火曜日, 8月 28, 2012

ショーペンハウアーとウィトゲンシュタイン


「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の世界に属するのである。従って一方には何も残存しなく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。[((論考)5.64☆を参照]」

(ウィトゲンシュタイン、1916年10月15日、「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁より)

D・A・ワイナーによれば上記の記述もショーペンハウアー『意志と表象〜』に応酬したものだと言う(三和書籍141頁)。
ワイナーは指摘していないが、同じ論理がショーペンハウアー『根拠律』(19節邦訳全集第一巻51頁)のスピノザに関する言及にもある。

『意志と表象としての世界』:図解&目次

『天才と才人―ウィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影響 』(単行本)
D.A.ワイナー著
http://www.amazon.co.jp/dp/4916037529/

以下読書メモ:

著者は、ウィトゲンシュタイン『論考』(5.633)の「君」はショーペンハウアーのことだと指摘する(104頁)。
ウィトゲンシュタインは「ショーペンハウアーの亡霊と論争している」(112頁)のだ。
孤高の両思想家は孤高であるという接点を持つ(両者ともに影響関係の必要ない天才であり、努力し勉学に励む才人でもある)。

有名な「梯子」(6.54)の比喩も『続意志と表象』から引いているという(71頁)。

意志と表象の意志の部分をフロイトが受け継いだとするなら(*)、表象の部分の吟味をヴィトゲンシュタインが批判的に受け継いだのだ。『論考』でその固有名を言及されないショーペンハウアーは「梯子」の一つだったとも言える、、、

表象から意志への移行をウィトゲンシュタインはショーペンハウアーによる動かない腕の比喩を逆手に取って拒否する(126頁)。

ただし、著者はウィトゲンシュタインがショーペンハウアーを通じてカントに接近したと書くが、むしろスピノザと接近しているのではないか?
それは、「永遠の相」(『意志と表象』34節で引用されるスピノザの言葉)を芸術に求めるショーペンハウアー、それに倫理的態度を付け加えるウィトゲンシュタイン(195頁)を見るとわかる(参考「草稿」1916年10月7日)。

ショーペンハウアーはスピノザの演繹的手法を批判したが、思想の実質は受け継いでいる。
カントとプラトンだけにショーペンハウアーの影響関係が限定されるわけではない。

彼らの関係を(ショーペンハウアーによる四つの根拠律を考慮しつつ)図示するとこうなるかも知れない。

スピノザ|ウィト
____|____
カント |ショーペン
    |フロイト

なお、本書はカバーデザインが与える印象と違い、学術的労作と言えると思う。
翻訳も両者邦訳全集の引用元頁数が注記されていて親切だ。


*注:
ショーペンハウアーとフロイトの関係については、小林敏明氏(『<死の欲動>を読む』47頁)によればZentner『忘却への逃走』(未邦訳)↓に詳しい(意志がエスに、知性が自我に対応する)。

3.2. „Es" und „Ich" - „Wille" und „Intellekt" im Vergleich
http%3A%2%2Fexternal.dandelon.com%2Fdownload%2Fattachments%2
Fdandelon%2Fids%2FDE00409D8261E81701023C12577DE00306C0A.pdf





「…表象としての世界に徹頭徹尾立ち止まるなら、私が客観を私の頭の中の表象と説こうが、
時間と空間の中に現われる表象と説こうが、どちらでもよい(略)そこでこの意味でなら、
観念的なものと実在的なものとの同一性ということが、ともかく主張されうるかも知れな
い。」
(ショーペンハウアー『意志と表象』続編第18章第二巻の補足。白水社版では第6巻13頁)

参考:P.M.S.ハッカー『洞察と幻想 ヴィトゲン シュタインの哲学観と経験の形而上学』(八千代出版)


「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html
世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
あなたは、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。しかし、現実には、あなたは眼を見ることはない
そして、視野におけるいかなるものも、それが眼によって見られていると推論できるものはない。
  5.634
このことは、われわれの経験のいかなる部分もア・プリオリではないということと結びついている。
われわれが見るすべては、また別のようでもありえた。
われわれが記述できるすべては、また別のようでもありえた。
ものにはア・プリオリな秩序は存在しないのである。
- 5.64
ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論に一致することが見てとれる。独我論の自我は広がりを欠いた点に収縮し、自我に対応していた実在だけが残される。
  5.641
それゆえ、哲学において非心理学的自我を論じうることには確かに意義がある。

ーーーー
 つまり、ウィトゲンシュタインの「論考」に対するかつての(キルケゴールの言葉を借りれば)「極まりない信頼」は、そのままそれへの「刺すような風刺」となったのである。「探究」は、「論考」を「重要な仕事」だと認めると同時に「バカげたものと見なしている」。しかし、「探究」の「論考」に対するこのアンヴィバレントな評価は、合冊本全体の中での「探究」への評価にも返ってくるのである。1949年、「探究」を仕上げたばかりのウィトゲンシュタインは、主治医に自分の哲学を説明していて「ひょっとしたら全部まちがいかもしれません!」と叫ぶ(マルコム68)。
 そして「論考」に対する態度の転換は、ウィトゲンシュタインに突然訪れた。それは経済学者スラッファによる批判である。
「スラッファは、あれやこれやの細かな点ではなく、彼の全体の展望に関してウィトゲンシュタインに再考させる力をもっていた。このことを例証する一つの逸話がある。それはウィトゲンシュタインがマルコムとフォン・ウリクトとの両人に話し、そのとき以来何度も繰り返し語られてきたものであった。それは、ウィトゲンシュタインが命題と命題が表現している事柄は同じ「論理的形式」を表現していなければならないと主張した会話に関するものである。この考え方に対して、スラッファは指先で顎をこするナポリ人特有のジェスチャーをし、そして尋ねた。「その論理的形式は何か」。その話によれば、この発言によって、命題はそれが表現する実在の<像>でなければならないという『論考』の考え方をウィトゲンシュタインは主張するのを断念した」(モンク277)。



マルコム 回想のヴィトゲンシュタイン 法政大学 114頁


1929年?



ヴィットゲンシュタインにおける「私的言語」の問題 - 流通科学大学

(Adobe PDF)
神尾論稿

と、ヴィットゲンシュタインは言う。さらに、そうした命題を構成する究極の最小単位が、「 要素. 命題」(Elementarsatz)である。「要素命題」とは、それ以上は分解できない もっとも単純な「命. 題」である(vgl. TLP 4.21, 4.221)。つまりは、言語は、まずは「命題 」に、さらには「要素命題」. にまで解体可能 .... のである。1929 年のことと思われるが、 車中でイタリア出身の経済学者スラッファと次のような. やり取りがあり、 ..... ているかの ように錯覚される)〈私〉なんぞはない、というのが、ヴィトゲンシュタインの主張が. 最終的 に向かう ...

ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出 (平凡社ライブラリー (266)) 新書 – 1998/10/1


73 Comments:

Blogger yoji said...

http://panse.livedoor.biz/archives/51637523.html

ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer

「ショウペンハウアー全集(2)」(4)
--「意志と表象としての世界」--

<内容目次>
(「世界の名著 続10 ショーペンハウアー」による目次)
第一巻 表象としての世界の第一考察
--根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観--

第一節
世界はわたしの表象である。
第二節
主観と客観は直かに境界を接している。
第三節
根拠の原理の一形態としての時間。
世界は夢に似て、マーヤーのヴェールに蔽われている。
第四節
物質とは働きであり、因果性である。
直観能力としての悟性。
第五節
外界の実在性に関するばかげた論争。
夢と実生活との間に明確な目じるしはあるだろうか。
第六節
身体は直接の客観である。すべての動物は悟性をもち、
動機に基づいた運動をするが、理性をもつのは人間の
みである。理性を惑わすのは誤謬、悟性を惑わすのは
仮象である。とくに仮象の実例。
第七節
われわれの哲学は主観や客観を起点とせず、表象を
起点としている。全世界の存在は最初の認識する生物
の出現に依存している。
シェーリング批判、唯物論批判、フィヒテ批判。
第八節
理性は人間に思慮を与えるとともに誤謬をもたらす。
人間と動物の相違。言葉、行動。
第九節
概念の範囲と組み合わせ。論理学について。
第十節
理性が知と科学を基礎づける。
第十一節
感情について。
第十二節
理性は認識を確実にし、伝達を可能にするが、理性は
悟性の直観的な活動の障害にあることがある。
第十三節
笑いについて。
第十四節
一般に科学は推論や証明ではなしに、直観的な明証を
土台にしている。
第十五節
数学も論理的な証明にではなく、直観的な明証に基づく。
ユークリッド批判。理性を惑わす誤謬の実例。哲学とは
世界の忠実な模写であるというベーコンの言葉。
第十六節
カントの実践理性への疑問。理性は善に結びつくだけで
はなく悪にも結びつく。ストアの倫理学吟味。


第二巻 意志としての世界の第一考察
--すなわち意志の客観化 --

第十七節
事物の本質には外から近づくことはできない。すなわち
原因論的な説明の及びうる範囲。
第十八節
身体と意志とは一体であり、意志の認識はどこまでも
身体を媒介として行われる。
第十九節
身体は他のあらゆる客観と違って、表象でありかつ意志
でもあるとして二重に意識されている。
第二十節
人間や動物の身体は意志の現象であり、身体の活動は意志
の働きに対応している。それゆえ身体の諸器官は欲望や
性格に対応している。
第二十一節
身体を介して知られている意志は、全自然の内奥の本質を
認識する鍵である。意志は物自体であり、盲目的に作用す
るすべての自然力のうちに現象する。
第二十二節
従来意志という概念は力という概念に包括されていたが、
われわれはこれを逆にして、自然の中のあらゆる力を
意志と考える。
第二十三節
意志は現象の形式から自由である。意志は動物の本能、
植物の運動、無機的自然界のあらゆる力のうちに盲目
的に活動している。意志の活動に動機や認識は必要で
はない。
第二十四節
どんなに究明しても自然の根源力は「隠れた特性」と
して残り、究明不可能である。しかしわれわれの哲学
はこの根源力のうちに人間や動物の意志と同じものを
類推する。スピノザ、アウグスティヌス、オイラーの
自然観。
第二十五節
意志はいかなる微小な個物の中にも分割されずに全体
として存在している。小さな一個物の研究を通じ宇宙
全体を知ることができる。意志の客観化の段階はプラ
トンのイデアにあたる。
第二十六節
合法則的な無機的自然界から、法則を欠いた人間の個
性に至るまで、意志の客観化には段階がある。自然の
根源諸力が発動する仕方と条件は、自然法則のうちに
言いつくされるが、根源諸力そのものは、原因と結果
の鎖の外にある。マルブランシュの機会因説。
第二十七節
元来意志は一つであるから、意志の現象と現象の間に
も親和性や同族性が認められる。しかし意志は高い客
観化を目指して努力するので、現象界はいたるところ
意志が低位のイデアを征服し、物質を奪取しようとす
る闘争の場となる。有機体は半ばは死んでいるとする
ヤーコブ・ベーメの説。認識は動物において個体保存
の道具として現われる。認識の出現とともに表象とし
ての世界が現われ、本能の確実性は休止し、人間にお
ける理性の出現とともに、この確実性は完全に失われ
る。
第二十八節
意志の現象は段階系列をなし、「自然の合意」によって
無意識のうちに相互に一致し合う合目的性をそなえて
いる。叡智的性格と経験的性格からの類比。意志は時
間の規定の外にあるから、時間的に早いイデアが後か
ら出現する遅いイデアに自分を合わせるという自然の
先慮さえ成り立つ。自然の合目的性を証明する昆虫や
動物の本能の実例。
第二十九節
意志はいかなる目標も限界もない。
意志は終わるところを知らぬ努力である。


第三巻 表象としての世界の第二考察
--根拠の原理に依存しない表象、すなわちプラトンの
イデア、芸術の客観--

第三十節
意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。
個別の事物はイデアの模像であり、無数に存在し、た
えず生滅しているが、イデアはいかなる数多性も、い
かなる変化も知らない。
第三十一節
カントとプラトンの教えの内的意味と目標とは完全に
一致している。
第三十二節
プラトンのイデアは表象の形式下にあるという一点に
おいてカントの物自体と相違する。
第三十三節
認識は通常、意志に奉仕しているが、頭が身体の上に
のっている人間の場合だけ、認識が意志への奉仕から
脱却する特別の事例がありうる。
第三十四節
永遠の形相たるイデアを認識するには、人は個体である
ことをやめ、ただひたすら直観し、意志を脱した純粋な
認識主観であらねばならない。
第三十五節
イデアのみが本質的で、現象は見せかけの夢幻的存在で
しかない。それゆえ歴史や時代が究極の目的をそなえ、
計画と発展を蔵しているというような考え方はそもそも
間違いである。
第三十六節
イデアを認識する方法は芸術であり、天才の業である。
天才性とは客観性であり、純粋な観照の能力である。
天才性と想像力。天才と普通人。インスピレーションに
ついて。天才的な人は数学を嫌悪する。天才的な人は
怜悧ではなく、とかく無分別である。天才と狂気。
狂気の本質に関する諸考察。
第三十七節
普通人は天才の眼を借りてイデアを認識する。
第三十八節
対象がイデアにまで高められるという客観的要素と、人
間が意志をもたない純粋な認識主観にまで高められると
いう主観的要素と、この二つの美的要素が同時に出現し
たときにはじめてイデアは把握される。十七世紀オラン
ダ絵画の静物画。ロイスダールの風景画。回想の中の
個物の直観。光はもっとも喜ばしいものであり、直観的
認識のための条件である。ものが水に映ったときの美しさ。
第三十九節
崇高感について

11:50 午後  
Blogger yoji said...


