http://www.freeassociations.org/
☆
ゴータ綱領批判(ゴータこうりょうひはん、独:Kritik des Gothaer Programms、英:Critique of the Gotha Program)は、1875年5月にカール・マルクスが、ドイツ社会民主主義運動の中でマルクスやフリードリヒ・エンゲルスに近い、「アイゼナハ派」に書いた手紙を中心とした文書である。
1875年にザクセン=コーブルク=ゴータ公国のゴータで、アウグスト・ベーベルらのドイツ社会民主労働党(いわゆる「アイゼナハ派」)が会議を開いて、フェルディナント・ラッサールらの全ドイツ労働者協会(「ラサール派」)との合同・統一党結成を決定した。アイゼナハ派は統一党のための綱領草案をマルクスに送りコメントを求めたが、ラッサールの理論による否定的な影響をマルクスは見出し、ラサール派を政府への譲歩のために労働者運動の要望を制限しようと意図する日和見主義者とみなしていた。綱領案に対するコメントとしてマルクスは「ドイツ労働者党綱領評注」を送付したが、マルクスの文書は公表されぬまま同年5月の後半にゴータでアイゼナハ・ラサール両派の会議が開かれ、綱領草案はわずかな修正のみで可決し統一党としてドイツ社会民主党が結党された。
「ゴータ綱領批判」は長く、マルクスの最も詳細な革命戦略の組織論の宣言であり、「プロレタリア独裁」 や、資本主義から共産主義への過渡期や、プロレタリア国際主義や労働者階級の政党について議論した文書であるとされてきた。
この文書はまた、資本主義からの移行の直後の共産主義社会の低い段階では「各人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、そして将来の共産主義社会の高い段階では「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(本来はルイ・ブランに由来する表現)などの、のちにスターリンが定式化した〈原則〉である二段階発展論を明示した文書と読まれてきた。低い段階での記述では「個人は社会から、与えただけ正確に受け取る」と述べている。また、資本主義社会から社会主義社会への過渡期における国家をプロレタリア独裁とした。この「ゴータ綱領批判」は、彼の死後に出版され、マルクスの最後の主要文書の一つとなった。
この手紙は、かなり後の1891年、ドイツ社会民主党が新綱領であるエルフルト綱領の採用の意向を宣言した際に、これを批判したエンゲルスが、公開し出版した。またエンゲルスはエルフルト綱領批判を書いて出版した。
《労働者たち自身の協回組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の
突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度の
あらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、
資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、
ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段
を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしか
ないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会
的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産
様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる
工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式
から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本
主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなして
いるのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん
拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式大企業も、協同組合
工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであっ
て、ただ、一方では 対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。》
(『資本論』第三巻27章「資本主義的生産における信用の役割」、大月文庫第7巻227−8頁)
マルクスの推奨する協同組合は生産レベルでの分配を意味する。
マルクスは株式会社も評価しているがその場合、税制と再分配の問題は残る。
yojisekimoto
anemone1423
六 を読めばわかるのだが、マルクスの主眼は労働組合にあって、協同組合ではない。
両者の利益が背反するケースがある事など思いもよらない。
これはより包括的な協同組合論を書いた柳田国男も同じだ。
マルクス『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』五より
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post.html
六 を読めばわかるのだが、マルクスの主眼は労働組合にあって、協同組合ではない。
両者の利益が背反するケースがある事など思いもよらない。
これはより包括的な協同組合論を書いた柳田国男も同じだ。
マルクス・レーニン主義
民主集中制
もともとは「分派結成の自由」も含めた異論の表明は保障するが、少数は多数の「決定」に従わなければならない、とする組織原則。ボルシェビキは、17年革命以前は分派結成の自由を保障していた。革命後の内戦・帝国列強のロシア侵入に対する戦争の中で「指導部の指導力」を強める必要から、ロシア共産党は1921年に一時的な措置として「分派の結成」を禁止した。スターリンは、レーニンの死後、「党は討論クラブではない」として、「分派の禁止」を「民主集中制の原則」にまで高めた。以後、第二次大戦後も各国共産党は、「分派を禁止する一枚岩の組織原則としての民主集中制」を保持し続けた。それは党内討論よりも指導部による方針の上意下達を優先する、各国の共産党を例外なく蝕んだ「組織内官僚主義」の組織論的根拠となったと言えよう。(民主集中制の組織原則は党の方針について、全党的な議論をする、多数決によって決定された方針の正誤は、全党の実践を通じて検証するという組織原則である。民主集中制の組織原則を乱暴に破壊したのはスターリンであるとされる。スターリンはレーニン死後、指導部の90%余りの幹部を弾圧して独裁体制をつくりあげた。)
一国一前衛党論
レーニンは第三インターナショナル(コミンテルン)結成に際して、「支部承認」を求める組織に「社会民主主義からの訣別の証」として「(国名)共産党・共産主義インターナショナル支部」と名乗ることを義務付けた。また、一国で複数の共産主義組織の加入申請があった場合はどれか一つ、もしくは組織の統一をさせたうえで支部承認した。しかし、初期のコミンテルンは「一国一支部」を原則としながらも、「コミンテルン支部以外の共産主義組織」を「イコール敵対者」と定義していたわけではない。ドイツ共産党(KPD)から分裂したドイツ共産主義労働者党(KAPD)も、コミンテルンのシンパ支部として受け入れられた。このコミンテルンの原則を「統一した党は革命の司令部であり、司令部がいくつもあったら命令指揮系統が混乱する」とする「一国一前衛党論」として「原則」にまで高めたのはスターリンである。その結果、スターリン指導下のコミンテルンによる「一国一前衛党論」は、各国支部以外の共産主義組織に対して「反革命トロツキスト」(それは必ずしもトロツキー派の組織ではなくてもレッテルを貼って攻撃した)などと激しく攻撃する「セクト主義」の論理として機能していくことになる。コミンテルンに対抗して1938年に結成されたレフ・トロツキーの第四インターナショナルも「一国一支部の承認」を原則としているが、自派以外の共産主義組織の存在を認める「複数主義」の立場をとっている。
コミンテルン
共産主義インターナショナル
(第三インターナショナル)
略称 コミンテルン
前身 第二インターナショナル
後継 コミンフォルム
設立年 1919年3月2日
廃止年 1943年5月15日
種類 共産主義政党の国際組織
目的 共産主義
マルクス・レーニン主義
メンバー 388(1922年 第4回大会)
設立者 ウラジーミル・レーニン
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共産主義
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関連項目[表示]
表・話・編・歴
コミンテルン(ロシア語: Коминтерн、カミンテールン、ラテン文字転写例:Komintern、英語: Comintern)は、1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織である。別名第三インターナショナル。
「コミンテルン」とは正式名称の「共産主義インターナショナル」(ロシア語: Коммунистический Интернационал、コムニスチーチェスキイ・インテルナツィオナール、英語: Communist International)の略称。
1919年3月に結成され、1935年までに7回の大会を開催した。第七回大会には65ヶ国の党と国際組織の代表が出席した[1]。前身の組織として第一インターナショナル、第二インターナショナルが存在する。
マルクス・レーニン主義
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この項目では、マルクス・レーニン主義のうち、おもにレーニンの独自な理論について記述しています。マルクス主義については「マルクス主義」をご覧ください。
共産主義
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側面[表示]
潮流[表示]
国際組織[表示]
人物[表示]
関連項目[表示]
表・話・編・歴
マルクス・レーニン主義(マルクス・レーニンしゅぎ)とは、マルクス主義の一つの潮流であり、〈ロシア革命の指導理念としてボリシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンが案出したもの、またそれを一般化・普遍化した思想〉である。
目次 [非表示]
1 理論
1.1 世界認識、経済学、社会主義論
1.2 戦略論
1.3 前衛党論
2 関連項目
3 参考文献
理論[編集]
世界認識、経済学、社会主義論[編集]
マルクス主義を参照。
帝国主義論
資本主義は、資源と労働力と市場の確保のため、植民地争奪戦争を必然化するとする。
戦略論[編集]
プロレタリア独裁
革命後、全ての生産手段が社会化される共産主義に至るまでの時期には、反革命勢力となるブルジョワジーが残存しており、革命勢力であるプロレタリアートは奪った権力を行使して、これを抑圧しなければならないとする。後にスターリンはマルクス・レーニン主義を定式化するにあたり、レーニンにおいては共産主義に至る前段階であったプロレタリアート独裁期を社会主義であるとした。
レーニンにとって「独裁」とは、「直接に暴力に立脚し、どんな法律にも拘束されることのない権力」のことであった。(実際にはエスエル、メンシェビキその他の政党は、ソビエト体制下でもソビエトに参加していた。ところが反革命のテロ活動を行ったとして、レーニンはこれらの政党を禁止した。)そのため、レーニン直属のチェーカーなどの抑圧機関が無制限に国民の粛清を行った。チェーカーは1922年にGPUと改名して、スターリン時代も国民の大粛清を行った。これにより、元貴族や資産家、クラークばかりでなく、体制に反対した市民などが「人民の敵」として無制限に処刑され、他の共産圏でも踏襲された。
永続革命論
一国でプロレタリアートの政権が成立しても、目標を実現したことにはならず、目標は全世界で共産主義社会を実現することにあるとする世界革命論を発展させ、一国でのプロレタリアートの政権の成立はそれだけでは社会主義社会への移行には不十分で、特に後進国の場合、プロレタリアートの政権の維持そのもののために、他国での連続した革命が必須であり、それを可能にするためには最初からプロレタリアートが革命をリードする必要があり、また既に権力の奪取が成功した国では止むことのない改革が必要であるとした。レーニンは当初、二段階革命論を主張し、永続革命論を主張するトロツキーと対立していたが、帝政の崩壊後永続革命論の立場に転じ四月テーゼを発表した。一国社会主義を標榜するスターリンはマルクス・レーニン主義を定式化するときに永続革命論を否定したので、ソビエトでは継承発展されず、トロツキーの思想の系譜につながる人々やアントニオ・グラムシなど西欧のマルクス主義者が継承し、形を変えながらも発展させた。
帝国主義戦争の内乱への転化(革命的祖国敗北主義)
自国が帝国主義戦争を起こすに至ったら、労働者は自国の戦争での勝利のために闘うのではなく、戦争に乗じて階級闘争を激化させ現体制を打倒するために闘うべきだとした。レーニンはこのようにして第一次世界大戦時に革命を成功させ、ロシアを戦争から離脱させた。
前衛党論[編集]
レーニンは自らの党組織論をおおむね『何をなすべきか』(1902年)において記している。これは労働組合主義を「経済主義」と呼んで批判する論争的な著作である。
レーニンは革命の可能性について自然発生性よりも目的意識性を重視した。そのうえで革命への目的意識は外部からプロレタリアートに注入できるとも考え、革命理論はプロレタリアートの外側から知識人が持ち込むものと考えた(この点まではカール・カウツキーと一致している)。加えて、それゆえに実際の党組織と労働者組織は峻別されるべきだと考えた。これらの運動論・党組織論は次のように実践された。
職業革命家により構成される党
ドイツ社会民主党を範とするメンシェヴィキは、大衆に開かれた党を主張した。メンシェビキを率いるマルトフは、党の指導のもと、個人的に党活動に参加すべきであると考えていた。
