『方丈記』
英訳 南方熊楠 ビクター・ディキンズ (1905年)
(平凡社版全集第10巻参照)
A Japanese Thoreau of the Twelfth Century
Minakata Kumagusu and F. Victor Dickins
The Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland
(Apr., 1905), pp. 237-264
http://www.jstor.org/discover/10.2307/25208760?uid=3738328&uid=2&uid=4&sid=21100883328581
http://etext.lib.virginia.edu/japanese/hojoki/ChoHojo.html
<My friend Mr. Minakata is the most erudite Japanese I have met with equally learned in tho science and literature of the East and of the West. He has frequently coutributed to Nature and Notes and Queries. He now lives near the town of Wakayaraa in Kishiu. In the second volume of the Life of Sir Harry Parkes, by Mr. S. Laue-Poole and myself (p. 160), will be found an interesting account by Lady Parkes of her husband's visit to the last Daimyo of Wakayama in March, 1870. The narrative ends with the sentence "It was like being in the fairyland." The translation has been entirely remade by myself upon the basis of that of Mr. Minakata. The notes, save where otherwise indicated, are his, name what remodelled by myself.> (F. Victor Dickins)
参考:
http://www.minakatella.net/shoko/hojoki.html
http://www.archive.org/stream/journalroyalasi09irelgoog#page/n257/mode/2up
http://www.minakatella.net/letters/rirekisho11.html
http://chawantake.sakura.ne.jp/MinakataCode.html
http://tomoki.tea-nifty.com/tomokilog/2006/12/hojoki_by_kamo__befc.html
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、ま
たかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれ
ば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、
いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに
生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、
何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへど
も朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』
およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。いにし安元三年四月廿八日かと
よ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、
ひとよがほどに、塵灰となりにき。火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげ
たるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくく
れなゐなる中に、風に堪へず、吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつゝ(しイ)心ならむや。あるひは煙にむせ
びてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資材を取り出づるに及ばず。七珍萬寶、さながら灰塵と
なりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が二(一イ)に及べりとぞ。男女死ぬ
るもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれたあぢ
きなくぞ侍るべき。』
また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること
侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けた
はしらばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に置き、又垣を吹き拂ひて隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつく
して空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりとよむ音
に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの
數を知らず。この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず。
さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。』
又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけ
るより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。
されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京に(八字イ無)うつり給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとりふ
るさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、ごする所なき
ものは、愁へながらとまり居れり。
軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用と
