サッチャー時代はこう見えた by ウォーレン・モズラー(2013年4月10日)
ケルトン祭りで一部で盛り上がったKestrelさんのネタ。
“
盲人が盲人を率いていた時代の話だし、それは現状も同じ。
以上が私が記憶していることだ。
気になっているのはこれから起こることであって、当時起こったことじゃあないし。
原油価格の下落は、インフレが収まったいくつかの要因の一つで、でかいのは緊縮財政だったとのこと。
勉強になりましたー
https://twitter.com/wbmosler/status/1151825190076190720
- http://econdays.net/?p=9406
ジェイムズ・K・ガルブレイス「命取りに無邪気な七つの嘘(ウォーレン・モズラー)」 への序文
MMT(Modern Monetary Therory)創始者のひとり、ウォーレン・モズラーがサイトで配布している
SEVEN DEADLY INNOCENT FRAUDS
OF ECONOMIC POLICY、https://moslereconomics.com/wp-content/powerpoints/7DIF.pdf 2010
原文は平易な英語で書かれており、超おススメなのですが、前半(七つの嘘のパート)だけ日本語化してみたく。
嘘その1~6
http://econdays.net/?p=9414 リンク切れ★
http://econdays.net/?p=9488
http://econdays.net/?p=9522
http://econdays.net/?p=9619
http://econdays.net/?p=9668
ジェイムズ・K・ガルブレイス「命取りに無邪気な七つの嘘(ウォーレン・モズラー)」 への序文
MMT(Modern Monetary Therory)創始者のひとり、ウォーレン・モズラーがサイトで配布している「SEVEN DEADLY INNOCENT FRAUDS
OF ECONOMIC POLICY、ttps://moslereconomics.com/wp-content/powerpoints/7DIF.pdf」。
原文は平易な英語で書かれており、超おススメなのですが、前半(七つの嘘のパート)だけ日本語化してみたく。
嘘その1
嘘その2
嘘その3以降(coming soon)
まず、ガルブレイス教授による序文です。
ウォーレン・モズラーは珍鳥だ。独学のエコノミストでありながら変人ではない。投資の成功者でありながら高慢ではない。教育の才をもつビジネスマン。公共の善に真にコミットする資本家。
彼とは議会証言や時事に関する記事を一緒に書いたこともあるが、それらへの努力は自分を超えている。私が保証する。
多くの経済学者は、複雑性というものをそのまま評価する。現代の経済学ジャーナルを見れば一目で確認できる。本当に、不可解な議論が威光をもたらしているのだ!議論が明らかに不可解に見える時は、論者自身もそれをわかっていない場合が多い(フィンランドのヘルシンキで中央銀行家と国際金融経済学者の会議に出たときのことだ。ある発表の後、スウェーデンの傑出した経済学者に尋ねてみた。「あなたが教えてきた学生のうちどのくらいがその数式を追えましたか?」彼は言った。「ゼロ」)。ウォーレンの才能は簡潔にして明晰であることだ。彼は物事をできるだけ単純に考える(そのために多大な労力を払っている。真の単純化は難しいのだ)。彼は馴染みやすい比喩や、素朴な喩え話を好んでする。彼の話を使えば誰でも、ほとんどの子供(少なくとも私の子供)や同級生、金融市場のプレーヤーにその説明をすることができる。難しいのは、固定観念への強い忠誠を持つ経済学者たちだけだ。政治家はもちろん理解するのだが、自分自身の考えを口にできることが滅多にない。
ウォーレン・モズラーのこの小本は、キーとなる7つの問題についての議論が提示されている。それらは、政府の赤字や債務、財政赤字と民間貯蓄の関係、貯蓄と投資の関係、社会保障や貿易赤字に関する論点だ。ウォーレンはこれらを「無邪気な嘘」と呼ぶ – 私の父が最後の本で作ったフレーズを使ってくれた。父も喜んだことだろう。
各々の論点を結びつける糸は単純そのものだ。現代金融はスプレッドシートだ!コンピューター上で動いている!政府の支出や貸出は、民間銀行の口座の数字を増やすことでなされる。税金を集めるときは数字を減らす。借りるときは当座預金(準備預金勘定と呼ばれる)から貯蓄(有価証券勘定と呼ばれる)に残高を移す。実務的な操作はこれがすべてだ。政府が支出する貨幣はどこかから来るものはなく、貨幣を作る費用すらない。ゆえに、政府は破産のしようがない。
貨幣は政府の支出で創造される(あるいは信用を創出する銀行貸出によって)。税は私たちが貨幣を欲しがるようにするためだ – 税金を納めるために貨幣が要る。そして税は支出を制限する役割を持つ。税は私たちの支出の合計が、今の値段で入手できるモノを超えないように、つまり、物価を押し上げたりインフレーションにならないようにしている。但し、支出に先んじた税金は必要ない。必要ない言うより、できない。なぜなら政府が支出するまでは納める貨幣が存在しないから。
政府の自国通貨での借金は、デフォルトする必要が全くない。利払いとは、債券の保有者の銀行口座に金利を加えるだけなのだから。あり得るとすれば、政府が自分からデフォルト – 金的な自殺行動 – を決断するか、中央銀行に強制されるかだ。しかし米国の中央銀行は何が起こっても米国政府の小切手を決済するだろう。
政府債務が将来の重荷になるということもない。なりようがない。未来に生産されるものは未来に消費される。どのくらい生産できるかは、その時の経済の生産性に依存する。それは今日の公的債務とは何の関係もない。今日の公的債務は未来の生産性を下げたりしない。むしろ、債務こそが今日の資源の賢い活用に直結し、未来の経済の生産性を高めるだろう。
公的債務は民間金融貯蓄を増やす。会計の事実として、ぴったり同額増やす。輸入は利益で、輸出は費用だ。私たちは消費の資金調達のために中国から借りているのではない(訳注:対中国の貿易赤字の話が出ます)。その借入の資金とは、米国の消費者が米国の銀行で借りているものだ。社会保障の民営化は、単に経済に存在する株式と債券の所有者を、リスク資産はシニア層に、安全資産は金持ちに入れ替えるだけになるだろう。連邦準備制度は好きなように金利を決めている。
この小本ではこれらは全部、単純な原則として提示される。
ここにはまた、一人の金融専門家の教育についての魅力的な記述、また、米国の経済を高失業の危機から救うためのアクションプログラムが書かれている。ウォーレンの方法は、給与支払税を停止することによって勤労者の所得を8%以上増やし、州や地方政府に人口に比例した補助を出すことによって財政の危機を癒し、職を望む人ならだれでもある程度の報酬で雇う公的な雇用プログラムを提示するというものだ。これによって失業の危機を消滅させ、特に若い人々に有益な仕事を与えることになる。
ウォーレンのヒーローは、経済学者では父を別とすれば、ウェイン・ゴドリーとアバ・ラーナーだ。ゴドリーは最近亡くなった驚くべき人物で、そのストックーフロー一貫マクロ経済モデルによってこの本の内容の多くの部分の見取り図を描いた。このモデルは最も優れた景気予測ツールの一つだ。ラーナーは「機能財政論」を提示した。これは公共政策の評価は債務や赤字がどれだけになろうと、雇用、生産性、物価の安定といった現実世界の結果で判断されるべきという論だ。ウォーレンもまたラーナーの基準に忠実だ。その原則とは、経済学においては他人に理解してもらうのがどれほど困難であっても原理において妥協をしてはいけない、というものだ。願わくば自分も彼のようにこの原則を貫くものでありたい。
とにかく、この本は魅力的で、非常に有益な読み物だ。大いに推薦する。
James K. Galbraith The University of Texas at Austin June 12, 2010
MMT(現代金融理論)のエッセンス! ウオーレン・モズラー「命取りに無邪気な嘘 1/7」
この文書の原文の説明および、ガルブレイス教授による序言はこちら
嘘2はこちら
命取りに無邪気な嘘 その1:
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政府は支出するために、まず税金や借入によって資金を調達しなければならない。 あるいは、政府支出は、徴税能力と借入能力に制限されている。
事実:
“
政府の支出は、収入には全く制約されない、つまり「ソルベンシー・リスク」というものは存在しない。言い換えれば、連邦政府は赤字の大きさとは無関係に、また税収がいかに少ないとしても、自国通貨を用いた支払いをすることができる。
上のことを国会議員(私は何度も聞いた)や普通の市民に話すと、彼らは強い調子でこう言うだろう: 「…政府は、資金を調達するために徴税や借金をしなければならない。家計と同じで、使うお金は用意しておく必要がある。」そして、医療、防衛、社会保障などなどすべての政府支出についてこんな質問をしてくるだろう。
「どうやってそれを払うのだ?」
これはキラー質問だ。誰も正しくわかっていない。本書の底流である「公共の目的」の核心はこの質問に正しく答えるところにある。この本をほんのしばらく読み進めれば、それは理論でも哲学でもなく、単なる冷徹な事実なのだと明瞭に分かって行くだろう。ではこの質問に答えるべく、まずは政府がどのように税を取っているかを正確に観察し、その次にどのように支出してるかを検討しよう。
政府はどのように税を取っているのか?
