土曜日, 11月 10, 2012

デュルケム『自殺論』と同業組合

ドゥルーズを読んでいると、集団主義のデュルケムより個人主義?のタルドの方が面白い、などと言ってみたくなるが、デュルケムもやはり重要だ。
例えば、興味深いことに、デュルケムの著名な『自殺論』のラストにおいては自殺を防ぐセーフティネットとして、同業組合が言及されている。

http://keisic.com/suicide.htm#3-3

宗教社会、家族社会、政治社会などのほかにも、これまで問題にされなかったもう一つの社会がある。それは、同種のすべての労働者、あるいは同じ職能のすべての仲間がむすびついて形成する職業集団ないしは同業組合である。p.489、中公文庫

この社会は、同じ労働に従事している個人によって構成され、かれらの利害は連帯し、一体化してさえいるので、社会的な観念や感情をはぐくむうえでこれほどうってつけの地盤はない。出自、教養、職業などが同一のため、職業活動は共同生活にとってこのうえなく豊富な素材をなしている。p.489

職業集団は、他のあらゆる集団にもまして次の三つの利点をそなえている。すなわち、常時存在していること、どこにでも存在していること、そしてその影響は生活の大部分の面にわたっていること、である。p.486

同業組合は、個人をとり囲み、精神的孤立状態から個人を引きだすにたるだけの十分なものをそなえている。他の集団が現在問題の多いものであるだけに、それは、この不可欠な役目を果たすことのできる唯一の集団となっている。p.486


__________

追記:

デュルケムの採用した自殺の4類型を、無理矢理、柄谷行人の交換図(の座標軸)にあてはめると以下のようになるだろう。

   宿命的
 利己的十利他的
   アノミー X

X=アソシエーション

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1234276402
http://ja.wikipedia.org/wiki/エミール・デュルケーム#.E8.87.AA.E6.AE.BA.E3.81.AE.E5.9B.9B.E5.88.86.E9.A1.9E

利他的自殺(集団本位的自殺)……凝集性の高い帰属集団の絶対的な価値規範・同調圧力を押し付けられる状況において、その状況に上手く適応できずに自己犠牲のプレッシャーに抑圧されて自罰的に自殺する類型。集団主義的環境への適応障害の悪化。

利己的自殺(自己本位的自殺)……凝集性の低い帰属集団で他者と価値観・目的意識を共有できないことによって、『極度の孤独感(不安感)・無価値感』を感じて自己疎外的に自殺する類型。個人主義的環境への適応障害の悪化。

アノミー的自殺(匿名的自殺)……中心的価値基準や社会規範が不在のアノミー社会(無規範社会)において、『際限のない選択の自由』に上手く適応できずに生きる方向性(自己の存在意義)を見失って虚無的に自殺する類型。自由な欲望追求(幸福追求)の結果として、理想自我と現実自我の落差が限界を超えて大きく開き、自分の努力によって主観的な幸福を実現できないことに絶望する類型。自由主義的環境への適応障害の悪化。

宿命的自殺……帰属集団の行為規範や道徳的価値観(伝統・慣習)などによって、『個人の行動の選択肢』が狭められ自己束縛状態に追い込まれて自殺する類型。絶対に職業的責任を放棄できないと認知するワーカホリックの人や政治的社会の権力者が自殺するケースなどが該当する。伝統主義(権威主義)的環境への適応障害の悪化。

21 Comments:

Blogger yoji said...

デュルケムの採用した自殺の4類型を、無理矢理、柄谷行人の交換図(の座標軸)にあてはめるとどうなるだろうか?

   利他的
アノミー十宿命的
   利己的 X

これだとアソシエーション(=x)は利己的かつ宿命的(な自殺???)になってしまう。

以下のようにした方がいいかも知れない。

   宿命的
 利己的十利他的
   アノミー X

この方がしっくり来る(デゥルケムの定義だと上がしっくりくるが、日本語に基づくと2番目がしっくり来る。)。

もしくは、

   利他的
 宿命的十アノミー
   利己的 X

 これは無理がある、、、

2:09 午前  
Blogger yoji said...

自殺論は中公バックス版がお勧め

12:40 午前  
Blogger yoji said...

デュルケムも3分割か4分割かで迷っている
宿命的は補注で付記されたもの

11:53 午後  
Blogger yoji said...


音楽建築原発政治中国歴史分類図像学

文学東洋思想プラトンアリストテレスリンク:::::

11:29 午後  
Blogger yoji said...