する人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。その時、おのづから事のたよりありて、津の國今の京に到れり。所のありさまを見るに、その
地ほどせまくて、條理をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれ
ば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたも侍りき。日々にこぼちて川もせきあへずはこびくだす家はいづくにつくれるにかあらむ。
なほむなしき地は多く、作れる屋はすくなし。ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。元より此處に居れる
ものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。道のほとりを見れば、車に乘るべきはうまに乘り、衣冠布衣なるべきはひ
たゝれを着たり。都のてふりたちまちにあらたまりて、唯ひなびたる武士にことならず。これは世の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき
立ちて、人の心も治らず、民のうれへつひにむなしからざりければ、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけ
るにか、ことごとく元のやうにしも作らず。ほのかに傳へ聞くに、いにしへのかしこき御代
には、あはれみをもて國ををさめ給ふ。則ち御殿に茅をふきて軒をだにとゝのへず。煙のともしきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎものをさへゆるされき。これ
民をめぐみ、世をたすけ給ふに よりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。』
又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ
事どもうちつゞきて、五穀ことごとくみのらず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。これによりて、國々の民、或は地を
捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらにそのしるしなし。京のならひなに事につけて
も、みなもとは田舍をこそたのめるに、絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさをも作りあへむ。
念じわびつゝ、さまざまの寶もの、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目みたつる人もなし。たまたま易ふるものは、金をかろくし、粟を重く
す。乞食道の邊におほく、うれへ悲しむ聲耳にみてり。さきの年かくの如くからくして暮れぬ。明くる年は立ちなほるべきかと思ふに、あまさへえやみうちそひ
て、まさるやうにあとかたなし。世の人みな飢ゑ死にければ、日を經つゝきはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには笠うちき、足ひきつゝみ、よ
ろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものどもありくかと見れば則ち斃れふしぬ。
ついひぢのつら、路頭に飢ゑ死ぬるたぐひは數もしらず。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて、かはり行くかたちありさま、目もあて
られぬこと多かり。いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。
しづ、山がつも、力つきて、薪にさへともしくなりゆけば、たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて市に出でゝこれを賣るに、一人がもち出でたるあ
たひ、猶一日が命をさゝふるにだに及ばずとぞ。あやしき事は、かゝる薪の中に、につき、しろがねこがねのはくなど所々につきて見ゆる木のわれあひまじれ
り。これを尋ぬればすべき方なきものゝ、古寺に至りて佛をぬすみ、堂の物の具をやぶりとりて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れあひて、かゝる心
うきわざをなむ見侍りし。』
又あはれなること侍き。さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が
身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事に
て、親ぞさきだちて死にける。又(父イ)母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子の、その乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。仁和寺に、
慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、數しらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書き
て、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀
より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける。いはむやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、にしの京、もろもろの邊地などをく
はへていはゞ際限もあるべからず。いかにいはむや、諸國七道をや。
近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝるためしはありけると聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかに、かなしかりしことなり。』
(G)
ま
た元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれ
て谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。
或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひ
しげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。
おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。その中に、あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついぢのおほ
ひの下に小家をつくり、はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二つの目など一寸ばかり
うち出されたるを、父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。
