http://www.freeassociations.org/
参考:
Ruth G. Millikan "Widening Direct Reference to General Terms"
http://youtu.be/GaasITFDQdg
"I Think I Think, Therefore I Am... I Think" (Fred Dretske) (2/4)
http://youtu.be/3DbdsZf43VM
Daniel Dennett on Tools To Transform Our Thinking
Pereboom on Free Will & Meaning
http://youtu.be/bObzpWrhH-Q
応用哲学会‐1(戸田山和久先生)
http://youtu.be/w6vaXn7zG2cホンデリック175
シェリー
クイーン・マッブ
決定論への賛歌
桜井和美
『クィーン・マブ』においては,シェリーは過去・現在を人間の 過誤の歴史の蓄積と捉え,それをマブに語らせる口調は激しい。そこでシェリーが非難する人 間の過誤とはどのようなものなのか,本詩の中で最も描写が集中している現在に的を絞って見 てみたい。現在の過誤の内訳は,君主政治(第3章),戦争(第4章),商業(第5章),宗教
(第6章・第7章)となっている。この項目から判断すると,シェリーは宗教を最も激しく非 難していることになる。
『京都産業大学論集』人文科学系列第33号(平成17年3月) 99
『クィーン・マブ』における善と悪 櫻 井 和 美
要 旨
本稿は,P.B. シェリーが『クィーン・マブ』において表現した善と悪の性質について考察し ている。
善に関しては,『クィーン・マブ』に登場する「『自然』の魂」に注目する。シェリーによる と,この「魂」は,善と悪という対立物の共在としての神に似た存在である。さらにシェリー は「『自然』の魂」を「必然」と言い換えることによって,決定論的色彩の濃い神のイメージ を与えている。しかしシェリーは「我々は,『必然』の教義によって,これらの語句を適用す る出来事が我々自身の特有の存在形態に関係しているのでなければ,世界には善も悪もないと 教えられている」と語っている。「『自然』の魂」は固有の法則性を持って動く神に相当する存 在ではあるものの,善悪はあくまでも人間の基準で判断されたものであり,『クィーン・マブ』 での「『自然』の魂」は中立的存在として描かれている。
悪に関しては,『クィーン・マブ』には二つの立場が混在している。シェリーは「『魂』の みが唯一の要素だ」と語っている。シェリーは物質が悪だと主張することによって,世界に悪 が実存することを認めているものの,悪を存在論上からは否定している。しかしその一方で,
「『自然』の魂」は「愛と憎の世界を/理解する」とも表現する。このとき善と悪は「魂」自身 に存在することになり,存在論上から肯定してしまっている。
善悪という観点から「『自然』の魂」を捉えると,そこには多くの矛盾がある。『クィーン・ マブ』は善と悪についての答えを暗中模索していた時期の作品であったと考えられる。
キーワード:「『自然』の魂」,善,「必然」,悪,存在論 1.
『クィーン・マブ― 哲学詩,及び注』(Queen Mab; A Philosophical Poem: With Notes,1813 年)はシェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792―1822)が 20 歳の頃に書いた詩1)である。この詩 は献詩(16 行)と本詩(全9章・2289 行)と注釈(全7項目)で構成されていて,彼のいく つかの長編詩の最初のものとして知られている。
本詩の内容はいたって明瞭である。天上に住む妖精の女王マブが,地上の女性アイアンシー
のもとに赴く。そしてマブは眠っているアイアンシーの魂を呼び起こし,天の魔法の宮殿へと
連れていく。その魔法の宮殿で,マブはアイアンシーに地球上で過去・現在に起こった人間の
愚行の様子と,未来の刷新された様子を見せる。そして過去・現在からの教訓と社会の刷新方
法を教えられたアイアンシーが,社会の改革者としての資質を身に付け,再び地上に眠る自分
の肉体へと戻っていくというストーリーになっている。
では,この『クィーン・マブ』においてシェリーは何を意図していたのであろうか? シェ リーは 1812 年2月 24 日付けのゴドウィン(William Godwin, 1756―1836)に宛てた手紙の中で,
次のように書いている。「私は美徳に資するもののみを出版しよう。従って,今後私が出版す
るものは,それがいやしくも他に影響を与えるとすれば,必ずや善に対して影響を与えよう」 2)
(Vol. VIII, 280)。『クィーン・マブ』はこの手紙が書かれた後に執筆が始まり,翌年に出版さ 3)
れたという時間的な点から見ると ,人々を善に導こうとする道徳的立場から執筆していたと 考えられる。
この推測は本詩の構成面に顕著に現れている。全9章から成る本詩の内容を区分すると,導 入(第1章から第2章 108 行目まで),過去の過誤(第2章 109 行目から第3章 13 行目まで), 現在の過誤(第3章 14 行目から第7章まで),未来の理想的社会像(第8章から第9章 137 行 目まで),結末(第9章 138 行目から 240 行目まで)となっている。このような過去・現在・ 未来の様子は,全体の割合で考えると,過去が7%,現在が 55%,未来が 16%となる。この 描写の割合に注目した場合,過去と現在の過誤の様子が全体の 62%を,また未来の理想像が 16%を占めている。これらは,その割合だけから判断しても,当時のシェリーがいかに人間の 善性に対する強い願望を持っていたか,その反面で彼の願望とは対照的に,いかに社会状況を 悪と捉えていたかが伺える。
そこで本稿では,シェリーが『クィーン・マブ』において表現した善と悪の性質についてそ
れぞれ見ていくことにする。
4) 本論中の『クィーン・マブ』本詩の邦訳は,高橋規矩訳『クィーン・マッブ― 革命の哲学詩 ― 』(文化評論出版,1972 年)を使用させて頂いた。
ヘーゲル
ゼノン
哲学史上に言及
同一性の哲学の賞賛
参考:
Ruth G. Millikan "Widening Direct Reference to General Terms"
http://youtu.be/GaasITFDQdg
"I Think I Think, Therefore I Am... I Think" (Fred Dretske) (2/4)
http://youtu.be/3DbdsZf43VM
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Ruth G. Millikan "Widening Direct Reference to General Terms"
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"I Think I Think, Therefore I Am... I Think" (Fred Dretske) (2/4)
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本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(369頁にある図はカテゴリー錯誤052だろう)、
<社会システム>
________
ミリカンとドレツキ 第4章 表 象/ 第3章 情 報 シャノン→ドレツキ
/_IL/_II/ |
ミリカンvsカミンズ 第2章 機 能/ 第1章 意 味|チューリング
スティッチ /_IA/_IG/ | ミリカン サール
| | |<行為システム>
| | | |フォーダー
____|___|___|___|
/ | / /| /ドーキンス ペレブーム
ネーゲル/人生の意味| /_第7章 道 徳 / デネット ホンデリック
/ L |/ /I |/ チャーチランド ライル
