重要文化財 二河白道図(にがびゃくどうず)
鎌倉時代・13世紀 京都・光明寺蔵
唐の時代の中国浄土教(中国浄土宗)の僧、善導大師(613-681)の『觀無量壽佛經疏』(『仏説観無量寿経』の注釈書)第四「散善義」にある二河白道の比喩(二河喩)を絵画化したもの。上の絵はこの画題としては最古、上部は當麻曼荼羅の影響を指摘されている。
善導大師による比喩は、法然(1133-1212)が『選択本願念仏集』第八章「念仏行者必可具足三心之文」(他に遺文集である「和語灯録」でも触れられる)で、親鸞(1173-1262)も『教行信証』信巻(他に『愚禿鈔』、「三帖和讃」所収「善導大師和讃」、『親鸞聖人御消息』所収「慈信宛消息」でも触れられる)で紹介している。
絵画化に関しては
六道輪廻図に似ているバージョンもある(暴れ馬=煩悩)。
左=京都・清涼寺蔵、右=兵庫・香雪美術館蔵
法然、親鸞以外にも、一遍(1239-1289)にもこの絵(というより画題)は深く関わる。
『一遍聖絵』によれば、文永八年(1271年)の春、信州善光寺に訪れた一遍は、参籠に参籠を重ねた末に、自らさとりを得て、「二河白道」の図を本尊として描いたという。この「二河白道図」を携えて一遍は故郷に帰り、浮穴郡の窪寺というところに閑室を構え、その東壁にこの図を本尊としてかけて、念仏三昧の生活に入ったということである(踊り念仏は1279年から)。
(東の壁に二河白道の大仏画〜画面には白紙として描かれている〜を懸け、前に一基の卓を据えるばかりである。中央公論社版の解説では右が一遍ということになっているが、左が一遍だろう。)
一遍上人の法語に、「中路の白道は南無阿弥陀仏なり。水火の二河はわがこころなり。二河にをかされぬは名号なり。」 とある(『播州法語集』)
////////////////
西岸
阿弥陀「私が守るから来なさい」
(汝一心正念直來。我能護汝。衆不畏墮於水火之難。)
上段に阿弥陀仏と観音菩薩・勢至菩薩のニ菩薩
<極楽浄土>
_______ _________
南側 || 北側
火の河 百|| 水の河
憎しみ 歩|| 貪欲
ほ|白
ど|い
|道(4、5寸、15cmほど
|| 清浄な信心)
_______||__________
ある往生者(仁者)
二人連れ 釈迦「決心してこの道を行きなさい」
(別解・別行の人、 (仁者。必無死難。若住即死。)
聖道門=自力?)
群賊「この道は険悪だから戻って来なさい」
(仁者迴來。此道嶮惡不得過必死不疑。我等衆無惡心相向。)
<現世=娑婆世界>
(合戦、享楽)
東岸
(↑下から上へと順に見てゆくように構成されている)
参考:
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1753_,37,0270b11:1753_,37,0278c27.html觀無量壽佛經疏 (No. 1753) in Vol. 37
今更爲行者
T1753_.37.0272c16: 説一譬喩守護信心。以防外邪異見之難。
T1753_.37.0272c17: 何者是也。譬如有人欲向西行百千之里。
T1753_.37.0272c18: 忽然中路見有二河。一是火河在南。二是水
T1753_.37.0272c19: 河在北。二河各闊百歩。各深無底。南北無
T1753_.37.0272c20: 邊。正水火中間有一白道。可闊四五寸許。
T1753_.37.0272c21: 此道從東岸至西岸。亦長百歩。其水波浪
T1753_.37.0272c22: 交過濕道。其火焔亦來燒道。水火相交常
T1753_.37.0272c23: 無休息。此人既至空曠逈處。更無人物。多
T1753_.37.0272c24: 有群賊惡獸。見此人單獨。競來欲殺此人。
T1753_.37.0272c25: 怖死直走向西。忽然見此大河。即自念言。
T1753_.37.0272c26: 此河南北不見邊畔。中間見一白道。極是
T1753_.37.0272c27: 狹小。二岸相去雖近。何由可行。今日定死
T1753_.37.0272c28: 不疑。正欲到迴群賊惡獸漸漸來逼。正欲
T1753_.37.0272c29: 南北避走惡獸毒蟲競來向我。正欲向西尋
