Baso (Ma-tsu) and Sekito (Shih-tou) 馬祖道一と石頭希遷 景徳伝灯録
NAMs出版プロジェクト: Baso (Ma-tsu) and Sekito (Shih-tou) 馬祖道一と石頭希遷 景徳伝灯録
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伝記
参考文献
百丈懐海 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/百丈懐海第30則:即心即仏 岩波無門関p.125~127
本則:
馬祖、因みに大梅問う、「如何なるか是れ仏?」。
祖云く、「即心是仏」。
456c1,0,景徳傳燈録巻第三十。,0
456c2,0,銘記箴歌。,0
456c3,0,傅大士心王銘。,0
456c4,0,三祖僧&C0-C0F6;大師信心銘。,0
456c5,0,牛頭山初祖法融禪師心銘。,0
456c6,0,僧亡名息心銘。,0
456c7,0,菩提達磨略辨大乘入道四行[弟子曇琳序。],0
456c8,0,荷澤大師顯宗記。,0
456c9,0,南嶽石頭大師參同契。,0
456c10,0,五臺山鎭國大師澄觀答皇太子問心要。,0
456c11,0,杭州五雲和尚坐禪箴。,0
456c12,0,永嘉眞覺大師證道歌。,0
456c13,0,騰騰和尚了元歌。南嶽懶&C3-5A5B;和尚歌。,0
456c14,0,石頭和尚草庵歌。道吾和尚樂道歌。,0
456c15,0,一鉢歌[別録云杯渡禪師作。]樂普和尚浮&C0-E278;歌。,0
456c16,0,蘇谿和尚牧護歌。,0
456c17,0,法燈禪師古鏡歌三首。,0
456c18,0,潭州龍會道尋遍參三昧歌。,0
456c19,0,丹霞和尚翫珠吟二首。,0
456c20,0,關南長老獲珠吟。,0
456c21,0,香嚴和尚勵覺吟歸寂吟二首。,0
456c22,0,韶山和尚心珠歌。,0
456c23,0,傅大士心王銘。,0
456c24,0,觀心空王、玄妙難測。無形無相、有大神力。,1
456c25,1,能滅千災、成就萬徳。體性雖空、能施法則。,2
456c26,2,觀之無形、呼之有聲。爲大法將、心戒傳經。,3
456c27,3,水中鹽味、色裏膠清。決定是有、不見其形。心王亦爾、,0
457a1,0,身内居停。面門出入、應物隨情。自在無礙、,1
457a2,1,所作皆成。了本識心、識心見佛。是心是佛、,2
457a3,2,是佛是心。念念佛心、佛心念佛。欲得早成、,3
457a4,3,戒心自律。淨律淨心、心即是佛。除此心王、更無別佛。,0
457a5,0,欲求成佛、莫染一物。心性雖空、貪瞋體實。,1
457a6,1,入此法門、端坐成佛。到彼岸已、得波羅蜜。,2
457a7,2,慕道眞士、自觀自心。知佛在内、不向外尋。,3
457a8,3,即心即佛、即佛即心。心明識佛、曉了識心。離心非佛、,0
457a9,0,離佛非心。非佛莫測、無所堪任。執空滯寂、,1
457a10,1,於此漂沈。諸佛菩薩、非此安心。明心大士、,2
457a11,2,悟此玄音。身心性妙、用無更改。是故智者、,3
457a12,3,放心自在。莫言心王、空無體性。能使色身、作邪作正。,0
457a13,0,非有非無、隱顯不定。心性離空、能凡能聖。,1
457a14,1,是故相勸、好自防慎。刹邦造作、還復漂沈。,2
457a15,2,清淨心智、如世黄金。般若法藏、並在身心。,3
457a16,3,無爲法寶、非淺非深。諸佛菩薩、了此本心。有縁遇者、,0
457a17,0,非去來今。,0
457a18,0,三祖僧&C0-C0F6;大師信心銘。,0
457a19,0,至道無難、唯嫌揀擇。但莫憎愛、洞然明白。,1
457a20,1,豪釐有差、天地懸隔。欲得現前、莫存順逆、,2
457a21,2,違順相爭、是爲心病。不識玄旨、徒勞念靜。,3
457a22,3,圓同太虚、無欠無餘。良由取捨、所以不如。莫逐有縁、,0
457a23,0,勿住空忍。一種平懷、泯然自盡。止動歸止、,1
457a24,1,止更彌動。唯滯兩邊、寧知一種。一種不通、,2
457a25,2,兩處失功。遣有沒有、從空背空。多言多慮、,3
457a26,3,轉不相應。絶言絶慮、無處不通。歸根得旨、隨照失宗。,0
457a27,0,須臾返照、勝却前空。前空轉變、皆由妄見。,1
457a28,1,不用求眞、唯須息見。二見不住、慎莫追尋。,2
457a29,2,才有是非、紛然失心。二由一有、一亦莫守。,3
457b1,3,一心不生、萬法無咎。無咎無法、不生不心。能隨境滅、,0
457b2,0,境逐能沈。境由能境、能由境能。欲知兩段、,1
457b3,1,元是一空。一空同兩、齊含萬象。不見精麁、,2
457b4,2,寧有偏黨。大道體寛、無易無難。小見狐疑、,3
457b5,3,轉急轉遲。執之失度、必入邪路。放之自然、體無去住。,0
457b6,0,任性合道、逍遙絶惱。繋念乖眞、昏沈不好。,1
457b7,1,不好勞神、何用疎親。欲取一乘、勿惡六塵。,2
457b8,2,六塵不惡、還同正覺。智者無爲、愚人自縛。,3
457b9,3,法無異法、妄自愛著。將心用心、豈非大錯。迷生寂亂、,0
457b10,0,悟無好惡。一切二邊、良由斟酌。夢幻虚華、,1
457b11,1,何勞把捉。得失是非、一時放却。眼若不睡、,2
457b12,2,諸夢自除。心若不異、萬法一如。一如體玄、,3
457b13,3,兀爾忘縁。萬法齊觀、歸復自然。泯其所以、不可方比。,0
457b14,0,止動無動、動止無止。兩既不成、一何有爾。,1
457b15,1,究竟窮極、不存軌則。契心平等、所作倶息。,2
457b16,2,狐疑盡淨、正信調直。一切不留、無可記憶。,3
457b17,3,虚明自照、不勞心力。非思量處、識情難測。眞如法界、,0
457b18,0,無他無自。要急相應、唯言不二。不二皆同、,1
457b19,1,無不包容。十方智者、皆入此宗。宗非促延、,2
457b20,2,一念萬年。無在不在、十方目前。極小同大、,3
457b21,3,忘絶境界。極大同小、不見邊表。有即是無、無即是有。,0
457b22,0,若不如此、必不須守。一即一切、一切即一。,1
457b23,1,但能如是、何慮不畢。信心不二、不二信心。,2
457b24,2,言語道斷、非去來今。,0
457b25,0,牛頭山初祖法融禪師心銘。,0
457b26,0,心性不生、何須知見。本無一法、誰論熏錬。,1
457b27,1,往返無端追尋不見。一切莫作、明寂自現。,2
457b28,2,前際如空、知處迷宗。分明照境、隨照冥蒙。,3
457b29,3,一心有滯、諸法不通。去來自爾、胡假推窮。生無生相、,0
457c1,0,生照一同。欲得心淨、無心用功。縱横無照、,2
457c2,2,最爲微妙。知法無知、無知知要。將心守靜、,3
457c3,3,猶未離病。生死忘懷、即是本性。至理無詮、非解非纒。,0
457c4,0,靈通應物、常在目前。目前無物、無物宛然。,1
457c5,1,不勞智鑒、體自虚玄。念起念滅、前後無別。,2
457c6,2,後念不生、前念自絶。三世無物、無心無佛。衆生無心、,0
457c7,0,依無心出。分別凡聖、煩惱轉盛。計校乖常、,1
457c8,1,求眞背正。雙泯對治、湛然明淨。不須功巧、,2
457c9,2,守嬰兒行。惺惺了知、見網轉彌。寂寂無見、,3
457c10,3,暗室不移。惺惺無妄、寂寂明亮。萬象常眞、森羅一相。,0
457c11,0,去來坐立、一切莫執。決定無方、誰爲出入。,1
457c12,1,無合無散、不遲不疾。明寂自然、不可言及。,2
457c13,2,心無異心、不斷貪淫。性空自離、任運浮沈。,3
457c14,3,非清非濁、非淺非深。本來非古、見在非今。見在無住、,0
457c15,0,見在本心。本來不存、本來即今。菩提本有、,1
457c16,1,不須用守。煩惱本無、不須用除。靈知自照、,2
457c17,2,萬法歸如。無歸無受、絶觀忘守。四徳不生、,3
457c18,3,三身本有。六根對境、分別非識。一心無妄、萬縁調直。,0
457c19,0,心性本齊、同居不携。無生順物、隨處幽棲。,1
457c20,1,覺由不覺、即覺無覺。得失兩邊、誰論好惡。,2
457c21,2,一切有爲、本無造作。知心不心、無病無藥。,3
457c22,3,迷時捨事、悟罷非異。本無可取、今何用棄。謂有魔興、,0
457c23,0,言空象備。莫滅凡情、唯教息意。意無心滅、,1
457c24,1,心無行絶。不用證空、自然明徹。滅盡生死、,2
457c25,2,冥心入理。開目見相、心隨境起。心處無境。,3
457c26,3,境處無心。將心滅境、彼此由侵。心寂境如、不遣不拘。,0
457c27,0,境隨心滅、心隨境無。兩處不生、寂靜虚明。,1
457c28,1,菩提影現、心水常清。徳性如愚、不立親疎。,2
457c29,2,寵辱不變、不擇所居。諸縁頓息、一切不憶。,3
458a1,3,永日如夜、永夜如日。外似頑&C0-EFBD;、内心虚直。對境不動、,0
458a2,0,有力大人。無人無見、無見常現。通達一切、,1
458a3,1,未嘗不遍。思惟轉昏、汨亂精魂。將心止動、,2
458a4,2,轉止轉奔。萬法無所、唯有一門。不入不出、,3
458a5,3,非靜非喧。聲聞縁覺、智不能論。實無一物、妙智獨存。,0
458a6,0,本際虚冲、非心所窮。正覺無覺、眞空不空。,1
458a7,1,三世諸佛、皆乘此宗。此宗豪末、沙界含容。,2
458a8,2,一切莫顧、安心無處。無處安心、虚明自露。,3
458a9,3,寂靜不生、放曠縱横。所作無滯、去住皆平。慧日寂寂、,0
458a10,0,定光明明。照無相苑、朗涅槃城。諸縁忘畢、,1
458a11,1,詮神定質。不起法座、安眠虚室。樂道恬然、,2
458a12,2,優遊眞實。無爲無得、依無自出。四等六度、,3
458a13,3,同一乘路。心若不生、法無差互。知生無生、現前常住。,0
458a14,0,智者方知、非言詮悟。,0
458a15,0,僧亡名息心銘。,0
458a16,0,法界有如意寶人焉久緘其身、銘其膺曰、,1
458a17,1,古之攝心人也。戒之哉。戒之哉。無多慮。無多知。,0
458a18,0,多知多事、不如息意。多慮多失、不如守一。,1
458a19,1,慮多志散、知多心亂。心亂生惱、志散妨道。,2
458a20,2,勿謂何傷、其苦悠長。勿言何畏、其禍鼎沸。,3
458a21,3,滴水不停、四海將盈。纖塵不拂、五嶽將成。防末在本、,0
458a22,0,雖小不輕。關爾七竅、閉爾六情。莫現於色、,1
458a23,1,莫聽於聲。聞聲者聾、見色者盲。一文一藝、,2
458a24,2,空中小蚋。一伎一能、日下孤燈。英賢才藝、,3
458a25,3,是爲愚蔽。捨棄淳朴、耽溺淫麗。識馬易奔、心猿難制。,0
458a26,0,神既勞役、形必損斃。邪行終迷、修途永泥。,1
458a27,1,莫貴才能、日益&C0-D55F;&C0-EA7B;。誇拙羨巧、其徳不弘。,2
458a28,2,名厚行薄、其高速崩。内懷&C0-E5A9;伐、外致怨憎。,3
458a29,3,或談於口、或書於手。邀人令譽、亦孔之醜。凡謂之吉、,0
458b1,0,聖謂之咎。賞翫暫時、悲哀長久。畏影畏迹、,1
458b2,1,逾遠逾極。端坐樹陰、跡滅影沈。厭生患老、,2
458b3,2,隨思隨造。心想若滅、生死長絶。不死不生、,3
458b4,3,無相無名。一道虚寂、萬物齊平。何貴何賤、何辱何榮。,0
458b5,0,何勝何劣、何重何輕。澄天愧淨、皎日慚明。,1
458b6,1,安夫岱嶺、同彼金城。敬貽賢哲、斯道利貞。,0
458b7,0,菩提達磨略辨大乘入道四行[弟子曇琳序。],0
458b8,0,法師者、,14
458b9,14,西域南天竺國是大婆羅門國王第三之子也。神慧疎朗。聞皆曉悟。,5