しかし、「党員は党組織の一部を担う」べきだと主張しつづけていたレーニンは、大衆に開かれた党を官憲に開かれた党であるとした。そのうえで言論の自由のないロシアでは、革命党は職業革命家の党にならざるを得ないとした。のちに、これらの党専従活動家・党官僚がノーメンクラトゥーラと呼ばれる特権階級と化してしまうという皮肉が現出した。
六 を読めばわかるのだが、マルクスの主眼は労働組合にあって、協同組合ではない。
ラッセルが指摘したように両者の利益が背反するケースがある事など思いもよらない。
これはより包括的な協同組合論を書いた柳田国男も同じだ。
ラッセルが両者の利益が反する可能性を指摘していた
http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/1033.html
『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』より
五 協同組合運動(労働)
国際労働者協会の任務は、労働者階級の自然発生的な運動を結合し、普遍化することであって、なんであろうと、空論的な学説を
運動に指示したり押しつけたりすることではない。したがって、大会は特殊な協同組合制度を唱道すべきではなく、若干の一般原理
を明らかにするだけにとどめるべきである。
(イ)われわれは、協同組合運動が、階級敵対に基礎をおく現在の社会を改造する諸力のひとつであることを認める。この運動の大
きな功績は、資本に対する労働の隷属にもとずく、窮乏を生み出す現在の専制的制度を、自由で平等な生産者の連合社会という、福祉
をもたらす共和的制度とおきかえることが可能だということを、実地に証明する点にある。
(ロ)しかし、協同組合制度が、個々の賃金奴隷の個人的な努力によってつくりだされる程度の零細な形態に限られるかぎり、それ
は資本主義社会を改造することは決してできないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働の巨大な、調和ある一体系に転化する
ためには、全般的な社会的変化、社会の全般的条件の変化が必要である。この変化は、社会の組織された力、すなわち国家権力を、
資本家と地主の手から生産者自身の手に移す以外の方法では、決して実現することはできない。
(ハ)われわれは労働者に、協同組合商店よりは、むしろ協同組合生産にたずさわることを勧める。前者は現在の経済制度の表面に
ふれるだけであるが、後者はこの制度の土台を攻撃するのである。
(ニ)われわれは、実例と教導との双方によって、言いかえれば、新しい協同組合工場の設立を促進することと、また説明し説教する
ことの双方によって、協同組合の原理を宣伝するために、すべての協同組合がその協同収入の一部をさいて基金を作ることを勧告する。
(ホ)協同組合がふつうの中間的株式会社(societes par actions)に堕落するのを防ぐため、協同組合に働くすべての労働者
は、株主であってもなくても、平等の分けまえを受け取らなければならない。たんに一時的な便法として、低い率の利子を株主に支払う
ことには、われわれも同意する。
参考: 大月全集第16巻 189ページ 1866年8月末 ジ・インタナショナル・クリア 1867年2月20日 第6号・第7号
http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/1033.html
『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』より
五 協同組合運動(労働)
国際労働者協会の任務は、労働者階級の自然発生的な運動を結合し、普遍化することであって、なんであろうと、
空論的な学説を運動に指示したり押しつけたりすることではない。したがって、大会は特殊な協同組合制度を唱道
すべきではなく、若干の一般原理を明らかにするだけにとどめるべきである。
(イ)われわれは、協同組合運動が、階級敵対に基礎をおく現在の社会を改造する諸力のひとつであることを認
める。この運動の大きな功績は、資本に対する労働の隷属にもとずく、窮乏を生み出す現在の専制的制度を、自
由で平等な生産者の連合社会という、福祉をもたらす共和的制度とおきかえることが可能だということを、実地に
証明する点にある。
(ロ)しかし、協同組合制度が、個々の賃金奴隷の個人的な努力によってつくりだされる程度の零細な形態に限ら
れるかぎり、それは資本主義社会を改造することは決してできないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働の
巨大な、調和ある一体系に転化するためには、全般的な社会的変化、社会の全般的条件の変化が必要である。この
変化は、社会の組織された力、すなわち国家権力を、資本家と地主の手から生産者自身の手に移す以外の方法では、
決して実現することはできない。
(ハ)われわれは労働者に、協同組合商店よりは、むしろ協同組合生産にたずさわることを勧める。前者は現在の
経済制度の表面にふれるだけであるが、後者はこの制度の土台を攻撃するのである。
(ニ)われわれは、実例と教導との双方によって、言いかえれば、新しい協同組合工場の設立を促進することと、
また説明し説教することの双方によって、協同組合の原理を宣伝するために、すべての協同組合がその協同収入の一
部をさいて基金を作ることを勧告する。
(ホ)協同組合がふつうの中間的株式会社(societes par actions)に堕落するのを防ぐため、協同組合に
働くすべての労働者は、株主であってもなくても、平等の分けまえを受け取らなければならない。たんに一時的な
便法として、低い率の利子を株主に支払うことには、われわれも同意する。
参考: 大月全集第16巻 189ページ 1866年8月末 ジ・インタナショナル・クリア 1867年2月20日 第6号・第7号
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Marx%20Critique%20of%20Gothar%20Programms.htm
ドイツ労働者党綱領(ゴータ綱領)評注
◆労働論
G「労働はすべての富とすべての文化の源泉である。」(25)
M「労働はすべての富の源泉ではない。自然もまた労働と同じ程度に諸使用価値の源泉である。……人間があらゆる労働手段と労働対象との第一の源泉である自然に対し、はじめから所有者として関係を結び、それら労働手段と労働対象とを自分自身に属するものとして取り扱う場合にのみ、労働は諸使用価値の源泉となり、かくしてまた富の源泉ともなるのである。」(25-26)
G「効用を生む労働は、ただ社会のなかでのみ、また社会を通じてはじめて可能である。」
M「ただ社会のなかでのみ、効用ゼロの、公共に害をもたらすような労働も一個の生業部門となることができ、ただ社会のなかでのみ、何もせず生きていくことができる」(27-28)
G「今日の社会では、労働手段は資本家階級の独占物である。」(30)
M「今日の社会では、労働手段は土地所有者と資本家階級の独占物である。」
→ラサールは、土地所有者には目をつぶって資本家階級だけを攻撃した。(31)
◆社会主義における社会的総生産物の用途
・労働収益=労働の生産物=社会的総生産物とする。(33)
→ここからまず次のものを控除する。①消耗した生産手段を入れ換えるための補填部分、②生産を拡張するための追加部分、③事故や自然災害に備える基金。
→さらに、残りの部分が個人に分配される前に、その中から次のものが差し引かれる。
1)直接に生産に属さない一般的な行政費用。これは社会の発展とともに減少する。(34)
2)学校や衛生設備などのように、さまざまな欲求を共同で満たすためにあてられる部分。これは社会の発展とともに増大する。
3)労働不能者などのための基金。公共救貧事業のための基金。
◆共産主義社会の権利
・「ここで問題にしているのは、それ自身の基礎の上に発展した共産主義社会ではなくて、反対に、資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。」(35)
・「彼が社会に与えるものとは、彼の個人的労働量である。たとえば、社会的労働日は、個人的労働時間の総和からなる。……個々の生産者は……これこれの量の労働を給付したという証書を社会から受け取り、そしてこの証書をもって消費手段の社会的な蓄えのなかから、それとちょうど等しい量の労働が費やされている消費手段を引き出す。/ここで支配しているのは、商品交換――それが等価物の交換である限りで――を規制するのと明らかに同一の原則である。」(35-6)
→〈原則〉と〈法則〉の区別。
・「だから、平等な権利とは、ここでもまだやはり原則的には、ブルジョア的権利である。」(36)「生産者たちの権利は彼らの労働給付に比例しており、平等が、平等の尺度つまり労働で測られているのである。……ここでの平等な権利は、不平等な労働にとっての不平等な権利である。……それは労働者の不平等な個人的天分と、したがってまた不平等な給付能力を、生まれつきの特権として暗黙のうちに認めている。だからそれは、すべての権利と同様に、内容においては不平等の権利である。……彼らを同じ視点のもとに連れてきて、ある特定の一面からだけ捉える[からである]……。例えば以上の場合では、諸個人はただ労働者としてだけ考察され、労働者として以外の彼らの資質はいっさい認められず、ほかのすべてが無視される限りにおいてである。」(37)「これらすべての欠陥を避けるためには、権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう。」(38)
◆各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!
・「共産主義社会のより高次の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれて彼らの生産能力をも成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧き出るようになったのち――その時はじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏み越えられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(38)
□「各人にはその仕事(oeuvre)に応じて」:産業者に対する正当な利潤の要求(サン・シモン主義)。「各人にはその労働(travail)に応じて」:労働者こそが真の生産者であるとする(労働者雑誌『ラトリエ』)1841。「各人からはその才能(faculté)に応じて」:マルクスと類似の言い回し(ルイ・ブラン)1850
□形式的平等と実質的平等の区別:権利の平等かつ一面的/権利の不平等かつ多面的
・「資本主義的生産様式の基礎は、物象的な生産諸条件が資本所有と土地所有という形態で働かざる者たちに配分されている一方、大衆は人格的な生産条件つまり労働力の所有者でしかない。……物象的な生産諸条件が労働者たちの協同組合的所有であるならば、今日のそれとは違った消費手段の分配方式が生まれるであろう。」(39-40)
◆国家補助
G「ドイツ労働者党は、社会問題解決の道をひらくために、労働人民の民主的管理のもとにおかれ国家補助を受ける生産協同組合の設立を要求する。」(49)
M「現におこなわれている階級闘争の代わりに、『社会問題』という新聞記者的な決まり文句があらわれ、その『解決』の『道がひらかれる』わけだ。」
「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模で作り出そうとすることは、彼らが現在の生産諸条件の変革を目指して働くということにほかならず、国家補助を受けて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ。」(50)
◆国家の自由
・「国家を『自由』にすることが……労働者たちの目的であるはずがない。ドイツ帝国では、『国家』はロシアにおいてほとんど同じくらいに『自由』である。自由とは、国家を、社会の上位機関から社会の完全な下位機関に変えることにある。」(51)
◆国家制度と社会主義
・「国家制度は共産主義社会ではどんな変革をこうむるだろうか。そこでは現在の国家機能に似たどんな社会的機能が生き残るだろうか。この問題に答えうるのはただ科学的研究あるのみ……。」(53)
・「資本主義社会と共産主義社会のあいだには、前者から後者への革命的な転化の時期がある。この時期に照応してまた政治的な一過渡期がある。この過渡期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもあり得ない。」(53)
◆教育問題
G「ドイツ労働者党は、国家の精神的、道徳的基礎として次のことを要求する。1.国家による普通平等の国民教育。一般的就学義務。無料教育。」
M「教育がすべての階級にとって平等でありうるとでも信じているのであろうか。それとも、家計状態から見るかぎり賃金労働者だけでなく農民にとっても負担できる唯一の普通教育――つまり小学校の教育――の水準に、それより上層の諸階級の教育も強制的に引き下げなければならない、と要求するのか。/……合衆国のうち二、三の州では『より上級の』教育施設も『無料』になっているが、それは事実上、より上層の諸階級が自分たちの教育費を一般の税金から支弁することを意味するに過ぎない。……/学校に関するパラグラフでは、少なくとも小学校と結びついた工業学校(理論的および実際的な)を要求すべきであった。」(56-57)
◆最後の一文
・「われは語り、かくて我が魂を救えり(Dixi et salvavi animam mean)」:私はあらかじめ警告を発しておいた、それゆえ以降の事態については責任を負わない、という意味。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
全生産物のうち、消費手段として役立つように予定された他の部分が残っている。
個々人に分配される前に、その中からもう一度、次のものが差し引かれる。
First, the general costs of administration not belonging to production.
