金曜日, 2月 03, 2017

追儺&追儺考


10-10

郷人飮酒、杖者出斯出矣、郷人儺、朝服而立於祚*階、 

郷人(きょうじん)の飲酒には、杖者(じょうじゃ)出ずれば、斯こに出ず。郷人の儺(おにやらい)には、朝服して祚*階(そかい)に立つ。 

村の人たちで酒を飲むときは、杖をつく老人が退出してから初めて退出する。村の人たちが鬼遣いをするときは、朝廷の礼服をつけて東の階段に立つ。 



森鴎外 追儺(ついな)

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追儺

森鴎外




 悪魔に毛を一本渡すと、霊魂まで持つて往かずには置かないと云ふ、西洋の諺がある。
 あいつは何も書かない奴だといふ善意の折紙でも、何も書けない奴だといふ悪意の折紙でも好い。それを持つてゐる間は無事平穏である。そして此二つの折紙の価値は大して違つてはゐないものである。ところがどうかした拍子に何か書く。譬へば人生意気に感ずといふやうな、おめでたい、子供らしい、頗る sentimental なわけで書く。さあ、書くさうだなと云ふと、こゝからも、かしこからも書けと迫られる。どうして何を書いたら好からうか。役所から帰つて来た時にはへと/\になつてゐる。人は晩酌でもして愉快に翌朝まで寐るのであらう。それを僕はランプを細くして置いて、直ぐ起きる覚悟をして一寸寐る。十二時に目を醒ます。頭が少し回復してゐる。それから二時まで起きてゐて書く。
 昼の思想と夜の思想とは違ふ。何か昼の中解決し兼た問題があつて、それを夜なかに旨く解決した積で、翌朝になつて考へて見ると、解決にも何にもなつてゐないことが折々ある。夜の思想には少し当にならぬ処がある。
 詩人には Balzac のやうに、夜物を作つた人もある。宵に寐かして置いた Lassailly が午前一時になると喚び起される。Balzac はかう云つたさうだ。君はまだ夜[#「夜」は底本では「外」]寐る悪癖が已まないな。夜は為事しごとをするものだよ。さあ、ここに※(「口+加」、第3水準1-14-93)※(「口+非」、第4水準2-4-8)がある。これを飲んで目を醒まして、為事に掛かり給へといふ。卓の上には白紙が畳ねてある。Balzac は例の僧衣を著て、部屋の中をあちこち歩きながら口授する。Lassailly はそれを朝の七時まで書かせられるのであつたさうだ。併し Balzac は午前八時から午後四時まで役所の事務を執つてはゐなかつた。そこを思ふと僕の夜の思想はいよ/\当にならなくなる。先づ兎も角も机に向つて、筆を手に取つて、何を書かうかと考へる。小説にはかういふものをかういふ風に書くべきであるといふ事を聞せられてゐる。しかも抒情詩と戯曲とでない限の作品は、何でも小説といふ概念の中に入れられてゐるやうだ。戯曲なぞにはそんな註文がないが、これは丸で度外視せられてゐる為めであるらしい。
 そのかういふものをかういふ風に書くべきであるといふ教は、昨今の新発明でゝもあるやうに説いて聞せられるのである。随つてあいつは十年前と書振が変らないといふのは、殆ど死刑の宣告になる。果してそんなものであらうか。Stendhal は千八百四十二年に死んでゐる。あの男の書いたものなどは、今の人がかういふものをかういふ風に書けといふ要求を、理想的に満足させてゐはしないかとさへ思はれる。凡て世の中の物は変ずるといふ側から見れば、刹那々々に変じて已まない。併し変じないといふ側から見れば、万古不易である。此頃囚はれた、放たれたといふ語が流行するが、一体小説はかういふものをかういふ風に書くべきであるといふのは、ひどく囚はれた思想ではあるまいか。僕は僕の夜の思想を以て、小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだといふ断案を下す。