第四十節
魅惑的なものについて。
第四十一節
美と崇高との区別。人間がもっとも美しく、人間の本質
の顕現が芸術の最高目標であるが、いかなる事物にも、
無形なものにも、無機的なものにも、人工物にさえ美は
ある。自然物と人工物のイデアに関するプラトンの見解。
第四十二節
イデア把握の主観的側面から客観的側面へしだいに順を
追って、以下各芸術を検討していきたい。
第四十三節
建築美術と水道美術について
第四十四節
造園美術、風景画、静物画、動物画、動物彫刻について。
第四十五節
人間の美しさと自然の模倣について。優美さをめぐって。
第四十六節
ラオコーン論
第四十七節
美と優美とは彫刻の主たる対象である。
第四十八節
歴史が画について
第四十九節
イデアと概念との相違。芸術家の眼の前に浮かんでいるの
は概念ではなく、イデアである。不純な芸術家たちは概念
を起点とする。
第五十節
造形芸術における概念、すなわち寓意について。象徴、標
章について。詩文芸における寓意について。
第五十一節
詩について。詩と歴史。昔の偉大な歴史家は詩人である。
伝記、ことに自伝は歴史書よりも価値がある。自伝と手紙
とではどちらが多く嘘を含んでいるか。伝記と国民史との
関係。抒情詩ないしは歌謡について。小説、叙事詩、戯曲
をめぐって。詩芸術の最高峰としての悲劇。悲劇の三つの
分類。
第五十二節
音楽について


第四巻 意志としての世界の第二考察
--自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならび
に否定--


第五十三節
哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではな
いし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきもので
もない。
第五十四節
死と生殖はともに生きんとする意志に属し、個体は滅びて
も全自然の意志は不滅である。現在のみが生きることの形
式であり、過去や未来は概念であり、幻影にすぎない。死
の恐怖は錯覚である。
第五十五節
人間の個々の行為、すなわち経験的性格に自由はなく、経
験的性格は自由なる意志、すなわち叡智的性格によって決
定づけられている。
第五十六節
意志は究極の目的を欠いた無限の努力であるから、すべて
の生は限界を知らない苦悩である。意識が向上するに従って
苦悩も増し、人間に至って苦悩は最高度に達する。
第五十七節
人間の生は苦悩と退屈の間を往復している。苦悩の量は確
定されているというのに、人間は外的原因のうちに苦悩の
言い逃れを見つけようとしたがる。
第五十八節
われわれに与えられているものは欠乏や困窮だけで、幸福
とは一時の満足にすぎない。幸福それ自体を描いた文学は
存在しない。最大多数の人間の一生はあわれなほど内容空
虚で、気晴らしのため彼らは信仰という各種の迷信を作り
出した。
第五十九節
人間界は偶然と誤謬の国であり、個々の生涯は苦難の歴史
である。しかし神に救いを求めるのは無駄であり、地上に
救いがないというこのことこそが常態である。人間はつね
に自分みずからに立ち還るよりほか仕方がない。
第六十節
性行為とは生きんとする意志を個体の生死を超えて肯定す
ることであり、ここではじめて個体は全自然の生命に所有
される。
第六十一節
意志は自分の内面においてのみ発見され、一方自分以外の
すべては表象のうちにのみある。意志と表象のこの規定か
ら人間のエゴイズムの根拠が説明できる。
第六十二節
正義と不正について。国家ならびに法の起源。刑法について。
第六十三節
マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き
破って見ている者は、加害者と被害者との差異を超越した
ところに「永遠の正義」を見出す。それはヴェーダの
ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi
ならびに輪廻の神話に通じるものがある。
第六十四節
並外れた精神力をそなえた悪人と、巨大な国家的不正に
抗して刑死する反逆者と、--人間本性の二つの注目すべ
き特徴。
第六十五節
真、善、美という単なる言葉の背後に身を隠してはなら
ないこと。善は相対概念である。
第六十六節
徳は教えられるものではなく、学んで得られるものでも
ない。徳の証しはひとえに行為にのみある。通例「個体化
の原理」に仕切られ、自分と他人との間には溝がある。
エゴイストの場合この溝は大きく、自発的な正義はこれか
ら解放され、さらに積極的な好意、慈善、人類愛へ向かう。
第六十七節
他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。
愛はしたがって共苦、すなわち同情である。人間が泣く
のは苦痛のせいではなく、苦痛の想像力のせいである。
喪にある人が泣くのは人類の運命に対する想像力、すなわ
ち同情(慈悲)である。
第六十八節
真の認識に達した者は禁欲、苦行を通じて生きんとする
意志を否定し、内心の平安と明澄を獲得する。キリスト
教の聖徒もインドの聖者も教義においては異なるが、行
状振舞いにおいて、内的な回心において唯一同一である。
普通人は認識によってではなく、苦悩の実際経験を通じ
て解脱に近づく。すべての苦悩には人を神聖にする力が
ある。
第六十九節
意志を廃絶するのは認識によってしかなし得ず、自殺は
意志の肯定の一現象である。自殺は個別の現象を破壊す
るのみで、意志の否定にはならず、真の救いから人を遠
ざける。ただし禁欲による自発的な餓死という一種特別
の例外がある。
第七十節
完全に必然性に支配されている現象界の中へ意志の自由
が出現するという矛盾を解く鍵は、自由が意志から生じ
るのではなしに、認識の転換に由来することにある。
キリスト教の恩寵の働きもまたここにある。アウグス
ティヌスからルターを経たキリスト教の純粋な精神は、
わたしの教説とも内的に一致している。
第七十一節
いかなる無もなにか他のあるものとの関係において考え
られる欠如的無であり、記号の交換が可能である。
意志の完全な否定に到達した人にとっては、われわれが
存在すると考えているものがじつは無であり、かの無
こそじつは存在するものである。彼はいっさいの認識
を超えて、主観も客観も存在しない地点に立つ。

11:50 午後  
Blogger yoji said...

Volume 2
http://en.wikipedia.org/wiki/The_World_as_Will_and_Representation#Volume_2

Supplements to the First Book

First Half

The Doctrine of the Representation of Perception Through § 1 – 7 of Volume I

I. On the Fundamental View of Idealism
II. On the Doctrine of Knowledge of Perception or Knowledge of the Understanding
III. On the Senses
IV. On Knowledge a Priori

Second Half

The Doctrine of the Abstract Representation or of Thinking

V. On the Intellect Devoid of Reason
VI. On the Doctrine of Abstract Knowledge, or Knowledge of Reason
VII. On the Relation of Knowledge of Perception to Abstract Knowledge
VIII. On the Theory of the Ludicrous
IX. On Logic in General
X. On the Science of Syllogisms
XI. On Rhetoric
XII. On the Doctrine of Science
XIII. On the Methods of Mathematics
XIV. On the Association of Ideas
XV. On the Essential Imperfections of the Intellect
XVI. On the Practical Use of Our Reason and on Stoicism
XVII. On Man's Need for Metaphysics

Supplements to the Second Book

XVIII. On the Possibility of Knowing the Thing-in-Itself
XIX. On the Primacy of the Will in Self-Consciousness
XX. Objectification of the Will in the Animal Organism
XXI. Retrospect and More General Consideration
XXII. Objective View of the Intellect
XXIII. On the objectification of the Will in Nature without Knowledge
XXIV. On Matter
XXV. Transcendent Considerations on the Will as Thing-in-Itself
XXVI. On Teleology
XXVII. On Instinct and Mechanical Tendency
XXVIII. Characterization of the Will-to-Live

Supplements to the Third Book

XXIX. On Knowledge of the Ideas
XXX. On the Pure Subject of Knowing
XXXI. On Genius
XXXII. On Madness
XXXIII. Isolated Remarks on Natural Beauty
XXXIV. On the Inner Nature of Art
XXXV. On the Aesthetics of Architecture
XXXVI. Isolated Remarks on the Aesthetics of the Plastic and Pictorial Arts
XXXVII. On the Aesthetics of Poetry
XXXVIII. On History
XXXIX. On the Metaphysics of Music

Supplements to the Fourth Book

XL. Preface
XLI. On Death and Its Relation to the Indestructibility of Our Inner nature
XLII. Life of the Species
XLIII. The Hereditary Nature of Qualities
XLIV. The Metaphysics of Sexual Love
Appendix to the Preceding Chapter
XLV. On the Affirmation of the Will-to-Live
XLVI. On the Vanity and Suffering of Life
XLVII. On Ethics
XLVIII. On the Doctrine of the Denial of the Will-to-Live
XLIX. The Road to Salvation
L. Epiphilosophy

11:52 午後  
Blogger yoji said...

意志と表象としての世界
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E5%BF%97%E3%81%A8%E8%A1%A8%E8%B1%A1%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C

『意志と表象としての世界』(いしとひょうしょうとしてのせかい、Die Welt als Wille und Vorstellung)は、1819年に公刊されたドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーの著書。
目次

1 内容
1.1 第一部「表象としての世界の第一考察」
1.2 第二部「意志としての世界の第一考察」
1.3 第三部「表象としての世界の第二考察」
1.4 第四部「意志としての世界の第二考察」
2 参考文献

内容 [編集]
第一部「表象としての世界の第一考察」 [編集]

ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。

ショーペンハウアーが本書の序論とみなしている博士論文「根拠律の四つの根について」においては以下の4類に分かたれている。

先天的な時間空間、ないしは「存在 (essendi) の根拠(充足理由律)」
原因と結果の法則、あるいは「生成 (fiendi) の根拠」
概念論理的判断、ないしは「認識 (cognoscendi) の根拠」
行為の動機づけの法則、ないしは「行為 (agendi) の根拠」

11:53 午後  
Blogger yoji said...

存在|認識
__|___
行為|生成

11:55 午後  
Blogger yoji said...


 ドイツ思想における主要著作・講義・遺稿年表(1600年~1900年)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/1460/colum/german_chro.html

12:12 午前  
Blogger yoji said...