This part will, from the outset, be very considerably restricted in comparison with present-day society, and it diminishes in proportion as the new society develops.
Second, that which is intended for the common satisfaction of needs, such as schools, health services, etc.
From the outset, this part grows considerably in comparison with present-day society, and it grows in proportion as the new society develops.
Third, funds for those unable to work, etc., in short, for what is included under so-called official poor relief today.
第一に、直接に生産に属さない一般的な管理費用。
この部分は、現在の社会に比べると初めから極度に限られ、新しい社会が発展するのに対応して減少する。
第二に、学校、健康維持設備などのような、諸欲求を共同でみたすためにあてられる部分。
この部分は、現在の社会に比べると初めから著しく増大し、新しい社会が発展するのに対応して増加する。
第三に、労働不能なものなどのための、要するに、今日のいわゆる公的な貧民救済にあたることの為の基金。
Only now do we come to the "distribution" which the program, under Lassallean influence, alone has in view in its narrow fashion -- namely, to that part of the means of consumption which is divided among the individual producers of the co-operative society.
ここでようやく我々は、「分配」にたどり着く。綱領は、ラサール派の影響で、偏狭にもそれしか眼中においていないのだが、即ち、協働組合の個々の生産者達の間に分配される消費手段の部分にたどりつく。
国家社会主義批判でありながら結局国家社会主義でしかあり得ないマルクスのゴータ綱領批判。
税金がアポリアであり続けており、ゲゼルにしか解決策はない。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
全生産物のうち、消費手段として役立つように予定された他の部分が残っている。
個々人に分配される前に、その中からもう一度、次のものが差し引かれる。
第一に、直接に生産に属さない一般的な管理費用。
この部分は、現在の社会
に比べると初めから極度に限られ、新しい社会が発展するのに対応して減少する。
第二に、学校、健康維持設備などのような、諸欲求を共同でみたすためにあて
られる部分。
この部分は、現在の社会に比べると初めから著しく増大し、新しい社会が発展
するのに対応して増加する。
第三に、労働不能なものなどのための、要するに、今日のいわゆる公的な貧民
救済にあたることの為の基金。
ここでようやく我々は、「分配」にたどり着く。綱領は、ラサール派の影響で、
偏狭にもそれしか眼中においていないのだが、即ち、協働組合の個々の生産者達
の間に分配される消費手段の部分にたどりつく。
国家社会主義批判でありながら結局国家社会主義でしかあり得ないマルクスのゴータ綱領批判。
税金がアポリアであり続けており、ゲゼルにしか解決策はない。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
全生産物のうち、消費手段として役立つように予定された他の部分が残っている。
個々人に分配される前に、その中からもう一度、次のものが差し引かれる。
第一に、直接に生産に属さない一般的な管理費用。
この部分は、現在の社会に比べると初めから極度に限られ、新しい社会が発展するの
に対応して減少する。
第二に、学校、健康維持設備などのような、諸欲求を共同でみたすためにあて
られる部分。
この部分は、現在の社会に比べると初めから著しく増大し、新しい社会が発展
するのに対応して増加する。
第三に、労働不能なものなどのための、要するに、今日のいわゆる公的な貧民
救済にあたることの為の基金。
ここでようやく我々は、「分配」にたどり着く。綱領は、ラサール派の影響で、
偏狭にもそれしか眼中においていないのだが、即ち、協働組合の個々の生産者達
の間に分配される消費手段の部分にたどりつく。
国家社会主義批判でありながら結局国家社会主義でしかあり得ないマルクスのゴータ綱領批判。
税金がアポリアであり続けており、ゲゼルにしか解決策はない。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
全生産物のうち、消費手段として役立つように予定された他の部分が残っている。
個々人に分配される前に、その中からもう一度、次のものが差し引かれる。
第一に、直接に生産に属さない一般的な管理費用。
この部分は、現在の社会に比べると初めから極度に限られ、新しい社会が発展するの
に対応して減少する。
第二に、学校、健康維持設備などのような、諸欲求を共同でみたすためにあて
られる部分。
この部分は、現在の社会に比べると初めから著しく増大し、新しい社会が発展
するのに対応して増加する。
第三に、労働不能なものなどのための、要するに、今日のいわゆる公的な貧民
救済にあたることの為の基金。
ここでようやく我々は、「分配」にたどり着く。
国家社会主義批判でありながら結局国家社会主義でしかあり得ないマルクスの『ゴータ綱領批判』。
以降、税金がアポリアであり続けているが、ゲゼルマネーにしか解決策はない。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
全生産物のうち、消費手段として役立つように予定された他の部分が残っている。
個々人に分配される前に、その中からもう一度、次のものが差し引かれる。
第一に、直接に生産に属さない一般的な管理費用。
この部分は、現在の社会に比べると初めから極度に限られ、新しい社会が発展するの
に対応して減少する。
第二に、学校、健康維持設備などのような、諸欲求を共同でみたすためにあて
られる部分。
この部分は、現在の社会に比べると初めから著しく増大し、新しい社会が発展
するのに対応して増加する。
第三に、労働不能なものなどのための、要するに、今日のいわゆる公的な貧民
救済にあたることの為の基金。
ここでようやく我々は、「分配」にたどり着く。
国家社会主義批判でありながら結局国家社会主義でしかあり得ないマルクスの『ゴータ綱領批判』。
以降、税金がアポリアであり続けているが、ゲゼルマネーにしか解決策はない。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
全生産物のうち、消費手段として役立つように予定された他の部分が残っている。
個々人に分配される前に、その中からもう一度、次のものが差し引かれる。
第一に、直接に生産に属さない一般的な管理費用。
この部分は、現在の社会に比べると初めから極度に限られ、新しい社会が発展するの
に対応して減少する。
第二に、学校、健康維持設備などのような、諸欲求を共同でみたすためにあて
られる部分。
この部分は、現在の社会に比べると初めから著しく増大し、新しい社会が発展
するのに対応して増加する。
第三に、労働不能なものなどのための、要するに、今日のいわゆる公的な貧民
救済にあたることの為の基金。
ここでようやく我々は、「分配」にたどり着く。
国家社会主義批判でありながら結局国家社会主義でしかあり得ないマルクスの『ゴータ綱領批判』↓。
以降、税金がアポリアであり続けているが、ゲゼルマネーにしかその解決策はない。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
《全生産物のうち、消費手段として役立つように予定された他の部分が残っている。
個々人に分配される前に、その中からもう一度、次のものが差し引かれる。
第一に、直接に生産に属さない一般的な管理費用。
この部分は、現在の社会に比べると初めから極度に限られ、新しい社会が発展するの
に対応して減少する。
第二に、学校、健康維持設備などのような、諸欲求を共同でみたすためにあて
られる部分。
この部分は、現在の社会に比べると初めから著しく増大し、新しい社会が発展
するのに対応して増加する。
第三に、労働不能なものなどのための、要するに、今日のいわゆる公的な貧民
救済にあたることの為の基金。
ここでようやく我々は、「分配」にたどり着く。》
ゴータ綱領批判 □『マルクス=エンゲルス全集』 第一九巻、山辺健太郎訳、大月書店
《現在の体制がもつ諸弊害は、消費者、生産者、資本家、といういくつかの立場の利害が、分断されていることから派生している。これら三つの立場のいずれの一つをとってみても、その利害は共同社会全体の利害、あるいは他のどの立場の利害とも同じではない。生活協同組合の組織は、消費者と資本家の利害を融合させており、産業協同組合主義は、生産者と資本家の利害を融合させようとする。いずれも、さきの三つの利害をすべて融合させるものではなく、また産業を牛耳る人々の利害を、共同社会の利害にまったく同一化させようともしていない。したがってこの二者はいずれも、産業界の闘争をまったく防止しうるわけではなく、調停者としての国国家の必要性を、なくしてしまうわけでもない。しかしそのいずれにしても、現在の体制よりはましであって、おそらく両者のある折衷形態が、現存するままの工業生産体制がもつ諸弊害を、大部分、癒やすことになるであろう。》
ラッセル「社会改造の諸原理」第四章 財 産
◆原著まえがき
第一章 成長原理
第二章 国 家
第三章 制度としての戦争
第四章 財 産 第五章 教 育
第六章 結婚と人口問題
第七章 宗教と教会
第八章 われわれは何をなしうるか
《現在の体制がもつ諸弊害は、消費者、生産者、資本家、といういくつかの立場の利害が、分断されていることから派生している。これら三つの立場のいずれの一つをとってみても、その利害は共同社会全体の利害、あるいは他のどの立場の利害とも同じではない。生活協同組合(コオパラティヴ)の組織は、消費者と資本家の利害を融合させており、産業協同組合主義(サンディカリズム)は、生産者と資本家の利害を融合させようとする。いずれも、さきの三つの利害をすべて融合させるものではなく、また産業を牛耳る人々の利害を、共同社会の利害にまったく同一化させようともしていない。したがってこの二者はいずれも、産業界の闘争をまったく防止しうるわけではなく、調停者としての国国家の必要性を、なくしてしまうわけでもない。しかしそのいずれにしても、現在の体制よりはましであって、おそらく両者のある折衷形態が、現存するままの工業生産体制がもつ諸弊害を、大部分、癒やすことになるであろう。》
ラッセル「社会改造の諸原理」第四章 財 産
◆原著まえがき
第一章 成長原理
第二章 国 家
第三章 制度としての戦争
第四章 財 産
第五章 教 育
第六章 結婚と人口問題
第七章 宗教と教会
第八章 われわれは何をなしうるか
ゴータ
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
そして確かに、物質的富を成り立たせているものは使用価値である)、労働そのものが、人間の労働力という、自然力の現われに過ぎない。
世界史の構造30頁
「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模で作り出そうとすることは、彼らが現在の生産諸条件の変革を目指して働くということにほかならず、国家補助を受けて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ。」(50)
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
労働はあらゆる富の源泉ではない。
自然は、労働と丁度同じほど、使用価値の源泉であり(そして確かに、物質的富を成り立たせているものは使用価値である)、労働そのものが、人間の労働力という、自然力の現われに過ぎない。
先の決まり文句はどんな子供向け入門書で見受けられるものである。そして、労働がそれに必要な諸対象と諸手段とで遂行されていると仮定される限りで、正しい。
ゴータ綱領批判大月19:15
世界史の構造30頁参照
自然は、労働と丁度同じほど、使用価値の源泉であり(そして確かに、物質的富を成り立たせているものは使用価値である)、労働そのものが、人間の労働力という、自然力の現われに過ぎない。
マルクスの国家社会主義批判
一方、マルクスが絶対に受け入れなかったのは、ラッサールの「国家社会主義」でした。マルクス派とラッサール派が合同で作ったドイツ社会民主労働党の「ゴータ綱領」(一八七五年)についても、彼は、国家によってアソシエーション(生産者協同組合)を育成するというラッサールの考えを痛烈に批判しています。
労働者が協同組合的生産の諸条件を社会的規模で、まず最初は自国に国民的規模でつくりだそうとするのは、現在の生産諸条件の変革のために努力することにほかならず、国家の補助による協同組合の設立とはなんのかかわりもないものである! 今日の協同組合についていえば、それらは政府からもブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的につくりだしたものであるときに、はじめて価値をもっているのだ。(『ゴータ綱領草案批判』、山辺健太郎訳)
国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとって替わるべきだと、マルクスはいっているのです。しかし、何らかの国家の補助がないならば、生産者協同組合が資本制企業に敗れてしまうこと
世界共和国へ
世界史の構造372頁
11:06 午後
Blogger yoji said...