T1753_.37.0273a01: 道而去。復恐墮此水火二河。當時惶怖不
T1753_.37.0273a02: 復可言。即自思念。我今迴亦死。住亦死。去
T1753_.37.0273a03: 亦死。一種不勉死者。我寧尋此道向前而
T1753_.37.0273a04: 去。既有此道。必應可度。作此念時。東岸忽
T1753_.37.0273a05: 聞人勸聲。仁者。但決定尋此道行。必無死
T1753_.37.0273a06: 難。若住即死。又西岸上有人喚言。汝一心正
T1753_.37.0273a07: 念直來。我能護汝。衆不畏墮於水火之難。
T1753_.37.0273a08: 此人既聞此遣彼喚。即自正當身心。決定尋
T1753_.37.0273a09: 道直進。不生疑怯退心。或行一分二分。東
T1753_.37.0273a10: 岸群賊等喚言。仁者迴來。此道嶮惡不得過
T1753_.37.0273a11: 必死不疑。我等衆無惡心相向。此人雖聞
T1753_.37.0273a12: 喚聲。亦不迴顧。一心直進念道而行。須臾
T1753_.37.0273a13: 即到西岸。永離諸難。善友相見。慶樂無已。
「この譬えに類する説は、曇鸞の『略論安楽浄土義』の十念相続の項にあり、それが道綽の『安楽集』巻上にも引用されているが、その他に古来『大般涅槃経』<北本>巻二三<南本>巻二一、『大宝積経』巻一〇七<大乗方便会>、『大智度論』巻三七などの類似の譬えも指摘されている。このうち『大般涅槃経』の譬えは、さらにパーリ文『サンユッタ・ニカーヤ(相応部)』三五・一九七経、『雑阿含経』一一七二経、『増一阿含経』巻二三にも見出されるから、もしこの宗譜をたどると、二河白道の原型は原始仏教にまで遡るということもできよう。」
(人類の知的遺産『善導』藤田宏達、講談社。157頁)
諸川で足場を得ない限り
人は全身が流される
足場を得て地にとどまる者は
彼岸に到り、流されず
ダーマリよ、これは漏尽者、賢者
禅定者なるバラモンの喩えなり
生死(しょうじ)の終わりに達する者は
彼岸に到り、流されず
ダーマリ経『パーリ仏典 相応部 有偈篇1』大蔵出版223頁
『雑阿含経』巻四九(一三一一)(大正蔵二・三六〇c)
19 Comments:
【二河白道】善導大師の『観経疏』 「散善義」 at Provincetown Cape Cod ...
blogs.yahoo.co.jp/.../56893757.html - Cached - Translate this page
2005年10月23日 – 学生時代に愛読した善導大師の「散善義」に出てくる『二河白道』のイメージだったのです。 重要文化財二河白道図. イメージ 5. 二河白道図は『観経疏』の二河譬を典拠とした絵画化にあわせて、娑婆世界の多くの景物情景が描き込まれるのが ...
「二河白道」の検索結果 - Yahoo!辞書
dic.yahoo.co.jp/dsearch?...二河白道... - Cached - Translate this page
Yahoo!辞書で「二河白道」を検索した結果です。 ... 二河白道. 浄土往生(おうじょう)を願う ...
静岡県平野美術館所蔵二河白道図について
ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00031389 - Cached - Translate this page
Abstract 二河白道図は中国初唐期の浄土教思想家善導の『観無量寿経疏』散善義中に説かれる二河譬を第一の拠所として描かれた仏画である。日本において法然や親鸞がその著述に二河譬を引用して以後、作画されるようになったと考えられており、中世期 ...
[PDF]
奈良・薬師寺所蔵「二河白道図」について
ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/.../BullGradSchEduc-Hiros... - Translate this page
File Format: PDF/Adobe Acrobat
二河白道図は、中国初唐期の浄土教思想家、善導(613. ∼681)の著作『観無量寿経疏...
