http://www.freeassociations.org/
第一次大戦に敗戦したドイツはベルサイユ条約により植民地全部と領土の一部を取り上げられたうえ、1320億マルク(330億ドル)の賠償金を請求された。ドイツの当時の歳入20年分くらいの額であり、毎年の支払いは歳入の2分の1から3分の1に及んだ。
そんなもの払えるわけがない。札をガンガン刷ったドイツは、1922年から1923年にかけてハイパーインフレーションに見舞われてしまうことになる。どのくらいハイパーだったかというと、0.2〜0.3マルクだった新聞が1923年11月には80億マルクに暴騰する勢いだったそうである(村瀬興雄『ナチズム』中公新書)。
ハイパーインフレによってもっとも打撃を受けたのは中産階級や労働者、農民だった。一方で、外貨でドイツの資産を買ったりしてボロ儲けする者もいたのだが、そのなかにはユダヤ人実業家が少なからず含まれていた。その怨みもユダヤ人迫害の一因となる。
アタリ氏は「国家債務がソブリンリスク(政府債務の信認危機)になるのは物理的現象である」とし、「過剰な公的債務に対する解決策は今も昔も8つしかない」と言う。すなわち、増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルトである。そして、「これら8つの戦略は、時と場合に応じてすべて利用されてきたし、これからも利用されるだろう」とも述べている。
……現実的な選択肢は「インフレ」だけ、ということになる。現にアタリ氏自身も「(公的債務に対して)採用される戦略は常にインフレである」と述べている。お金をたくさん刷って、あるいは日銀が吸収している資金を市場に供給して貨幣価値を下げ、借金をチャラにしてしまいしょう、というわけだ。かつて竹中平蔵氏が主張していた「インフレターゲット論」はまさにこれで、いってみれば一番簡単な方法である。
これは氏の師匠であるポール・クルーグマンの日本に対するアドバイスでも常に出てくる案である。「ターゲット(目標)」というと計画的で聞こえはいいが、デフレの長引いている日本でこれを無理に起こすと「ターゲット」で止まらない可能性が大である。止まらなければ、ハイパーインフレに一直線ということになる。
9 Comments:
『シェリング講義』1999年 新書館において、
ハイデガーはスピノザを唯物論と規定し敵対視するが、ハイデガーの存在忘却の指摘は
実はスピノザの論理に近い。
例えば、p116(及びp148)に出てくるハイデガー作成の存在-神-論の図は、
(要素を抽出するなら、)
存在者である限り
/ \
存在者 存在者全体
\ /
ロゴス
というものだが(左端の「存在者」を本書では「存在者そのもの」と記しており、
複数に対する単数、様態に対する実体、つまり存在者=オンではなく存在=
ウーシア的なものとも理解できる)、これは山下正男がスピノザを図解した以下の図、
全論理空間
/ \
実体 様態
\ /
空のクラス
『論理学史』(山下正男)p208より、スピノザ哲学の論理構成。
(要素を抽出)
と、上下は逆だが相似である(ただしハイデガーはヘーゲルと同じで最終的には
排中律を取らない)。
シェリングを通じたハイデガーのスピノザ解釈は自己の思考回路を露呈している。
つまり、ハイデガーはスピノザを無視する事でその地位を築いたのである(ニーチェ
ですらスピノザを正しく読んでいたのに)。
上記の図は後期ハイデガーではこうなる。
天
神々 人間たち
大地
後期ハイデガーは老子をドイツ語訳し、言葉の円環のなかに住まおうとした。
それは上の図式を持ち、古代ギリシアを理想化するものだった。
ハイデガーとスピノザの類似性はネグリも指摘している。
「スピノザはハイデガーを全面的に転倒させる。」
(「力能と存在論ーハイデッガーかスピノザか」『スピノザとわたしたち』ネグリ、
邦訳では102頁より)
以下、ネグリの指摘をリストにしてみる。
A B
ハイデガー スピノザ
不安 愛
配視 精神
決意性 欲望
現前 コナトゥス
配慮 衝動
可能性 力能
要はハイデガーのAにスピノザはBを対置するというのである。
ただしスピノザには能動性が受動性と同等の契機としてあるのに対して、ハイデガー
においては非本来性、被投企性が全体を支配している。常態的に存在者は神々に空の
クラスで繋がっている...。そこに無自覚ながら言葉遊び、空談の余地がある。意識の
産物である時間が主題となる。ハイデガーは存在を時間に置き換え、スピノザは
時間を存在に置き換える。
ちなみにカントは以下のような総合的回路をつくった。
i
__/ \←_
↓ \o/ I
I______I
カントは発生論と引き換えに議論の土台をつくった。
『シェリング講義』1999年 新書館において、
ハイデガーはスピノザを唯物論と規定し敵対視するが、ハイデガーの存在忘却の指摘は
実はスピノザの論理に近い。
例えば、p116(及びp148)に出てくるハイデガー作成の存在-神-論の図は、
(要素を抽出するなら、)
存在者である限り
/ \
存在者 存在者全体
\ /
ロゴス
というものだが(左端の「存在者」を本書では「存在者そのもの」と記しており、
複数に対する単数、様態に対する実体、つまり存在者=オンではなく存在=
ウーシア的なものとも理解できる)、これは山下正男がスピノザを図解した以下の図、
全論理空間
/ \
実体 様態
\ /
空のクラス
『論理学史』(山下正男)p208より、スピノザ哲学の論理構成。
(要素を抽出)
と、上下は逆だが相似である(ただしハイデガーはヘーゲルと同じで最終的には
排中律を取らない)。
シェリングを通じたハイデガーのスピノザ解釈は自己の思考回路を露呈している。