【新製品/介護】大和ハウス、排泄自動処理ロボットの販売開始 臭いほぼなし[12/12/11]
1 :やるっきゃ騎士φ ★:2012/12/11(火) 13:31:50.83 ID:???
大和ハウス工業の樋口武男会長は10日、大阪市内で講演し、
寝たきりの高齢者らの排泄を自動処理するロボットの販売を始めることを
明らかにした。
販売するのは、介護機器メーカーのエヌウィック(宮城県仙台市)が開発した
自動排泄処理ロボット「マインレット爽(さわやか)」。
今年9月に同社と販売代理店契約を結び、全国の介護事業者を対象に
レンタル品として来年1月7日から販売する。
価格は59万8千円で、年間350台の販売を目指す。

おむつのような専用カバーを装着して排尿、排便すると内蔵のセンサーが
感知し、吸引から温水洗浄、乾燥までを自動で行う。
吸引された排泄物は接続したタンクにため、トイレに流すことができる。
15層の消臭フィルターにより、臭いはほとんどないという。

ソースは
http://www.sankeibiz.jp/econome/news/121211/ecc1212111145000-n1.htm
自動排泄処理ロボット「マインレット爽」
http://www.sankeibiz.jp/images/news/121211/ecc1212111145000-p1.jpg
■エヌウィック http://www.minelet.com/
 マインレット爽
 http://www.minelet.com/lineup.html
  仕組みを示す画像は
  http://www.minelet.com/image86.jpg

9:35 午後  
Blogger yoji said...

2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50
【インタビュー】元社員・原田節雄氏が分析する、ソニー凋落の原因とは? [12/12/11]
1 :依頼@@@@ハリケーン@@@φ ★:2012/12/15(土) 09:10:34.81 ID:???
今年9月の中間決算で約400億円の最終赤字を計上、11月には格付け会社のフィッチ
から投機的水準の「ダブルBマイナス」に引き下げられたソニー。この凋落の原因はなん
なのか。元社員である原田節雄氏が、内部事情や社内制度を細かく分析することで答えよう
とするのが『ソニー 失われた20年 内側から見た無能と希望』だ。

***

―タイトルの「失われた20年」ですが、これは創業者のひとりである盛田昭夫さんが
会社から完全に離れた1993年から約20年ということですね。

「そうです。私はソニーを3つの時期に分けて考えています。まず1945年から始まる
『成長期』。創業者の井深大(いぶかまさる)さんと盛田昭夫さんが牽引していました。
それが、1993年に大賀典雄さんが実権を完全に握るようになって第2期の『停滞期』が
始まります。彼は仕事ができて自分の地位を脅かしかねない人を徐々に排除しました。
しかし彼の周囲には、井深さんや盛田さんが見いだした仕事のできる人がまだたくさん
いた。それで組織が回っていたわけです。

第3期が1996年から現在までの『衰退期』。出井(いでい)伸之さん、ハワード・
ストリンガーさんが実権を握るようになり、彼らの周りから井深さんや盛田さんが選んだ
優秀な人がいなくなります。ゴマスリ社員ばかり近づいてくるようになるのです」

―本書でも井深さん、盛田さんが偉大だったということは何度も繰り返してらっしゃいますね。

「彼らはベンチャーから始めているから、会社のさまざまな部署をしっかり把握している。
社員にどんな人がいて、その人は優秀かどうか、どんな仕事が向いているか、家族構成まで
わかっていました。そして、ソニーが大企業になった後も、社内をひとりで歩いて誰にでも
気さくに声をかけていた。私が仕事をしているとき、ふと人の気配を感じて振り返ったら
井深さんや盛田さんが背後にいて、仕事内容について質問されるという経験を何度もしま
したよ。彼らはそうやって現場のことを把握し、同時に力のある社員を見つけていったん
だと思います」

ソース
http://news.livedoor.com/article/detail/7220830/

(つづく)

2 :@@@ハリケーン@@@φ ★:2012/12/15(土) 09:11:24.83 ID:???
>>1のつづき

―現在の上層部は社内のことがわかってない?

「ソニーの一般社員が、ストリンガーさんや現社長の平井(一夫)さんの働いている姿を
見ることなんてめったにないと思いますよ。そして、1993年から増えていった社外取締役
の人たちはもともとソニーの人間ではありませんからね。現場の人間のことなどわからない
のも当然です」

―社外取締役が多いということは外に開かれた経営をしているということで評価する人も
いましたが。

「とんでもない。ソニーの社外取締役制度は癒着の温床です。というのは、社外取締役は
会長や社長が連れてくることができる。そして、取締役会のメンバー14名のうち社内の
人間は2名でした。役員の人事権を握るのは『指名委員会』という5名の組織なのですが、
そのうち2名が会長と社長で、社長が会長の子飼いだとしたらどうなりますか。会社の命運
を決める役員任命権を会長ひとりで牛耳ることができる。これでは、集団指導体制の中国の
ほうがガバナンスがきいてますよ。

おまけにその役員メンバーの大半が文系で、技術のことなどわかっていません。事業を熟知
している人がいないのです」

―では、今年6月に新しく社長になった平井さんも期待薄ということでしょうか。

「今までのしがらみを断ち切っていく決意をすること、そのための地盤を作って実行する
ことが第一歩です。それができないとソニーの凋落は止まらないでしょう」

(撮影/高橋定敬)

●原田節雄(はらだ・せつお)

1947年生まれ。ジャーナリスト。工場から欧州の事業所、本社のヘッドクオーターまで
ソニーのさまざまな現場を経験。2008年に内閣総理大臣賞を受賞。2010年に退社

『ソニー 失われた20年 内側から見た無能と希望』

さくら舎 1680円

ソニーはなぜiPodを作れなかったのか。なぜサムスンに負けてしまったのか。本書では
徹底して歴代首脳と社内のシステムの変化を追い、いかにソニーが自壊していったかを追う

-以上-



ヒット&ラン
ソニー本社六階

特に後者は私的官僚制を描いた名著
前者は映画への投資失敗を描いている


12:20 午後  
Blogger yoji said...

