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カント:インデックス)
『カントの批判哲学』ドゥルーズ La philosophie critique de Kant par Gilles Deleuze 1963
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_8.html(本頁)
イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724 - 1804):インデックス
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_6327.html
「基礎づけるとは何か」関連
http://nam-students.blogspot.com/2018/11/quest-ce-que-fonder-2018118.html
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/33992/26827_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf
QU’EST -CE QUE FONDER ? 1955
https://www.webdeleuze.com/textes/218
https://translate.google.com/translate?sl=fr&tl=ja&u=https%3A//www.webdeleuze.com/textes/218
ドゥルーズ体系: 分子化
スピノザ 【 分 析 】
Heidegger、
Kant、
カント
Hegel\ | /
千のプラトー/
ライプニッツ|
ベルクソン
\|/
【規定】
差異と反復ーーー
シネマーーー
意味の論理学【反省】
/|\ [修辞学]
フーコー/ | (
ヒューム)
(
Marx)
アンチ Freud
/
・オイディプス\
サルトル 【 総 合 】
ニーチェ、
Nietzsche
ドゥルーズの関心はフーコーと似ている。共に三批判書全体の「置換体系」(「結論」冒頭:邦訳138頁)としてのシステムを分析しているのだ。ただ、フーコーはそれらを総合する人間学を歴史的に捉え、ドゥルーズは内在的な能力に着目する(初版の副題は諸能力の理説)。そしてドゥルーズの能動への模索はスピノザ的だし、共通感覚(=諸能力の一致)はライプニッツ的だ。普通なら書誌的にカントとスピノザ、ライプニッツに言及するだろうが。またあくまで物自体は共通感覚の契機なのだ。そこでは例えば柄谷行人が物自体をデータを持った未来の他者としたような認識は生まれない。浅田彰なども指摘するように独我論、巨大な一元論になる「危険」(邦訳49頁)もある。それをドゥルーズ自身もわかっているが故に共通感覚が多元論として強調される。ライプニッツ論を準備するものだが、その論考は後期のもの、『襞』などより慎重で精緻だ。
_______
序論 超越論的方法
カントの理性観
能力という語の第一の意味
高次の認識能力
高次の欲求能力
能力という語の第二の意味
能力という語の二つの意味の関係
第一章 純粋理性批判における諸能力の関係
ア・プリオリと超越論的
コペルニクス的転回
総合と立法的悟性
構想力の役割
理性の役割
諸能力間の関係の問題――共通感覚
正当な使用と不当な使用
第二章 実践理性批判における諸能力の関係
立法的理性
自由の問題
悟性の役割
道徳的共通感覚と諸々の不当な使用
実現の問題
実現の諸条件
実戦的関心と思弁的関心
第三章 判断力批判における諸能力の関係
感情の高次形態は存在するか?
美的共通感覚
崇高における諸能力の関係
発生の観点
自然における象徴作用
芸術における象徴作用、あるいは天才
判断力はひとつの才能であるか?
美学から目的論へ
結論 理性の諸目的
諸能力の理説
諸目的の理論
歴史あるいは実現
Quadrige:La philosophie critique de Kant - puf
http://www.puf.com/Quadrige:La_philosophie_critique_de_Kant
Table des matières
Introduction – La méthode transcendantale
La Raison selon Kant –
Premier sens du mot faculté –
Faculté de connaître supérieure –
Faculté de désirer supérieure –
Deuxième sens du mot faculté –
Rapport entre les deux sens du mot faculté
Chapitre premier – Rapport des facultés dans la Critique de la raison pure
A priori et transcendantal –
La révolution copernicienne –
La synthèse et l’entendement législateur –
Rôle de l’imagination –
Rôle de la raison –
Problème du rapport entre les facultés : le sens commun –
Usage légitime, usage illégitime
Chapitre II – Rapport des facultés dans la Critique de la raison pratique
La raison législatrice –
Problème de la liberté –
Rôle de l’entendement –
Le sens commun moral et les usages illégitimes –
Problème de la réalisation – Conditions de la réalisation –
Intérêt pratique et intérêt spéculatif
Chapitre III – Rapport des facultés dans la Critique du jugement
Y a-t-il une forme supérieure du sentiment ? –
Sens commun esthétique –
Rapport des facultés dans le Sublime –
Point de vue de la genèse –
Le symbolisme dans la Nature –
Le symbolisme dans l’art, ou le génie –
Le jugement est-il une faculté ? –
De l’esthétique à la téléologie
Conclusion – Les fins de la raison
Doctrine des facultés –
Théorie des fins –
L’histoire ou la réalisation
Table des matières
I
ntroduction – La méthode transcendantale
La
Raison selon Kant – Premier sens du mot faculté – Faculté de connaître
supérieure – Faculté de désirer supérieure – Deuxième sens du mot
faculté – Rapport entre les deux sens du mot faculté
Chapitre premier – Rapport des facultés dans la Critique de la raison pure
A
priori et transcendantal – La révolution copernicienne – La synthèse et
l’entendement législateur – Rôle de l’imagination – Rôle de la raison –
Problème du rapport entre les facultés : le sens commun – Usage
légitime, usage illégitime
Chapitre II – Rapport des facultés dans la Critique de la raison pratique
La
raison législatrice – Problème de la liberté – Rôle de l’entendement –
Le sens commun moral et les usages illégitimes – Problème de la
réalisation – Conditions de la réalisation – Intérêt pratique et intérêt
spéculatif
Chapitre III – Rapport des facultés dans la Critique du jugement
Y
a-t-il une forme supérieure du sentiment ? – Sens commun esthétique –
Rapport des facultés dans le Sublime – Point de vue de la genèse – Le
symbolisme dans la Nature – Le symbolisme dans l’art, ou le génie – Le
jugement est-il une faculté ? – De l’esthétique à la téléologie
Conclusion – Les fins de la raison
Doctrine des facultés – Théorie des fins – L’histoire ou la réalisation
La philosophie critique de Kant
par Gilles Deleuze 1963
TABLE DES MATIÈRES
INTRODUCTION. - La méthode transcendantale. . . . . 5
La Raison selon Kant, 5.
- Premier sens du mot faculté, 8.
- Faculté de connaître supérieure, 9.
- Facultéde désirer supérieure, 11.
- Deuxième sens du mot faculté,13.
- Rapport entre les deux sens du mot faculté, 15.
CHAPITRE PREMIER. - Rapport des facultés dans la Critique de la Raison pure. . . . . 19
A priori et transcendantal, 19.
- La révolution copernicienne,22.
- La synthèse et l'entendement législateur, 24 .
-Rôle de l'imagination, 28.
- Rôle de la raison, 29.
- Problème du rapport entre les facultés: le sens commun, 33.
-Usage légitime, usage illégitime, 37.
CHAPITRE II. - Rapport des facultés dans la Critique de la Raison pratique . . . . 42
La raison législatrice, 42.
- Problème de la liberté, 44.
-Rôle de l'entendement, 48.
- Le sens commun moral et les usages illégitimes, 52.
- Problème de la réalisation, 56.
Conditions de la réalisation, 60.
- Intérêt pratique et intérêt spéculatif, 63.
CHAPITRE III. - Rapport des facultés dans la Critique du Jugement .. . . . . . . . . 67
y a-t-il une forme supérieure du sentiment?, 67.
- Sens commun esthétique, 70.
- Rapport des facultés dans leSublime, 73.
- Point de vue de la genès e, 75.
- Le symbolisme dans la Nature, 78.
- Le symbolisme dans l'art, ou le génie, 81.
- Le jugement est-il une faculté ?, 84.
- De l'esthétique à la téléologie, 87.
CONCLUSION. - Les Fins de la raison. . . . . . . . . . 97
Doctrine des facultés, 97. - Théorie des fins, 99.