子のかなしみにはたけきものも恥を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかど
も、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二
三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變を
なさず。むかし齊衡のころかとよ、おほなゐふりて、東大寺の佛のみぐし落ちなどして、いみじきことゞも侍りけれど、猶このたびにはしかずとぞ。すなはち人
皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。』
(H)
すべて世のありにくきこと、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさまかくのごとし。
いはむや所により、身のほどにしたがひて、心をなやますこと、あげてかぞふべからず。もしおのづから身かずならずして、權門のかたはらに居るものは
深く悦ぶことあれども、大にたのしぶにあたはず。なげきある時も、聲をあげて泣くことなし。進退やすからず、たちゐにつけて恐れをのゝくさま、たとへば、
雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし貧しくして富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢてへつらひつゝ出で入る妻子、僮僕のうらやめるさまを見るに
も、富める家のひとのないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて時としてやすからず。もしせばき地に居れば、近く炎上する時、その害をのがるゝこ
となし。もし邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなれがたし。いきほひあるものは貪欲ふかく、ひとり身なるものは人にかろしめらる。寶あればおそ
れ多く、貧しければなげき切なり。人を頼めば身他のやつことなり、人をはごくめば心恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし。またしたがはねば狂へるに似
たり。いづれの所をしめ、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし玉ゆらも心をなぐさむべき。』
(I)
我
が身、父の方の祖母の家をつたへて、久しく彼所に住む。そののち縁かけ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、つひにあととむることを得ずして、
三十餘にして、更に我が心と一つの庵をむすぶ。これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を造るにお
よばず。わづかについひぢをつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として車やどりとせり。雪ふり風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所は河原近
ければ、水の難も深く、白波のおそれもさわがし。すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。その間をりをりのたがひめに、お
のづから短き運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家を出で世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につ
けてか執をとゞめむ。むなしく大原山の雲にふして、いくそばくの春秋をかへぬる。』
(J)
こゝ
に六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあり。いはゞ狩人のひとよの宿をつくり、老いたるかひこのまゆをいとなむがごとし。これを中
ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだもおよばず。とかくいふ程に、よはひは年々にかたぶき、すみかはをりをりにせばし。
その家のありさまよのつねにも似ず。廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所をおもひ定めざるがゆゑに、地をしめて造らず。土居をくみ、うちお
ほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へうつさむがためなり。そのあらため造るとき、いくばくのわづらひ
かある。積むところわづかに二輌なり。車の力をむくゆるほかは、更に他の用途いらず。
いま日野山の奧にあとをかくして後、南にかりの日がくしをさし出して、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、うちには西の垣に添へて、阿彌陀の
畫像を安置したてまつりて、落日をうけて、眉間のひかりとす。かの帳のとびらに、普賢ならびに不動の像をかけたり。北の障子の上に、ちひさき棚をかまへ
て、黒き皮篭三四合を置く。すなはち和歌、管絃、徃生要集ごときの抄物を入れたり。傍にこと、琵琶、おのおの一張をたつ。いはゆるをりごと、つき琵琶これ
なり。東にそへて、わらびのほどろを敷き、つかなみを敷きて夜の床とす。東の垣に窓をあけて、こゝにふづくゑを出せり。枕の方にすびつあり。これを柴折り
くぶるよすがとす。庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。すなはちもろもろの藥草をうゑたり。かりの庵のありさまかくのごとし。
その所のさまをいはゞ、南にかけひあり、岩をたゝみて水をためたり。林軒近ければ、つま木を拾ふにともしからず。名を外山といふ。まさきのかづらあ
とをうづめり。谷しげゝれど、にしは晴れたり。觀念のたよりなきにしもあらず。
春は藤なみを見る、紫雲のごとくして西のかたに匂ふ。夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。
秋は日ぐらしの聲耳に充てり。うつせみの世をかなしむかと聞ゆ。冬は雪をあはれむ。つもりきゆるさま、罪障にたとへつべし。もしねんぶつものうく、
どきゃうまめならざる時は、みづから休み、みづからをこたるにさまたぐる人もなく、また恥づべき友もなし。殊更に無言をせざれども、ひとり居ればくごふを
をさめつべし。必ず禁戒をまもるとしもなけれども、境界なければ何につけてか破らむ。もしあとの白波に身をよするあしたには、岡のやに行きかふ船をながめ
て、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風、葉をならすゆふべには、潯陽の江をおもひやりて、源都督(經信)のながれをならふ。もしあまりの興あれば、しばし
ば松のひゞきに秋風の樂をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。藝はこれつたなけれども、人の耳を悦ばしめむとにもあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、
みづから心を養ふばかりなり。』