組織論、
くじ引き

12:22 午後  
Blogger yoji said...

NAMs出版プロジェクト: くじ引き関連資料 +ヴェネツィアのくじ引き
http://nam-students.blogspot.jp/2011/12/blog-post_06.html

12:23 午後  
Blogger yoji said...

デュルケムはサン=シモン研究をしていた。
プルードンにも興味を持っていた。
デュルケムを調べると、その前を歩いていたモースの大きさもあらためてわかる。

1:26 午後  
Blogger yoji said...

『社会学講義』にプルードンへの言及がある。

1:26 午後  
Blogger yoji said...

http://www.kagomma.net/saito/travaux/durkheim_socialism.html
2.社会主義の道徳的な力

上述のとおりプルードンの社会主義の理論構築は分業への注目から始まった。デュルケムも,分業を生産力の観点からではなく,道徳の観点から眺め,分業が道徳の進化にはたす役割の大きさに注目した。これによって,かれは自由主義経済学を強く批判する立場を獲得する。さらには,サン・シモンの産業主義も自由主義経済学と同じ錯誤に陥っていると断ずる。

サン・シモンの産業主義についての内在的批判はすでにフーリエがおこなっているが,デュルケムのそれはさらに辛辣である。産業主義は社会に幸せをもたらすどころか,社会を生き地獄に変える,というのだ。生産性の向上,富の増進は人々の物欲をかきたて,焦燥をあおるだけだからである。

1893年の『社会分業論』でデュルケムは,豊かさや変化がけっして幸福にはつながらないことを次のように明言する。

D「くりかえしていえば,そのおかげでわれわれが幸福になるわけではない。……われわれの幸福とは,欲望が刺激されるゆえにこそ大きくなる,というものではない。……われわれにとって,分業が,経済学者たちにとってとはまったく別の様相であらわれるゆえんは,かくのごとくである。経済学者たちにとっては,分業の本質はより多くの生産ということだ。われわれにとっては,より大なる生産性ということは,分業という現象の必然的な一帰結,ひとつの残響にすぎない」(Div 258-259: 264-265頁)

そして,1895~96年の講義(社会主義論)でのサン・シモン批判も同じトーンで展開される。

D「果てしなき欲求は自己矛盾である。……持っている以上に持つことを絶えず休みなく求めること,次に到達するであろう点を追い抜くだけのために,到達した点を乗り越えんとして働くことは目的といえない。……飽くことをしらぬ渇きは苦痛のもとになるだけである。どんなことをしても,それは決して癒されない」(Soc 223-224: 230頁)
「サン・シモンが見逃したと思われるのは,これである。社会平和を実現する手段は,一方では経済的欲求を一切の制約から解放することであり,他方ではそれらの経済的欲求をかなえることによって満足させることだ,と彼は考える。ところが,そのような企ては相矛盾する」(Soc 225: 232頁)

この無間地獄から脱却するにはどうしたらよいか。デュルケムの回答はきわめて明快である。いわば知足の精神に似た心構えが賞揚される。

D「大多数の人が自分たちの境遇に満足することである。……自分たちはより多く持つ権利をもたないのだと納得することである」。(Soc 226: 233頁)

そのためには「諸個人がその優位性を認め,自発的にそれに従い,自分たちにたいして命令する権利」をもつ集合力 forces collectives,道徳力 force moraleが必要である。今日,その道徳力はどこに存するか。「それは職業集団もしくは同業組合である」(Soc 229: 236頁)

ここから,組織内における自由の極大化をめざす「フーリエ主義およびプルードンの相互主義」にたいしても批判が向けられることになる。デュルケムはこれら「アナーキーな傾向」をもつ社会主義派(Soc 44: 25頁)について,その志を評価しながらも,個性のとらえ方の誤りをつく。

プルードンは『19世紀における革命の一般理念』(1851年)において「最良のアソシアシオン」のあり方をこう説明している。「アソシアシオンはけっして経済力ではない。それはもっぱら一つの精神的絆」である。そして,最良のアソシアシオンとは「団結の利点すべてを失わないようにしながら,結社員が自らの自立性を享受する」もの,「自由が最大で献身が最小」のものでなければならない。このプルードンの言い方では,ふつうのアソシアシオンは各人の自由を損ないがちで,構成員にしばしば自己犠牲を求めるものであるかのようである。つまり,集合性は個性を抑制する,と読めてしまう(Idee 105-106頁)。デュルケムはそのように読み,プルードンのうちに功利主義者と同様の錯誤を認めるのである。

7:36 午前  
Blogger yoji said...


