Akira KUROSAWA
- 《 もうひとつのショットをあげよう。黒澤明の映画『七人の侍』のシーンである。中世の日本の村。馬上の野武士と地上の侍との闘いが続けられる。激しい雨。すべてが泥にまみれている。侍のつけた日本の昔の衣裳は足のところが上の方までまくりあげられている。足は泥まみれである。ひとりの侍が殺され、倒れる。すると雨がこの泥を洗い流していく。彼の足は白くなっていく。大理石のような白さ。男は死んだ! これは、事実というイメージである。これは象徴体系から免がれている。これこそイメージなのである。
恐らく、このイメ―ジは.偶然に生まれたのだ。俳優は走り、そのあとで倒れ、雨が泥を洗い落とす。もはやわれわれはこれが映画監督の新発見だとは思わないだろう。》
タルコフスキー 映像のポエジア 103頁
https://youtu.be/pJ3G1yuwJ1k?t=44m14s上ではなく多分以下、
https://youtu.be/pJ3G1yuwJ1k?t=46m34s

羅生門

蜘蛛巣城



http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20080418/1009558/

和尚と座禅を組み合って、眠りこけてしまった三四郎に対して和尚は朝になってもまだ座禅を組み続けていたのだが、目を覚ました三四郎がよくよく見ると、和尚も座禅を組みながら眠っていたなどは、その最たるもの。
その他にも、小夜と別れた三四郎が振り返ると、小夜が別れの会釈をしていて、何度もこれを繰り返して名残を惜しむシーンなども張り詰めたものを解きほぐすシーンとなっていた。
黒澤明の第一作が「姿三四郎」で、その続編がこの「続姿三四郎」だったという黒沢ライブラリーとしての歴史的な存在価値で本作はその名を留める作品なのだと思う。
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- 《「この断片と断片の間のあやしい生命--これこそ映画のいのちがはじまるところであるが--それを的確につかむ事こそ、フイルムの断片をっなぐ仕事の本質なのである」(黒澤明「映画の編集について」『キネマ旬報』1948年1月下旬号)黒澤は、この「間」に映画そのものがあると考える。「カットとカット、シーンとシーン、シークエンス(ひと続きの画面)とシークエンスのつなぎ目に映画があるんですよ。映画の流れのつなぎ目に映画そのものがある。つなぎ方の呼吸が大事で、その呼吸から映画が出てくるといってもいいのだけれど」(「黒澤明の世界『語る』」「朝日新聞(夕)」一九九四年四月十四日)》黒澤明全作品と全生涯269頁より孫引き(朝日の方は『大系』には未収録?)

https://youtu.be/pJ3G1yuwJ1k?t=46m34s
続姿三四郎 https://i.imgur.com/ZQnwBLM.gif
羅生門 https://i.gyazo.com/4f8abf38f84abd0528369eabf6f412d8.gif
蜘蛛巣城 https://i.gyazo.com/e4b7407db816f5758fd0cd804f43317b.gif
七人の侍「野武士はッ?……野武士はッ?……野武士はッ?……」「野武士はもうおらん!」
https://i.imgur.com/oNyqk7K.gif
蜘蛛巣城 https://i.gyazo.com/e4b7407db816f5758fd0cd804f43317b.gif
隠し砦の三悪人 https://i.imgur.com/QOSZy0r.gif
椿三十郎 https://i.imgur.com/DQy0lki.gif
天国と地獄 https://i.imgur.com/Vp4t0DM.gif https://i.imgur.com/MgeKOMy.gif
『影武者』 https://i.imgur.com/ikU3bum.gif
『乱』 https://i.imgur.com/8VosY3P.gif
黒澤明 アカデミー名誉賞 1990年
https://youtu.be/jJHWKUeGz2E
“芸術家であるならば物事から目を背けてはならない” 黒澤明
“ To be an artist means never to avert one's eyes.” -Akira KUROSAWA
https://i.imgur.com/PS7QZ41.gif
“狂気の世界では 狂気のみが正気である” 黒澤明
“In a mad world only the mad are sane.”-Akira KUROSAWA
https://i.imgur.com/TlImsCu.gif
Madadayo (1993) Seasons passing scene https://i.imgur.com/ETcNvRN.gif
https://youtu.be/QZANCZGXEWM
羅生門~赤ん坊を抱く法師。その赤ん坊に手を伸ばす木こり。
「何をする。この赤子から肌着まで剥ぐつもりか」
「わしのところに子供が6人いる。6人育てるも7人育てるも同じ苦労だ」
羅生門は認識の相対性を描いているが主知主義的作品ではない…