日曜日, 11月 15, 2015

Forclusion・スピノザとデリダ(ネグリ)&ハイデガー『シェリング講義』書 評:メモ(再掲)


Forclusion・スピノザとデリダ(ネグリ)&ハイデガー『シェリング講義』書評:メモ(再掲)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/forclusion.html(本頁)

スピノザ 
 カント
シェリング
 ハイデガー
 デリダ
ネグリ

forclusion・スピノザとデリダ(及びハイデガー、ネグリ):メモ(再掲)&
『シェリング講義』書評 :  http://yojiseki.exblog.jp/7590366/



『シェリング講義』マルティン ハイデガー, Martin Heidegger著, 木田 元, 迫田 健一訳
1999年 新書館

本書ではハイデガーが珍しくスピノザに言及している。
正確にはシェリングの『人間的自由の本質』経由の間接的な言及だが、許し難い意図的なスピノザの誤読がある。

ハイデガーはシェリングを引用し、スピノザの誤りが「神が諸事物であり」、「一個の事物であるとするところにあるのだ」(p200)とし、存在忘却の典型だとしている。
しかし、シェリングの原書ではその先があり、「一個の事物であるところの無限的な実体の抽象的な概念的把握に、あるのである。」(世界の名著続9、p416)と続くのだ。

シェリングもハイデガーもスピノザを批判し、それ以上に能動性の契機を見出そうとしているのだが(シェリングは上記書p410でスピノザのいう実体を「A」、個別的実体を「A/a」と記載する等正確に理解しようとしているが)、ハイデガーの方はスピノザを矮小化したうえで「ドイツ観念論」に可能性を無理矢理見出そうとしているように見える。

それもカントの批判哲学に寄り添う形のドイツ観念論をカントのものではないと、カントを両義的に捉えるというよりも矮小化(p102,134,191)しつつ、、、(これはあるべきものの逆転であるというフランツ・バーダーの悪の定義にあてはまる。世界の名著p438)。

カントについては置くとして、肝心な点は、ハイデガーの存在忘却の指摘が実はスピノザの論理に近いという事だ。
例えば、p116(及びp148)に出てくるハイデガー作成の存在-神-論の図は、

(要素を抽出するなら、)

  存在者である限り
  /     \
存在者     存在者全体
  \     /
    ロゴス

というものだが(左端の「存在者」を本書では「存在者そのもの」と記しており、複数に対する単数、様態に対する実体、つまり存在者=オンではなく存在=ウーシア的なものとも理解できる)、これは山下正男がスピノザを図解した以下の図、

         I(全論理空間)
          ◯
         /\
        /  \ 
       /    \
a=b=S /      \  a/=b/=M
    ◯/        \◯
 Sは実体\        / Mは様態
      \      / 
       \    / 
        \  /
         \/ 
          ◯
         O(空なるクラス)

(『論理学史』(山下正男)p208より、スピノザ哲学の論理構成。)

(同じく要素を抽出するなら、)

  全論理空間  
 /     \
実体      様態
 \     /
  空のクラス 

と、上下は逆だが相似である(『論理学史』山下正男p208より。ただしハイデガーはヘーゲルと同じで最終的には排中律を取らない)。
つまり、ハイデガーはスピノザを無視する事でその地位を築いたのである(ニーチェですらスピノザを正しく読んでいたのに)。

「悪」を欠如やたんなる転倒としてではなく、人間の可能的形態としての自由論、それも数学的な理性体系(p108)の中に位置づけるとするなら、スピノザの即物的で動的な「悪」の定義こそ重要になるはずだが、、、

そもそもハイデガーがカントの遺稿に言及するなら(p92-3)そこに記されたスピノザの重要性にきづいたはずである。

索引もあり、訳も読みやすく本書の「存在」自体はたいへん意義があると思う。


by yojisekimoto | 2008-10-21 01:33 | ハイデガー | 


スピノザとデリダ(:メモ)
http://yojiseki.exblog.jp/8762350
NAMs出版プロジェクト: スピノザ『神学政治論』『国家論』:メモ及び目次
http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html


    「スピノザはハイデガーを全面的に転倒させる。」
    (「力能と存在論ーハイデッガーかスピノザか」『スピノザとわたしたち』ネグリ、
    邦訳では102頁より)

    以下、ネグリの指摘をリストにしてみる。

     A        B
    ハイデガー    スピノザ
     不安       愛
     配視       精神
     決意性      欲望
     現前       コナトゥス
     配慮       衝動
     可能性      力能


    要はハイデガーのAにスピノザはBを対置するというのである。
    「愛は配慮の場を占める」という指摘もあるようなので必ずしも左右は一対一対応
    ではないらしい。
    同様の記述が講演録「スピノザの反近代」(邦訳『68年のスピノザ』78頁)
    にもある。
    これらはハイデガーを先に読んでいた現代の読者がスピノザから受ける衝撃を上手く
    説明するものかも知れない。


