金曜日, 3月 10, 2017

Akira KUROSAWA

黒澤明 アカデミー名誉賞 1990年


 
1990/03/26

フェデリコ・フェリーニ、黒澤明を語る

https://youtu.be/9D3-bFlICy4

淀川さん黒澤映画を語る

https://youtu.be/iyTJXDBVptY


 

黒澤明 アカデミー名誉賞 1990年
https://youtu.be/jJHWKUeGz2E

“狂気の世界では
狂気のみが正気である” 黒澤明
“In a mad world only the mad are sane.”-Akira KUROSAWA

“芸術家であるならば物事から
目を背けてはならない” 黒澤明
“ To be an artist means never to avert one's eyes.” -Akira KUROSAWA

 



http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20080418/1009558/
「…いや、というのも、まだ、私は映画というものをはっきりとつかんでいない気
がするからです。映画は素晴らしい。しかし、この素晴らしく美しいものをつかむ
のは大変難しい。これからも映画という素晴らしいものをつかむために全力を尽くす
つもりです。それこそが、この賞に応える一番いい方法だと思うからです」

 


續姿三四郎 1945年

http://www.d3.dion.ne.jp/~masaji.s/kuro13.html
苦悩する三四郎の姿を描く場面が多くて沈みがちなシーンが多い中にあって、時折ユーモアのあるシーンが挿入される。
和尚と座禅を組み合って、眠りこけてしまった三四郎に対して和尚は朝になってもまだ座禅を組み続けていたのだが、目を覚ました三四郎がよくよく見ると、和尚も座禅を組みながら眠っていたなどは、その最たるもの。
その他にも、小夜と別れた三四郎が振り返ると、小夜が別れの会釈をしていて、何度もこれを繰り返して名残を惜しむシーンなども張り詰めたものを解きほぐすシーンとなっていた。
黒澤明の第一作が「姿三四郎」で、その続編がこの「続姿三四郎」だったという黒沢ライブラリーとしての歴史的な存在価値で本作はその名を留める作品なのだと思う。

《「この断片と断片の間のあやしい生命--これこそ映画のいのちがはじ

まるところであるが--それを的確につかむ事こそ、フイルムの断片を

っなぐ仕事の本質なのである」

(黒澤明「映画の編集について」『キネマ旬報』1948年1月下旬号)


 黒澤は、この「間」に映画そのものがあると考える。


「カットとカット、シーンとシーン、シークエンス(ひと続きの画面)と

シークエンスのつなぎ目に映画があるんですよ。映画の流れのつなぎ目

に映画そのものがある。つなぎ方の呼吸が大事で、その呼吸から映画

が出てくるといってもいいのだけれど」(「黒澤明の世界『語る』」

「朝日新聞(夕)」一九九四年四月十四日)》


黒澤明全作品と全生涯269頁より孫引き(朝日の方は『大系』には未収録?)



5 Comments:

Blogger yoji said...

マールイ劇場ソローミン芸術監督「黒澤監督は『白痴』の映画化は失敗だったと思っていた」
https://jp.sputniknews.com/opinion/201606172323776/
オピニオン
2016年06月17日 22:30(アップデート 2016年06月22日 15:19) 短縮 URL
タチヤナ フロニ
0 725100
「『羅生門』を撮影するまで、私はずっと『白痴』をやりたかったんです。若い頃から、ロシア文学を愛していました。ドストエフスキーこそ最良だと思っていましたし、彼の原作から、素晴らしい映画を撮ることができるだろうと、長い間思っていました。ドストエフスキーはやはり今でも大好きな作家です。私の意見では、彼は唯一の、人間という存在について真実を書いた作家です。」偉大な日本人映画監督、黒澤明氏はそう語った。