L'histoire ou la réalisation, 104.
BIBLIOGRAPHIE SOMMAIRE . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .109
別訳:
カントの批判哲学 諸能力の理説/ジル・ドゥルーズ/中島盛夫
ジル・ドゥルーズ 著 / 中島 盛夫 訳 出版社 法政大学出版局
発売日 1984年01月 シリーズ名叢書ウニベルシタス 147
http://blog.livedoor.jp/ppdwy632/archives/51237175.html
カントの批判哲学 Gilles Deleuze: LA PHILOSOPHIE CRITIQUE DE KANT, Press Universitaire de France, Coll, 《Quadrige》, 2004, c1963
(ちくま学芸文庫)
○著者: ジル・ドゥルーズ、國分功一郎 訳
○出版: 筑摩書房 (2008/1, 文庫 237ページ)
○価格: 924円
≪目次: ≫
序論 超越論的方法
カントの理性観/能力という語の第一の意味/高次の認識能力/高次の欲求能力/能力という語の第二の意味/能力という語の二つの意味の関係
第一章 純粋理性批判における諸能力の関係
ア・プリオリと超越論的/コペルニクス的転回/総合と立法的悟性/構想力の役割/理性の役割/諸能力間の関係の問題――共通感覚/正当な使用と不当な使用
第二章 実践理性批判における諸能力の関係
立法的理性/自由の問題/悟性の役割/道徳的共通感覚と諸々の不当な使用/実現の問題/実現の諸条件/実戦的関心と思弁的関心
第三章 判断力批判における諸能力の関係
感情の高次形態は存在するか?/美的共通感覚/崇高における諸能力の関係/発生の観点/自然における象徴作用/芸術における象徴作用、あるいは天才/判断力はひとつの才能であるか?/美学から目的論へ
結論 理性の諸目的
諸能力の理説/諸目的の理論/歴史あるいは実現
簡易参考文献表
原註
訳注
訳者解説/國分功一郎 1 カント哲学の教科書としての『カントの批判哲学』(a.認識能力の場合『純粋理性批判』 b.欲求能力の場合『実践理性批判』 c.感情能力の場合『判断力批判』)/2 ドゥルーズ哲学形成一契機としての『カントの批判哲学』(a,いかなる意味でカントはドゥルーズの『敵』だったのか? b.カントのどこを乗り越えねばならなかったのか? c.新しい超越論哲学の企て1――ライプニッツと「特異性‐出来事」 d.新しい超越論哲学の企て2――ベルクソンと「潜在性」 e.分かり易いドゥルーズ哲学)/3 カントとドゥルーズの自然史
≪著者: ≫ ジル・ドゥルーズ (Gilles Deleuze) 1925-95年。フランスの哲学者。1970年よりパリ第8大学教授。60年代以降の言語論的な転回、ポスト構造主義の思想的文脈のなかで思索を重ね、主著『差異と反復』(1968年)などを世に問う。また、ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』(1972年)、『千のプラトー』(1980年)は、精神分析やマルクス主義の概念を援用した資本主義社会論として、大きな影響を与えた。
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ体系:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_72.html
ドゥルーズ体系: 分子化
スピノザ 【 分 析 】
Heidegger、
Kant、
カント
Hegel\ | /
千のプラトー/
ライプニッツ|
ベルクソン☆
\|/
【規定】
差異と反復ーーー
シネマーーー
意味の論理学【反省】
/|\ [修辞学?]
フーコー/ | (
ヒューム)
(
Marx)
アンチ Freud
/
・オイディプス\
サルトル 【 総 合 】
ニーチェ、
Nietzsche
補記:
「先験的な経験論は、反対に、(カントのように)経験的なものを引き写す
ことによって先験的なものを描くなどということをしない唯一の手段なのである」
(『差異と反復』邦訳単行本p.224。邦訳文庫上383頁(原著p187))
2015年11月23日、ドゥルーズ早稲田シンポジウムの2日目、江川隆男も鈴木泉も
『差異と反復』の同じ部分を引用していたのが印象的だった。カントに批判的に触
れた部分だ。
超越論的演繹がカントによる心理的投影にすぎないというのは正しい。
しかしそれは自分に跳ね返ってくるたぐいの批判だ。AOのように精神分析の批判的
導入(超越論的経験論?)が必須となる。
潜在的
実在的+可能的
現働的
virtualité
réalité+possibilité
actualité
千のプラトーはアンチ・オイディプスに対して潜在的なものであり、
分子化を分析として捉え直すべきだ(國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』単行本63-4頁参照)。
《 選言的三段論法がそのすべての効力を発揮するのは、まさに神学についてのカントのテーゼ、異常で特に皮肉なテーゼに関してである。つまり、神は選言的三段論法の原理もしくは主人として提示されている。こうしたテーゼを理解するためには、カントが一般的に観念と三段論法とのあいだに設定するつながりを想起しなくてはならない。理性は観念と呼ばれるような特別な概念によって最初に規定されるものではない。むしろ理性は、悟性の諸概念を扱う或る種のやり方として規定される。つまり、ひとつの概念が与えられると、理性はその外延全体のなかで把握された概念で、それが関係する対象に第一の概念を帰属させる条件を作るような概念を探す。これが三段論法の性質である。死ぬということがソクラテスに帰属すると、その外延全体のなかで把握されてこの帰属(すべての人間)を条件付ける概念が求められる。このようにして、理性の歩みは、ひとつの難点に直面しないならば特別な問題を生じはしないだろう。ひとつの難点というのは、悟性がカテゴリーと呼ばれる独自の概念を持っているということである。…》
ドゥルーズ意味の論理学法政366頁
"Je est un autre."
― Arthur Rimbaud (13 mai 1871)
「私は他人(ひと)である。」
ドゥルーズ批評と臨床第5章 カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について 2/4
「〈私〉とは他者である……」
──ランボー、一八七一年五月イザンバール宛て書簡、
一八七一年五月十五日ドゥムニー宛て書簡。
思考の様態あるいは魂の内包的[intensif]運動としての、もう一つの古めかしい時間の考え方があった。それは、一種の精神的で修道士的な時間である。デカルトのコギトが実行するのは、その還俗、世俗化である。すなわち、「私は思考する」は瞬間的な規定行為であり、この行為は一つの無規定な実存(私は存在する)を伴い、かつ、思考する実体の実存としてその実存を規定する(私は一つの思考する物[chose]である)。だが、どんなやり方でそれが「規定可能」であるかが示されないとしたら、いったいどうしてその規定が無規定なものにまでおよぶことができよう? ところで、このカント的要求は、つぎのような解決以外の解決を残さない。すなわち、無規定な実存が規定可能なものになるのは、ただ時間の内部においてのみ、時間という形式のもとでのみであるということだ。それゆえ、「私は思考する」は時間を触発するのであり、時間の中で変化し、一瞬ごとに意識のある度合いを呈示する、そんな自己の実存のみを規定するのである。規定可能性の形式としての時間は、したがって、魂の内包的運動に従属しているのではない。そうではなく、反対に、瞬間における意識の度合いの強度的[intensive]生産こそが、時間に従属しているのだカントは、時間の第二の解放を実行し、その世俗性を完成するのである。
…
ハムレットとは、懐疑主義の人ないし疑いの人ではなく、〈批判〉の人なのだ。私は時間という形式によって自己自身から分離されているが、にもかかわらず、私は一つである。なぜなら、〈私〉はこの形式をその綜合を行ないつつ必然的に触発するから、それもただ単に別の部分へと継起していく一つの部分についてではなく、一瞬ごとに、その綜合を行ないつつそうするからであり、そして〈自我〉はこの形式における内容として必然的に〈私〉によって触発されているからである。この規定可能なるものの形式は、規定された〈自我〉が規定作用を一つの〈他者〉としてみずからに表象するようにするのである。要するに、主体という狂気は、蝶番のはずれた時間に対応しているのだ。それはまるで、時間における〈私〉と〈自我〉との二重の背き合いであり、時間こそが両者を関係づけ、縫い合わせているのである。
ある意味で、カントはランボーよりも先へ進んでいる。というのも、ランボーの偉大な表現がその力のすべてを獲得するのは、ただ学校教育の想い出を通してのみだからである。ランボーがその表現によって差し出しているのは、アリストテレス流の解釈である──「木がヴァイオリンになるのも仕方がないことなのです!……銅が目覚めるとラッパになっていたとしても、銅の落ち度ではありません……」。ここにあるのは、一つの概念─対象関係のごときもの、それも、概念は現働態にある形式だが、対象のほうはただ単に潜勢態にある質料であるような概念─対象関係のごときものである。これは鋳型であり、鋳造である。カントにとっては、反対に、〈私〉とは概念ではなく、すべての概念を伴う表象である。そして〈自我〉とは対象ではなく、すべての対象がまるでそれ自身の継起的諸状態の持続的変動に、そして瞬間におけるそのさまざまな度合いの無限の変調にそうするようにしてみずからを関係づけるところのものである。概念─対象関係はカントにおいても存続しているが、それは、もはや鋳造[moulage]ではなく変調[modulation]を構成するような〈私─自我〉関係によって二重化されているのである。…
1/4
「〈時間〉の蝶番がはずれている(1)……」
──シェイクスピア『ハムレット』第一幕第五場
…Out of jointな時間、つまり蝶番のはずれた扉が意味しているのは、第一の偉大なカント的逆転である。すなわち、運動こそが時間に従属するのだ。時間は、もはや時間が測定する運動に関係づけられはしない。そうではなく、運動が時間に従属し、時間のほうが運動を条件づけるのである。
3/4
「認識できぬ法の数々によって支配されるのは、何たる刑苦であることか!
