木曜日, 5月 01, 2014

哲学入門 (ちくま新書) 戸田山 和久 (著):書評

            ( リンク:::::::::

哲学入門 (ちくま新書) [新書]

戸田山 和久 
本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(369頁にある図はカテゴリー錯誤052だろう)、

                           <社会システム>
                      ________   
          ミリカンとドレツキ 第4章 表 象/ 第3章 情 報 シャノン→ドレツキ
                    /_IL/_II/ |  
       ミリカンvsカミンズ 第2章 機 能/ 第1章 意 味|チューリング
       スティッチ      /_IA/_IG/   | ミリカン サール
                  |   |   |<行為システム> 
                  |   |   |   |フォーダー
              ____|___|___|___|
             /    |  /   /|  /ドーキンス ペレブーム
        ネーゲル/人生の意味| /_第7章 道 徳 / デネット ホンデリック
           / L    |/   /I |/  チャーチランド ライル
          /_______|___/___|<生命システム>
         /       /       /    
   ラプラス / 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /ミリカン ギブソン  
   デネット/ A     /     G / パピノー      
   チザム/_______/_______/  ゲルダー=反表象主義

そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点030)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)

重要トピックは以下、
序:014唯物論支持。017二元論批判
1:080目的論的意味論vs.(3)
2:132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:166情報量→情報内容(1)
4:200志向的記号と自然的記号(3)
5:239志向的表象(3)
6:298決定論と自由(1,2,3)
7:375決定論と責任(2)

論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:017?、5:271、5:295、7:381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3
)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い1と3を2が最終的に媒介する。

ただ田島正樹*も批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう**。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。

参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチ***は著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(421頁)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。


参考:

ララビアータ 田島正樹の哲学的断想
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52368227.html 
<戸田山氏の本の扉には、戸田山氏自身のものかどうか分からないが、「神は死んだ(ニーチェもね極めて特徴的なことに、カントについて著者があっさりとごく表面的に触れている個所がある。

カントの有名な『純粋理性批判』は、感覚を入力するとニュートン力学を出力するシステム(主観)を想定して、そいつはどんなサブタスクをやっているはずか、そのためにはどんな構造(アーキテクチャ)をしているはずかを考えた本だ(p-271)

ここには、カントにあった「批判」がきれいに抜け落ちている。なぜならカントは、ニュートン力学を出力する場合は正しい理性使用であるのに対し、神の存在証明を出力することは理性の不正使用である、と区別する基準を提出しているからである。つまり後者は、同じように感覚的経験を入力して、理性や論理を行使しても、その認識内容が我々の可能的経験を超越しているから、正当な理性使用とは言えないのだ。>
<生物進化の歴史であれば、絶滅した種がよみがえることはないし、いったん断念された分岐点に、後から立ち返ることも不可能である。ミトコンドリアを取り入れた真核生物が、再びそれを放棄することはないし、いったん海に進出したクジラが陸に舞い戻ることもない。馬の先祖で中指だけが発達して蹄になったとき、彼らは比類ない速度を獲得した代わりに、物をつかむ指を失ったが、この失われた可能性を後になって環境が変わったとしても、取り戻すことはできない。

しかし、意味の歴史には、常に敗者復活の可能性が付きまとう。アリストテレスの自然学が、ガリレイの力学の前に否定されたとしても、まったく無意味になったりはしない。それはいわば思考の在庫の中で、厚い層を形成しており、いつか時代の要請のもとで、再び復活することもあろう。それというのも、我々の言語は一つの現象を浮き彫りにすることで、他の側面を抑圧してしまうからで、したがって、すべてをくまなく「一枚の絵に描き込むこと」(p-442)などできないからである。自分の中では明晰で整合的なつもりの思考の中に、思わぬ不整合が存在し得ること。観点や関心抜きの「一枚の完全な絵」は、それを描こうとする観点や欲望を隠蔽しているのに、それに気づきさえしないのである。なぜなら、このような観点や欲望自体は、その絵の中に描き込まれていないからである。…
戸田山氏の本の扉には、戸田山氏自身のものかどうか分からないが、「神は死んだ(ニーチェもね)」という言葉が記されている。その軽薄さからして、いかにも戸田山氏自身がどこかで言いそうな言葉ではあるが、それに対して私は言いたい。「神は復活する(ニーチェもね)」>
**
NAMs出版プロジェクト: Transmutation of Species (1837)
***
http://www.bibalex.jp/Book/06/06079.html
書名:『断片化する理性──認識論的プラグマティズム』
原書名:The Fragmentation of Reason: Preface to a Pragmatic Theory of Cognitive Evaluation
著者:スティーヴン・P・スティッチ  訳者:薄井尚樹
概 要:
著者スティーヴン・P・スティッチはアメリカの哲学・認知科学者。プリンストン大学にて博士号取得。現在はラトガーズ大学教授、シェフィールド大学名誉教授。英米における哲学的認識論の伝統的な問題を捉えなおし、認識の目的は多様であるとする認識論的多元主義を提示する。