デュルケムによれば,集合生活こそが個性を育む。「分業の本質はこれまで共有だった諸機能をわかちあうことにある」から,集合生活が深まるにつれ機能の専門分化が進行し,ここから各自の個性が育っていく。「個性は社会の産物」であり,「個性は既存の社会環境のなかで彫琢されるのだから,それは必然的にこの社会環境の特徴を帯びる。……個性は集団的秩序から自由でありながら,いぜんとしてこれに順応する」(Div 260-264: 266-269頁)。

1896~97年の講義(『社会学講義』として刊行)では,職業道徳の形成に触れながら,デュルケムは同業組合の必要性を説く。

すなわち,集団の規律といえばすぐに軍隊的な組織を想起するのは皮相な見方にすぎない。集団の規律とは「同一の対象への共同の愛着を規範の形で表現」したものなのだ。「集合的規律は,各個人の生活だけでなく,かれらの心情にもとづく共同生活の総括であると同時にその条件でもある」。とすれば経済生活においては職業集団こそが個人の成長をささえる最良の道徳的環境ということになる。「私が同業組合体制が必要不可欠だと考えるのは,経済的理由によるのではなく,道徳的理由によるのである。つまり,それだけが経済生活の道徳化を可能にするからである」(Lec 66-67: 62-63頁)。

3.同業組合の機能

デュルケムも自覚しているように,職業集団 groupes professionnelles はよいとしても同業組合 corporations といえば中世ギルドを想起させ,過去への後戻りを求めているかのような誤解をまねきやすい。それでもなおデュルケムがこの用語を好むのは組合 syndicats では集団の機能,すなわち道徳力が十全に発揮されないと思われるからである。『社会分業論』の第2版序文(1902年)はそれを説明する。

デュルケムはいう。「雇主と労働者とは……それぞれその力に優劣こそあれ,自立的な二つの国家と同じ状況なのだ」。そこにおける「闘争を解決するのは,つねに弱肉強食の法則であって,戦闘状態は完全に生きつづける」(Div VII 6頁)。いずれの側においても,組合は「私的な結合であって,法的権威もなければ,どんな規制力もない」(Div VII: 5頁)ためにこういうことが起こる。したがって,同一職業内の諸個人によって形成される集団を,公的に制度化する必要がある。「ひとたび集団が形成されるや,そこから道徳生活が姿をあらわしてくる」(Div XVI: 12頁)。職業集団をつくれば,いわば事物の力により必然的に徳化,すなわち一般的利害にたいする個別利害の従属がすすむはずだ。

さらに同業組合は,家族も地域社会も宗教社会も及ばぬ重要な機能をはたす。それは国家と個人のあいだに介在する第二次的集団として,国家の権力から個人を守る。この第二次的集団としては同業組合ほど適したものはない。それは個人の近くに存在し,経済生活で個人のあらゆる要求を感じとり,少なくとも家族と同じ永続性をもっているからである(Div XXXVI: 27頁)。

デュルケムは,外面的な進歩や繁栄のかげで人々の心が蝕まれている現在の状態を,まさしく「病弊」ととらえる。進歩を善とし,物質的な豊かさを幸福と結びつける風潮にたいし,デュルケムはアノミーという概念を用いてその虚妄をつく。1897年の『自殺論』の「アノミー的自殺」の章は,欲望の肥大化に歯止めをかけるものがなく,あきらめることが許されなくなった社会での生きづらさを繰り返し語る。

D「万国博覧会[の成功]は……社会の繁栄を増すとされている。……しかし,自殺率の著しい増加によって,その成功がけっきょくは帳消しにされてしまう……。それはとくに1878年の博覧会のさいに起こったようにみえたことである」(Sui 268-269: 297頁)
「貧困が自殺を防止する。……貧しければ貧しいほど,それだけ人は,自分の欲求の範囲を際限もなくひろげようとはしないものである。……反対に,豊かさは,それが与える力から,自分の力でなんでもできるという幻想をいだかせる」(Sui 282: 312頁)
「人びとをとらえる狂気じみた焦燥は,あきらめとはほど遠い感情である。……社会はそれに慣れてしまい,むしろ常態とみなす習わしになっている。……ともかく進歩を,それも可能なかぎり急速な進歩を強調する説が,ひとつの信仰箇条となってしまった」(Sui 286: 317頁)

『自殺論』の末尾で示される「実践的な結論」も同業組合の必要性である。デュルケムは,社会の「病弊」を除くためにぜひとも同業組合の再建が必要だと訴える。

D「事実,アノミーは,社会のある部分において,集合的な力,すなわち社会生活を規制すべく構成された集団の欠如が起こることによって生まれる。……同業組合のおもな役割は……社会的機能,わけても経済的機能に規制をくわえ,要するに現におちいっている無秩序状態からそれらを脱却させることにある」(Sui 440: 491頁)。

しかし,この主張はたしかに資本家と労働者の協調を呼びかけているように読めてしまう。労働運動の側から厳しく批判されたのは当然である。デュルケムはブルジョワ側にくみする者とみなされ,保守主義者あるいは反動と規定された。ジョルジュ・ソレルもデュルケムを「社会主義の最大の敵」(TD 2)というが,その手ごわさにたいしては畏敬の念も示す。したがって,ソレルによるデュルケム評は多少屈折したものとなる。

7:36 午前  
Blogger yoji said...