    ハイデガー自身はスピノザにほとんど言及しなかったことが指摘されている。

    それをデリダは「ハイデッガーにおけるスピノザの排除(去勢)(forclusion)」と言っ ていた。
    (「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算――ジャン=リュック・ナンシーとの対話」
    『主体の後に誰が来るのか?』157頁参照)


    スピノザとデリダ(:メモ)
    http://yojiseki.exblog.jp/8762350

    デリダはハイデガーを批判的に受け継いでいると言われるが、ハイデガーと同じくスピノザへの言及は少ない。
    スピノザと同じユダヤ人異教徒=マラーノでも戦略が逆なのだ。

    批判哲学を受け継ぐハイデガー=デリダのラインは、時間軸を大切にする。
    一挙に(幾何学的に)真理を把握するスピノザのような実在論は危険なのだ。スピノザの哲学を導入すればハイデガー、デリダの哲学は一瞬で終わってしまう。極端に言えば、ハイデガーはスピノザを無視することで膨大な講義が可能となり、デリダもスピノザを無視することで物書きとして延々と書き続けられたのだ。

    しかし、原理的に外部のないデリダのエクリチュールが体現するのは、後述するように、スピノザ的心身並行論以外の何ものでもない。

    歴史的にはニーチェはスピノザに親近感を覚え、ヘーゲルはスピノザの心身並行論を一挙に解消しようとし、ラカンはスピノザの決定論と平行論を精神分析の基礎に据えるなど、スピノザはカント的批判哲学の外部からは常に宵の明星のような座標であった。

    こんな重要な存在をどうして無視して来たかと言えば、スピノザを安易に援用するとそこで差異が解消し、発生論的な矛盾が解消されてしまうからであるからだが、両者が真逆であるがゆえに、ここにある種の歴史の皮肉が見出せる。

    つまり、フッサールにおける発生論の取り扱いを論ずるデリダは自らの生の条件を負の条件から逆に照射しているが、逆にテクストに外部がないというデリダのテクストは(ドゥルーズとは違って)外部と連結するスピノザのテクストとは正反対であるがゆえに、スピノザ哲学はデリダを明確に浮き彫りにするのだ。

    「いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。」(『エチカ』3:4)

    テクスト内部においてそこに内在する権力をひっくり返そうとするデリダの脱構築はハイデッガーの存在論史の読み直し(=解体、『存在と時間』より)を受け継いだものであるが、これはスピノザの言う物質が持続して存在しつづけようとする性質(=努力、コナトゥス)を浮かび上がらせる。
    むしろディコンストラクションとは、行為としては終わることのないコナトゥス(努力)そのもののことだと言ってもいい。スピノザの終わることのない心身並行論は、デリダのテクストにこそそのサンプルを見出す。

    ハーバーマスとさえ共闘したデリダは「理性に導かれる人間」として「共同の決定にしたがって生活する国家」(『エチカ』4:73)を統整的に求めたし、そのために戦ったことにおいてはスピノザと同じだと言えるし、その存在は異なるポジションにおいてお互いを照射し合う。

    デリダの死は、デリダをそのテクストから引きはがし、デリダを生物学的にユダヤ人としてスピノザと同じ引き出しに入れるだろうが、デリダのテクストは、スピノザのテクストの逆を表現するものとして隣同士に並べてもいいかも知れない。


    追記:
    本文と関係ありませんが、デリダの遺言の画像を紹介しす。



    http://churchandpomo.typepad.com/conversation/2006/12/derridas_last_w.html

    自動翻訳
    「ジャックは、儀式と演説を望みませんでした。彼は、経験から、この仕事を引き受ける友人にとってつらいだろうということがわかっています。彼は、私にあなたに来たことに対して礼を言って、あなたを祝福するよう頼みます。あなたが彼に彼と分担する機会を与えた多くの幸せな瞬間だけについて考えるために、彼はあなたに悲しまないように嘆願します。

    私のために微笑んでください、私が終わりまであなたのために微笑みます、と彼が言います。

    いつも生を謳歌し、絶えず生き残りを主張してください...

    私はあなたを愛しています、そして、私のいる場所から微笑みます。」
    http://pds.exblog.jp/pds/1/200910/02/41/a0024841_2121330.jpg

    http://yojiseki.exblog.jp/8762350

_______________

    forclusion とは、取っておくとか、入れないでおくという意味のフランス語の名詞で、当の取っておかれたもの自体は forclos といいます。 つまり schizophrenia の根底には forclusion という構造的な原因が潜んでいる、というのがラカンの主張です。2012/08/04
    seminaire201208 of ユーロクリニーク文化部公式サイト
    euroclinique-dc.com/seminaire201208f.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B6%E3%81%AE%E5%90%8D 

父の名 - Wikipedia

父の名(ちちのな、Noms-du-Père)とは、ラカン派(仏:Lacanien)の精神分析理論で用いられる概念の一つ。フロイトの理論における超自我原父に比較されることが多いが、対応はそれほど単純なものではなく、ラカン独特の理論体系の中で他の諸概念と複雑に照応しあいながら、厳密に規定されている概念である。

