弁証法の優先権〜Table of Dühring "Cursus der Philosophie als streng wissenschaftlicher Weltanschauung und Lebensgestaltung"1875
(サルトルは未邦訳の倫理学ノートでエンゲルスとデューリングの対立を再検討しているという。また、プルードンはあまり読んでいないようだが共産党批判で前出のようにその名前に触れている。ただしサルトルは存在と無でプルードンに批判的に言及している。ちなみにマルクスのいう抽象能力と唯物論は矛盾する。ドストエフスキーはその問題に気づいていた。現象学もその方向性にあった。
(《他人と‐共なる‐一対の‐存在》être-en-couple-avec l'autre、共他存在 être-avec-autrui EN.486 水野51頁)
マラルメ、愚鈍論等が『倫理学ノート』に展開される。
竹内芳郎も以下の書籍で少し言及していた。『倫理学ノート』以外が念頭にあったのかも知れない。
参考:
竹内芳郎『サルトルとマルクス主義―『弁証法的理性批判』をめぐって』
(1965年)の要約:
http://ameblo.jp/nrg26058/entry-10894408491.html
【『弁証法的理性批判』の構成】
『批判』第一巻は、形式的には<構成する弁証法>-<反弁証法>-<構成された弁証法>という、いわ ゆる弁証法的トリアーデを形成している。第一の<構成する弁証法>とは、歴史の弁証法を可能にする創造的原点としての<個人的実践>のことであり、第二の <反弁証法>とは、このような実践の疎外態としての<実践的=惰性態>のことであり、最後の<構成された弁証法>とは、この疎外態を突き破って人間が己れ の自由を恢復するために必然的に形成せねばならぬ諸々の<集団的実践>のことである。
…
Notebooks for an Ethics
https://books.google.co.jp/books?id=KXydHTojO9QC
大月20:
188
187
169
154
マルエン21:101
上記の考察はサルトル『弁証法的理性批判』の稀少性を考察した章における反デューリング論への言及に関連する(邦訳1:172頁)。
稀少性が欲求を増殖させる生産諸関係の暴力性をデューリングは直接的暴力ととらえてしまっているという(CRD「稀少性...」)。ただし、デューリングを批判するエンゲルスも同様の見解を述べていて、実は両者は大差ないのである(「倫理学ノート」参照)。
A major event in the history of twentieth-century thought,
Notebooks for a Ethics is Jean-Paul Sartre's attempt to develop an ethics consistent with the profound individualism of his existential philosophy.
In the famous conclusion to
Being and Nothingness,
Sartre announced that he would devote his next philosophical work to
moral problems. Although he worked on this project in the late 1940s,
Sartre never completed it to his satisfaction, and it remained
unpublished until after his death in 1980. Presented here for the first
time in English, the
Notebooks reveal Sartre at his most
productive, crafting a masterpiece of philosophical reflection that can
easily stand alongside his other great works.
Sartre grapples
anew here with such central issues as "authenticity" and the relation of
alienation and freedom to moral values. Exploring fundamental modes of
relating to the Other—among them violence, entreaty, demand, appeal,
refusal, and revolt—he articulates the necessary transition from
individualism to historical consciousness. This work thus forms an
important bridge between the early existentialist Sartre and the later
Marxist social thinker of the
Critique of Dialectical Reason. The
Notebooks
themselves are complemented here by two additional essays, one on "the
good and subjectivity," the other on the oppression of blacks in the
United States.
With publication of David Pellauer's lucid
translation, English-speaking readers will be able to appreciate this
important contribution to moral philosophy and the history of ethics.
Jean-Paul Sartre (1906-1980) was offered, but declined, the Nobel Prize
for literature in 1964. His many works of fiction, drama, and
philosophy include the monumental study of Flaubert,
The Family Idiot, and
The Freud Scenario, both published in translation by the University of Chicago Press.