/_______|___/___|<生命システム>
/ / /
ラプラス / 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /ミリカン ギブソン
デネット/ A / G / パピノー
チザム/_______/_______/ ゲルダー=反表象主義
そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点030)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)
重要トピックは以下、
序:014唯物論支持。017二元論批判
1:080目的論的意味論vs.(3)
2:132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:166情報量→情報内容(1)
4:200志向的記号と自然的記号(3)
5:239志向的表象(3)
6:298決定論と自由(1,2,3)
7:375決定論と責任(2)
論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:017?、5:271、5:295、7:381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い1と3を2が最終的に媒介する。
ただ田島正樹*も批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう**。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。
参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチ***は著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(421頁)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。
なお、ステッィチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳187~8頁。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳150頁など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。
本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(369頁にある図はカテゴリー錯誤052だろう)、
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ミリカンとドレツキ 第4章 表 象/ 第3章 情 報 シャノン→ドレツキ
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デネット/ A / G / パピノー
チザム/_______/_______/ ゲルダー=反表象主義
そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点030)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)
重要トピックは以下、
序:014唯物論支持。017二元論批判
1:080目的論的意味論vs.(3)
2:132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:166情報量→情報内容(1)
4:200志向的記号と自然的記号(3)
5:239志向的表象(3)
6:298決定論と自由(1,2,3)
7:375決定論と責任(2)
論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:017?、5:271、5:295、7:381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い(1)と(3)を(2)が最終的に媒介する。
ステッィチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳187~8頁。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳150頁など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。
ただ田島正樹もネット上で批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。
参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチは著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(421頁)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。
本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(369頁にある図はカテゴリー錯誤052だろう)、
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デネット/ A / G / パピノー
チザム/_______/_______/ ゲルダー=反表象主義
そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点030)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)
重要トピックは以下、
序:014唯物論支持。017二元論批判
1:080目的論的意味論vs.(3)
2:132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:166情報量→情報内容(1)
4:200志向的記号と自然的記号(3)
5:239志向的表象(3)
6:298決定論と自由(1,2,3)
7:375決定論と責任(2)
論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:017?、5:271、5:295、7:381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い(1)と(3)を(2)が最終的に媒介する。
ステッィチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳187~8頁。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳150頁など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。
ただ田島正樹もネット上で批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。
参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチは著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(421頁)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。
本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(p.369にある図はカテゴリー錯誤p.052だろう)、
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そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点p.030)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)