4.ソレルのデュルケム批判

ソレルは1892年に44才で土木局をやめてからパリに住む。ソルボンヌに出入りして,当時流行しはじめた「社会学」の知識吸収にいそしんでいるから,1893年にそこで開かれたデュルケムの学位論文『社会分業論』の公開審査も傍聴しただろう(Portis 1982: 12)。そして,1895年にデュルケムの『社会学的方法の規準』が出るやすぐさま批判論文「デュルケム氏の諸理論」を書く。社会主義評論誌『社会生成』創刊号(1895年4月)の巻頭に掲載される。(同年の5月号に後半部が掲載)

この論文で,ソレルはまずデュルケムがかなりの難敵であることを正直に認める。ソレルはデュルケムを評して,自由主義経済学の強烈な批判者であること,きわめて進歩的な精神で問題にアプローチしていること,公正な経済とともに人々の知的成長と道徳の向上を求めていること,などを挙げる。デュルケムは「たぐいまれな英知をそなえる思索者であると同時に,闘うために完全武装した学者」(TD 2)と見なされる。

世間的・通俗的には,こけおどしのビッグワードを連ねたり,あれこれ数字を並べると,いかにも科学っぽく見える。内容が理解しがたく,わかりにくいほど,ありがたがられる。しかし,デュルケムはこうしたまがいものの科学とまったく無縁の人である,とソレルはいう。これはほとんど讃辞に近い。

スペンサーが子どもじみた仮説を唱えるのにたいし,デュルケムの理論はまさしく現実に立脚している,とまでいう。ところが,その現実の分析から,本当ならばいやおうなしに社会闘争の重要性が見えてくるはずなのに,なぜかデュルケムはここへ来ると掘り下げが弱くなる。すなわち,分業の理論から階級の理論が出てこない。それがソレルによる第一の批判点となる。

ソレルは『規準』から次の個所を引用する。「社会の密度の増大による闘争 la lutte のいっそうの激化のため,専門化されていない職務に依然としてたずさわっていた個人がこれに生き残ることがいよいよ困難になったという事実」(Reg. 186: 193頁。ちなみに,この文中の「闘争」は宮島喬訳では「競争」)。しかし,とソレルは反駁する。闘争の激化は社会の密度が増大したことの結果なのであろうか。

S「社会主義はこのプロセスの研究に,社会学者たち les sociologistes がシステマチックに黙殺しているひとつのファクターをもちこむ。すなわち,分業と階級分化の不可分性である。階級は闘争のために形成され,デュルケム氏が語るものとはまったく異なる力を分業にもたらし,分業のあり方に大きな影響をおよぼす。われわれは,階級闘争の理論によって本当の歴史のプロセスをたどることができるのである。その点,デュルケム氏の説は図式的で単なる理屈にすぎない」(TD 24)

デュルケムは当時盛り上がり始めた労働組合の運動(サンディカリスムの胚胎)に期待せず,むしろ否定的な立場をとった。目標をかかげて前進するという闘争の図柄に賛同できないからである。デュルケムはいう。「歴史は明瞭にあるいは漠然と感じられている目的をめざして発達をとげる,というの[……]は事実に反している」(Reg. 187: 195頁)。社会の変動を諸個人の意欲とか欲望によって説明してはならない。「社会学は,たんなる心理学の系ではないのである」(Reg. 194: 205頁)
ソレルはここで猛反発する。

S「社会主義者が目的を掲げるとき,あれこれの幻想にも,集団精神の叫びにも,その他,社会学的なたわごとにも無縁でいられるのは,階級の理論のおかげである。具体的な社会生活のなかで活動する集団としてまとまっている生身の人間,社会主義者の関心はここにある。社会主義者はそこから心理学研究にも新しい道を開き,さらにはこれが社会学研究に大きな貢献をもたらす。[……]こうして正しいポジションをえた心理学は,社会学をより説得力のあるものにする材料の供給源となる」(TD 24)

ここから批判の第二点に移る。それは,デュルケムにあっては人間の意志の力が認められていない点である。たしかにデュルケムはいう:「社会的事実の決定原因は,個人意識の諸状態ではなく,それに先立って存在していた社会的事実のうちに探求されなければならない」(R夙 202: 218頁)。

ソレルは反発する。いわく,観念の力をバカにしてはいけない。人権の思想がよい例だ。人権はひとつの仮説にすぎないのに,多くの人がそれを信じれば現実において強大な力を発揮してきたではないか(TD 162)。

S「われわれが社会科学に求めるべきは,革命的な勢力の進化とその強大さをわれわれに認識させてくれることである。かつては,科学的な理論に敬意が払われ,ひとびとは未来についての科学的な仮説を求めた。われわれは違う。われわれが描きうる未来像は《不確定な》ものでしかない。それも芸術家のイマジネーションでしか語りえないものなのである」(TD 163)
「われわれは現在についての厳密な認識を追求するが,未来についてはそれを科学的な体裁で扱うのを拒否する。[……]これが唯物論的な社会学理論の結論である」(ibid.)