458b10,5,志存摩訶衍道、故捨素從緇、紹隆聖種。冥心虚寂。,3
458b11,3,通鑒世事。内外倶明。徳超世表。,7
458b12,7,悲誨邊隅正教陵替、遂能遠渉山海、遊化漢魏。忘心之士、,2
458b13,2,莫不歸信。存見之流、乃生譏謗。,7
458b14,7,于時唯有道育慧可此二沙門、年雖後生、俊志高遠。幸逢法師、,0
458b15,0,事之數載。虔恭諮啓、善蒙師意。,5
458b16,5,法師感其精誠、誨以眞道。令如是安心、如是發行、,3
458b17,3,如是順物、如是方便。此是大乘安心之法、令無錯謬。,0
458b18,0,如是安心者、壁觀。如是發行者、四行。,3
458b19,3,如是順物者、防護譏嫌。如是方便者、遣其不著。,2
458b20,2,此略序所由云爾。,0
馬祖(MA-TSU)AND石頭(SHIH-T'OU)、唐王朝のTWO巨匠
MA-TSU死後のタイトルだった(グレート静寂の禅マスター(バソ)TA-chiが)適切タオ-I(Doichi)と呼ばれるようになりました。彼の家族の名前はハン・シュシュの地区から、馬でした。もともとチェンマイ- HSIの州で増殖させた彼の教えは、当時の仏教界に大きな影響力を証明した、と彼は一般的に、馬の父として知られている馬-TSU、ということになりました。
歴史的に、禅仏教は、おそらく5世紀末で、南と北王朝の間、達磨と呼ばれるインドの僧によって中国に導入されました。しかし、それはホイNENGと達磨は中国の禅仏教の最初の家長として認識されたことシェン - 秀の時までではなかったです。禅が正しくいわゆる中国の宗教的な天才によって作成された強力な仏教の動きの一つとしての地位を確立するために来たことをするとき、このための時間でした。動きがしっかり馬-TSU(-788)とシー・t'ou(700から790)を用いてルートを取りました。後者は、胡ナンの州で彼の修道院を持っていたので、胡ナンとチェンマイ・HSIは、禅の運動の温床となりました。中国でも日本のように戻って存在トレース唐のこれら二つのマスターへの系譜で禅のすべての信者。
その家族の名前陳トゥアン・シュシュの地区から来たシーズー-t'ou(関戸)。彼の他の名前は熹-ch'ienました。まだ若いが、彼の宗教的感情を強く遼のレースの中で実践された野蛮なカスタムに対して攪拌しました。カスタムは、人々によって崇拝された悪霊の怒りをなだめるために雄牛を犠牲に構成されていました。シーズー-t'ouは霊に捧げそのような多くの神社を破壊し、犠牲者を救いました。彼はおそらく、かなり決定的に行動し、納得のいくように、彼の村の長老たちも、そうは軽率に人気の迷信に対して作業から彼を防ぐことができませんでした。彼は後ホイNENGの弟子になって、仏教を受け入れました。この若い男が正式に僧侶として叙階されていた前に、後者は、しかし、死亡しました。彼はその後、カイ・シュシュの興-SSU(-740)、に行って、禅仏教を研究しました。興-SSU馬-TSUの教師だったナン-YUEH懐-チャンなども、ホイNENGの弟子でした。
馬-TSUを引用する前に、私はシーズー-t'ouの質問-と-答え(の一部とご理解しましょうモンド = ウェン-にして記録されている)ランプの送信。
興-SSUは、1日は尋ねた:「いくつかは知性が陵の南から来ていると言います。」
T'ou:「誰からそのような知性はありません。」
SSU:「いない場合は、そこからは、大蔵経のすべてのそれらの経典です?」
T'ou:「彼らは皆、ここから出てくる、と望むものは何もありません。」
シーズー-t'ou、「ストーン・ヘッド」、彼のためには、ヘン・シュシュの彼の修道院の敷地内に岩の平らな表面の上に小屋を有していると彼の名前を得ます。彼はかつて、以下の説教を与えた:「古代の仏像から降りてきた私の教えは瞑想(に依存しないディヤーナ)、または任意の種類の勤勉なアプリケーションの仏によって達成としてあなたは洞察力を達成すると、あなたは心があることを認識しています。仏と仏は、彼らが名前に変わりながら、マインド、仏、衆生、菩提(悟り)、およびKlesa(情熱)は、同一の物質であることが、マインドです。あなたはあなた自身の心の本質はへでもない対象であることを知っている必要があります消滅も永遠に存続するが、それはそれはその作業に限定されるものではないこと、完全に邪魔されずに自己十分かつ賢明と無知と同じままであること、そしてそれは、心のカテゴリに含まれていないことを、純粋でも汚しでもありません(チッタ)、意識(マナス)、または思った(識)。願望、フォーム、および無形の3つの世界、そして存在の6つのパスは、あなたの心そのものの症状にすぎない。彼らはすべての月のようなものですTに水または画像に反映 彼は反映しています。どのようにして生まれたとして、または離れて渡すとしてそれらの話すことができますか?あなたはこの理解に来るとき、あなたはあなたが必要としているすべてのものの家具付きになります。」
タオ呉、シーズー-t'ouの弟子の一つが、その後尋ねた:「ホイNENGの教えの理解に達した誰ですか?」
T'ou:「仏教を理解する1。」
呉:「あなたはそれを達成したことがありますか?」
T'ouは:「いいえ、私は仏教を理解していません。」
僧侶は尋ねた:「1が解放されますどのように?」
マスターは言った:「これまでボンデージであなたを入れている誰ですか?」
モンクは:「浄土とは何ですか?」
マスター:「今まであなたを汚したのか?」
モンクは:「ニルヴァーナとは何ですか?」
マスター:「今までに出生と死にあなたを受けたのか?」
シーズー-t'ouは、新たに到着した僧侶尋ねた:「?どこから来るのかを」
「チェンマイ・HSIから。」
「あなたは馬の偉大な先生を見ました?」
"はいマスター。"
シーズー-t'ouは、kindlingsの束を指差して言った:「?どの馬先生がこれを似ているん」
僧侶は何の返事をしませんでした。馬に先生が戻って、彼はシーズー-t'ouのインタビューを報告しました。馬は尋ねた:「あなたは、バンドルがいかに大きな気づきました?」
「非常に大きなものがそれでした。」
「あなたは確かに非常に強い男です。」
"どうやって?" 僧を尋ねました。
「あなたも、この修道院までナン-YUEHからその巨大なバンドルを実施してきたので。唯一の強い男は、このような偉業を達成することができます。」
僧侶は尋ねた:「最初の家長のは西から来るの意味は何ですか?」
マスター:「あそこにポストを確認して下さい。」
モンク:「私はあなたを理解していません。」
マスター:「私はこれ以上あなたよりも、どちらかありません。」
TA-ティエンは尋ねた:「古代の賢者によると、どちらか既存かのように、存在しないとして、どのようにこの障害物を削除する方法を教えてくださいタオを取るための二元論です。」
「ここではない事は、あなたが削除ために何をしたいのか?」
シーズー-t'ouは約なって、要求:「あなたの喉と唇を離れています、と私はあなたが言うことができるか見てみましょう」
TA-ティエンは、「そのような事はI.を持っていない」と述べました
「もしそうなら、あなたは門を入力することができます。」
タオ呉は尋ねた:「仏教の究極の教えは何?」
「あなたはそれを持ってまで、あなたはそれを理解できないだろう。」
「1が新たなターンを持っているおそれがオーバーし、それ以上のものはありますか?」
「限りなく空を拡大し、何も自由に飛び回っから白い雲を妨げません。」
「禅とは何ですか?」僧を尋ねました。
「レンガと石。」
「タオは何ですか?」
「木のブロック。」
[1]誰かが馬-TSUに尋ねた:「どのように男はタオに自分自身を訓練しますか?」
一つは、その後、声聞ようになり、その中に任意の規律がある場合は、そのような規律の完了はタオの破壊を意味タオでに自分自身を訓練するためには何もありません」しかし、誰規律が存在しない場合:。。主人は答えました。どんなタオで、一つは盲のまま。」
「理解のどのようなことで人はタオを達成するのですか?」
この上で、マスタは以下の説教を与えました:
「その自然の中でタオは、最初の完璧からのものであり、
[1。以下モンドは、すべての古代Worthiesの格言、FASとして知られている本から取られています。I(区ツン-秀湯-LU)。]
自給自足。男は人生の良いか悪いかの事務の彼の経営にunhalting自分自身を見つけたとき、彼はタオに規律される一つとして知られています。悪を避けるために、そして良いものに付着し、空虚に瞑想するとサマディの状態に入ること - これは何かをやっています。外側のオブジェクトの後に実行する人ならば、彼らは[タオから]最も離れています。
唯一の男の排気にすべての彼の考えを聞かせて、彼はおそらくトリプル世界で持つことができます想像。想像力のさえイオタは彼と一緒に残っている場合は、これは彼のトリプル世界とその中の誕生と死の源です。想像力の跡がない場合、彼は誕生と死のすべてのソースを削除している、彼はその後Dharmarajaに属する比類のない宝物を保持しています。彼の偽り、お世辞、自己うぬぼれ、傲慢、そして他の邪悪な情熱と一緒に、無知であることによってbeginningless従来から保有してすべての想像力は、ワンエッセンスの体内に団結し、すべてが溶けています。
「それは、多くの要素が私たちのこの体を作るために自分自身を組み合わせてお経の中で述べて、そして体の立ち上がりは、単にこれらすべての要素を一緒に上昇することを意味し、体の消失は、単にその要素のも意味している。とき後者の上昇は、彼らが今ある上昇することを宣言していない。彼らは、彼らが消えるようになっていることを宣言しない消えるとき。
だから、1つの思考は1が、後続を待たない前の、中断することなく別のものを、次の考え、と、それぞれが自己完結して静止しています。これはSagaramudra-サマディと呼ばれ、すべてのものを含まれている、「オーシャン・スタンプの瞑想」は、サイズが異なるが、すべての河川、海などのように、自分自身を空にします。1塩水のこの偉大な海で、その中のすべての水は1と同じ味を分かち合います。それに住む男が、それに注ぐすべてのストリームで自分自身を拡散します。素晴らしい海の男の入浴は、それに空にすべての水を使用しています。
「声聞は、悟りを開いたとまだ迷っつもりはありません。普通の人は、悟りを開いたように、まだ正しい道から外れていると声聞は、それ自体に何のステージを知っていないように、その心を感じることができない、何の因果関係、何の想像力自分をしつけ。原因で、彼は結果を達成し、これまで非常に多くのkalpasのために空虚自身のサマディに遵守している。彼の方法でしかし啓発、声聞は正しい軌道に乗ってすべてではありません。菩薩の観点から、これはあります地獄の拷問を受けよう。声聞は空虚で自分自身を埋めたと彼は仏性そのものに何の洞察力を持っていないため、彼の静かな熟考の外に取得する方法を知りません。
男は、優れた性格と知性であれば、彼は、賢明なディレクターの指示の下で、一度の事の本質に見ると、これはステージやプロセスの問題ではないことを理解するであろう。彼は自分のオリジナル自然にインスタント洞察力を持っています。だから我々は、普通の人間が自分の考えに変化する経典で読むが、声聞は[彼は絶対的な静寂の彼の瞑想から出てくることはありませんことを意味している]はそのような変化を知ることはありません。