スタートとして、あなたが小切手を切ることで税金を払うときに起こっていることを見てみよう。政府は小切手を受け取り、これが引き落とされて「精算」となる。政府がすることと言えば、あなたの当座預金口座の数字を減らす方向に変える。あなたの銀行の残高から小切手の金額分を差し引くことによって。この時政府は何かの実物を手に入れているとか、誰かにあげたりなどしているだろうか?違う。これは「金貨を使う」ようなものではない。この時起こっていることはオンライン銀行で実際に見ることができる。スクリーン上に表示されているあなたの口座の残高をじっと見てみよう。もとの残高が5000ドルだったとして、政府に送った小切手は2000ドルだ。小切手が精算されるとき何が起こるだろうか。数字の5が3に変わり、新しい残高は3000ドルに減った。あなたの目の前で!政府は本当に何も「得て」ないし、誰かにあげたりしていない。FEDのバケツに金貨が落とされたりしていない。彼らは銀行口座の数字を変えただけ。どこかに「行った」ものなど何もない。
それでは地元の税務署で現金によって納税する場合はどうなっているだろうか。あなたはまず窓口の人に札束を手渡すだろう。担当者はそれを数えて領収書をくれる。社会保障や国の借金への金利やイラク戦争に手を貸してくれてありがとうございますと言ってくれるといいのだが。次にあなた、つまり納税者が部屋を出る。担当者は、あなたがやっと手に入れ今手渡したばかりの現金をシュレッダーに投げ込む。
そう、それは捨てられる。破壊される!なぜ?もう使い道がないのだ。ちょうどスーパーボウルのチケットと同じだ。スタジアムに入って窓口にチケットを出すときには1000ドルの価値だったかもしれない。担当者はそれを切り刻んで捨てる。ワシントンに行けば裁断された紙幣を本当に買うことができる。
あれれ、政府は集めた現金を捨てているならば、いったい政府はどうやって支払いをしているのだろうか。社会保障やいろいろな政府の支出は?違うのだ。
政府は支出するために、あらかじめ税をとることによってお金を確保しておく必要があると考えるのはナンセンスだということが、おわかりいただけただろうか?政府がお金を「使う」前に何かを「得て」いるということは実際に無いのだ。では、以上の如く政府は徴税によって何も得ていないとすれば、何をどのように支出しているのだろうか?
政府はどのように支出しているのか?
あなたが2000ドルの社会保障給付を受け取るところを想像してみよう。受け取る銀行口座にはもともと3000ドル入っているとしよう。パソコンに表示されるその口座をじっと見えていると、政府がいっさい「現金使わず」に支出する様子がわかるだろう。3000ドルだったあなたの口座の残高が一瞬にして5000ドルになる。さてここであなたにお金を渡すために、政府は何をしただろう? 政府は、単に口座に書かれている番号を3000から5000に書き換えただけだ。パソコンに金貨を捻じ込んだわけではない。政府がしたことと言えば、政府のスプレッドシート(訳者注:エクセルに代表される、表を作るソフトウエアのこと)にデータを打ち込んだことだけなのだ。このシートは金融システムの中で無数のスプレッドシートとつながっている。政府支出とは「米国ドル通貨システム」と呼ばれる政府のスプレッドシートにデータを入力することで実施されているというわけだ。
ご参考に、これはテレビ番組の”60ミニッツ”から、よきFED議長であるベン・バーナンキの言葉だ。
スコット・ペリー: それはFEDが税金を使っているということでは?
“
バーナンキ議長:それは税金なのではありません。民間銀行は、あなたが市中銀行に口座を持つのとほぼ同じように、Fedに口座を持っています。なので、市中銀行に貸し付けを行うには、我々はFedにある市中銀行の口座残高を、簡単なコンピュータ操作で増やすだけなんですよ。
議長がきれいな英語で説明しているのはこんなことだ。「お金は、銀行口座の数字を変えるだけの操作によって払い出されている(支出にしても貸出にしても)」。支出する前に、あらかじめ税(または借入金)を「獲得」することなどまるでなくて、ただスプレッドシートに数値を入力することが、私たちが「政府支出」と呼ぶものなのだ。そのデータはどこからか「やってくる」ものではない。それなら誰でも知っている!
似たような話がどこにあるか?例えばフットボールスタジアム。ひいきチームがフィールドゴールを決めて、7点だったスコアボードが10点になった。この時、この3点ってスタジアムはいったいどこから手に入れたんだっけ、なんて気にする人いる?いるわけない!
あるいは、ボウリング場で5ピンを倒して表示されるスコアが10から15になった。あれれ、このボウリング場はどこからこの5点を手に入れたんだ?なんて不思議に思うだろうか?そんなことない!
その次、ボウリング場のシステムがあなたのフットフォールトを見つけて、スコアを5点減点したとしよう。この時ボウリング場の人は、やあこれでプレーヤーにあげられるポイントが増えたぞ、なんて思うだろうか?もちろん思わない!
このように、私たちはデータ入力がどのようなものであるか知っている。しかしどういうわけか、政治家、メディア、そしてなんと言っても、著名な主流派経済学者たちはこれをひっくり返して理解しているのだ。政府はあらかじめドルを「持っている」のでも「持っていない」のでもない。出発点として、まずはこのことを覚えよう。
スタジアムも同じで、誰かに配るために貯めた点数を「持つ」とか「持たない」ではない。ドルの話で言えば、私たちの政府は、その機関である連邦準備銀行と財務省を通じたシステムの「記録係」をしている。(同時に、ルール作りもしている!)
ここまでで「どうやってそれを払うのだ?」という質問の機能的回答が得られた。答えはこう。「政府は普段の支払いでやっているように、私たちの銀行口座の数字を変えるだけですよ。」
大統領がいつもいつも間違えるように「連邦政府の金が尽きる」ということはない。それはありえない。それから、中国だかどこかからドルを「獲得」しなければならないということもない。政府が支出の時にしなければならない事といえば、連邦準備銀行のある口座の数字を変えることだけ。政府が支出を望むなら、その金額に上限はない(社会保障でも利払いでもそう)。誰に対して払う場合であれ、政府によるドル払いは全部これなのだ。
ただし、これは政府がいくら支出しても物価が上がる(つまりインフレ)可能性がないということではない。
そうではなく政府は破産のしようがないということだ。それは単純にあり得ない。[1]
それならどうして政府の人間はこれをわかっていないような感じなのだろう。議会の歳入委員会が「どうやってそれを払うのだ?」と心配するのはなぜだろう。よく言われるところの「連邦政府も家計と同じで、まず使うお金を用意してから支出しなければならない」という話を信じているからかもしれない。そう、彼らだって政府は家計とは違うという話を聞いたことがあるだろう。でも信じられなかったのだろうし、意味が通って確信させてもらえるような説明を受けなかったのだろう。
彼らがみんな見落としているのはここだ。「自国自身が創り出す通貨による支出と、他の誰かによって創られた通貨での支出は異なる。」実は政府を家計になぞらえるのも、正しくやればちゃんとしたものができる。そこで次は家庭内の「通貨」を作る例をやってみよう。
まず親がクーポンを作ることで話が始まる。次に、子供たちに家事を頼む時にこのクーポンを与えると決める。その次は「モデルを動かす」ために、毎週10枚のクーポンを税として子供たちから集めることにする。税を支払わない子供には罰を与える。これは、私たちも税を払わないとペナルティがあるという現実の税をコピーしている。クーポンは新通貨だ。親は「支出」することによって子供たちから「サービス」(家事)を購入する。この新しい家庭内通貨における両親は、通貨の発行者として連邦政府に相当する。この「独自通貨を持つ家計」は独自通貨を持つ政府と非常に似ているとわかるだろう。
では、この通貨がどのように機能するかの質問だ。親は子供の雑用への対価としてクーポンを支払うことになるが、そのためにあらかじめ子供たちからクーポンを徴収しておかなければならないのだろうか?もちろんそんなことはない。むしろ逆に、週10クーポンを徴収できるようにするためには、先に子供に家事をしてもらってクーポンを支払っておく必要がある。そうでなければ子供たちは親に支払うクーポンを得ることができない。
現実の経済でも、政府はちょうどこの家庭と同じように自国通貨の発行者なので、支出のためのドルを、どこかから税を取ったり借りたりするなどして準備しておく必要がない。現代の技術をもってすれば、政府は親がクーポンを印刷するようにドルを印刷する必要すらない。
覚えてほしい。ボウリング場に点数をためる箱がないのと同じように、政府がドルを持つとか持たないではない。ドルの場合では私たちの政府が記録係だ。親子クーポンの話では、親がどれだけクーポンを持っているかはどうでもいいことになる。親は、子供たちがどれだけ稼いだか、と、彼らが毎月の10クーポンを支払ったかどうかだけを紙一枚にメモしておくだけでいい。政府が支出するときも、元手がどこかから「やってくる」わけではない。フットボールスタジアムやボウリング場のポイントがどこからか「やってくる」わけではないのと変わらない。また、政府が税を取っても(または借りても)、支出のために使える「蓄えられた原資」が増えるわけではない。
政府の支出を実際に行う(銀行口座の数字を加算する)財務省の人たちは、税金を集めている歳入庁の人たちの電話番号すらしらないし、接触もしない。同じ財務省の中の「借入」(国債の発行)担当者との接触もない。集めた税額や借り入れた額が本当に重要事項なのだったら、少なくともお互いの電話番号くらいは知っているはず!支出という目的に関してそれらは明らかに重要ではないのだ。