(K)
ま
た麓に一つの柴の庵あり。すなはちこの山もりが居る所なり。かしこに小童あり。時々來りてあひとぶらふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびあり
く。かれは十六歳、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むることはこれおなじ。あるはつばなをぬき、いはなしをとる(りイ)り。またぬかごをもり、
芹をつむ。或はすそわの田井に至りて、おちほを拾ひてほぐみをつくる。もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み、木幡山、伏
見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を
過ぎて、石間にまうで、或は石山ををがむ。もしは、粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、をり
につけつゝ櫻をかり、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉りかつは家づとにす。もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、猿の聲に
袖をうるほす。
くさむらの螢は、遠く眞木の島の篝火にまがひ、曉の雨は,おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたが
ひ、みねのかせきの近くなれたるにつけても、世にとほざかる程を知る。
或は埋火をかきおこして、老の寢覺の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろふの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけてつくることなし。いはむや
深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしもかぎるべからず。大かた此所に住みそめしは、あからさまとおもひしかど、今ま(すイ)でに五とせを經た
り。假の庵もやゝふる屋となりて、軒にはくちばふかく、土居に苔むせり。おのづから事とのたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、やごとなき人の、か
くれ給へるもあまた聞ゆ。ましてその數ならぬたぐひ、つくしてこれを知るべからず。
たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞかりの庵のみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あ
り。一身をやどすに不足なし。がうなはちひさき貝をこのむ、これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。我またかくの
ごとし。身を知り世を知れらば、願はずまじらはず、たゞしづかなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす。
すべて世の人の、すみかを作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子眷屬のために作り、或は親眤朋友のためにる。或は主君、師匠、および
財寶、馬牛のためにさへこれをつくる。我今、身のためにむすべり。人のために作らず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべ
き人もなく、たのむべきやつこもなし。たとひ廣く作れりとも、誰をかやどし、誰をかすゑん。』
(L)
そ
れ人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先す。かならずしも、情あると、すぐなるとをば愛せず。たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。人のやつ
こたるものは賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。
更にはごくみあはれぶといへども、やすく閑なるをばねがはず、たゞ我が身を奴婢とするにはしかず。もしなすべきことあれば、すなはちおのづから身を
つかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。もしありくべきことあれば、みづから歩む。くるしといへども、馬鞍牛車と心
をなやますにはしか(二字似イ)ず。今ひと身をわかちて。二つの用をなす。手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝ
ば、くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。つかふとても、たびたび過さず。ものうしとても心をうごかすことなし。いかにいはむや、常にありき、常に
働(動イ)くは、これ養生なるべし。なんぞいたづらにやすみ居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。』
(M)
衣
食のたぐひまたおなじ。藤のころも、麻のふすま、得るに隨ひてはだへをかくし。野邊のつばな、嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれ
ば、姿を恥づる悔もなし。かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。すべてかやうのこと、樂しく富める人に對していふにはあらず。たゞわが身
一つにとりて、昔と今とをたくらぶるばかりなり。大かた世をのがれ、身を捨てしより、うらみもなくおそれもなし。命は天運にまかせて、をしまずいとはず、
身をば浮雲になずらへて、たのまずまだしとせず。一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯の望は、をりをりの美景にのこれり。』
(N)
そ
れ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずは、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。おのづから都
に出でゝは、乞食となれることをはづといへども、かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。もし人このいへることをうたがはゞ、魚と鳥と
の分野を見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居の氣味もまたかくの如し。住
まずしてたれかさとらむ。』
(O)
そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。
佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ。』
(P)
し
づかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。然るを汝が姿は