文化庁 | 文化庁月報 | イベント案内 東京国立博物館
www.bunka.go.jp › 文化庁月報 - キャッシュ
法然の『 選択本願念仏集 ( せんちゃくほんがんねんぶつしゅう ) 』,親鸞の『 教行信証 ( きょうぎょうしんしょう ) ( 坂東本 ( ばんどうぼん ) ) 』は,その教えの根本を記したもので,本文に引用された唐の善導の思想を絵画化した「 二河白道図 ( にがびゃくどうず ...
(No158) 京都国立博物館 法然上人特別展覧会「法然 ~生涯と美術 ...
chinaalacarte.web.fc2.com/bukkyou-158.html - キャッシュ
二河白道図とは、唐・善導『観経疏』に典故をもち、法然も『選択集』で取り上げた。南北に流れる大河が、大地を東西の岸に分ける。 現世は東の岸。西岸は極楽浄土。 大河は炎と大水に満たされているが、その真ん中に一本の細い白い道があり、それを渡りきっ ...
みんなの美術館 アトコレ|作者不明 二河白道図
atokore.com/recipes/show/143 - キャッシュ
二河白道とは、中国唐時代の浄土教家・善導が説いたたとえ話です。清浄な信心を ... 法然が『選択本願念仏集』で、親鸞が『教行信証』でそれぞれこの話にふれており、鎌倉時代以降に絵画化されました。本展ではこの他に3点の二河白道図が出品されます
http://www5.nkansai.ne.jp/users/johogura/hashidatezu-4.html
重要文化財 二河白道図(にがびゃくどうず)
鎌倉時代・13世紀 京都・光明寺蔵
[展示期間:2011年10月25日(火)~11月13日(日)]
二河白道は中国唐時代の浄土教家・善導(ぜんどう)が説いたたとえ話です。清浄な信心を現世と極楽浄土をつなぐ細く白い道にたとえ、火の河(瞋憎(しんぞ う))や水の河(貪愛(どんあい))などの煩悩に惑わされてもこの道を一心に渡る(念仏する)ことで極楽へいくことができるといいます。法然が『選択本願 念仏集』で、親鸞が『教行信証』でこの話にふれており、鎌倉時代以降に絵画化されました。光明寺本はその最古の遺品です。本展ではこの他に3点が出品され ます。
一遍の「白道」
home.e-catv.ne.jp/miyoshik/.../200904.htm - Cached - Translate this page
この「二河白道図」を携えて一遍は故郷に帰り、浮穴郡の窪寺というところに閑室を構え、その東壁にこの図を本尊としてかけて、念仏三昧の生活に入ったということである。 「 二河白道」は善導の『』の散善義に説かれた譬えである。それによると、人が西に向かっ ...
阿弥陀「私が守るから来なさい」
<極楽浄土>
_______ _________
||
南側 || 北側
火の河 || 水の河
憎しみ || 貪欲
||
|白
|い
|道
|(4、5寸、15cmほど、
|| 清浄な信心)
_______||__________
二人連れ ある往生者
(聖道門=自力?)
<現世=娑婆世界>
(合戦、享楽)
群賊「この道は険悪だから戻って来なさい」
釈迦「決心してこの道を行きなさい」
////////////////
阿弥陀「私が守るから来なさい」
<極楽浄土>
_______ _________
百||
南側 歩|| 北側
火の河 ほ|| 水の河
憎しみ ど|| 貪欲
||
|白
|い
|道
|(4、5寸、15cmほど、
|| 清浄な信心)
_______||__________
ある往生者
二人連れ 釈迦「決心してこの道を行きなさい」
(聖道門=自力?)