______
倫理学ノート
海1976.02 (阿呆論は、家の馬鹿息子やデリダの愚鈍論と繋がる。)
中央公論1979.09 (サルトルがヘーゲルの歴史観にとらわれていたことがわかる。)
に鈴木道彦による部分訳あり。
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311後のアンガージュマン(土本典昭『原発切抜帳』を見る)
アン
+
ガーシュ=質に入れる、抵当、方を取られる
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ユダヤ人 (岩波新書) 新書 – 1956/1/16
RQJ: Réflexions sur la question juive, Gallimard, 1985(1946)/安堂信也訳『ユダヤ人』、岩波新書、1956年
魔法使いの肖像 ──サルトル『ユダヤ人問題についての考察』についての考察── 『哲学誌』第50号,2008年3月、東京都立大学哲学会(105~121頁) 永野潤
《反ユダヤ主義者の持ち出す原則を、今、抽象的な命題で言いあらわそうとすれば、次のようなことになろう。即ち、全体は、部分の総和sommeより多く、且つそれと異るものである。全体は、それを構成する各部分の深奥な意味と性格を規定するものである。(……)各個人は、分解不能な全体であって、それが、その勇気、その高邁さ、その考え方、笑い方、飲み方、食べ方を持っているというわけである。
これは、反ユダヤ主義者が、世界を理解するのに、総合の精神esprit de synthèseをもってすることを選んだことを示している。この総合の精神こそ、彼に、自分が、フランス全体と、わかち難い統一を形づくっていると考えさせてくれる。》[RQJ39-40)
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映画 サルトル/自身を語る - allcinema http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=9183
サルトル/自身を語る(1976) SARTRE PAR LUI-MEME メディア 映画
上映時間 190分 製作国 フランス 公開情報 劇場公開(ワークショップ・ガルダ=マドラ)
初公開年月 1977/09/28 ジャンル ドキュメンタリー
11 Comments:
Image.Fukushima vol.9 トーク 國分功一郎 × 田口卓臣
http://youtu.be/oX-ULQnxQjA
311後のアンガージュマン
原発切抜帳
土本典昭 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/土本典昭
土本 典昭(つちもと のりあき、1928年12月11日 - 2008年6月24日)は、記録映画作家 、ルポルタージュ作家。 ...
アン
+
ガーシュ=質に入れる、抵当、方を取られる
田口said
子ども女性がいない
取り込まれている
飲み込まれている
(放射能汚染に)50年代から
アンガージュ
能天気な政治参加
全員がアンガージュされてしまった
〈呼びかけ〉の経験 サルトルのモラル論
著者名等 澤田直/著 ≪再検索≫
出版者 人文書院
出版年 2002.05
大きさ等 20cm 297p
注記 並列タイトル:L’appel a` l’aventure
NDC分類 135.5
件名 サルトル ジャン・ポール
件名 Sartre Jean Paul.
要旨 膨大な遺稿を丹念に読みとき、サルトル思想の核心、不在のモラル論を再構築する。アン
ガジュマンから、自由、応答責任、贈与、共同体、ジェネロジテまで、サルトルからの呼
びかけに、いま、大胆に応答する。
目次 1 文学と哲学をつなぐもの(読者論;モラルの問題);2 モラルとエクリチュール(
呼びかけとは何か;贈与について;アンガジュマン);3 『嘔吐』を読む(植民地問題
への視線;沈黙の共同体;自伝というトポス)
内容 文献あり
タイトル サルトルの倫理思想 本来的人間から全体的人間へ
叢書名 《思想・多島海》シリーズ ≪再検索≫
著者名等 水野浩二/著 ≪再検索≫
出版者 法政大学出版局
出版年 2004.9
大きさ等 20cm 225,3p
NDC分類 135.5
要旨 意識と身体を有する「本来的人間」にとって、他者との不一致という「原初的疎外」を超
えるのは互いの目標追求の自由を認める「相互承認」のみである。この1940年代の「
相互承認」の倫理学から、60年代以降の「ローマ講演」に始まり、『弁証法的理性批判
』での「欲求」概念の深化とともに提起される「全体的人間」の「革命の倫理学」へ、サ
ルトル倫理思想の形成と転換の過程を探る。
目次 第1部 第一の倫理学(一九四〇年代の倫理学)(サルトルにおける倫理学の構想;本来
性のモラル;相互承認論);第2部 第二の倫理学(一九六〇年代の倫理学)(二つの「
ローマ講演」―道徳と政治;「コーネル大学講演」―倫理の無条件的可能性;道徳性の根
源―「欲求」の概念をめぐって);第3部 サルトルの倫理思想の可能性(サルトルの真
理論;サルトルにおける他者論の可能性);結論―本来的人間から全体的人間へ
タイトル 新・サルトル講義 未完の思想、実存から倫理へ
叢書名 平凡社新書 ≪再検索≫
著者名等 澤田直/著 ≪再検索≫
出版者 平凡社
出版年 2002.05
大きさ等 18cm 241p
NDC分類 135.5
件名 サルトル ジャン・ポール
件名 Sartre Jean Paul.