「意志と表象としての世界」続編目次

第一部 直観的表象についての学説
第1章 観念論的本質見解に関して  正編1−7
第2章 直観的認識、すなわち悟性の認識についての学説に関して
第3章 感覚について
第4章 ア・プリオリな認識について

第二部 抽象的表象、すなわち思考についての学説
第5章 理性を欠いた知性について 正編8、9
第6章 抽象的認識、すなわち理性認識についての学説に関して  正編8、9
第7章 直観的認識と抽象的認識との関係について  正編12 
第8章 滑稽についての理論に関して  正編13
第9章 論理学一般に関して      正編9
第10章 三段論法に関して 正編9
第11章 修辞学に関して
第12章 学問論に関して
第13章 数学の方法論に関して
第14章 観念連合に関して
第15章 知性の本質的不完全さについて
第16章 理性の実践的使用とストア主義について
第17章 人間の形而上学的欲求について    ____以上邦訳白水社版全集第5巻

第二巻の補足
第18章 物自体の認識可能性について
第19章 自己意識における意志の優位について 
第20章 動物的有機体における意志の客観化
第21章 回顧と総括
第22章 客観的な知性観
第23章 認識をもたぬ自然における意志の客観化について
第24章 物質について
第25章 物自体としての意志に関する超越的諸考察
第26章 目的論について
第27章 本能と技術衝動について
第28章 生への意志の特性叙述

第三巻の補足
第29章 イデアの認識について
第30章 純粋な認識主観について
第31章 天才について
第32章 狂気について
第33章 自然美に関する断想
第34章 芸術の内的本質について
第35章 建築術の美学について
第36章 造形芸術の美学に関する断想
第37章 詩の美学について
第38章 歴史について
第39章 音楽の形而上学について _____以上全集第6巻

(以下、第四巻への補足)
第40章 序 言
第41章 死および、死とわれわれの本質の不壊性との関係について
第42章 種属の生命
第43章 性質の遺伝性
第44章 性愛の形而上学
第45章 生への意志の肯定について
第46章 人生の空虚と苦悩について
第47章 倫理について
第48章 生への意志の否定に関する学説について
第49章 救いの道
第50章 哲学余話  _____以上全集第7巻

12:45 午前  
Blogger yoji said...

「意志と表象としての世界」続編目次

第一部 直観的表象についての学説 (正編1−7)
 第1章 観念論的本質見解に関して  
 第2章 直観的認識、すなわち悟性の認識についての学説に関して 
 第3章 感覚について
 第4章 ア・プリオリな認識について

第二部 抽象的表象、すなわち思考についての学説
 第5章 理性を欠いた知性について (正編8、9)
 第6章 抽象的認識、すなわち理性認識についての学説に関して  (正編8、9)
 第7章 直観的認識と抽象的認識との関係について  (正編12) 
 第8章 滑稽についての理論に関して  (正編13)
 第9章 論理学一般に関して      (正編9)
第10章 三段論法に関して (正編9)
第11章 修辞学に関して  (正編9)
第12章 学問論に関して   (正編14)
第13章 数学の方法論に関して (正編15)
第14章 観念連合に関して  
第15章 知性の本質的不完全さについて  
第16章 理性の実践的使用とストア主義について  (正編16)
第17章 人間の形而上学的欲求について    (正編15)
                 ____以上邦訳白水社版全集第5巻

第二巻の補足
第18章 物自体の認識可能性について  (正編18)
第19章 自己意識における意志の優位について  (正編19)
第20章 動物的有機体における意志の客観化   (正編20)
第21章 回顧と総括
第22章 客観的な知性観   (正編27後半)
第23章 認識をもたぬ自然における意志の客観化について (正編23)
第24章 物質について  
第25章 物自体としての意志に関する超越的諸考察
第26章 目的論について  (正編28)
第27章 本能と技術衝動について (正編28)
第28章 生への意志の特性叙述  (正編29) 

第三巻の補足
第29章 イデアの認識について  (正編30ー32)
第30章 純粋な認識主観について (正編33、34)
第31章 天才について      (正編36)
第32章 狂気について      (正編36節後半)
第33章 自然美に関する断想   (正編38)
第34章 芸術の内的本質について (正編49)
第35章 建築術の美学について  (正編43)
第36章 造形芸術の美学に関する断想 (正編44ー50)
第37章 詩の美学について    (正編51)
第38章 歴史について      (正編51)
第39章 音楽の形而上学について (正編52)
                      _____以上全集第6巻

 第四巻の補足
第40章 序 言
第41章 死および、死とわれわれの本質の不壊性との関係について (正編54)
第42章 種属の生命       (正編9)
第43章 性質の遺伝性
第44章 性愛の形而上学
  第44章の付録
第45章 生への意志の肯定について (正編60)
第46章 人生の空虚と苦悩について (正編56ー59。『余録』2:11、12)
第47章 倫理について       (正編55、62、67) スピノザ
第48章 生への意志の否定に関する学説について  (正編68。『余録』2:14)
第49章 救いの道
第50章 哲学余話  _____以上全集第7巻

1:19 午前  
Blogger yoji said...

省略版:

http://panse.livedoor.biz/archives/51637523.html

ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer

「ショウペンハウアー全集(2)」(4)
--「意志と表象としての世界」--

<内容目次>
(「世界の名著 続10 ショーペンハウアー」による目次)
第一巻 表象としての世界の第一考察
--根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観--

第一節
世界はわたしの表象である。
第二節
主観と客観は直かに境界を接している。
第三節
根拠の原理の一形態としての時間。
第四節
物質とは働きであり、因果性である。
第五節
外界の実在性に関するばかげた論争。
第六節
身体は直接の客観である。
第七節
われわれの哲学は主観や客観を起点とせず、表象を
起点としている。
第八節
理性は人間に思慮を与えるとともに誤謬をもたらす。
人間と動物の相違。言葉、行動。
第九節
概念の範囲と組み合わせ。論理学について。
第十節
理性が知と科学を基礎づける。
第十一節
感情について。
第十二節
理性は認識を確実にし、伝達を可能にするが、理性は
悟性の直観的な活動の障害にあることがある。
第十三節
笑いについて。
第十四節
一般に科学は推論や証明ではなしに、直観的な明証を
土台にしている。
第十五節
数学も論理的な証明にではなく、直観的な明証に基づく。
ユークリッド批判。
第十六節
カントの実践理性への疑問。


第二巻 意志としての世界の第一考察
--すなわち意志の客観化 --

第十七節
事物の本質には外から近づくことはできない。
第十八節
身体と意志とは一体であり、意志の認識はどこまでも
身体を媒介として行われる。
第十九節
身体は他のあらゆる客観と違って、表象でありかつ意志
でもあるとして二重に意識されている。
第二十節
人間や動物の身体は意志の現象であり、身体の活動は意志
の働きに対応している。
第二十一節
身体を介して知られている意志
第二十二節
従来意志という概念は力という概念に包括されていた
第二十三節
意志は現象の形式から自由である。
第二十四節
どんなに究明しても自然の根源力は「隠れた特性」と
して残り、究明不可能である。
第二十五節
意志はいかなる微小な個物の中にも分割されずに全体
として存在している。
第二十六節
合法則的な無機的自然界から、法則を欠いた人間の個
性に至るまで、意志の客観化には段階がある。
第二十七節
元来意志は一つであるから、意志の現象と現象の間に
も親和性や同族性が認められる。
第二十八節
意志の現象は段階系列をなし、「自然の合意」によって
無意識のうちに相互に一致し合う合目的性をそなえて
いる。
第二十九節
意志はいかなる目標も限界もない。
意志は終わるところを知らぬ努力である。


第三巻 表象としての世界の第二考察
--根拠の原理に依存しない表象、すなわちプラトンの
イデア、芸術の客観--

第三十節
意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。
第三十一節
カントとプラトンの教えの内的意味と目標とは完全に
一致している。
第三十二節
プラトンのイデアは表象の形式下にあるという一点に
おいてカントの物自体と相違する。
第三十三節
認識は通常、意志に奉仕している
第三十四節
永遠の形相たるイデアを認識するには
第三十五節
イデアのみが本質的
第三十六節
イデアを認識する方法は芸術であり、天才の業である。
普通人は天才の眼を借りてイデアを認識する。
第三十八節
対象がイデアにまで高められるという客観的要素と、人
間が意志をもたない純粋な認識主観にまで高められると
いう主観的要素と、この二つの美的要素が同時に出現し
たときにはじめてイデアは把握される。
第三十九節
崇高感について
第四十節
魅惑的なものについて。
第四十一節
美と崇高との区別。
第四十二節
イデア把握の主観的側面から客観的側面へしだいに順を
追って、以下各芸術を検討していきたい。
第四十三節
建築美術と水道美術について
第四十四節
造園美術、風景画、静物画、動物画、動物彫刻について。
第四十五節
人間の美しさと自然の模倣について。優美さをめぐって。
第四十六節
ラオコーン論
第四十七節
美と優美とは彫刻の主たる対象である。
第四十八節
歴史が画について
第四十九節
イデアと概念との相違。
第五十節
造形芸術における概念、すなわち寓意について。
第五十一節
詩について。詩と歴史。
第五十二節
音楽について


第四巻 意志としての世界の第二考察
--自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならび
に否定--


第五十三節
哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではな
いし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきもので
もない。
第五十四節
死と生殖はともに生きんとする意志に属し、個体は滅びて
も全自然の意志は不滅である。
第五十五節
人間の個々の行為、すなわち経験的性格に自由はなく、経
験的性格は自由なる意志、すなわち叡智的性格によって決
定づけられている。
第五十六節
意志は究極の目的を欠いた無限の努力であるから、すべて
の生は限界を知らない苦悩である。
第五十七節
人間の生は苦悩と退屈の間を往復している。
第五十八節
われわれに与えられているものは欠乏や困窮だけで、幸福
とは一時の満足にすぎない。
第五十九節
人間界は偶然と誤謬の国であり、個々の生涯は苦難の歴史
である。
第六十節
性行為とは生きんとする意志を個体の生死を超えて肯定す
ることであり、ここではじめて個体は全自然の生命に所有
される。
第六十一節
意志は自分の内面においてのみ発見され、一方自分以外の
すべては表象のうちにのみある。
第六十二節
正義と不正について。国家ならびに法の起源。刑法について。
第六十三節
マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き
破って見ている者は、加害者と被害者との差異を超越した
ところに「永遠の正義」を見出す。
第六十四節
並外れた精神力をそなえた悪人と、巨大な国家的不正に
抗して刑死する反逆者と、--人間本性の二つの注目すべ
き特徴。
第六十五節
真、善、美という単なる言葉の背後に身を隠してはなら
ないこと。
第六十六節
徳は教えられるものではなく、学んで得られるものでも
ない。
第六十七節
他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。
第六十八節
真の認識に達した者は禁欲、苦行を通じて生きんとする
意志を否定し、内心の平安と明澄を獲得する。
第六十九節
意志を廃絶するのは認識によってしかなし得ず、自殺は
意志の肯定の一現象である。
第七十節
完全に必然性に支配されている現象界の中へ意志の自由
が出現するという矛盾を解く鍵
第七十一節
いかなる無もなにか他のあるものとの関係において考え
られる欠如的無であり、記号の交換が可能である。

1:27 午前  
Blogger yoji said...

参考:



タイトル 洞察と幻想 : ヴィトゲンシュタインの哲学観と経験の形而上学 / P.M.S.ハッカー 著 ; 米沢克夫 訳
ドウサツ ト ゲンソウ : ヴィトゲンシュタイン ノ テツガクカン ト ケイケン ノ ケイジジョウガク
dōsatsu to gensō : vitogenshutain no tetsugakukan to keiken no keijijōgaku
出版事項 東京 : 八千代出版, 1981.3
トウキョウ : ヤチヨ シュッパン
tōkyō : yachiyo shuppan
配架場所 請求記号 現況
 中央 B1研究書庫  ロ04 03921     利用可能
 戸山 4F学習図書  134 228     利用可能
形態 332,14p ; 22cm
内容注記 巻末:参考文献
原著 Insight and illusion : Wittgenstein on philosophy and metaphysics of experience.
分類 134.9 njb/8
別著者等 Hacker, P. M. S. (Peter Michael Stephan)
米沢 克夫, 1945-
ヨネザワ, カツオ, 1945-
yonezawa, katsuo, 1945-
件名 Wittgenstein, Ludwig, 1889-1951
Record:   Prev Next

9:09 午前  
Blogger yoji said...

「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から分離する、
唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の世界に属するのである。
従って一方には何も残存しなく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論は
厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。[((論考)5.64を参照]」

1916年10月15日
「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁

同じ論理がショーペンハウアー根拠律19節邦訳全集51頁のスピノザに関する言及にある

2:07 午前  
Blogger yoji said...

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/idx_witt.html

10:27 午後  
Blogger yoji said...

ハッカー『洞察と幻想』第3章はショーペンハウアーとの比較を主題としている。

9:27 午後  
Blogger yoji said...