……というのも、それらの法の性質は
かくしてその内容について秘密を要求するからである」──カフカ『万里の長城』
それは法というものと言っても同じことだ。…
…
…『実践理性批判』において、カントは法と〈善〉の関係の逆転を行なっており、かくして、純粋にして空虚な単一性にまで法を押し上げている。〈法〉の告げることが善であり、善は法に従属するのであって、その逆ではない。
4/4
「あらゆる感覚の錯乱[dérèglement]によって未知なるものへ
到達すること、……それも、長く、広大で、熟慮にもとづいた、
あらゆる感覚の錯乱によって」──ランボー、前掲書簡。
あるいはむしろ、あらゆる能力の錯乱的=規則解体的[dérèglé]行使。これこそが、『判断力批判』における深くロマン主義的なカントによる第四の表現であるだろう。…
…諸能力は、本質的に不協和な調和をかたちづくっているのである。不協和音の解放、不調和な調和──これこそが、『判断力批判』の偉大なる発見であり、カントの最後の転倒である。結合する分離は、『純粋理性批判』における、カントの最初の主題であった。しかし、彼が最後に発見したのは、調和する不協和である。これは、未来の哲学を定義することになるあらゆる能力の錯乱的=規則解体的な行使である──ちょうどランボーにとって、あらゆる感覚の錯乱が未来の詩を定義するべきだったのと同じように。不協和音としての、そして不調和な調和としての一つの新しい音楽、時間の源泉。
それゆえに、われわれは四つの表現を提起した。…これは、カントへの関係においてはもちろん恣意的なものだが、現在と未来のためにカントがわれわれに残してくれたものとの関係においては恣意的ではない。…この事柄は、カント哲学の四つの詩的表現のうちにこそその展開を見出すのである。これは、カントのシェイクスピア的側面である。それはハムレットとして始まり、リア王として終わり、カント以後の哲学者たちがその娘となるだろう。》
《…Out of jointな時間、つまり蝶番のはずれた扉が意味しているのは、
第一の偉大なカント的逆転である。すなわち、運動こそが時間に従属す
るのだ。時間は、もはや時間が測定する運動に関係づけられはしない。
そうではなく、運動が時間に従属し、時間のほうが運動を条件づけるのである。》
「カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について」『批評と臨床』第5章
(同箇所をベイトソンは『精神と自然』の最終章章題に使用)
シネマ1,2もまたカント哲学に対応しているということになるだろう。
26 Comments:
カント上383頁(p187)3:
超越論的経験論
「先験的な経験論は、反対に、(カントのように)経験的なものを引き写す
ことによって先験的なものを描くなどということをしない唯一の手段なのである」
(単行本p.224)
20151123ドゥルーズ
2日、江川隆男も鈴木泉も『差異と反復』の同じ部分を引用していたのが印象的だった。
カントに批判的に触れた部分だ。
ドゥルーズを整理するとカントが必要になるということだ。
ガタリはカント的四分割を採用するから、ガタリとの共闘以降、カントがより潜在的に重要になる。
器官なき身体は主にMPで展開される。スピノザの名の下にあるCsOはしかし、
カント的に言えば、分析的、数学的に位置づけられる。それは潜在性と同じ意味だ。
私見では、シネマイメージもサドも、潜在性に位置づけられる。
potential
real+possible
actual
68年は右下、現働的かつ可能性を維持した出来事として位置づけられる。
CsOは出来事ではない。
"Je est un autre."
― Arthur Rimbaud (13 mai 1871)
「私は他人(ひと)である。」
ドゥルーズ批評と臨床第5章 カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について 2/4
「〈私〉とは他者である……」
──ランボー、一八七一年五月イザンバール宛て書簡、
一八七一年五月十五日ドゥムニー宛て書簡。
思考の様態あるいは魂の内包的[intensif]運動としての、もう一つの古めかしい時間の考え方があった。それは、一種の精神的で修道士的な時間である。デカルトのコギトが実行するのは、その還俗、世俗化である。すなわち、「私は思考する」は瞬間的な規定行為であり、この行為は一つの無規定な実存(私は存在する)を伴い、かつ、思考する実体の実存としてその実存を規定する(私は一つの思考する物[chose]である)。だが、どんなやり方でそれが「規定可能」であるかが示されないとしたら、いったいどうしてその規定が無規定なものにまでおよぶことができよう? ところで、このカント的要求は、つぎのような解決以外の解決を残さない。すなわち、無規定なものにまでおよぶことができよう? ところで、このカント的要求は、つぎのような解決以外の解決を残さない。すなわち、無規定な実存が規定可能なものになるのは、ただ時間の内部においてのみ、時間という形式のもとでのみであるということだ。それゆえ、「私は思考する」は時間を触発するのであり、時間の中で変化し、一瞬ごとに意識のある度合いを呈示する、そんな自己の実存のみを規定するのである。規定可能性の形式としての時間は、したがって、魂の内包的運動に従属しているのではない。そうではなく、反対に、瞬間における意識の度合いの強度的[intensive]生産こそが、時間に従属しているのだカントは、時間の第二の解放を実行し、その世俗性を完成するのである。
1/4
「〈時間〉の蝶番がはずれている(1)……」
──シェイクスピア『ハムレット』第一幕第五場
3/4
「認識できぬ法の数々によって支配されるのは、何たる刑苦であることか!
……というのも、それらの法の性質は
かくしてその内容について秘密を要求するからである」
──カフカ『万里の長城』
それは法というものと言っても同じことだ。…
4/4
「あらゆる感覚の錯乱[dérèglement]によって未知なるものへ
到達すること、……それも、長く、広大で、熟慮にもとづいた、
あらゆる感覚の錯乱によって」
──ランボー、前掲書簡。
あるいはむしろ、あらゆる能力の錯乱的=規則解体的[dérèglé]行使。これこそが、『判断力批判』における深くロマン主義的なカントによる第四の表現であるだろう。…
関本洋司サイト:ゴダール、ランボー、ディランその他 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/51992044.html
ゴダール『気違いピエロ』のラストより
(女)見つけた
(男)何を (女)永遠を
(男)それは海
(女)そして太陽
Elle est retrouvée.