私たちの側は(政府側ではないですよ)、何か支払いをするためには、ドルをあらかじめ持っておく必要がある。これは子供たちが週ごとのクーポンを親に払うため、あらかじめ親からクーポンを稼がなければならないのと同じだ。州政府や市町村や企業も、私たちと同じ舟に乗っている。ドルの支出できるようになるためには、まずどうにかしてドルを用意できる状態になっていなければならない。稼いだり、借りたり、何かを売ることで初めてドルを使えるようになる。つまり私たちが納税しなければならないドルが直接的または間接的に由来しているのは、通貨の始まるところ、つまり政府の支出からなのだ。(政府の借入もあるが、その議論はのちほど)
では次は、国の通貨をゼロから作ってみよう。新しい通貨を持つ新しい国を想像しよう。国民はまだ誰も通貨を持っていない。政府はまず、たとえば固定資産税をとりますよ、と宣言する。さて、それはどうやって支払われるだろう? 政府が支出を開始してくれないとできっこない。政府が支出をスタートすることで初めて人々は納税のための新しい通貨を準備できるようになる。
繰り返す:納税の元手になるものは、もともと政府の支出(または借入)に由来するもの。それ以外に何があり得ようか?[2]
そう、つまり究極的に言えば、政府は私たちに納税に必要な原資を提供するため、まず支出しなければならないのだ。そしてこの意味で政府とは、子供からクーポンを回収するためにはそれを使わなければならなかった親と同じだ。政府にしろ親にしろ、支出した以上の通貨を集めることは不可能だ。ほかのどこかから来るなんてことがあるだろうか?[3]
というわけで、いまの政治家は、支出を可能にするために税金を取るか借りるかして、私たちから貨幣を取る必要があると信じている。しかし本当はこうだ。
私たちが税金を払えるようにするためにはまず政府の支出が必要だ
私たちは政府(やボウリング場やフットボールスタジアム)がやっているように、「数字を変える」ことができない[4]。子供たちが毎週のクーポン支払いのためクーポンを稼ぐか入手しなければならないのと同じように、私たちはドルで税金を払うためにそれを稼ぐか入手しなければならない。もうお分かりのように、家庭内クーポンを発行している家計とちょうど同じだ。子供たちが親に支払うのに必要なクーポンは親から受け取るしかないのだ。
そして、前に述べたように政府支出はオペレーション上、収入(税収や借入)に制約されることはない。いや、議会が「自分から課している」制約なら現実に存在するが、それは全く別の問題だ。なるほど債務上限ルールや財政収支ルール、FEDによる国債買入禁止ルールなどは存在する。これらはすべて、金融システムの生きた知識を持たない議会によって課されているルールに過ぎない。公共の目的を推進するという観点からは、今の金融制度の下でこれらの制約を自ら課すことは生産を制限することに繋がる。
こうした制約は、金融という配管の中にわざわざ障害物を設置するようなもので、わざわざ問題を作り出しているものだ。事実、これらわざわざ置いた障害物が、この間の金融危機を実体経済にまで流出させ、不況を招くことになったのだ。
政府支出が、機能として収入に制約されていないという事実は、「ソルベンシーリスク」は存在しないという意味になる。言い換えれば、債務がどれだけ多いとしても、また税収がどれだけ少ないとしても、政府はいつでも自国通貨で支払いをすることはできる。
ただし、政府は何の問題もなく好きなだけ支出できるという意味ではない。過剰な支出は物価を上昇させ、インフレをあおる。
この文が意味するのはソルベンシーリスクは存在しないということで、言わば連邦政府は破産しないということであり、オバマ大統領か何度も言う「支出するお金が無くなる」とか「政府の支出はいくら借りることができるかに制限されている」とうことはない、ということだ[5]。
お次はこの質問が来るだろう。 「社会保障のお金はどこから来るの?」。それにはこう答えよう。「それはただのデータ入力です。ボウリングのスコアと同じところから来るのですよ。」
別の言い方をすれば、政府の小切手は、政府が不渡りにしようと決断しない限り不渡りにならない。
政府の小切手は不渡りにならない
数年前、オーストラリアの経済学カンファレンスで「政府の小切手は不渡りにならない」と題した講演をした時のことだ。聴衆の中にオーストラリア連銀で首席研究員を務めるデイビッド・グルーエン氏がいた。あれは最高のドラマだった。その数年前から私はこの学会で何度か講演をしていたのだが、「政府のソルベンシーは問題ではない」ということを参加者の多くに本当に分からせることまではできていなかった。彼らはいつも最初にこう言っていた。「オーストラリアのような小規模な開放経済はアメリカ合衆国と違うってことをアメリカ人はわかっていない」と。教育を受けすぎた(おそらく)脳には、この論点に限れば経済の規模は全く関係ないということが、なかなか理解されないようだった。スプレッドシートはスプレッドシートだ。ビル・ミッチェル教授と彼の同僚の数人以外の人たちには「心の壁」があって、もし「マーケットがオーストラリアに反乱を起こして”債務を調達”できなくなったらどうなるのか」という深い怖れを抱いていた。
そういうわけだったので、私は米国政府の小切手は不渡りにならないという話を始めたのだが、数分話したところで、デイビッドの手が上がり、中級の経済学部の学生がよくやるようなお馴染みの台詞を言った。「もし債務の金利がGDPの成長率を超えたら、政府債務は維持不能だ。」質問ですらなく、あたかも事実だとして述べたのだ。
対して私はこう答えた。「さあ私は連銀の端末入力担当者だ。デイビッド、教えてくれないか、”維持不能”っていうのはどういう意味だい?金利がとても高くて、過去20年間で政府債務が大きくなりすぎたから政府は金利を払えないと言うのかい?自分はちょうどいま年金受給者への小切手を切るところだけれど、この小切手が不渡りになるよと言っているのかい?」
デイビッドは黙り、深い思考に沈み、このことを考え続け、ついにこう言った。「ああ、自分は今日ここに来た時まで、準備銀行の小切手清算がどのように機能しているのかちゃんと考えたことがなかった。」さらにユーモアを挟もうとオバマ大統領の言葉を引用した。しかし、そこにいた誰も笑ったり音を立てたりしなかった。全員が彼の答えを待っていた。それはこの議論の「天王山」だった。ついにデイビッドは言った。「いや、その小切手は普通に処理する。でもそれはインフレを引き起こし通貨価値を下げる。人々が”持続不可能”という言葉で意味しているのはそれなんだ。」
聴衆は死んだように静かだった。長い議論は終わった。小規模な開放経済だろうがソルベンシーは問題ではないのだ。「そうだ、我々はいつもそれを言っていたんだ」といういつもの一段階上の観点からのコメントが来たが、ビルと私で瞬時に撃退した。
私はデイビッドに話し続けた。「ええと、ほとんどの年金支払者が関心を持っているのは、引退したときに基金が存続しているだろうか、とか、オーストラリア政府はもう基金に支払うことができなくなるのでは、ということじゃなかったのかな。」対してデイビッドはこう答えた。「いや、彼らが心配しているのはインフレーション、オーストラリアドルの水準だと思う。」するとニューカッスル大学の経済学部長のマーチン・ワッツが嘴を入れた。「彼らは悪魔だ、デイビッド!」。デイビットは考え深げに認めた。「イエス、あなたが正しいようです。」
あの日、シドニーの学会で参加者が確認したこととは何だっただろう? 独自通貨を持つ政府は、政府が望みさえすれば、常にフットボールスタジアムと同じように、ボードに好きなポイントを入れることができる。過剰な支出の帰結はインフレーションかもしれないが、決して破産ではない。
事実はこうだ。:政府債務が支払い不能を引き起こすことはあり得ない。ソルベンシーの問題は存在しない。支出とは政府自身の準備銀行に持つ口座の数字を増やすだけの行為なのだから、「お金を使い果たす」ということはない。
そう、家計や企業、そして地方政府は小切手を切る際にあらかじめ銀行口座にドルを持っている必要がある。さもないと不渡りになってしまう。それは彼らが支出するドルを創造しているのが別の主体 – 連邦政府 – だからだ。家計や企業、そして地方政府はドルの記録係ではないのだ。
政府が税を取る理由
では政府は支出のために何かを得ているわけではなく、そうしておく必要もないのなら、政府はどうして私たちに税を課しているのだろうか?(ヒント:親自身はクーポンを必要としないのに子供から週10のクーポンを取る需要がある。それと同じ理由だ)
政府が私たちから税金を取ることには、大事な理由がある。税は、経済の中に「ドルを獲得するニーズ」を生み出すのだ。このことゆえに、人々はドルを得るためにモノやサービスや労働を売らなければということになる。納税の義務があるからこそ、政府はもともと何の価値もない紙切れでモノを買うことができる。そのドルを納税のために必要とする人がいるからだ。子供たちに課するクーポン税が、家事をすることで親から稼ぐクーポンのニーズを生み出している。固定資産税で考えよう(所得税で考えるのは現時点ではちょっと早い。結局は同じことなのだが、回りくどい複雑な話になってしまうからだ)。さて、あなたは固定資産税をドルで払うか、さもなければ家を失ってしまう。ちょうど子供と同じ状況だ。子供たちも10クーポンを手に入れなければ罰を受けることになる。そこであなたは何かを売ろうと考える。必要なドルを入手するために、モノかサービスか労働力を売らなければと。これは、必要なクーポンを得るために家事をしようと動機づけられる子供とまさに同じだ。