ひじりに似て、心はにごりにしめり。すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、たもつ所は、わづかに周利槃特が行にだも及ばず。
もしこれ貧賎の報のみづからなやますか、はた亦妄心のいたりてくるはせるか。その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三遍を申してやみぬ。時に建暦の二とせ、彌生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。
(Q)
「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」。
11 Comments:
http://www.washburn.edu/reference/bridge24/Hojoki.html
Hojoki
http://ameblo.jp/shinya-matsukawa/entry-10899089490.html
縁起の意味- 南方熊楠の考える「縁」と「起」(人生の化学反応)
http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/books/jiten_harada_ch3.html
熊楠を知る事典』 < [関連書籍紹介] < [南方熊楠資料研究会]
『南方熊楠を知る事典』-原田健一(はらだ けんいち)
第二期(那智時代)土宜法龍宛書簡 1903-1904
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南方熊楠は帰国後、ロンドン時代以降、断続的に続いていた土宜法龍との書簡を再び開始する。そこでの話題の中心はもっぱら仏教である。彼はここで、有名な曼陀羅の構想をぶちあげるのだが、それについて述べる前に一つだけ注意を促しておきたい点がある。
それは、熊楠にとっての那智時代が、再度の国外渡航を断念し、しだいしだいに日本に土着化する覚悟をいやおうなく迫られていることを、自覚せざるを得なくなった時期であったことである。彼は異国の地で自らの運命に眼を凝らしたように、この故国の地でも眼を凝らさねばならなかった。この時、熊楠にとって仏教は観念的な哲学の体系というより、そうしたことをも含み込んだ実践的な生の指標として、顕われはじめたことである。
ここでは、彼の仏教との関わりを中心に、ロンドン時代にさかのぼって見ていくことにしたい。まず、熊楠が、法龍と出会った当初、仏教を宗教としてではなく、「信」を脱色した形で受容していたことから入ろう。
ここでの熊楠の仏教受容の特徴は三つに分けることができる。
(1)民俗学的な資料として仏典を扱う。(2)論理学として、なかんずく縁起論への注視。(3)仏教哲学を実践論として、生き方の問題として受けとめていたこと。
土宜法龍は往復書簡の早い時期から、熊楠のそうした特徴を読み取り、新たに仏教哲学を組み込み直していることを察知していたように思われる。土宜法龍が若き学徒のいいたい放題を最大限に許容していた理由はそこにしかない。
熊楠は「信」なきものの立場から「大日如来の大不思議」へと論理的に遡行しようとする。森羅万象を説き明かし、その論理を発する源へと熊楠は思考の線を延ばす。彼はそこで、「大日如来」に出会う。この時、熊楠の近代論理の学徒としての思想の深度が、仏教を通して問われる。
なぜなら、古代・中世にかけて現われた日本の宗教的な天才たち(空海・最澄・法然・親鸞・道元・日蓮等)。彼らはそこで仏の論理に身を焼き焦がし灰燼と化した果てに、(近代以前の)自我と「信の構造」の今日の我々からみれば奇妙なアマルガムとなって、一挙に仏として、大日如来となって、論理の思考の視線を我々が生きている世界に向かって返す。そこには宗教的な格闘と高揚があり、思想の白熱した瞬間があったからだ。
しかし、熊楠は近代人として、近代の洗礼を浴びた自我が、仏に、大日如来にけっして成りきれぬものであることもよく洞察しぬいたものである。彼は、南方熊楠であり大日如来ではけっしてない。論理的に大日如来に行き当たることはあっても、その大日如来でない以上、その立場に立って、再びこの世界へと思考の視線を切り返し、論理を鳥瞰し見渡すことは、論理的な矛盾だけでなく、人格的な虚威をつくことにもなる。
彼の曼陀羅は人から大日如来(≒世界)を解く道筋だけが示されている一方通交の論理学なのだ。多分、大日如来という一つの頂点から、見返し鳥瞰し世界を語り得れば、もっと明瞭でわかりやすい像を語り得ることができたにちがいない。彼にそのことができなかったわけではない。しかし、それをやってしまえば通俗仏教哲学の域から脱却することはできない。
[図(1): 事の論理]
小生の事の学というのは、心界と物界とが相接して、日常あらわる事という事も、右夢のごとく非常に古いことなど起こり来たりて、昨今の事と接して混雑はあるが、大鋼領だけは分かり得べきものと思うなり。電気が光を放ち、光が熱を与うるごときは、物ばかりのはたらきなり(物理学的)。今、心がその欲望をもて手をつかい物を動かし、火を焚いて体を煖むるごときより、石を築いて長城となし、木をけずりて大堂を建つるごときは、心界が物界と雑(まじわ)りて初めて生ずるはたらきなり。電気、光等の心なきものがするはたらきとは異なり、この心界が物界とまじわりて生ずる事(すなわち、手をもって紙をとり鼻をかむより、教えを立て人を利するに至るまで)という事にはそれぞれ因果あることと知らる。そのことの条理を知りたきことなり。(明治二十六年二月二十四日)(図1)
熊楠が、自らの曼陀羅の構想を土宜法龍に語ったのはロンドン・パリ往復書簡時代であり、かなり早い時期に属している。そこでは熊楠は「事の学」として、けっして曼陀羅として語っているわけではない。その時はまだ、彼の前にあったのは仏教ではなく、西洋の博物学(なかんずく生物学)との対決であったはずである。彼は幼い頃から江戸時代に高度に発達した日本あるいは中国の自然哲学としての博物学を素養として育ち、そのままそこで培われた世界観を西洋の生物学に引き移そうとしたからである。
熊楠にとっての不満は、自然を一つの連続性として丸ごととらえようとする世界観がそのまま事物を空間的に把握しようとする態度となる東洋的な博物学に対し、西洋の博物学が自然科学として凡てのものを個々の層において把握することで、個別的な学の形成に向かいはじめた点にある。そしてさらに、そこでは学問の名のもとに物界と心界が別々のものとして扱われ、その二つがぶつかりあう場所(事の条理)が置き忘られたことにある。それでいながらダーウィンの進化論によって、生物界に時間的な秩序が持ち込まれ、生命の起源が-それは熊楠にとっては物と心がぶつかりあう「事の条理」問題として、問わざるをえなくなっていたことである。
ここで、熊楠が、ロンドンという都会から離れ、熊野という森や山へ還ったことはある必然がある。書物のフィールドワークから、実際に記述されたものが生きる場所へと、彼は本能的に自らの欲望を解き放つ場所へと吸い寄せられたからだ。
熊楠は歩く。森を山を、川を谷を。そこでは、濁り詰まった人いきれではなく、濃密な草や木の匂いが生命の吐息となって触れかかってくる。
さびしき限りの処ゆえいろいろの精神変態を自分に生ずるゆえ、自然、変態心理の研究に立ち入れり。(「履歴書」)
とは、彼のそうした眩暈(げんうん)を率直に述べたものといっていいだろう。
この時、熊楠は新たに自己を、そしてこの自然を、世界をとらえなおすすべてを包摂する原理として、仏教の論理を用いることを見出したのだ。