Quoi ? - L'Eternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil.
http://poesie.webnet.fr/poemes/France/rimbaud/9.html
また見つかった、
何が、
永遠が、
海と溶け合う太陽が
(小林秀雄訳)
これはランボーの『地獄の季節』のなかの詩の一節だが、有名な詩を独白ではなく男女の掛け合いにした点にゴダールの才能を感じる。
「私は他者である」というランボーのこれまた有名な言葉を内在的に使用したと言えるし、デリダの脱構築とも重なる。
このラストシーン(海へのパン)は溝口健二の『山椒大夫』へのオマージュとも言われるが、ゴダールはいい題材と出会うとき、というより「彼が生涯育んできた理念に<触れた>とき」傑作をつくるとタルコフスキーが正確に論評していた(『映像のポエジア』p110)。トリュフォーはゴダールがいい映画を作るのは若者を題材にした時だとも語っていた、、、
さて、ランボーの「私は他者である」という言葉だが、この言葉に関してディランはこう書いている。
「同じころ、こうしたことに加えて、スージーに教えられてフランスの象徴派の詩人、アルチュール・ランボーの詩を読むようになった。
そして「わたしはべつのだれかである」という題の彼の書簡を知った。このことばを見たとき、鐘が一気に鳴りはじめた。ぴったりのことばだった。どうしてもっと早くだれかがそう言ってくれなかったのかと思った。そのことばは、(ロバート・)ジョンソンの暗い夜の魂にも、ウディ(・ガスリー)の熱っぽい組合集会の説法にも、海賊ジェニー(ブレヒト)で学んだ歌づくりの基本概念にもうまくなじんだ。すべてが変わりはじめ、わたしはその入り口に立っていた。わたしはやがて準備を万端に整え、生き生きとした力にあふれ、エンジンをフル回転させ、一歩を踏み出すことになる。… 」
(『ボブ・ディラン自伝』邦訳pp357-358より。()内は引用者が補足しました。)
ランボーの言葉は、「見者の手紙」と言われるパリコミューンが失敗する前に書かれた手紙のなかにあるものだが、僕が好きな手紙は、パリコンミューンのあとの落胆したランボーの手紙だ。その手紙でランボーはまったく異なった殊勝な文面を綴っている(「私は働きたいのです、、、私は疲れた足です、、、」)。
さて、ゴダールやバディウは政治革命への幻影を引きずっているが、ランボーは「砂漠の商人」となることでその幻影を振り払った。
以下は1980年代に話題になった日本のCMより。
Suntory Whisky Royal CM -Arthur Rimbaud- (LongVer.) 1982
ディランはライブを続ける自身を井戸を掘る人間に喩えていたが、商人と詩人を兼任していると言っていいかも知れない。ランボーの時代のように外部があるわけではないのだ。
以上、話が脱線しましたが、詩人たち同士の交歓が盛んだという主旨だと受け取って下さい。
脱線ついでにランボーの詩(sensation)にメロディをつけた人がいるようなので紹介します。
Sensation
Par les soirs bleus d'été, j'irai dans les sentiers
Picoté par les blés, fouler l'herbe menue:
Rêveur, j'en sentirai la fraîcheur à mes pieds.
Je laisserai le vent baigner ma tête nue.
Je ne parlerai pas, je ne penserai à rien:
Mais l'amour infini me montera dans l'âme,
Et j'irai loin, bien loin, comme un bohémien,
Par la nature, - heureux comme avec une femme.
夏の青い宵に 僕は行くだろう、小径をとおり、
麦の穂につつかれ、こまかな草を踏もうと、
夢想家の僕は、草の夕べの冷気を足に感じ、
風にあらわな顔をまかせたまま。
僕は話すまい、 何も考えまい、
しかし無限の愛が魂にこみあげてくるだろう
そして僕は行こう、遥かに遠く、ジプシーのように、
自然のなかを、女の人と一緒のように幸せに。
by : フランス 四季と愛の詩
(mixiランボーコミュニティより)
http://nam-students.blogspot.jp/2014/11/blog-post_19.html
参考
ランボーの右足 XXIV.
http://homepage3.nifty.com/false/garden/rimbaud/rimbaud24.html
ランボーのお見合いなんてまるで冗談みたいな話だが、満更ふざけていたわけでもなさそうだ。上記の手紙では、何とその後に釣書がつづく。
僕の財産は、今手元にあります。いつでも好きなときに使えます。
ティアン氏は、三十年もアデンで暮らしているとても立派な商人で、僕はアフリカのこの地方での彼の共同経営者なわけです。提携するようになってから、これで二年半になります。それに加えて、一人で自分のための事業もしています(*注149)。しかし適当な機会が見つかり次第、こちらのほうは精算してしまうことができます。
僕は海岸にむけて、金、麝香、象牙、コーヒーなど、この地方の産物を隊商に乗せて送りだしています。ティアン氏と共同でしているこの事業では、利益の半分が僕の取り分です。
なお問い合わせは、アデンのフランス領事ド・ガスパリ氏か彼の後任者になされば十分です。
ただしアデンには誰一人、僕を悪く言える人はいません。この国では十年来、僕は誰からもよく見られていますから。
物好きな人はご自由に。
ハラルには、領事館も、郵便局も、道路も、何もありません。ここにはラクダに乗って来るのです。そしてまるきり黒人たちばかりとの生活です。しかし結局、ここでは人は自由なのです。気候もいいところです。
これが今の状態です。
(同上)
カント以前という場合カント自身も含むならドゥルーズはカント以前と言ってもいい
ただその場合でもカントの解釈が更新される必要がある
質と量の次にそれらを止揚するものとして「度」がある
ヘーゲルの場合止揚に力点を置くがドゥルーズは運動過程に力点がある
ドゥルーズの場合アンチノミーは維持される
個体が維持されるといってもいい
ドゥルーズが出来事を捉えるには
ニーチェからスピノザ、スコトゥスに遡行する必要があった
ただそれでもドゥルーズは常に敵としてのカントを踏まえている
出来事とはカントのカテゴリーで言えば様相のことだから
ヘーゲルの論理学は以下の構成になっている
(大部分の方、文字ズレ失礼します)
/\
(絶対理念)
(生命) 理念 (認識)
/______\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ <概念論>/\
/推論\ /__\
/ 主観的\ / 客観 \
/概念__判断\/______\
/\ /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\/______\/______\
質→量→度というのが最初に来る
カントの4つのカテゴリーを3つにしたのだ
ちなみに宇野弘蔵はこのヘーゲル論理学の構成を参考に経済原論を書いた
(そもそもマルクスが資本論を書く前にヘーゲル論理学を勉強していた)
ヘーゲル自身は自分がカントを超えたと(愚かにも)思っていただろう
その意味ではドゥルーズは自身がカントを超えたとは思っていない
スピノザを超えたとも思っていない
批評と臨床
#5
(ハムレット)
Out of jointな時間、つまり蝶番のはずれた扉が意味しているのは、第一の偉大なカント的逆転である。すなわち、運動こそが時間に従属するのだ。時間は、もはや時間が測定する運動に関係づけられはしない。そうではなく、運動が時間に従属し、時間のほうが運動を条件づけるのである。
《…Out of jointな時間、つまり蝶番のはずれた扉が意味しているのは、
第一の偉大なカント的逆転である。すなわち、運動こそが時間に従属す
るのだ。時間は、もはや時間が測定する運動に関係づけられはしない。
そうではなく、運動が時間に従属し、時間のほうが運動を条件づけるのである。》
「カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について」『批評と臨床』第5章
シネマ1,2もまたカント哲学に対応しているということになるだろう。
ドゥルーズをカントに接続させるには可能を仮言に
分析を分子化に変換するといいアクロバティックな概念操作が必要
だがやる価値はある
"Je est un autre." ― Arthur Rimbaud (13 mai 1871)
「私は他人(ひと)である。」
ドゥルーズ『批評と臨床』第5章「カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について」(2/4)
《「〈私〉とは他者である……」 ランボー…
…カント的要求は、つぎのような
解決以外の解決を残さない。すなわち、無規定な実存が規定可能なものになるのは、ただ
時間の内部においてのみ、時間という形式のもとでのみであるということだ。それゆえ、
「私は思考する」は時間を触発するのであり、時間の中で変化し、一瞬ごとに意識のある
度合いを呈示する、そんな自己の実存のみを規定するのである。規定可能性の形式としての
時間は、したがって、魂の内包的運動に従属しているのではない。そうではなく、反対に、
瞬間における意識の度合いの強度的[intensive]生産こそが、時間に従属しているのだ
カントは、時間の第二の解放を実行し、その世俗性を完成するのである。
…
ハムレットとは、懐疑主義の人ないし疑いの人ではなく、〈批判〉の人なのだ。…
…要するに、主体という狂気は、蝶番のはずれた時間に対応しているのだ。それはまるで、
時間における〈私〉と〈自我〉との二重の背き合いであり、時間こそが両者を関係づけ、
縫い合わせているのである。
…
ある意味で、カントはランボーよりも先へ進んでいる。…
…カントにとっては、反対に、〈私〉とは概念ではなく、すべての概念を伴う表象である。
そして〈自我〉とは対象ではなく、すべての対象がまるでそれ自身の継起的諸状態の持続的
変動に、そして瞬間におけるそのさまざまな度合いの無限の変調にそうするようにしてみず
からを関係づけるところのものである。概念─対象関係はカントにおいても存続しているが、
それは、もはや鋳造[moulage]ではなく変調[modulation]を構成するような〈私─自我〉
関係によって二重化されているのである。…》
3/4
《「認識できぬ法の数々によって支配されるのは、何たる刑苦であることか!