 Carneval の祭のやうに、毎年選んだ王様を担いで廻つて、祭が過ぎれば棄てゝ顧みないのが、真の文学発展の歴史であらうか。去年の王様は誰であつたか。今年の王様は誰であるか。それを考へて見たら、泣きたい人は確に泣くことの出来る処があるが、同時に笑ひたい人は確に笑ふことの出来る処がありはすまいか。
 これは高慢らしい事を書いた。こんな事を書く筈ではなかつた。併し儘よ。一旦書いたものだから消さずに置かう。
 Strindberg に死人の踊といふ脚本がある。主人公の Edgar といふ男は、幕が開くといきなり心臓病の発作で死んだやうになる。妻が喜ぶ。最後に幕になる前に、二度目の発作で本当に死ぬる。初に死んでから後に、Edgar は名聞を求める。利欲に耽る。それが本当に死ぬまで已まない。それが死者の踊である。僕に物を書けといふのは、死者に踊れと云ふやうなものではあるまいか。
 僕はふと思ひ出した事があつて、明けて置いた初の一行に「新喜楽」と書いた。そしてこれは広告した時、引力のありさうな題号だと思つた。此頃物を書いて人の注意を惹かうといふには、少し scandal の気味を帯びてゐなくてはだめなやうだ。併し雑誌の体面といふものがある。僕はさう思つて、新喜楽の三字に棒を引いて、傍へ「追儺」と書いた。これなら少くも真面目に見える。僕は豆打の話をしようと思ふ。そして其豆打は築地の新喜楽での出来事なのである。そして僕が此話をすることの出来るのは M. F 君のお蔭である。僕は追儺と書いた左傍に、「M. F 君に献ず」と書かうかと思つた。書籍に dedicate するといふことがある以上は、雑誌の中に書いたものにもそれがあつても好くはあるまいか。「翻訳の権利を保留す」、「転載を禁ず」なぞは、雑誌にも随分あるではないか。併し謹厳といふ字を僕の形容に使ふことに極めてゐる新聞記者諸君が狼狽しては気の毒だと思つて止めた。M. F 君は劇談会で二三度出会つた人である。二月三日の午後六時に、僕を新喜楽へ案内した。活版の案内状に、何某も呼んであるから来いといふ書添がしてあつた。所謂何某が女性の名や何ぞでないことは、僕を呼ぶのであるから言ふことを待たない。役所は四時に引ける。卓の上に出してある取扱中の書類を、非常持出の箪笥にしまつて鍵を掛ける。帽を被る。刀を吊る。雨覆を著る。いつもと違つて、何となく気が引き立つてゐる。いつもでも内へ素直に帰られる日は少い。宴会は沢山ある。二箇所を断つて一箇所に往くといふやうな日もある。併しいつも往く所はまつてゐる。偕行社、富士見軒、八百勘、湖月、帝国ホテル、精養軒抔といふ所である。下つては宝亭、富士見楼などといふこともある。併し新喜楽とは珍らしい。常磐、小常磐、瓢屋なんぞは稀に往くことがある。新喜楽に至つては、丸で未知の世界である。新喜楽に往くといふのは、知らぬ処に通ずる戸を開けるやうで、何か期待する所があるやうな心持である。女の綺麗なのがゐるだらうと思ふ為めではない。今の自然派の小説を見れば、作者の空想はいつも女性に支配せられてゐるが、あれは作者の年が若いからかと思ふ。僕のやうに五十近くなると、性欲生活が生活の大部分を占めてはゐない。矯飾して言ふのではない。矯飾して、それが何の用に立つものか。只未知の世界といふことが僕を刺戟するのである。譬へばまだ読んだ事のない書物の紙を紙切小刀で切る時の感じの如きものである。役所を出て電車に乗る。灰色の空から細い雨が折々落ちて来る日である。電車の中で読む本を用意してゐるが、四時過の電車ではめつたに読めない。本願寺前で降りる。大抵此辺だらうと思つて、堀ばたの方へ向いて、一軒一軒見て往く。小綺麗な家に堀越といふ標礼がある。二三度逢つた事があるので、こゝにゐるなと思ふ。長靴をよごすまいと思つて飛び/\歩く。