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
[ 生産諸手段の共有を基礎とする協同組合的な社会の内部では、生産者達は彼らの生産物を交換しない。同様に、ここでは生産物に費やされた労働はこれらの生産物の価値として、即ち生産物が持つ一つの物質的特性として現われない。というのは、今では、資本主義社会とは反対に、個人的な労働は、もはや間接にではなく、直接に、総労働の構成部分として存在するからである。]itc453頁
(「労働収益」という文句は、今日でさえその曖昧さの故に不愉快なものであるが、こうしてあらゆる意味を失う。)
…個々の生産者は…
彼は、(共同の基金のために彼の労働を控除したあとで)これこれの量の労働を給付したという証明書を社会から受け取り、そして、この証明書で消費手段の社会的貯えの中から、等量の労働価値を要するものを引き出す。
個々の生産者は、彼がある形態で社会に与えたのと同じ量の労働を、他の形態と交換するのである。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
[ 生産諸手段の共有を基礎とする協同組合的な社会の内部では、生産者達は彼らの生産物を交換しない。同様に、ここでは生産物に費やされた労働はこれらの生産物の価値として、即ち生産物が持つ一つの物質的特性として現われない。というのは、今では、資本主義社会とは反対に、個人的な労働は、もはや間接にではなく、直接に、総労働の構成部分として存在するからである。]itc453頁
(「労働収益」という文句は、今日でさえその曖昧さの故に不愉快なものであるが、こうしてあらゆる意味を失う。)
…個々の生産者は…
彼は、(共同の基金のために彼の労働を控除したあとで)これこれの量の労働を給付したという証明書を社会から受け取り、そして、この証明書で消費手段の社会的貯えの中から、等量の労働価値を要するものを引き出す。
個々の生産者は、彼がある形態で社会に与えたのと同じ量の労働を、他の形態と交換するのである。
2014年
光文社文庫
・ 『賃金 ・価格 ・利潤 』 … … M a r x / E n g e l s G e s a m t a u s g a b e , E r s t e A b t e i l u n g , B a n d 2 0 , D i e t z V e r l a g , 1 9 9 2 . ・ 「個々の問題に関する暫定中央評議会代議員への指針 」 … … ①同前 ② K a r l M a r x F r i e d r i c h E n g e l s W e r k e , B a n d 1 6 , D i e t z V e r l a g , B e r l i n , 1 9 6 2 .
賃労働と資本/賃金・価格・利潤 (光文社古典新訳文庫) Kindle版
マルクス (著), 森田 成也 (翻訳)
5つ星のうち 4.0 4件のカスタマーレビュー
Kindle版
ファイルサイズ: 622 KB
紙の本の長さ: 204 ページ
出版社: 光文社 (2014/4/20)
利潤」について根源的に考察し、古典派経済学と格闘しつつ独自の経済学を確立していった。本書は、彼の出発点と成熟期の二大基本文献と、理解に欠かせない「賃金」草稿と「代議員への指針」を付録にし、詳細な解説を加えて独自に編集した。『資本論』を読み解くための最良の入門書。
内容(「BOOK」データベースより)
「賃金とは何か」「資本とは何か」「利潤とは何か」。この根源的な問いに答えるべく、古典派経済学と格闘しつつ独自の経済学を確立していったマルクスの基本文献を収録。付録(「賃金」草稿と「代議員への指針」)と詳細な解説を元に、『資本論』読解への第一歩を踏みだす。『資本論』入門シリーズ第1弾!
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6
労働組合
( c )その未来そのもともとの目的 ( 7 )とは別に 、労働組合は今や 、労働者階級の完全な解放という広大な利益のために労働者階級を組織する中心として自覚的に行動することを学ばなければならない 。労働組合は 、この方向に向けて努力しているあらゆる社会的 ・政治的運動を支援しなければならない 。労働者階級全体の擁護者にしてその代表者であると自らをみなし 、そういう立場で行動する労働組合は 、その隊列の中に未組織労働者を入れることを怠るわけにはいかない 。労働組合は 、最も賃金の低い職種の労働者の利益にきちんと注意を払わなければならない 。たとえば 、例外的に不利な状況ゆえに無力化されている ( 8 )農業労働者がそうである 。労働組合は 、自分たちの努力がけっして偏狭で利己的なものではなく 、踏みつけにされている幾百万の人々の解放を目指しているのだということを全世界に ( 9 )確信させなければならない 。
( 7 ) 「そのもともとの目的 」は仏語版テキストでは 「資本の侵害行為に抗して行動するというその当面する任務 」 。
( 8 ) 「無力化されている 」は仏語版テキストでは 「組織的抵抗をすることができない 」 。
( 9 ) 「全世界に 」は独仏語版テキストでは 「広範な労働者大衆に 」 。
1 0 、軍隊 ( 1 3 )
( a )巨大な常備軍が生産に及ぼす有害な影響は 、中産階級 [ブルジョアジ ー ]によるあらゆるお題目の諸会議で十分に暴露されてきた 。平和会議 、経済会議 、統計会議 、慈善会議 、社会学会議 。それゆえこの点について詳しく論じるのは 、まったく余計なことだろう 。
( b )われわれは 、 [常備軍ではなく ]全人民の武装 [民兵制度 ]と全般的な武器使用の訓練を提案する 。
( c )民兵の将校を養成する学校として小規模の常備軍を形成することを一時的な必要性として受け入れる 。すべての男性市民はごく短い期間 、この軍隊で兵役に服す 。
1 1 、宗教問題 ( 1 4 )この問題については 、ロンドン協議会でそれを提起した ( 1 5 )フランス人メンバ ーに委ねる 。
一八六六年八月末執筆 ( 『インタ ーナショナル ・ク ーリエ 』第六 ・七号 、第八 ~一〇号 、一八六七年二月二〇日 、三月一三日 )
( 1 3 ) 「軍隊 」は仏語版テキストでは 「常備軍およびそれと生産との関係 」 。
( 1 4 ) 「宗教問題 」は独仏語版テキストでは 「宗教的観念 。それが社会的 ・政治的 ・知的発展に与える影響 」 。
( 1 5 ) 「ロンドン協議会でそれを提起した 」は仏語版テキストによる挿入 。
「賃金 」草稿が 『賃労働と資本 』を理論的に補完するものであったように 、一八六六年八月末に書かれた 「個々の問題に関する暫定中央評議会代議員への指針 」 [以下 、 「指針 」と略記 ]は 『賃金 ・価格 ・利潤 』を理論的 ・実践的に補完するものである 。
1847
二月 、ブリュッセルのドイツ人協会での講演のために 「賃金 」草稿を準備 。
一八四九年三一歳四月 、 「新ライン新聞 」に五回にわたって 「賃労働と資本 」を連載 。
一八六五年四七歳六月 、国際労働者協会の中央評議会で 「賃金 ・価格 ・利潤 」について講演 。
1865
…最後に 、以下の決議案 ( 2 0 )を提起することで締めくくりたいと思う 。第一に 、賃金率の全般的上昇は一般的利潤率の低下をもたらすのであって 、総じて 、商品の価格に影響を与えるものではない 。第二に 、資本主義的生産の一般的傾向は 、賃金の平均水準を引き上げるのではなくて 、それを引き下げる 。第三に 、労働組合は 、資本による侵害行為に抵抗する中心としては有効に働く 。労働組合がその力を無分別に使用するならば部分的に失敗する 。現存システムの諸結果に対してゲリラ戦争を遂行することにのみ自己を限定して 、それと同時にこのシステムを変革しようとしないならば 、そして自己の組織された諸力を労働者階級の最終的解放のための 、つまりは賃金制度の究極的廃絶のための梃子として用いないならば 、それは全面的に失敗する 。
(20)新MEGA28に別草稿
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バクーニン:
《孤立した一国だけの革命は成功し得ないこと 。したがって 、自由を志向する万国の人民の革命的同盟 ・連合が不可欠であること 》 ( 「国際革命結社の諸原理と組織 」 『バク ーニン著作集 5 』外川継男 、左近穀ほか訳 、白水社 、 1 9 7 4 : p . 2 1 6 ) 。
atプラス03
世界同時革命 より
カント:
《完全な意味での公民的組織を設定する問題は 、諸国家のあいだに外的な合法的関係を創設する問題に従属するものであるから 、後者の解決が実現しなければ 、前者も解決され得ない 。個々の人達のあいだに合法的な公民的組織を設けてみたところで 、換言すれば一個の公共体を組織してみたところで 、それだけでは 、あまりたいした効果はない 。人々を強要して公民的組織を設定せしめたのとまったく同じ非社交性は 、諸国家の場合にもまた原因となって 、対外関係における公共体は 、他の諸国家に対する一国家として 、自己の自由をほしいままに濫用することになる (後略 ) 。 》
( 「世界公民的見地における一般史の構想 」 (第七命題 ) 、 『啓蒙とは何か他四篇 』篠田英雄訳 、岩波書店 、 1 9 7 4 : p . 3 6 )
《--たがいに関係しあう諸国家にとって 、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには 、理性によるかぎり次の方策しかない 。すなわち 、国家も個々の人間と同じように 、その未開な (無法な )自由を捨てて公的な強制法に順応し 、そうして一つの (もっともたえず増大しつつある )諸民族合一国家 ( c i v i t a s g e n t i u m )を形成して 、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる 、という方策しかない 。だがかれらは 、かれらがもっている国際法の考えにしたがって 、この方策をとることをまったく欲しないし 、そこで一般命題として i n t h e s i正しいことを 、具体的な適用面では i n h y p o t h e s i 斥けるから 、一つの世界共和国という積極的理念の代わりに (もしすべてが失われてはならないとすれば ) 、戦争を防止し 、持続しながらたえず拡大する連合という消極的な代替物のみが 、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである 。 》
( 『永遠平和のために 』宇都宮芳明訳 、岩波文庫 、 1 9 8 5 : p . 4 5 )
《自然状態は 、むしろ戦争状態である 。言いかえれば 、それはたとえ敵対行為がつねに生じている状態ではないにしても 、敵対行為によってたえず脅かされている状態である 。それゆえ 、平和状態は 、創設されなければならない 》 (同前 、 p . 2 6 ) 。
ヘーゲル:
《 カントの構想の批判 … …もろもろの国家のあいだには最高法官などおらず 、せいぜい調停者か仲介者がいるだけである 。しかもこれすら 、偶然の成り行きで 、特殊な意思任せでしかない 。カントは国家連盟による永遠の平和を表象した 。国家連盟はあらゆる抗争を調停し 、個々の諸国家それぞれから承認を受けた一権能として 、すべての反目を鎮め 、こうして戦争による決着を不可能ならしめる 、というのである 。だが 、こうした表象は諸国家の合意を前提にしている 。この合意は 、宗教的 、道徳的 、あるいはその他のどんな根拠や側面においてにせよ 、総じていつも特殊な主権的意思に基づいてきたし 、まただからいつも偶然性がまとわりついているにも拘らず 、である 。
[原注 ]理想論として考えるかぎり 、私たちはカントの構想などのほうにより大きな親近感を示すに相違ない 。けれども 、現代にいたるまで 、リアリスティックに考えるなら 、こうした事態のほうが歴史の示した現実であった 。そして 、私たちはこういうリアリズムを踏まえたうえで今後の世界を考えていかねばならないだろう 。 》
( 『法権利の哲学 』第三三三節 、三浦和男ほか訳 、未知谷 、 1 9 9 1 : p . 5 1 5 )
シュミット:
《「世界国家」が、全地球・全人類を包括する場合には、それは政治的単位ではなく、単に慣用上から国家と呼ばれるに過ぎない。 (中略)それが、この範囲を越えてなお、文化的·世界観的その他なんであれ、「高次の」単位、ただし同時にあくまで非政治的な単位を形成しようとしたばあいには、それは、倫理と経済という両極間に中立点をさぐる消費-生産組合であるであろう。国家も王国も帝国も、共和政も君主政も、貴族政も民主政も、保護も服従も、それとは無緑なのであって、それはおよそいかなる政治的
性格をも捨て去ったものであるであろう。》
(『政治的なものの概念』田中浩·原田武雄訳、未來社、1970:p.68-69)
シュミットはソレルの影響を受けている。そしてソレルはプルードンの影響を受けている。マルクス以降の系譜ではない。
と言ってもマルクスはプルードンの系譜ではあるが。
バクーニン:
《孤立した一国だけの革命は成功し得ないこと 。したがって 、自由を志向する万国の人民の革命的同盟 ・連合が不可欠であること 》 ( 「国際革命結社の諸原理と組織 」 『バク ーニン著作集 5 』外川継男 、左近穀ほか訳 、白水社 、 1 9 7 4 : p . 2 1 6 ) 。
atプラス03
『世界共和国へ』に関するノート(14)最終回
世界同時革命より
カント:
《完全な意味での公民的組織を設定する問題は 、諸国家のあいだに外的な合法的関係を創設する問題に従属するものであるから 、後者の解決が実現しなければ 、前者も解決され得ない 。個々の人達のあいだに合法的な公民的組織を設けてみたところで 、換言すれば一個の公共体を組織してみたところで 、それだけでは 、あまりたいした効果はない 。人々を強要して公民的組織を設定せしめたのとまったく同じ非社交性は 、諸国家の場合にもまた原因となって 、対外関係における公共体は 、他の諸国家に対する一国家として 、自己の自由をほしいままに濫用することになる (後略 ) 。 》
( 「世界公民的見地における一般史の構想 」 (第七命題 ) 、 『啓蒙とは何か他四篇 』篠田英雄訳 、岩波書店 、 1 9 7 4 : p . 3 6 )