要旨 いま静かにサルトル再評価の動きが始まる。かつての実存主義の枠組みを超えて、没後、
続々と刊行される遺稿(『倫理学ノート』『真理と実存』等)からは、その豊穣な思考の
全体像が立ち上がってくるのだ。自由の果ての倫理とは?哲学・文学の真の冒険とは何か
?責任の問題が見えにくくなった時代の今こそ、テクストの新しい読みによる、甦る「サ
ルトル思想/文学」入門。
目次 プロローグ 新しい世紀のなかのサルトル;1 サルトルのテクストを読む(文学と哲学
をめぐって;実存とメディアの間;歴史としての政治;ひとはなぜ伝記を読むのか);2
サルトルとその時代;エピローグ 私たち自身を読み直すためのサルトル
内容 文献あり 著作目録あり 年譜あり
定有堂書店___... 定有 [ 思想誌 ]
http://homepage2.nifty.com/teiyu/idea/in_1112.html
サルトルの代表的な著作、例えば『弁証法的理性批判』、『自由への道』、『家の馬鹿息子』が未完であることは、よく知られている。 これらは、サルトルの人生がもっと長かったならば刊行されたであろう著作群である。実際、『弁証法的理性批判(第2巻)』(1985)は死後5年たって公刊されている。浩瀚なフローベール論は、晩年のアンガージュマンを少しだけひかえて執筆に時間を割けば、生前に全4巻を世に問うことができた。サルトルは『家の馬鹿息子』だけは何とか完成させたかったようだ(西永良成『サルトルの晩年』中公新書、1988、91-92頁)。
私が本稿で主題とするのは、生前に部分的に出版されていた著作ではなく、遺稿として初めて私たちの目に触れることのできたモラル論-『倫理学ノート』(1947-48執筆、1983)、『真理と実存』(1948執筆、1989)-である。 『真理と実存』は容易に入手できる(人文書院、2000、澤田直訳)。しかし、600頁にも及ぶ『倫理学ノート』は邦訳されておらず、日本語しか解さない読者は、その内容を詳しく把握できない。私は、『真理と実存』のほかに、澤田直『の経験-サルトルのモラル論-』(人文書院、2002)、水野浩二『サルトルの倫理思想-本来的人間から全体的人間へ-』(法政大学出版局、2004)を読むことによって、何とかサルトルのモラル論に近づこうと試みた。管見では、モラル論に関する邦語の研究書は、この2冊しかない。
サルトルの倫理学について、水野と澤田による時期区分は、それぞれ次のようになっている。 水野は、相互承認論と本来性のモラルを目指した「第1の倫理学」(1940年代)から、1960年代の「第2の倫理学」、すなわち、自由(実践)と実践的惰性態との間の弁証法的倫理学への推移を描く。 他方、澤田は、相互承認によってモラルは可能になるという「第1期(1945-49)本来性のモラル」、モラルと政治・社会・歴史的次元が不可分な関係にある「第2期(1960-65)弁証法的モラル」、そして、「第3期(1975-80)対話論的モラル」の3つの段階に分類する。
「第1期」では、『倫理学ノート』、『真理と実存』、「第2期」では、『弁証法的理性批判(第2巻)』、グラムシ研究所における「ローマ講演」(1961、1965)、北爆開始のためサルトルが一方的にキャンセルした「コーネル大学講演草稿」(1965)が代表的な論考となっている。
澤田が取り上げている「第3期」には、基盤となる理論的著作はない。死の7年前(1973)に失明したサルトルは、新左翼運動・毛沢東派(マオイスト)の理論的指導者ピエール・ヴィクトールとの討論によって、『権利と自由』と題される対話論理的モラルを共同執筆する予定であった。それがどのような内容であったかは明らかにされていない。