 とう/\新喜楽を見付けた。堀ばたの通に出る角の家であつた。格子戸の前で時計を見る。馬鹿に早い。まだ四時三十分だから、約束の時間までは、一時間半もある。格子戸をはいる。中は叩きで、綺麗に洗つてある。泥靴の痕が附く。嫌な心持がする。早過ぎることわりを言つて上ると、二階へ案内せられる。東と南とを押し開いた、縁側なしの広間である。西が床の間で、北が勝手からの上り口に通ずる。時刻になるまで気長に待つ積で、東南の隅に胡坐をかいた。家が新しい。畳が新しい。畳に焼焦しが一つないのは、此家に来る客は特別に行儀が好いのか知らんなぞと思ふ。兎に角心持が好い。女中が茶と菓子を運んで来る。笑つたり余計な事を言つたりせずに下つて行くのが気に入る。著ものも沈黙の色であつた。茶を飲んでしまふ。菓子を食つてしまふ。持つてゐた本を引繰返ひつくりかへして見たが読む気にもならない。葉巻を出して尻尾を咬み切つて、頭の方を火鉢の佐倉に押附おつゝけて燃やす。周囲がひつそりとする。堀ばたの方の往来に足駄の音がする。丈の高い massif な障子の、すわつて肱の届くあたりに、開閉の出来るやうに、小さい戸が二枚づゝ嵌めてある。それを開けて見たが、横町へでも曲つたと見えて、人は見えない。総ての物が灰色になつて、海軍の参考品陳列館のけば/\しい新築までが、その灰色の一刷毛をなすられてゐる。兵学校の方から空車が一つ出て来て、ゆる/\と西の方へ行つた。戸を締める。電灯が附く。僕は烟草をふかしながら座敷を見て、かう思つた。広い、あかるい、綺麗な間で、なんにも目の邪魔になるものが無い。嫌な額なんぞも無い。避くべからざる遺物として床の間はあつても、掛物も花も目立たぬ程にしてある。胡坐をかいて旨い物を食つて、芸者のする事を見てゐるには、最も適当な場所だ。物質的時代の日本建築はこれだと云つても好からう、といふやうな事を思つた。此時僕のすわつてゐる処と diagonal になつてゐる、西北の隅の襖がすうと開いて、一間にはいつて来るものがある。小さい萎びたお婆あさんの、白髪を一本並べにして祖母子おばこに結つたのである。しかもそれが赤いちやん/\こを著てゐる。左の手に桝をわき挾んで、ずん/\座敷の真中まで出る。すわらずに右の手の指尖を一寸畳に衝いて、僕に挨拶をする。僕はあつけに取られて見てゐる。「福は内、鬼は外。」お婆あさんは豆を蒔きはじめた。北がはの襖を開けて、女中が二三人ばら/\と出て、こぼれた豆を拾ふ。お婆あさんの態度は極めて活々としてゐて気味が好い。僕は問はずして新喜楽のお上なることを暁つた。
 Nietzsche に芸術の夕映といふ文がある。人が老年になつてから、若かつた時の事を思つて、記念日の祝をするやうに、芸術の最も深く感ぜられるのは、死の魔力がそれを籠絡してしまつた時にある。南伊太利には一年に一度希臘の祭をする民がある。我等の内にある最も善なるものは、古い時代の感覚の遺伝であるかも知れぬ。日は既に没した。我等の生活の天は、最早見えなくなつた日の余光に照らされてゐるといふのだ。芸術ばかりではない。宗教も道徳も何もかも同じ事である。
 暫くして M. F 君が来た。いつもの背広を著て来て、右の平手を背後に衝いて、体を斜にして雑談をする。どうしても人魚を食つた嫌疑を免れない人である。僕は豆打の話をした。「さうか。それは面白い。みんなが来てからもう一遍遣らして遣る。」
 それからみんなが来た。いづれも福々しい人達であつた。選抜の芸者が客の数より多い程押し込んできた。
 二度目の豆打は余り注意を惹かずにしまつた。
 話はこれ丈である。批評家に衒学の悪口といふのを浚ふ機会を与へる為めに、少し書き加へる。
 追儺は昔から有つたが、豆打は鎌倉より後の事であらう。面白いのは羅馬に似寄つた風俗のあつた事である。羅馬人は死霊を lemur と云つて、それを追ひ退ける祭を、五月頃真夜なかにした。その式に黒豆を背後へ投げる事があつた。我国の豆打も初は背後へ打つたのだが、後に前へ打つことになつたさうだ。
(明治四十二年五月)