社会革命をひとつのポエジーと見,革命の未来像を具体的に描くことを戒めたのは,共産主義者マルクスにほかならない。ソレルはマルクスのそうした言葉を引用しつつ,人間の意志の力を賞揚した。ソレルは1908年の『暴力論』で,自説をさらに発展させ,革命的な個人主義にまで近づく。

S「戦いは,自己の情熱のうちから自己の行為の動機をくみだす個人によって遂行される,英雄的武勲の積み重ね」(RV 372:下164頁)。
「総罷業 la greve generale に熱中した労働者集団……は,実際,革命を,人々がなお個人主義的と称しうる一つの巨大な蜂起と想定する」(RV 374-375:下167頁)。

5.デュルケムとソレルの近さ

たしかに,階級理論や心理学批判の点で,ソレルとデュルケムは正反対の立場のように見える。しかし,それぞれの社会学の鍵概念,すなわちソレルにおける「神話」mytheとデュルケムにおける「集合的沸騰」effervescence collectiveでとらえなおすと,両者の見かけ上の矛盾は解消する。

ここではまずソレルの「神話」から見ていこう。ソレルは『暴力論』の序文で,「神話」をこう定義する。

S「諸々の大社会運動に参加する人々は,彼らの将来の行動をば彼らの主張の勝利を確保する戦いという形象 image の形で心に描いている……。私はこれらの構図 construction を神話と呼ぶ」(RV 34:上48頁)

さらにソレルはプルードンを引用しつつ,人間の尊厳を断固として防衛すべく覚悟すること,そこにこそ正義がある,といい,人を闘争へとつきうごかすのは科学あるいは理性でなく,道徳的な確信だ,という。

S「神話は,じっさい,ある集団の信念に一致しているものであり,……それは論駁され得ないものである」(RV 46-47:上63-63頁)

迫害者に対する殉教者の闘いを例に,「この道徳的な確信は……人間たちがそれに参加することをうけいれる,そして確実な神話として表現される,ある戦時状態に依存する」(RV 319:下110頁)と説明する。

すなわち,最高の理想のための闘争へ非打算的に身を投じること,これこそが最も崇高な営みであり,生きるにあたいすることがらなのである。

抑圧された階級であるプロレタリアートは,ゼネラル・ストライキ(いわゆるゼネスト,総罷業)によって自らの存在価値を表現するばかりでなく,集団の闘争をとおして自らを成長させ,社会そのものを倫理的に高め,生きるにあたいする美しいものに変える。ソレルはゼネストの「神話」について,こう解説している。

S「罷業は,プロレタリアートのうちに,彼らのもつ最も高貴な,最も深刻な,そして最も動的な感情を発生させた。……われわれは,こうして,言語が完全に明確に伝え得ない,あの社会主義の直感を獲得する」(RV 182:上204頁)

ソレルは総罷業を唱える革命的サンディカリスムのなかに「大きな教育力」(RV 377:下169頁)を見る。

デュルケムも同じく,集合性がもたらす倫理の高揚に注目しながら,それを説明するさいに「集合的沸騰」という概念を用いる。デュルケムも社会の凝集力を宗教的な現象と見,『宗教生活の原初形態』(1912年)で「集合的沸騰」をこう説明する。

7:40 午前  
Blogger yoji said...

D「ひとたび諸個人が集合すると,その接近から一種の電力が放たれ,これがただちに彼らを異常な激動の段階へ移すのである」(For 380:上389頁)

集合生活に入った個人は,そのなかで集合的理想を学びとり,「崇高」なものをめざす欲求を我がものとする。デュルケムはすでに(1890年代の終わり頃の社会学講義のなかで)「社会生活とは,何よりも同一の目的に向かう人びとの努力が調和する共同態 communaute,精神と意志の融合態 communion である」(Lec 55: 50頁)と述べている。また,われわれは彼がソレルの「神話」概念から何かを学んだという証拠を示すこともできない(註3)。したがって,デュルケムの「集合的沸騰」の概念は彼の学説の内的な発展の成果にほかならないともいえよう。われわれは,それぞれの概念を眺めれば,両者のあいだに隔たりよりもむしろ類縁性を強く感じるのである。

『原初形態』の結論の部分で,デュルケムは人が非合理性につき動かされること,非合理的なるがゆえ活動の躍動感,そうしたものの大切さを認めている。

D「信仰とは,何にもまして,行動しようとする飛躍であり,しかも,科学はどれほど押し進められても,常に行動からは離れている……。科学は断片的で,不完全である。……ところが,生活は待っていることができない」(Lec 715: 348頁)

しかも,デュルケムは,「集合的理想が個人のうちに化身して,個人化し……自律的な活動の源泉となる」(For 704:下335頁)とまで述べるにいたる。もちろん,デュルケムは個人がいだく理想もじつは集合生活のなかで育まれたものであるとして,個性が集合性からの産物であることを一貫して強調してはいる。しかし,個性が集合性を脱して自律的な活動を始めることを認めるとき,デュルケムはソレルが『暴力論』で主張した個人主義的な社会主義のごく間近なところにいる。もはや両者の隔たりはほとんどないとさえいえよう。

じっさい,ソレルによる「デュルケム批判」の結論は,デュルケムの胆力の欠如を嘆くというものであった。進むべき道の半ばで立ち止まり,あえて先に進もうとしないことへのいらだち,強力な味方になるべき者が敵方に与しようとしていることへの反感が行間にあふれている。少し長いが,その結論部分を最後に引用して,本稿をしめくくりたい。