両者の比較はハッカーによれば1963 Gardiner,Patrick Schopenhauer が先駆

10:30 午後  
Blogger yoji said...


http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html

「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus


http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/tlpservice/tlpJP.html?ja#6.36111
6.36111
右手と左手を重ね合わすことができないというカントの問題は、すでに、平面においても、また一次元空間でも成り立つ。一次空間で二つの合同な図形 a と b は、
– – – ○————✕ – – ✕————○ – – –
a b
この空間の外に出さないかぎり、重ね合わすことができない。実際に右手と左手とはまったく合同なのである。つまり、両者を重ね合わせられないことは、それらが合同であることとは無関係なのである。
もし、四次元空間において手袋を回転させることができるならば、そのとき、右の手袋を左手にはめることができるだろう。


http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/tlpservice/tlpJP.html?ja#5.5423

5.5423
複合的なものを知覚するとは、その構成要素がお互いにしかじかの関係にあることを知覚することである。
このことはまた、次の図

   b_______b
  /|      /|
a/______a/ |
|  |    |  |
|  |____|__|
| /b    | /b
|/______|/
a       a

が二通りの仕方で立方体として見ることができるということ、および類似した現象を、良く説明する。というのも、われわれはまさしく実際に二つの異なる事実を見ているのだからである。
(まず a の角を見つめ、それから b を一瞥すると、a が前に出て見える、逆もできる。)

8:13 午前  
Blogger yoji said...


http://yojiseki.exblog.jp/7514075/
『論理哲学論考』より
以下、ウ(ヴ)ィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より、カントに関する記述の引用です。
対称性をめぐる考察がウィトの主旨ですが、カントが四次元をわかっていない、と受け取ることも出来ますし、カントの批判をウィトが推し進めたとも受け取れます。
///////////////////////

六・三六一 〓 右手と左手を重ね合わせることができない、というカントの問題は、平面の場合に既に存立しており、それどころか次のような一次元の空間においても存立しているのである。

…………〇━━━━━━ ×…………×━━━━━━ ○…………
          a       b

  ここで二つの合同な図形α、bを、この空間の外へと動かすことなくしては、重ね合わせることはできない。
 右手と左手とは実際に完全に合同である。そして両者が重ね合わされないことほ、このこととは全く関係がない。
   右手の手袋を仮に四次元空間で回転できるとすれば、それを左手にはめることも可能であろう。

『論理哲学論考』(邦訳全集第1巻p114より)

8:13 午前  
Blogger yoji said...


http://www.kotoba.ne.jp/~dune/index.cgi?k=wit_bluebook


ウィトゲンシュタイン全集第6巻『青色本』P.87

 図書館の本を整理せねばならぬと想像して欲しい。始めには本は床の上にごちゃごちゃに散らばっている。それらを分類して、置き場所をきめるのには多くのやり方があるだろう。その一つは、一冊づつ拾ってその本を置こうとする場所に置くことであろう。別なやり方として、若干の本を選びとってただその小グループの中だけでの配列順を示す目的で棚に一列に並べる、というのがあるかもしれない。整理が進行した段階で、この一列がそっくりそのままで違う場所に移されることになった、とする。しかし、そのことでこれらの本を棚にひとまとめにしたことが最終結果に何の役割も果たさなかったというのは誤りである。事実この場合、ひとまとめになる本を一緒にしたことはひとつのはっきりした成果であることはすこぶる明白である。そのままの全体が場所変えされたにせよである。哲学の偉大な成果の或るものは、一緒になると思いこまれた本を引きだして別々の棚に置くのに較べる以外はない。それらの本は今後は並ぶことはないということをのぞけば、本の置き場所についての何ら最終的な成果はない。この仕事の難しさを知らない傍観者はこういう場合何らの成果もないと思いがちである。----- 哲学で難しいのは自分で知っていること以外は何も言わないことである。例えば、二冊の本を正しい順に並べたところで、それが最終的な場所に置いたわけではないことを承知する難しさである。

 我々を取り囲む[外的]対象と我々の[内的な]個人的経験との関係を考える時、時に、これらの個人的経験が材料であってそれから現実が作られていると言いたくなる。この誘惑がどうして生じるのかは後で明らかになるだろう。

10:14 午前  
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ちくま文庫105頁

7:35 午後  
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哲学探究
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
 1. アウグスティヌスは『告白』(第1巻 第8章)でこう述べている。「大人が何か対象の名前を呼び、それの方を向くとき、私はその様子を見て、彼らがその対象を指示したいときは、彼らの発声によってそれが言い表されるのだということを理解した。しかし私はこのことを、彼らの身振り、つまり、全ての人の生得言語から見て取ったのだ。この言語は、人が何か物を熱望し、保持し、拒否し、あるいは避けるときに、顔や眼の変化や手足の動き、声の抑揚などを通じてその人の感情を示す。このようにして、様々な文の特定の箇所にこれらの語が発声されるのを繰り返し聞くことで、私は次第に、それらの語が何を言い表すのかを学んできた。そして私の口がそれらの語に慣れるに従って、語を使って自分の願望を表現するようになった。」
 この文章から、人間の言語の本質についてのある種の像を読み取ることができると思われる。すなわちそれは、「言語の語は対象を名指す名前であり、文はそうした名前の結合である」というものだ。 ―― この言語像において、いかなる語もその意味(Bedeutung)を持ち[1]、その意味は語に対応づけられているという考えの根源を認めることができる。この場合の意味とは、語が表す対象のことである。
 アウグスティヌスは、語の種類の違いについては何も言及していない。私が思うに、言語の習得についてアウグスティヌスのように記述する人は、まず「机」、「椅子」、「パン」のような名詞と人名、その次にある種の活動や性質の名前を考え、残りの語については、いずれ自然に分かるだろうぐらいの気持ちでいる。
 ここで、次のような言語使用の場面について考えてほしい。私が誰かをお使いにやるとする。私は彼に「5個の赤いリンゴ」と書いてあるメモを渡す。彼は店の人にそのメモを渡す。店の人は「リンゴ」と書いてある箱を開け、それから表を見て「赤い」という語を探し、それに対応する色見本を見つける。そして彼は数字を ―― 彼は数字を暗記していると仮定する ―― 「5」まで数え、一つ数える度に色見本と同じ色のリンゴを箱から取り出す。 ―― このように、あるいはこれと似たように、人は語を使う。 ―― [ある人が言う。] 「しかし、どこをいかにして「赤」という語を探すべきか、「5」という語で何を始めるべきかを、店の人はどのようして知っているのか?」 ―― [ウィトゲンシュタインが言う。] 私は、とにかく、店の人が私が記述したとおりに振舞うと仮定しているのだ。説明はどこかで終わりになる。 ―― [ある人が言う。] しかし「5」という語の意味は何か? ―― [ウィトゲンシュタインが言う。] ここではそうしたことは全く問題ではない。「5」という語がどのように使用されているかということだけが問題なのだ。

12:37 午前  
Blogger yoji said...

http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c550

 「クレタの嘘つき。」「私は嘘をついている」と言う代わりに、「この命題は偽である」とも書くことができよう。それに対する答えはこうなろう。「よろしい、だがあなたはどの命題を意味しているのか。」 ―― 「この命題である。」 ―― 「なるほど、しかしそのうちのどの命題が問題なのか。」 ―― 「これである。」 ―― 「なるほど、それでこれとはどの命題を指しているのか。」等々。彼は完全な命題に到達するまで、自分が何を意味しているのかを私たちに説明できまい。 ―― また次のように言うことができる。つまり、その根本的な誤りは、ある言葉、例えば「この命題」という言葉がそれの対象を表さないで、その対象をいわば暗示する(遠くから指し示す)ことができる、と考えていることにある、と。
  (『断片』第691節)

12:40 午前  
Blogger yoji said...

 7. 第2節の言語を実際に使用する場合、一方が語を叫び、もう一方がそれに従って行動を起こす。だが、その言語の教育においては、次のような過程も見出せるだろう。つまり、教える人が石を指したら、教わる人が対象の名を呼ぶ、すなわち、語を話す、という過程だ。いや、さらに単純な練習もある。教師が発した単語を生徒が復唱する、というものだ。 ―― どちらの例も言語使用に似た過程だ。またこう考えることもできる。第2節の言語使用の全過程は、子供たちが彼らの母語を習得するための手段とするゲームの一つである、と。このようなゲームを、私は「言語ゲーム(Sprachspiel)」と名付けよう。そして時に、原初的な言語についても、言語ゲームとして語るだろう。
 すると、石の名を呼ぶ過程と、教師の後について復唱する過程を、ともに言語ゲームと呼ぶことができるだろう。わらべ歌における語の多くの使用についても考えよ。
 私はまた、言語と、言語が織り込まれる活動の全体を「言語ゲーム」と呼ぶ。

12:41 午前  
Blogger yoji said...

序文



 だが2年前、私の最初の本(『論理哲学論考』)を再び読み、その思想を説明する機会を持った。そのとき突然、昔の思想と今度の思想を併せて公表すべきであるという考えが浮かんだ。古い考え方と対比し、それを背景に置くことによってのみ、新しい思想は正しく理解されうるであろう、と。
 なぜそのような考えが浮かんだかといえば、16年前に再び哲学に取り組み始めて以来、最初の本に書き記したことに重大な誤りがあることを認めざるをえなくなったからである。
 この誤りを悟るために、私は ―― 自分でもほとんど判断できないぐらい ―― フランク・ラムゼイによる批判に助けられた。彼の最後の2年間、私たちは数え切れないぐらい話し合い、議論した。しかしこの ―― 常に力強く正確な ―― ラムゼイの批判よりも多くの恩恵を与えてくれたのは、当大学の教師P.スラッファ氏が長年にわたって絶えず私の思想に加えてきた批判である。私がこの本で述べている考えの大部分は、彼の激励のおかげで生まれた。
 幾つかの理由から、私がこの本で公表することは、他の人が今日書いていることと合致するだろう。 ―― だが、私の覚え書きが、それ自身、私のものと認められる印を持っていないならば、 ―― 私は自らの著作権についてことさら主張するつもりはない。
 私は疑念を抱きながら自らの思想を公にする。この仕事は未だ不十分であり、暗い時代に産み落とされた。この仕事が幾人かの頭脳に一筋の光を投げかけるということは、ありえないことではないが、もちろん、期待できるほどの公算はない。
 私はこの本によって他人に考える手間を省かせようとは思っていない。そうではなく ―― もしそんなことが可能であればだが ―― 読む人に自ら考えるよう仕向けたいと思っている。
 私はとにかく良い本を作り上げたかった。その目的は中断されてしまった。しかし、この本を改善するための時間は、私にはもう残されてはいない。

1:05 午前  
Blogger yoji said...

http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/page-su.htm


■スラッファの問い(444)
 この人(スラッファ)は北イタリアのトリノに生まれ、1920年頃ケインズと知り合ってのち、…ケインズの招きでケンフリッジ大学へ移って講師となり、…その深い思索力と鋭い批判力は、『論理哲学論考』の主要テーゼの一つだった写像理論(有意味な命題は現実の写像でなくてはならないという説〉、論理的原子論(命題はすべて要素命題から構成できるという主張〉、あるいは命題はすべて「文法」をもたねば意味がなく、その文法は当の命題の表現している事態と同じ「論理形式」をもたねばならないといった主張を、一挙にくつがえすだけの力を発揮した。
…ある日、ウィトゲンシュタインが、命題とそれが表現している事柄とは同じ「論理理形式」を共有していなくてはならぬといい張ると、スラッファは、片手の指先でアゴを外側へこする動作、つまりナポリの人たちにはよく知られていて、嫌悪感ないし軽蔑感といった気持を意味するような身振りをして見せ、それから「これの論理形式って何なのだろう」と尋ねた。これが、命題は文字通りその記述する実在の写像でなくてはならない、とするかれの固定観念を打ち破った。

1:10 午前  
Blogger yoji said...