群賊「この道は険悪だから戻って来なさい」
<現世=娑婆世界>
(合戦、享楽)
阿弥陀「私が守るから来なさい」
(汝一心正念直來。我能護汝。衆不畏墮於水火之難。)
<極楽浄土>
_______ _________
百||
南側 歩|| 北側
火の河 ほ|| 水の河
憎しみ ど|| 貪欲
||
|白
|い
|道
|(4、5寸、15cmほど、
|| 清浄な信心)
_______||__________
ある往生者(仁者)
二人連れ 釈迦「決心してこの道を行きなさい」
(聖道門=自力?) (仁者。必無死難。若住即死。)
群賊「この道は険悪だから戻って来なさい」
(仁者迴來。此道嶮惡不得過必死不疑。我等衆無惡心相向。)
<現世=娑婆世界>
(合戦、享楽)
http://homepage2.nifty.com/eterne/Photo%202-/Photo-ZZ.htm
二河白道について。
ここは現世。
群賊や悪獣(悪や誘惑の譬え)に襲われ、追われている旅人(衆生)がいる。
西(極楽浄土の方向)に向かっていると目前に、
水河(欲、こだわり、貪り)と火河(怒り、憎しみ)の煩悩の河の間が現れる。
怒濤渦巻く水の河、そして炎が荒れ狂う火の河、
その間にわずかに此岸から彼岸へと続く一本の細くて白い道。
これを白道という。
後ろから群賊・悪獣が迫ってくる。他方へも逃げようがない。
もう、この細い白道に足を踏み入れるしかない。
しかし、そんな細い白道に足を踏み入れたところで・・・・・。
「後ろに帰っても死、ここにとどまっても死、また前に行っても死あるのみだ・・・。」
絶体絶命の窮地に立った旅人に、恐れず前に進むようにすすめてくれる人(善知識)がいる。
「仁者但決心して此の道を尋ねて行け、必ず死の難無けん、若し住まらば即ち死せん。」
また、彼岸の上の人が言う。
「汝一心正念にして直に来れ、我能く汝を護らん、衆て水火之難に堕することを畏れざれ。」
しかし、此岸から群賊・悪獣が呼ぶ。
「帰って来いよ。こんな悪路を進むことなんかできやしない。こっち(此岸)は楽しいよ。」
旅人は、そんな喚び声に対しても後ろを振り返らない。
一心に前に進んで道を念じて進み、
そして無事此岸に至ることができ、
善友と相まみえ慶楽することができたのである。
依然、此岸にいるのは生死善悪の我々凡夫人。
彼岸は浄土であり無我であり無心の仏がいる。
しかし、これもまた分別なのか。
分別の此岸から無分別の彼岸に行こうとすることがまた分別であり無分別なのか。
二河白道図はこちらのページにあります。
ここで、
「彼岸」とは極楽浄土のこと。
「此岸」とは娑婆世界。
「白道」とは求道心。
http://www.tnm.jp/uploads/fckeditor/exhibition/special/2011/honen/uid000071_20110729170346f4f42a9d.jpg
誠に、三国伝来、奇特言語みちたえ、五濁能度のただ本誓、思量ながくつきぬ。「いま宿縁あさからざるによりて、たまたまあひたてまつる事を得たり」とて、参籠日数をかさねて下向したまひぬ。
この時、己証の法門を顕し、二河の本尊を図したまへりき。
訳:誠に三国伝来の仏で不思議な霊験は述べるに言葉もなく、世の濁りに苦しむ人々を救うという本願についてはいくら時を費やしても思いはかることもできない。聖は「いま前世からの因縁が深かったので、思いがけなくお目にかかることができた。」といわれて、参籠の日数を重ねてお帰りになった。この時、唐の善導大師己証(こしょう)の法門を絵に現して、二河白道の本尊を描かれたのであった。[一遍上人全集:春秋社より]
ここで図した二河白道図を伊予へ持ち帰った一遍上人は、窪寺という草庵を建て、一人 3年もの間、念仏三昧の行をつみます。
http://www.mirai.ne.jp/~tomo/sura/sosi/zenkouji/zen_01.htm
一遍【いっぺん】
5件の用語解説(一遍で検索)
Buzzurl
朝日日本歴史人物事典の解説
生年: 延応1.2.15 (1239.3.21)
没年: 正応2.8.23 (1289.9.9)