サルトルは、『真理と実存』で次のように書き遺している(42頁)。
「「自らの時代のために書く」という表現(『レ・タン・モデルヌ』誌、1948-引用者)を、自らの現在のために書くという意味であるかのように人々は理解した。だが、それは違う。それは具体的な未来のために[=へと向けて]、つまり各人それぞれの行為に対する希望と恐れと可能性によって限定された未来のために書くことなのだ。私がその中で活動する真理の領域を限定するのには、五十年か百年の歴史で十分だ。」
執筆から60年以上の時を経て、なぜ、遺稿に固執するのか。「五十年か百年の歴史で十分」であるならば、サルトル哲学の賞味期限はそろそろ失効するはずだ。新しい哲学者の最新の著作を読み解いた方が、よほど現代的課題に接近できるのではないか。
『存在と無』(人文書院、3分冊、1956~1960)を読んだことのある人なら、「あれっ?」と思うはずだ。1400頁を読んできて、私たちはようやく「結論」(第3分冊409頁以下)に到達する。
「結論 Ⅰ即自と対自」において、サルトル節はパワーアップする。「われわれにとって、もろもろの意識の綜合的統一についての問いは、無意味であるように思えた。…われわれが、《全体に関して観点をとること》ができないのは、原理的に、他者が私について自己を否定し、私が他者について私を否定するからである。関係をその積分においてとらえることが永久に私に禁じられているのは、この相互性のゆえである。」(424-425頁)
たちどころに石化してしまうメデューサの「まなざし」。「まなざしにおいて、私の諸可能性の死は、私に、他者の自由を体験させる。」(第2分冊118頁)他者は私にとっての「まなざし」の対象であるか、私自身が他者にとっての「まなざし」の対象であるか、そのいずれかでしかない。これら二つの形態を統一することは不可能である。
そのサルトルが、実に驚くべきことに、道徳を要請するのである。「結論 Ⅱ道徳的展望」の最終段落では、自由と価値に関する疑問文を13も並べた上で、「共犯的な反省」(対象を石化する「まなざし」)を超えた「非共犯的な反省」、すなわち「浄化的な反省」は「道徳的な領域においてしか、その答えを見いだすことができない」として、「われわれは本書につづく著作を、この問題のためにささげるであろう。」と『存在と無』を閉じるのである。
この著作が刊行されたのは1943年。サルトルにとっての「政治の季節」まで約10年。最後のデカルト主義者は、「対自-即自」の二元論の限界を感じていたのだろうか。
「本書に続く著作」の準備段階に位置するのが、『倫理学ノート』、『真理と実存』である。
『真理と実存』を読む限り、『存在と無』の到達地点から前進しているとは言い難い。 ハイデガー流の「存在」を「明るみ」の下に暴き出すこと、それが真理である。「判断は間個人的な現象である。私だけなら判断する必要はない。私は見るのだ。私が判断するのはひとえに他者のためなのだ。…私は、共-存在Mit-Seinのうちに生きているのだし、私が見るのは他人に指し示すためだけなのである。」(35頁)末尾で歴史性にまで言及するサルトルだが、真理の伝達可能性については、理論的進展が見られない。
1946年から48年にかけて集中的に執筆された10冊のノートのうち、散逸を免れたのはわずか2冊でしかない。それらが『倫理学ノート』であり、遺稿の中で最も重要なテキストであると評されている。