「『道に迷って行くことは』 『啓発されている』に対して略です。しかし、主があるときに何も起こって道に迷ってbeginninglessの過去はダルマ-本質そのものの外に行ったことがないので、何がいずれかの悟りを開いているすべての人間は存在しない;の真っ只中に永遠に変わりません6人の五感のすべての機能は、すべての彼らの所業は、ダルマ、本質そのものである彼らは、彼らが従ってソースに戻って理解することが失敗した場合;ダルマ-本質は、彼らが食べて、彼らは彼らが反応し、話し、服を着ています名前は、フォームを追求し、混乱想像力が上昇し、カルマのすべての種類を栽培することができます。ソースとその全体ビーイングへの復帰は、仏の心のものであろう一回1つの思考でそれらをしてみましょう。
「O僧侶、あなたのそれぞれが自分自身の心の中に見てみましょうありません私はあなたを教えて何を暗記しないでくださいしかし雄弁に、私はのように無数のガンジス川の砂などあらゆる種類のものをについての話があり、心が増加を示していません。。。でも、何も。話は心が何の減少を示していないあなたはそれについて今まであまり話も、可能であり、それはまだ自分の心であり、あなたはすべてでそれについて話をしないことがあり、それは自分自身の心と同じであるあなたは、あなたを分割してもよいです。非常に多くの形に体、および超自然光の出射光線は18の奇跡を実行し、まだ何を得ていることは、あなた自身の死者灰よりも、すべてのこれ以上の後です。
「徹底的にぬれた死んだ灰が何の活力を持っていないし、声聞のは、その結果を達成するために、原因で自分自身を懲戒に例えている。まだ濡れていない死者の灰は活力に満ちていると、その生活タオである菩薩になぞらえています純粋と全く染めの悪インチ私は如来によって与えられた様々な教えについて話を始める場合は、古くからしかし長いは終わりがないだろう、私は上に行くことがあります。彼らは、チェーンの無限のシリーズのようなものです。しかし、あなた一度仏の心への洞察を持って、伝承には何も達成するためにあなたに残っていません。
「私はあなたが十分な長放置してきた、あなたによくやっ!」
P'angはレイ弟子は」馬-TSUは説教壇に登場一日を尋ねた: 『ここでは完全にunbedimmedオリジナルボディはそれに目を上げて!』MA-tsuが真下に見えました。牙は、「マスターはファーストクラスstringlessリュートに果たしてどのように美しく!」、と述べました マスターはまっすぐに見上げました。P'angは弓を作った、と主人は自分の部屋に戻りました。牙は、「あなたは、自分の馬鹿を作っやった、あなたではないしばらく前に?」、彼に続いて言いました
誰かが尋ねた:「仏とは何ですか?」
「心は仏であり、他はありません。」
僧侶は尋ねた:「4文と否定の無限のシリーズに頼ることなく、あなたは私が私たちの長老の考え方は西洋から来ているものを一直線わかりますか?」
マスターは言った:「私は今日それに答えるように感じることはありませんあなたは西ホールに行き、それについてシーズー・ツァンをお願いします。。」
僧侶は、指で彼の頭を指さし司祭は、言った西ホールに行って、見て、「私の頭は、今日痛むと私は今日あなたにそれを説明することができません。私はブラザー海に行くためにあなたをお勧めします。」
[1。日本でのホー麹。彼は馬の最大の弟子の一人だったし、さらに引用のための私の見る禅のエッセイ、I、II、およびIIIを。]
今海、そして海の上と呼ばれる僧侶は言った:「それについては私は理解していません。」
僧侶は最終的にマスターに戻り、彼の冒険を彼に話しました。マスターは言った:「海のが白である一方、ツァンの頭は黒です。」
僧侶は尋ねた:「なぜあなたは心が仏よりも、他のではないことを教えるのですか?」
「子供が泣いを停止させるために。」
「泣くが停止しているとき、あなたは何を言うでしょうか?」
「どちらも心も仏。」
「何を教え、あなたは、これらの2つのグループではないが誰であるか彼に与えるだろう?」
「私は 『これはものではありません。』と言うでしょう
「場合は、予期せず、あなたが何をするのか、その中にある人物にインタビュー?」最後に、僧を尋ねました。
「私は彼が偉大なタオを実現できるようになります。」
マスターはパイチャン、彼の主な弟子のいずれかを尋ねた:どのように他の人を教えてくれる「?
パイチャンは彼の提起hossuを。
マスターは、発言「すべての?いいえ、他の方法ということですか?」
パイ-changが投げたhossuをダウン。
僧侶は尋ねた:「どのように男はタオと調和して自分自身を設定していますか?」
「私は調和のうち、すでにしています。」
タン-元、馬-TSUの個人弟子の一つは、戻って彼の巡礼から帰ってきました。彼はマスターを見たとき、彼は床の上に円を描き、行った後弓マスターに直面し、その上に立っていました。馬-TSUは言った:「だから、あなたが仏になりたいです?」
僧侶は言った:「私は焦点の外に自分の目を置くことの芸術を知りません。」
「私はあなたと等しくないです。」
僧侶は何も答えませんでした。
シーズー、男性で森の中を歩きながら陳元(788)の第四年の最初の月のある日、シャン、馬-tsuが平らな床で洞窟に気づきました。彼は、「分解に私の体の対象者がここに来るために月に地球に戻ります。」、彼のアテンダントの僧に言いました 彼は予測して、お風呂の後、彼はあぐらをかいて座って、亡くなったように、第2の月の第四に、彼はindisposedました。
VI
"MINDの送信ESSENTIALS ON論文" FROM HUANG-PO'S説教、(伝心オヨ)
[1]マスターはパイ - 秀に言っ
仏と衆生は、[2]の両方の一つの心のうちに成長し、この心よりも、他の現実はありません。それはbeginningless過去から存在してきました。それは、出生や死亡のいずれもを知っています。それは青でも黄色でもありません。それはどちらも形状や形態を有し、それがあることと、非であることの範疇を超えています。それは古いか新しい時代によって測定されるべきではありません。それは長いも短いもありません。それは大も小もありません。それはすべての制限、単語、トレース、および反対を超越ため。自分自身であると同じように注意する必要があります。試みが私たちの思考でそれを把握するために、当社の一部の上に作られたとき、それが見逃さ。それは、その境界を越えて測定まったくありスペースのようなものです。何の概念は、ここで適用されません。
[1。 日本語でWobakuのKi-unが、850を死亡しました。
V
BASO (MA-TSU) AND SEKITO (SHIH-T'OU), TWO GREAT MASTERS OF THE T'ANG DYNASTY
Ma-tsu (Baso) whose posthumous title was the Zen Master of Great Quietude (ta-chi) was to be properly called Tao-i (Doichi). His family name was Ma, from the district of Han-chou. His teaching which was originally propagated in the province of Chiang-hsi proved of great influence in the Buddhist world of the time, and he came to be generally known as Ma the Father, that, Ma-tsu.
Historically, Zen Buddhism was introduced to China by an Indian monk called Bodhidharma during the South and North Dynasties, probably late in the fifth century. But it was not until the time of Hui-neng and Shen-hsiu that Bodhidharma was recognized as the first patriarch of Zen Buddhism in China; for this was the time when Zen to be properly so called came to establish itself as one of the strong Buddhist movements created by Chinese religious genius. The movement firmly took root with Ma-tsu (-788) and Shih-t'ou (700-790). The latter had his monastery in the province of Hu-nan, and thus Hu-nan and Chiang-hsi became the hot-bed of the Zen movement. All the followers of Zen in China as well as in Japan at present trace back their lineage to these two masters of the T'ang.
Shih-t'ou (Sekito) whose family name was Chen came from the district of Tuan-chou. His other name was Hsi-ch'ien. While still young, his religious feeling was strongly stirred against a barbarous custom which was practised among the Liao race. The custom consisted in sacrificing bulls in order to appease the wrath of the evil spirits which were worshipped by the people. Shih-t'ou destroyed many such shrines dedicated to the spirits and saved the victims. He probably acted quite decisively and convincingly so that even the elders of his village failed to prevent him from so rashly working against popular superstitions. He later embraced Buddhism, becoming a disciple of Hui-neng. The latter however died before this young man had been formally ordained as a Buddhist monk. He then went to Hsing-ssu (-740), of Chi-chou and studied Zen Buddhism. Hsing-ssu like Nan-yueh Huai-jang who was the teacher of Ma-tsu, was also a disciple of Hui-neng.
Before quoting Ma-tsu, let me acquaint you with some of Shih-t'ou's questions-and-answers (mondo = wen-to) as recorded in the Transmission of the Lamp.