鎌倉中期の僧。時宗の開祖。出家して随縁と称し諱を智真という。のち他力念仏にめざめて一遍と改めた。伊予(愛媛県)の有力武士,河野通広の子として生まれる。10歳のとき母と死別し,父のすすめによって出家し随縁と名乗る。建長3(1251)年13歳のとき九州に赴き,浄土宗西山派の証空の弟子,聖達に入門し,仏教の学問を修めたが,その間に智真と名を改めた。弘長3(1263)年,父の死をきいて伊予に帰り,還俗して家督を継いだ。しかし一族の所領争いなどで希望を失い,ふたたび出家して,文永8(1271)年信濃国(長野県)の善光寺に詣で,阿弥陀如来による救いを描いた「二河白道図」を書写している。その後,郷里にもどり,3年のあいだ窪寺(松山市)の草庵に籠もって念仏を修し「十一不二頌」を作った。十劫の昔に実現している弥陀の正覚と,衆生の現在の一念による往生は,一体のものでふたつのものではない(不二),という思想を詩にしたものである。このあと菅生の岩屋(愛媛県)に参籠し,修験的な行にも挑戦している。 文永11年は蒙古が襲来した年であるが,このとき36歳。超一,超二らをともなって念仏を勧化する旅に出た。超一,超二をその妻と娘とする見方があるが,そうだとすると女,子ども連れの遊行・漂泊の旅に出たことになる。四天王寺,高野山をへて熊野に詣で,本宮の証誠殿に100日の参籠をしているとき,衆生の浄土往生は信・不信,浄・不浄にかかわりなく阿弥陀如来の名号によって定まる,という熊野権現の夢告を受けた。それを機に名を一遍と改め,「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と記した札を人びとにくばる賦算の行を始めるようになった。時宗開宗の時点といってよい。
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E9%81%8D
毎日の浄土真宗 二河白道
shinshu.in/nigabyakudo - キャッシュ
二河白道. 信を取った方のために、善導大師様が、すばらしい比喩を残してくださっています。 「2つの河の間の白い道」の比喩です。 『観経疏』という書の中に出てくるのですが、『観経疏』は、常人には書くことのできない、とてつもない註釈書です。 このような ...
一遍は「阿弥陀如来に会いたてまつった」後、境内の「善導堂」に掛けてあったといわれる絵図「二河白道(にがびゃくどう)」を感得し、これを写して故郷の松山へ持ち帰り、3年間の念仏修行に入るのだ。
二河白道は、念仏信仰の何たるかを具体的に表現した比喩だ。
人間のむさぼる心を例えた水の河と、怒り憎しむ心の火の河。その真ん中をか細い一本の白い道が貫いている。彼岸に阿弥陀仏、此岸に釈迦。二河にひるみ、立ちすくむ人間に「迷わずこの道を進め」と釈迦が励まし、「こっちへおいで」と阿弥陀仏が招いている…。
中国浄土教の祖、善導が「観無量寿経疏(しょ)」の中で説いたといわれている。
「この絵図を見て、一遍は、なにもかもすべて阿弥陀が救ってくれるのだ、という絶対的な自信を持ったと思うんです。すべて阿弥陀様に任せればいい。なにもかも捨てろ、と。捨てることが喜びに変わっていったのではないか」と、若麻積さんは言うのだ。 文 冨野治彦
写真左上/善光寺の仲見世通り。4月から、7年に1度の秘仏「前立本尊」のご開帳があり、いちだんとにぎわいそうだ
写真右下/善光寺境内にそびえるように立つ聖徳太子の碑。手を合わせていく人が多いという 写真 大塚聡彦
http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/mitemite-b/mitemite-b-5.htm
小山 青巖寺: 二河白道図
seiganji.blogzine.jp/blog/2011/07/post_9d92.html - キャッシュ
2011年7月11日 – ネットで検索すると、棟方志功さんの二河白道図や、漫画家の水木しげるさんが描かれた二河白道図とかも出てきます。
この譬えに類する説は、曇鸞の『略論安楽浄土義』の十念相続の項にあり、それが道綽の『安楽集』巻上にも引用されているが、その他に古来『大般涅槃経』<北本>巻二三<南本>巻二一、『大宝積経』巻一〇七<大乗方便会>、『大智度論』巻三七などの類似の譬えも指摘されている。このうち『大般涅槃経』の譬えは、さらにパーリ文『サンユッタ・ニカーヤ(相応部)』三五・一九七経、『雑阿含経』一一七二経、『増一阿含経』巻二三にも見出されるから、もしこの宗譜をたどると、二河白道の原型は原始仏教にまで遡るということもできよう。