スラッファについてはマルコム伝1967

http://libir.josai.ac.jp/infolib/user_contents/pdf/JOS-KJ00000107848.pdf

1:15 午前  
Blogger yoji said...

http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c100
 107. 日常言語について精密に考察すればするほど、日常言語と私たちの要求の間の
対立は厳しくなっていく。(論理が持つ結晶のごとき純粋さは、結果として生じたも
のではなく、一つの要求だったのである。)この対立は我慢できないものとなり、私
たちの要求は空虚なものになっていく。 ―― 私たちは摩擦のない氷の上に迷い出たの
だ。そこでは、条件はある意味で理想的なのだが、しかし私たちはそれゆえにまた、
先に進むこともできないのである。私たちは前へ進みたい。そのためには摩擦が必要
だ。ざらざらした大地へ戻れ!

1:17 午前  
Blogger yoji said...


http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
哲学探究
序文



しかしこの ―― 常に力強く正確な ―― ラムゼイの批判よりも多くの恩恵を与えてくれたのは、当大学の教師P.スラッファ氏が長年にわたって絶えず私の思想に加えてきた批判である。私がこの本で述べている考えの大部分は、彼の激励のおかげで生まれた。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/page-su.htm
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c100■スラッファの問い(444)
…ある日、ウィトゲンシュタインが、命題とそれが表現している事柄とは同じ「論理理
形式」を共有していなくてはならぬといい張ると、スラッファは、片手の指先でアゴを
外側へこする動作、つまりナポリの人たちにはよく知られていて、嫌悪感ないし軽蔑感
といった気持を意味するような身振りをして見せ、それから「これの論理形式って何な
のだろう」と尋ねた。これが、命題は文字通りその記述する実在の写像でなくてはなら
ない、とするかれの固定観念を打ち破った。

1:22 午前  
Blogger yoji said...


http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
哲学探究
序文



しかしこの ―― 常に力強く正確な ―― ラムゼイの批判よりも多くの恩恵を与えてくれ
たのは、当大学の教師P.スラッファ氏が長年にわたって絶えず私の思想に加えてきた批
判である。私がこの本で述べている考えの大部分は、彼の激励のおかげで生まれた。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/page-su.htm
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c100
■スラッファの問い(444)
…ある日、ウィトゲンシュタインが、命題とそれが表現している事柄とは同じ「論理理
形式」を共有していなくてはならぬといい張ると、スラッファは、片手の指先でアゴを
外側へこする動作、つまりナポリの人たちにはよく知られていて、嫌悪感ないし軽蔑感
といった気持を意味するような身振りをして見せ、それから「これの論理形式って何な
のだろう」と尋ねた。これが、命題は文字通りその記述する実在の写像でなくてはなら
ない、とするかれの固定観念を打ち破った。

1:24 午前  
Blogger yoji said...


http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
哲学探究 序文
…しかしこの ―― 常に力強く正確な ―― ラムゼイの批判よりも多くの恩恵を与えてくれ
たのは、当大学の教師P.スラッファ氏が長年にわたって絶えず私の思想に加えてきた批
判である。私がこの本で述べている考えの大部分は、彼の激励のおかげで生まれた。

 幾つかの理由から、私がこの本で公表することは、他の人が今日書いていることと合
致するだろう。 ―― だが、私の覚え書きが、それ自身、私のものと認められる印を
持っていないならば、 ―― 私は自らの著作権についてことさら主張するつもりはない。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/page-su.htm
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c100
■スラッファの問い(444)
…ある日、ウィトゲンシュタインが、命題とそれが表現している事柄とは同じ「論理理
形式」を共有していなくてはならぬといい張ると、スラッファは、片手の指先でアゴを
外側へこする動作、つまりナポリの人たちにはよく知られていて、嫌悪感ないし軽蔑感
といった気持を意味するような身振りをして見せ、それから「これの論理形式って何な
のだろう」と尋ねた。これが、命題は文字通りその記述する実在の写像でなくてはなら
ない、とするかれの固定観念を打ち破った。

1:27 午前  
Blogger yoji said...

この過程でウィトゲンシュタインに決定的な影響を与えた人物に、当時ケンブリッジで講師をしていたイタリアの経済学者P・スラッファがいる。N・マルカムの伝えるところによれば、ある日、ウィトゲンシュタインが、命題とそれが記述する事態は同じ論理形式を共有していなければならない、と言い張ると、スラッファは片手の指先であごを外側へこする身振り(嫌悪や軽蔑の身振り)をして見せ「これの論理形式は何だい?」と尋ねた。このことがウィトゲンシュタインに「写像」説を捨てさせるきっかけとなった、という。しかしフォン・ウリクトによれば、問題になったのは「論理形式」ではなく「文法」であり、この事件はウィトゲンシュタインに「文法」説を捨てさせることになった、という。中期ウィトゲンシュタインの「文法」説については次章で論じよう。スラッファは、マルカムが正しければ前期から中期への、ウリクトが正しければ中期から後期への移行のきっかけを、与えたことになるが、かりに前者だったとしても、軽蔑の身振りが問題である以上、それが「論理」と「文法」の両者を一挙に打ち破り、後期ウィトゲンシュタインの生活形式の哲学を呼び寄せる力を持ったことは間違いない。

永井均

1:36 午前  
Blogger yoji said...

類似から類比へ
ルルスからライプニッツの結合法論への移行に似ている

そこにはアプリをなくしたソフト同様の危険もある

7:56 午後  
Blogger yoji said...

論考の翻訳
岩波 野矢訳
法政大 藤本・坂井訳
筑摩 中平訳
社会評論社 木村訳
中央公論新社 山元訳
大修館 奥訳

こんなにあるのにまた新訳出るんだ?

光文社

7:00 午前  
Blogger yoji said...


Die Flucht ins Vergessen. Die Anfaenge der Psychoanalyse Freuds bei Schopenhauer (ドイツ語) ハードカバー – 1999/5/1
Marcel Zentner (著)

7:24 午前  
Blogger yoji said...

「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から
分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の
世界に属するのである。従って一方には何も残存しなく、他方には世界がユニークなものとし
て残存する。このようにして 観念論は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。[((論
考)5.64を参照]」
(ウィトゲンシュタイン、1916年10月15日、「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁より)

D・A・ワイナーによれば上記の記述もショーペンハウアー『意志と表象〜』に応酬したものだと
言う(『天才と才人―ウィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影響 』三和書籍141頁)。

しかし、この言葉はハイデガーにこそ当てはまるように思える。

参考:
「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html

7:21 午前  
Blogger yoji said...

『天才と才人―ウィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影響 』(単行本)
D.A.ワイナー著
http://www.amazon.co.jp/dp/4916037529/

以下読書メモ:

著者は、ウィトゲンシュタイン『論考』(5.633)☆の「君」はショーペンハウアーのことだと指摘する(104頁)。
ウィトゲンシュタインは「ショーペンハウアーの亡霊と論争している」(112頁)のだ。
有名な「梯子」(6.54)の比喩も『続意志と表象』から引いているという(71頁)。

「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から
分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の
世界に属するのである。従って一方には何も残存しなく、他方には世界がユニークなものとし
て残存する。このようにして 観念論は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。[((論
考)5.64を参照]」
(ウィトゲンシュタイン、1916年10月15日、「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁より)

D・A・ワイナーによれば上記の記述もショーペンハウアー『意志と表象〜』に応酬したものだと言う(141頁)。

参考:
「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html




「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html
世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
あなたは、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。しかし、現実には、あなたは眼を見
ることはない。
そして、視野におけるいかなるものも、それが眼によって見られていると推論できるものは
ない。


参考:
P.M.S.ハッカー『洞察と幻想 ヴィトゲンシュタインの哲学観と経験の形而上学』(八千代出版)
(ハッカーの方がウィトとショーペンハウアーの関係に関しての指摘は先)

6:34 午前  
Blogger yoji said...

『天才と才人―ウィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影響 』D.A.ワイナー著
http://www.amazon.co.jp/dp/4916037529/

以下読書メモ:

著者は、ウィトゲンシュタイン『論考』(5.633)☆の「君」はショーペンハウアーのことだと指摘する(104頁)。
ウィトゲンシュタインは「ショーペンハウアーの亡霊と論争している」(112頁)のだ。
有名な「梯子」(6.54)の比喩も『続意志と表象』から引いているという(71頁)。

《私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から
分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の
世界に属するのである。従って一方には何も残存しなく、他方には世界がユニークなものとし
て残存する。このようにして 観念論は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。》
(ウィトゲンシュタイン「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁より)

ワイナーによれば上記の記述もショーペンハウアー『意志と表象〜』に応酬したものだと言う(141頁)。

参考:
「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html


「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html
《世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
あなたは、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。しかし、現実には、あなたは眼を見ることはない。
そして、視野におけるいかなるものも、それが眼によって見られていると推論できるものはない。》

追記:
P.M.S.ハッカー『洞察と幻想 ヴィトゲンシュタインの哲学観と経験の形而上学』(八千代出版)
(ハッカーの方がウィトとショーペンハウアーの関係に関しての指摘は先)

6:37 午前  
Blogger yoji said...


ワイナー(222頁)によれば『哲学探究』#67にある「家族的類似性」という言葉ももともとショーペンハウアーが
使った言葉らしい。

『意志と表象…』17節中公243頁に「種族的な類似性」なる訳語で出てくる。
http://3.bp.blogspot.com/-re___uGyra8/UEHekjzazcI/AAAAAAAAMis/IulbfSPZwok/s1600/意志1164_18.jpg
元はシェリング派の言葉らしい。

6:47 午前  
Blogger yoji said...

ワイナー(222頁)によれば『哲学探究』#67にある「家族的類似性」という言葉ももともとショーペンハウアーが
使った言葉らしい。

『意志と表象…』17節中公243頁に「種族的な類似性」なる訳語が出てくる。

6:48 午前  
Blogger yoji said...

スラッファが
ヴィトゲンシュタインを改心させたエピソードは、
回想のヴィトゲンシュタイン (教養選書 28) (単行本)
ノーマン・マルコム (著), 藤本 隆志 (翻訳)

9:04 午後  
Blogger yoji said...

もしくは、


ウィトゲンシュタイン : 天才の責務 全2巻セット 単行本
レイ・モンク (著),‎ 岡田 雅勝 (翻訳)



http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/c.s.l.g-l.htm
 つまり、ウィトゲンシュタインの「論考」に対するかつての(キルケゴールの言葉を借りれば)「極まりない信頼」は、そのままそれへの「刺すような風刺」となったのである。「探究」は、「論考」を「重要な仕事」だと認めると同時に「バカげたものと見なしている」。しかし、「探究」の「論考」に対するこのアンヴィバレントな評価は、合冊本全体の中での「探究」への評価にも返ってくるのである。1949年、「探究」を仕上げたばかりのウィトゲンシュタインは、主治医に自分の哲学を説明していて「ひょっとしたら全部まちがいかもしれません!」と叫ぶ(マルコム68)。
 そして「論考」に対する態度の転換は、ウィトゲンシュタインに突然訪れた。それは経済学者スラッファによる批判である。
「スラッファは、あれやこれやの細かな点ではなく、彼の全体の展望に関してウィトゲンシュタインに再考させる力をもっていた。このことを例証する一つの逸話がある。それはウィトゲンシュタインがマルコムとフォン・ウリクトとの両人に話し、そのとき以来何度も繰り返し語られてきたものであった。それは、ウィトゲンシュタインが命題と命題が表現している事柄は同じ「論理的形式」を表現していなければならないと主張した会話に関するものである。この考え方に対して、スラッファは指先で顎をこするナポリ人特有のジェスチャーをし、そして尋ねた。「その論理的形式は何か」。その話によれば、この発言によって、命題はそれが表現する実在の<像>でなければならないという『論考』の考え方をウィトゲンシュタインは主張するのを断念した」(モンク277)。

9:08 午後  
Blogger yoji said...