遺稿を読んですべてが解決するわけではあるまい。発刊されなかったのは、それなりの事情、例えば理論的挫折があったからだ。 澤田によると、サルトルの構想は次のように整理できる(前掲書74-78頁、273-274頁)。(1)存在の欠如としての実存、(2)物象化の社会的相としての疎外(マルクス主義批判)、(3)疎外された自由、(4)〈疎外〉の範疇、(5)疎外された世界、(6)疎外における自由、(7)回心、非共犯的反省、(8)他者への呼びかけ、(9)モラルの国の意義(有限性のモラル)。
サルトル哲学は、何らかの超越的普遍者-イデア、人間本性、神-を措定しない。澤田によれば、挫折の理由は3つのアポリアとの逢着である。「第一には、何が倫理的規範を根拠づけるのかという〈無根拠性〉であり、第二には、いかにして独自の発話が普遍的なものとなりうるかという〈普遍性の欠如〉であり、第三には、根拠も普遍性もない場合、真理の伝達はどのようにして可能なのかという〈伝達不可能性〉のアポリアである。」(前掲書64頁)
『倫理学ノート』には、次の一節がある(前掲書104頁)。「呼びかけとは自分の投企が外面性をもつこと、つまりそれが他者のために存在することの承認である。呼びかけとは言葉の本源的な意味における献身であり、…呼びかけとはジェネオロジテ(寛大さ、高邁-引用者)である。あらゆる呼びかけには贈与がある。」
未訳なので、コメントしようがない。少しでも早い翻訳を望むばかりだ。したがって、以下の論述はきちんと読み込んだ上での立論ではなく、「呼びかけ」という語に反応した印象に過ぎない。
無意識を決して認めなかったサルトルは、透明性、直接性、非媒介性を求めた。私は、サルトル哲学には「両義的な現象野の厚み」が欠けているのではないか、と考えている。
共時的相互主観性の基盤、直接的な感覚的世界の究極の基盤であると同時に、文化的な成果が流れ込む歴史的な環境世界である「生活世界」(後期フッサール)。他者が私たちをはすかいから襲い、私たちを引きずりこみ、私たちを他者に変え、他者を私たちに変える「志向的越境」(メルロ=ポンティ)。物象化的錯視に陥る以前の如実相である主客未分の渾一態としての「共同主観的四肢構造」(廣松渉)。 廣松が指摘するように、メルロ=ポンティの「肉の存在論」にはカトリックの「聖体拝受」、「合一化(コミュニオン)」が見え隠れする。しかし、廣松の造語には東洋思想の色合いをそれとなく感じないわけではない。宗教とは無関係に見えるフッサールですら、哲学者を人類の公僕と見なしており、理性への深い信仰(コント流の人類教?)が垣間見られる。人間は状況にアンガジェ(拘束)されているのだから、誰しも「作用影響史」(ガダマー)の中に生きている。
同世代であるメルロ=ポンティが後期フッサールの「生活世界」論を発展させたのに対して、サルトルは前期フッサールの「あらゆる意識は何ものかについての意識である」という「志向性」を礎石として、「対自-即自」の哲学を構築した。 私は、サルトルのモラル論には、澤田の挙げた3つのアポリアのほかに、「対自-即自」構造を温存したままでの「呼びかけ」は誰を「名宛人」としているのか、という根源的なアポリアが潜んでいると考えている。 世界は透明でも単層でもない。有限性に囚われた人間は、底なし沼のような深みを前に、なすすべもなく立ち尽くすだけではないのか。 レヴィナスの「顔」のように、一方的に非対称的に倫理を要請するのであれば、あるいは、作品を媒介として他者との自由な交流が可能な「文芸の共和国」に住んでいるのであれば、話は簡単だ。 ファッションのような流行物として哲学を受容する日本では、サルトル哲学は古いのだろうか。しかし、実存主義以降、構造主義、ポストモダン思想は人々を結びつける哲学を産み出しただろうか。人々の連帯を積極的に実践的に主張したのは、「ぬえ」のような「マルチチュード」概念(ネグリ)くらいではなかったか。