「白夜の調べ」
© 写真: MOSFILM, 1976
あれから40年:ユーリー・ソローミン氏「白夜の調べ」と栗原小巻を思い出す
世界的な巨匠である黒澤監督と、一緒に仕事をすることができた幸せなロシア人俳優の数は、そんなに多くはない。劇場俳優であり映画俳優の、ユーリー・ソローミン氏(現・マールイ劇場芸術総監督)は、そのような幸せなロシア人俳優のうちの一人である。
ソローミン氏「私はいつも喜びをもって日本のことを思い出します。そのような大事な思い出の中のひとつが、もちろん黒澤明監督との出会いです。私は『デルス・ウザーラ』で主役をさせてもらいました。黒澤監督は、第二次世界大戦が始まる前に既に監督としての仕事を始め、映画人生の第一歩として、『デルス・ウザーラ』を撮りたかったのだと私に話してくれました。実際のところ、監督は当初、主役に日本人をあてることを考えていたのですが、ある日本人プロデューサーが、私を起用するよう要求したのですよ。それは私にとっては本当にラッキーなことでした。なぜなら、全ての俳優が、天才的な巨匠である黒澤監督と出会えるわけではありませんからね。そして私にとっては、彼との出会いは更に貴重なものでした。『デルス・ウザーラ』の撮影の後、私と監督とは30年以上も、彼が亡くなるまで、ずっとずっと友情が続いたのですから。私は90年代に、マールイ劇場を率いて、初めて日本で公演をおこないました。そのとき黒澤監督は個人的に、マールイ劇場の日本公演を宣伝してくれたのです。その際、マールイ劇場の俳優とステージの写真が入った、特別アルバムを作りました。

ロマン・キム、ソ連の忍者だった男
© SPUTNIK/ LYUDMILA SAAKYAN
ロマン・キム、ソ連の忍者だった男
黒澤監督はそのアルバムに、冒頭の挨拶文を書いてくれました。私にとっては、彼がロシア文学を愛し、ロシアの古典から何本かの映画を撮影したことは、とてもありがたく大切なことです。日本ではロシア文学が愛されていますし、みんなトルストイやドストエフスキーを知っています。特にチェーホフは、愛されていますね。マールイ劇場は3回、日本で公演したのですが、その3回とも、チェーホフの『桜の園』を上演しましたよ。日本の観客の皆さんが『桜の園』が見たい、また見たいとリクエストされるのです。皆さん、『桜の園』が好きなんですね。」
ソ連時代、黒澤監督の映画は非常にたくさんの人に鑑賞され、人気を博した。「デルス・ウザーラ」が公開された後、黒澤監督のもとには何回も、何かしら新しい映画をロシアで撮ってほしいというリクエストが来ていたという。ソローミン氏は、当時を次のように思い出している。

ソローミン氏「私も黒澤監督に、もう一本映画を撮ってくれるよう提案しました。黒澤監督は、当時の『モスフィルム』の総裁だったニコライ・シゾフ氏を大変尊敬していました。何といっても、シゾフ総裁が、黒澤監督が『デルス・ウザーラ』を撮ることを提案したのです。黒澤監督はすぐに賛成しました。それは彼の長い間の夢だったのですからね。その夢がかなった後、黒澤監督はエドガー・アラン・ポーの『赤き死の仮面』をロシアで撮影したいと考えていました。黒澤監督は『赤き死の仮面』の主役を私が演ずるよう誘ってくれました。音楽は、イサーク・シュワルツが作曲する予定でした。彼は『白夜の調べ』に素晴らしい音楽を提供した人です。

ヨシフ・スターリン
© SPUTNIK/ RIA NOVOSTI
アーカイブから人気番組:これがロシア人!ヨシフ・スターリンという人物の今日の評価
しかし、残念ですが、その計画は実現しませんでした。当時黒澤監督はサンクト・ペテルブルグに来て、私たちはこの映画についてたくさんの打ち合わせをしました。しかし、あるとき、黒澤監督は何人かのロシア人映画関係者たちから侮辱されたと感じたのです。それはどういうことかというと、当時のソ連には芸術評議会というものが存在していたのですね。この評議会と、どういうアーティストを起用するかについて、お伺いをたて、意見を一致させなければならなかったのです。黒澤監督はそのシステムに慣れていませんし、それをすることを拒否しました。でも私は、その撮影されなかった映画の脚本のロシア語版を、聖なる人の遺物のように、今でも大事に保管しているのですよ。
そのことがあっても私たちの友情は続きました。私が日本へ行ったときには必ず彼と会いました。私がマールイ劇場の芸術監督に就任した1989年、この劇場で、好きな戯曲を上演してくれるよう黒澤監督に提案しました。彼は長い間それについて考えていましたが、その提案をのみませんでした。なぜならば、彼はロシア古典文学を愛してはいましたけれども、彼が撮影したドストエフスキーの『白痴』は失敗に終わった、と考えていたのです。本当に残念でした。もし監督がOKしてくれていたら、私たちは彼の望む条件、劇場に求める条件を、全て満たす用意がありました。『白夜の調べ』で私と共演していた栗原小巻さんがその劇に出演してくれたかもしれません。