底本:「ザ・鴎外 ―森鴎外全小説全一冊―」第三書館 
   1985(昭和60)年5月1日初版発行
   1992(昭和67)年8月20日第2刷発行
初出:「東亜之光」
   1909(明治42)年5月
入力:村上聡
校正:野口英司
1998年5月11日公開
2005年4月30日修正
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柳田国男
追儺考

 1.緒言
 2.追儺の概略
 3.追儺儀礼
 4.変遷
 5.方相氏
 6.参考文献





1.緒言

 本稿は、節分儀礼とその元となった追儺についての概説である。
 まず追儺とは何か、どのような儀礼であったのかについて述べ、その後現代の節分儀礼にまで至る歴史的変遷を辿る。最後にその原型と考えられる中国大陸における方相氏について触れる。

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2.追儺の概略

 「追儺(ついな)」とは我が国の宮中で古くから行われていた年中行事の一つである。元々は大陸で行われていた「大儺(たいな)の礼」が、本邦にも取り入れられたと考えられている。
 この儀式の形式は、おそらく、『唐書』「礼楽志」にあるような唐代の儀式が伝えられたものであろう。本来「儺(だ)」という漢字は、疫病を駆逐するという意味を持つ。この儀式は大陸では季節の変わり目に行われていたらしい。
 大儺の礼とは、方相氏(ほうそうし)が窮奇(きゅうき)や騰根(とうこん)等の十二頭の野獣に扮したもの達と百二十人の子供を引き連れて妖魔を祓うというものである。我が国では、これに相当する儀礼を「儺遣(なや)らう」、「儺遣(なや)らい」、「鬼遣らい」などともいう。これは重要な宮中行事であり、後世には変質しながら民間にも広がって行ったとされる。
 我が国には7世紀頃には既に伝わっていたらしい。『続日本記』の慶雲三年(西暦706年)に大儺が行われた記事があり、これが文献に表れた最初であるとされている。

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 ここで、類似の芸能である修正会・修二会にも触れておきたい。何れも仏教儀礼ではあるが、鎮護国家、そして国家の隆盛を祈るという政治的な性格を持った法会である。叡山を始め、各地の寺院で行われた。特にお水取りと称される東大寺二月堂の修二会が有名であろう。通常修正会は正月に、修二会は陰暦の二月に行われる。なお、これらの修法は、我が国では8世紀には既に行われていたという。
 修正会・修二会では、呪師(ずし)による儀式が行われる。その中に「鬼」が登場するものがあるのである。それは「走りの行法」と呼ばれる儀式で、一種の追儺といえるものである。これは最終日、即ち結願の日に穢れや罪を祓う為に行われる。別名「龍天」、「毘沙門天」、「鬼手」、「鬼走り」などといい、鬼を仏教の守護神である天部(龍天・毘沙門天)が追いかけ回すという儀礼であったと考えられている。後には祖霊信仰や農耕儀礼と結びついた形となり、そこでの「鬼」はむしろ祖霊や来訪神の象徴に近い。
 修正会・修二会は奈良や京都の大寺院で盛んに行われ、現在でも法隆寺や薬師寺ではこの行事が行われている。これらの仏教儀礼も、追儺が民間へと広がってゆく契機の一つとして位置付けることができると考えられる。

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3.追儺儀礼

 次に、追儺行事の具体的内容について述べる。
 追儺は大晦日に行われる。これが行われている時には、禁中の所々に燈火を灯す。天皇は紫宸殿に出御、所司が承明門を開き公卿が参入する。そして黄金四つ目の仮面を被り玄衣朱裳をまとい、右手に桙(ほこ)、左手に楯を持った方相氏が※子(わらわべ)二十人(註1)を率いて南庭に参入。王卿は侍従、大舎人を率いおのおの桃の弓、蘆の矢を持って方相氏の後ろに列す。(※は“にんべん”に“辰”と書く漢字である)
 一方で陰陽師は齋郎(さいのお)を率いて月華門より入り祭文を読む。そして陰陽師の祭文が終わると、方相氏は「オニヤロー」と大声を発して桙で楯を三度打ち、群臣はこれに呼応して東西南北に別れて、桃の弓を射、疫鬼を駆逐する。そして群臣が方相氏の後に続いて振り鼓(註2)をバラバラと鳴らしながら宮中を巡る。
 このときの祭文について、『延喜式』陰陽寮に祝詞の「儺の祭の詞」がある。