概要と由来

人間が、乳児から成長して自己を持つにいたる課程において、母の乳房が詰まっている乳児の口から、やがて乳房が去り、そこに欠如が生まれる。ラカンによれば、これは想像界に安住するのを禁ずる父の命令を受け入れることであり、社会的な法の要求を受け入れること、社会という言語活動の場に引きずり出されること、自分が全能ではないという事実を受け入れることと同義である。
この父の命令にあたるものを、ラカンは、フランス語で同じ発音をもつ2つの言葉「non(否)」と「nom(名)」をひっかけて、父の名と呼んだ。

去勢と主体の確立

父の名を受け容れる過程は、幼児の全能性である「ファルス」(仏:phallus)を傷つけることという意味で、去勢(仏:forclusion)と呼ばれる。この去勢によって、人間は自らの不完全性を認め、不完全であるところの主体(仏:sujet)を逆に積極的に確立するのである。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/父の名
父の名を受け容れる過程は、幼児の全能性である「ファルス」(仏:phallus)を傷つけることという意味で、去勢(仏:forclusion)と呼ばれる。この去勢によって、人間は自らの不完全性を認め、不完全であるところの主体(仏:sujet)を逆に積極的に確立するのである。

à peine de forclusion | WordReference Forums

forum.wordreference.com/.../à-peine-de-forclusion.24...
Bonjour, Pourriez-vous m'aider à traduire cette phrase: X devra notifier ses réserves à peine de forclusion. Merci beaucoup pour votre aide.

志紀島啓 blog/ une place sur la terre:2013年02月22日 ...

blog.livedoor.jp/kay_shixima/archives/2013-02-22.html
2013/02/22 - このことを精神分析学では去勢(仏:forclusion)と呼ぶが、去勢なくして言語活動の開始はないというのがラカンの立場である。 — ジャック・ラカンさん ... 去勢はcastrationです。forclusionなら排除という意味になります。先生はフランス人(という ...
2007/06/05 - ここに引用したようなラカンの軽い流し方とは裏腹に、この『語から思考へ[Des mot a la pensee]』という著作は、実は、ラカンの理論形成にとって決定的な意味を持っている。 なぜなら、この著作こそがラカンの「排除[forclusion]」と「虚辞のne」 ...
2014/09/10 - 形式論理学は,通常の言語にともなう曖昧さを取り除くために,それ自体としては意味を持たない幾つかの記号を用い .... 家であることとキリスト者であること; 真理は虚構の構造によって己れを顕す; 欠如について; 閉出 (forclusion) について.

______________

 http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/2010-02.html

タルコフスキーが計画していた映画のリストに『聖アントニウスの誘惑』がある。
最近ネット上でこれはフローベールの『聖アントワヌの誘惑』が原作なのではないかと言う議論があったようだ。
結論から言うとタルコフスキーはもっと古い資料(聖アタナシウスによる伝記等)から影響を受けたという説が濃厚だが、フローベールの原作について考察することがまったく無意味という訳でもないと思う。

というのはフローベールがこの作品の執筆に30年近くかかったように彼にとっての代表作のひとつであるということもあるが、デリダがこの原作をめぐって、ほとんど唯一スピノザに言及しているのだ(『Psyche』未邦訳*)。

フロベールの原作のなかの悪魔が、スピノザの汎神論らしきものを展開するのだが、これは『ソラリス』の倫理的葛藤とパラレルと考えられなくもない。

具体的に言えば、『ソラリス』のラストで主人公が汎神論につつまれるように、『サクリファイス』では主人公はマリアと一夜を共にする(多分、タルコフスキーの構想は『サクリファイス』のなかで完全に形象化されている)。

フローベールとまったく違って、タルコフスキーは(そのロシア正教的外観にも関わらず)スピノザの側に立っていたとも考えられるのだ。

注*:
『プヴァールとペキュシェ』(岩波文庫中第八章)の哲学談義でフローベールはスピノザを引用しており、デリダの論考もどちらかと言えばこちらがメインだ。

注**: 
 《スピノザの哲学は (「人間」的なものの籠絡からの)静かなデタッチメントの哲学だ。すなわち、われわれの身体が物質宇宙の一部分であるように、われわれの思考も無限な思考 宇宙 の一部分である。われわれに思考があるのにわれわれがその部分である自然に思考がないとするのは不自然である。われわれの中で事物自身が事物自身について 肯定したり否定したりするようになったとき、われわれの精神は「自動機械」となって、自分のいる場所(自然)がずっと「神」であったとわかる。カメラが引 いていくと、帰還した地球の故郷が実は惑星ソラリスの変様部分であるのが判明するあのタルコ フスキー監督の「惑星ソラリス」のラストシーンを思い出す。》
(講談社『本』2005年5月号「スピノザから見える不思議な光景」より)
http://www17.plala.or.jp/orion-n/ESSAY2/8.html


 ハイデガーの覇権はスピノザを排除することで可能になった。これはハイデガーのユダヤ蔑視というより、ヨーロッパのユダヤ排除とパラレルだ。利子に子々孫々の繁栄...時間を意識化したユダヤ思想の優位性の奪還は時間を哲学に取り戻すことで可能だった。
ただし、それをなしとげたのはスピノザであってハイデガーではない。


May the conatus be with you.