最後になるが、「税を納めるためにドルを必要としている人たち」と「モノを売ったり買ったりするためにドルを欲したり使ったりする人々」の関係を見よう。ここで、新しい通貨を持つ新しい国の例に戻る。通貨の名前は「クラウン」とし、固定資産税が課されるとしよう。政府がこの税を課す目的の一つは、軍隊の創設だ。兵士の給料を「クラウン」で支払うと定めて志願者を募る。固定資産を持っている人々は、いきなりクラウンを得る必要に迫られるが、そのうちの多くの人々は兵士となって政府から直接クラウンを得たいとは思わない。彼らは自分の持つモノやサービスを売りに出して、軍隊に参加しなくても、交換によって必要なクラウンを得られないかと行動し始める。固定資産を持たない人々から見ても、チキン、トウモロコシ、衣服や、散髪、医療など、多くの欲しいモノやサービスが売りに出されているということなる。モノやサービスを売っている人々は、軍隊に参加せずに税金を納めるためのクラウンを受け取りたい。これらのモノがクラウンとの交換のために売りに出されることにより、貨幣を得ようと軍に参加した人々も、必要なモノやサービスを購入するための貨幣を得ることになる。
物価は「政府が必要とする兵士数が集まるところ」に調整されて行く。そこに調整されるまでは、納税者全員が税を納めるには支出総額が足りないので、クラウンが必要だけれども軍には参加したくない人々は売りに出すモノやサービスの価格を必要な金額が得られるところまで下げるか、あきらめて軍に参加するということになるからだ。
次に紹介するのは理論上の概念ではなく本当に起こったことだ。1800年代のアフリカで、英国が作物を作るために植民地を作ったときの話だ。最初英国は現地の人々から職を募ったが、英国のコインを稼ぐことに興味を示さす者は誰もいなかった。そこで英国はすべての住居に「小屋税」を課し、それは英国の硬貨だけでしか納められないものとした。すると地域はたちまち「マネタイズ」され、人々は英国の硬貨を必要とすることになり、それを得るためにモノや労働力を売りに出し始めた。こうして英国は彼らを英国硬貨で雇い、作物を育てることができるようになったのだ。
これはちょうど、親が子供に家事をやってもらうため子供たちから労働時間を得ていたのと同じことだ。そして、これがドルや円、ポンドといったいわゆる「不換貨幣」のしくみだ(金本位制は終わり、固定相場制も今やわずかに残っているのみだ)。
さあ、以上で現代経済における税の役割を、経済学の言葉を使って新たな角度から見る準備が整った。勉強してきた経済学者なら「税の総需要抑制機能」と言うものだ。この「総需要」とは「購買力」のカッコいい言い方だ。
政府が私たちから税を取るのは、ある一つの理由のためだ。支出を限定することよって通貨の希少性と価値を維持するのだ。あるいは、「インフレを引き起こすことなく政府が死守する余地を残すため」に私たちからお金をとっている考えてもいい。経済を巨大デパートだと考えてみよう。毎年、私たちみんなが生産し売りに出しているモノやサービスでいっぱいの巨大デパートだ。そして仮に、私たちはデパートで売っているものをちょうど全部買うだけ給与をもらったり利益を稼げたりできている、としよう。(つまり、さらに借り入れができればデパート全部のもの以上を買える)。もしその時、いくばくかのお金が税として奪われると、デパートで売られているもの全部を買うには購買力がその分足りないということになる。こうして欲しいものを政府が買う「余地」が生まれる。ここで政府が欲しいものを買えば、政府と私たちの支出を合わせてても、デパートで売られているもの全部より多いということにはならない。
ところが、政府が税を取りすぎる(支出に比して )と 、デパートで売られているものがすべて売られるには総支出が足りない、ということになる。企業が生産したものがすべて売れないと、人々は職を失い、支出するお金が足りなくなり、モノはさらない売れなくなる。人々はさらに職を失い、経済は下降スパイラルに陥る。これは不況と呼ばれているものだ。
政府が税を取っている裏には、公共インフラを提供するという公的な目的があることを覚えておいてほしい。公共インフラとは軍や、法律システム、議会、政府の執行機関などなどだ。これらを初め、いちばん保守的な人でも政府に任せたいと考える事柄はかなりたくさんある。
では、こんなことを考えてみよう:私たちにとって望ましいように国が運営されるとして、その「適正」な政府支出はどのくらいで、税はどのくらいであるべきだろうか? この質問をする理由だが、ここで伝えたいのはこういうことだ。「政府支出の適正額」とは、正しく理解されれば、これは経済的、政治的な意思決定なのであって、政府の財政状態とは何の関係もないものなのだ。政府を運営する真の「コスト」とは、運営のために消費する現実のモノとサービスだ。それは労働時間、燃料、電気、炭素繊維、ハードディスクなどなど、政府が買わなければ民間の人々も入手可能なものだ。従って、政府が政府運営のため実物資源を買い上げると、民間部門の活動のために残る実物資源はだいぶ減少することになる。人的資源を例にすれば、防衛のために十分な兵力を持つ軍隊の兵士数とは、民間で作物を育て、車を製造し、医療行為をし、株や不動産を売る事務をし、家にペンキを塗り、芝生を刈るなどなどをする人がどれだけ減るかということと関係する。
それゆえ、私の考え方からは、「適正な」水準の公共インフラを備えた政府の大きさとは、「財政」の観点からではなく、実質的な便益と費用に基づいてまず決めるべきということになる。この時金融システムとは、私たちの現実の経済と政治的な目的を調整するために使われる道具なのであって、何をするかを決めるときに参照する情報源ではない。こうして適正なサイズの政府のためには何をどれだけ買う必要があるかがまず決まったら、税は、政府がその買い物をした後に「デパート」に残っている売り物を買うのに十分なだけの購買力が私たちに残るように調整される。私の見立てでは、一般的に税は政府支出よりだいぶ少なくなるのがいい。理由はすでに説明したし、この本の後でも詳しく論じる。こう考えると、GDPの5%ほどの財政赤字あたりが基準になるだろう。今でいえば毎年7500億ドルというところだ。しかしながら、この数字自身に絶対的な意味があるわけではなく、状況によってだいぶ多かったり少なかったりする。大事なのは、税の目的とは、経済が過熱しすぎず、また停滞しすぎにもならないようにバランスをとることだ。私たちが望む政府の大きさと範囲を先に決めるので、税額はその適正量に合うように設定されることになる。
これが意味するのは、経済を低迷から救い出すために政府を大きくするべきではないということだ。あらかじめ適正な大きさの政府にしてあるのなら、経済低迷のたびに政府を大きくするべきではない。もちろん、低迷期に政府支出を増やせば多くの仕事が創出され、低迷は終わるだろう。しかしそれは、適切な減税によって民間の支出を望ましい量に再生することによって低迷を終わらせるのに比べ、だいぶ劣ると思う。
さらに悪いのは、財政黒字の時に政府を大きくすることだ。再度言うが、政府の大きさがどれくらいであるべきは政府の財政とは何の関係もない。それは財政とは完全に独立に決めるものだ。この政府支出の適正量は、税収とも借入能力とも全く関係がない。その二つは単に公共の目的に資する政策実現のための道具に過ぎず、支出するしないの根拠にはならず、そもそも政府支出に必要な収入源でもない。
政府の役割がどうあるべきかについての細かい意見は本の後半になるが、安心してほしい、ビジョンとしては基本的な公益基盤に集中する、今よりずっと合理的で効率的な政府だ。幸いなことに、それを容易に成し遂げる、ものすごく賢明な方法が存在する。規制をはるかに小さくしても、公的目的をより良く推進するために、市場の力を導く適切なインセンティブを導入することは可能だ。結果として世界にうらやましがられる政府と文化ができるだろう。私たちのアメリカ的価値、つまり、真摯な労働やイノベーションの奨励、平等な機会の提供、公平な結果、真の誇りをもって遵守される法と規制といったものを表明する政府になるだろう。
少し脱線した。税金はどのくらい必要かという問題に戻ろう。もし政府が単純に政府に必要なものだけを買おうとし、私たちから購買力を奪わなかったら、つまり税を取らなければ「少な過ぎるモノを多すぎるお金が追いかける」ことになりインフレになるのだった。実際のところは、そもそも税がなかったら、国の貨幣でモノを売ろうという人がいなくなるというのは先に論じたとおりだ。
こういったインフレを起こさないように政府が支出をしていくためには、政府は徴税によって私たちの購買力をいくらか除去しなければならない。何かに支払うためではなく、支出がインフレを引き起こさないようにするためだ。経済学者ならこんな風に言う。税の機能は収入を増やすこと自体ではなく、総需要を統制することにある。言い換えれば、政府が私たちに税を課し、私たちのお金を奪うのはインフレを避けるためであって、支出するためのお金を獲得するためではない。
再度言う。税の機能は経済を統制するためであって、議会の支出のためのお金を得るためではない。
そして、これも再度言うが、政府はドルを持っているわけでも持っていないわけでもない。政府は単に私たちの銀行口座の数字を増やすことによって支出し、減らすことによって徴税している。こうした行為は、経済を統制するという公共の目的のためと考えられる。
しかし、政府がこの「命取りに幼稚な嘘」の第一番、「政府が支出をするためには、まず税金や借入によって資金を調達しなければならない」を信じ続ける限り、産出と雇用を制約する政策が支持され続けていくだろう。そうやらなければ素晴らしい経済的結果など、容易に達成できるのだが。
- いま心の中で疑問がわいたと思う。それにはこの本でもすぐ後でも答えるが、ここに簡単に書いておく。
疑問:政府が支出のための税を必要としないなら、いったいどうして税を取るのか?