  「今年今月今日今時 大宮内に神祇官宮主の祝ひまつり敬ひまつる
   天地の諸御神たち平けくおたひにいまさふへしと申す
   事別けて 詔りたまはく
   穢く悪しき疫鬼の 所所村村に蔵り隠らふるをば
   千里の外 四方の堺
   東方陸奥 西方遠価嘉 南方土佐 北方佐渡より
   おちの所を なむたち
   疫鬼の住みかと定め賜ひ 行け賜ひて
   五色の宝物 海山の種種味物を給ひて罷賜ひ 移し賜ふ
   所所方方に 急に罷往ねと追給うと詔るに
   奸心を挟んで 留りかくらば
   大儺公 小儺公 五兵を持ちて追い走り
   刑殺物ぞと 聞き食ふと詔りたまふ」

註1)方相氏の引き連れた子供の人数は後には八人に変化する
註2)でんでん太鼓の様な音の出る一種の玩具

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 ここで、追儺について言及される古典について簡単に紹介する。

 まずは平安期、右大将道綱母の『蜻蛉日記』(天暦八[954]年~天延二[974]年の藤原兼家との結婚生活を扱う自叙伝的日記)の天禄二[971]年十二月の条を見てみよう。
  「『忌みの所になん、夜ごとに』と告ぐる人あれば、こゝろやすからでありふる
   に、月日はさながら『鬼やらひ来ぬる』とあれば、あさまし/\と思ひ果つる
   もいみじきに、人は童、大人ともいはず『儺やらふ/\』とさはぎのゝしるを、
   われのみのどかに見聞けば、ことしも心ちよげならんところのかぎりせまほ
   しげなるわざにぞ見えける」
 年も押し詰まり、大人も子供も追儺の喧噪に興じている。しかし、そんな時でも、夫兼家が愛人の元へと通っていることを告げられた作者は、冷めた目で述懐する、“追儺なんて何の心配事もない家庭だけがするもののようね”と。

 続いて、有職故実書に記された例である。朝廷の儀式等について詳記した大江匡房『江家次第』(12世紀初頭)には平安後期の追儺儀式の様子が記されている。
  「方相先作儺声、以戈叩楯三箇度、群臣相承和呼追之。方相経明義、仙華
   門、出北廊戸。上卿以下随方相後、度御前、出自滝口戸。殿上人於長橋
   内射方相」
 ここで記されている内容は、大筋では先述した儀礼と同じであるが、最後に方相氏自身が射られると解釈できる文言がある。これについては次章の変遷で詳しく見てゆきたい。

 最後に卜部兼好『徒然草』(鎌倉後期)の第十九段を見てみよう。ここからは、宮中行事から民間へと、次第に伝播していった追儺行事の様子をうかがうことができる。
  「追儺より四方拝に続くこそ、おもしろけれ。晦の夜はいたう暗きに、松どもとも
   して、夜中過ぐるまで、人の門叩き、走り歩きて、何事にかあらむ、こと/\
   しくのゝしりて、足を空に惑ふが(後略)」

 この他にも『小右記』(藤原実資、摂関時代)などの貴族の日記に記されたり、和歌に読み込まれたりしている例もある。

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4.変遷

 本章では、宮中儀礼であった追儺が、どのような変遷を辿って民間の節分儀礼へとなったのかについて述べる。追儺儀礼の変質を追うことで、古代から中世・近世へ至る信仰の変化の過程をうかがうことができると考えられる。