Hsing-ssu one day asked: "Some say that an intelligence comes from the south of the Ling."
T'ou: "There is no such intelligence from anybody."
Ssu: "If not, whence are all those sutras of the Tripitaka?"
T'ou: "They all come out of here, and there is nothing wanting."
Shih-t'ou, "Stone-head", gains his name because of his having a hut over the flat surface of a rock in his monastery grounds in Heng-chou. He once gave the following sermon: "My teaching which has come down from the ancient Buddhas is not dependent on meditation (dhyana) or on diligent application of any kind. When you attain the insight as attained by the Buddha, you realize that Mind is Buddha and Buddha is Mind, that Mind, Buddha, sentient beings, Bodhi (enlightenment), and Klesa (passions) are of one and the same substance while they vary in names. You should know that your own mind-essence is neither subject to annihilation nor eternally subsisting, is neither pure nor defiled, that it remains perfectly undisturbed and self-sufficient and the same with the wise and the ignorant, that it is not limited in its working, and that it is not included in the category of mind (citta), consciousness (manas), or thought (vijnana). The three worlds of desire, form, and no-form, and the six paths of existence are no more than manifestations of your mind itself. They are all like the moon reflected in water or images in the mirror. How can we speak of them as being born or as passing away? When you come to this understanding, you will be furnished with all the things you are in need of."
Tao-wu, one of Shih-t'ou's disciples, then asked: "Who has attained to the understanding of Hui-neng's teaching?"
T'ou: "The one who understands Buddhism."
Wu: "Have you then attained it?"
T'ou: "No, I do not understand Buddhism."
A monk asked: "How does one get emancipated?"
The master said: "Who has ever put you in bondage?"
Monk: "What is the Pure Land?"
Master: "Who has ever defiled you?"
Monk: "What is Nirvana?"
Master: "Who has ever subjected you to birth-and-death?"
Shih-t'ou asked a monk newly arrived: "Where do you come from?"
"From Chiang-hsi."
"Did you see Ma the great teacher?"
"Yes, master."
Shih-t'ou then pointed at a bundle of kindlings and said: "How does Ma the teacher resemble this?"
The monk made no answer. Returning to Ma the teacher, he reported the interview with Shih-t'ou. Ma asked: "Did you notice how large the bundle was?"
"An immensely large one it was."
"You are a very strong man indeed."
"How?" asked the monk.
"Because you have carried that huge bundle from Nan-yueh even up to this monastery. Only a strong man can accomplish such a feat."
A monk asked: "What is the meaning of the First Patriarch's coming from the West?"
Master: "Ask the post over there."
Monk: "I do not understand you."
Master: "I do not either, any more than you."
Ta-tien asked: "According to an ancient sage it is a dualism to take the Tao either as existing or as not-existing. Please tell me how to remove this obstruction."
"Not a thing here, and what do you wish to remove?"
Shih-t'ou turned about and demanded: "Do away with your throat and lips, and let me see what you can say."
Said Ta-tien, "No such things have I."
"If so, you may enter the gate."
Tao-wu asked: "What is the ultimate teaching of Buddhism?"
"You won't understand it until you have it."
"Is there anything over and above it whereby one may have a new turn?"
"Boundlessly expands the sky and nothing obstructs the white clouds from freely flying about."
"What is Zen?" asked a monk.
"Brick and stone."
"What is the Tao?"
"A block of wood."
[1]Someone asked Ma-tsu: "How does a man discipline himself in the Tao?"
The master replied: "In the Tao there is nothing to discipline oneself in. If there is any discipline in it, the completion of such discipline means the destruction of the Tao. One then will be like the Sravaka. But if there is no discipline whatever in the Tao, one remains an ignoramus."
"By what kind of understanding does a man attain the Tao?"
On this, the master gave the following sermon:
"The Tao in its nature is from the first perfect and
[1. The following mondo are all taken from a book known as Sayings of the Ancient Worthies, fas. I (Ku tsun-hsiu yu-lu).]
self-sufficient. When a man finds himself unhalting in his management of the affairs of life good or bad, he is known as one who is disciplined in the Tao. To shun evils and to become attached to things good, to meditate on Emptiness and to enter into a state of samadhi--this is doing something. If those who run after an outward object, they are the farthest away [from the Tao].
Only let a man exhaust all his thinking and imagining he can possibly have in the triple world. When even an iota of imagination is left with him, this is his triple world and the source of birth and death in it. When there is not a trace of imagination, he has removed all the source of birth and death, he then holds the unparalleled treasure belonging to the Dharmaraja. All the imagination harboured since the beginningless past by an ignorant being, together with his falsehood, flattery, self-conceit, arrogance, and other evil passions, are united in the body of One Essence, and all melt away.
"It is said in the sutra that many elements combine themselves to make this body of ours, and that the rising of the body merely means the rising together of all these elements and the disappearance of the body means also merely that of the elements. When the latter rise, they do not declare that they are now to rise; when they disappear they do not declare that they are now to disappear.
So with thoughts, one thought follows another without interruption, the preceding one does not wait for the succeeding, each one is self-contained and quiescent. This is called the Sagaramudra-samadhi, "Meditation of the Ocean-stamp", in which are included all things, like the ocean where all the rivers however different in size, etc., empty themselves. In this great ocean of one salt-water, all the waters in it partake of one and the same taste. A man living in it diffuses himself in all the streams pouring into it. A man bathing in the great ocean uses all the waters emptied into it.
"The Sravaka is enlightened and yet going astray; the ordinary man is out of the right path and yet in a way enlightened. The Sravaka fails to perceive that Mind as it is in itself knows no stages, no causation, no imaginations. Disciplining himself in the cause he has attained the result and abides in the Samadhi of Emptiness itself for ever so many kalpas. However enlightened in his way, the Sravaka is not at all on the right track. From the point of view of the Bodhisattva, this is like suffering the torture of hell. The Sravaka has buried himself in emptiness and does not know how to get out of his quiet contemplation, for he has no insight into the Buddha-nature itself.
If a man is of superior character and intelligence he will, under the instruction of a wise director, at once see into the essence of the thing and understand that this is not a matter of stages and processes. He has an instant insight into his own Original Nature. So we read in the sutra that ordinary beings change in their thoughts but the Sravaka knows no such changes [which means that he never comes out of his meditation of absolute quietude].
"'Going astray' stands against 'being enlightened'; but when there is primarily no going astray there is no being enlightened either. All beings since the beginningless past have never been outside the Dharma-essence itself; abiding for ever in the midst of the Dharma-essence, they eat, they are clothed, they talk, they respond; all the functioning of the six senses, all their doings are of the Dharma-essence itself. When they fail to understand to go back to the Source they follow names, pursue forms, allow confusing imaginations to rise, and cultivate all kinds of karma. Let them once in one thought return to the Source and their entire being will be of Buddha-mind.
"O monks, let each of you see into his own Mind. Do not memorize what I tell you. However eloquently I may talk about all kinds of things as innumerable as the sands of the Ganges, the Mind shows no increase; even when no talk is possible, the Mind shows no decrease. You may talk ever so much about it, and it is still your own Mind; you may not at all talk about it, and it is just the same your own Mind. You may divide your body into so many forms, and emitting rays of supernatural light perform the eighteen miracles, and yet what you have gained is after all no more than your own dead ashes.
"The dead ashes thoroughly wet have no vitality and are likened to the Sravaka's disciplining himself in the cause in order to attain its result. The dead ashes not yet wet are full of vitality and are likened to the Bodhisattva, whose life in the Tao is pure and not at all dyed in evils. If I begin to talk about the various teachings given out by the Tathagata, there will be no end however long through ages I may go on. They are like an endless series of chains. But once you have an insight into the Buddha-mind, nothing in Lore is left to you to attain.
"I have kept you standing long enough, fare you well!"
P'ang the lay-disciple' asked one day when Ma-tsu appeared in the pulpit: "Here is the Original Body altogether unbedimmed! Raise your eyes to it!" Ma-tsu looked straight downward. Said Fang, "How beautifully the master plays on the first-class stringless lute!" The master looked straight up. P'ang made a bow, and the master returned to his own room. Fang followed him and said, "A while ago you made a fool of yourself, did you not?"
Someone asked: "What is the Buddha?"
"Mind is the Buddha, and there's no other."
A monk asked: "Without resorting to the four statements and an endless series of negations, can you tell me straightway what is the idea of our Patriarch's coming from the West?"
The master said: "I don't feel like answering it today. You go to the Western Hall and ask Shih-tsang about it."
The monk went to the Western Hall and saw the priest, who pointing at his head with a finger said, "My head aches today and I am unable to explain it to you today. I advise you to go to Brother Hai."
[1. Ho-koji in Japanese. He was one of the greatest disciples of Ma, and for further quotations see my Essays on Zen, I, II, and III.]
The monk now called on Hai, and Hai said: "As to that I do not understand."
The monk finally returned to the master and told him about his adventure. Said the master: "Tsang's head is black while Hai's is white."
A monk asked: "Why do you teach that Mind is no other than Buddha?"
"In order to make a child stop its crying."
"When the crying is stopped, what would you say?"
"Neither Mind nor Buddha."
"What teaching would you give to him who is not in these two groups?"
"I will say, 'It is not a something.'
"If you unexpectedly interview a person who is in it what would you do?" finally, asked the monk.
"I will let him realize the great Tao."
The master asked Pai-chang, one of his chief disciples: How would you teach others?"
Pai-chang raised his hossu.
The master remarked, "Is that all? No other way?"
Pai-chang threw the hossu down.
A monk asked: "How does a man set himself in harmony with the Tao?"
"I am already out of harmony."
Tan-yuan, one of Ma-tsu's personal disciples, came back from his pilgrimage. When he saw the master, he drew a circle on the floor and after making bows stood on it facing the master. Said Ma-tsu: "So you wish to become a Buddha?"
The monk said: "I do not know the art of putting my own eyes out of focus."
"I am not your equal."
The monk had no answer.
One day in the first month of the fourth year of Chen-yuan (788), while walking in the woods at Shih-men Shan, Ma-tsu noticed a cave with a flat floor. He said to his attendant monk, "My body subject to decomposition will return to earth here in the month to come." On the fourth of the second month, he was indisposed as he predicted, and after a bath he sat cross-legged and passed away.