……というのも、それらの法の性質は
かくしてその内容について秘密を要求するからである」──カフカ『万里の長城』
それは法というものと言っても同じことだ。…
…
…『実践理性批判』において、カントは法と〈善〉の関係の逆転を行なっており、
かくして、純粋にして空虚な単一性にまで法を押し上げている。〈法〉の告げるこ
とが善であり、善は法に従属するのであって、その逆ではない。…》
4/4
《「あらゆる感覚の錯乱[dereglement]によって未知なるものへ
到達すること、……それも、長く、広大で、熟慮にもとづいた、
あらゆる感覚の錯乱によって」──ランボー、前掲書簡。
…
あるいはむしろ、あらゆる能力の錯乱的=規則解体的[deregle]行使。これこそが、
『判断力批判』における深くロマン主義的なカントによる第四の表現であるだろう。…
…
…諸能力は、本質的に不協和な調和をかたちづくっているのである。不協和音の解放、
不調和な調和──これこそが、『判断力批判』の偉大なる発見であり、カントの最後の
転倒である。結合する分離は、『純粋理性批判』における、カントの最初の主題であっ
た。しかし、彼が最後に発見したのは、調和する不協和である。これは、未来の哲学を
定義することになるあらゆる能力の錯乱的=規則解体的な行使である──ちょうどラン
ボーにとって、あらゆる感覚の錯乱が未来の詩を定義するべきだったのと同じように。
不協和音としての、そして不調和な調和としての一つの新しい音楽、時間の源泉。
それゆえに、われわれは四つの表現を提起した。これは、カントへの関係においてはもちろん
恣意的なものだが、現在と未来のためにカントがわれわれに残してくれたものとの関係においては恣意的ではない。
…この事柄は、カント哲学の四つの詩的表現のうちにこそその展開を見出すのである。これは、カントのシェイクス
ピア的側面である。それはハムレットとして始まり、リア王として終わり、カント以後の哲学者たちがその娘となるだろう。》
ドゥルーズ『シネマ2 時間=イメージ』英訳版への序文 より
…
なぜ第二次世界大戦は一個の変化とみなされるのか? 実はヨーロッパでは、もはやどう
反応すればいいかわからないような状況や、もはやどう描写すればいいかわからないような
空間が戦後の時代にぐっと増加したのである。見捨てられて誰も住まないような、廃倉庫や、
不毛の大地や、破壊あるいは再建の途上にある都市などといった「空間以上の何ものでもない
空間」だ。そして空間以上の何ものでもない空間には、ミュータントのたぐいの、新種の
登場人物が跋扈する。彼らは行動するよりまず見ようとする、見者たちである。それゆえ
ロッセリーニの三部作、『ヨーロッパ1951年』、『ストロンボリ、神の土地』、『ドイツ零
年』に出てくるのは、破壊された都市にいる子供であり、ストロンボリ島にいる異邦の女性
であり、周りにあるものを「見る」ことにつとめはじめるブルジョワ女性なのである。状況は
異常なものであるか、あるいは真逆に日常の陳腐なものであったり、またその両者が同時に
あらわれていたりする。崩壊しつつあるもの、あるいは少なくともそのポジションを失いつつ
あるものこそが、古い映画の行動=イメージを構成していた感覚=運動図式である。そして
感覚=運動の結びつきがゆるめられたおかげで、スクリーン上にあらわれてきたのが「純粋
状態にある若干の時間」という時間なのだ。時間は運動に由来するものであるのをやめて、
それそのものとしてあらわれるとともに「偽りの運動」として自らをあらわす。それゆえ
現代映画においては「つなぎ間違い」が重要なのであって、イメージどうしはもはや理に
かなったカット割りやつながりによって結びつけられることもなく、間違ったつなぎ方と不
合理なカット割りによって結びつけなおされる。身体でさえもが、もはやまったく運動する
もの、すなわち運動の主体あるいは行動の道具ではなくなり、むしろ時間の現像者[レヴェ
ラトゥール]となって、その飽きや待ちぼうけを通して時間を見せつけるようになる。
…
ジル・ドゥルーズ 1988年7月
http://blog.livedoor.jp/aryusan_nikki/archives/51568752.html
第二節 カントの超越論哲学における有限性と発生の問題――講義「基礎づけるとは何か」(1956-1957) ................................................................................................ 69 講義「基礎づけるとは何か」(1956-1957) ........................................................... 69 カント哲学における基礎づけの原理――可能性の条件、局所化、限界化 ............ 70 カントとハイデガーの共通性とその意義 ............................................................. 73 ポスト・カント主義によるカント批判 ................................................................. 77 カント哲学における有限性と発生の問題 ............................................................. 79
しかしながら『カントの批判哲学』は、カントの三批判書(『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』)を分析し、それらの関係を体系的に説明したものに過ぎない。すなわち、一見したところそれは、あくまでもカント哲学の一般的な概説でしかなく、そこにドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景をあらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけてドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけていたのかを知る手がかりとなるだろう。 パリのルイ・ルグラン校にて行われたこの講義は、高等師範学校受験のための準備学級の講義(Cours hypokhâgne)であるとはいえ、そこには極めて重要な論点が多く含まれている。とりわけ、(Kerslake 2009)も指摘しているように、1969年に発表される『差異と反復』で展開される議論のほとんどは、すでにこの講義内において論じられていると言えるだろう55。プラトン、デカルト、ライプニッツ、カントをはじめ、言及される哲学者は非常に多く、また、扱われる題材も哲学だけではなく、神話、数学、文学と多岐に渡る。それでもやはり、講義全体の骨格を成しているのはカントであり、ここからもドゥルーズの関心事がその超越論哲学の分析にあったことは明らかである。ここでは、われわれの文脈に必要な論点だけを取り出し、それを『カントの批判哲学』におけるドゥルーズの関心がどこにあるのかを特定する手がかりとしよう。 カント哲学における基礎づけの原理――可能性の条件、局所化、限界化 この講義の目的は、その題目にもあるように、「基礎づける(fonder)」という行為がどのようなものあるのか、また、それが哲学史上どのように展開されているのかを論じること55 (Kerslake 2009)によれば、この講義録がリシャール・ピナスによって運営するサイト(webdeleuze.com)に掲載されたのは2006年である。これは当時ドゥルーズの学生であったPierre Lefebvre によって書き取られた講義ノートを元にして再現されたものである(11)。ただ、ところどころ部分的な欠如があるうえに、それがどのような転記作業を経て作成されたものなのかということは明確ではない。したがって、これを一次資料としてどこまで信頼できるのかということについては別途検討する必要があるだろう。
である。 ドゥルーズはここでもまた、ヒュームが「認識するとは何か」(qu’est-ce que connaître?) と問うことによって、哲学史においてはじめて、基底の問題(le problème de fond)を提起したとして評価している。そして、ヒュームを経てその超越論哲学を構想したカントに至り、そこからハイデガーへと展開された過程をドゥルーズは説明する。そのなかで、ドゥルーズが集中的に吟味するものこそカント哲学における「超越論的(transcendantal)」という語の示す内容である。この部分は、『経験論と主体性』および『カントの批判哲学』と重複する内容を含んでいるが、ドゥルーズの解説を追って整理しておこう。 たとえば、「太陽は明日昇るだろう」という判断を考えてみる。この判断には、「明日」と「昇るだろう」という項が含まれているが、これらは経験的な所与としては与えられない。なぜなら、われわれが経験的に知りうるのは、過去に太陽が昇ったこと、また、これまでに絶えず昇ってきたことだけであるからだ。この意味で、「太陽は明日昇るだろう」という言明は、そうした経験的な所与を超えた判断であると言える。これによって、ヒュームは、「認識とは〔所与を〕超えること(dépassement)」であると定義したとドゥルーズは言う。 では、このような認識はいかにして可能なのか。すでに指摘したように、ヒュームは、そうした認識的判断を可能にする原理を、対象の側にではなく主体の側に求める。すなわち、経験は類似した事例(太陽が昇ること)の反復を与えるだけであり、この反復は対象それ自体にはいかなる変化も与えない。しかし、この反復は、それを観照する側を変容させる。つまり、事例の反復は、観念間の連合に一定の傾向性を与え、これによって主体の情念と想像が固定されることになる。こうして、単なる観念のコレクションであった精神は、未来を予期し、到来する出来事を信じる主体へと変容する。つまり、ヒュームにおいて、認識の原理は、主体の側にある人間本性に見出されるのであって、それは、所与のただなかにおいて、とりわけ合目的性という経験的な原理によって形成されるということだ。 ヒュームが認識の基礎づけの問題を、対象(自然)の側にではなく、主体の側に位置づけ、主体が構成される過程を分析することでこれに答えようとしたことをドゥルーズは評価している。哲学史的な事実として、それが、カントにおける「コペルニクス的転回」を準備した論点であることは言うまでもない。しかし、注目すべきことにドゥルーズは、「ヒュームは、一般に問題を提起したが、それに答えはしなかった。彼にとって原理は心理的であるように思われる」(webdeleuze.com)と述べ、こうした「ヒュームの解答は途方もなく期待外れであるように思われる」(webdeleuze.com)と評価を下している。 こうしたヒュームの議論を受けたカント哲学にとっての課題とは、したがって、認識を基礎づける原理としての主体を、いかにして心理的観点に還元することなく規定するのかということになる。そこでカントが取った方策は、ヒュームのように、所与としての自然に従った人間本性の形成を説くのではなく、むしろ自然の側を人間本性に従わせるということである。すなわち、「カントがわれわれに言うのは、人間本性は所与を超え、さらにそ