ファシズムは失業率の高さを無理やり解消することから生まれるとされる
完全雇用が政治的な反動を招くのだ
ISISも経済的な問題が根底にある
ハイデガーはハイパーインフレを背景にした思想だ
ドイツ哲学には経済的敗北がきっかけとしてある 

参考:
究極の財政再建策ハイパー・インフレーション
http://kaie14.blogspot.jp/2014/12/blog-post_11.html
まず、世界恐慌からいち早く立ち直ったのはナチスだった!~『ヒトラーの経済政策』武田 知弘著(評者:栗原 裕一郎)より
第一次大戦に敗戦したドイツはベルサイユ条約により植民地全部と領土の一部を取り上げられたうえ、1320億マルク(330億ドル)の賠償金を請求された。ドイツの当時の歳入20年分くらいの額であり、毎年の支払いは歳入の2分の1から3分の1に及んだ。

 そんなもの払えるわけがない。札をガンガン刷ったドイツは、1922年から1923年にかけてハイパーインフレーションに見舞われてしまうことになる。どのくらいハイパーだったかというと、0.2〜0.3マルクだった新聞が1923年11月には80億マルクに暴騰する勢いだったそうである(村瀬興雄『ナチズム』中公新書)。

 ハイパーインフレによってもっとも打撃を受けたのは中産階級や労働者、農民だった。一方で、外貨でドイツの資産を買ったりしてボロ儲けする者もいたのだが、そのなかにはユダヤ人実業家が少なからず含まれていた。その怨みもユダヤ人迫害の一因となる。
このドイツのハイパー・インフレーション時期に、ドイツ留学した人びと、たとえばハイデガーに師事した九鬼周造などはさぞかし裕福な生活を送ったのではないか(日本円の外貨価値の高騰のため)。そもそも当時のドイツの思想家や詩人たちの研究に、このハイパー・インフレーションの影響がほとんど言及されていないのは残念である。

資料:「財政破綻」、 「ハイパーインフレ」関連
http://yokato41.blogspot.jp/2011/01/blog-post_5463.html

【過剰な公的債務の解決策は8つしかない】
アタリ氏は「国家債務がソブリンリスク(政府債務の信認危機)になるのは物理的現象である」とし、「過剰な公的債務に対する解決策は今も昔も8つしかない」と言う。すなわち、増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルトである。そして、「これら8つの戦略は、時と場合に応じてすべて利用されてきたし、これからも利用されるだろう」とも述べている。

【現実的な選択肢は「インフレ」だけ】

……現実的な選択肢は「インフレ」だけ、ということになる。現にアタリ氏自身も「(公的債務に対して)採用される戦略は常にインフレである」と述べている。お金をたくさん刷って、あるいは日銀が吸収している資金を市場に供給して貨幣価値を下げ、借金をチャラにしてしまいしょう、というわけだ。かつて竹中平蔵氏が主張していた「インフレターゲット論」はまさにこれで、いってみれば一番簡単な方法である。
これは氏の師匠であるポール・クルーグマンの日本に対するアドバイスでも常に出てくる案である。「ターゲット(目標)」というと計画的で聞こえはいいが、デフレの長引いている日本でこれを無理に起こすと「ターゲット」で止まらない可能性が大である。止まらなければ、ハイパーインフレに一直線ということになる。
補記:
http://yojiseki.exblog.jp/6388324/
後期ハイデガー:メモ
後期ハイデガーは老子をドイツ語訳し、言葉の円環のなかに住まおうとした。
それは以下の図式を持ち、古代ギリシアを理想化するものだった。

      天

神々           人間たち
  

      大地


大地の隣にシュヴァルツヴァルト(黒い森)、トートナウベルクの位置する森が付け加えられてもよいだろう。
トートナウベルクには日本人留学生に教えた謝礼金で造った山小屋があったのだ。
そしてドイツとギリシアをつなぐ媒介に選ばれた詩人がヘルダーリンだった。

以下、年譜におけるハイデガーの葬儀(=1976年5月28日、死去は26日)の記述より。

《死の少し前、ヘリングラード編のヘルダーリンの詩句を、「私の墓へ告別の挨拶としてゆっく
りと単純に朗読する」ことを望み、ヘルダーリンの讃歌では「ドイツ人に寄す」、「宥和する者」、
「巨人たち」から、悲歌では「パンと葡萄酒」から選ぶことを望んだ。(略)ヘルマン・ハイ
デッガーは父の意志通りにヘルダーリンを朗読した。その結びは「パンと葡萄酒」第三節のもの
であった。》

(人類の知的遺産75『ハイデガー』芽野良男、講談社p313より)
上記に挙げられた詩はすべて全集第2巻に所収されている。以下、その一節を引用する。


童児を嘲ってはいけない、鞭を手に 拍車をつけて
かれが木馬にまたがり 自分を雄々しい
偉大なものと思っているときも。
なぜならドイツ人諸君よ、君たちも
思想に富んで行為に貧しい者なのだから。(以下略)

「ドイツ人に寄せる」  ヘルダーリン(手塚富雄訳)
(『ヘルダーリン全集2』河出書房p10より)

Spottet nimmer des Kinds, wenn noch das alberne
Auf dem Rosse von Holz herrlich und viel
sich dünkt,
O ihr Guten! auch wir sind
Thatenarm und gedankenvoll!

