて、この原理自身が二者択一の枠の中に入っている(これは、離接が包含的で
ある場合に起きるのとは、まったく異なる事態である)。まさにここに精神分析の第二の誤謬推理が
ある。要するに「ダブル・バインド」はオイディプスの総体そのものなのである。この意味で
オイディプスはひとつの連続状態として現前し、神経症的な同一化と、いわば規範の内面化という
二極の間をゆれ動いている。どちらにしても、オイディプスがいて、それは二重の袋小路である。
したがって、ここに分裂者が臨床実体として生みだされるとすれば、それがいわばこの二重の道を
逃れる唯一の手段だからである。この二重の道においては、規範性も神経症と同じく出口をもたず、
解決も問題も同じく道をふさがれている。ここでひとはみずからを器官なき身体の上に折りたたむ
しかないのだ。
(20) G. Bateson et collab.,〈Towards a Theory of Schizophrenia〉, Behavioral Science ,
1956, I(cf. les commentaires de Pierre Fédida,〈Psychose et parenté〉, Critique, oct. 1968).
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