 追儺で駆逐される「鬼」は、本来具体的な形を持たなかったと思われる。だが、鬼を追う役の方相氏の姿が恐ろしいことから、後世にはむしろ方相氏が鬼そのものと見なされるようになってしまったと考えられている。平安時代末期には後ろに付き従った群臣も、むしろ方相氏を追い回すように理解されたのである。室町期になると、はっきり方相氏とは鬼のことであると記述された文献も登場する(一条兼良『公事根源』→註1))。つまり、追う者が何時の間にか追われる者となってしまったのである。これは、平安期に隆盛を極めた陰陽師達が、民間へと散っていった後に、彼ら自身が畏れられ、忌避される存在になってしまったのと同列なものであろう。ここでも畏れは恐れへと変わり、祓うものが祓われるものへと変化していったのである。
 鬼の追う者である方相氏との同一化が起きると、次第に鬼も視覚的に理解されるようになったと考えられる。この造形には前記の方相氏だけでなく、様々な仏教美術に表れる魔物や各種の芸能が影響を与えたと思われる。例えば、平安中期の『政治要略』(惟宗允亮撰、法制書)には方相氏と鬼とが共に描かれているが、その姿が『餓鬼草子』の疫鬼に似ている事が指摘されている。また、修正会・修二会などの儀礼に登場する「鬼」の姿も鬼の視覚的イメージの形成に影響を与えたと思われる。
 なお、吉田神社では近代になって宮中儀礼に基づいて追儺を復元した。しかし、当初は目に見えない鬼を追う本来の形式であったが、評判が良くなかったために目に見える鬼が登場するように変えられたという。

 さて、追儺は元々は年の瀬、大晦日の行事であったのだが、後世になると季節の変わり目の行事である節分と追儺、さらには豆撒きとが混淆するようになっていった。
 節分とは、本来一年間に春夏秋冬の変わり目、計四回あるものである。しかし、次第に特に重要とされた立春前、冬と春との節分を主に差すようになったと考えられている。これは旧暦では新年に当たり、二十四節句が一巡して新しくなる時でもある。
現在の太陽暦上では二月の三日か四日に当たる。また、節分、つまり季節の変わり目の宮中行事には、例えば土牛童子(とぎゅうどうじ)というものもある。これは土で拵えた牛と桃の枝を持つ童子の像を宮城の東西南北の十二門に据えるというものである。これも陰陽五行に基づく儀礼で、陰気を祓い陽気を迎え入れ春を呼ぶためのものであるとされる。
 これらの複数の節分の儀式が習合し、豆打ちをする今日の節分儀式となったと考えられている。

 年の変わり目でもあった節分は、時間的な「境界」でもあり、そうした意味でも異界からの来訪者が訪れやすい時だと認識されていた。こうした年の変わり目と節分の関連については、狂言『節分』の内容からうかがうことができる。
 『節分』では、節分の夜に主人は「出雲の大社に年籠り」に出かけ、一方で留守番の妻の元へ蓬莱の島の鬼が「豆を囃(はや)いて年を取ると申すによって、急ぎ日本へ渡り、豆を拾うて噛まばやと存じ候」と現れるのである。
 この他にも、年中行事の記録や初夢との関わり(参考→)などからもそれをうかがうことができる。

 ところで、豆撒きは普通は、古代漢民族の持っていた大豆を用いた呪術を受け継いだものと言われている。穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっているという信仰である(→註2)。そして我が国では室町時代、十五世紀頃には大豆を撒いて邪気を払う事が行われたことが文献からわかっている。また、『臥雲日件録』文安四年(西暦1447年)の記事に「散熬豆因唱鬼外福内」とあり、既に「鬼は外、福は内」と唱えていたことがうかがえる。
 また、鞍馬山の毘沙門天信仰と関係して鬼遣らいの呪法(豆撒き、五節句)が説明される場合もある。これは『貴船の本地』などにおいて語られ、毘沙門天や龍天が鬼を逐う仏教寺院の修正会・修二会と関わるものと考えられている。
 一方、飛礫(つぶて)を以て鬼を打つ印地打ちと呼ばれる儀式もあり、これには下級の陰陽師(算所法師など)が関わっていたと言われている。同種のものに、蕎麦を飛礫に用いる“大黒飛礫の法”などというものもあり、これは如意宝珠とみなされていたという。従って、これは鬼を打つ豆を“福豆”と呼ぶように、福をもたらす力を持った珠(玉)であり、節分の日(年越しの日)の持っていた祝祭的な性格をうかがわせるものでもある(→註3)。

 結局、追儺に関する儀礼は、宮中においては中世に廃れてしまったのに対し、民間へは広く伝播して行ったと考えられている。例えば諸国の寺社でもさかんに追儺祭が行われるようになった。神戸の長田神社などではその古式を現在でも伝えている。また、近代になって復興したものもある。現在京都の吉田神社や平安神宮で行われているものがそれに当たる。因みに吉田神社では方相氏の仮面を象った土鈴が売られている。
 現在も残る民間の節分儀礼については、宮中における追儺よりも、むしろ一度仏教に取り込まれた追儺が、さらに民間へと流布して形成された儀礼の系譜を引いていると考えられている。