答え:政府が税金を取るのは、経済学者が「総需要」(「購買力」をカッコよさそうに表す言葉)と呼ぶものを調整するためだ。簡単に言えば経済が「加熱しすぎている」時には税を増やすことで冷やし、「低迷しすぎている」時には税を減らして温める。税は支出のためのお金を得るためのものではなく、購買力が強すぎてインフレになったり、弱すぎて失業や不況を招いたりすることがないように調節するためのものだ。
[↩] - 準備預金の会計を理解している人のために。FEDは準備預金を加えずしてそれを除去することはできない。それでは決済日に国債残高が増えていた時にFEDがやることは何か?レポ取引を行う。金融システムに資金を提供し、国債を買わなければならない。そうでなければ国債を買う資金がないので、銀行は資金不足に陥ってしまう。ここでFEDにおける資金不足とは何だろう?機能の面では、それは政府からの借り入れだ。それゆえ、いずれにしても国債を買うために使うお金はいずれにしても政府自身に由来するということになる。税を支払うにせよ国債を買うにせよ、その資金は政府の支出に由来しており、政府の支出がまずあって、次に徴税や借り入れができるようになるという順番だ。 [↩]
- 金融システム内部ではどうなっているかについてのメモ:
小切手を切ることで政府に納税をするとき、政府はあなたの銀行がFEDに持っている準備預金口座から引き落とす。準備預金は民間部門では生み出せず、FEDに由来するしかない。もしあなたの銀行が準備預金を持っていなかったら、あなたの小切手はその銀行の準備預金不足となる。準備預金不足はFEDからの借り入れに他ならない。したがって、いずれにしても政府に支払うための資金は政府にのみ由来している。 [↩] - ここで思い出してほしいのが、州政府や地方政府は、連邦政府のようなドルの発行者ではなく、ドルのユーザーだということだ。地方政府は私たちと同じ位置にいる。いずれも小切手を切る前には銀行口座に資金を用意しておかないと破産してしまう。親と子の比喩で言えば、地方政府は与える前に獲得しておく必要がある子供と同じ位置にある。 [↩]
- バラク・オバマ大統領から引用 [↩]
MMT(現代金融理論)のエッセンス! ウオーレン・モズラー「命取りに無邪気な嘘 2/7」
この文書の原文の説明および、ガルブレイス教授による序言はこちら
命取りに無邪気な嘘 その2:
“
政府赤字は、子供たちの世代に債務という負担を残すことになる
事実:
“
そのような、ある世代全体に及ぶ負担は存在しえない。子供たちは、債務があろうがなかろうが彼らが生産できるものなら何でも消費することができる。
これは、政府の赤字財政支出は問題であると認識している多くの人が最初に頭に思い浮かべている「無邪気な嘘」だ。いま支出のために借りるということは将来返すことになるのだろうと。メディアもいつもそのように報道している。
“財政赤字の増加は将来の増税を意味する”
そして赤字財政支出で支払いを後回にすると、私たちの子孫の生活水準や福祉を損なうことになる。
プロの経済学者たちはこれを「世代間」債務問題と呼ぶ。それは「政府が赤字財政支出をすると、その支出の支払い負担が将来世代に残る」というようなことだ。
巨額の数字が、今にも倒れてきそうだ!
しかし幸いなことに七つの命取りに無邪気な嘘はこれ全部、やさしい理解の仕方によってあっさり却下することができる。「将来、私たちの子孫のモノやサービスが奪われる、その理由は”国の借金”と呼ばれているもののためだ」という考えはひたすらバカバカしいのだ。
要点を伝えるための話をしよう。数年前のことだ。セント・クロイ島のボートデッキで、かつて上院議員やコネチカット州知事を務めた、ローウェル・ウェイッカー氏と夫のクラウディア夫人にばったり出会った。私はウェイッカー知事にこう尋ねた。「この国の財政政策にまずいとこはありますか?」 彼の返事は、「今の支出の支払い負担を子供たちに残す赤字の増大を止めなければならない」というものだった。
そこで自分は、彼の論理の背後に隠されている嘘を表現できないかと願いつつ次の質問をした。「子供たちがこれから向こう20年間で毎年15万台の自動車を製造するとして、そこで彼らは、さあ負債を返済しようと考えて2008年の今にその自動車を送ったりするでしょうか。我々だって、第二次大戦以来の債務を返済するためにモノやサービスを1945年に送ったりしているでしょうか?」
今私はコネチカット上院議員に立候補しているが、全く同じことを言っている。他の候補者たちのホットなテーマは、「私たちは現在の支出のために中国などから借金をしていて、子や孫に支払いのつけを回している」とのことだ。
もちろん、もうお判りのように、私たちは政府債務を支払うために時をさかのぼりモノやサービスを過去に送り返したりしていないし、子供たちもそんなことはする必要がない。
将来、子供たちが仕事に行ったり、モノやサービスを生産する時に、過去の政府支出がその妨げになる理由もない。また、子供たちの未来においても(いまも同じなのだが)国債残高がいくらであろうと、その時生きている人は誰でも仕事に行けるし、モノやサービスを生産したりそれを消費することができるのだ。「過去のために」と今年の生産を諦め、諦めた分をご先祖世代に送り返すなどということはない。子供たちは、私たちが彼らに残す何であれ、私たちに返さないし、返すことができない。返したいと望んだとしてもだ。
赤字支出の調達とは、何ら重大なことでもない。政府が支出するとき、政府は私たちの銀行口座の数字を増える方向に「変える」だけだった。より精確にはこうだ。私たちが普段使っている民間銀行がFEDに口座を持っていて、それは準備預金口座と呼ばれている。海外の政府もまたFEDに同様のを持っている。これら準備預金口座は、ちょうど民間銀行が持つ当座預金口座と見なせる。
政府が支出するときに(税は関係ない)政府がすることと言えば、適切な当座預金(準備預金口座)の数字を大きくすることだけだ。たとえば政府があなたに2000ドルの社会保険の支払いをするときは、あなたの口座を置いている銀行がFEDに持っている当座預金口座の数字を2000ドル増やす。さらに自動的に、あなたの口座の数字が2000ドル増えることになる。
次に「国債とは実際のところ何であるか」を理解しよう。国債とは、FEDに置かれる普通預金だ。国債を買うときにFEDにドルを送ると、将来のどこかの時点で彼らは利子を付けて返してくる。民間銀行の普通預金と同じだ。銀行にドルを送ると、彼らは利子を付けて返してくる。銀行が2000ドル分の価値を持つ国債を購入するとしよう。FEDはこの国債の支払いを受けつけるため、銀行がFEDに持っている当座預金の口座の数字を2000ドル分減らし、普通預金口座の数字を2000ドル増やす。(ここで私は国債のことを「普通預金口座」と言っている。そうなのだから。)
言い換えれば、政府が「借金する」と言われているものをするときに政府がすることとは、FEDにある当座預金から普通預金(国債)に残高を移すことなのだ。FEDは全部で13兆の債務を持っているが、これは「経済が全体としてFEDに持っている普通預金がその額である」という以上の意味はない。
さて国債が満期を迎え、その「債務」を返済しなければならない時には何が起こるだろうか? そう、もうおわかりの通り、FEDにある普通預金口座(国債)からFEDにある適正な当座預金口座(準備預金)にドル収支がシフトするだけだ。何も新しいことはない。はるか以前からそうされている通りなのだ。しかしこれほどシンプルで今後も問題になるわけがないということを、誰も理解していないように思われる。
連邦政府の徴税と支出が作用するのは分配だ
分配とは、生産されたすべてのモノとサービスが誰のものになるかということだ。政治家が法案を通すたびにやっていることだ。彼らは制度によってモノやサービスの行き先を変える。良い方向の変更もあれば悪い変更もある。良くなる方の確率を上げるのは、7つの「命取りに無邪気な嘘」への無理解を減らしていくことだ。たとえば議会では毎年税制について議論するときに収入と支出に注目している。「いちばん払えそうなところに課税」。「必要とされているところに支出」。また、利息やキャピタルゲインや不動産、もちろん所得にどうやって課税するかも決めている。これらはみな、分配の問題だ。