S「デュルケム……は研究をおしすすめ,社会主義に入り込むギリギリのところまで来てしまった。私が思うに,彼は自分の大胆さに何度もおびえ,そのまままっすぐ進めば,自分の考えをきちんと形にできたはずなのに,そうしなかった。
はたしてデュルケムはそれまでの自分の立場を乗り越えようとするだろうか。もし,そうすれば,いやでもマルクスから階級の概念を借用せざるをえまい。そして,おそらくそのとき彼は,彼とわれわれとを分かつ境界線を完全に踏み越えてしまうだろう。社会哲学にとっては幸せなことである。私はまっさきに彼を先生と呼んで歓迎しよう。マルクスの理論を高等教育の場できちんと論じられるような学者は彼以外にはいない。なぜなら,彼のみが,歴史の変動のなかに科学的な法則と変化の物質的な条件をつかみとれる哲学的素養としっかりした批判精神をそなえた,唯一のフランス人社会学者だからである」(TD 179-180)



1896年からの講義は「習俗と法の物理学」と題して行われるが,1950年にようやく刊行されたその講義録『社会学講義』を読むと,その主眼は自由主義経済学批判である。[戻る]
宮島喬[1987 : 7]によれば,「原子論的な方法的個人主義を批判し,諸要素の結合から生じる一種独特な sui generis な属性(今日のタームでいえば創発的特性と等価であろう)に注目し,これを組織的に考察していること」は,「デュルケムが当時の社会学理論のパラダイム革新の流れにたいして行った独自の寄与」のひとつである。
また,Keith SAWYER[2002]はデュルケムをことさら創発特性の理論家として強調してみせる。[戻る]
註3)デュルケムが1897年7月15日付でモースにあてた書簡には,「ソレルからまったくバカげた手紙をもらった」(Let 78)とある。このモースは,ソレルの編集する雑誌『社会生成』(1895年の創刊号の巻頭論文がソレルのデュルケム批判である)に,しばらく関わっており,書評などを寄せている(これについては,Let 63 の注を見よ)。したがって,デュルケムはソレルによる批判論文を読んでいる,と推察することはできる。[戻る]

参考文献
プルードン,デュルケム,ソレルからの引用には以下の略号を用いた。

PROUDHON, Pierre-Joseph

Sys
Systeme des contradictions Economiques, ou Philosophie de la misere (1846), Geneve, Slatkine,, 1982.
Idee
Idee generale de la revolution dans la 19e siecle. (1851), Geneve, Slatkine,, 1982. 陸井四郎他訳『19世紀における革命の一般理念』,三一書房,1971年。
Jus III
De la Justice dans la Revolution et dans l'Eglise (1858), t. 3, Geneve, Slatkine,, 1982.

7:40 午前  
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DURKHEIM, Emile

Div
De la division du travail social (1893), PUF, 1998. 田原音和訳『社会分業論』,青木書店,1971年。
Reg
Les regles de la methode sociologique (1895), Flammarion, 1988. 宮島喬訳『社会学的方法の規準』,岩波文庫,1978年。
Sui
Le Suicide (1897), PUF, 2002. 宮島喬訳『自殺論』,中公文庫,1985年
For
Les formes elementaires de la vie religieuse (1912), Le Livre de Poche, 1991. 古野清人訳『宗教生活の原初形態』,岩波文庫(上下),1975年
Soc
Le socialisme (1928), PUF, 1992. 森博訳『社会主義およびサン・シモン』,恒星社厚生閣,1977年。
Lec
Lecons de sociologie (1950), PUF, 1990. 宮島喬・川喜多喬訳『社会学講義』,みすず書房,1974年。
SSA
Le science social et l'action, PUF, 1970. 佐々木交賢・中嶋明勲訳『社会科学と行動』,恒星社厚生閣,1988年。
Let
Lettres a Marcel Mauss, PUF, 1998.

SOREL, Georges

TD
"Les Theories de M.Durkheim", Le Devenir Social, vol.1, avril-mai, 1895.
RV
Reflexions sur la violence, Paris, Riviere, 1908 (4e ed. 1919). 木下半治訳『暴力論』,岩波文庫(上下),1965年。

その他の参考文献

アロン, レイモン, 1967, 北川隆吉他訳『社会学的思考の流れ II』,法政大学出版局,1984年。
BESNARD, Philippe et al. (dir), 1993, Division du travail et lien social, La these de Durkheim un siecle apres, Paris, PUF.
BORLANDI, Massimo et al. (dir), 1995, La sociologie et sa methode, Les Regles de Durkheim un siecle apres, Paris, L'Harmattan.
DOCKES, Pierre et al. (dir), 2000, Les traditions eonomiques francais 1848-1939, Paris, CNRS Edition.
ギデンス, アントニー, 1971, 犬塚先訳『資本主義と近代社会理論』,研究社,1974年。
浜口晴彦, 1989, 『社会学者の肖像』,勁草書房。
稲井誠, 2001, 「《Economie Sociale》を巡って」『大阪市大論集』第100号,pp. 25-52。
中久郎, 1979, 『デュルケームの社会理論』,創文社。
中島道男, 1997, 『デュルケムの〈制度〉理論』,恒星社厚生閣。
宮島喬, 1987, 『デュルケム理論と現代』,東京大学出版会。
PERRU, Olivier, 2000, "Pour une epistemologie du concept d'association chez Emile Durkheim et chez Max Weber", Philosophique 27/2.
PORTIS, Larry, 1982, Georges Sorel, edition en langue francaise, Paris, Maspero.
ROLLAND, Patrice, 1989, "La reference proudhonienne chez Georges Sorel", Mil neuf cent, Cahiers Georges Sorel, no. 7.
佐々木交賢, 1978, 『デュルケーム社会学研究』,恒星社厚生閣。
SAWYER, R. Keith, 2002, "Durkheim's Dilemma: Toward a Sociology of Emergence" ,Sociological Theory (American Sociological Association), 20:2.