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 註1)『公事根源』は一条兼良による有職故実書、応永二十九年[西暦1422年]刊。以下に「追儺」の条の一部を引用する。この本は月毎に記されているので、大晦日に行われる追儺の条は最終項目である。[]内は筆者による補記。

  「追儺 卅日 ケフハナヤラフ[儺遣らふ]夜ナレハ、大ト子リレウ[舎人寮]ヲニ[鬼]ヲツトメ、陰陽寮サイモン[祭文]ヲモテ南殿ノ辺ニツキテヨム。上卿以下コレヲヲフ[追ふ]。殿上人トモ、御殿ノ方ニ立テ、桃ノ弓葦ノ矢ニテイル[射る]。仙花門ヨリ入テ東庭ヲヘテ瀧ノ戸ヘイツ。コヨヒ御所ニ灯ヲオホクトモス(中略)追儺トイフハ年中ノ疫気ヲハラフ心也。鬼ト云フハ方相氏ノ事也。四目アリテオソロシケナル面ヲキテ、手ニタテホコ[盾鉾]ヲモツ。又※子[※は“にんべん”に“辰”と書く漢字である]トテ廿人紺ノ布衣ヲキタル物ヲ率テ内裏ノ四門ヲマハル也。慶雲二[三の誤写か]年十二月ニ始ル。コノトシ天下ニ百姓多ク疫癘ニナヤマサレ侍リシ故也」(京都大学付属図書館蔵、平松文庫本より)

 註2)煎り豆を使用することを、五行説や語呂合わせによって説明する場合もある。
   五行説では刃物や金属等、堅固なものが金気とされる。さらに、疫病や災厄などの凶事も金気に相当するとされる(鬼の持つ金棒はこれを象徴するとも言う)。そこで儀礼によってこの金気を抑制することを試みるのである。その際五行説の火剋金(火は金を滅ぼす)の性質を利用する。つまり、硬い豆を金気に相当するとし、その豆を火で煎ることで火剋金を象徴するのである。さらには、最後に鬼に見立てられた豆を食べることも、鬼を追い払うことに繋がるとされるのである。
   また春=木気であることから、金剋木(金は木を滅ぼす)の性質によって春の訪れの障害となり得る金気を抑制するために、金気の豆を煎って金気を剋する、春を招く呪術であると説明されることもある。
   一方、語呂合わせによると、豆(まめ)はその音が魔目や魔滅に通じる。そこから鬼の眼即ち魔目(まめ)に豆(まめ)をぶつけて魔を滅すという訳で煎り豆を撒くのだという説明もある。

 註3)ただし、小松和彦が指摘する次のような点には十分に注意する必要がある。
   「修正会の鬼も節分の鬼もけっして人びとを祝福するために来訪するのではない。それは排除され退散させられるために招き寄せられるのである。もっと正確にいえば、一年のうちでいつ訪れるかもしれない鬼の来訪、来襲を避けるために、あるいはすでに人間社会に侵入して犠牲となる者を探し回っている鬼たちを追放するために、そうした鬼を儀礼的に演じることであらかじめ排除してしまおうとの考えからこの鬼の儀礼が設定されたのである」(小松和彦「簑着て笠着て来る者は……」(小松和彦編『これは「民俗学」ではない』福武書店1989))

                              ***

5.方相氏

 最後に追儺儀礼において重要な役割を果たす方相氏についても述べておこう。 妖怪画集として有名な鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』にも方相氏は描かれている。石燕は四ツ目の鬼のような仮面を被った人物を描き、次のような詞書きを寄せている。

  「論語曰 郷人儺朝服而立於*階 註儺所以逐疫周礼方相氏掌之」
   論語に曰く、郷人の儺(おにやらい)に朝服をして*階(そかい)に立てり
   註に儺は疫を逐う所以(ゆえん)也 周礼に方相氏之を掌る
   (*は“こざとへん”に“乍”と書く漢字である)