こでは、自然はこの超出に従うということだ」(webdeleuze.com)。ではそれをカントはどのように説明するのか。 カントによれば、所与(自然)は、われわれの人間本性が従っている原理と同じ原理に従っているのでなければならない。なぜなら、太陽が、あるときには昇り、あるときには昇らなかったりしたならば、経験的な構想力(想像)は、「太陽が明日昇るだろう」という判断を見出す機会を失うだろうからだ56。すなわち、「太陽が明日昇るだろう」と私が言うとき、所与である限りの太陽は、私の経験に先立って、太陽に対する私の意識が依存している原理と同じ原理に従っていなければならない。これを経験的な所与によって基礎づけることができないのはもちろん、主体の心理的傾向性(習慣)に還元することはできない。なぜなら、所与のみならず、それを当の所与として経験する主体でさえ、同一の原理に従って現れる結果に過ぎないからだ。ヒュームの経験論とカント哲学の対立点はまさにここにある。そして、このように経験的、個別的な主観から区別され、経験に先立ってそれを可能にしている原理こそが、超越論的主観性と呼ばれるものだ57。 ここまでの議論は、ヒュームに対するカントの優位性が明確に述べられている点を除けば、『経験論と主体性』で論じられていたものと大きな相違はない。ただし、この講義でドゥルーズは、さらにカント哲学における基礎という考えを、次の三つの特徴によって説明している。 第一に、カントにおいて基礎とは、可能性の条件であるとドゥルーズは言う。カント哲学にとって超越論的条件は、経験の可能性ではなく、経験が可能となるための条件である。すなわち、超越論的条件は、経験的対象そのものの実在に直接適用されるのではなく、あくまでも、対象がわれわれにとって経験されるうるための条件に過ぎない。ドゥルーズによれば、こうしたカントの可能性の捉え方は、矛盾を含まないことによって可能性を規定し、可能性のなかにその実在を含める古典的な哲学と対立するものであり、可能性という語の意味を変形させている。すなわち、カントにおいて「実在するものはつねに観念に外在する。可能的なものから実在への移行はない。実在は概念のなかに与えられるのではなく、それが与えられるのは空間と時間においてである」(webdeleuze.com)。この意味で、基礎とは、空間と時間という、われわれの経験が可能となるための条件であって、対象が実在するための条件ではない。 第二に、基礎は局所化する(localiser)。カントにとって現象とは、その後ろに何らかの実在や存在を隠し持ったものの現れ(apparence)ではない。現象は、それが現象として現れる限りにおいて存在である(l’être en tant qu’il apparaît)。基礎が認識を可能にするのは、この現象の領域においてのみである。したがって、認識の範囲を超えたヌーメノン(可想体le
56 Cf. (ES: 123)。『純粋理性批判』の辰砂の例であるが、ドゥルーズは『カントの批判哲学』においても同じ事例に言及している(PCK: 20-21)。 57 『純粋理性批判』においてそれは、三つの総合(直観における覚知の総合、構想力における再現の総合、概念における再認の総合)として規定されることになる。これに対するドゥルーズの見解については、第五章で詳しく論じる。
noumène)は認識の対象とはならない。 基礎づけられるもの、すなわち認識は、本質的に認識に関係づけられていたものによって厳密に定義される場所のなかに位置づけられる。そこから次のような見事な公式が生じる。すなわち、「認識は経験とともにしか始まらないが、認識は経験から派生するのではない」。カントは経験論者と合理論者を乗り越えるし、あるいは乗り越えるつもりである。(webdeleuze.com) われわれは何らかの対象やその対象についての何かを、経験に先立って、すなわちア・プリオリに知ることはできない。この意味で、認識は経験とともにしか始まらない。しかし、それが現象である限り、いかなる対象であろうとも、それはつねに時間と空間のなかにおいて与えられ、また、一と多、因果性といった条件に必然的に従っていることをわれわれは知っている。したがって、直観の形式である時間と空間、さらに、質、量、因果性をはじめとする一連のカテゴリー(悟性概念)こそが、われわれの経験を可能にする超越論的条件である。このような、経験に先立って、対象をわれわれの認識に従わせる条件がなければ、認識は決して生じえないのだから、これら認識を可能にする条件は、経験によって与えられるものではない。この超越論的条件は、われわれの認識の可能性を、この条件に従って現れる現象に局限することになる。 第三に、基礎は、認識可能な範囲を限界づける(limiter)ものでなければならない。カントが明らかにした超越論的条件は、われわれの経験的な認識(現象)に対してのみ適応される。にもかかわらず、われわれは常に、こうした認識の限界を超えて思考しようとする形而上学的傾向を持つとカントは考える。たとえば、認識の可能性の条件であるカテゴリーが、直観の形式を介することなく、対象それ自体を認識させると考えてしまう傾向をわれわれは持っている。あるいは、因果性の原理によって、魂や世界、神といったものが実在すると想定してしまう。これらは、われわれの理性や悟性に本来的に備わった誤謬推理であり、われわれの認識はつねにその内側から、こうした形而上学的傾向性に付きまとわれている。ドゥルーズが指摘するように、カント哲学の重要性は、「認識の敵はもはや、単なる誤謬ではなく、ある傾向性によって、すなわち、固有の限界を乗り越えるという錯覚によって、内側から脅かされている」(webdeleuze.com)ことを自覚した点にある。したがって、基礎である超越論的条件の探求は、認識が越えることのできない限界を自ら与えなければならない。 以上が、カントの超越論哲学における「基礎づけ」が意味するものとしてドゥルーズが理解している論点である。 カントとハイデガーの共通性とその意義 こうした超越論哲学についての議論が、『カントの批判哲学』における、とりわけ『純粋
基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2018/11/8
ジル・ドゥルーズ (著), 國分 功一郎 (翻訳), 長門 裕介 (翻訳), 西川 耕平 (翻訳)
関連論考
ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の 問題を中心に
小林, 卓也
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/33992/26827_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf
《ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景をあらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけてドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけていたのかを知る手がかりとなるだろう。 》
基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫 2018/11/8
ジル・ドゥルーズ (著), 國分 功一郎 (翻訳), 長門 裕介 (翻訳), 西川 耕平 (翻訳)
関連論考
ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の 問題を中心に
小林, 卓也
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/33992/26827_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf
《…ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景を
あらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけて
ドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。
この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その
当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけて
いたのかを知る手がかりとなるだろう。 》
三章質問ソクラテス
ドクサの状態? それは、一方では他方で、本質的なテーマを持っています。 それは部分的な真理を肯定し、そのようなものとしてそれらを肯定します:それはその天才、それ自身の真実に触れるとき。 彼女が絶対的と断言するのは部分的な真実です。 一方では一方で意見の最悪の敵です:doxaは違いを作ります。
「哲学の悲しみ」におけるマルクスの美しいテキスト。 プルードンの哲学は、一方では弁証法があると信じているため、小柄なブルジョワの哲学である、と彼は言う。 マルクスは、この段階にとどまる考えは小ブルジョアの意見であると述べている。 オピニオンはこのレベルで主要テーマを共有しています。 意見の構造は予算枠の構造に基づいている。 哲学にはこの状態があります。 常識は哲学の目標です。 彼女は常識の主張を哲学であると非難する。 常識は真実を株式に分ける。 彼は部分的な真実であるため、分配するが、奪取する悪魔的な誇りを持っています。
デカルトのフレーズ: "常識は世界最高のものです"は、自発的に漫画の面があります。 エッセンスによる常識は分配し、分配する。 この文章には内部の不思議さがあります。 ただコンテキストを見て、誰も私はばかだと言う。 デカルトは言います。 それは非常に暑いが非常に危険です。 哲学の面白い方法:実際には愚か者がいる、デカルトは言うが、法律は決してない。 愚かさの問題は個々の心理学に言及される。 この解釈は深刻で...疑わしい。 彼は真実と偽に縮小される思考の理論的問題の愚かさを排除した。 ですから、常識の本質的なルールは流通です。