馬祖禅と石頭禅(1,2)平常心是道・即心是仏 | 中野禅塾
http://nakano-zenjuku.com/?p=208馬祖禅と石頭禅(1)
馬祖道一(709-788)は、唐時代の禅僧で、南嶽懐譲の弟子、六祖慧能には孫弟子にあたり、禅の黄金時代を築いた人と言われています。馬祖の言葉として平常心是道(びょうじょうしんこれどう)がよく知られています。自分の外に仏を求めるな。ありのままの自分に立ち返れ。自分の中に仏を求めよという教えです。
「平常心」とは、「江西馬祖道一禅師語録」によれば、
・・・若(も)し直ちに其の道を会せんと欲すれば、平常心是れ道たり。何をか平常心と謂(い)わん。造作なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡なく聖なきなり。(維摩)経に云う、凡夫行に非ず、聖賢行に非ず、是れ菩薩行なり、と。只だ如今の行住坐臥、応機接物、尽く是れ道たり(下線筆者)・・・
です。一口で言えば、「あらゆるものを差別せず、こだわりを捨て、淡々と生きよ」でしょう。禅でよく言われる「運水搬柴、つまり、水を運び、薪を担うような平凡な日常生活の動作の中に働きが現れている」という意味ですね。わが国の曹洞宗大本山総持寺の開山、瑩山禅師が、師匠の義介禅師(永平寺三祖)から平常心の意義を問われたとき、「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯に喫す」と答えたと言います。
良い言葉ですね。馬祖の教えは、それまで厳しい修行に明け暮れていた僧侶たちにとって新鮮な驚きであり、衝撃を与えました。しかし、この思想は、ともすれば「修行をしなくても、心の赴くままに、やりたいように生きて行けばよい」になりかねず、すでに弟子たちの間でも疑問が生じました。不肖の弟子ですね。「歎異抄」の弟子たちのように。
そして、馬祖に対抗したのが石頭希遷(せきとう きせん700‐790)であり、石頭は「修行によって『ありのまま』とは別次元にある本来の自己を追求せよ」と説き、「禅の歴史はこれら二つの考えを行ったり来たりした」と言う仏教研究家もいます。
筆者はそうは思いません。石頭も後代の仏教研究家も、馬祖の思想を誤解しているのだと思います。馬祖が坐禅を否定したのは確かです。それは「景徳伝燈録・巻六」に出て来る次の公案は馬祖道一とその師南嶽懐譲(なんがくえじょう)の話からも推察されます。すなわち、
ある日、馬祖が坐禅をしていると、師の南嶽がやって来て、質問した。
南嶽懐譲「大徳、日頃坐禅をしているが、什麼(なに)を図っているか」(おまえは何のために坐禅をしているのか)
馬祖「作仏を図る」(仏になるために坐禅をしています。当然でしょうと言わんばかりに)
師の南嶽は、そこで、かたわらに落ちていた一枚の瓦を拾って、黙って石の上で磨きはじめた。
それを見て、馬祖が問う。
馬祖「師 麼を作す」(お師匠様何をしておられるのですか)
南嶽懐譲「磨して鏡となす」(瓦を磨いて鏡にするのだ)
馬祖「瓦を磨いてどうして鏡と成すことができよう」(どうして瓦を磨いて鏡になるでしょう)
南嶽懐譲「坐禅がどうして作仏することができようか」(それがわかっていながら、どうしておまえは坐禅をして仏になろうとするのだ」(以下略)
なぜ馬祖が平常心是道と言ったのか。おそらく弟子たちがあまりにも「坐禅をして仏になろう」と執心していたためだろうと思います。現代でも「朝3時に起きて掃除。坐禅をして食事の用意。また坐禅・・・」というような厳しい生活している修行僧たちがいます。一方、結婚もせず、家庭も持たず、粗食をし、一切の娯楽も排除し、1日7回、総計5時間にも及ぶ坐禅をしている人たちもいます。「なにがなんでも悟りに達するのだ」と決意し、実践している人たちですね。しかし、そういった生活は、ともすれば悟りにこだわり、仏にこだわることにもなりかねません。「一切のこだわりを捨てること」が禅の基本です。そのため、弟子たちに「そうあってはいけない」と警鐘を鳴らしたのでしょう。
じつは、筆者は馬祖の思想の根本は平常心是道ではないと考えています。つまり、馬祖はまったく別の、悟りに至る道を考えていたのだと思います。それについては次回お話します。
馬祖禅と石頭禅(2)禅語「平常心是道」「即心是仏」
前回、馬祖の思想の根本は平常心是道とは別にあるとお話しました。それは、馬祖は即心是佛とも言っているからです。
すなわち「江西馬祖道一語録」で、
・・・本より既に迷の無ければ、悟もまた立たず。一切の衆生、無量劫より、法性三昧を出ず。長く法性三昧中に在り、着衣喫飯、言談して祇に対す。六根の運用、一切の施為、尽く法性たり・・・
と言っています。
つまり、
・・・初めから迷いというものが存在しないのだから、悟りも立てようがないではないか。すべての人間は、はるかな昔から仏の世界で生きて来た。その中で衣服を着て飯を食い、話をしたりの生活をしてきたのだ。とすれば人間の六根の運用、すなわち、あらゆる行いは、ことごとく法性(仏性)であったのだ・・・
という意味です。初めから迷いがなく、あらゆる行いがことごとく仏性であったとは、人間の本質は仏であると言っているのですね。
さらに、
即心是(即)佛の言葉は「無門関・第三十則」にも、
馬祖、因(ちなみ)ミニ大梅(大梅法常、馬祖の法嗣)問フ、如何ナルカ是レ佛。(馬)祖云ク、即心即佛。
とあります。言葉どおり「心はそのまま仏である」と言う意味ですね。「無門関」の解説者無門慧開は「仏などと言う大それたことを口にするな」とは言っていますが、この第三十則そのものは否定していません。
馬祖自身、
・・・汝等諸人、各々自心これ仏なることを信ぜよ。この心即これ仏心なり。(「景徳伝燈録・卷六 馬祖道一」)・・・
と言っています。明らかに「人間の心には仏性が備わっている」という意味ですね(註1)。
「即心是仏は平常心是道とかけ離れているのではないか」と思わないでください。分別を差し挟まない人間の思考や行いは、仏である自分の心の表われですから。即心是仏の仏は筆者の言う、仏(神)につながる本当の我でしょう。そうです、これは臨済の言う「赤肉団上に一無位の真人あり」の真人と同じなのです。「けんめいに坐禅をして、何がなんでも佛になろう」とすれば、自分と佛を対立させ、自分の外に仏を求めることになり、「自分自身が仏だ」という馬祖の思想を妨げることになりますね。
じつは馬祖や臨済の思想についての筆者の解釈は、仏教の中では異端です。と言うのは、本当の我の存在を認めるのは、仏教以前のヴェーダンタ宗教に沿うものだからです。すなわち、ヴェーダンタ宗教では個我(アートマン)は実体として存在し、肉体が滅びても残ること、「個我と神(ブラフマン)との一体化こそ、修行によって目指すものだ」と言います。釈迦は、ヴェーダンタ信仰に対立する新しい宗教として仏教を打ち立てたのです。(この問題は重要ですから改めて論述させていただきます)。ヴェーダンタ信徒は、道元の言う先尼外道です。
つまり、筆者の解釈によれば、馬祖も臨済も仏教の主流からは外れることになります。
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註1 道元は「即心是仏」について、馬祖や筆者とは違った解釈をしています。すなわち、「正法眼蔵・即心是佛巻」で、
・・・此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来、未だ曾て生滅せず・・・(中略)・・・南方の所説、大約此の如し。師曰く、若し然らば、彼の先尼外道と差別有ること無けん。つまり、
・・・身体は生滅するが、心は悠久の過去より生滅せずと言うのがインド人の考え方である(大証国師慧忠師の言葉「もしそうだとすれば、それは先尼《ヴェーダンタ宗教の徒》や外道《仏教以外の宗教の信徒》の説である」を紹介しつつ、
・・・即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり。(中略)いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去、現在、未来の諸仏ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり・・・つまり、
・・・(どんな人にも仏性が備わっている)そして「悟りを求める心を起こし、修行し、正しい考えを持つようになり、悟りに至れば(仏性が現われる)、それを即心是仏と言う。その境地は古今のすぐれた菩薩たち、さらには釈尊の心と同じだ(筆者簡訳)・・・
と言うのです。このように、道元の考えは馬祖とは異なり、石頭と同じです。それにしても、道元のような大乗仏教徒は、釈迦以前の(以後も続きますが)ヴェーダンタ宗教を否定し過ぎです。以前にも書きましたように、筆者は神の存在も霊魂の存在も実感しています。それゆえ、ヴェーダンタ宗教の言う、神(ブラフマン)と人間の個我(アートマン)との一体化を目指す思想もよく理解できるのです。道元の考えが絶対とは思いません。
第30則:即心即仏
岩波無門関p.125~127
本則:
馬祖、因みに大梅問う、「如何なるか是れ仏?」。
祖云く、「即心是仏」。
評唱:
若し、能く直下(じきげ)に領略(りょうりゃく)し得去らば、仏衣を著(つ)け、仏飯を喫し、
仏話を説き、仏行を行ずる、即ち是れ仏なり。
是の如くなりと然( いえ )雖(ど)も、大梅、多少の人を引いて、
錯って定盤星(じょうばんじょう)を認めしむ。
争でか知道( し)らん箇の仏の字を説けば三日間口を漱ぐことを。若し是れ箇の漢ならば、
即心是仏と説くを見て、耳を掩(おお)うて便ち走らん。
頌:
青天白日、切に忌む尋覓(じんみゃく)することを
更に何如と問えば、贓(ぞう)を抱いて屈と叫ぶ。
注:
馬祖:馬祖道一(709~788)。唐代の禅者。南嶽懐譲(677~744)の法嗣で洪州宗の祖。
法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →大梅法常
定盤星(じょうばんじょう):天秤の棹の起点にある星形の印のこと。物の軽重に関係のない無駄目。
定盤星を認めしむ:捉われる必要のないものに執着させる。