ウィトゲンシュタインがショーペンハウアーを意識して論理哲学論考を
書いたという説があって
それが本当なら

ニーチェもショーペンハウアーを意識していたわけだから
2人とも同じ梯子を上って別のところにたどり着いたと言える

2人とも梯子は外してしまったが

最終的にショーペンハウアーを受け継いだのは別分野のフロイトだった

東洋思想/独我論/無意識
ショーペンハウアーは多面的だしその受容は多様だったが
その大きさはカントの陰で忘れられている

1:07 午後  
Blogger yoji said...

http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/cyuu2.html#c6

6.54
独 Meine Sätze erläutern dadurch, dass sie der, welcher mich versteht, am Ende als unsinnig erkennt, wenn er durch sie - auf ihnen - über sie hinausgestiegen ist. (Er muss sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist.)
Er muss diese Sätze überwinden, dann sieht er die Welt richtig.
英1 My propositions are elucidatory in this way: he who understands me finally recognizes them as senseless, when he has climbed out through them, on them, over them. (He must so to speak throw away the ladder, after he has climbed up on it.)
He must surmount these propositions; then he sees the world rightly.
英2 My propositions serve as elucidations in the following way: anyone who understands me eventually recognizes them as nonsensical, when he has used them—as steps—to climb up beyond them. (He must, so to speak, throw away the ladder after he has climbed up it.)
He must transcend these propositions, and then he will see the world aright.
7
独 Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.
英1 Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.
英2 What we cannot speak about we must pass over in silence.

1:42 午後  
Blogger yoji said...


http://www.zeno.org/nid/20009267018

続意志と表象#7

Dem aber, der studirt, um Einsicht zu erlangen, sind die Bücher und Studien bloß Sprossen der Leiter, auf der er zum Gipfel der Erkenntniß steigt: sobald eine Sprosse ihn um einen Schritt gehoben hat, läßt er sie liegen. Die Vielen hingegen, welche studiren, um ihr Gedächtniß zu füllen, benutzen nicht die Sprossen der Leiter zum Steigen, sondern nehmen sie ab und laden sie sich auf, um sie mitzunehmen, sich freuend an der zunehmenden Schwere der Last. Sie bleiben ewig unten, da sie Das tragen, was sie hätte tragen sollen.[96]

しかし、洞察力を得るために勉強する人は、本や研究は梯子の梯子に過ぎず、知識の頂上に上がります。段が彼を一歩上げると、彼は嘘を残します。
しかし、彼らの記憶を埋めるために勉強する多くの人は、はしごの横列を使って上がるのではなく、それらを持ち上げて荷を積ませて、負担を増やして喜びます。 彼らは運ばなければならないものを運ぶので、彼らは永遠に落ちたままです。[96]



Die Welt als Wille und Vorstellung von Arthur Schopenhauer: Welcher die Ergenzungen zu den vier Buchern des ersten Bandes enthalt, Band 2

2:03 午後  
Blogger yoji said...

Schopenhauer, Arthur
Die Welt als Wille und Vorstellung
Zweiter Band

2:05 午後  
Blogger yoji said...

https://www.philosophyguides.org/data/schopenhauer-complete-works/
「ショーペンハウアー全集」収録作品リスト
Home 参考資料まとめ
目次
ショーペンハウアー全集



白水社の「ショーペンハウアー全集」全14巻(別巻1)の収録作を一覧にまとめました。1972年から75年にかけて刊行され、1996年に新装復刊されました。主著の『意志と表象としての世界』を中心に、「根拠律の四つの根について」や「自然における意志につい

ショーペンハウアー全集

ショーペンハウアー全集1
根拠律の四つの根について(生松敬三・金森誠也訳)
視覚と色彩について (生松敬三・金森誠也訳)
ショーペンハウアー全集2
意志と表象としての世界 正編1(斎藤忍随ほか訳)
ショーペンハウアー全集3
意志と表象としての世界 正編2(斎藤忍随ほか訳)
ショーペンハウアー全集4
意志と表象としての世界 正編3(茅野良男訳)
ショーペンハウアー全集5
意志と表象としての世界 続編1(塩屋竹男・岩波哲男訳)
ショーペンハウアー全集6
意志と表象としての世界 続編2(塩屋竹男ほか訳)
ショーペンハウアー全集7
意志と表象としての世界 続編3(有田潤・塩屋竹男訳)
ショーペンハウアー全集8
自然における意志について(金森誠也訳)
ショーペンハウアー全集9
倫理学の二つの根本問題(前田敬作ほか訳)
ショーペンハウアー全集10
哲学小品集1(有田潤訳)
観念と実在にかんする学説史の素描
哲学史のための断章
大学の哲学について
個人の運命に宿る意図らしきものについての超越的思弁
ショーペンハウアー全集11
哲学小品集2(橋本文夫訳)
観念と実在にかんする学説史の素描
哲学史のための断章
大学の哲学について
個人の運命に宿る意図らしきものについての超越的思弁
ショーペンハウアー全集12
哲学小品集3(生松敬三ほか訳)
ショーペンハウアー全集13
哲学小品集4(秋山英夫訳)
ショーペンハウアー全集14
哲学小品集5(秋山英夫訳)
ショーペンハウアー全集 別巻
生涯と思想
アルトゥール・ヒュープシャー著「ショーペンハウアー」(金森誠也訳)
リヒャルト・ヴァーグナー著「ショーペンハウアー讃」(金森誠也訳)
フリードリヒ・ニーチェ著「教育者としてのショーペンハウアー」(金森誠也訳)
トーマス・マン著「ショーペンハウアー」(前田敬作訳)
マックス・ホルクハイマー著「ショーペンハウアーの現代的意義」(徳永恂訳)
茅野良男著「日本におけるショーペンハウアー」
ヴィルヘルム・グヴィナー著「身近に接したショーペンハウアー」(斎藤忍随・兵頭高夫訳)

2:07 午後  
Blogger yoji said...

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン(独: Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889年4月26日 - 1951年4月29日)は、オーストリア・ウィーン出身の哲学者である。のちイギリス・ケンブリッジ大学教授となり、イギリス国籍を得た。以後の言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。 目次. [非表示]. 1 概要. 1.1 名前の表記. 2 生涯. 2.1 幼少時代; 2.2 学生時代; 2.3 第一次世界大戦; 2.4 『論考』出版; 2.5 『論考』 後. 2.5.1 小学校教師として; 2.5.2 建築家として; 2.5.3 ウィーン学団. 2.6 ケンブリッジへの復帰.
生涯-その哲学-著作(日本語訳書)-注釈
ヴィトゲンシュタインの語った「死」 - グーグーパンダが語る 生きる目的
blog.goo.ne.jp/.../d54454f29cfb7450a715763aec674dc...
面接でウィトゲンシュタインは試験官のラッセルとムーアの肩を叩き、 「心配しなくていい、あなたがたが理解できないことは分かっている」 と言ったという。 ムーアは試験官の報告のなかで「私の意見ではこれは天才の仕事だ。これはいかなる意味でもケンブリッジの博士号の標準を越えている」 という趣旨のコメントを記している。 ウィト ゲンシュタインの墓。 墓石の上方に小さなハシゴが架けられているのが 見える。 これは『論考』の命題6.54にある 「読者はハシゴを登りきったあとでそのハシゴを 取り払って ...
ウィトゲンシュタインの「はしご」 - アマゾン
www.amazon.co.jp/ ...
Amazonで吉田 寛のウィトゲンシュタインの「はしご」―『論考』における「像の理論」と「生の問題」。アマゾンならポイント還元本が多数。吉田 寛作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またウィトゲンシュタインの「はしご」―『論考』における「像の理論」と「生の問題」もアマゾン配送商品なら通常配送無料。
ウィトゲンシュタインの言葉で,以下のようなもの(不正確ですが)があります ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp>...>哲学、倫理
ウィトゲンシュタインの言葉で,以下のようなもの(不正確ですが)があります.”問題は消滅という形で解決する”,”はしごを登ったら外さなければならない” ”はしごを登る= 問題を解く”,”はしごを外す=問題が消滅する”,というよ...
沈黙すべきとは何か? 『論考』の峰と山脈を追いかけて ... (Adobe PDF) -htmlで見る
kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/?action...
しかし、ウィトゲンシュタインは、不意に、それら全ての命題(「私の命題」)を無意味だと. 命題6.54において宣言するのである。では、そのように『論考』の全命題の無意味を宣言する. 命題6.54自身も、無意味なのだろうか。もし、そうなら、その勧告「梯子を登り切った者は、. その梯子を投げ捨てねばならない」に従うべきであろうか。命題6.54は、『論考』をより難解. にする以上に、悩ましさを与える命題であろう。 では、これらの3箇所を読みつないでいける解釈を試みよう。そのために、これまでの『論. 考』の読み方を参照して ...
ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む | ニューロンとワイヤの狭間から
comfort.saloon.jp/.../ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を...
6.54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け―その上に立ち―それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、 梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない。) 私の諸命題を葬りさること。 そのとき世界を正しく見るだろう。 7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。 まあ、これでこの難解な本を、最初から最後まで読んでしまったというわけにはいきませんが、それにしてもこのヴィトゲンシュタインの偏屈ぶりはすごい。 で、このあと ...
ウィトゲンシュタイン - About www.ne.jp
www.ne.jp/asahi/village/good/wittgens.html
ウィトゲンシュタイン. Ludwig Wittgenstein( 1889-1951). ウィトゲンシュタインの肖像. 二十世紀の哲学を「言語論的転回」と特徴づける人は多い。その一つの中心にあるのがウィトゲンシュタインである。 ウィトゲンシュタインの哲学は、『論理哲学論考』に代表される前期哲学と、『哲学探究』を中心とする後期哲学とに分かれて .... 6.54 私の(この本の)命題が役に立つのは、私の言うことを理解した人が、これらの命題を通って―その上に立ち―乗り越えて、終にはこれらの命題が無意味であると認識することによってである。
神によって書かれた神話のなかに神はいるか : ゆらめき雑記
kourick.exblog.jp/17875244/
久々にウィトゲンシュタインの 『論考』 を読んだので、ちょっとなにか書いてみようかなと思う。というわけで、 ... これは序文の「本書は、ここに表されている思想をすでに自ら考えたことのある人にだけ理解されるだろう」という宣言ともリンクしており、「6.54」 において「梯子を登りきる」(=解明を終了する)に至る、壮大な伏線になっている。そこが語りきっ ...
ウィトゲンシュタイン哲学における形而上学的主体 (Adobe PDF) -htmlで見る
repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/.../1/12_grad_66_taniguchi.pdf
そこでウィトゲンシュタインは、「主体」は世界の中にはいない、それは世界の限界である、と言う。そして. それは、「形而上学的主体」とか「哲学的自我」と呼ばれる(TLP, 5.641 )。もちろん、これ自体、そもそも形而. 上学的な説明であり、『論考』6.54の指定に従って、この梯子は最後には棄てられねばならない。しかし、「梯子. を棄てる」と言われることの意味は、それを否定するのではなく、踏まえて振り返らないということのはずで. ある。 ウィトゲンシュタインの前期と後期を別の哲学と考える人たちは、『論考』の形而上学が後期 ...

2:58 午後  
Blogger yoji said...

http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/jp/4.html

6.54
独  Meine Sätze erläutern dadurch, dass sie der, welcher mich versteht, am Ende als unsinnig erkennt, wenn er durch sie - auf ihnen - über sie hinausgestiegen ist. (Er muss sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist.)
Er muss diese Sätze überwinden, dann sieht er die Welt richtig.
英1 My propositions are elucidatory in this way: he who understands me finally recognizes them as senseless, when he has climbed out through them, on them, over them. (He must so to speak throw away the ladder, after he has climbed up on it.)
He must surmount these propositions; then he sees the world rightly.
英2 My propositions are elucidatory in this way: he who understands me finally recognizes them as senseless, when he has climbed out through them, on them, over them. (He must so to speak throw away the ladder, after he has climbed up on it.) He must transcend these propositions, and then he will see the world aright.
日  私を理解するひとは、私の命題をよじ登り--その上に立ち--それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。このようにして私の命題は解明的である。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)
私の命題を超えねばならない。その時世界を正しく見るだろう。
7
独  Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.
英1 Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.
英2 What we cannot speak about we must pass over in silence.
日  語りえぬことについては,沈黙するしかない。

3:00 午後  
Blogger yoji said...