人類の知的遺産『善導』藤田宏達、講談社。157頁
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-11022202746.html
柳宗悦は35~36歳で笑顔がかわいい木喰仏に魅せられて
全国を回って約350体を発見したということはあったにせよ、
本格的に仏教に傾倒したのは50歳代後半だった。
昭和21年、57歳ぐらいの頃、城端別院善徳寺で見た「色紙和讃」に感動して、
23年に「仏教美学」宣言ともいえる『美の法門』を一日で書き上げたという。
この「色紙和讃」は親鸞著の「高僧和讃」を色紙に書いたもので、
今回も展示されていたけれど、たしかに美しかった。
横には「宗教的になる原理と、ものが美しくなる原理とは一如である」
という柳の言葉が貼ってあった。
釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ 木喰仏
釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ 色紙和讃
『美の法門』は、『無量寿経』の「弥陀の48願」の第4願、通称「無有好醜の願」で始まる。民藝の根拠はこれだったんだ!と啓示を受けたのだという。
阿弥陀如来がまだ菩薩だったころ、
「この48個が実現しなければ私は如来になりませんように」という
願をかけたうちの、4つ目にあたる。
======無有好醜の願======================
(漢文)
設我得佛 國中人天 形色不同 有好醜者 不取正覺
(書き下し文)
たとい、われ仏となるをえんとき、国中の人・天、形色(ぎょうしき)同じからず、
好醜あらば、正覚を取らじ。
(梵文和訳)
世尊よ、かのわたくしの仏国土において、ただ世俗の言いならわしで
神々とか人間とかいう名称で呼んで仮に表示する場合を除いて、
もしも、神たちと人間たちとを区別するようなことがあるならば、
その間わたくしは<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『浄土三部経(上)』岩波文庫
==================================
阿弥陀のいる極楽浄土には好醜(美醜)の区別などない、ということ。
ひとつ前の第3願に、「みんな身体が金色になる(仏の特徴)」
とあるのはちょっと笑える。
岩波文庫の註釈によると、お経でいう美醜は現実的な背景があるようだ。
「見た目が醜い(たとえば下層カーストで色が黒いとか)のは
前世に悪いことをしたからだ」という業論が当時あったので、
そういう差別がなくてみんな身体が金色の極楽浄土を夢見たのだ、
という註釈がついていた。
釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ 柳の書「無有好醜」も展示されていた
柳宗悦の捉え方は、もっと観念的だ。
「普通に常識が言う美しさは、美醜が二つに分かれて巳後(いご)
のことである。だが二つに未だ分かれてない巳前(いぜん)の
美をこそ訪ねねばならない」(『美の法門』)。
で、名もない職人が、美しいものを作ろうとしたわけでもなく、
自己表現を試みたわけでもなく、他力(要は他人からの注文)
によって毎日黙々と作ったものに美が宿るということに
浄土教的な仏の世界を見たようである。
http://1000ya.isis.ne.jp/1437.html
http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/senya1437_img005.jpg
玄中寺(山西省交城)
曇鸞・道綽・善導ゆかりの寺。
崖沿いに汶水が流れる、二河白道の原型イメージ
http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20141112
■[Q&A]親鸞――吉本隆明
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
親鸞再々考――吉本隆明の〈非知〉に触れて――
▼ (吉本隆明の親鸞に見る〈非知〉) ~~~~~~~
(あ) 親鸞は
念仏ヲ信ゼン人ハ、たとひ一代ノ法ヲ能能(よくよく)
学ストモ、一文不知ノ愚とんの身にナシテ、尼入道ノ