重要トピックは以下、
序:p.014唯物論支持。017二元論批判
1:p.080目的論的意味論vs.(3)
2:p.132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:p.166情報量→情報内容(1)
4:p.200志向的記号と自然的記号(3)
5:239志向的表象(3)
6:p.298決定論と自由(1,2,3)
7:p.375決定論と責任(2)
論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:p.017?、5:p.271、5:p.295、7:p.381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い(1)と(3)を(2)が最終的に媒介する。
ステッィチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳p.187~8。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳p.150など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。
ただ田島正樹もネット上で批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。
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p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチは著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(p.421)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。
本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(p.369にある図はカテゴリー錯誤p.52だろう)、
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チザム/_______/_______/ ゲルダー=反表象主義
そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点p.30)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)
重要トピックは以下、
序:p.14唯物論支持。p.17二元論批判
1:p.80目的論的意味論vs.(3)
2:p.132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:p.166情報量→情報内容(1)
4:p.200志向的記号と自然的記号(3)
5:p.239志向的表象(3)
6:p.298決定論と自由(1,2,3)
7:p.375決定論と責任(2)
論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:p.17?、5:p.271、5:p.295、7:p.381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い(1)と(3)を(2)が最終的に媒介する。
ステッィチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳p.187~8。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳p.150など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。
ただ田島正樹もネット上で批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。
参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチは著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(p.421)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。
本書をT・パーソンズの体系に沿って図解すると以下になる(p.369にある図はカテゴリー錯誤p.52だろう)、
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チザム/_______/_______/ ゲルダー=反表象主義
そして(広義の)情報の上に政治経済といった人間社会が乗る。
(両者を逆にして発生論(=発生的観点p.30)をプラグマチズムに回収するようなことは出来ない)
重要トピックは以下、
序:p.14唯物論支持。p.17二元論批判
1:p.80目的論的意味論vs.(3)
2:p.132起源論的説明vs.因果役割的説明(1,3)
3:p.166情報量→情報内容(1)
4:p.200志向的記号と自然的記号(3)
5:p.239志向的表象(3)
6:p.298決定論と自由(1,2,3)
7:p.375決定論と責任(2)
論争におけるアンチノミーの整理は、二元論ではないものの著書の意に反してカント(序:p.17?、5:p.271、5:p.295、7:p.381に言及あり)に似てくる。第三章における情報量=量や情報内容=質は第一批判(1)に対応し、その後それらを挟んで第五章で目的論的を含む第三批判(3)と同様の議論が展開される。特に第七章にいたっては第二批判(2)と重なる部分が多い。離散的複数の情報源が表象という概念をとり第三批判の主題につながるのだが、カントと違い(1)と(3)を(2)が最終的に媒介する。
スティッチもそうだが、脱分析哲学、認知科学思考一派は、カントを否定的媒介にしている(『断片化~』邦訳p.187~8。他にホンデリック邦訳『あなたは自由ですか?』邦訳p.150など)。戸田山もカントが単数の主体から複数の主体を扱うようになった際の課題を反復している。情報から表象へ、表象から自由への主題の移行はまさにそれだ。カント第一批判から第三批判への移行は論理記号としてまとめられる必要がある。そうでないと無意識の反復が続くことになる。
この点においては柄谷行人の指摘が示唆的だ(カントを批判した数学者たちの努力が数学を総合的だとみなすカントの正しさを逆に歴史的に証明したのだという)。
ただ田島正樹もネット上で批判した進化論への過度の依拠は、カントではなくヘーゲルに似てくるのではないか?
つまり現実が合理的という態度に帰着する危険がある。
進化論は当初から円環モデルという多様性の認知を内包していたことが見直されるべきだろう。
今日の科学哲学のいう多様性は狭いものだということを体現してしまっている。
参考文献にあったゲルダー他著『ハイデガーと認知科学』を読めばわかるが、表象批判は機械論的なもので、ドゥルーズ(p.444)と同じだ。極度の現代哲学忌避がわかりにくさを生んでいるのだ。
p.125-6にある、新しい定義がやり直されるという「理論的定義」が「概念分析」より重要だという指摘や、p.421にあるスティッチから得た「知識とは何かの必要十分条件を概念分析で与えようとする分析哲学的な認識論は不可能だし無用」という見解が重要だろう(その延長でコーンブリスは知識という現象そのものを探究するという)。特にスティッチは著者に分析哲学からプラグマティックな認知科学(情報、生命進化、人工知能)への転向を促したという(p.421)。巻末の参照文献と読書案内はこちらが主であるかと思うくらい非常に役に立つ。
機能で意識を
意味で無意識を扱うべきだった
土台がないのである
表象=イデオロギーであり、
戸田山の科学主義はイデオロギーなのだがその自覚がない。
哲学以前なのである。