 これは『論語』の郷党篇にある言葉を引用したものと考えられる。『論語』の当該部分の読み下しは「郷人の儺(だ)には朝服して*階(そかい)に立つ」である(上記の鳥山石燕による詞書きの引用部分に付けた読み下しは、石燕の記した振り仮名に拠ったもの)。
 この部分は、孔子の隣人とのつきあいについて記した部分である。意味は、“村の人が鬼遣らいの行事をするときには、朝廷の礼服を着て階段の東側に立つ”である。孔子の時代には、堂の階段では、客は西の段から上がり、主人は東側から上がったと考えられている。そして、なぜ礼服を着て東側に立ったかという点について、古注では先祖の霊が驚くことを恐れてと言い、また朱子は誠を尽くして隣組の行事に参加したという意味だと言っているそうである。また、詞書きの中の「註」とは朱子の『集註』を指すという。
 石燕によってもう一つ言及された『周礼』によると、方相氏は熊の皮を被り、黄金四つ目の仮面を付け、黒い衣を赤い裳を身につけ、矛と盾を持ち眷属を引き連れ悪鬼を追い、疫鬼を駆逐するものという。
 本邦の追儺の方相氏が、大陸におけるこの儀礼の流れを汲んでいることは明らかである。
 なお、方相氏の由来については、次のように伝えられている。それによれば、伝説の聖帝である黄帝の后の一人が最初の方相氏という。彼女は醜かったが徳を持っていたという。これらの説話は、例えば『軒轅本記』などに記されている。大陸では後に方相氏は険道神、開道神と呼ばれる死者の棺を守護し、出棺の先導をする神となる。これに関連して、『酉陽雑俎』には、“方相氏は棺に先立って墓に入り矛で四隅を撃って魍魎を駆逐する”とある。ここでの魍魎とは、屍体を害する妖怪の一種を指す。

 追儺の方相氏は、我が国でも節分儀礼ばかりでなく、様々な民俗に影響を与えたと考えられる。各種の祭礼や芸能に現れる鬼形のもの達がそれであろう。あるときは邪気穢れの象徴として追われ、またあるときは祭礼行列の先導をなし、また子供を戒める存在にもなる。我が国の「鬼」が、単なる邪悪なるものというだけではなく、極めて多様な性格を持っていることには、方相氏の影響も無視できないと考えられる。

 結局追儺儀礼は、豆撒き行事として広く民間に受け入れられると共に、方相氏を通じて鬼や天狗といった妖怪的存在とも関係する多層的な内容を持った習俗であったといえよう。これは大陸文化が摂取され、我が国の文化との相互作用を経て、独自の形態を備えてゆく文化受容過程の一例であると考えられる。


 「年ごとに人は遣らへど目にみえぬ心の鬼はゆく方もなし」 (『賀茂保憲女集』)

 (了)
                              ***

6.参考文献
  ・小松和彦ほか『日本民俗文化大系4 神と仏』小学館1983
  ・柳田國男「石神問答」、「巫女考」『柳田國男全集』筑摩書房1997
  ・国史大辞典編集委員会編『國史大辭典』吉川弘文館1979
  ・『論語』(『新釈漢文大系』明治書院)
  ・笹間良彦『日本未確認生物事典』柏美術出版1994
  ・『日本「鬼」総覧』新人物往来社1995
  ・馬場あき子『鬼の研究』三一書房1971
  ・知切光蔵『鬼の研究』大陸書房1978
  ・田中貴子『百鬼夜行の見える都市』新曜社1994
  ・高田衛監修『鳥山石燕 画図百鬼夜行』国書刊行会1992
  ・多田克己『百鬼解読』講談社1999
  ・萩原秀三郎『鬼の復権』吉川弘文館2004
  ・小松和彦『悪霊論』青土社1989
  ・小松和彦編『これは「民俗学」ではない』福武書店1989
   ほか、民俗学、歴史学の諸文献、『広辞苑』等の辞書
   柳田國男、小松和彦、京極夏彦、夢枕貘の諸氏の著書

  ※「追儺」の項目に関するWikipediaの記述はかなり問題が多いです(2006.09現在)。
   詳細は某所で記述したので省略しますが、一部の記述はほぼ間違いなく誤りです。御注意を。
   記載内容を修正しました(2007)。

  ※2008年2月3日(節分)追記
   第4章を中心に増補改訂。

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