《--たがいに関係しあう諸国家にとって 、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには 、理性によるかぎり次の方策しかない 。すなわち 、国家も個々の人間と同じように 、その未開な (無法な )自由を捨てて公的な強制法に順応し 、そうして一つの (もっともたえず増大しつつある )諸民族合一国家 ( c i v i t a s g e n t i u m )を形成して 、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる 、という方策しかない 。だがかれらは 、かれらがもっている国際法の考えにしたがって 、この方策をとることをまったく欲しないし 、そこで一般命題として i n t h e s i正しいことを 、具体的な適用面では i n h y p o t h e s i 斥けるから 、一つの世界共和国という積極的理念の代わりに (もしすべてが失われてはならないとすれば ) 、戦争を防止し 、持続しながらたえず拡大する連合という消極的な代替物のみが 、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである 。 》
( 『永遠平和のために 』宇都宮芳明訳 、岩波文庫 、 1 9 8 5 : p . 4 5 )
《自然状態は 、むしろ戦争状態である 。言いかえれば 、それはたとえ敵対行為がつねに生じている状態ではないにしても 、敵対行為によってたえず脅かされている状態である 。それゆえ 、平和状態は 、創設されなければならない 》 (同前 、 p . 2 6 ) 。
ヘーゲル:
《 カントの構想の批判 … …もろもろの国家のあいだには最高法官などおらず 、せいぜい調停者か仲介者がいるだけである 。しかもこれすら 、偶然の成り行きで 、特殊な意思任せでしかない 。カントは国家連盟による永遠の平和を表象した 。国家連盟はあらゆる抗争を調停し 、個々の諸国家それぞれから承認を受けた一権能として 、すべての反目を鎮め 、こうして戦争による決着を不可能ならしめる 、というのである 。だが 、こうした表象は諸国家の合意を前提にしている 。この合意は 、宗教的 、道徳的 、あるいはその他のどんな根拠や側面においてにせよ 、総じていつも特殊な主権的意思に基づいてきたし 、まただからいつも偶然性がまとわりついているにも拘らず 、である 。
[原注 ]理想論として考えるかぎり 、私たちはカントの構想などのほうにより大きな親近感を示すに相違ない 。けれども 、現代にいたるまで 、リアリスティックに考えるなら 、こうした事態のほうが歴史の示した現実であった 。そして 、私たちはこういうリアリズムを踏まえたうえで今後の世界を考えていかねばならないだろう 。 》
( 『法権利の哲学 』第三三三節 、三浦和男ほか訳 、未知谷 、 1 9 9 1 : p . 5 1 5 )
シュミット:
《「世界国家」が、全地球・全人類を包括する場合には、それは政治的単位ではなく、単に慣用上から国家と呼ばれるに過ぎない。 (中略)それが、この範囲を越えてなお、文化的·世界観的その他なんであれ、「高次の」単位、ただし同時にあくまで非政治的な単位を形成しようとしたばあいには、それは、倫理と経済という両極間に中立点をさぐる消費-生産組合であるであろう。国家も王国も帝国も、共和政も君主政も、貴族政も民主政も、保護も服従も、それとは無緑なのであって、それはおよそいかなる政治的性格をも捨て去ったものであるであろう。》
(『政治的なものの概念』田中浩·原田武雄訳、未來社、1970:p.68-69)
シュミットはソレルの影響を受けている。そしてソレルはプルードンの影響を受けている。マルクス以降の系譜ではない。
と言ってもマルクスはプルードンの系譜ではあるが。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1346657031/558
絶対的
拡大十単純
相対的
マルクス『資本論』 絶対的5~9、 商品と
__________相対的10~13__貨幣~3
|資本の変態|(資本の |剰余|資本|拡大|単純|
| と循環| 循環過程)価値|へ4|価値形態論1>>545,>>557
| 1~6 |1、2、3|協業~16一般的|貨幣|
|_二資本の流通過程__|分業一資本の生産過程>>542,>>543
| | 18~|時間| | 資本の |
|資本の回転|社会的21|_労 賃_|蓄積過程 |
| 7~17|総資本20|17~20|21~25|
|_____|再生産表式|出来高__|_____|
平均、利潤率| >>185 |資本|労働|
低下 利潤 | |生産過程 三位一体48|
商人1~20| | 49 | |土地|
資本へ__三資本主義的生産の総過程への転化|__|
| |絶対、差額|競争の 資本家|労働者
| 利子 | 地代 |外観50 |_諸階級52
|21~36|37~47| 分配と | |地主|
|複利24_資本主義的地代_生産51|__|__|
>>560,>>561 >>559
信用27>>562,>>563
恐慌30~32
全体を、右上から反時計回り
逆コの字状に見る
細部も同じ
562-3:
<労働者たち自身の協回組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破であ
る。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再
生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働との対立はこの
協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては
自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を白分たち自身の労働の価値増殖のための
手段として用いるという形によってでしかないとはいえ。このような工場が示しているのは、物
質的生産力とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの
生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式
から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様
式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本主義的
個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなしているのである
が、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張されて行くための
手段をも提供するのである。資本主義的株大企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様
式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、
他方では積極的に廃止されているだけである。>
(『資本論』第三巻27章「資本主義的生産における信用の役割」、大月文庫第7巻227−8頁)
《労働者たち自身の協回組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破であ
る。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再
生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働との対立はこの
協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては
自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を白分たち自身の労働の価値増殖のための
手段として用いるという形によってでしかないとはいえ。このような工場が示しているのは、物
質的生産力とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの
生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式
から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様
式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本主義的
個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなしているのである
が、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張されて行くための
手段をも提供するのである。資本主義的株大企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様
式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、
他方では積極的に廃止されているだけである。》
(『資本論』第三巻27章「資本主義的生産における信用の役割」、大月文庫第7巻227−8頁)
マルクスの推奨する協同組合は生産レベルでの分配を意味する。国家による再分配機能は
否定しないが(むしろそれだけが仕事だ)。
これはガンジーと同じ考え方。
《労働者たち自身の協回組合工場は、古い形態のなかでではあるが
、古い形態の最初の突破であ
る。といっても、もちろん、それは
どこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再
生産
しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資
本と労働との対立はこの
協同組合工場のなかでは廃止されている
。たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては
自分たち
自身の資本家だという形、すなわち生産手段を白分たち自身の労働
の価値増殖のための
手段として用いるという形によってでしかな
いとはいえ。このような工場が示しているのは、物
質的生産力と
それに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように
自然的に一つの
生産様式から新たな生産様式が発展し形成されて
くるかということである。資本主義的生産様式
から生まれる工場
制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また
同じ生産様
式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できな
かったであろう。信用制度は、資本主義的
個人企業がだんだん資
本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなしているの
である
が、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合
企業がだんだん拡張されて行くための
手段をも提供するのである
。資本主義的株大企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産
様
式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、
ただ、一方では対立が消極的に、
他方では積極的に廃止されてい
るだけである。》
(『資本論』第三巻27章「資本主義的生産に
おける信用の役割」、大月文庫第7巻227−8頁)
マルクスの推奨する協同組合は生産レベルでの分配を意味する。国
家による再分配機能は
否定しないが(むしろそれだけが仕事だ)。
これはガンジーと同じ考え方。
《労働者たち自身の協回組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の
突破であ
る。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度の
あらゆる欠陥を再
生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、
資本と労働との対立はこの
協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、
ただ、労働者たちが組合としては
自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段
を白分たち自身の労働の価値増殖のための
手段として用いるという形によってでしか
ないとはいえ。このような工場が示しているのは、物
質的生産力とそれに対応する社会
的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの
生産様式から新たな生産
様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式
から生まれる
工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様
式
から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本
主義的
個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなし
ているのである
が、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん
拡張されて行くための
手段をも提供するのである。資本主義的株大企業も、協同組合
工場と同じに、資本主義的生産様
式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいので
あって、ただ、一方では対立が消極的に、
他方では積極的に廃止されているだけである。》
(『資本論』第三巻27章「資本主義的生産における信用の役割」、大月文庫第7巻227−8頁)
マルクスの推奨する協同組合は生産レベルでの分配を意味する。国家による再分配機能は
否定しないが(むしろそれだけが仕事だ)。
これはガンジーと同じ考え方。
賃労働と資本/賃金・価格・利潤 (光文社古典新訳文庫) Kindle版
マルクス (著), 森田 成也 (翻訳) Kindle版 204 ページ
出版社: 光文社 (2014/4/20)
利潤」について根源的に考察し、古典派経済学と格闘しつつ独自の経済学を確立していった。本書は、彼の出発点と成熟
期の二大基本文献と、理解に欠かせない「賃金」草稿と「代議員への指針」を付録にし、詳細な解説を加えて独自に編集
した。『資本論』を読み解くための最良の入門書。
内容(「BOOK」データベースより)
「賃金とは何か」「資本とは何か」「利潤とは何か」。この根源的な問いに答えるべく、古典派経済学と格闘しつつ独自
の経済学を確立していったマルクスの基本文献を収録。付録(「賃金」草稿と「代議員への指針」)と詳細な解説を元に、『
資本論』読解への第一歩を踏みだす。『資本論』入門シリーズ第1弾!