ここに一言す。不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり 理不思議あり。大日如来の大不思議あり。(明治三十六年七月十八日付)
ここでの「事不思議」、「物不思議」、「心不思議」は、すでに記述した「事」、「物界」、「心界」に照応する。では、「理不思議」、「大日如来の大不思議」はなんであろうか。
それについては以下の手紙と、それに添えられた図(2)を見てみる。
[図(2):南方マンダラ]
図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長(たけ)、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無 尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍(ふえん)追及するときは、いかなることも見出だし、いかなることもなしうるようになっておる。(明治三十六年七月十八日付)
これをどう理解したらいいのか。
まず(a)、この図(2)が立体図ということを頭に入れておかねばならない。 そして(b)、この一つひとつの線(イ)~(ル)が一つひとつの物と心とが相接した事理を表わしていると了解する。
(c)これをたとえば、一本の線を一枚の紙に書かれたものとすれば、複雑に絡まった線の塊は、実は何枚もの紙に描かれたいくつもの線が重ねられ透かし見えたとき、みるみると立体的な図へと立ち上がったものである。
(d)この立体図の中で重要な意味を持ってくるのは、直線と曲線のありようである。一本の線が、そのまま平面であった時には真っ直ぐであっても、重ねられ立体へと立ち上がった時、弧を描く曲線となり、また、曲線は一筋の直線となってゆくのではないか。それはさまざまな「事」が絡み合った時、偶然と思われたものは必然と化し、必然は偶然へと投げ込まれてゆくかのようである。
そう理解すればこの図は「物」と「心」の相接した「事の条理」が複雑に絡み合った姿を視覚的に表わした図とみえる。そして、そうした「事の条理」の限界に位置し、かろうじて理解できるかできないかの境界線(ル)が、我々の存在の輪郭を形成するものとしての理不思議になる。そこから先はどんなに複雑な線の塊があったとしても、また、なんらかの関与があったとしても、この世に存在する我々には理解できない世界である。
そして、「大日如来の大不思議」とはこうした図、すべてを成り立たせる器そのもののことを示す。つまり、それこそダーウィンの進化論-時間の秩序性があばき出した生命の起源を、熊楠にとっては意味する。
明治三十六年八月八日付の手紙に書かれた熊楠の曼陀羅はこれをふまえ、さらに詳細に展開したものである。
熊楠は「心」と「物」の結節点である「事」そのものの継起的な連続性を、一つの時間的な秩序として見立てようとする。そして、それを仏教哲学にひそむ「縁起」論に重ね、裏打ちすることで導入しようとしている。(図(3))
[図(3): 大日世界]
因はそれなくしては果が起こらず。また因果なればそれにともなって果も異なるもの、縁は一因果の継続中に他因果の継続中に他因果の継続が竄入(さんにゅう)し来たるもの、それが多少の影響を加うるときは起、(中略)故にわれわれは諸他の因果をこの身に継続しおる。縁に至りては一瞬に無数にあう。それが心のとめよう、体にふれようで事をおこし(起)、それより今まで続けて来たれる因果の行動が、軌道をはずれゆき、またはずれた物が、軌道に復しゆくなり。(明治三十六年八月八日)
そこでは「物」と「心」が「事」を介し複雑に重なりあった条理として、さまざまな因と果を横断的に絶え間なく響き合い、次々打ち寄せる「事」の波に何が因となり果となり、果となり因となるかすら不分明なまでに、時間や空間の秩序性から離れうねり、そこでは奇妙な音の調べを鳴らす。その時、重要な事。大日如来という器に何かがあるというのではない。
因果は絶えず、大日は常住なり。心に受けるの早晩より時を生ず。大日に取りては現在あるのみ。過去、未来一切なし。人間の見様と全く反す。空間また然り。(明治三十六年八月八日付)
我々にとってここのところの理解が難しい。筆者のとらえ方は、大日如来という「器」にさまざまな因と果が通り過ぎていくというイメージになる。ただこの時、因と果は「大日にとっては現在あるのみ。過去、未来一切なし。」という言葉が示すように、因が過去にあり、その結果が現在に現われるといった時間軸だけではない。因は未来にあり、それゆえ結果が現在に現われるといったふうに、さまざまな時間軸が横転しながら必然と化した偶然として、次々と現れるだろう。打ち寄せる「物」と「心」の波がぶつかり合い、新たな波しぶきとなって飛び散る。その飛沫となった「事」が、絶えまない水面の紋様に一筋の線をあちらに、こちらにとつくりあげる。
この時重要なことは、「大日は常住なり」ということである。それは、「心」と「物」が「事」と化し、一筋の線を描きはじめた時、何かが(時間が空間が)はじまるにすぎないことだ。
曼陀羅は知の道具ではない。その時、それは生き方の問題としてあるのだということがわかった時、熊楠は仏教哲学における実践論として-「物」と「心」が相接する「事」としての《人間》となって、大日如来から見返された視線によって、この世に還ってゆく姿がはじめて見えてきたにちがいない。彼にとって、この現世に現われた「事の条理」としての自己をどう自覚するかが、重要な意味としてあったろう。彼の言を聞こう。
宇宙のことは、よき理にさえつかまえ中(あた)れば、知らぬながら、うまく行くようになっておるというところなり。
故にこのtact(何と訳してよいか知らず。石きりやが長く仕事するときは、話しながら臼の目を正しく実用あるようにきるごとし。コンパスで斗(はか)り、筋ひいてきったりとて実用に立たぬものできる。熟練と訳せる人あり。しかし、それでは多年ついやせし、またはなはだ精力を労せし意に聞こゆ。実は「やりあて」(やりあてるの名詞とでもいってよい)ということは、口筆にて伝えようにも、自分もそのことを知らぬゆえ(気がつかぬ)、何とも伝うることならぬなり。されども、伝うることならぬから、そのことなしとも、そのことの用なしともいいがたし。(明治三十六年七月十八日付)
このtactとは何か。もう少し、「事の条理」としての「熊楠」に引きよせてみる。
一例をいわんに、数量のことは、予期たしかなれば例までもなし、tactのことをいわん。明治二十三年、予、フロリダにありて、ピソフォラという藻を見出だす、これはそれまでは米国の北部にのみ見しものなり。さて帰朝して一昨年九月末、吉田村(和歌山の在)の聖天へまいれば、必ず件(くだん)の藻あると夢みること毎度なり。よりて十月一日、右の聖天へまいりはせぬが、その辺をなんとなくあるくに、一向になし。しかるに、予の弟の出務中なる紡績会社の辺に池をほりあり。(これは小生在国のときなかりしものゆえ、小生知るはずなし。)それに黒みがかった緑の藻少し浮かみあり。クラドフォラという藻と見えたり。それは入らぬゆえ、ほって帰らんとす。されども、何にもとらずに半日を費やせしも如何なれば、どんなものか、小児にでも見せて示さんと思い、とりて帰る。さて顕微鏡で見るに、全く夢に見しピソフォラなるのみか、自分米国で発見せしと同じ一種なりし。(明治三十六年七月十八日付)