「即心即仏」という言葉を言ったが為に仏の真相を見誤らせた。
贓(ぞう):盗品
屈:相手の身に覚えのないことを強いる。またそのような目に会うこと。
、贓を抱いて屈と叫ぶ。:盗んだ品物を手に持って、「自分は盗んでいない」と叫ぶようなものだ。
現代語訳
本則:
馬祖和尚はある時、大梅から「仏とはどのようなものですか?」と質問された。
馬祖は、「心こそが仏そのものだ」と答えた。
評唱:
もし、馬祖の言うことが直ちに分かれば、仏衣を著(つ)け、仏飯を喫し、仏話を説き、
仏行を行うことができる。これが即ち仏である。
このようであっても、大梅和尚たる者が、多くの人を引きこんで、意味のないことを教えたものだよ。
そんな人に、どうして仏という字を口にしただけで三日間口を洗い清めたという話しが分かるだろうか。
仏法のよく分かっている人ならば、「即心是仏」などと説くのを聞けば、
耳を塞いで走り去るだろうよ。
頌:
「心こそが仏そのものだ」という真理は青天白日のように明らかである。
これを思想的に考えて追い求めてはだめだ。
その上更に「仏とは何か」と質問するのは盗品を手に持って、
「自分は盗んでいない」と叫ぶようなものだ。
458b21,0,夫入道多途。要而言之、不出二種。一是理入。,0
458b22,0,二是行入。理入者、謂藉教悟宗。,5
458b23,5,深信含生同一眞性。但爲客塵妄想所覆、不能顯了。,2
458b24,2,若也捨妄歸眞、凝住壁觀、無自無他、凡聖等一、,1
458b25,1,堅住不移、更不隨於文教、此即與理冥符、,2
458b26,2,無有分別、寂然無爲、名之理入。行入者、謂四行。,0
458b27,0,其餘諸行悉入此中。何等四耶。一報寃行。,1
458b28,1,二隨縁行。三無所求行。四稱法之行。,4
458b29,4,云何報寃行。謂修道行人若受苦時、當自念言、,3
458c1,3,我從往昔無數劫中、棄本從末、流浪諸有、多起寃憎、,0
458c2,0,違害無限。今雖無犯、是我宿殃、惡業果熟。,1
458c3,1,非天非人所能見與。甘心忍受、都無寃訴。經云、,0
458c4,0,逢苦不憂。何以故、識達故。此心生時、,3
458c5,3,與理相應、體寃進道。故説言報寃行。二隨縁行者。,1
458c6,1,衆生無我、並縁業所轉。苦樂齊受、皆從縁生。,1
458c7,1,若得勝報榮譽等事、是我過去宿因所感、,2
458c8,2,今方得之。縁盡還無、何喜之有。得失從縁、,3
458c9,3,心無増減。喜風不動、冥順於道。是故説言隨縁行也。,0
458c10,0,三無所求行者。世人長迷、處處貪著、,3
458c11,3,名之爲求。智者悟眞、理將俗反。安心無爲、形隨運轉。,0
458c12,0,萬有斯空、無所願樂。功徳黒暗、常相隨逐。,1
458c13,1,三界久居、猶如火宅。有身皆苦、誰得而安。,2
458c14,2,了達此處、故捨諸有、息想無求。經云、有求皆苦、,1
458c15,1,無求乃樂。判知無求、眞爲道行。,6
458c16,6,故言無所求行也。四稱法行。性淨之理、目之爲法。此理、,2
458c17,2,衆相斯空、無染無著、無此無彼。經云、法無衆生、,1
458c18,1,離衆生垢故。法無有我、離我垢故。,5
458c19,5,智者若能信解此理、應當稱法而行。法體無慳。於身命財、,0
458c20,0,行檀捨施、心無悋惜。達解三空、不倚不著。,1
458c21,1,但爲去垢、稱化衆生、而不取相。此爲自行、,2
458c22,2,復能利他。亦能荘嚴菩提之道。檀施既爾、,3
458c23,3,餘五亦然。爲除妄想、修行六度而無所行。,4
458c24,4,是爲稱法行。,0
458c25,0,荷澤大師顯宗記。,0
458c26,0,無念爲宗。無作爲本。眞空爲體。妙有爲用。,1
458c27,1,夫眞如無念、非想念而能知。實相無生、,3
458c28,3,豈色心而能見。無念念者、即念眞如。無生生者、,2
458c29,2,即生實相。無住而住、常住涅槃。無行而行、,3
459a1,3,即超彼岸。如如不動、動用無窮。念念無求、求本無念。,0
459a2,0,菩提無得、淨五眼而了三身。般若無知、,2
459a3,2,運六通而弘四智。是知即定無定、即慧無慧、,2
459a4,2,即行無行。性等虚空。體同法界。六度自茲圓滿。,1
459a5,1,道品於是無虧。是知我法體空。有無雙泯。,2
459a6,2,心本無作。道常無念。無念無思。無求無得。,3
459a7,3,不彼不此。不去不來。體悟三明。心通八解。功成十力。,0
459a8,0,富有七珍。入不二門。獲一乘理。妙中之妙、,1
459a9,1,即妙法身。天中之天、乃金剛慧。湛然常寂、,2
459a10,2,應用無方。用而常空。空而常用。用而不有、,3
459a11,3,即是眞空。空而不無、便成妙有。妙有即摩訶般若。,1
459a12,1,眞空即清淨涅槃。般若是涅槃之因。,4
459a13,4,涅槃是般若之果。般若無見、能見涅槃。涅槃無生、,2
459a14,2,能生般若。涅槃般若、名異體同。隨義立名、,3
459a15,3,故云法無定相。涅槃能生般若、即名眞佛法身。,2
459a16,2,般若能建涅槃、故號如來知見。知即知心空寂。,1
459a17,1,見即見性無生。知見分明、不一不異。,4
459a18,4,故能動寂常妙、理事皆如。如即處處能通。,5
459a19,5,達即理事無礙。六根不染、即定慧之功。六識不生、,3
459a20,3,即如如之力。心如境謝。境滅心空。心境雙亡。,3
459a21,3,體用不異。眞如性淨、慧鑒無窮。如水分千月、,3
459a22,3,能見聞覺知。見聞覺知而常空寂。空即無相。,3
459a23,3,寂即無生。不被善惡所拘。不被靜亂所攝。不厭生死。,0
459a24,0,不樂涅槃。無不能無。有不能有。行住坐臥、,1
459a25,1,心不動搖。一切時中、獲無所得。三世諸佛、,2
459a26,2,教旨如斯。即菩薩慈悲、遞相傳受。自世尊滅後、,1
459a27,1,西天二十八祖共傳無住之心、同説如來知見。,0
459a28,0,至於達磨屆此爲初。遞代相承、於今不絶。,1
459a29,1,所傳祕教、要藉得人。如王髻珠、終不妄與。,2
459b1,2,福徳智慧二種荘嚴行解相應方能建立。,3
459b2,3,衣爲法信。法是衣宗。唯指衣法相傳、,6
459b3,6,更無別法内傳心印、印契本心。外傳袈裟、將表宗旨。,3
459b4,3,非衣不傳於法。非法不受於衣。衣是法信之衣。,2
459b5,2,法是無生之法。無生即無虚妄、乃是空寂之心。,1
459b6,1,知空寂而了法身。了法身而眞解脱。,0
459b7,0,南嶽石頭和尚參同契。,0
459b8,0,竺土大仙心、東西密相付。人根有利鈍、,2
459b9,2,道無南北祖。靈源明皎潔、枝派暗流注。,4
459b10,4,執事元是迷、契理亦非悟。門門一切境、迴互不迴互。,1
459b11,1,迴而更相渉、不爾依位住。色本殊質象、,3
459b12,3,聲元異樂苦。暗合上中言、明明清濁句。,4
459b13,4,四大性自復、如子得其母。火熱風動搖、水濕地堅固。,1
459b14,1,眼色耳音聲、鼻香舌鹹醋。然依一一法、,3
459b15,3,依根葉分布。本末須歸宗、尊卑用其語。,4
459b16,4,當明中有暗、勿以暗相遇。當暗中有明、勿以明相覩。,1
459b17,1,明暗各相對、比如前後歩。萬物自有功、,3
459b18,3,當言用及處。事存函蓋合、理應箭鋒&C0-A9D6;。,4
459b19,4,承言須會宗、勿自立規矩。觸目不會道、運足焉知路。,1
459b20,1,進歩非近遠、迷隔山河固。謹白參玄人、,3
459b21,3,光陰莫虚度。,0
459b22,0,五臺山鎭國大師澄觀答皇太子問心要。,0
459b23,0,至道本乎其心。心法本乎無住。無住心體、,1
459b24,1,靈知不昧、性相寂然、包含徳用、該攝内外、,2
459b25,2,能深能廣、非有非空、不生不滅、無終無始。,3
459b26,3,求之而不得。棄之而不離。迷現量則惑苦紛然。,1
459b27,1,寤眞性則空明廓徹。雖即心即佛、唯證者方知。,0
459b28,0,然有證有知、則慧日沈沒於有地。,4
459b29,4,若無照無悟、則昏雲掩蔽於空門。若一念不生、,3
459c1,3,則前後際斷、照體獨立、物我皆如、直造心源、,2
459c2,2,無智無得、不取不捨、無對無修。然迷悟更依、,2
459c3,2,眞妄相待。若求眞去妄、猶棄影勞形。,4
459c4,4,若體妄即眞、似處陰影滅。若無心忘照、則萬慮都捐。,0
459c5,0,若任運寂知、則衆行爰起。放曠任其去住。,1
459c6,1,靜鑒覺其源流。語默不失玄微。動靜未離法界。,0
459c7,0,言止則雙亡知寂。論觀則雙照寂知。,3
459c8,3,語證則不可示人。説理則非證不了。是以悟寂無寂、,0
459c9,0,眞知無知。以知寂不二之一心、,5
459c10,5,契空有雙融之中道。無住無著。莫攝莫收。是非兩亡。,2
459c11,2,能所雙絶。斯絶亦寂、則般若現前。,6
459c12,6,般若非心外新生。智性乃本來具足。然本寂不能自現、,2
459c13,2,實由般若之功。般若之與智性、翻覆相成。,3
459c14,3,本智之與始修、實無兩體。雙亡正入、則妙覺圓明。,1
459c15,1,始末該融、則因果交徹。心心作佛、,5
459c16,5,無一心而非佛心。處處成道、無一塵而非佛國。,4
459c17,4,故眞妄物我、擧一全收。心佛衆生、渾然齊致。,4
459c18,4,是知迷則人隨於法、法法萬差而人不同。,5
459c19,5,悟則法隨於人、人人一智而融萬境。言窮慮絶、何果何因。,0
459c20,0,體本寂寥、孰同孰異。唯忘懷虚朗、消息沖融、,0
459c21,0,其猶透水月華、虚而可見、無心鑑象、,3
459c22,3,照而常空矣。,0
459c23,0,杭州五雲和尚坐禪箴。,0
459c24,0,坐不拘身、禪非渉境。拘必乃疲、渉則非靜。,1
459c25,1,不渉不拘。眞光迥孤。六門齊應、萬行同敷。,2
459c26,2,嗟爾初機。未達玄微。處沈隨掉、能所支離。,3
459c27,3,不有權巧、胡爲對治。驅策抑按。均調&C0-D55F;亂。息慮忘縁、,0