ウィトゲンシュタインがショーペンハウアーを意識して論理哲学論考を
書いたという説があって
それが本当なら

ニーチェもショーペンハウアーを意識していたわけだから
2人とも同じ梯子を上って別のところにたどり着いたと言える

2人とも梯子は外してしまったが

最終的にショーペンハウアーを受け継いだのは別分野のフロイトだった

東洋思想/独我論/無意識
ショーペンハウアーは多面的だしその受容は多様だったが
その大きさはカントの陰で忘れられている

論考6.54の梯子の比喩は続意志と表象#7に似た表現がある

意志と表象の意志の部分をフロイトが受け継いだとするなら(*)、表象の部分の吟味をヴィトゲンシュタインが批判的に受け
継いだのだ。『論考』でその固有名を言及されないショーペンハウアーは「梯子」の一つだったとも言える、、、

表象から意志への移行をウィトゲンシュタインはショーペンハウアーによる動かない腕の比喩を逆手に取って拒否する(126頁)。

3:06 午後  
Blogger yoji said...


ウィトゲンシュタインがショーペンハウアーを意識して論理哲学論考を
書いたという説があって
それが本当なら

ニーチェもショーペンハウアーを意識していたわけだから
2人とも同じ梯子を上って別のところにたどり着いたと言える

2人とも梯子は外してしまったが

最終的にショーペンハウアーを受け継いだのはニーチェを経由した別分野のフロイトだった

東洋思想/独我論/無意識
ショーペンハウアーは多面的だしその受容は多様だったが
その大きさはカントの陰で忘れられている

論考6.54の梯子の比喩は続意志と表象#7に似た表現がある

意志と表象の意志の部分をフロイトが受け継いだとするなら、表象の部分の吟味をヴィトゲンシュタインが批判的に受け
継いだのだ。『論考』でその固有名を言及されないショーペンハウアーは「梯子」の一つだったとも言える、、、

表象から意志への移行をウィトゲンシュタインはショーペンハウアーによる動かない腕の比喩を逆手に取って拒否する(126頁)。

3:10 午後  
Blogger yoji said...


ウィトゲンシュタインがショーペンハウアーを意識して論理哲学論考を
書いたという説があって
それが本当なら

ニーチェもショーペンハウアーを意識していたわけだから
2人とも同じ梯子を上って別のところにたどり着いたと言える

2人とも梯子は外してしまったが

最終的にショーペンハウアーを受け継いだのはニーチェを経由した別分野のフロイトだった

東洋思想/独我論/無意識
ショーペンハウアーは多面的だしその受容は多様だったが
その大きさはカントの陰で忘れられている

論考6.54の梯子の比喩は続意志と表象#7に似た表現がある

意志と表象の意志の部分をニーチェ、フロイトが受け継いだとするなら、表象の部分の吟味をヴィトゲンシュタインが批判的に受け
継いだのだ。『論考』でその固有名を言及されないショーペンハウアーは「梯子」の一つだったとも言える、、、

表象から意志への移行をウィトゲンシュタインはショーペンハウアーによる動かない腕の比喩を逆手に取って拒否する。

3:11 午後  
Blogger yoji said...

ウィトゲンシュタインがショーペンハウアーを意識して論理哲学論考を
書いたという説があって
それが本当なら

ニーチェもショーペンハウアーを意識していたわけだから
2人とも同じ梯子*を上って別のところにたどり着いたと言える

『論考』でその固有名を言及されないショーペンハウアーは「梯子」の一つだった‥‥

2人とも梯子は外してしまったが

最終的にショーペンハウアーを受け継いだのはニーチェを経由した別分野のフロイトだった
ニーチェ→フロイト
カント→ショーペン〈
→ウィト

東洋思想/無意識/独我論
ショーペンハウアーは多面的だしその受容は多様だったが
その大きさは(スピノザ、ライプニッツもだが)カントの陰で忘れられている
(カントはヘーゲルの陰で‥‥)

意志と表象の意志の部分をニーチェ、フロイトが受け継いだとするなら、表象の部分の吟味をヴィトゲンシュタインが批判的に受け
継いだのだ。

(表象から意志への移行をウィトゲンシュタインはショーペンハウアーによる動かない腕の比喩を逆手に取って拒否する。)


論考6.54の梯子の比喩は続意志と表象#7に似た表現がある

4:36 午前  
Blogger yoji said...

ウィトゲンシュタインがショーペンハウアーを意識して論理哲学論考を
書いたという説があって
それが本当なら

ニーチェもショーペンハウアーを意識していたわけだから
2人とも同じ梯子を上って別のところにたどり着いたと言える

                   ニーチェ→フロイト
プラトン→カント→ショーペンハウアー〈
                    →ウィトゲンシュタイン

2人とも梯子は外してしまったが

最終的にショーペンハウアーを受け継いだのは別分野のフロイトだった

東洋思想/無意識/独我論
ショーペンハウアーは多面的だしその受容は多様だったが
その大きさはカントの陰で忘れられている

4:36 午前  
Blogger yoji said...

ウィトゲンシュタインがショーペンハウアーを意識して論理哲学論考を
書いたという説があって
それが本当なら

ニーチェもショーペンハウアーを意識していたわけだから
2人とも同じ梯子*を上って別のところにたどり着いたと言える

『論考』でその固有名を言及されないショーペンハウアーは「梯子」の一つだった‥‥

2人とも梯子は外してしまったが

最終的にショーペンハウアーを受け継いだのはニーチェを経由した別分野のフロイトだった

                   ニーチェ→フロイト
プラトン→カント→ショーペンハウアー〈
                    →ウィトゲンシュタイン

東洋思想/無意識/独我論
ショーペンハウアーは多面的だしその受容は多様だったが
その大きさは(スピノザ、ライプニッツもだが)カントの陰で忘れられている
(カントはヘーゲルの陰で‥‥)

意志と表象の意志の部分をニーチェ、フロイトが受け継いだとするなら、表象の部分の吟味をヴィトゲンシュタインが批判的に受け
継いだのだ。

(表象から意志への移行をウィトゲンシュタインはショーペンハウアーによる動かない腕の比喩を逆手に取って拒否する。)


論考6.54の梯子の比喩は続意志と表象#7に似た表現がある

4:37 午前  
Blogger yoji said...

ウィトゲンシュタインがショーペンハウアーを意識して論理哲学論考を
書いたという説があって
それが本当なら

ニーチェもショーペンハウアーを意識していたわけだから
2人とも同じ梯子*を上って別のところにたどり着いたと言える

『論考』でその固有名を言及されないショーペンハウアーは「梯子」の一つだった‥‥

2人とも梯子は外してしまったが

最終的にショーペンハウアーを受け継いだのはニーチェを経由した別分野のフロイトだった

                   ニーチェ→フロイト
プラトン→カント→ショーペンハウアー〈
                    →ウィトゲンシュタイン

東洋思想/無意識/独我論
ショーペンハウアーは多面的だしその受容は多様だったが
その大きさは(スピノザ、ライプニッツもだが)カントの陰で忘れられている
(カントはヘーゲルの陰で‥‥)

意志と表象の意志の部分をニーチェ、フロイトが受け継いだとするなら、表象の部分の吟味をヴィトゲンシュタインが
批判的に受け継いだのだ。

(表象から意志への移行をウィトゲンシュタインはショーペンハウアーによる動かない腕の比喩を逆手に取って拒否する。)


論考6.54の梯子の比喩は続意志と表象#7に似た表現がある

4:37 午前  
Blogger yoji said...

マルクスを加えた図解:

近代から現代へ至る思想の見取り図(図式*)小川圭治作成

         [個人の内面]
          キルケゴール
         (主体的実存)
           /|
          / | 
         /  |   
  [現代思想]/   |     [近代主観主義]
   ニーチェ↙︎←___|_____ ヘーゲル
  (神の死)↖︎    |     (絶対精神)
        \   |   
         \  | 
          \ | 
           \|
          [社会の現実]
           マルクス
          (共産主義社会)

小川はカール・バルトの翻訳で知られる。

上記はK・レーヴィットの論考の小川圭治による図解(『キルケゴール 人類の知的遺産』p.32)。

4:42 午前  
Blogger yoji said...

ウィトゲンシュタインがショーペンハウアーを意識して論理哲学論考を
書いたという説があって、それが本当なら

ニーチェもショーペンハウアーを意識していたわけだから
2人とも同じ梯子*を上って別のところにたどり着いたと言える

『論考』でその固有名を言及されないショーペンハウアーは「梯子」の一つだった‥‥

2人とも梯子は外してしまったが

最終的にショーペンハウアーを受け継いだのはニーチェを経由した別分野のフロイトだった

                   ニーチェ→フロイト
プラトン→カント→ショーペンハウアー〈
                    →ウィトゲンシュタイン

東洋思想/無意識/独我論
ショーペンハウアーは多面的だしその受容は多様だったが
その大きさは(スピノザ、ライプニッツもだが)カントの陰で忘れられている
(カントはヘーゲルの陰で‥‥)

意志と表象の意志の部分をニーチェ、フロイトが受け継いだとするなら、表象の部分の吟味をヴィトゲンシュタインが
批判的に受け継いだのだ。

(表象から意志への移行をウィトゲンシュタインはショーペンハウアーによる動かない腕の比喩を逆手に取って拒否する。)


論考6.54の梯子の比喩は続意志と表象#7に似た表現がある

4:43 午前  
Blogger yoji said...

マルクスを加えた図解:

近代から現代へ至る思想の見取り図、小川圭治作成

         [個人の内面]
          キルケゴール
         (主体的実存)
           /|
          / | 
         /  |   
  [現代思想]/   |     [近代主観主義]
   ニーチェ↙︎←___|_____ ヘーゲル
  (神の死)↖︎    |     (絶対精神)
        \   |   
         \  | 
          \ | 
           \|
          [社会の現実]
           マルクス
          (共産主義社会)

小川はカール・バルトの翻訳で知られる。

上記はK・レーヴィットの論考の小川圭治による図解(『キルケゴール 人類の知的遺産』p.32)。

キルケゴールの代わりにショーペンハウアーを置きたいが、それは集合無意識を意味するものになる

4:44 午前  
Blogger yoji said...

 ところで洞察を得るために学ぶ者にとっては、書物と研究とは、認識の頂点にまで登るはしごの単なる段にすぎない。段が人間を一歩だけ高めると、ただちに彼はその段を放置する。それに反して、記憶を満たすために学ぶ多くの者は、登るためにはしごの段を利用するのでなく、そのはしごの段をはずして荷物の重さが増加するのを喜びながら、それを背に負って持っていく。彼らを運んでいかなければならなかったものを、彼らはいまだに運んでいるのだから、永遠に下にいつづけているのである。

ショーペンハウアー全集5 白水社 138~9頁
2004年

6:06 午前  
Blogger yoji said...