無ち(無知)ノともがらニ同(おなじう)しテ、ちしゃ(知者)
ノふるまいヲせずして、只一かうに念仏すべし
(法然:「一枚起請文」)
という法然の垂訓を祖述しているだけかもしれない。けれども法然と親鸞とは紙一枚で微妙にちがっている。
(い) 法然では「たとひ一代ノ法ヲ能能(よくよく)学ストモ、一文不知ノ愚とんの身にナシテ」という言葉は 自力信心を排除する方便としてつかわれているふしがある。親鸞には この課題そのものが信仰のほとんどすべてで たんに知識をすてよ 愚になれ 知者ぶるなという程度の問題ではなかった。つきつめてゆけば 信心や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題であった。そして これが云いようもなく難しいことをよく知っていた。
(う) 親鸞は 〈知〉の頂きを極めたところで かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉をしきりに説いているようにみえる。しかし〈非知〉は どんなに「そのまま」(* ここに傍点あり)寂か(* sic )に着地しても〈無智〉と合一できない。〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の親鸞の課題だが どうしても〈非知〉と〈無智〉とのあいだには紙一重の だが深い淵が横たわっている。
(え) なぜならば〈無智〉を荷っている人々は それ自体の存在であり 浄土の理念に理念によって近づこうとする存在からもっとも遠いから じぶんではどんな〈はからい〉ももたない。かれは浄土に近づくために 絶対の他力を媒介として信ずるよりほかどんな手段ももっていない。これこそ本願他力の思想にとって 究極の境涯でなければならない。
(吉本隆明:《最後の親鸞》 『増補 最後の親鸞』 1981所収 pp.7-8 なお初出は 1974)
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (1) 女性蔑視の思想は 措いておきます。
(2) (え)の段落は 分かりづらい。たとえば:
(2-1) 《浄土に近づくために 絶対の他力を媒介として信ずるよりほかどんな手段ももっていない》という判断は 《ハカラヒ》ではないのか? 《絶対》を《媒介として》捉えるところが気に食わない。
あるいは:
(2-2) 《〈無智〉を荷っている人々》は 《浄土の理念に理念によって近づこうとする存在からもっとも遠い》だけではなく 《浄土そのものに 理念や思考や修行なる努力によって到ることからもっとも遠い》はずである。と言うべきではないか?
すなわち:
( 2-3) 上の( 2-2)に見るように《浄土の理念》を掲げるところがすでに ( 2-1)に見えるように絶対他力だと言っていても どこか《人間のハカラヒ》が忍び込んでいるように見える所以である。のではないか?
(3) よって 吉本の言う〈非知〉は われわれの仮説する《非知》とは一線を画すと言わねばならない。
《〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の親鸞の課題だが どうしても〈非知〉と〈無智〉とのあいだには紙一重の だが深い淵が横たわっている。》とは どういうことか?
すなわち 《無知と知》とは 同じ地平に並立するふたつの概念であるが 《非知》はそうではないはずだ。
(4) 《〈知〉の頂きを極めたところで かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉》(う)というのは 表現そのものが好かんのですが どうですかね。絶対を言っていて それに《近づく》というのがおかしい。
(5) 要するには 《つきつめてゆけば 信心や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題》(い)とは 何だと言おうとしているか?
(6) そのような《課題》を言うのならば 親鸞なら その信仰は 理論――すなわち弥陀の悲願なり菩提心なりあるいは横超つまり即得往生なる教理――とは一歩離れているというかたちにおいて その信仰の当否や成否から自由な《度し難い愚禿なる阿呆》 この《非知》の下なる実存とその動態であるのではないか?