議会はまた、政府は誰を雇って誰を解雇するか、モノを誰から買うか、誰が直接給付を受けるかを決定する。さらに、価格や収入に直接影響を及ぼす法を作りもする。
米国ドルを持っている外国人には特有のリスクがある。彼らは私たちにモノやサービスを売ることによってドルを稼ぐが、将来私たちからモノやサービスを買える保証はない。物価が上がる(インフレーション)かもしれないし、外国人が私たちから買いたい物に合法的に課税することもあり得る。この場合彼らの購買力が減少するということになる。
たとえば、昔、日本が私たちに一台2000ドル以下で自動車を売っていたとしよう。彼らはそのドルをFEDの普通預金口座にずっと持っていた(米国の国債を持っている)として、今彼らがこのドルを使いたいと思っても、自動車を買うためには一台20,000ドル以上は必要になるだろう。彼らはどうしたらいいだろうか?メーカーに電話して文句を言う?彼らは、何百万台の素晴らしい自動車をFEDの帳簿に置かれた信用と交換したのだ。それによって買うことができるのは私たちが許可したものだけだ。最近起こったことを見てみよう。FEDは金利を引き下げたのだが、これによって日本が米国国債から得る金利が減少した。(この議論はこの先の別の「無邪気な嘘」に続く)
これは全部、合法的で日常的なものだ。毎年の産出は全体の生活水準に広がる。債務残高があるからといって現実の産出がどこかに消えたりはしない。債務の大きさとも関係ない。債務残高が産出や雇用を減らすこともない。むしろ分かっていない政治家たちが債務を減らす決定をすることが産出と雇用を減らす。残念なことに今はそれだ。だからこれは「命取りに無邪気な嘘」なのだ。
今日(2010年4月15日)、議会は増税によって政府支出の余地を必要以上に増やし、私たちからさらに購買力を奪おうとしている。私たちが欲しいものに支出したとしても政府の巨大支出は可能だ。経済と呼ばれる大きなデパートにはまだ売れていないものがたくさん残っているのだから。
どうしてそれが分かるかって?簡単!失業者の数を数えればいい。この経済にどれだけ巨大な余剰能力があるかを見ればいい。FEDが「産出ギャップ」と呼ぶもので、私たちが今生産しているものと、完全雇用の時に生産できるものの差だ。それは凄い量だ。
もちろん、赤字や政府債務は「記録」されるが、もう知っている通り、それはFEDが国債と呼んでいる私たちが普通預金に預けている額だ。ついでながら、米国の累積赤字を経済の規模との比率でみると、まだ日本より小さく、ほとんどのヨーロッパ諸国よりだいぶ小さく、第二次大戦当時に大恐慌から脱出するためだったそれ(そして後の負担にはならなかった)よりもはるかに小さい。
この本を深く理解したあなたは、赤字の規模は財政運営上の問題ではないということに気付いているだろう。税の機能は経済を統制することであって、議会が考えているように歳入を増やすことではないと気づいてくれたらうれしい。私にはいまの経済からの悲鳴が聞こえている。人々が支出するのに十分なお金を持っていないと叫んでいる。購買力が強すぎて使い過ぎだと叫んではいない。これに同意しない人、いる?
失業は倍増している。GDPは、もし議会が課税し過ぎず、また、これほどまでに私たちから購買力を奪わなかったとした場合に比べ10%以上は小さいだろう。
私たちが潜在力を発揮していないということは – 完全雇用に達していないということは – 子孫の利益のために生産できる物やサービスを子孫からも奪っていることになる。同じように、高等教育への助成の削減は、子供が将来彼らにできる最高のことをするのに必要な知識を彼らから奪っている。また、基礎研究や宇宙開発への支出削減は、そこからの果実を子供たちから奪い、その代わりに今この失業を維持しているということになる。
そう、生きている人々は、今年産出するものを消費することができるし、さらに産出のいくらかを「モノやサービスへの投資」という形で使おうと決めることもできるのだ。それは将来の産出を増やすだろう。そしてそう、今年の産出を誰がどう使うかについて最大の発言力を持つのは議会だ。過去の財政赤字に由来する分配問題があるなら議会で議論すればいい。分配は合法的手続きによって人々の満足に変えることができるのだ。
中国への返済はどうする?
政府債務の返済を心配する人は、それが実務的にどのようなものかをボルトとナット(入金記帳と出金記帳)レベルでの理解ができていないのだろう。そうでなければそういう心配に意味がないと気付いているはずだ。彼らが分かっていないのは、ドルも国債もどちらも「口座」にほかならず、政府が帳簿に乗せている「数字」以上のものではないということだ。
まず最初は、私たちが中国とどうやって現状に至ったのかを見てみよう。最初は中国が私たちにモノを売りたいと思い、私たちがそれを買いたいと思ったのがスタートだ。例として、米軍が一億ドルの制服を中国から買おうして、中国はその値段で制服を売りたいと望んだとしよう。よって米軍は中国から一億ドルの制服を買ったと。ここでは両者がハッピーであることを理解してほしい。そこに「不均衡」などない。中国は一億ドルよりもユニフォームよりを持っていることもできたし、売れなかったかもしれない。米軍はユニフォームでなく一億ドルを持っていることもできたし、買えなかったかもしれない。元の論点に戻ろう。中国はどうやって支払いを受けるのだろうか。
中国は米国の連邦準備銀行(FRB)に準備預金口座を持っている。準備預金口座とは簡単に言えば当座預金口座の格好良い名前だ。「連邦準備銀行」だから、当座預金口座と呼ばないで「準備預金」口座と呼ぶわけだ。さて中国への支払いのため、FEDは中国がFEDに持つ当座預金口座に一億ドルを足す。口座の数字を変えるだけ。この数字は別にどこかから来たわけではなくて、フットボールのスコアと何も変わらない。中国には選択肢がある。何もしないでそのまま十億ドルをFEDにある当座預金に置いたままでもいいし、米国の国債を買うこともできる。
繰り返すが、国債は簡単に言えばFEDに置かれる普通預金の格好の言い呼び方だった。買い手はFEDにお金を渡し、後日金利付きで返ってくる。これは普通預金だ。銀行にお金を渡し、後日金利付きで返ってくる。
仮に中国が一年物の国債を買うとしよう。そこで起こることはこうだ。「FEDは中国の当座預金から一億ドルを引き、中国の普通預金口座に一億ドルを加える。」そして一年物の国債の満期の一年後に起こることはこれだけだ。「 FEDは中国の普通預金口座からそのお金(利息が付いている)を差し引き、FEDにある中国の当座預金口座に加算する。」
中国は現時点で、二兆ドルほどの米国国債を持っている。それらが満期になり中国に返済するときが来たら私たちはどうする? FEDの普通預金口座にあるそのドルを減らし、FEDの当座預金口座に足したら、あとは何なら、彼らが次に何をしたいと言うかを待てばいい。
これは政府の債務が満期を迎えたときにいつも、常に起こっていることだ。FEDは帳簿上の普通預金口座から数字を減らして当座預金口座の数字に足す。人々が国債を購入する場合は、FEDは当座預金口座から減らして普通預金口座に加算する。どうして大騒ぎするわけ?
ただただ悲劇的な無理解だ。
中国は私たちが「債務償還の原資を調達」する必要がないと知っていて騒ぎをバカにしているだろう。今ならガイトナー、クリントン、オバマ、サマーズやそれ以外の行政の執行者たちもそのバカに含まれる。議会やマスコミもバカだ。
興味のある読者のために、より技術的な書き方をしよう。例えば短期、中期、長期の国債が銀行に買われるとき、私たちが「金融システム」と呼ぶスプレッドシートへの入力が二つなされる。まず、政府は買い手がFEDに持つ準備預金勘定(当座預金)からの引き落としをする。次に、買い手がFEDに持つ有価証券勘定の数字を増やす(振り込む)。いつも通り、政府は単にスプレッドシートの数字を買えるだけだ。片方の数字は小さくなり、もう片方が大きくなる。そして満期日が来ると、中国が持っているその国債が償還される。FEDはもう一度スプレッドシートの二つの数字をただ変える。中国がFEDに持っている有価証券勘定から引き落とす。そして中国がFEDに持つ準備預金(当座預金)勘定に振り込む。これで全部だ。債務償還完了!