確認:ヘーゲルは、 "フィヒテのシステムとシェリングシステムの違い"では、常識的な反対と哲学に関する素晴らしいページを書いています。 ヘーゲルは、絶対的な感情だけではなく、真実が単純な部分的な真実として捉えられているが、それを絶対的に提示することで真実の底に提示しているこの段階を越えて行きたいと思っている(マルクスにもプルードンについて)。 絶対は感情の対象にすることはできません。 真実は部分的真実ではありません。 これはヘーゲルのコンセプトです。
ソクラテス・アイロニーの秘密:対話は流通に進む。 すべての部分的な真理は、矛盾した真実によって進歩すると考えています。 ソクラテスはちょうど彼女に矛盾するのに十分なドクサを取った。 部分的な真実は部分的な真理に反し、矛盾する。 外見上、それは対話の良い組織であり、実際それは対話の抑圧ですが、内在の抑圧です。 そうすれば、独裁者は唯一の解決策、怒りを持っています。 doxaは彼の絶対的な揺れの感覚を感じる。 すべての意見は一致しています。 逆説的ではありません。 パラドックスは、分布がお互いに矛盾する領域を見つけることを目指しています。 古代人とソクラテス人も逆説的であった。 芸術のアイデアについての邪悪な野蛮人の現代のパラドックスを見てください。 数学はそれらを解決するためにここにあります。 島では、ルール:それはあなたが撮影されて間違っている場合は、あなたが絞首刑にされている場合は文を発音すると言う。 見知らぬ人が「私は撃たれる」と言うまで、私たちはもう彼を撃つことはできません。
『基礎づけるとは何か』第3章でドゥルーズが珍しくプルードンに言及しているが
あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の認識で原典に当たっていないのがわかる
『基礎づけるとは何か』第3章ソクラテス関連でドゥルーズが珍しくプルードンに批判的に
言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の認識であり、原典に当たっていない
のがわかる
多分ベンヤミンの引用した文章も知らない
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
- 1858 - De la justice dans la Révolution et dans l’Eglise - Tome I
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ベンヤミンが参照したのは、
CUVILLIER, Armand – "Marx et Proudhon" in A la Lumière du marxisme, obra colectiva (Tomo II), Paris, Éditions sociales interna¬tionales, 1937, 240 p.180
『基礎づけるとは何か』第3章ソクラテス関連でドゥルーズが珍しくプルードンに批判的に
言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の認識であり、原典に当たっていない
のがわかる。
多分ベンヤミンが引用した以下の言葉も知らない。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
『基礎づけるとは何か』第3章ソクラテス関連でドゥルーズが珍しくプルードンに批判的に
言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の認識であり、原典に当たっていない
のがわかる。
多分ベンヤミンが引用した以下の言葉も知らない。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)に孫引きされている。
以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
アンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
http://www.kagomma.net/saito/travaux/economie.html
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」37)。
基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫 2018/11/8
ジル・ドゥルーズ (著), 國分 功一郎 (翻訳), 長門 裕介 (翻訳), 西川 耕平 (翻訳)
ネットで公開されている「ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の 問題を中心に」なる
小林卓也氏の論考にはこうある。
《…ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景を
あらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけて
ドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。
この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その
当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけて
いたのかを知る手がかりとなるだろう。 》
ヒュームとカント以外にもソクラテスについて書いている。第3章ソクラテス関連でドゥルーズが珍
しくプルードンに批判的に言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の認識であり、
原典に当たっていない
のがわかる。
多分ベンヤミンが引用した以下の言葉も知らない。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)に孫引きされている。
以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
アンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」
プルードン『経済学』草稿(未刊行、邦訳なし)、邦訳なしより
「プルードンの未発表手編『経済学』について」斉藤悦則から孫引き
基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫 2018/11/8
ジル・ドゥルーズ (著), 國分 功一郎 (翻訳), 長門 裕介 (翻訳), 西川 耕平 (翻訳)
ネットで公開されている「ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の 問題を中心に」なる
小林卓也氏の論考にはこうある。
《…ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景を
あらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけて
ドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。
この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その
当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけて
いたのかを知る手がかりとなるだろう。 》
ドゥルーズはヒュームとカント以外にもソクラテスについて書いている。第3章ソクラテス関連で
ドゥルーズが珍しくプルードンに批判的に言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の
認識であり、原典に当たっていないのがわかる。
多分ベンヤミンが引用した以下の言葉も知らない。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHP「矛盾と生きる――プルードンの社会主義」より)
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)に孫引きされている。
以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
アンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」
プルードン『経済学』草稿(未刊行、邦訳なし)、邦訳なしより
「プルードンの未発表手編『経済学』について」斉藤悦則から孫引き
基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫 2018/11/8
ジル・ドゥルーズ (著), 國分 功一郎 (翻訳), 長門 裕介 (翻訳), 西川 耕平 (翻訳)
ネットで公開されている「ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の 問題を中心に」なる
小林卓也氏の論考にはこうある。
《…ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景を
あらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけて
ドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。
この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その
当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけて
いたのかを知る手がかりとなるだろう。 》
ドゥルーズはヒュームとカント以外にもソクラテスについて書いている。第3章ソクラテス関連で
ドゥルーズが珍しくプルードンに批判的に言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の
認識であり、原典に当たっていないのがわかる。
多分ベンヤミンが引用した以下の言葉も知らない。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHP「矛盾と生きる――プルードンの社会主義」より)
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)に孫引きされている。