吉本説の擁護なり第三者の視点なりのご批判をお待ちします。
https://i.imgur.com/x03Xebz.jpg
重要文化財 二河白道図(にがびゃくどうず) 鎌倉時代・13世紀 京都・光明寺蔵
阿弥陀「私が守るから来なさい」
<極楽浄土>
_______ _________
百||
南側 歩|| 北側
火の河 ほ|| 水の河
憎しみ ど|| 貪欲
||
|白
|い
|道
|(4、5寸、15cmほど)
||
_______||__________
ある往生者
二人連れ 釈迦「決心してこの道を行きなさい」
(聖道門=自力)
群賊「この道は険悪だから戻って来なさい」
<現世=娑婆世界>
(合戦、享楽)
(↑下から上へと順に見てゆくように構成されている)
唐の時代の中国浄土教(中国浄土宗)の僧、善導大師(613-681)の『觀無量壽佛經疏』
第四「散善義」にある二河白道の比喩(二河喩)を絵画化したもの。上の絵はこの画題とし
ては最古。
善導大師による比喩は、法然(1133-1212)が『選択本願念仏集』第八章「念仏行者必可
具足三心之文」で、親鸞(1173-1262)も『教行信証』信巻他で紹介している。
法然、親鸞以外にも、一遍(1239-1289)にもこの絵(というより画題)は深く関わる。
『一遍聖絵』によれば、文永八年(1271年)の春、信州善光寺に訪れた一遍は、参籠に参籠
を重ねた末に、自らさとりを得て、「二河白道」の図を本尊として描いたという。
https://i.imgur.com/oXFMfG5.jpg
(一遍上人絵伝における二河白道を前にする一遍)
https://i.imgur.com/x03Xebz.jpg
重要文化財 二河白道図(にがびゃくどうず) 鎌倉時代・13世紀 京都・光明寺蔵
阿弥陀「私が守るから来なさい」
<極楽浄土>
_______ _________
百||
南側 歩|| 北側
火の河 ほ|| 水の河
憎しみ ど|| 貪欲
||
|白
|い
|道
|(4、5寸、15cmほど)
||
_______||__________
ある往生者
二人連れ 釈迦「決心してこの道を行きなさい」
(聖道門=自力)
群賊「この道は険悪だから戻って来なさい」
<現世=娑婆世界>
(合戦、享楽)
(↑下から上へと順に見てゆくように構成されている)
唐の時代の中国浄土教(中国浄土宗)の僧、善導大師(613-681)の『觀無量壽佛經疏』
第四「散善義」にある二河白道の比喩(二河喩)を絵画化したもの。上の絵はこの画題とし
ては最古。
善導大師による比喩は、法然(1133-1212)が『選択本願念仏集』第八章「念仏行者必可
具足三心之文」で、親鸞(1173-1262)も『教行信証』信巻他で紹介している。
法然、親鸞以外にも、一遍(1239-1289)にもこの絵(というより画題)は深く関わる。
『一遍聖絵』によれば、文永八年(1271年)の春、信州善光寺に訪れた一遍は、参籠に参籠
を重ねた末に、自らさとりを得て、「二河白道」の図を本尊として描いたという。
https://i.imgur.com/oXFMfG5.jpg
(一遍上人絵伝における二河白道図を前にする一遍)
仏説 無量寿経 (巻下) - WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/仏説_無量寿経_(巻下)
【37】 仏のたまはく、「その三つの悪とは、世間の人民、あひ因り寄生してともに天地のあひだに居す。処年寿命、よくいくばくなることなし。上に賢明・長者・尊貴・豪富あり。下に貧窮・廝賤・劣・愚夫あり。なかに不善の人ありてつねに邪悪を懐けり。ただ婬妷を念ひて、煩ひ胸のうちに満ち、愛欲交乱して坐起安からず。貪意守惜して、ただいたづらに得んことを欲ふ。細色を眄睞して邪態ほかにほしいままにす。自妻をば厭ひ憎みてひそかにみだりに入出す。家財を費損して、事非法をなす。 交結聚会して師を興してあひ伐つ。攻め劫ひ殺戮して強奪すること不道なり。悪心ほかにありてみづから業を修せず。盗窃して趣かに得れば、欲繋して事をなす。恐熱迫愶して妻子に帰給す。
心を恣にし、意を快くし、身を極めて楽しみをなす。あるいは親属において尊卑を避けず。家室・中外患ひてこれに苦しむ。またまた王法の禁令を畏れず。かくのごときの悪は人・鬼に著され、日月も照見し、神明も記識す。ゆゑに自然に三塗の無量の苦悩あり。そのなかに展転して世々に劫を累ねて出づる期あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。これを三つの大悪・三つの痛・三つの焼とす。勤苦かくのごとし。
たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端し、行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱してその福徳・度世・上天・泥洹の道を獲ん。これを三つの大善とす」と。
slowslow2772
@slowslow2772
特別展「法然と極楽浄土」記念講演会② 会期後半にみてほしい 法然と極楽浄土展 7つのポイント youtu.be/Bwvz4DzQRRs?si… pic.twitter.com/CUktad9tsD
2024/05/30 22:12
https://x.com/slowslow2772/status/1796167826870308951?s=61
コメントを投稿
<< Home