黒澤監督はそれからまもなくこの世を去ってしまいました。でも私のまわりには、黒澤監督に関わる色々な物が今でも残っています。映画監督になる前、彼は芸術アカデミーを卒業しました。私の書斎には、黒澤監督がくれたサイン入りの絵が飾ってあります。彼が自分で描いた、目が輝いている虎の頭の絵です。これは『デルス・ウザーラ』の思い出の品なのです。この絵は、私の誕生日に、ロシア語で書いたお祝いのメッセージと一緒にプレゼントしてもらいました。これは私にとってとても大切なものです。その後、彼はロシアに来ることはありませんでしたが、毎年の正月と、誕生日には、『黒澤画家』は新しい絵葉書を送ってくれました。そのたくさんの絵葉書は、私たちの友情の記憶として、書斎に大切にしまってあります。」

10:09 午後  
Blogger yoji said...

黒澤明「生きる」言葉 (@AkiraK_Bot)
2014/08/12 1:14
カットとカットの繋ぎ目に映画がある 「まだよく分からないけれど,これは映画になったと納得できるところは,繋ぎ目が的確なところだと気が付いたんだ」転換のタイミングが絶妙で,描き出そうとするものに力を与える感じ,間に存在する正真正銘映画的なものなんだと。 #kuroken

Twitterアプリをダウンロード

11:25 午後  
Blogger yoji said...

黒澤明「生きる」言葉 (@AkiraK_Bot)
2014/08/12 1:14
カットとカットの繋ぎ目に映画がある 「まだよく分からないけれど,これは映画になったと納得できるところは,繋ぎ目が的確なところだと気が付いたんだ」転換のタイミングが絶妙で,描き出そうとするものに力を与える感じ,間に存在する正真正銘映画的なものなんだと。 #kuroken

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11:27 午後  
Blogger yoji said...

黒澤明全作品と全生涯
都築政昭/著
ISBN:978-4-487-80434-4
本体価格3,000円
発売年月:2010-02-01

11:28 午後  
Blogger yoji said...

天国と地獄


《エド・マクベインの小説は、ほんのー部分を借りただけです。マクベインのものとして
は、はっきりいえばいい作品ではないですね。ただ、誰をさらおうとも、脅迫は成り立つ、
というあの思いつき。あれがすばらしい着眼だったので、そこのことだけもらったんです。
誘拐罪というのは、日本では実に罪が軽いんですよね。事実、こんなことでもし子供が誘
拐されたらどうしようか、という気持はそれまでも多分に持っていたところへ、あれを読
んだものだから、いっきに作りたくなった。
 例の、列車のトイレの窓からお金を落とすアイディア。部屋の中で、地図・設計図など
と首っぴきで実際どうなっているのかを、全部調ベあげて、ときどき国鉄に電話で聞いた
りした。しまいには「いったい、あんたたち何者ですか」なんていわれる始末でね。トイ
レというのは、調べてみたらあそこしか窓があかないんですね。何センチあく、というこ
とまで設計図できまっているんです。そこから落とす点と、電話を利用するという点。新
しい開拓はこの二つだな。》キネ旬インタビューより


冒頭の株取得のやり取りは原作通り。
他人のために自分を犠牲にするというのは黒澤的主題。内田吐夢の主人公なら
自分のために戦うが、黒澤映画では違う。






https://i.imgur.com/t7iCXpr.gif


https://i.imgur.com/trx75Sw.gif



https://i.imgur.com/Vp4t0DM.gif


https://i.imgur.com/MgeKOMy.gif

7:30 午前  

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