"An die Deutschen"    Hölderlin
http://www.hoelderlin-gesellschaft.de/index.php?id=137
(ドイツ、ヘルダーリン協会サイトより)


ラジオ、テレビ、映画(『羅生門』に関して日本人との会話で触れている)との関わり(*)が端的に指し示すような、その技術論とともにこうした民族主義も後期ハイデガーを読む上で重要になるだろう。

*追記:
ハイデガーがヘルダーリンの詩を朗読したCDが現在販売されている。

NAMs出版プロジェクト: ヘルダーリン(Friedrich Hölderlin):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/08/blog-post_22.html




________________
『シェリング講義』1999年 新書館より
ハイデガーはスピノザを唯物論と規定し敵対視するが、ハイデガーの存在忘却の指摘は実はスピノザの論理に近い。
例えば、p116(及びp148)に出てくるハイデガー作成の存在-神-論の図は、

(要素を抽出するなら、)

  存在者である限り
  /     \
存在者     存在者全体
  \     /
    ロゴス

というものだが(左端の「存在者」を本書では「存在者そのもの」と記しており、複数に対する単数、様態に対する実体、つまり存在者=オンではなく存在=ウーシア的なものとも理解できる)、これは山下正男がスピノザを図解した以下の図、


  全論理空間  
 /     \
実体      様態
 \     /
  空のクラス 




『論理学史』(山下正男)p208より、スピノザ哲学の論理構成。
(要素を抽出)

と、上下は逆だが相似である(ただしハイデガーはヘーゲルと同じで最終的には排中律を取らない)。
シェリングを通じたハイデガーのスピノザ解釈は自己の思考回路を露呈している。
つまり、ハイデガーはスピノザを無視する事でその地位を築いたのである(ニーチェですらスピノザを正しく読んでいたのに)。


上記の図は後期ハイデガーではこうなる。
 

      天

神々           人間たち
  

      大地
  


http://yojiseki.exblog.jp/6388324/
後期ハイデガー:メモ
後期ハイデガーは老子をドイツ語訳し、言葉の円環のなかに住まおうとした。
それは上の図式を持ち、古代ギリシアを理想化するものだった。

ハイデガーとスピノザの類似性はネグリも指摘している。

    「スピノザはハイデガーを全面的に転倒させる。」
    (「力能と存在論ーハイデッガーかスピノザか」『スピノザとわたしたち』ネグリ、
    邦訳では102頁より)

    以下、ネグリの指摘をリストにしてみる。

     A        B
    ハイデガー    スピノザ
     不安       愛
     配視       精神
     決意性      欲望
     現前       コナトゥス
     配慮       衝動
     可能性      力能


    要はハイデガーのAにスピノザはBを対置するというのである。
 
ただしスピノザには能動性が受動性と同等の契機としてあるのに対して、ハイデガーにおいては非本来性、被投企性が全体を支配している。常態的に存在者は神々に空のクラスで繋がっている...。そこに無自覚ながら言葉遊び、空談の余地がある。意識の産物である時間が主題となる。ハイデガーは存在を時間に置き換え、スピノザは時間を存在に置き換える。


   スピノザ
マルクス  ハイデガー

ちなみにカントは以下のような総合的回路をつくった。

            i
  __/   \←_
↓     \o/      I
I______I

カントは発生論と引き換えに議論の土台をつくった。


__

『シェリング講義(1999年 新書館)において、
ハイデガーはスピノザを唯物論と規定し敵対視するが、ハイデガーの存在忘却の指摘は
実はスピノザの論理に近い。
例えば、p116(及びp148)に出てくるハイデガー作成の存在-神-論の図は、

(要素を抽出するなら、)

  存在者である限り
  /     \
存在者     存在者全体
  \     /
    ロゴス

というものだが(左端の「存在者」を本書では「存在者そのもの」と記しており、
複数に対する単数、様態に対する実体、つまり存在者=オンではなく存在=
ウーシア的なものとも理解できる)、これは山下正男がスピノザを図解した以下の図、

  全論理空間  
 /     \
実体      様態
 \     /
  空のクラス 


『論理学史』(山下正男)p208より、スピノザ哲学の論理構成。
(要素を抽出)