中国は自分のお金を取り戻した。中国はFEDの当座預金にUSドル(巨額)を持っている。中国が何か欲しいのなら – 自動車、船舶、不動産、他の通貨 – 代金をドルの振込で受け取りたい売り手から市場価格で買う必要がある。中国が何かを買うときには、FEDは中国の当座預金からその金額を引き落とし、中国がそれを買った誰かさんの当座預金に同額を加算する。
「中国への返済」が「中国が米国ドルで持つ富」を何ら変えるわけではないことにも注意してほしい。単に彼らは同じ金額を「国債(普通預金)」でなく「当座預金」で持つというだけのことだ。彼らがやっぱり国債で持っておきたいと望んでも、問題ない。FEDは彼らのUSドルをもう一度当座預金から普通預金に移すだけだ。適切に数字を変えることによって。
国の債務の返済とは、FEDにある満期になったある一つの証券勘定を減らし、FEDにある別の勘定の数字を増やすことなのだ。この移動は実質経済にとってごく普通のことだし、主流経済学者や政治家やビジネスマンやマスコミが思っているような「差し迫った危機」でも何でもない。
もう一度。国の債務の返済とは、政府が、自身が持つスプレッドシートの二つの数字を変えることだ。一つの数字は、有価証券が民間部門に所有されているかを表す数字で、これは減らされる。もう一つの数字はFEDに置かれているUSドルがどれだけあるかを表す数字で、これは増やされる。それで終わり。債務返済終了。貸し手にお金が戻った。凄い取引かな?
では、もし中国が今の低い金利ではもう米国の国債を買わないと言ったらどうなる?彼らを引き付けるために金利を上げなければならいだろうか?違う!
それなら中国は当座預金で持ち続ければいいだけだ。自国の金融システムを理解している政府なら別段問題を感じない。残高が政府支出に使われるわけではないのは前に説明したとおりだ。それがFEDの当座預金にあろうが、FEDの普通預金あろうが、悪くなる道理は一切ない。
ではもし中国がこう言ったらどうなるだろう。「FEDに当座預金勘定などもう持ちたくない。金とか何か別の方法で返してくれ!」。現在の「不換紙幣」制度[1]の下では、単にその選択肢はない。中国だって、米国軍に制服を売ってFEDの当座預金でお金を持った時に理解していた通りだ。ドル以外の何かで欲しいならば、その欲しいものを売りたい人から買わなければならない。ちょうど私たち国民がドルで支出しているように。
いつか私たちの子供たちも、私たちがやっているように、そして私たちの親もやっていたようにスプレッドシートの数字を変えているだろう。願わくばもっと理解が進んでいることを。何しろ今は「子供たちに政府債務を残している」などという命取りに無邪気な嘘が政策を動かし、最適な生産や雇用ができないようにさせられているのだから。
失われた産出や人的資本の棄損は、私たちにも子供たちにも現実の代償となっていて、現役世代と将来世代の両方を痛めつける。私たちが生産できるはずのものを制限し、高失業(犯罪や家族問題や医療問題を伴う)を維持するとそうなることになる。私たちが完全雇用と産出を維持する方法を知ってさえいれば現実として投資できるものを、子供たち世代は奪われていることになるのだ。
- 1971年、米国は金本位制から完全に離脱し、ドルと金との交換は政府に保証されなくなった。 [↩]
MMT(現代金融理論)のエッセンス! ウオーレン・モズラー「命取りに無邪気な嘘 3/7」
この文書の原文の説明および、ガルブレイス教授による序言はこちら
嘘1、嘘2、嘘4、嘘5
命取りに無邪気な嘘 その3:
“
政府赤字が貯蓄を奪う
事実:
“
財政赤字が貯蓄を増やす
ローレンス・サマーズ
数年前のこと。トム・ダシュル上院議員とともにローレンス・サマーズ副財務長官と面談する機会があった。もともとダシュル上院議員とは、「無邪気な嘘」たちがどれほど彼への投票者たちの福祉に反する働きをしているかについてずっと話し合っていた。そういうわけで彼がこの元ハーバード大学の経済学部教授、しかも叔父には二人のノーベル経済学賞受賞者がいる副財務長官との面談をセッティングしたというわけだ。サマーズの反応を見てみたかったし、自分の言うことに同意してくれればよいなと思っていた。
この質問から始めた。「ラリー、財政赤字の何が悪いんだい?」彼は答えた。「財政赤字が、本来は投資に回されるべき貯蓄を奪ってしまうことだ。」私は反対した。「それはない。国債はFEDが運用上の諸要素を調節するのに働いているに過ぎない。貯蓄や投資とは何の関係もないじゃないか。」彼はこう返してきた。「いや自分は準備預金の会計はよく知らないから、そのレベルの議論はできないよ。」
ダシュル上院議員は信じられないという様子でこれを見ていた。このハーバード大経済学教授、副財務長官であるローレンス・サマーズが準備預金会計を理解していない?悲しいが本当だ。
こうして面談の残りの20分は「節約のパラドックス」(詳しくは無邪気な嘘6番にて)を段階を踏んで説明することになった。彼なりに理解してくれたようで、最後にこう言った。「…そうすると、投資がもっと必要で、それが貯蓄になる?」私はフレンドリーに答えた。「イエス」。こうして良きハーバード大教授に対して経済学の一番の初歩を説明して面談は終わった。翌日のこと、彼がコンコルド連合(財政赤字テロリスト集団)とともに演壇に立ちながら財政赤字の重大な危険性について話しているのを見ることになった。
このように、この致命的に無邪気な嘘第三番は国のトップ中のトップにおいても健在だ。じっさい財政赤字はどのように働いているのだろうか。それはこの上なく単純な話だ。政府の赤字は、額が幾らであっても、政府以外の残り全部(企業、家計、国内居住者、非国内居住者)ー「非政府」部門と呼ばれている ー が持っているドル建ての金融資産の増加額とぴったり一致する。つまり財政赤字は、私たち政府以外の「金融性貯蓄」をぴったり同額増やす働きをするのだ。
一言で済む。政府の赤字は私たちの貯蓄を増やす(ぴったり)。これは会計的な事実であって、理論とか哲学といったものではない。議論の余地がない国民所得計算の基本なのだ。たとえば、去年の財政赤字が1兆ドルだったなら、みんなの金融資産貯蓄を合わせたものがちょうど1兆ドル増えたということを意味になる(経済学をかじったことが事がある人なら、純金融貯蓄とは現金と国債とFEDにある銀行の預金の合計だということを覚えているだろう)。これは経済学入門であり、銀行論金融論のイロハのイにあたる。疑問の余地もない会計の恒等式だ。ところがそれが政治の最上層部でもずっとねじ曲がったまま理解されているのだ。彼らはただただ間違っている。
CBO(議会予算局)の誰かに尋ねてみればいい。私は実際尋ねたことがある。彼らは答えるだろう「収支は必ず一致させなくてはならない」。そうしたら次は、財政赤字と私たちの貯蓄の増加が一致しているかを確認してみよう。もし一致していなければ、彼らは深夜まで残業してどこで会計ミスをしたのかを探すはめになる。
前に書いたように政府の支出はスプレッドシートへの入力だった。財政赤字はそれが集まったものだ。政府支出の際、会計係は「政府」という名前の口座から引き落とし操作を行い、同時に受け取る誰かさんの口座に振り込む操作をする。政府の口座の残高は減り、誰かさんの口座の残高はぴったり同じ額だけ増える。
次は、政府の財政赤字が民間の貯蓄を増やす様子をオペレーションごとに見ていこう。ついでに、最近登場してきた新しいこんな無邪気な嘘のバカバカしさをも暴くことになる。
「財政赤字は結局誰かから借たものを別の誰かに与えるものだから、何もプラスにはならない。ある人から別の人への移動に過ぎない。」というやつだ。つまり財政赤字は私たちの貯蓄を増やしたりせず、貯蓄を付け替えているだけだと言うのだ。最上級の間違いだ!では、財政赤字は貯蓄の付け替えているのではなく、貯蓄を増やしている様子を見ていこう。
1.スタート。政府が一千億ドルの国債を販売する。(注意:この販売は強制ではない。つまり国債の買い手は買いたいから買う。買わないよりも買った方が得だと考えている。政府に強制された誰かが買うわけではない。オークション形式で販売され、いちばん少ない利回りを受け入れた参加者に売られることになる。)
2.国債の買い手が代金を支払うが、買い手がFEDに持つ当座預金口座から一千億ドルが支払いとして引き落とされる。つまり、FEDの当座預金口座にあったお金は、国債、つまりFEDにある普通預金口座に移される(訳者注:筆者は前の記事で「国債」を「普通預金」になぞらえており、この記事でもそれを受けている)。この時点では非政府部門の貯蓄はまだ変化していない。買い手が国債を買う前は当座預金にあったお金が、そのまま貯蓄として普通預金口座に移動しただけだ。
3.こうして一千億ドルの国債を販売した後、財務省は普段よく買っているものに一千億ドル分支出するとする。
4.この財務省の支出が誰かの当座預金を一千億ドル分増やすことになる。
5.ここにおいて、非政府部門の当座預金に一千億ドルが加算され(国債購入前の残高に戻る)、同時に一千億ドルの国債も持っている状態になっている。
まとめ:一千億ドルの赤字財政支出が、非政府部門(政府以外の全員と言う意)の貯蓄を新しい国債という形で一千億ドル増加させた。
一千億ドルという新国債の買い手はまず、当座預金のお金を国債(普通預金)に移動させた。次に財務省が一千億ドルの支出をしたことにより、この一千億ドルの受け取り手の当座預金が同額増える。
ポイントに戻ると、赤字財政支出とは、単に政府以外にある金融資産(ドルと国債)をシフトさせるだけのものではないとわかった。赤字財政支出は、非政府部門にある金融資産貯蓄をぴったり同額、ダイレクトに増やすのだ。そして同様に、財政黒字はとは、私たちの貯蓄をダイレクトに同額奪うものなのだ。メディアも政治家も、一流経済学者たちでさえ、これを逆に考えている!