459c28,0,乍同死漢。隨宜合開、靡專壁觀。[達磨大師正付法眼外、,5
459c29,5,委示初機修心之要、啓四門四行、匪專一也。]馳想頗多。安那鉢那。[或掉擧猛利及&C0-D55F;住等、,3
460a1,3,宜易觀修於數息、或出或入、不得交互。]沿流劍閣、無滯木鵝。如火得水、,0
460a2,0,如病得醫。病&C0-EA6F;醫罷、火滅水傾。一念清淨、,1
460a3,1,體寂常靈。是靈是寂。非靈非寂。是非迭生、,2
460a4,2,犯過無極。前滅後興還如歩走。患乎不知、,3
460a5,3,知則無咎。日由背夜、鏡奚照後。此則不然、圓明通透。,0
460a6,0,照而不縁、寂而誰守。萬象瀛&C0-E278;、太虚閃電。,1
460a7,1,摧壞魔宮、衝倒佛殿。跛者得履、瞽者發見。,2
460a8,2,法界塵寰、齊輪頓現。曠蕩郊&C3-593B;。或坐或眠。,3
460a9,3,既明方便、乃號金仙。吾雖強説、爰符聖言。聖言何也、,0
460a10,0,要假重宣。不動不禪、是無生禪。又云、,3
460a11,3,若學諸三昧、是動非坐禪。心隨境界流、云何名爲定。,0
460a12,0,故知歴代祖、唯傳此一心。祖光既遠大、,2
460a13,2,吾子幸堪任。聊述無言旨、乃曰坐禪箴。,0
460a14,0,永嘉眞覺大師證道歌。,0
460a15,0,君不見、絶學無爲閑道人、不除妄想不求眞。,0
460a16,0,無明實性即佛性、幻化空身即法身。,4
460a17,4,法身覺了無一物。本源自性天眞佛。五陰浮雲空去來、,0
460a18,0,三毒水泡虚出沒。證實相、無人法。,4
460a19,4,刹那滅却阿鼻業。若將妄語誑衆生、自招拔舌塵沙劫。,0
460a20,0,頓覺了、如來禪。六度萬行體中圓。,4
460a21,4,夢裏明明有六趣、覺後空空無大千。無罪福、無損益。,1
460a22,1,寂滅性中莫問覓。比來塵境未曾磨、,4
460a23,4,今日分明須剖析。誰無念、誰無生。若實無生無不生。,1
460a24,1,喚取機關木人問、求佛施功早晩成。放四大、,1
460a25,1,莫把捉。寂滅性中隨飮啄。諸行無常一切空、,1
460a26,1,即是如來大圓覺。決定説、表眞乘。,5
460a27,5,有人不肯任情徴。直截根源佛所印、摘葉尋枝我不能。,1
460a28,1,摩尼珠、人不識。如來藏裏親收得。,6
460a29,6,六般神用空不空、一顆圓光色非色。淨五眼、得五力。,3
460b1,3,唯證乃知誰可測。鏡裏看形見不難、,6
460b2,6,水中捉月爭拈得。常獨行、常獨歩。達者同遊涅槃路。,3
460b3,3,調古神清風自高、貌悴骨剛人不顧。窮釋子、口稱貧。,0
460b4,0,實是身貧道不貧。貧則身常披縷褐、,3
460b5,3,道即心藏無價珍。無價珍、用無盡。利物應時終不吝。,0
460b6,0,三身四智體中圓、八解六通心地印。,3
460b7,3,上士一決一切了、中下多聞多不信。,6
460b8,6,但自懷中解垢衣、誰能向外誇精進。從他謗、任他非。,3
460b9,3,把火焼天徒自疲。我聞恰似飮甘露、,6
460b10,6,銷融頓入不思議。觀惡言、是功徳。此則成吾善知識。,3
460b11,3,不因&C0-B053;謗起怨親、何表無生慈忍力。宗亦通、説亦通。,0
460b12,0,定慧圓明不滯空。非但我今獨達了、,3
460b13,3,河沙諸佛體皆同。師子吼、無畏説。百獸聞之皆腦裂。,0
460b14,0,香象奔波失却威、天龍寂聽生欣悦。遊江海、,0
460b15,0,渉山川。尋師訪道爲參禪。自從認得曹谿路、,0
460b16,0,了知生死不相干。行亦禪、坐亦禪。,4
460b17,4,語默動靜體安然。縱遇鋒刀常坦坦、假饒毒藥也閑閑。,0
460b18,0,我師得見然燈佛、多劫曾爲忍辱仙。幾迴生、,0
460b19,0,幾迴死。生死悠悠無定止。自從頓悟了無生、,0
460b20,0,於諸榮辱何憂喜。入深山、住蘭若。,4
460b21,4,岑崟幽邃長松下。優遊靜坐野僧家、&C4-4E4A;寂安居實瀟灑。,0
460b22,0,覺即了、不施功。一切有爲法不同。,4
460b23,4,住相布施生天福、猶如仰箭射虚空。勢力盡、箭還墜。,1
460b24,1,招得來生不如意。爭似無爲實相門、,4
460b25,4,一超直入如來地。但得本、莫愁末。如淨瑠璃含寶月。,1
460b26,1,既能解此如意珠、自利利他終不竭。江月照、,1
460b27,1,松風吹。永夜清宵何所爲。佛性戒珠心地印、,1
460b28,1,霧露雲霞體上衣。降龍鉢、解虎錫。,5
460b29,5,兩股金鐶鳴歴歴。不是標形虚事持、如來寶杖親蹤跡。,0
460c1,0,不求眞、不斷妄。了知二法空無相。,4
460c2,4,無相無空無不空、即是如來眞實相。心鏡明、鑒無礙。,1
460c3,1,廓然瑩徹周沙界。萬象森羅影現中、,4
460c4,4,一顆圓明非内外。豁達空、撥因果。&C0-E2A5;&C0-E2A5;蕩蕩招殃禍。,1
460c5,1,棄有著空病亦然、還如避溺而投火。捨妄心、,1
460c6,1,取眞理。取捨之心成巧僞。學人不了用修行、,1
460c7,1,眞成認賊將爲子。損法財、滅功徳。,5
460c8,5,莫不由斯心意識。是以禪門了却心、頓入無生智見力。,0
460c9,0,大丈夫、秉慧劍。般若鋒兮金剛焔。,4
460c10,4,非但能摧外道心、早曾落却天魔膽。震法雷、撃法鼓。,0
460c11,0,布慈雲兮灑甘露。龍象蹴&C0-C1CF;潤無邊、,3
460c12,3,三乘五性皆惺悟。雪山肥膩更無雜。,5
460c13,5,純出醍醐我常納。一性圓通一切性、一法遍含一切法。,1
460c14,1,一月普現一切水、一切水月一月攝。,4
460c15,4,諸佛法身入我性、我性還共如來合。一地具足一切地、,0
460c16,0,非色非心非行業。彈指圓成八萬門、,3
460c17,3,刹那滅却阿鼻業。一切數句非數句、,6
460c18,6,與吾靈覺何交渉。不可毀、不可讃。體若虚空勿涯岸。,3
460c19,3,不離當處常湛然、覓則知君不可見。取不得、捨不得。,0
460c20,0,不可得中只麼得。默時説、説時默。,4
460c21,4,大施門開無壅塞。有人問我解何宗、報道摩訶般若力。,0
460c22,0,或是或非人不識、逆行順行天莫測。,3
460c23,3,吾早曾經多却修、不是等閑相誑惑。建法幢、立宗旨。,0
460c24,0,明明佛勅曹谿是。第一迦葉首傳燈、,3
460c25,3,二十八代西天記。法東流、入此土。菩提達磨爲初祖。,0
460c26,0,六代傳衣天下聞、後人得道無窮數。眞不立、,0
460c27,0,妄本空。有無倶遣不空空。二十空門元不著、,0
460c28,0,一性如來體自同。心是根、法是塵。,4
460c29,4,兩種猶如鏡上痕。痕垢盡除光始現、心法雙亡性即眞。,0
461a1,0,嗟末法、惡時世。衆生福薄難調制。,5
461a2,5,去聖遠兮邪見深、魔強法弱多怨害。聞説如來頓教門、,1
461a3,1,恨不滅除令瓦碎。作在心、殃在身。,6
461a4,6,不須怨訴更尤人。欲得不招無間業、莫謗如來正法輪。,2
461a5,2,旃檀林、無雜樹。欝密深沈師子住。,6
461a6,6,境靜林閑獨自遊、走獸飛禽皆遠去。獅子兒、衆隨後。,3
461a7,3,三歳即能大哮吼。若是野干逐法王、,6
461a8,6,百年妖怪虚開口。圓頓教、勿人情。有疑不決直須爭。,3
461a9,3,不是山僧逞人我、修行恐落斷常坑。非不非、是不是。,0
461a10,0,差之毫釐失千里。是即龍女頓成佛、,3
461a11,3,非即善星生陷墜。吾早年來積學問、,6
461a12,6,亦曾討疏尋經論。分別名相不知休、入海算沙徒自困。,2
461a13,2,却被如來苦訶責。數他珍寶有何益。,5
461a14,5,從來&C0-F34F;&C0-C3DE;覺虚行、多年枉作風塵客。種性邪、錯知解。,2
461a15,2,不達如來圓頓制。二乘精進沒道心、,5
461a16,5,外道聰明無智慧。亦愚癡、亦小&C0-EF63;。空拳指上生實解。,2
461a17,2,執指爲月枉施功、根境法中虚捏怪。,5
461a18,5,不見一法即如來、方得名爲觀自在。了即業障本來空、,1
461a19,1,未了還須償宿債。飢逢王膳不能餐。,5
461a20,5,病遇醫王爭得差。在欲行禪知見力、火中生蓮終不壞。,1
461a21,1,勇施犯重悟無生、早時成佛于今在。師子吼、,1
461a22,1,無畏説。深嗟&C0-C36A;&C0-C0B4;頑皮靼。[多達切。],6
461a23,6,只知犯重障菩提、不見如來開祕訣。有二比丘犯婬殺、,2
461a24,2,波離螢光増罪結。維摩大士頓除疑、,5
461a25,5,還同赫日銷霜雪。不思議、解脱力。此即成吾善知識。,2
461a26,2,四事供養敢辭勞、萬兩黄金亦銷得。,5
461a27,5,粉骨碎身未足酬、一句了然超百億。法中王、最高勝。,2
461a28,2,河沙如來同共證。我今解此如意珠、,5
461a29,5,信受之者皆相應。了了見、無一物。亦無人、亦無佛。,3
461b1,3,大千世界海中&C0-E278;、一切聖賢如電拂。,6
461b2,6,假使鐵輪頂上旋、定慧圓明終不失。日可冷、月可熱。,3
461b3,3,衆魔不能壞眞説。象駕崢&C0-C0AF;謾進途、,6
461b4,6,誰見&C0-EB5D;&C0-DFE2;能拒轍。大象不遊於兎徑、大悟不拘於小節。,2
461b5,2,莫將管見謗蒼蒼、未了吾今爲君決。,0
461b6,0,騰騰和尚了元歌。,0
461b7,0,修道道無可修、問法法無可問。,5
461b8,5,迷人不了色空、悟者本無逆順。八萬四千法門、,4
461b9,4,至理不離方寸。識取自家城郭、莫謾尋他郷郡。,2
461b10,2,不用廣學多聞、不要辯才聰俊。不知月之大小、,1
461b11,1,不管歳之餘閏。煩惱即是菩提、淨華生於泥糞。,0
461b12,0,人來問我若爲、不能共伊談論。,5
461b13,5,寅朝用粥充飢、齋時更餐一頓。今日任運騰騰、,4
461b14,4,明日騰騰任運。心中了了總知、且作佯癡縛鈍。,0