と、上下は逆だが相似である(ただしハイデガーはヘーゲルと同じで最終的には
排中律を取らない)。
シェリングを通じたハイデガーのスピノザ解釈は自己の思考回路を露呈している。
つまり、ハイデガーはスピノザを無視する事でその地位を築いたのである(ニーチェ
ですらスピノザを正しく読んでいたのに)。

上記の図は後期ハイデガーではこうなる。
 

      天

神々           人間たち
  

      大地  

後期ハイデガーは老子をドイツ語訳し、言葉の円環のなかに住まおうとした。
それは上の図式を持ち、古代ギリシアを理想化するものだった。

ハイデガーとスピノザの類似性はネグリも指摘している。

    「スピノザはハイデガーを全面的に転倒させる。」
    (「力能と存在論ーハイデッガーかスピノザか」『スピノザとわたしたち』ネグリ、
    邦訳では102頁より)

    以下、ネグリの指摘をリストにしてみる。

     A        B
    ハイデガー    スピノザ
     不安       愛
     配視       精神
     決意性      欲望
     現前       コナトゥス
     配慮       衝動
     可能性      力能


    ネグリはハイデガーの現象学、心理学を批判しているが、要はハイデガーのAに
スピノザはBを対置出来るというのである。
 
ただしスピノザには能動性が受動性と同等の契機としてあるのに対して、ハイデガー
においては非本来性、被投企性が全体を支配している。常態的に存在者は神々に空の
クラスで繋がっている...。そこに無自覚ながら言葉遊び、空談の余地がある。意識の
産物である時間が主題となる。ハイデガーは存在を時間に置き換え、スピノザは
時間を存在に置き換える。

ちなみにカントは以下のような総合的回路をつくった。

            ....
  __/   \←_
↓     \,,,,/      I
I______I

カントは発生論と引き換えに議論の土台をつくった。
ハイデガーは基本的にはカント体系の上に現象学を載せたが、純化した部分もある。




9 Comments:

Blogger yoji said...

『シェリング講義』1999年 新書館において、
ハイデガーはスピノザを唯物論と規定し敵対視するが、ハイデガーの存在忘却の指摘は
実はスピノザの論理に近い。
例えば、p116(及びp148)に出てくるハイデガー作成の存在-神-論の図は、

(要素を抽出するなら、)

  存在者である限り
  /     \
存在者     存在者全体
  \     /
    ロゴス

というものだが(左端の「存在者」を本書では「存在者そのもの」と記しており、
複数に対する単数、様態に対する実体、つまり存在者=オンではなく存在=
ウーシア的なものとも理解できる)、これは山下正男がスピノザを図解した以下の図、

  全論理空間  
 /     \
実体      様態
 \     /
  空のクラス 



『論理学史』(山下正男)p208より、スピノザ哲学の論理構成。
(要素を抽出)

と、上下は逆だが相似である(ただしハイデガーはヘーゲルと同じで最終的には
排中律を取らない)。
シェリングを通じたハイデガーのスピノザ解釈は自己の思考回路を露呈している。
つまり、ハイデガーはスピノザを無視する事でその地位を築いたのである(ニーチェ
ですらスピノザを正しく読んでいたのに)。

上記の図は後期ハイデガーではこうなる。


      天

神々           人間たち
  

      大地

後期ハイデガーは老子をドイツ語訳し、言葉の円環のなかに住まおうとした。
それは上の図式を持ち、古代ギリシアを理想化するものだった。

ハイデガーとスピノザの類似性はネグリも指摘している。

「スピノザはハイデガーを全面的に転倒させる。」
(「力能と存在論ーハイデッガーかスピノザか」『スピノザとわたしたち』ネグリ、
邦訳では102頁より)

以下、ネグリの指摘をリストにしてみる。

 A        B
ハイデガー    スピノザ
 不安       愛
 配視       精神
 決意性      欲望
 現前       コナトゥス
 配慮       衝動
 可能性      力能


要はハイデガーのAにスピノザはBを対置するというのである。

ただしスピノザには能動性が受動性と同等の契機としてあるのに対して、ハイデガー
においては非本来性、被投企性が全体を支配している。常態的に存在者は神々に空の
クラスで繋がっている...。そこに無自覚ながら言葉遊び、空談の余地がある。意識の
産物である時間が主題となる。ハイデガーは存在を時間に置き換え、スピノザは
時間を存在に置き換える。

ちなみにカントは以下のような総合的回路をつくった。


__/ \←_
↓ \o/ I
I______I

カントは発生論と引き換えに議論の土台をつくった。

5:35 午後  
Blogger yoji said...