その結果それまでの分析哲学において支配的であった、論理実証主義による言語や論理の分析を、プラグマティックな認識論へと転回せしめた。1990年に刊行された本書は、スティーヴン・P・スティッチの哲学的営為の代表的著作であり、分析哲学の方向性を転換させたと評価され、現代哲学を知るうえで重要な文献となっている。
_________
スティッチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳187~8頁。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳150頁など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。
ただしカントによるライプニッツ批判の不当性がつけとしてカント評価にブーメランのように襲いかかってきただけという気もする。


参考:
Ruth G. Millikan "Widening Direct Reference to General Terms"
http://youtu.be/GaasITFDQdg

"I Think I Think, Therefore I Am... I Think" (Fred Dretske) (2/4)
http://youtu.be/3DbdsZf43VM

Daniel Dennett on Tools To Transform Our Thinking

http://youtu.be/EJsD-3jtXz0

Pereboom on Free Will & Meaning
http://youtu.be/bObzpWrhH-Q

応用哲学会‐1(戸田山和久先生)

http://youtu.be/w6vaXn7zG2c


15 Comments:

Blogger yoji said...

ホンデリック175

シェリー
クイーン・マッブ
決定論への賛歌

3:47 午前  
Blogger yoji said...

桜井和美
『クィーン・マブ』においては,シェリーは過去・現在を人間の 過誤の歴史の蓄積と捉え,それをマブに語らせる口調は激しい。そこでシェリーが非難する人 間の過誤とはどのようなものなのか,本詩の中で最も描写が集中している現在に的を絞って見 てみたい。現在の過誤の内訳は,君主政治(第3章),戦争(第4章),商業(第5章),宗教
(第6章・第7章)となっている。この項目から判断すると,シェリーは宗教を最も激しく非 難していることになる。

3:49 午前  
Blogger yoji said...