6
労働組合
( c )その未来そのもともとの目的 ( 7 )とは別に 、労働組合は今や 、労働者階級の完全な解放という広大な利益の
ために労働者階級を組織する中心として自覚的に行動することを学ばなければならない 。労働組合は 、この方向に向けて
努力しているあらゆる社会的 ・政治的運動を支援しなければならない 。労働者階級全体の擁護者にしてその代表者である
と自らをみなし 、そういう立場で行動する労働組合は 、その隊列の中に未組織労働者を入れることを怠るわけにはいか
ない 。労働組合は 、最も賃金の低い職種の労働者の利益にきちんと注意を払わなければならない 。たとえば 、例外的に
不利な状況ゆえに無力化されている ( 8 )農業労働者がそうである 。労働組合は 、自分たちの努力がけっして偏狭で
利己的なものではなく 、踏みつけにされている幾百万の人々の解放を目指しているのだということを全世界に ( 9 )
確信させなければならない 。
( 7 ) 「そのもともとの目的 」は仏語版テキストでは 「資本の侵害行為に抗して行動するというその当面する任務 」 。
( 8 ) 「無力化されている 」は仏語版テキストでは 「組織的抵抗をすることができない 」 。
( 9 ) 「全世界に 」は独仏語版テキストでは 「広範な労働者大衆に 」 。
1 0 、軍隊 ( 1 3 )
( a )巨大な常備軍が生産に及ぼす有害な影響は 、中産階級 [ブルジョアジ ー ]によるあらゆるお題目の諸会議で十
分に暴露されてきた 。平和会議 、経済会議 、統計会議 、慈善会議 、社会学会議 。それゆえこの点について詳しく論じる
のは 、まったく余計なことだろう 。
( b )われわれは 、 [常備軍ではなく ]全人民の武装 [民兵制度 ]と全般的な武器使用の訓練を提案する 。
( c )民兵の将校を養成する学校として小規模の常備軍を形成することを一時的な必要性として受け入れる 。すべての
男性市民はごく短い期間 、この軍隊で兵役に服す 。
1 1 、宗教問題 ( 1 4 )この問題については 、ロンドン協議会でそれを提起した ( 1 5 )フランス人メンバ ーに委ねる 。
一八六六年八月末執筆 ( 『インタ ーナショナル ・ク ーリエ 』第六 ・七号 、第八 ~一〇号 、一八六七年二月二〇日 、三月一三日 )
賃労働と資本/賃金・価格・利潤 (光文社古典新訳文庫) Kindle版
マルクス (著), 森田 成也 (翻訳) Kindle版 204 ページ
付録3 個々の問題に関する暫定中央評議会代議員への指針
6、
労働組合
( c )その未来そのもともとの目的 ( 7 )とは別に 、労働組合は今や 、労働者階級の完全
な解放という広大な利益のために労働者階級を組織する中心として自覚的に行動することを学
ばなければならない 。労働組合は 、この方向に向けて 努力しているあらゆる社会的 ・政治的
運動を支援しなければならない 。労働者階級全体の擁護者にしてその代表者であると自らを
みなし 、そういう立場で行動する労働組合は 、その隊列の中に未組織労働者を入れることを
怠るわけにはいかない 。労働組合は 、最も賃金の低い職種の労働者の利益にきちんと注意を
払わなければならない 。たとえば 、例外的に不利な状況ゆえに無力化されている ( 8 )農業
労働者がそうである 。労働組合は 、自分たちの努力がけっして偏狭で利己的なものではなく 、
踏みつけにされている幾百万の人々の解放を目指しているのだということを全世界に ( 9 )
確信させなければならない 。
…
一八六六年八月末執筆 ( 『インタ ーナショナル ・ク ーリエ 』第六 ・七号 、第八 ~一〇号 、一八六七年二月二〇日 、三月一三日 )
1 0 、軍隊 ( 1 3 )
( a )巨大な常備軍が生産に及ぼす有害な影響は 、中産階級 [ブルジョアジ ー ]によるあらゆるお題目の諸会議で十
分に暴露されてきた 。平和会議 、経済会議 、統計会議 、慈善会議 、社会学会議 。それゆえこの点について詳しく論じる
のは 、まったく余計なことだろう 。
( b )われわれは 、 [常備軍ではなく ]全人民の武装 [民兵制度 ]と全般的な武器使用の訓練を提案する 。
( c )民兵の将校を養成する学校として小規模の常備軍を形成することを一時的な必要性として受け入れる 。すべての
男性市民はごく短い期間 、この軍隊で兵役に服す 。
1 1 、宗教問題 ( 1 4 )この問題については 、ロンドン協議会でそれを提起した ( 1 5 )フランス人メンバ ーに委ねる 。
一八六六年八月末執筆 ( 『インタ ーナショナル ・ク ーリエ 』第六 ・七号 、第八 ~一〇号 、一八六七年二月二〇日 、三月一三日 )
《労働者たち自身の協回組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の
突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度の
あらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、
資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、
ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段
を白分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしか
ないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会
的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産
様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる
工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式
から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本
主義的
個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなして
いるのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張
されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株大企業も、協同組合工場と同じに、
資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では
対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。》
(『資本論』第三巻27章「資本主義的生産における信用の役割」、大月文庫第7巻227−8頁)
マルクスの推奨する協同組合は生産レベルでの分配を意味する。
《労働者たち自身の協回組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の
突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度の
あらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、
資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、
ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段
を白分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしか
ないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会
的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産
様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる
工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式
から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本
主義的
個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなして
いるのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張
されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式大企業も、協同組合工場と同じに、
資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では
対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。》
(『資本論』第三巻27章「資本主義的生産における信用の役割」、大月文庫第7巻227−8頁)
マルクスの推奨する協同組合は生産レベルでの分配を意味する。
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19860201-0001.pdf?file_id=77090 13頁より孫引き
《労働者たち自身の協回組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の
突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度の
あらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、
資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、
ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段
を白分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしか
ないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会
的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産
様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる
工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式
から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本
主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなして
いるのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん
拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式大企業も、協同組合
工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであっ
て、ただ、一方では 対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。》
(『資本論』第三巻27章「資本主義的生産における信用の役割」、大月文庫第7巻227−8頁)
マルクスの推奨する協同組合は生産レベルでの分配を意味する。
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19860201-0001.pdf?file_id=77090 13頁より孫引き
《労働者たち自身の協回組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の
突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度の
あらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、
資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、
ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段
を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしか
ないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会
的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産
様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる
工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式
から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本
主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなして
いるのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん
拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式大企業も、協同組合
工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであっ
て、ただ、一方では 対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。》
(『資本論』第三巻27章「資本主義的生産における信用の役割」、大月文庫第7巻227−8頁)
マルクスの推奨する協同組合は生産レベルでの分配を意味する。
マルクスは株式会社も評価しているがその場合、税制と再分配の問題は残る。
以下、賃労働と資本/賃金・価格・利潤 (光文社古典新訳文庫) Kindle版所収、「指針」より
1 0 、軍隊 ( 1 3 )
( a )巨大な常備軍が生産に及ぼす有害な影響は 、中産階級 [ブルジョアジ ー ]によるあらゆる
お題目の諸会議で十分に暴露されてきた 。平和会議 、経済会議 、統計会議 、慈善会議 、
社会学会議 。それゆえこの点について詳しく論じるのは 、まったく余計なことだろう 。
( b )われわれは 、 [常備軍ではなく ]全人民の武装 [民兵制度 ]と全般的な武器使用の
訓練を提案する 。
( c )民兵の将校を養成する学校として小規模の常備軍を形成することを一時的な必要性として
受け入れる 。すべての男性市民はごく短い期間 、この軍隊で兵役に服す 。
1 1 、宗教問題 ( 1 4 )この問題については 、ロンドン協議会でそれを提起した ( 1 5 )フランス
人メンバ ーに委ねる 。
一八六六年八月末執筆 ( 『インタ ーナショナル ・ク ーリエ 』第六 ・七号 、第八 〜一〇号 、一八六七年二月二〇日 、三月一三日 )
( 1 3 ) 「軍隊 」は仏語版テキストでは 「常備軍およびそれと生産との関係 」 。
( 1 4 ) 「宗教問題 」は独仏語版テキストでは 「宗教的観念 。それが社会的 ・政治的 ・知的
発展に与える影響 」 。
( 1 5 ) 「ロンドン協議会でそれを提起した 」は仏語版テキストによる挿入 。
「賃金 」草稿が 『賃労働と資本 』を理論的に補完するものであったように 、一八六六年八月
末に書かれた 「個々の問題に関する暫定中央評議会代議員への指針 」 [ 「指針 」と
略記 ]は 『賃金 ・価格 ・利潤 』を理論的 ・実践的に補完するものである 。
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%94%E5%90%8C%E7%B5%84%E5%90%88-52925
協同組合に類似した互助組織は、洋の東西を問わず、古い歴史をもっている。日本についていえば、鎌倉時代に
始まる無尽(むじん)や頼母子講(たのもしこう)、江戸時代末期の二宮尊徳による報徳社などは、信用組合の性格を
もっている。しかし、近代的な協同組合は、1844年にイギリスの工業都市ロッチデールRochdaleで28人の織物
労働者がつくった消費組合に始まるとするのが通説である。それが「近代的」とされる理由は、現在の協同組合
