(注1)
Paul Krugman,“What’s Wrong With Functional Finance?(Wonkish)”, New York Times, March 22, 2019。このクルーグマンのコラムは、後述するラーナー流の機能的財政論をMMTの本質と考えるものである。
(注2)
Amazonの出版予告によると、注目度の高いステファニー・ケルトン女史の本(The Deficit Myth : Modern Monetary Theory and the Birth of People’s Economy)は来年出版とのことである。
(注3)
実際、こうした考え方は日銀で考査局長などを務めた横山昭雄氏の著書『真説:経済・金融の仕組み』、日本評論社、2015年で説明されている。もちろん、筆者が読んだのは同氏の旧著『現代の金融構造』、日本経済新聞社、1977年である。
因みに筆者は、日銀支店勤務の時期に、まだ紙ベースだった地方銀行の預金帳簿に、「貸出代わり金」の名目で日銀貸出に等しい金額を書き込んだ経験がある。この瞬間、当該銀行の日銀当座預金は同額増加したのだ。
(注4)
野口悠紀雄氏は、近著『マネーの魔術史』、新潮選書、2019年の中で信用貨幣論に基づく信用創造の理解に触れて、「これまで広く信じられてきた説明が間違いだったとは、驚きだ。この誤りは、金融政策等に関する様々な誤解の原因にもなっている」と述べ、通説的信用創造論を批判している。
(注5)
鈴木淑夫『金融政策の効果:銀行行動の理論と計測』、東洋経済新報社、1966年。かつて「窓口指導」などを担当していた旧営業局の実務家も、こうした「日銀理論」を理解していて、「市場金利が上がらないと、窓口指導も効かない」と考えていたという。なお、岩田・翁論争に代表されるような経済学界と日銀のすれ違いも、主に信用創造(と日銀券需要の短期的な外生性)に関する理解の違いに起因するものだったと思う。
(注6)
Abba Lerner,“Functional Finance and the Federal Debt”, Social Research, 1943
(注7)
この点、伊藤隆敏『日本財政「最後の選択」』、日本経済新聞出版社、2015年は、日本財政の持続可能性について、政府の予算制約式ではなく、「日本国債が日本国内の貯蓄で賄われる」ことを条件として課している。伊藤教授は教科書の説明ではなく、現実の政策論として政府の予算制約式を使うのは不適切と考えたのだろう。同書が必要な消費税率として15%程度と、経済学者・エコノミストの「相場観」とされる20~25%(トニー・ブラウン教授や北尾早霧教授らによる厳密な動学的一般均衡分析によれば、さらに高い税率が必要とされている)より低い数字を挙げているのは、財政の持続可能性に関してより現実的な見方を採っているためである。
(注8)
カルメン・ラインハート、ケネス・ロゴフ『国家は破綻する』、日経BP社、2011年。
(注9)
MMT論者はともかく、明敏な経済学者であったラーナーがこうした金利の問題を真剣に受け止めなかったのは、はっきり言って不思議である。この論文が書かれた1943年という時期を考えると、大恐慌で物価も金利も上がる環境になかった1930年代と、物価も金利も統制された第二次世界大戦中という時代背景の下、金利に関する感覚が麻痺していたのだろうか。これは、現在の日本人の多くが「物価上昇率が2%に達することは当分なく、暫くの間金利が目立って上昇することもあり得ない」と思い込んでいるのと同じことかも知れない。
(注10)
Abba Lerner,“The Burden of National Debt”, in L. A. Metzler et al.(eds), Income, Employment and Public Policy, Essays in Honor of Alvin Hansen, Norton, 1948
(注11)
Franco Modigliani,“Long-run Implication of Alternative Fiscal Policies and the Burden of the National Debt”, Economic Journal, 1961
(注12)
貨幣の一般均衡理論においては、「貨幣は○○の役に立つから価値がある」という説明は貨幣が価値を持つ均衡の存在を証明する上で役に立たないことが知られている。例えば、貨幣的交換は物々交換より効率的でPareto improvingであっても(そのことを説明するモデルは多数ある)、有限期間のモデルであれば、翌期に持ち越せない最終期の貨幣の価値はゼロになるから、その1期前の価値もゼロ・・・となって、貨幣の価値は常にゼロになってしまう。一方、無限期間のモデルを考えると、何の役にも立たなくても「皆が価値があると信じるから価値がある」といった岩井克人教授の『貨幣論』、ちくま学芸文庫、1998年のような貨幣(純粋バブル)も存在し得ることになる。
(注13)
FTPLは、もともと30年近い(Sargent-Wallaceのunpleasant monetarist arithmeticまで遡れば40年近い)歴史を持つ古くからの理論だが、日本で注目を集めたのは、シムズ教授が2016年夏のジャクソンホール・コンファレンスで発表した“Fiscal Policy, Monetary Policy and Central Bank Independence”という論文に対し、アベノミクスの理論的指導者とされる浜田宏一内閣官房参与が「目からウロコが落ちた」として賞賛したためだろう(このため、日本ではFTPLを「シムズ理論」などと呼ぶことが多い)。「財政金融政策の協調でデフレ脱却の策を授けた」などと言われることもあるが、FTPLはもともと主流派以上の健全財政を前提にした理論なのだから、日本での理解のされ方は相当に捩れたものだったということになる。
(注14)
サマーズの長期停滞論に関しては、初期のLawrence Summers,“U.S. Economic Prospects : Secular Stagnation, Hysteresis, and the Zero Lower Bound”, Business Economics 2014を挙げておく。その後の展開については、翁邦雄『金利と経済』、ダイヤモンド社、2017年、福田慎一『21世紀の長期停滞論』、平凡社新書、2018年を参照。なお、サマーズのMMT批判には、“The left’s embrace of modern monetary theory is a recipe for a disaster”, The Washington Post, March 4, 2019がある。
(注15)
Olivier Blanchard,“Public Debt and Low Interest Rates”, American Economic Review, 2019
(注16)
最も影響力が大きかったのは、Paul Krugman,“It’s Baaack : Japan’s Slump and the Return of Liquidity Trap”, Brookings Paper on Economic Activity, 1998である。ただし、クルーグマンは2015年10月のNYタイムズのコラム“Rethinking Japan”で自らの誤りをはっきり認めており、米国主流派経済学者の中では最も潔いと筆者は感じている。後述のクー氏の名前も、クルーグマンの論文の中では頻繁に引用されている。
(注17)
当時のクー氏の議論については、『デフレとバランスシート不況の経済学』、徳間書店、2003年。 また、クー氏の新著『「追われる国」の経済学』、東洋経済新報社、2019年をも参照。
(注18)
2005年、グリーンスパン議長退任前最後のジャクソンホール・コンファレンスがグリーンスパン礼賛に包まれる中、シカゴ大学のラジャン教授(その後IMFチーフエコノミスト、インド連銀総裁などを務めた)は“Has Financial Development Made the World Riskier?”という論文を公表して、金融危機のリスクに警鐘を鳴らした。その結果、日本式に言えば「空気を読めないヒト」として扱われたのは有名な逸話である。
(注19)
にもかかわらず、ブランシャールは日本に消費増税延期を提言してきた。オリヴィエ・ブランシャール、田代毅「日本の財政政策の選択肢」、Peterson Institute for International Economics、2019年5月。しかし今回は、MMT騒動と衆参同日選の有無にメディアの関心が集中していたため、大きな注目を集めることなく、消費増税の実施が決定されることとなった。
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