これを神秘的な体験と受け取るとまちがえるだろう。熊楠はピソフォラという藻を発見したことをいおうとしているのではない。彼がいいたいのは、さまざまな因と果の結節点に立ち現われた「事の条理」としての「南方熊楠」はなぜ、そうした藻を研究しようと思ったのだろうか、という問いを自分に発しているのだ。
彼にとって自分自身である「南方熊楠」がなぜ、こうした植物に本能的に惹かれるのかよくわからない。だが、それ(藻や、粘菌等)は、いつもまるで自分を待ち受けているかのように、不可思議にも次々顕われてくる。それはまるで、自分が見つけ出すのを待っているかのようにである。
その時、「南方熊楠」は畢竟、それをそうとして受け入れていくものとして、tactする存在にすぎない。そのtactとは、宇宙の「条理」を表現する結節点である。形而上学における表現主義そのもののことである。そこに仏が見えてくる場所がある。
ご承知のごとく、人間の識にて分かる、また想像の及ぶ宇宙は、大日に比してほんの粟一粒に候間、それは無用の穿鑿(せんさく)と致し候。(明治三十七年三月二十四日付)
この熊楠の大日如来への讃を、そのまま受け取っていいのではないかと、自分は思うものである。〔原田 健一〕
http://ameblo.jp/shinya-matsukawa/entry-10899089490.html
縁起の意味- 南方熊楠の考える「縁」と「起」(人生の化学反応)
縁起の意味- 南方熊楠の考える「縁」と「起」(人生の化学反応)
2011-05-21 22:47:04
テーマ:学び
私は競馬をするのですが、競馬を始めた大学生の頃(おいおい)、
これまた競馬好きの親戚から、1冊の本を譲りうけました。
『競馬の快楽』(植島 啓司)
植島先生は宗教学者で、当時私の通っていた大学の教授でもあり、
『サンスポ』に競馬予想コラムの連載をされていました。
TVへの出演も多く、NHKでレギュラー番組を持つなど
マルチに活動されていました。
この本は、内容としては、植島先生の競馬を中心した
賭けのエピソードで構成されているのですが、
初めのほうに、さすがは宗教学者だけあり、
アカデミックな考察があります。
そのなかのひとつに「縁起」ということに
ついて、民俗学の泰斗・南方熊楠の考える因果律関して、
鶴見和子(社会学者)の解析内容について
触れている。以下になります。
$ビジネス3分クッキング-縁起
図①で、AとBがある一点で出会うことが「縁」であると考える。
但し、この一点で出会っても、それぞれの進行方向は変わらない。
ところが、図②では、AとBの両者が出会ったことによって、
両者の進行方向が変わってしまう。これを「起」と考える。
もちろん「縁」も「起」ともに偶然ではあるが、
そこには相違が見出される。
私は、この考察を読み「起」について、
『「起」は人と人との出会いの「化学反応」だ!』と感じました。
そう、ある人の出会いにより、自分でも思わぬ方向(予期せぬ方向)に
人生が進みだす。
それから、十数年経ち、「起」となる出会いももちろんありました。
そして、今回、鮒谷さんの道場へ参加したことは、
同期の皆様とは「縁」であり、自分の人生については「起」となるであろう
と思っています。
この他にも、植島啓司先生は、人生における運、偶然について
著書ですばらしい考察をされており、
その考えに触れることで、人生を柔軟に考えることができます。
是非皆さんにも読んでいただきたいです。
【運・偶然は植島啓司に学べ】
競馬の快楽 (講談社現代新書)/植島 啓司
Amazon.co.jp
偶然のチカラ (集英社新書 412C)/植島 啓司
"南方マンダラ",「不思議」について,その他(口語訳30):南方熊楠の手紙
http://www.minakatella.net/letters/mandala30.html
【文化】南方熊楠らが写るガラス乾板503枚、和歌山で見つかる [11/14]©2ch.net
1 :かじりむし ★@転載は禁止 ©2ch.net:2014/11/14(金) 21:38:31.76 ID:???0
南方熊楠らが写るガラス乾板503枚 和歌山で見つかる
http://www.asahi.com/articles/ASGCF5T41GCFPXLB00Z.html
朝日新聞 高井和道 2014年11月14日17時29分
和歌山県出身で世界的な民俗・博物学者、南方熊楠(みなかたくまぐす、1
867~1941)が友人らと写った写真の原板となるガラス乾板計503枚
が見つかった。南方熊楠顕彰館(同県田辺市)が14日に発表した。
ガラス乾板は感光する乳剤をガラス板に塗ったもの。フィルム普及前の明治
~昭和初期によく使われた。顕彰館職員が2012年2月から田辺市立図書館
の資料を調べて発見。森の中に立つ熊楠を撮った「林中裸像(りんちゅうらぞ
う)」や親交のあった画家の川島草堂、熊楠の日記にも登場する写真家の辻一
郎が写ったものもあった。熊楠と少年1人が並んだ写真「南方熊楠牟婁(むろ)
新報社工員」のガラス乾板も見つかり、元々は少年ら9人との集合写真の一
部だったことも判明した。
熊楠は当時政府が進めた「神社合祀(ごうし)」で木々が伐採されることに
強く反対。神社の意義を伝えるため、親交があった辻に写真を撮らせて各地に
送るなどしていた。顕彰館の浜岸宏一館長は「熊楠ゆかりの人々や当時の田辺
の様子がよく分かり、熊楠研究の貴重な資料だ。今後は市立図書館と協議のう
えで顕彰館の収蔵庫で管理し、機会があれば一般公開したい」としている。
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20141114001335_comm.jpg
↑画像:発見されたガラス乾板による「林中裸像」=南方熊楠顕彰館提供
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20141114001332_comm.jpg
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20141114001330_comm.jpg
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20141114001227_comm.jpg
関連リンク:
南方熊楠 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E7%86%8A%E6%A5%A0
【歴史】「方丈記」の大地震跡、京大が発見 東山の植生に影響か©2ch.net
1 :coffeemilk ★ 転載ダメ©2ch.net:2015/02/24(火) 11:19:38.52 ID:???* ?2BP(1012)
朝日新聞デジタル 2月24日 7時9分配信
滋賀県内で見つかった元暦地震の痕跡。12世紀前半ごろまで地表だった黒い土の上に土砂崩れの土砂が埋まっている=京都大の釜井俊孝教授提供
http://amd.c.yimg.jp/im_siggdpIVoUdYzRrHsEL85NBDyw---x200-y139-q90/amd/20150224-00000012-asahi-000-1-view.jpg
平安末期に京都を襲った大地震で起きたとみられる土砂崩れの跡を京都大防災研究所の釜井俊孝教授(応用地質学)らが京都・滋賀の東山で見つけた。
地震の惨状は「方丈記」や「平家物語」などに描かれ、今回は記述を具体的に裏付ける珍しい発見。東山一帯の山林はその後荒廃し、マツタケがはえるアカマツなどの植生にも影響したようだ。