の基本原則の原形がそこにみられるからである。すなわち、
(1)一人一票制、
(2)政治および宗教上の中立、
(3)組合による教育、
(4)利子の制限、
(5)購買高による配当、
(6)市価販売
などの原則が掲げられた。一般にこれらを「ロッチデールの原則」とよび、これが基礎になって今日の協同組合の
諸原則が生まれてきた。
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19860201-0001.pdf?file_id=77090 13頁より孫引き
《労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の
突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度の
あらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、
資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、
ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段
を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしか
ないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会
的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産
様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる
工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式
から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本
主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなして
いるのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん
拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式大企業も、協同組合
工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであっ
て、ただ、一方では 対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。》
(『資本論』第三巻27章「資本主義的生産における信用の役割」、大月文庫第7巻227−8頁)
《労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の
突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度の
あらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、
資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、
ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段
を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしか
ないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会
的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産
様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる
工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式
から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本
主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなして
いるのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん
拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式大企業も、協同組合
工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであっ
て、ただ、一方では 対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。》
(『資本論』第三巻27章「資本主義的生産における信用の役割」、大月文庫第7巻227~8頁)
《共産主義社会のより高次の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、
それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための
手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な
発展につれて彼らの生産能力をも成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧き出る
ようになったのち――その時はじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏み越えられ、そして
社会はその旗にこう書くことができる。各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!》
ゴータ綱領批判
《共産主義社会のより高次の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、
それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための
手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な
発展につれて彼らの生産能力をも成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧き出る
ようになったのち――その時はじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏み越えられ、そして
社会はその旗にこう書くことができる。各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!》
ゴータ綱領批判 1875
9 考える名無しさん[sage] 2019/08/13(火) 02:12:18.29 ID:0
《労働者が協同組合的生産の諸条件を社会的規模で、まず最初は自国に国民的規模でつくりだそう
とするのは、現在の生産諸条件の変革のために努力することにほかならず、国家の補助による協同組合の
設立とはなんのかかわりもないものである! 今日の協同組合についていえば、それらは政府からも
ブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的につくりだしたものであるときに、はじめて価値を
もっているのだ。》(『ゴータ綱領草案批判』、山辺健太郎訳) 国民文庫
国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとって替わる
べきだと、マルクスはいっているのです。しかし、何らかの国家の補助がないならば、生産者協同組合が
資本制企業に敗れてしまうことは避けがたい。だから、マルクスはプロレタリアートが国家権力を握る
ことが不可欠だと考えました。にもかかわらず、マルクスがラッサールと対立するのは、つぎの点におい
てです。ラッサールがヘーゲルにならって国家を理性的なものとしてみなしているのに、マルクスは国家を
消滅すべきものとして見ていた。その点で、マルクスはあくまでプルードン派なのです。
世界共和国へ
(世界史の構造372頁参照)
『第一インターナショナル綱領』または『国際労働者協会綱領』とは「第一インターナショナル」あるいは「国際労働者協会(IWA)」で採択された綱領である。1866年9月3-8日にかけて開催されたジュネーヴ大会(英語版)の討議を受けて、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって時間をかけて総括され、全世界の労働者のため『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』というタイトルでIWA中央評議会に提出されたものである。同文書はIWAの最低限『綱領』として発表された。
『第一インターナショナル綱領』または『国際労働者協会綱領』とは「第一インターナショナル」あるいは「国際労働
者協会(IWA)」で採択された綱領である。1866年9月3-8日にかけて開催されたジュネーヴ大会(英語版)の討議を
受けて、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって時間をかけて総括され、全世界の労働者のため『個々の
問題についての暫定中央評議会代議員への指示』*というタイトルでIWA中央評議会に提出されたものである。同文書
はIWAの最低限『綱領』として発表された。
*『個々の問題についての…指示』より
(ロ)しかし、協同組合制度が、個々の賃金奴隷の個人的な努力によってつくりだされる程度の零細な形態に限られる
かぎり、それは資本主義社会を改造することは決してできないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働の巨大な、
調和ある一体系に転化するためには、全般的な社会的変化、社会の全般的条件の変化が必要である。この変化は、社会の
組織された力、すなわち国家権力を、資本家と地主の手から生産者自身の手に移す以外の方法では、決して実現することは
できない。
『第一インターナショナル綱領』または『国際労働者協会綱領』とは「第一インターナショナル」あるいは「国際労働
者協会(IWA)」で採択された綱領である。1866年9月3-8日にかけて開催されたジュネーヴ大会の討議を受けて、
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって時間をかけて総括され、全世界の労働者のため『個々の
問題についての暫定中央評議会代議員への指示』*というタイトルでIWA中央評議会に提出されたものである。同文書
はIWAの最低限『綱領』として発表された。
*以下、『個々の問題についての…指示』より
(ロ)しかし、協同組合制度が、個々の賃金奴隷の個人的な努力によってつくりだされる程度の零細な形態に限られる
かぎり、それは資本主義社会を改造することは決してできないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働の巨大な、
調和ある一体系に転化するためには、全般的な社会的変化、社会の全般的条件の変化が必要である。この変化は、社会の
組織された力、すなわち国家権力を、資本家と地主の手から生産者自身の手に移す以外の方法では、決して実現することは
できない。
『第一インターナショナル綱領』または『国際労働者協会綱領』とは「第一インターナショナル」あるいは「国際労働
者協会(IWA)」で採択された綱領である。1866年9月3-8日にかけて開催されたジュネーヴ大会の討議を受けて、
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって時間をかけて総括され、全世界の労働者のため『個々の
問題についての暫定中央評議会代議員への指示』*というタイトルでIWA中央評議会に提出されたものである。同文書
はIWAの最低限『綱領』として発表された。
*以下、『個々の問題についての…指示』より
(ロ)しかし、協同組合制度が、個々の賃金奴隷の個人的な努力によってつくりだされる程度の零細な形態に限られ
るかぎり、それは資本主義社会を改造することは決してできないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働の巨大な、
調和ある一体系に転化するためには、全般的な社会的変化、社会の全般的条件の変化が必要である。この変化は、社会
の組織された力、すなわち国家権力を、資本家と地主の手から生産者自身の手に移す以外の方法では、決して実現する
ことはできない。
『第一インターナショナル綱領』または『国際労働者協会綱領』とは「第一インターナショナル」あるいは「国際労働
者協会(IWA)」で採択された綱領である。1866年9月3-8日にかけて開催されたジュネーヴ大会の討議を受けて、
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって時間をかけて総括され、全世界の労働者のため『個々の
問題についての暫定中央評議会代議員への指示』*というタイトルでIWA中央評議会に提出されたものである。同文書
はIWAの最低限『綱領』として発表された。
*以下、『個々の問題についての…指示』より
《(ロ)しかし、協同組合制度が、個々の賃金奴隷の個人的な努力によってつくりだされる程度の零細な形態に限られ
るかぎり、それは資本主義社会を改造することは決してできないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働の巨大
な、調和ある一体系に転化するためには、全般的な社会的変化、社会の全般的条件の変化が必要である。この変化は、
社会の組織された力、すなわち国家権力を、資本家と地主の手から生産者自身の手に移す以外の方法では、決して実現
することはできない。》
『第一インターナショナル綱領』または『国際労働者協会綱領』とは「第一インターナショナル」あるいは「国際労働
者協会(IWA)」で採択された綱領である。1866年9月3-8日にかけて開催されたジュネーヴ大会の討議を受けて、
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって時間をかけて総括され、全世界の労働者のため『個々の
問題についての暫定中央評議会代議員への指示』*というタイトルでIWA中央評議会に提出されたものである。同文書
はIWAの最低限『綱領』として発表された。
*以下、『個々の問題についての…指示』1866より
《…社会的生産を自由な協同組合労働の巨大な、調和ある一体系に転化するためには、全般的な社会的変化、社会の
全般的条件の変化が必要である。この変化は、社会の組織された力、すなわち国家権力を、資本家と地主の手から
生産者自身の手に移す以外の方法では、決して実現することはできない。》
593 考える名無しさん[sage] 2021/02/17(水) 21:00:34.07 ID:0
人間の感情と欲望に根ざした国家の在り方を探求したスピノザ、
法的決定を独占した国家ができたことで人間は自力救済の原理から解放されたと説いたヒューム、
彼らの書を読めば、国家不要とのたまってる連中の言は、なんと愚かなことかと分かる。
『これからの経済原論』(ぱる出版)。ところどころに新しさが見えるが、賃金を純生産物からの分配と捉えるところなどは、従来のマル経の枠組みからはずれている。新古典派と同じ土俵にあがる、ということか。年寄りが注釈すると、マルクスは賃金を純生産物からの「分配」とは見なさなかった。
この論理は分かりにくいかもしれない。賃金は他の原材料などと同様に前払で購入される商品のひとつ。純生産物が産出されようがされまいが、支払われなければならない。分配されるのは、純生産物ではなく剰余価値というのが従来のマル経の説明だった。
参照したのは、111頁。
ishizuka
https://drive.google.com/file/d/1Hv6GbORIxaLAY5zUl8qf6H7CrsUMs5Bz/view
状況2019夏
松尾さんたちの立場とMMTがどれほど違うのか、ということについては拙稿でも触れているので、参考にしていただければと思う。
『情況』 2019夏号論文_MMT.pdf
現代資本主義と貨幣理論
Summer 2019 Situation
51
金融緩和論の陥蜜
50
経済特集 政治とは経済なのである
ロセスである。
まず、ある人がA銀行に一○○万円を現金で預金をす
ある。 現状では、中央銀行の当座預金(以下「当預」)は、
必要な準備の額を大きく超えている。したがって、準備率
の操作は意味をなさないが、基本的にこのような図式で金」
融システムを理解する論者は、この当預の額を積みますこ