つまり、ハイデガーはスピノザを無視する事でその地位を築いたのである(ニーチェ
ですらスピノザを正しく読んでいたのに)。
上記の図は後期ハイデガーではこうなる。
天
神々 人間たち
大地
後期ハイデガーは老子をドイツ語訳し、言葉の円環のなかに住まおうとした。
それは上の図式を持ち、古代ギリシアを理想化するものだった。
ハイデガーとスピノザの類似性はネグリも指摘している。
「スピノザはハイデガーを全面的に転倒させる。」
(「力能と存在論ーハイデッガーかスピノザか」『スピノザとわたしたち』ネグリ、
邦訳では102頁より)
以下、ネグリの指摘をリストにしてみる。
A B
ハイデガー スピノザ
不安 愛
配視 精神
決意性 欲望
現前 コナトゥス
配慮 衝動
可能性 力能
ネグリはハイデガーの現象学、心理学を批判しているが、要はハイデガーのAに
スピノザはBを対置出来るというのである。
ただしスピノザには能動性が受動性と同等の契機としてあるのに対して、ハイデガー
においては非本来性、被投企性が全体を支配している。常態的に存在者は神々に空の
クラスで繋がっている...。そこに無自覚ながら言葉遊び、空談の余地がある。意識の
産物である時間が主題となる。ハイデガーは存在を時間に置き換え、スピノザは
時間を存在に置き換える。
ちなみにカントは以下のような総合的回路をつくった。
i
__/ \←_
↓ \o/ I
I______I
カントは発生論と引き換えに議論の土台をつくった。
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とみなせば、とやかくいうべきではあるまい。しかし、客観的にいえば、スピノザは「幾何学的秩序」
という、一見すれば中性的エレメントという形式によって、その反時代的考察を目論んだのであり、
主観的にいえば、この無機的な秩序なしには、その噴出し奔流する精神に形式を与ええなかったのだ、
というところが本当であろう。それほどに激しい自由の精神が横溢しているのである。時代がけっし
て受容もせず、ただその外見上の静謐によってのみ存在を許されるがごとき、異例さなのであるとい
ってよい。だから、『エチカ』は、徹底して「普通の人間」を論究の対象にしているが、どこまでも
「普通の人間の当り前の表情」をもった著者によって書かれうる性質のものではなかったのである。
自然の力の体系テーゼ
一 神とは自然の総体に他ならない。
二 自然は、その外部になにものももたない。自然は総体として存在する。その内部構成は、人間
的、社会的事象のレヴェルをも含む。(いってよければ、ヘーゲルの「現実性」[Wirklichkeit]という
総体概念である。)
三 自然は、まず第一に、活動する力としてある「能産的自然」(natura naturans)と「所産的自
然」(natura naturata)とは、この力の主体と力の客体(所産)とみなすことができる。つまり、自然と
は生産力に他ならないのだ。
四 だから、スピノザの哲学体系を、第一義的には、自然の力の体系(断るまでもないが、物理学
主義的な含意においてではなく、むしろ、マルクスの生産力の体系構想につながるという意味での)
としてつかまえることが可能である。
24~5頁
スピノザの方へ
鷲田小彌太
三一書房1987年
https://yojiseki.exblog.jp/7288580/
マルチチュード、様態の逆襲
ネグリのスピノザ論『野生の異例性』(水声社から刊行予定)におけるスピノザ擁護の根拠となる箇所は以下だ。
「これによって我々は、人間精神が身体と合一していることを知るのみならず、精神と身体の合一をいかに解すべきかをも知る。しかし何びともあらかじめ我々の身体の本性を妥当に認識するのでなくてはこの合一を妥当にあるいは判然と理解することができないであろう。」(『エチカ』2:13備考)
ちなみにこの箇所は以下の第5部定理1と関連している。
「思想および物の観念が精神の中で秩序づけられ・連結されるのにまったく相応して、身体の変状あるいは物の表象像は身体ので秩序づけられ・連結される。」
ここでスピノザは唯一の実体優先の公理主義的な傾向から、様態の再評価に移行したとネグリは解釈するのである。これを「様態の逆襲」と命名することができるだろう。
だが、これはスピノザの公理主義を評価仕切れていないことから来るものである。
下村寅太郎も、スピノザの無限に関する考え方に数学史的な根拠があると考えたし、柄谷行人もスピノザの観念による概念の批判は公理主義を必然的にすると考えている。
スピノザの考える観念とは、公理系の中で無矛盾な概念のことであり、さらに創造の軌跡を再確認(=起成原因,causa efficiens、起成因、動力因、作用因とも訳される)を可能にするものである。
例えば三角形の観念は、三角形の作図を可能にするものでなければならないという(『探究2』文庫版p166、スピノザ『書簡』60、『知性改善論』72,77,95節、『エチカ』1:25参照)。
ネグリのスピノザ論(「野生の異例性」とは17世紀のブルジョア的言説に対抗するスピノザの「様態」としての「逆襲」のことだ)はドゥルーズのそれを引き継いだ精緻なものだが、マルチチュードの根拠としては曖昧なものである(マルチチュードの用例はエチカ5:20備考内4にある)。
それはマルチチュードそのものが曖昧だということだ。
エチカでは冒頭では、同じ人間が20人集まるということはそれを束ねる外部の概念が必要だと書かれている(1:8備考2)。
これは、マルチチュードにも外部にそれを束ねる権力あるいは官僚制度が必要になるということではないだろうか?