人文書院の「サルトル全集」全38巻の収録作を一覧にまとめました。第4巻は未刊です。
サルトルは哲学者としてだけでなく、小説家、劇作家としても知られています。『自由への道』、『弁証法的理性批判』は『存在と無』に並ぶ代表作ですが、いずれも未完です。
『自由への道』、『存在と無』はそれぞれ文庫化されています。全集版は古かったり重かったりするので、買うなら多少高くても文庫版のほうがいいと思います。
サルトル全集
サルトル全集1
自由への道 第1部―分別ざかり(佐藤朔・白井浩司訳)
サルトル全集2
自由への道 第2部―猶予(佐藤朔・白井浩司訳)
サルトル全集3
自由への道 第3-4部―魂の中の死、最後の機会(断片)(佐藤朔・白井浩司訳)
サルトル全集4 - サルトル全集5
壁―短篇集
水いらず(伊吹武彦訳)
壁(伊吹武彦訳)
部屋(白井浩司訳)
エロストラート(窪田啓作訳)
一指導者の幼年時代(中村真一郎訳)
サルトル全集6
嘔吐(白井浩司訳)
サルトル全集7
汚れた手―劇作集
汚れた手(白井浩司訳)
墓場なき死者(鈴木力衛訳)
サルトル全集8
恭しき娼婦―劇作集
蝿(加藤道夫訳)
出口なし(伊吹武彦訳)
恭しき娼婦(芥川比呂志訳)
サルトル全集9
シチュアシオン2―文学とは何か
「レ・タン・モデルヌ」創刊の辞(伊吹武彦訳)
文学の国営化(白井浩司訳)
文学とは何か(加藤周一・白井健三郎訳)
サルトル全集10
シチュアシオン3
沈黙の共和国(白井健三郎訳)
占領下のパリ(小林正訳)
協力者とは何か(白井健三郎訳)
大戦の終末(渡辺一夫訳)
アメリカの個人主義と画一主義(佐藤朔訳)
アメリカの町々(渡辺明正訳)
植民地的都市ニューヨーク(吉村正一郎訳)
アメリカ紹介(生田耕作訳)
唯物論と革命(多田道太郎訳)
革命の神話(多田道太郎訳)
革命の哲学(矢内原伊作訳)
黒いオルフェ(鈴木道彦・海老坂武訳)
絶対の探求(滝口修造訳)
カルダーのモビル(滝口修造訳)
サルトル全集11
シチュアシオン1―評論集
フォークナーの『サートリス』(生田耕作訳)
ジョン・ドス・パソス論(生田耕作訳)
ポール・ニザン著『陰謀』(鈴木道彦訳)
フッサールの現象学の根本的理念(白井健三郎訳)
フランソワ・モーリャック氏と自由(小林正訳)
ヴラジーミル・ナボコフ『誤解』(清水徹訳)
ドニ・ド・ルージュモン『愛と西欧』(清水徹訳)
フォークナーにおける時間性(渡辺明正訳)
ジャン・ジロドゥー氏とアリストテレス哲学(中村真一郎訳)
『異邦人』解説(窪田啓作訳)
アミナダブ(佐藤朔訳)
新しい神秘家(清水徹訳)
往きと復り(鈴木道彦・海老坂武訳)
人と物(鈴木道彦・海老坂武訳)
縛られた人間(渡辺明正訳)
デカルトの自由(野田又夫訳)
サルトル全集12
想像力の問題―想像力の現象学的心理学(平井啓之訳)
サルトル全集13
実存主義とは何か―実存主義はヒューマニズムである(伊吹武彦訳)
サルトル全集14
狂気と天才―劇作(鈴木力衛訳)
サルトル全集15
悪魔と神―劇作(生島遼一訳)
サルトル全集16
ボードレール(佐藤朔訳)
サルトル全集17
ネクラソフ―劇作(淡徳三郎訳)
サルトル全集18
存在と無―現象学的存在論の試み 第1分冊(松浪信三郎訳)
サルトル全集19
存在と無―現象学的存在論の試み 第2分冊(松浪信三郎訳)
サルトル全集20
存在と無―現象学的存在論の試み 第3分冊(松浪信三郎訳)
サルトル全集21
賭はなされた(福永武彦訳)
歯車(中村真一郎訳)
サルトル全集22
シチュアシオン6―マルクス主義の問題1
冒険家の肖像(海老坂武訳)
チトー主義論(山内昶訳)
今の世はデモクラシーなのか(広田正敏訳)
『希望の終り』序文(広田正敏訳)
共産主義者と平和(白井健三郎訳)