【哲学】20世紀最大の哲学者の1人であるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは絵文字推奨派だった[05/02]

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1しじみ ★2018/05/02(水) 16:42:48.85ID:CAP_USER>>12
1921年に32歳で「論理哲学論考(論考)」を発表したルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、
言語の限界について主張した人物であり、その哲学はコンピューター科学や人工知能、
認知科学などの分野にも影響を与えています。
20世紀で最も偉大な哲学者の1人であるウィトゲンシュタインは、
コンピューターのコミュニケーションが生まれる以前から顔文字の重要性について強調していました。

Philosopher Ludwig Wittgenstein invented the emoji — Quartz
https://qz.com/1261293/ludwig-wittgenstein-was-the-great-philosopher-of-the-20th-century-he-also-invented-the-emoji/

1939年にケンブリッジ大学の哲学教授となったウィトゲンシュタインは講義のテキストに
「目を閉じて薄いほほ笑みを浮かべる顔」「片方の眉毛を上げた顔」「目を開いた笑顔」といったシンプルな顔文字を記し、
その役割について「『気取り屋』や『威厳』といったことは顔によって表現できます。
顔を使うことで、形容詞を使うよりもより柔軟に、さまざまなことを描写することが可能です」と説明しています。
シューベルトの作品を聞いた時の感情的体験などは、「憂うつな」という言葉を使うよりも、
人間の顔をスケッチした方が表現しやすいというのがウィトゲンシュタインの見解です。

ニューヨーク大学の哲学者であるポール・ホーウィック教授によると、上記のようなウィトゲンシュタインの主張は、
単なる雑談ではなく、ウィトゲンシュタインの哲学に広く通じる内容であると語っています。

ウィトゲンシュタインは特に初期の研究において、
言語的コミュニケーションよりも絵によるコミュニケーションの影響を強調していました。
私たち人間は、言葉を使って自分自身に対して現実を説明しているため、
私たちの現実感は言葉を通じて作り出されるとウィトゲンシュタインは信じていました。
これはつまり、絵的な手法を使ったコミュニケーションが取られれば、
私たちは現実を言葉だけでなく絵的に表現できることになります。
顔を描くことは、言語的ではないコミュニケーションとして認識されたわけです。

ウィトゲンシュタインは1934~1935年に行われた大学の授業で、円といくつかの線を描き、
「私たちはこれらをただのダッシュだと見なさず、
『言葉では正確に描写できない』特定の表現だと見なします」と語ったことが記録されています。
このほか、地図、建築デザイン、写実的な絵画、モデルなどが「絵的な表現方法」の例として挙げられました。

ペーチ大学のクリストフ・ニーリ教授は、ウィトゲンシュタインが「言葉では伝えられず、
絵を示すことで伝えられることがあるということは、
私たちのコミュニケーション・システムが絵の要素なしでは不完全であること」を示唆していたとつづっています。

一方で、近年のスマートフォンで用いられる絵文字とウィトゲンシュタインの絵文字の大きな違いとして、
「標準化された顔文字」が用いられるか否かという点を挙げています。
ウィトゲンシュタインが想定していたのは、意味を伝えるために各人が絵を描くという方法でのコミュニケーションでした。
自分自身で顔を描かない限りは、多様さや柔軟さが得られない、とニーリ教授は語っています。

今日の絵文字はウィトゲンシュタインが思い描いたものとニュアンスが異なりますが、
今日の絵文字の広がりようを見れば、
絵的なコミュニケーションを強調したウィトゲンシュタインの主張に間違いはなかったといえそうです。

関連ソース画像
https://i.gzn.jp/img/2018/05/02/philosopher-ludwig-wittgenstein-emoji/001.jpg

GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20180502-philosopher-ludwig-wittgenstein-emoji/

3:27 午前  
Blogger yoji said...

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは絵文字推奨派だった - https://gigazine.net/news/20180502-philosopher-ludwig-wittgenstein-emoji/
ウィトゲンシュタインは1934~1935年に行われた大学の授業で、円といくつかの線を描き、
「私たちはこれらをただのダッシュだと見なさず、
『言葉では正確に描写できない』特定の表現だと見なします」…

3:30 午前  
Blogger yoji said...

たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。  
スピノザ エチカ5:42

理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である
ヘーゲル法哲学序論

世界の中に奇跡があるのではない。この世界があることが奇跡だ
ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考6.44

現実はいつも稀有なものなのです
カトリー・レイトン


6.44
独  Nicht wie die Welt ist, ist das Mystische, sondern dass sie ist.
英1 Not how the world is, is the mystical, but that it is.
英2 It is not how things are in the world that is mystical, but that it exists.
日  神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである。



電マガ34号「必然性をになうものが現実的である」
atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~e-magazine/034/essey3.html
F・ヘーゲル(1770-1831)の有名な命題で

「理性的なものは現実的なものであり、現実 的なものは理性的である。」(1)という言葉が『法哲学』の序論に叙述されている。これは現実的なものは、すべて合理的であり合理的なものは、すべて現実的であるという意味 ...

論理哲学論考 (岩波文庫) | ウィトゲンシュタイン, 野矢 茂樹 |本 | 通販 ...
www.amazon.co.jp/論理哲学論考...ウィトゲンシュタイン...
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫) - 野矢 茂樹 文庫 ¥1,296. 残り. この商品 .... ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951 ( 講談社現代新書) 新書. 鬼界 彰夫 ... 対象である。著者は命題中で「数学の中で集合論は余計」と述べている(真意は理解出来なかった)が、どう見ても「世界の内=集合」、「 事実=集合の要素」という構図が浮かぶ。 ... この本はもはや『論考』の単なる和訳というだけにとどまらず、『論考』の入門書でもあると言って過言ではないと思います。 ただ、 本文 ...

5:08 午後  
Blogger yoji said...


たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。
スピノザ

理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である
ヘーゲル

世界の中に奇跡があるのではない。この世界があることが奇跡なのだ
ウィトゲンシュタイン

#現実はいつも稀有なものなのです
カトリー・ #レイトン

5:20 午後  
Blogger yoji said...


たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。
スピノザ

理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である
ヘーゲル

世界の中に奇跡があるのではない。この世界があることが奇跡なのだ
ウィトゲンシュタイン

#現実はいつも稀有なものなのです
カトリーエイル・ #レイトン

5:20 午後  
Blogger yoji said...

ウィトゲンシュタイン.Wittgenstein,Ludwig,❶J.218/❷M.11@,12,146-7@,155@,162,(建築) 166,167-8@,171@,172-3@,173-4@,179@,182@,196/❸T.68,102,103,104@,105@,106@,112@,469@/❺H.64,
 『数学の基礎』,❷M.11@,146-7@,171@,172-3@/❸T.102@,104@,105@,106@,
 『哲学探究』,❷M.155@,167-8@,173-4@,179@,182@/❸T.106@,111@,113,
 『論理哲学論考』,❷M.154(198,『論考』)/❸T.112@,116,469@

5:22 午後  
Blogger yoji said...

定本柄谷3,469で引用

論理哲学論考-校正用ワーク
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/jp/4.html
6.13
独  Die Logik ist keine Lehre, sondern ein Spiegelbild der Welt.
Die Logik ist transzendental.
英1 Logic is not a theory but a reflexion of the world.
Logic is transcendental.
英2 Logic is not a body of doctrine, but a mirror-image of the world. Logic is transcendental.
日  論理学は理論ではなく、世界の鏡像である。
論理学は超越論的である。

5:27 午後  
Blogger yoji said...

たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。  
スピノザ エチカ5:42

理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である
ヘーゲル法哲学序論

世界の中に奇跡があるのではない。この世界があることが奇跡だ
ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考6.44

現実はいつも稀有なものなのです
カトリーエイル・レイトン

5:30 午後  
Blogger yoji said...

たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。  
スピノザ エチカ5:42
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p42

理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である
ヘーゲル法哲学序論

世界の中に奇跡があるのではない。この世界があることが奇跡だ
ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考6.44
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/jp/4.html

現実はいつも稀有なものなのです
カトリーエイル・レイトン

第2弾「レイトン ミステリー探偵社」PV
https://youtu.be/NE_DzSPNUP4?t=1m

6:01 午後  
Blogger yoji said...

たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。  
スピノザ エチカ5:42
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p42

理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である
ヘーゲル法哲学序論
http://libcom.org/files/Philosophy_of_Right_0.pdf p.18 en

世界の中に奇跡があるのではない。この世界があることが奇跡だ
ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考6.44
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/jp/4.html

現実はいつも稀有なものなのです
カトリーエイル・レイトン

第2弾「レイトン ミステリー探偵社」PV
https://youtu.be/NE_DzSPNUP4?t=1m



6.44
独  Nicht wie die Welt ist, ist das Mystische, sondern dass sie ist.
英1 Not how the world is, is the mystical, but that it is.
英2 It is not how things are in the world that is mystical, but that it exists.
日  神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである。

6:09 午後  
Blogger yoji said...

理性的であるものこそ現実的であり、 現実的であるものこそ理性的である

ヘーゲル
中公

6:11 午後  
Blogger yoji said...

What is rational is real; And what is real is rational.


* Grundlinien der Philosophie des Rechts (1821)
https://de.m.wikipedia.org/wiki/Grundlinien_der_Philosophie_des_Rechts


Bearbeiten
„Was vernünftig ist, das ist wirklich; und was wirklich ist, das ist vernünftig.“
– Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, Frankfurt am Main 1972, S. 11


http://www.zeno.org/Philosophie/M/Hegel,+Georg+Wilhelm+Friedrich/Grundlinien+der+Philosophie+des+Rechts
http://www.zeno.org/nid/20009181148
http://www.zeno.org/nid/20009181156

6:23 午後  
Blogger yoji said...

『天才と才人―ウィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影響 』D.A.ワイナー著
http://www.amazon.co.jp/dp/4916037529/

以下読書メモ:

著者は、ウィトゲンシュタイン『論考』(5.633)☆の「君」はショーペンハウアーのことだと指摘する(104頁)。
ウィトゲンシュタインは「ショーペンハウアーの亡霊と論争している」(112頁)のだ。
有名な「梯子」(6.54)の比喩も『続意志と表象』から引いているという(71頁)。

《私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から
分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の
世界に属するのである。従って一方には何も残存しなく、他方には世界がユニークなものとし
て残存する。このようにして 観念論は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。》
(ウィトゲンシュタイン「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁より)

ワイナーによれば上記の記述もショーペンハウアー『意志と表象〜』に応酬したものだと言う(141頁)。

参考:
「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html


「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html
《世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
あなたは、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。しかし、現実には、あなたは眼を見ることはない。
そして、視野におけるいかなるものも、それが眼によって見られていると推論できるものはない。》

追記:
P.M.S.ハッカー『洞察と幻想 ヴィトゲンシュタインの哲学観と経験の形而上学』(八千代出版)
(ハッカーの方がウィトとショーペンハウアーの関係に関しての指摘は先)


>梯子の比喩

 ところで洞察を得るために学ぶ者にとっては、書物と研究とは、認識の頂点にまで登る
はしごの単なる段にすぎない。段が人間を一歩だけ高めると、ただちに彼はその段を放置
する。それに反して、記憶を満たすために学ぶ多くの者は、登るためにはしごの段を利用する
のでなく、そのはしごの段をはずして荷物の重さが増加するのを喜びながら、それを背に
負って持っていく。彼らを運んでいかなければならなかったものを、彼らはいまだに運んで
いるのだから、永遠に下にいつづけているのである。

ショーペンハウアー全集5 白水社 138~9頁
2004年

2:38 午後  
Blogger yoji said...

「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなもの
として世界から分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見て
とるには、私もまた残余の世界に属するのである。従って一方には何も残存し
なく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論
は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。」
(ウィトゲンシュタイン、1916年10月15日、
「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁より)

6:44 午前  
Blogger yoji said...

哲学探究
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
 257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか? そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供はその語を他人に理解させることができない。 ―― つまり、子供は名前を理解しているが、その意味を誰にも説明できないというのか? ―― しかしそうすると、彼は「自分の痛みに名前を付けた」とはどういう意味なのか? ―― 彼はいかにして、痛みに名前を付けるということを行ったのか?! そして、彼が何をしたにせよ、それはどういう目的を持っていたのか? ―― 人が「彼はその感覚に名前を与えた」と言うとき、その人は、単なる名づけが意義を持つためには、言語において既に多くのことが準備されていなくてはならないということを忘れている。そして私たちが痛みに名前を与えることについて語るとき、「痛み」という語の文法こそが、その準備されていたものである。文法が、この新しい語が置かれることになる位置を示すのである。

6:02 午後  
Blogger yoji said...

哲学史はドゥルーズの言葉で言えばダイアグラムということになる
収束と発散を同時に捉えるのだ
《命題は、その真理条件に対応するリアリティーを、可能的世界に与えることはない》(ドゥルーズ)

これはウィトゲンシュタイン批判というより分析哲学批判である
ドゥルーズによってウィトは一応可能世界論の系譜には位置付けられている
罵倒(発散)すれば批判になるわけではない
ドゥルーズによって可能世界論はライプニッツ、ウィト、トゥルニエと新たな様相を呈するようになる
この場合、文学の優位は意味規定を最初に行う必要がないということだ
芸術の意味は時代によって多義的になるから当たり前だ
ただし哲学的にはウィトはダイアグラムを作成していないのでカントに及ばないということになる
ウィトを擁護するなら以下のようにウィトはウィトなりにリアリティーにこだわってはいる

http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c257
《257. 「人々が痛みを表現しない(呻かず、顔も歪めない)としたら、どうなるか?
そのとき、子供に「歯痛」という語の使用を教えることはできないだろう。」 ―― さて、
その子供は天才で、感覚の名前を自ら発明すると仮定しよう。しかしもちろん、子供は
その語を他人に理解させることができない。 …》

6:41 午後  

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