『シェリング講義』1999年 新書館において、
ハイデガーはスピノザを唯物論と規定し敵対視するが、ハイデガーの存在忘却の指摘は
実はスピノザの論理に近い。
例えば、p116(及びp148)に出てくるハイデガー作成の存在-神-論の図は、

(要素を抽出するなら、)

  存在者である限り
  /     \
存在者     存在者全体
  \     /
    ロゴス

というものだが(左端の「存在者」を本書では「存在者そのもの」と記しており、
複数に対する単数、様態に対する実体、つまり存在者=オンではなく存在=
ウーシア的なものとも理解できる)、これは山下正男がスピノザを図解した以下の図、

  全論理空間  
 /     \
実体      様態
 \     /
  空のクラス 


『論理学史』(山下正男)p208より、スピノザ哲学の論理構成。
(要素を抽出)

と、上下は逆だが相似である(ただしハイデガーはヘーゲルと同じで最終的には
排中律を取らない)。
シェリングを通じたハイデガーのスピノザ解釈は自己の思考回路を露呈している。
つまり、ハイデガーはスピノザを無視する事でその地位を築いたのである(ニーチェ
ですらスピノザを正しく読んでいたのに)。

上記の図は後期ハイデガーではこうなる。


      天

神々           人間たち
  

      大地

後期ハイデガーは老子をドイツ語訳し、言葉の円環のなかに住まおうとした。
それは上の図式を持ち、古代ギリシアを理想化するものだった。

ハイデガーとスピノザの類似性はネグリも指摘している。

「スピノザはハイデガーを全面的に転倒させる。」
(「力能と存在論ーハイデッガーかスピノザか」『スピノザとわたしたち』ネグリ、
邦訳では102頁より)

以下、ネグリの指摘をリストにしてみる。

 A        B
ハイデガー    スピノザ
 不安       愛
 配視       精神
 決意性      欲望
 現前       コナトゥス
 配慮       衝動
 可能性      力能


ネグリはハイデガーの現象学、心理学を批判しているが、要はハイデガーのAに
スピノザはBを対置出来るというのである。

ただしスピノザには能動性が受動性と同等の契機としてあるのに対して、ハイデガー
においては非本来性、被投企性が全体を支配している。常態的に存在者は神々に空の
クラスで繋がっている...。そこに無自覚ながら言葉遊び、空談の余地がある。意識の
産物である時間が主題となる。ハイデガーは存在を時間に置き換え、スピノザは
時間を存在に置き換える。

ちなみにカントは以下のような総合的回路をつくった。


__/ \←_
↓ \o/ I
I______I

カントは発生論と引き換えに議論の土台をつくった。

5:39 午後  
Blogger yoji said...


24
とみなせば、とやかくいうべきではあるまい。しかし、客観的にいえば、スピノザは「幾何学的秩序」
という、一見すれば中性的エレメントという形式によって、その反時代的考察を目論んだのであり、
主観的にいえば、この無機的な秩序なしには、その噴出し奔流する精神に形式を与ええなかったのだ、
というところが本当であろう。それほどに激しい自由の精神が横溢しているのである。時代がけっし
て受容もせず、ただその外見上の静謐によってのみ存在を許されるがごとき、異例さなのであるとい
ってよい。だから、『エチカ』は、徹底して「普通の人間」を論究の対象にしているが、どこまでも
「普通の人間の当り前の表情」をもった著者によって書かれうる性質のものではなかったのである。

自然の力の体系テーゼ
一 神とは自然の総体に他ならない。
二 自然は、その外部になにものももたない。自然は総体として存在する。その内部構成は、人間
的、社会的事象のレヴェルをも含む。(いってよければ、ヘーゲルの「現実性」[Wirklichkeit]という
総体概念である。)


三 自然は、まず第一に、活動する力としてある「能産的自然」(natura naturans)と「所産的自
然」(natura naturata)とは、この力の主体と力の客体(所産)とみなすことができる。つまり、自然と
は生産力に他ならないのだ。

四 だから、スピノザの哲学体系を、第一義的には、自然の力の体系(断るまでもないが、物理学
主義的な含意においてではなく、むしろ、マルクスの生産力の体系構想につながるという意味での)
としてつかまえることが可能である。

24~5頁
スピノザの方へ
鷲田小彌太
三一書房1987年

4:55 午後  
Blogger yoji said...

https://yojiseki.exblog.jp/7288580/

マルチチュード、様態の逆襲
ネグリのスピノザ論『野生の異例性』(水声社から刊行予定)におけるスピノザ擁護の根拠となる箇所は以下だ。

「これによって我々は、人間精神が身体と合一していることを知るのみならず、精神と身体の合一をいかに解すべきかをも知る。しかし何びともあらかじめ我々の身体の本性を妥当に認識するのでなくてはこの合一を妥当にあるいは判然と理解することができないであろう。」(『エチカ』2:13備考)

ちなみにこの箇所は以下の第5部定理1と関連している。
「思想および物の観念が精神の中で秩序づけられ・連結されるのにまったく相応して、身体の変状あるいは物の表象像は身体ので秩序づけられ・連結される。」

ここでスピノザは唯一の実体優先の公理主義的な傾向から、様態の再評価に移行したとネグリは解釈するのである。これを「様態の逆襲」と命名することができるだろう。
だが、これはスピノザの公理主義を評価仕切れていないことから来るものである。