サルトル全集23
哲学論文集
想像力(平井啓之訳)
自我の超越(竹内芳郎訳)
情緒論粗描(竹内芳郎訳)
サルトル全集24
アルトナの幽閉者(永戸多喜男訳)
サルトル全集25
方法の問題―弁証法的理性批判序説(平井啓之訳)
サルトル全集26
弁証法的理性批判1(竹内芳郎・矢内原伊作訳)
第1巻 実践的総体の理論 第1部 個人的実践から実践的=惰性態へ
サルトル全集27
弁証法的理性批判2(平井啓之・森本和夫訳)
第1巻 実践的総体の理論 第2部 集団から歴史へ (上)
サルトル全集28
弁証法的理性批判3(平井啓之・足立和浩訳)
第1巻 実践的総体の理論 第2部 集団から歴史へ (下)
サルトル全集29
言葉(白井浩司・永井旦訳)
サルトル全集30
シチュアシオン4―肖像集
見知らぬ男の肖像(三輪秀彦訳)
芸術家と彼の意識(吉田秀和訳)
ねずみと人間(田辺保訳)
生きているジード(白井浩司訳)
アルベール・カミュに答える(佐藤朔訳)
アルベール・カミュ(菅野昭正訳)
ポール・ニザン(鈴木道彦訳)
メルロー・ポンチ(平井啓之訳)
ヴェネツィアの幽閉者(平川祐弘訳)
ジャコメッティの絵画(矢内原伊作訳)
特権を持たぬ画家(矢内原伊作訳)
マッソン(宇佐美英治訳)
指と指ならざるもの(粟津則雄訳)
カプチン修道女の土間(宇佐美英治訳)
ヴェネツィア、わが窓から(宇佐美英治訳)
サルトル全集31
シチュアシオン5―植民地問題
『一つの中国からもう一つの中国へ』(多田道太郎訳)
植民地主義は一つの体制である(多田道太郎訳)
『植民者の肖像と被植民者の肖像』(渡辺淳訳)
「みなさんは素晴しい」(二宮敬訳)
「われわれはみな人殺しだ」(二宮敬訳)
一つの勝利(白井健三郎訳)
「志願者」(白井健三郎訳)
侮蔑の憲法(村上光彦訳)
王さまをほしがる蛙たち(村上光彦訳)
国民投票の分析(永戸多喜雄訳)
夢遊病者たち(永戸多喜雄訳)
『飢えたる者』(鈴木道彦・海老坂武訳)
パトリス・ルムンバの政治思想(鈴木道彦訳)
サルトル全集32
シチュアシオン7―マルクス主義の問題2
ルフォールに答える(白井健三郎訳)
(カナパ)作戦(村上光彦訳)
改良主義と物神(鈴木道彦訳)
ピエール・ナヴィルへの回答(鈴木道彦訳)
スターリンの亡霊(白井浩司訳)
警察が芝居の幕をあける時(渡辺守章訳)
文化の非武装化(杉捷夫訳)
『イヴァンの少年時代』(海老坂武訳)
サルトル全集33
トロイアの女たち(芥川比呂志訳)
サルトル全集34
聖ジュネ―演技者と殉教者1(白井浩司・平井啓之訳)
サルトル全集35
聖ジュネ―演技者と殉教者2(白井浩司・平井啓之訳)
サルトル全集36
シチュアシオン8(鈴木道彦他訳)
ヴェトナム-ラッセル法廷
フランスの問題
イスラエルとアラブ世界
知識人の問題
サルトル全集37
シチュアシオン9(鈴木道彦他訳)
自己に関する考察
小文集
精神分析的対話をめぐって
サルトル全集38
シチュアシオン10
政治評論(鈴木道彦訳)
私自身についての談話(海老坂武訳)
http://ci.nii.ac.jp/naid/40000077428
サルトル「いま 希望とは」-1-(「ヌ-ベル・オプセルヴァトゥ-ル」誌から)
Sartre Jean-Paul
レヴィ ベニイ
海老坂 武 [訳]
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収録刊行物
朝日ジャ-ナル
朝日ジャ-ナル 22(16), p10-19,110〜113, 1980-04-18
朝日新聞社
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