7:41 午前  
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デュルケム
宗教生活の原初形態
上298

集合的トーテミズムと
個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる

フレーザー経由のこの概念が吉本へ受け継がれたのだろう

7:04 午後  
Blogger yoji said...

マクルーハンやレヴィストロースは文化をホットとクールに分けた
ケネス・クラークはワイセツ感覚なヌードとネイキッドを区別した
>感覚と感情の関係はいかに?てのはある 分けて考えるべき

『発生的感性論―子ども、プリミティブなレベルから』
Genetic(科学的) aesthetics(笑)

9:38 午前  
Blogger yoji said...

デュルケムの『宗教生活の原初形態』(岩波文庫上298)で、集合的トーテミズムと
個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる。

フレーザー経由のこの概念が吉本へ受け継がれたのだろう。

レビストロースの構造主義を数学的に再検証する必要は依然あるが、この辺りの教養が
空洞化しているのが気がかりだ。

7:27 午前  
Blogger yoji said...


デュルケムの『宗教生活の原初形態』(岩波文庫上298)で、集合的トーテミズムと
個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる。
(clan totem, sex totem, individual totem)
フレーザー経由のこの概念が吉本の共同幻想論へ受け継がれたのだろう。

レヴィ・ストロースの構造主義を数学的に再検証する必要は依然あるが、この辺りの教養が
空洞化しているのが気がかりだ。
ちなみにデュルケムが参照したフレイザーの『トーテミズム』に邦訳は今のところまだない。

7:36 午前  
Blogger yoji said...



デュルケム『宗教生活の原初形態』岩波上298では、
集合的トーテミズムと個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる。

フレイザー経由のこの概念が対幻想として吉本へ受け継がれたのだろう。

参考:
フレイザー『トーテミズム』(未邦訳?)
Sir James George Frazer Totemism(1887 全96頁)
http://www.masseiana.org/totemism.htm#2
原書2頁に clan totem, sex totem, individual totem
の分類がある。

8:27 午後  
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【社会】後絶たぬ鉄道自殺 ホームドア普及でも歯止めかからず
1 :幽斎 ★@転載禁止:2014/05/11(日) 12:41:35.62 ID:???0
後絶たぬ鉄道自殺 ホームドア普及でも歯止めかからず
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140511/dst14051110010004-n1.htm

 ホームからの飛び込みなどによる鉄道での自殺が後を絶たない。
国土交通省によると、平成24年度は全国で631件(30分以上の遅延などを生じる)
で前年より30件も増えた。自殺の抑止効果もあるとされるホームドアの普及も進むが、
歯止めがかからない状態だという。「根本的な策は見えない」。鉄道関係者らは頭を痛めている。

 今月8日午前、首都圏の鉄道担当者は人身事故の一報に時計を確認し、
思わずため息をついた。事故が起きたのは埼玉県ふじみ野市の東武東上線踏切。
男性が遮断機をくぐり抜け準急電車にはねれ、死亡した。自殺とみられるという。
午前10時28分。「以前は影響の大きくなるラッシュ近辺の自殺はなかった。
最近は一般論も通用しないくらい頻繁に起きる」(担当者)

 国交省によると、輸送障害のうち、自然災害や車両故障など鉄道会社内部の要因を除いた、
自殺を含む「部外要因」の件数は増加傾向にある。平成4年度は636件だったが、
14年度は1096件。24年度は2千件を突破し、2231件に達した。

増え続ける事故に、小田急電鉄は飛び込みの多い駅や踏切に、自殺の抑止効果が
高い青色LED照明を取り入れた。乗務員の巡回も強化している。
 東京メトロは、ホームドアの普及を進める。21年度は南北線や丸ノ内線の一部だけだったが、
24年度は全179駅の半分程度の84駅まで拡大。自殺を含む人身事故は、
ほぼ半減の7件まで減ったという。担当者は「転落防止が目的だが、自殺の抑止にも効果がある」とみている。
 24年度の自殺が231件と前年より16件増えたJR東日本は今月10日に御徒町駅にホームドアを設置、
東急電鉄も昨年、中目黒駅などに増やした。鉄道各社は整備を加速させる。
ただ、各社とも「無理にホームドアを乗り越えるケースは防げず、自殺を抑える決定打にはならない」と口をそろえる。
 最近では首都圏などで相互乗り入れが進み、いったん事故が起きると、社の垣根を越え影響が広範囲に及ぶ傾向も出ている。
 8日の東武東上線の人身事故でも東京メトロは有楽町線や副都心線への同線からの乗り入れを一時中止した。
「大勢に負担をかけることを考えてほしい」。担当者は訴えている。

3:19 午前  

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