下村寅太郎も、スピノザの無限に関する考え方に数学史的な根拠があると考えたし、柄谷行人もスピノザの観念による概念の批判は公理主義を必然的にすると考えている。
スピノザの考える観念とは、公理系の中で無矛盾な概念のことであり、さらに創造の軌跡を再確認(=起成原因,causa efficiens、起成因、動力因、作用因とも訳される)を可能にするものである。
例えば三角形の観念は、三角形の作図を可能にするものでなければならないという(『探究2』文庫版p166、スピノザ『書簡』60、『知性改善論』72,77,95節、『エチカ』1:25参照)。

ネグリのスピノザ論(「野生の異例性」とは17世紀のブルジョア的言説に対抗するスピノザの「様態」としての「逆襲」のことだ)はドゥルーズのそれを引き継いだ精緻なものだが、マルチチュードの根拠としては曖昧なものである(マルチチュードの用例はエチカ5:20備考内4にある)。
それはマルチチュードそのものが曖昧だということだ。

エチカでは冒頭では、同じ人間が20人集まるということはそれを束ねる外部の概念が必要だと書かれている(1:8備考2)。
これは、マルチチュードにも外部にそれを束ねる権力あるいは官僚制度が必要になるということではないだろうか?

ライプニッツのモナドのように一つ一つが違うなら自主的な管理も可能なのだろうが、ネグリのマルチチュードはマルクスの共産主義宣言を受けいだものでその多様性を可能にするものではない。

ネグリの解釈にも関わらず、思惟と延長の二元性は様相によって一挙に逆転し様相に一元化するものではない。その多様性を考えるならばスピノザの公理である思惟と延長の並行性は様々な組み合わせ(ドゥルーズなら概念の発明と情動の開放を結びつけることと言うだろう)を可能にするがゆえに、むしろ個々の様相の多様性を根拠づけるのに必要な公理なのだ。

その意味では、(人間に認識できるふたつの属性である)思惟と延長の並行を維持しつつも、同一図形内部における線分の交点のあり方が無限にあると言うスピノザの無限論(無際限ではない)は十分示唆的である。

だから、マルチチュードを可能にするものとして多様性を可能にするスピノザの公理の再評価が必要になるし、その中でもスピノザの無限の認識は全体のなかに解消される微分的なライプニッツのそれ以上にその鍵となると考えられる。

…ネグリの否定する公理の中にこそ、マルチチュード生成の可能性があるということだ。

11:58 午前  
Blogger yoji said...


http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p20n

 備考 この愛に直接的に相反していてこの愛を破壊させうるようないかなる感情も存しないことは同様の仕方で明らかにすることができる。したがって我々は神に対するこの愛がすべての感情のうちで最も恒久的なものであること、またこの愛が身体と結合する限りにおいては身体自身とともにでなくては破壊されえないことを結論することができる。しかしそれが単に精神のみと結合する限りにおいていかなる本性を有するかはあとで見るであろう。
 これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。  (プルードン)
 一 感情の認識そのものに(この部の定理四の備考を見よ)。
 二 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに(この部の定理二ならびに今引用した定理四の備考を見よ)。
 三 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間〔持続〕という点でまさっているその時間〔持続〕という点に(この部の定理七を見よ)。
 四 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数であるということに(この部の定理九および一一を見よ)。
 五 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ・相互に連結しうるその秩序に(この部の定理一〇の備考を、さらにまた定理一二、一三および一四を見よ)。    118

12:00 午後  
Blogger yoji said...

マルチチュードの用例はプルードンが引用した箇所だ
偶然か?
ネグリはプルードンを参照していないはず

12:02 午後  
Blogger yoji said...



感情に対する精神の能力


 四 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数であるということに(この部の定理九および一一を見よ)。

4. In multitudine causarum, a quibus affectiones, quae ad rerum communes proprietates vel ad Deum referuntur, foventur. Vide prop. 9. et 11. huius.

http://users.telenet.be/rwmeijer/spinoza/works.htm?lang=E

12:07 午後  
Blogger yoji said...

群衆と言う意味では使っていないので政治論ー国家論を読む必要がある

12:08 午後  
Blogger yoji said...

<スピノザ『国家論』畠中尚志訳、岩波文庫p139>
8:27

 諸事のとり決めならびに官吏の選任にあたってすべての貴族が同じ力を持つためには、そしてすべての事務の決裁が迅速であるためには、ヴェニス国の人たちの守った手続きが最も推薦に値する。彼らは官吏を任命するにあたり会議体から若干名を抽籤で選び、この人々が順次に選ぶぺき官吏を指名し、続いておのおのの貴族は指名された官吏の選任に対し賛成あるいは反対の意見を投票用小石によって表明する。あとになって誰が賛成あるいは反対の意見であったかがわからないように。こうすればすべての貴族が決議にあたって同じ酪威を持ちかつ事務が迅速に決裁されるばかりでなく、その上おのおのの者は(これは会議にあって何より必要なことであるが)誰からも敵意を持たれる心配なしに自分の意見を表示する絶対的自由を有することになる。

12:11 午後  

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