ただしドゥルーズは無意識にプルードンを受け継いでいる。
以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
アンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」
プルードン『経済学』草稿(未刊行、邦訳なし)、邦訳なしより
「プルードンの未発表手編『経済学』について」斉藤悦則から孫引き
基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫 2018/11/8
ジル・ドゥルーズ (著), 國分 功一郎 (翻訳), 長門 裕介 (翻訳), 西川 耕平 (翻訳)
ネットで公開されている「ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の問題を中心に」なる
小林卓也氏の論考にはこうある。
《…ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景を
あらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけて
ドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。
この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その
当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけて
いたのかを知る手がかりとなるだろう。 》
ドゥルーズはヒュームとカント以外にもソクラテスについて書いている。さらに第3章ソクラテス関連で
ドゥルーズが珍しくプルードンに批判的に言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の
認識であり、原典に当たっていないのがわかる。
多分ドゥルーズはベンヤミンが引用した以下の言葉も知らない。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHP「矛盾と生きる――プルードンの社会主義」より)
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)に孫引きされている。
ただしドゥルーズは無意識にプルードンを受け継いでいる。
以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
アンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」
プルードン『経済学』草稿(未刊行、邦訳なし)、邦訳なしより
「プルードンの未発表手編『経済学』について」斉藤悦則から孫引き
基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫 2018/11/8
ジル・ドゥルーズ (著), 國分 功一郎 (翻訳), 長門 裕介 (翻訳), 西川 耕平 (翻訳)
ネットで公開されている「ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の問題を中心に」なる
小林卓也氏の論考にはこうある。
《…ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景を
あらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけて
ドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。
この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その
当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけて
いたのかを知る手がかりとなるだろう。 》
ドゥルーズはヒュームとカント以外にもソクラテスについて書いている。さらに第3章ソクラテス関連で
ドゥルーズが珍しくプルードンに批判的に言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の
認識であり、原典に当たっていないのがわかる。
多分ドゥルーズはベンヤミンが引用した以下の言葉も知らない。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHP「矛盾と生きる――プルードンの社会主義」より)
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)に孫引きされている。
ただしドゥルーズは無意識にプルードンを受け継いでいる。
以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
先のアンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」
プルードン『経済学』草稿(未刊行、邦訳なし)、邦訳なしより
「プルードンの未発表手編『経済学』について」斉藤悦則から孫引き
基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫 2018/11/8
ジル・ドゥルーズ (著), 國分 功一郎 (翻訳), 長門 裕介 (翻訳), 西川 耕平 (翻訳)
ネットで公開されている「ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の問題を中心に」なる
小林卓也氏の論考にはこうある。
《…ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景を
あらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけて
ドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。
この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その
当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけて
いたのかを知る手がかりとなるだろう。 》
ドゥルーズはヒュームとカント以外にもソクラテスについて書いている。さらに第3章ソクラテス関連で
ドゥルーズが珍しくプルードンに批判的に言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の
認識であり、原典に当たっていないのがわかる[2018年邦訳文庫版では49頁]
多分ドゥルーズはベンヤミンが引用した以下の言葉も知らない。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHP「矛盾と生きる――プルードンの社会主義」より)
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)に孫引きされている。
ただしドゥルーズは無意識にプルードンを受け継いでいる。
以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
先のアンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」
プルードン『経済学』草稿(未刊行、邦訳なし)、邦訳なしより
「プルードンの未発表手編『経済学』について」斉藤悦則から孫引き
なお、邦訳文庫版は
1基礎づけるとは何か? の他に、
2ルソー講義
3女性の記述
4口にすることの輪郭
5ザッヘル・マゾッホからマゾヒズムへ
を含みお得である
基礎づけるとは何か (ちくま学芸文庫) 文庫 2018/11/8
ジル・ドゥルーズ (著), 國分 功一郎 (翻訳), 長門 裕介 (翻訳), 西川 耕平 (翻訳)
ネットで公開されている「ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の問題を中心に」なる
小林卓也氏の論考にはこうある。
《…ドゥルーズ固有のカント理解を読み取るためには、そこで想定されている議論の問題背景を
あらかじめ理解しておく必要がある。そこで本節で参照するのは、1956年から 57 年にかけて
ドゥルーズが行った「基礎づけるとは何か」(Qu’est-ce que fonder?) と題された講義である。
この講義は、1953年の『経験論と主体性』と1963年の『カントと批判哲学』の間に位置し、その
当時のドゥルーズがどのような問題意識を持ち、どのような哲学史的文脈に自らを位置づけて
いたのかを知る手がかりとなるだろう。 》
ドゥルーズはヒュームとカント以外にもソクラテスについて書いている。さらに第3章ソクラテス関連で
ドゥルーズが珍しくプルードンに批判的に言及しているが、あくまでマルクス『哲学の貧困』経由の
認識であり、原典に当たっていないのがわかる[2018年邦訳文庫版では49頁]
多分ドゥルーズはベンヤミンが引用した以下の言葉も知らない。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHP「矛盾と生きる――プルードンの社会主義」より)
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)に孫引きされている。
ただしドゥルーズは実は思想史的に意図せずしてプルードンを受け継いでいる。
以下のプルードン経済学草手稿の一節は、ドゥルーズ+ガタリによる「器官なき身体」「欲望する諸機械」
といった用語の使用法を想起させる。
通常ならば帰納法の一言で片付けられかねないが。
先のアンチノミーは揚棄されないというプルードンの言葉と合わせて考えれば、ドゥルーズとプルードンを繋げ
るのはそれほど突飛なことではないだろう。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された
諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたので
ある」
プルードン『経済学』草稿(未刊行、邦訳なし)、邦訳なしより
「プルードンの未発表手編『経済学』について」斉藤悦則から孫引き
なお、邦訳文庫版は
1基礎づけるとは何か? の他に、
2ルソー講義
3女性の記述
4口にすることの輪郭
5ザッヘル・マゾッホからマゾヒズムへ
を含みお得である
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