1999年7月のこと。ウオールストリートジャーナルの一面に二つの見出しが並んでいた。向かって左は、クリントン大統領と財政黒字額を賞賛し、いかに財政運営がうまくいっているか説明する内容の記事だった。向かって右側の記事は、アメリカ人は貯蓄をしておらず、私たちはもっともっと働いて貯蓄に励まなければならないという内容だった。何ページかめくるとグラフが載っていて、財政黒字が増えていることを示す線と、国民の貯蓄が減っていることを示す線が一緒に描かれていた。二つの線はほぼ同じ形をしていたが、向きが真逆だった。このことは、財政黒字の増加が、民間貯蓄の減少とほぼ等しいことをはっきり示していた。
財政黒字であるならば、民間貯蓄(海外居住者のドル建て金融貯蓄を含む)の増加はあり得ない。あり得ないのだが、主流経済学者や政府高官にはまだ理解されていない。
アル・ゴア
2000年の初め頃、フロリダ州ボカラトンの私邸で催されたアル・ゴア大統領候補の資金集めパーティのディナーで私は彼の隣に座っていた。経済について議論するためだ。彼の最初の質問はこうだった。「予測では向こう10年の財政黒字が5.6兆ドルになると見込まれていますが、次期大統領としてはこの黒字を何に使えばいいでしょうね?」私は説明した。5.6兆ドルの黒字はありえない、なぜならそれは非政府部門の金融資産貯蓄を5.6兆ドル減らすわけで、馬鹿げた計画なのだ。その時点で、民間部門にはそれだけの額を課税で奪われるだけの貯蓄は残っていなかったし、直近の数千億ドルの黒字が民間貯蓄を奪っていたことは、むしろクリントン景気が崩壊直前であることを暗示していた。
私はさらに指摘した。200年以上の米国の歴史における直近六回の財政黒字期を見てみると、その直後に不況に陥ったのは六回のうちたった六回だけだったと。そして、来たる崩壊は、財政黒字を許容して私たちの貯蓄を抜きとったために起こるのだから、結果としての不況は、私たちの失われた貯蓄が十分埋め合わせられ、産出と雇用を修復するのに必要なだけの総需要をもたらすだけの財政赤字が蓄積せれるまで収束しないことでしょう、と。
起こったのはその通りのことだった。経済は崩壊し、2003年にブッシュ大統領は緊急回避的に強力な財政赤字支出を打ち出した。しかしその後、クリントン時代の黒字時代に失われた金融資産(財政黒字はぴったり同額の貯蓄を私たちから抜き取る)を十分埋め合わせるのに十分な財政支出に到達しないうちに(財政黒字はぴったりその額だけ私たちから貯蓄を奪っていたのだから)、再び財政赤字は縮小されてしまった。そしてサブプライムのバブルが崩壊し、再び経済は崩壊したが、それは当時の環境に対して財政赤字が小さいままだったからなのだ。
現在の政府財政の水準といえば、私たちは税を取られ過ぎの状態にあり、税引き後の所得は経済と呼ばれる巨大デパートで売られているものを買うには十分なものではなくなっている。
とにかく、アルは良い生徒だった。さらに詳しい話をしたところ、この話が本当であること、そしてこれから何が起こり得るかについてまでも同意してくれた。しかし彼は「そこまでは行けない」とも言った。立ち上がる彼に私は言った。政治的現実はわかるよ、と。彼は演壇に向かい、来たるべき黒字をどう使うかの演説を始めた。
ロバート・ルービン
10年ほど前、2000年くらいだったか景気減速の直前ごろ、シティバンクの顧客ミーティングでロバート・ルービンと一緒になった。クリントン政権の前財務長官だ。他に20人ほどの顧客がいた。ルービン氏は経済についての持論を述べ、低い貯蓄率はやがて問題になって行くだろうと指摘した。その話を数分聴いたところで、私は「自分も貯蓄率の低さは問題と思う」と述べてからこう尋ねた。「ボブ、ワシントンでは誰か、財政黒字が非政府部門の貯蓄を奪っていることを認識している人がいるのかい?」彼は答えた。「いや、黒字は貯蓄をもたらす。政府が黒字運営できれば市場から国債を買い戻せるから、貯蓄と投資が増える。」私は反論した。「いや、黒字運営だと私たちは国債をFEDに売って納税資金を獲得しなきゃならないから、私たちの金融資産貯蓄はその黒字分だけ減るじゃないか。」ルービンは言った。「いや、間違えているのは君だろう。」私は反論せず、ミーティングは終わった。私の質問の答えは得られた。黒字が貯蓄を奪うことを彼が理解していないのならば、クリントン政権の誰もが理解していないということだ。経済はその後ほどなく崩壊したのだった。
2009年1月に貯蓄統計が発表され、マスコミは「貯蓄成長率がGDPの5%と1995年以来の最高水準に達した」と報じたが、同時に、財政赤字はGDPの5%を超えていたいうことの方は報じられなかった。財政赤字も1995年以来の最高水準だったのだが。
明らかに、主流は財政赤字が貯蓄を増やすということをまだ理解していない。アル・ゴアはわかっているとしても、何も語らない。まあ、今年も財政赤字が増えるか見ていよう。そして貯蓄も増えるかどうかも観察しよう。再度言うが、非政府部門の「ドル建て純貯蓄」(海外居住者も合わせた金融資産)の原資になることができるのは、政府の支出だけなのだ。
貯蓄を増やせと言っているその人のことを観察しよう。同じ口で「収支を均衡」させたいと言ってはいないだろうか。財政支出削減と増税により、つまり、私たちから貯蓄を取り除くことによって。同じ口で正反対のことを言う。混乱の元になるだけで何ら解決にはならない。それが国のトップレベルで起こっていることなのだ。
一人を除いて。
ウェイン・ゴドリー教授
ウェイン・ゴドリー教授はケンブリッジ大学の経済学部長を退かれて、80歳を超えていらっしゃる。教授は過去何十年にもわたり英国経済を予測する名人として知られていた。彼は自身が開発した「セクター(部門)分析」によって予測を行っていた。この手法の核心にあるのは「政府部門の赤字は、政府以外の部門の純金融貯蓄を合計したものと等しくなる」という事実なのだ。しかし、彼の予測の成功、会計上の絶対的ファクトも、彼の地位の重さ(これらは皆今もある)をもってしても、彼の教えが主流を説得するにはまだ至っていない。
さて、読者はこのことを理解したはずだ。
財政赤字は、主流が信じているような「恐るべき何か」ではない。そう、赤字はとても重要だ。過剰な支出はインフレを引き起こす。とは言っても政府が破産することはない。財政赤字は子供たちの負担ではない。財政赤字は、単にある人から別の人への資金移動でもない。財政赤字は私たちの貯蓄を増やす。
では財政赤字の役割を政策面で見るとどうだろう。それはとても単純。私たちの産出と雇用は、財政支出が足りないと維持できない。経済と呼ぶ巨大デパートで売られているものを買うのに十分な購買力が私たちにないときには、政府は減税もしくは政府支出の拡大によって、私たちの産出物が確実に売れるように行動することができるのだ。
税の一般的機能とは、購買力と経済の調整だ。産出と雇用をサポートするのに適切な水準で課税がなされおり、税収が政府の支出よりもかなり少ない結果としての財政赤字は、ソルベンシーだのサステイナビリティだの子供への悪い影響だのは、何も怖れることはないのだ。
働いてお金を得たいけれど、あまり使いたくないと人々が思っていたら?それでいいじゃないか!政府は人々が支出したいと思うまで減税し続てもいいし、支出して生産物を買ってもいいし、雇用してもいい(インフラ修復、社会保障、医療研究、などなど)。どう組み合わせるかは政治の問題だ。適切な額の財政赤字は、私たちが望む産出を雇用を成し遂げるためのものであり、また、適切な政府の大きさとは、財政赤字の大小とは無関係に考えられるべきものだ。
本当に大切なのは現実の生活 – 産出と雇用 – だ。財政赤字の大きさは一つの統計値だ。1940年代、アバ・ラーナーという名の経済学者はこれを「機能的財政論」と呼び、このタイトルの本(現代にもなお通用する)を書いている。
訳者のリンク集
ジェイムズ・K・ガルブレイス「命取りに無邪気な七つの嘘(ウォーレン・モズラー)」 への序文
MMT(Modern Monetary Therory)創始者のひとり、ウォーレン・モズラーがサイトで配布している
SEVEN DEADLY INNOCENT FRAUDS
OF ECONOMIC POLICY、
原文は平易な英語で書かれており、超おススメなのですが、前半(七つの嘘のパート)だけ日本語化してみたく。
嘘その1~6
http://econdays.net/?p=9414 リンク切れ★
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