『京都産業大学論集』人文科学系列第33号(平成17年3月) 99
『クィーン・マブ』における善と悪 櫻 井 和 美
要 旨
本稿は,P.B. シェリーが『クィーン・マブ』において表現した善と悪の性質について考察し ている。
善に関しては,『クィーン・マブ』に登場する「『自然』の魂」に注目する。シェリーによる と,この「魂」は,善と悪という対立物の共在としての神に似た存在である。さらにシェリー は「『自然』の魂」を「必然」と言い換えることによって,決定論的色彩の濃い神のイメージ を与えている。しかしシェリーは「我々は,『必然』の教義によって,これらの語句を適用す る出来事が我々自身の特有の存在形態に関係しているのでなければ,世界には善も悪もないと 教えられている」と語っている。「『自然』の魂」は固有の法則性を持って動く神に相当する存 在ではあるものの,善悪はあくまでも人間の基準で判断されたものであり,『クィーン・マブ』 での「『自然』の魂」は中立的存在として描かれている。
悪に関しては,『クィーン・マブ』には二つの立場が混在している。シェリーは「『魂』の みが唯一の要素だ」と語っている。シェリーは物質が悪だと主張することによって,世界に悪 が実存することを認めているものの,悪を存在論上からは否定している。しかしその一方で,
「『自然』の魂」は「愛と憎の世界を/理解する」とも表現する。このとき善と悪は「魂」自身 に存在することになり,存在論上から肯定してしまっている。
善悪という観点から「『自然』の魂」を捉えると,そこには多くの矛盾がある。『クィーン・ マブ』は善と悪についての答えを暗中模索していた時期の作品であったと考えられる。
キーワード:「『自然』の魂」,善,「必然」,悪,存在論 1.
『クィーン・マブ― 哲学詩,及び注』(Queen Mab; A Philosophical Poem: With Notes,1813 年)はシェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792―1822)が 20 歳の頃に書いた詩1)である。この詩 は献詩(16 行)と本詩(全9章・2289 行)と注釈(全7項目)で構成されていて,彼のいく つかの長編詩の最初のものとして知られている。
本詩の内容はいたって明瞭である。天上に住む妖精の女王マブが,地上の女性アイアンシー
のもとに赴く。そしてマブは眠っているアイアンシーの魂を呼び起こし,天の魔法の宮殿へと
連れていく。その魔法の宮殿で,マブはアイアンシーに地球上で過去・現在に起こった人間の
愚行の様子と,未来の刷新された様子を見せる。そして過去・現在からの教訓と社会の刷新方
法を教えられたアイアンシーが,社会の改革者としての資質を身に付け,再び地上に眠る自分
の肉体へと戻っていくというストーリーになっている。
では,この『クィーン・マブ』においてシェリーは何を意図していたのであろうか? シェ リーは 1812 年2月 24 日付けのゴドウィン(William Godwin, 1756―1836)に宛てた手紙の中で,
次のように書いている。「私は美徳に資するもののみを出版しよう。従って,今後私が出版す
るものは,それがいやしくも他に影響を与えるとすれば,必ずや善に対して影響を与えよう」 2)
(Vol. VIII, 280)。『クィーン・マブ』はこの手紙が書かれた後に執筆が始まり,翌年に出版さ 3)
れたという時間的な点から見ると ,人々を善に導こうとする道徳的立場から執筆していたと 考えられる。
この推測は本詩の構成面に顕著に現れている。全9章から成る本詩の内容を区分すると,導 入(第1章から第2章 108 行目まで),過去の過誤(第2章 109 行目から第3章 13 行目まで), 現在の過誤(第3章 14 行目から第7章まで),未来の理想的社会像(第8章から第9章 137 行 目まで),結末(第9章 138 行目から 240 行目まで)となっている。このような過去・現在・ 未来の様子は,全体の割合で考えると,過去が7%,現在が 55%,未来が 16%となる。この 描写の割合に注目した場合,過去と現在の過誤の様子が全体の 62%を,また未来の理想像が 16%を占めている。これらは,その割合だけから判断しても,当時のシェリーがいかに人間の 善性に対する強い願望を持っていたか,その反面で彼の願望とは対照的に,いかに社会状況を 悪と捉えていたかが伺える。
そこで本稿では,シェリーが『クィーン・マブ』において表現した善と悪の性質についてそ
れぞれ見ていくことにする。

4) 本論中の『クィーン・マブ』本詩の邦訳は,高橋規矩訳『クィーン・マッブ― 革命の哲学詩 ― 』(文化評論出版,1972 年)を使用させて頂いた。

3:51 午前  
Blogger yoji said...

ヘーゲル
ゼノン
哲学史上に言及

同一性の哲学の賞賛

4:03 午前  
Blogger yoji said...

参考:
Ruth G. Millikan "Widening Direct Reference to General Terms"
http://youtu.be/GaasITFDQdg
"I Think I Think, Therefore I Am... I Think" (Fred Dretske) (2/4)
http://youtu.be/3DbdsZf43VM

Pereboom on Free Will & Meaning
http://youtu.be/bObzpWrhH-Q

9:56 午後  
Blogger yoji said...

参考:
Ruth G. Millikan "Widening Direct Reference to General Terms"
http://youtu.be/GaasITFDQdg

"I Think I Think, Therefore I Am... I Think" (Fred Dretske) (2/4)
http://youtu.be/3DbdsZf43VM

Pereboom on Free Will & Meaning
http://youtu.be/bObzpWrhH-Q

9:57 午後  
Blogger yoji said...

本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(369頁にある図はカテゴリー錯誤052だろう)、

                           <社会システム>
                      ________   
          ミリカンとドレツキ 第4章 表 象/ 第3章 情 報 シャノン→ドレツキ
                    /_IL/_II/ |  
       ミリカンvsカミンズ 第2章 機 能/ 第1章 意 味|チューリング
       スティッチ      /_IA/_IG/   | ミリカン サール
                  |   |   |<行為システム> 
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        ネーゲル/人生の意味| /_第7章 道 徳 / デネット ホンデリック
           / L    |/   /I |/  チャーチランド ライル
          /_______|___/___|<生命システム>
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   ラプラス / 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /ミリカン ギブソン  
   デネット/ A     /     G / パピノー      
   チザム/_______/_______/  ゲルダー=反表象主義

そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点030)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)

重要トピックは以下、
序:014唯物論支持。017二元論批判
1:080目的論的意味論vs.(3)
2:132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:166情報量→情報内容(1)
4:200志向的記号と自然的記号(3)
5:239志向的表象(3)
6:298決定論と自由(1,2,3)
7:375決定論と責任(2)

論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:017?、5:271、5:295、7:381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い1と3を2が最終的に媒介する。

ただ田島正樹*も批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう**。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。

参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチ***は著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(421頁)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。

11:53 午後  
Blogger yoji said...