と想定しているのであろう。そのような考え方に基づくな
「世の中にお金が出回っているということは、その分中央
銀行が国債を持っているということなんです。だから、中
央銀行の中に、金庫の中に国債が入っているということに
よって、その分お金が出ているということですね。」(*2)
つまり、買いオペで日銀からお金が出て、そのお金が市
中に出回る、 と説明するのであるが、どのようにして、「市
中に出回る」のか、最も重要なそのメカニズムについての
説明はない。おそらくは上述したフィリップス型信用創造
論を想定していると思われる。しかし、日銀が買いオペに
よって供給した資金は、直接銀行の金庫に入るわけではな
らば、国債を買う原資である国民の貯蓄は有限であり、や
がて底をつく、ということになる。この点については後述
る。するとA銀行は、そのうちの決められた割合、たとえ
ば十%、十万円を準備として残し、残りの現金九十万円を
別のひとに融資する。 融資を受けたひとは、その全額をB
銀行に預金する。B銀行はそのうちの十%、九万円を残し、
残りの現金八一万円をさらに別のひとに融資する。その人」
は、その全額をC銀行に預金し、……。この過程が繰り返
されることによって銀行全体としてみるならば、最初の現
金一〇○万円の十倍(十%の逆数倍)の預金が派生的に創
する。
民間銀行の日銀への預け金である当預が何のためにある
のかという基本的な理解に環症がある。上述した松尾との
対談のなかで井上智洋は以下のように発言している。
市中銀行は「中央銀行の当座預金にお金を預けるという
ことをしています。これはもしもの場合に備えて、取り付
け騒ぎとかあったりするとやばいので、みんなが一斉に預
金を下ろそうということが起きたりするとまずいんで、一
部だけはお金をちゃんと確保しておかないといけない、残
りは貸し出しに回すということをやっています。」これは
中銀当預の役割についてのしばしば見られる説明である。
準備の役割は時代とともに変わってきた。準備率の水準は
国によって様々であり、時代によって異なるが、日本のよ
うに一%程度 (*%)の準備では取り付け騒ぎの備えにはな
らない。単純に計算すれば、すべての預金者が自分の預金」
の一%を現金で引き出すという控えめな行動をとっただけ
で準備預金は枯渇することになる。(銀行が保有している
現金は捨象した。)実際には銀行の財務の健全性を担保し
とによって、銀行の貸出行動を変え、市中に出回る貨幣の
量(MS)を操作できると考えている。
この当預を銀行は現金(日銀券)として引き出すこと
ができるので、当預と銀行が保有する日銀券は互換的だが、
両者を併せてベースマネー (BM) とよぶ。通説 (外生説)
ではBMが増えればMSが増える、世の中に出回るオカネ
が増える、という因果関係を想定する。では、BMはどの一
ようにすれば増えるのか。いわゆる買いオペがそれである。
日銀(中央銀行)が、銀行などから国債を買う。するとそ
の代金は当預に振り込まれる。日銀のバランスシートでは
左側に資産としての国債の増加と右側に負債としての当預
の増加が記載されるのだが、そのことによって、通説は民一
間銀行に日銀が作り出したオカネが渡されたと想定する。
世上に流布している金融緩和論の背景にあるのもこのよ
うな考え方である。(*2)このような考え方は貨幣の外生
的供給論と言われる。中央銀行がBMを増やせば、それに
乗数をかけた額だけ銀行の貸出が増えると主張する。その
造される、というのである。準備として残した現金(その
合計は一○○万円)は、中央銀行に当座預金として預けら
このようなプロセスがおよそ現実離れしていることは、
多少なりとも思考を巡らせれば自明なことである。この仮
定では、旺盛な資金需要はつねに存在していて、貸出はほ
ば機械的に連鎖する仕組みになっている。現実にはそのよ
うなことはあり得ない。
しかしながら、通説的な貨幣供給論はこのようなメカニ
ズム(「フィリップス型信用創造論」とよばれる。 (*0)
を前提としている。上記の例示では十%としたが準備率は
法律で定められており、中央銀行はこの準備率を操作する
い。当預に積み増されるだけである。市中に出回るMSと
銀行間の決済に使われる当預(BM)は、いわば仕切りで
区切られた別々のトラックを走っている。当預が増えれば、
民間銀行はそれを引き出して企業などの貸出の原資として
使う、という理解が、反緊縮派の論者に多く見受けられる
のだが、日銀当預の果たしている役割についての誤解がそ
の背後にある。そしてそれは、フィリップス型信用創造論、
すなわち外生的貨幣供給論と結びついている。日銀が銀行
から国債を買う買いオペによって、貨幣が世の中に出回る、
と主張する論者は、では最初に銀行が国債を買うときのオ
カネがどこから出てきたのかについての説明はしない。お
そらくは、銀行が最初に預金を集めてその預金で購入した
原型は金本位制の通説的な理解にある。(*2)金という外
生的に供給される本源的な貨幣の供給量によって銀行券の
ているのは準備率規制ではなく、BIS(国際決済銀行)
による目己資本比率の規制である。 日銀当預が取り付け騒
ことで信用創造をコントロールできる、という考え方で
流通量が規制される、 という考え方である。その金の位置
に日銀の当預がとって替わったのが今日の外生的貨幣供給
論である。金本位制のもとにおいて、なんらかの理由によっ
て金が発券銀行に流入すると、それに応じて銀行券の流通
額が増える、という図式と同型である。
れるのであり、したがってこのような考え方は貨幣供給の
内生説と呼ばれる。預金よりも貸出が先行するというこの
考え方はおそらく多くの人々にとって理解が困難であろう。
経済学者の中においても少数派、異端的な考え方かもしれ
ぎを防ぐためにある、という旧態依然たる理解は銀行間の
決済システムの果たす役割を軽視することの裏返しではな
いかと推測されるが、そのような理解は『『反緊縮!」宣言』
の共著者である朴勝俊にもみられる。当預の役割をこのよ
うに捉える考えかたは、上述したように貨幣供給の外生説、
フィリップス型信用創造論と多くの場合結びつぃているの
だが、朴は信用創造については通説を批判し、内生説の立
場に立つかのように言う。(*S)MMTの良き理解者であ
ることが覗える。
では、日銀の当預は実際にはどのような役割を果たして
いるのか。これは日銀のサイト(*2)に説明されているよ
利に影響を与えるだろうし、それはまた金利間の様々な裁
定メカニズムを通して長期金利にも影響を与えるかもしれ
ない。しかし、最終的にMSにどのような影響を及ぼすの
かといえば、すくなくとも生じた現実を虚心坦懐にみるか
ぎり、準備の増加という金融緩和がMSを増加させたとい
う事実はみられない。日銀がさらに準備預金の金利を引き
下げ、あるいはマイナスにすれば準備は貸出に回ると考え
るひともいるかもしれないが、準備の役割を考えると、そ
れは国債あるいは外貨に対する需要を増やすという効果し
かもちえない。銀行による貸出は資金需要の存在が前提で
あるし、そのうえで銀行による貸付のリスクとリターンの
判断に依存する。 日銀のオペレーションは景気対策ではな
いと言わざるを得ない。
先には、松尾の金融システムにつっいての理解を批判した
が、松尾はいわゆるリフレ派の一部の人々とは異なり、金
融政策を反緊縮のための緩和政策の主軸に据えているので
はないことを付け加えておかなければならない。とりわけ
近年は財政出動の重要性を強調しているように見える。(*
8)介護や子育て、医療などへの公的支出の増加を主張し
ており、その財源として国債の発行とその日銀による買入」
を主張している。(いわゆる「財政ファイナンス」である。)
財政支出の使い道としての松尾の主張に異論はないが、そ
の財源として日銀の国債買取が不可欠であるという考え方
な3°
しかし、銀行の貸出は準備預金の残額によって規制され
るのではない。準備預金の残額とは独立に、銀行が先行し
て貸出をすることによって、貸出債権と預金とが銀行のバ
繰り返すが、ひとびとが手持ちの現金を銀行に預金し、
銀行がその預金を貸し出すのではない。逆である。預金は
銀行の貸出によって創造されるのである。 誤解の無いよう
に重ねて言うが、ここでの銀行は中央銀行ではなく、市中
ランスシートの両側に作り出される。日銀の当預は、それ
らに対し、事後的にアコモデート(用立て)するだけであ
る。このような考え方は、十九世紀の通貨論争において通
貨学派と対立した銀行学派にまで遡ることができる。(*
3)世間の一般的な理解では、銀行は預金を集め、その預
金に利鞘を上乗せした金利で貸し出すというのが金融仲介
機能であると考えられている。しかし、そうではない。銀
行は預金を集める前にまず貸出を行うのである。その際に
原資は不要である。借り手の預金口座に金額を書き込めば一
よい。あくまでも貸付が先行するのである。その結果、銀
銀行である。
このような内生的貨幣供給論と対極的な貨幣観にたつの
うに、主として銀行間の決済のために使われる。したがっ
て、この当預を増やしても、民間銀行はそれを引き出して
が、外生的貨幣供給論である。この国で最近見かけるよう
になったMMTの批判の多くが筆者からするならば的を射
ていないようにみえることのひとつの理由が、批判者が内一
生的貨幣供給論を理解していないことにある。
貨幣供給は金融政策(だけ)でコントロールできる、と
いう考えかたは外生説に立脚している。財政政策について
は論者によってニュアンスが異なるが、無力とされるか、
市場の効率的資源配分機能を歪めるとして弊害が指摘され
る。反緊縮派が財政政策無用論ではないことは言うまでも
ないが、日本での運動を担う論者は基本的には外生説の立
貸出に使う(又貸しする)、というわけにはいかない。一
部の論者がいうように、銀行の金庫に積まれたまま貸し出
されずにいるというわけでもない。現代の金融システムに
おいては、銀行間の決済システムが貨幣として機能してい
行のバランスシートの資産の側には貸付債権が、負債の側
には同じ額の預金があらわれる。この銀行預金こそが貨幣
なのである。 借り手は、その預金口座からの振替によって
取引先に支払することができる。銀行システム全体として
みるならば、預金貨幣はそのシステムの内部から生み出さ
るのであるが、その決済システムを維持するために必要な
準備なのである。
では、日銀のオペレーションはどのようにして実体経済
に影響を及ぼすのだろうか。さしあたりは、日銀による準
場にたって金融政策を理解しているように見受けられる。
たとえば、松尾匡はある対談で以下のように発言してい
備預金の増減は上述したように銀行間決済のための当預を
増減させることにより、その過不足を融通する際の短期金
821 考える名無しさん[sage] 2021/05/19(水) 19:31:30.85 ID:0
>>819
ちなみにゴータ綱領批判の当該部分を引用すれば以下のとおり。
時代の制約のもとに、少年を変革の担い手として考えている。
「児童労働の禁止!」ここでは年齢の限界を明記することが絶対に必要であった。
児童労働の全般的禁止は大工業の存在と両立できない。
だから、それは、空疎な、かなわぬ望みである。
種々な年齢の段階におうじて労働時間を厳格に規制し、
またその他の児童保護の予防手段を実行しさえすれば、
少年時代から生産的労働と教育とを結合することは、
今日の社会を変革する最も有力な手段の一つである。
3-27
資本制的株式企業は協同組合工場と同じように、資本制的生産様式から組合的生産様式への過渡形態と見なされるべきであって、ただ、対立が前者では消極的に止揚され、後者では積極的に止揚されているだけである。
トラクリ文庫246
消極的な揚棄
積極的な揚棄
資本論第三巻
3-27
《資本制的株式企業は協同組合工場と同じように、資本制的生産様式から組合的生産様式への過渡形態と見なされるべきであって、ただ、対立が前者では消極的に止揚され、後者では積極的に止揚されているだけである。》
文庫版トランスクリティーク246頁参照
資本主義的株式企業も、協同組合工場と同様に、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態として見られるべきものであるが、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に止揚されているのである。
岩波文庫7
資本論第三巻
3-27
《資本制的株式企業は協同組合工場と同じように、資本制的生産様式から組合的生産様式への過渡形態と見なされるべきであって、ただ、対立が前者では消極的に止揚され、後者では積極的に止揚されているだけである。》
文庫版トランスクリティーク246頁参照
資本論第三巻
3-27
《資本制的株式企業は協同組合工場と同じように、資本制的生産様式から組合的生産様式への過渡形態と見なされるべきであって、
ただ、対立が前者では消極的に止揚され、後者では積極的に止揚されているだけである。》
JGPは国家が予算を出すが主体は地域にあるから
協同組合へのインセンティブは維持される。
また最低賃金を規定するから資本主義は維持されるかもしれないが改善を迫る
JGPは国家が予算を出すが主体は地域にあるから協同組合へのインセンティブは維持される。
また最低賃金を規定するから資本主義は維持されるかもしれないが企業に改善を迫る。
MMT(モダンマネタリーセオリー)14
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/economics/1625489886/
資本主義的株式企業も、協同組合工場と同様に、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態として見られるべきものであるが、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に止揚されているのである。
岩波文庫7
資本論第三巻
3-27
《資本制的株式企業は協同組合工場と同じように、資本制的生産様式から組合的生産様式への過渡形態と見なされるべきであって、ただ、対立が前者では消極的に止揚され、後者では積極的に止揚されているだけである。》
文庫版トランスクリティーク246頁参照
3:27
信用制度に内在する二面的性格、──一面では、資本制的生産の発条、すなわち、他人の労働の搾取による致富をもっとも純粋かつ巨大な賭博=および詐欺制度に発展させ、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格、だが他面では、あらたな一生産様式への過渡形態をなすという性格、──この二面性こそは、ローよりイザク・ペレールにいたる信用の主要告知者にたいし、詐欺師で予言者だという彼らの愉快な混合性格を与えるものである。
luminous woman
@_luminous_woman
@koharatakaharu 資本論第三巻
3-27
《資本制的株式企業は協同組合工場と同じように、資本制的生産様式から組合的生産様式への過渡形態と見なされるべきであって、ただ、対立が前者では消極的に止揚され、後者では積極的に止揚されているだけである。》
文庫版トランスクリティーク246頁参照
2021/07/19 7:30
https://twitter.com/_luminous_woman/status/1416888025955520515?s=21
亀の習性
クロポトキンは蟹で間違えたとされるが
𝕐o̴g̴
@Yoda4ever
We got your back bro...🐢🌊💪❤️ pic.twitter.com/aeCnBJnKIv
2022/05/07 15:50
https://twitter.com/yoda4ever/status/1522831254743248896?s=21
《労働者が協同組合的生産の諸条件を社会的規模で、まず最初は自国に国民的規模でつくりだそうとするのは、現在の生産諸条件の変革のために努力することにほかならず、国家の補助による協同組合の設立とはなんのかかわりもないものである! 今日の協同組合についていえば、それらは政府からもブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的につくりだしたものであるときに、はじめて価値をもっているのだ。》(『ゴータ綱領草案批判』、山辺健太郎訳) 国民文庫
国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとって替わるべきだと、マルクスはいっているのです。しかし、何らかの国家の補助がないならば、生産者協同組合が資本制企業に敗れてしまうことは避けがたい。だから、マルクスはプロレタリアートが国家権力を握ることが不可欠だと考えました。にもかかわらず、マルクスがラッサールと対立するのは、つぎの点においてです。ラッサールがヘーゲルにならって国家を理性的なものとしてみなしているのに、マルクスは国家を消滅すべきものとして見ていた。その点で、マルクスはあくまでプルードン派なのです。
世界共和国へ
(世界史の構造372頁参照)