ライプニッツのモナドのように一つ一つが違うなら自主的な管理も可能なのだろうが、ネグリのマルチチュードはマルクスの共産主義宣言を受けいだものでその多様性を可能にするものではない。
ネグリの解釈にも関わらず、思惟と延長の二元性は様相によって一挙に逆転し様相に一元化するものではない。その多様性を考えるならばスピノザの公理である思惟と延長の並行性は様々な組み合わせ(ドゥルーズなら概念の発明と情動の開放を結びつけることと言うだろう)を可能にするがゆえに、むしろ個々の様相の多様性を根拠づけるのに必要な公理なのだ。
その意味では、(人間に認識できるふたつの属性である)思惟と延長の並行を維持しつつも、同一図形内部における線分の交点のあり方が無限にあると言うスピノザの無限論(無際限ではない)は十分示唆的である。
だから、マルチチュードを可能にするものとして多様性を可能にするスピノザの公理の再評価が必要になるし、その中でもスピノザの無限の認識は全体のなかに解消される微分的なライプニッツのそれ以上にその鍵となると考えられる。
…ネグリの否定する公理の中にこそ、マルチチュード生成の可能性があるということだ。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p20n
備考 この愛に直接的に相反していてこの愛を破壊させうるようないかなる感情も存しないことは同様の仕方で明らかにすることができる。したがって我々は神に対するこの愛がすべての感情のうちで最も恒久的なものであること、またこの愛が身体と結合する限りにおいては身体自身とともにでなくては破壊されえないことを結論することができる。しかしそれが単に精神のみと結合する限りにおいていかなる本性を有するかはあとで見るであろう。
これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。 (プルードン)
一 感情の認識そのものに(この部の定理四の備考を見よ)。
二 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに(この部の定理二ならびに今引用した定理四の備考を見よ)。
三 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間〔持続〕という点でまさっているその時間〔持続〕という点に(この部の定理七を見よ)。
四 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数であるということに(この部の定理九および一一を見よ)。
五 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ・相互に連結しうるその秩序に(この部の定理一〇の備考を、さらにまた定理一二、一三および一四を見よ)。 118
マルチチュードの用例はプルードンが引用した箇所だ
偶然か?
ネグリはプルードンを参照していないはず
感情に対する精神の能力
四 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数であるということに(この部の定理九および一一を見よ)。
4. In multitudine causarum, a quibus affectiones, quae ad rerum communes proprietates vel ad Deum referuntur, foventur. Vide prop. 9. et 11. huius.
http://users.telenet.be/rwmeijer/spinoza/works.htm?lang=E
群衆と言う意味では使っていないので政治論ー国家論を読む必要がある
<スピノザ『国家論』畠中尚志訳、岩波文庫p139>
8:27
諸事のとり決めならびに官吏の選任にあたってすべての貴族が同じ力を持つためには、そしてすべての事務の決裁が迅速であるためには、ヴェニス国の人たちの守った手続きが最も推薦に値する。彼らは官吏を任命するにあたり会議体から若干名を抽籤で選び、この人々が順次に選ぶぺき官吏を指名し、続いておのおのの貴族は指名された官吏の選任に対し賛成あるいは反対の意見を投票用小石によって表明する。あとになって誰が賛成あるいは反対の意見であったかがわからないように。こうすればすべての貴族が決議にあたって同じ酪威を持ちかつ事務が迅速に決裁されるばかりでなく、その上おのおのの者は(これは会議にあって何より必要なことであるが)誰からも敵意を持たれる心配なしに自分の意見を表示する絶対的自由を有することになる。
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