なお、ステッィチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳187~8頁。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳150頁など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。

11:53 午後  
Blogger yoji said...


本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(369頁にある図はカテゴリー錯誤052だろう)、

                           <社会システム>
                      ________   
          ミリカンとドレツキ 第4章 表 象/ 第3章 情 報 シャノン→ドレツキ
                    /_IL/_II/ |  
       ミリカンvsカミンズ 第2章 機 能/ 第1章 意 味|チューリング
       スティッチ      /_IA/_IG/   | ミリカン サール
                  |   |   |<行為システム> 
                  |   |   |   |フォーダー
              ____|___|___|___|
             /    |  /   /|  /ドーキンス ペレブーム
        ネーゲル/人生の意味| /_第7章 道 徳 / デネット ホンデリック
           / L    |/   /I |/  チャーチランド ライル
          /_______|___/___|<生命システム>
         /       /       /    
   ラプラス / 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /ミリカン ギブソン  
   デネット/ A     /     G / パピノー      
   チザム/_______/_______/  ゲルダー=反表象主義

そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点030)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)

重要トピックは以下、
序:014唯物論支持。017二元論批判
1:080目的論的意味論vs.(3)
2:132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:166情報量→情報内容(1)
4:200志向的記号と自然的記号(3)
5:239志向的表象(3)
6:298決定論と自由(1,2,3)
7:375決定論と責任(2)

論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:017?、5:271、5:295、7:381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い(1)と(3)を(2)が最終的に媒介する。

ステッィチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳187~8頁。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳150頁など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。

ただ田島正樹もネット上で批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。

参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチは著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(421頁)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。

11:58 午後  
Blogger yoji said...

本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(369頁にある図はカテゴリー錯誤052だろう)、

                           <社会システム>
                      ________   
          ミリカンとドレツキ 第4章 表 象/ 第3章 情 報 シャノン→ドレツキ
                    /_IL/_II/ |  
       ミリカンvsカミンズ 第2章 機 能/ 第1章 意 味| チューリング
       スティッチ      /_IA/_IG/   | ミリカン サール
                  |   |   |<行為システム> 
                  |   |   |   |フォーダー
              ____|___|___|___|
             /    |  /   /|  /ドーキンス ペレブーム
        ネーゲル/人生の意味| /_第7章 道 徳 / デネット ホンデリック
           / L    |/   /I |/  チャーチランド ライル
          /_______|___/___|<生命システム>
         /       /       /    
   ラプラス / 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /ミリカン ギブソン  
   デネット/ A     /     G / パピノー      
   チザム/_______/_______/  ゲルダー=反表象主義

そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点030)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)

重要トピックは以下、
序:014唯物論支持。017二元論批判
1:080目的論的意味論vs.(3)
2:132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:166情報量→情報内容(1)
4:200志向的記号と自然的記号(3)
5:239志向的表象(3)
6:298決定論と自由(1,2,3)
7:375決定論と責任(2)

論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:017?、5:271、5:295、7:381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い(1)と(3)を(2)が最終的に媒介する。

ステッィチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳187~8頁。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳150頁など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。

ただ田島正樹もネット上で批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。

参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチは著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(421頁)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。

12:00 午前  
Blogger yoji said...

本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(p.369にある図はカテゴリー錯誤p.052だろう)、

                           <社会システム>
                      ________   
          ミリカンとドレツキ 第4章 表 象/ 第3章 情 報 シャノン→ドレツキ
                    /_IL/_II/ |  
       ミリカンvsカミンズ 第2章 機 能/ 第1章 意 味| チューリング
       スティッチ      /_IA/_IG/   | ミリカン サール
                  |   |   |<行為システム> 
                  |   |   |   |フォーダー
              ____|___|___|___|
             /    |  /   /|  /ドーキンス ペレブーム
        ネーゲル/人生の意味| /_第7章 道 徳 / デネット ホンデリック
           / L    |/   /I |/  チャーチランド ライル
          /_______|___/___|<生命システム>
         /       /       /    
   ラプラス / 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /ミリカン ギブソン  
   デネット/ A     /     G / パピノー      
   チザム/_______/_______/  ゲルダー=反表象主義

そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点p.030)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)

重要トピックは以下、
序:p.014唯物論支持。017二元論批判
1:p.080目的論的意味論vs.(3)
2:p.132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:p.166情報量→情報内容(1)
4:p.200志向的記号と自然的記号(3)
5:239志向的表象(3)
6:p.298決定論と自由(1,2,3)
7:p.375決定論と責任(2)

論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:p.017?、5:p.271、5:p.295、7:p.381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い(1)と(3)を(2)が最終的に媒介する。

ステッィチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳p.187~8。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳p.150など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。

ただ田島正樹もネット上で批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。

参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチは著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(p.421)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。

12:04 午前  
Blogger yoji said...

本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(p.369にある図はカテゴリー錯誤p.52だろう)、

                           <社会システム>
                      ________   
          ミリカンとドレツキ 第4章 表 象/ 第3章 情 報 シャノン→ドレツキ
                    /_IL/_II/ |  
       ミリカンvsカミンズ 第2章 機 能/ 第1章 意 味| チューリング
       スティッチ      /_IA/_IG/   | ミリカン サール
                  |   |   |<行為システム> 
                  |   |   |   |フォーダー
              ____|___|___|___|
             /    |  /   /|  /ドーキンス ペレブーム
        ネーゲル/人生の意味| /_第7章 道 徳 / デネット ホンデリック
           / L    |/   /I |/  チャーチランド ライル
          /_______|___/___|<生命システム>
         /       /       /    
   ラプラス / 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /ミリカン ギブソン  
   デネット/ A     /     G / パピノー      
   チザム/_______/_______/  ゲルダー=反表象主義

そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点p.30)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)

重要トピックは以下、
序:p.14唯物論支持。p.17二元論批判
1:p.80目的論的意味論vs.(3)
2:p.132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:p.166情報量→情報内容(1)
4:p.200志向的記号と自然的記号(3)
5:p.239志向的表象(3)
6:p.298決定論と自由(1,2,3)
7:p.375決定論と責任(2)

論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:p.17?、5:p.271、5:p.295、7:p.381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い(1)と(3)を(2)が最終的に媒介する。

ステッィチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳p.187~8。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳p.150など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。

ただ田島正樹もネット上で批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。

参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチは著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(p.421)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。

12:06 午前  
Blogger yoji said...

本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(p.369にある図はカテゴリー錯誤p.52だろう)、

                           <社会システム>
                      ________   
          ミリカンとドレツキ 第4章 表 象/ 第3章 情 報 シャノン→ドレツキ
                    /_IL/_II/ |  
       ミリカンvsカミンズ 第2章 機 能/ 第1章 意 味| チューリング
       スティッチ      /_IA/_IG/   | ミリカン サール
                  |   |   |<行為システム> 
                  |   |   |   |フォーダー
              ____|___|___|___|
             /    |  /   /|  /ドーキンス ペレブーム
        ネーゲル/人生の意味| /_第7章 道 徳 / デネット ホンデリック
           / L    |/   /I |/  チャーチランド ライル
          /_______|___/___|<生命システム>
         /       /       /    
   ラプラス / 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /ミリカン ギブソン  
   デネット/ A     /     G / パピノー      
   チザム/_______/_______/  ゲルダー=反表象主義

そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点p.30)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)

重要トピックは以下、
序:p.14唯物論支持。p.17二元論批判
1:p.80目的論的意味論vs.(3)
2:p.132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:p.166情報量→情報内容(1)
4:p.200志向的記号と自然的記号(3)
5:p.239志向的表象(3)
6:p.298決定論と自由(1,2,3)
7:p.375決定論と責任(2)

論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:p.17?、5:p.271、5:p.295、7:p.381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い(1)と(3)を(2)が最終的に媒介する。

スティッチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳p.187~8。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳p.150など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。

ただ田島正樹もネット上で批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。

参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチは著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(p.421)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。

12:13 午前  
Blogger yoji said...

機能で意識を
意味で無意識を扱うべきだった
土台がないのである

7:47 午後  
Blogger yoji said...

表象=イデオロギーであり、
戸田山の科学主義はイデオロギーなのだがその自覚がない。
哲学以前なのである。

12:27 午前  

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