この地震は、壇ノ浦で平家が滅んで間もない1185(元暦2)年に起き、京都を中心に大きな被害が出た。規模は推定マグニチュード7・4。琵琶湖西岸の活断層の一部が動いたと見られている。
当時京都で暮らしていた鴨長明(1155~1216)は「山は崩れて、川を埋め」「地が動き、家が壊れる音は雷と同じだ」と方丈記で描写。
方丈記では大火事や飢餓などの災厄を取り上げ、人の営みを川面の泡のようだと無常観をつづっているが、地震こそ最も恐れなければならないものだと指摘した。
平家物語も「大地さけて水わき出(い)で、盤石われて谷へまろぶ」と記している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150224-00000012-asahi-ent
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南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者、生物学者、民俗学者。
南方 熊楠
Minakata-Kumagusu.jpg
御前進講の際の記念撮影。(昭和4年6月1日)
生誕
1867年5月18日
紀伊国・和歌山
死没
1941年12月29日(74歳没)
和歌山県・田辺町
居住
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国、イギリスの旗 イギリス
国籍
大日本帝国の旗 大日本帝国
研究分野
博物学
生物学(特に菌類学)
民俗学
研究機関
大英博物館
主な業績
粘菌の研究
プロジェクト:人物伝
生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集もおこなっていた[1]。そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入したことが注目される。民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した[2]。熊楠の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している[3]。
目次
概説
年譜
上京
米・英に留学
紀南、植物採集・研究
学問
生物学
評価
自然保護運動
人物
著作
生前刊行本
全集・選集・日記
書簡集
往復書簡集
著作(編者版)
復刻判
資料・目録
評価・顕彰
家族
子孫
主要論文
南方熊楠を題材とした作品
評伝・評論
小説
漫画
映画
DVD
関連文献
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
人物
外部リンク
概説
編集
このように、広範囲の分野に多くの研究を行っており、その残されたものから判断すると、熊楠が高度な専門家であったことは間違いない。しかしながら、熊楠はこれらの分野において、ほとんど論文を発表していない。これは、出版された論文をもって正式な業績と見なす科学の世界では致命的である。たとえば粘菌の分野では、熊楠は数度にわたって目録を発表しており、熊楠以前には日本から36種しか記録されていなかった日本の粘菌相に178種を追加した。これだけでも熊楠は変形菌研究の歴史に大きな名を残している。しかし、例えば熊楠は「新種」を記載してはおらず、熊楠の手になる新種は、全て他の研究者によって発表されたものである。これはキノコの分野でも同じであり、そういった観点からは、熊楠に対しては「優れた観察者およびコレクター」(萩原(1999),p.245)という評価しかできない。
ネイチャー誌に掲載された論文の数は約50報、日本人最高記録保持者となっている[注釈 4]。 これについては、熊楠が目指していた菌類図説がもし発表されていれば、また評価は違ったかも知れない。ただ、熊楠自身の残したメモや日記、手紙類から、熊楠の学問について推測するための努力は今も続けられている。
自然保護運動
編集
学問とは直接につながるものではないが、熊楠は自然保護運動における先達としても評価されている。特に神社合祀令に反対運動を起こしたのは、それによって多くの神社の鎮守の森が失われることを危惧したことによる。これに関しては特に、田辺湾の小島である神島の保護運動に力を注いだ。結果としてこの島は天然記念物に指定され、後に昭和天皇が行幸する地となった。熊楠はこの島の珍しい植物を取り上げて保護を訴えたが、地域の自然を代表する生物群集として島を生態学的に論じたこともあり、その点できわめて先進的であった。
「神島 (和歌山県)」も参照
1905年(明治38年) - ディキンズとの共訳『方丈記』完成。
1906年(明治39年) - 田辺の闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)。
6月 - タブノキ(クスノキ科)の朽ち木から採集した粘菌の一種が新種と認められた。熊楠が発見した10種の新種粘菌のうち最初のもの。[注釈 3]。
1907年(明治40年) - 前年末発布の神社合祀令に対し、神社合祀反対運動を起こす。
6月24日 - 長男熊弥誕生[8]。
1908年(明治41年) - 『ネイチャー』11月26日号に論文「魚類に生える藻類」を寄稿。
1909年(明治42年)9月 - 新聞『牟婁新報』に神社合祀反対の論陣を張る。
1910年(明治43年) - 紀伊教育会主催の講習会場に酩酊状態で押し入り、翌日「家宅侵入」で逮捕。監獄で新種の粘菌を発見したという。『ネイチャー』6月23日号に論文「粘菌の変形体の色1」を寄稿。
柳田國男(1940年ころ)
1911年(明治44年) - 柳田國男との文通が始まる(1913年まで続く)。
9月 - 柳田『南方二書』を出版。
10月13日 - 長女文枝誕生。
1912年(明治45年/大正元年) - 田辺湾神島(かしま)が保安林に指定される。
1913年(大正2年) - 柳田國男、田辺に来て熊楠と面会する(熊楠47歳、柳田39歳)。この時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。
1929年(昭和4年)6月1日 - 紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦長門艦上で進講。粘菌標本を天皇に献上した。進講の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された。献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、熊楠はキャラメルの空箱に入れて献上した。(※同年、世界恐慌)
1962年(昭和37年)5月、白浜町を行幸した昭和天皇は御宿所の屋上から神島を眺めて御製「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ」を詠んでいる。これは、昭和天皇が民間人を詠んだ最初の歌であった。この歌碑は、白浜町の南方熊楠記念館のある番所山に建てられている。
1940年(昭和15年)11月10日 - 東京での紀元二千六百年記念式典への招聘を歩行不自由の理由で断る。
1941年(昭和16年)12月29日 - 自宅にて永眠。死因は萎縮腎であった。満74歳没。田辺市稲成町の真言宗高山寺に葬られた。
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