461b15,0,南嶽懶&C3-5A5B;和尚歌。,0
461b16,0,兀然無事無改換。無事何須論一段。,3
461b17,3,直心無散亂、他事不須斷。過去已過去、未來猶莫算。,0
461b18,0,兀然無事坐、何曾有人喚。向外覓功夫、,2
461b19,2,總是癡頑漢。糧不畜一粒。逢飯但知&CX-235A;。[陟立切。],2
461b20,2,世間多事人、相趁渾不及。我不樂生天。,4
461b21,4,亦不愛福田。饑來喫飯、困來即眠。愚人笑我、智乃知焉。,0
461b22,0,不是癡鈍、本體如然。要去即去。要住即住。,1
461b23,1,身披一破衲、脚著孃生袴。多言復多語、,3
461b24,3,由來反相誤。若欲度衆生、無過且自度。莫謾求眞佛、,0
461b25,0,眞佛不可見。妙性及靈臺、何曾受熏錬。,2
461b26,2,心是無事心、面是孃生面。劫石可移動、,4
461b27,4,箇中無改變。無事本無事。何須讀文字。削除人我本、,1
461b28,1,冥合箇中意。種種勞筋骨。不如林下睡兀兀。,1
461b29,1,擧頭見日高、乞飯從頭&C5-293F;。將功用功。展轉冥蒙。,0
461c1,0,取即不得、不取自通。吾有一言。絶慮亡縁。,1
461c2,1,巧説不得、只用心傳。更有一語。無過眞與。,2
461c3,2,細如豪末、大無方所。本自圓成、不勞機杼。,3
461c4,3,世事悠悠。不如山丘。青松蔽日、碧澗長流。山雲當幕、,0
461c5,0,夜月爲鉤。臥藤蘿下、塊石枕頭。不朝天子、,1
461c6,1,豈羨王侯。生死無慮、更復何憂。水月無形。,2
461c7,2,我常只寧。萬法皆爾、本自無生。兀然無事坐、,2
461c8,2,春來草自青。石頭和尚草庵歌。,0
461c9,0,吾結草庵無寶貝、飯了從容圖睡快。,3
461c10,3,成時初見茆草新、破後還將茆草蓋。住庵人、鎭常在。,0
461c11,0,不屬中間與内外。世人住處我不住、,3
461c12,3,世人愛處我不愛。庵雖小、含法界。方丈老人相體解。,0
461c13,0,上乘菩薩信無疑、中下聞之必生怪。問此庵、,0
461c14,0,壞不壞。壞與不壞主元在。不居南北與東西、,0
461c15,0,基址堅牢以爲最。青松下、明窓内。,4
461c16,4,玉殿朱樓未爲對。衲&C0-CC6E;&C0-ECDC;頭萬事休、,6
461c17,6,此時山僧都不會。住此庵、休作解。誰誇鋪席圖人買。,3
461c18,3,迴光返照便歸來、廓達靈根非向背。遇祖師、親訓誨。,0
461c19,0,結草爲庵莫生退。百年抛却任縱横、,3
461c20,3,擺手便行且無罪。千種言、萬般解。只要教君長不昧。,0
461c21,0,欲識庵中不死人、豈離而今這皮袋。,0
461c22,0,道吾和尚樂道歌。,0
461c23,0,樂道山僧縱性多。天迴地轉任從他。,3
461c24,3,閑臥孤峯無伴侶、獨唱無生一曲歌、無生歌、出世樂。,0
461c25,0,堪笑時人和不著。暢情樂道過殘生、,3
461c26,3,張三李四渾忘却。大丈夫、須氣概。莫順人情無妨礙。,0
461c27,0,汝言順即是菩提、我謂從來自相背。有時&C0-E977;、,0
461c28,0,有時癡。非我途中爭得知。特達一生常任運、,0
461c29,0,野客無郷可得歸。今日山僧只遮是、,3
462a1,3,元本山僧更若爲。探祖機、空王子。體似浮雲沒隈倚。,0
462a2,0,自古長披一衲衣、曾經幾度遭寒暑。不是眞、,0
462a3,0,不是僞。打鼓樂神施拜跪。明明一道漢江雲、,0
462a4,0,青山緑水不相似。禀性成、無揩改。,4
462a5,4,結角羅紋不相礙。或運慈悲喜捨心、或即逢人以棒&C0-F16D;。,0
462a6,0,慈悲恩愛落牽纒、棒打教伊破恩愛。,3
462a7,3,報乎月下旅中人、若有恩情吾爲改。,0
462a8,0,一鉢歌。,0
462a9,0,遏喇喇。鬧聒聒。總是悠悠造抹撻。,3
462a10,3,如饑喫鹽加得渇。枉却一生頭&C3-2D30;&C3-2D30;。,6
462a11,6,究竟不能知始末。抛却死屍何處脱。勸君努力求解脱。,2
462a12,2,閑事到頭須結撮。火落身上當須撥。,5
462a13,5,莫待臨時叫菩薩。丈夫語話須豁豁。莫學癡人受摩&C0-D1BB;。,1
462a14,1,趁時結裹學擺撥。也學柔和也麁糲。也剃頭、,1
462a15,1,也披褐。也學凡夫生活。直語向君君未達。,1
462a16,1,更作長歌歌一鉢。一鉢。歌。多中一、一中多。,2
462a17,2,莫笑野人歌一鉢、曾將一鉢度娑婆。,5
462a18,5,青天寥寥月初上。此時影空含萬象。幾處浮生自是非、,1
462a19,1,一源清淨無來往。更莫將心造水泡。,4
462a20,4,百毛流血是誰教。不如靜坐眞如地、頂上從他鵲作巣。,0
462a21,0,萬代金輪聖王子。只遮眞如靈覺是。,3
462a22,3,菩提樹下度衆生、度盡衆生不生死。,6
462a23,6,不生不死眞丈夫。無形無相大毘廬。塵勞滅盡眞如在、,2
462a24,2,一顆圓明無價珠。眼不見、耳不聞。,6
462a25,6,不見不聞眞見聞。從來一句無言説、今日千言強爲分。,2
462a26,2,強爲分、須諦聽。人人盡有眞如性。,6
462a27,6,恰似黄金在鑛中、錬去錬來金體淨。眞是妄、妄是眞。,3
462a28,3,若除眞妄更無人。眞心莫謾生煩惱、,6
462a29,6,衣食隨時養色身。好也著、弱也著。一切無心無染著。,2
462b1,2,亦無惡、亦無好。二際坦然平等道。麁也餐、細也餐。,0
462b2,0,莫學凡夫相上觀。也無麁、也無細。,4
462b3,4,上方香積無根蔕。坐亦行、行亦坐。生死樹下菩提果。,1
462b4,1,亦無坐、亦無行。無生何用覓無生。生亦得、,2
462b5,2,死亦得。處處當來見彌勒。亦無生、亦無死。,3
462b6,3,三世如來總如此。離則著、著則離。幻化門中無實義。,0
462b7,0,無可離、無可著。何處更求無病藥。語時默、,1
462b8,1,默時語。語默縱横無處所。亦無語、亦無默。,2
462b9,2,莫喚東西作南北。嗔即喜、喜即嗔。,6
462b10,6,我自降魔轉法輪。亦無嗔、亦無喜。水不離波波即水。慳時捨、,0
462b11,0,捨時慳。不離内外及中間。亦無慳、亦無捨。,1
462b12,1,寂寂寥寥無可把。苦時樂、樂時苦。,5
462b13,5,只遮修行斷門戸。亦無苦、亦無樂。本來自在無繩索。,2
462b14,2,垢即淨、淨即垢。兩邊畢竟無前後。亦無垢、亦無淨。,0
462b15,0,大千同一眞如性。藥是病、病是藥。,4
462b16,4,到頭兩事須拈却。亦無藥、亦無病。正是眞如靈覺性。,1
462b17,1,魔作佛、佛作魔。鏡裏尋形水上波。亦無魔、,2
462b18,2,亦無佛。三世本來無一物。凡即聖、聖即凡。,3
462b19,3,色裏膠青水裏鹹。亦無凡、亦無聖。,6
462b20,6,萬行總持無一行。眞中假、假中眞。自是凡夫起妄塵。亦無眞、,0
462b21,0,亦無假。若不喚時何應諾。本來無姓亦無名、,0
462b22,0,只麼騰騰信脚行。有時&C3-593B;市并屠肆、,3
462b23,3,一朶紅蓮火上生。也曾策杖遊京洛、,6
462b24,6,身似浮雲無定著。幻化由來似寄居、他家觸處更清虚。,2
462b25,2,若覓戒。三毒瘡痍幾時差。若覓禪。,6
462b26,6,我自縱横汨&C0-DEF1;眠。大可憐、不是顛。世間出世天中天。,3
462b27,3,時人不會此中意、打著南邊動北邊。若覓法。,3
462b28,3,鷄足山中問迦葉。大士持衣在此中、,6
462b29,6,本來不用求專甲。若覓經。法性眞源無可聽。若覓律。,3
462c1,3,窮子不須教走出。若覓修。八萬浮圖何處求。,3
462c2,3,只知黄葉止啼哭、不覺黒雲遮日頭。,6
462c3,6,莫怪狂言無次第、篩羅漸入麁中細。只遮麁中細也無、,2
462c4,2,即是圓明眞實諦。眞實諦、本非眞。,6
462c5,6,但是名聞即是塵。若向塵中解眞實、便是堂堂出世人。,2
462c6,2,出世人、莫造作。獨行獨歩空索索。,6
462c7,6,無生無死無涅槃、本來生死不相干。無是非、無動靜。,3
462c8,3,莫謾將身入空井。無善惡、無去來。亦無明鏡掛高臺。,0
462c9,0,山僧見解只如此、不信從他造劫灰。,0
462c10,0,樂普和尚浮&C0-E278;歌。,0
462c11,0,雲天雨落庭中水、水上漂漂見&C0-E278;起。,3
462c12,3,前者已滅後者生、前後相續無窮已。,6
462c13,6,本因雨滴水成&C0-E278;、還縁風激&C0-E278;歸水。不知&C0-E278;水性無殊、,2
462c14,2,隨他轉變將爲異。外明瑩、内含虚。,6
462c15,6,内外玲瓏若寶珠。正在澄波看似有、及乎動著又如無。,2
462c16,2,有無動靜事難明、無相之中有相形。,5
462c17,5,只知&C0-E278;向水中出、豈知水亦從&C0-E278;生。權將&C0-E278;水類余身、,1
462c18,1,五蘊虚攅假立人。解達蘊空&C0-E278;不實、,4
462c19,4,方能明見本來眞。,0
462c20,0,蘇溪和尚[即五洩小師也。]牧護歌。,0
462c21,0,聽説衲僧牧護。任運逍遙無住。,5
462c22,5,一條百衲瓶盂、便是生涯調度。爲求至理參尋、,4
462c23,4,不憚寒暑辛苦。還曾四海周游、山水風雲滿肚。,3
462c24,3,内除戒律精嚴、不學威儀行歩。三乘笑我無能、,2
462c25,2,我笑三乘謾做。智人權立階梯、大道本無迷悟。,1
462c26,1,達者不假修治、不在能言能語。披麻目視雲霄、,0
462c27,0,遮莫王侯不顧。道人本體如然、,5
462c28,5,不是知佛去處。生也猶如著衫、死也還同脱袴。,4
462c29,4,生也無喜無憂、八風豈能驚怖。外相猶似癡人、,3
463a1,3,肚裏非常峭措。活計雖無一錢、敢與君王鬪富。,1
463a2,1,愚人擺手憎嫌、智者點頭相許。那知傀儡牽抽、,0
463a3,0,歌舞盡由行主。一言爲報諸人、,5
463a4,5,打破畫瓶歸去。,0
463a5,0,法燈禪師泰欽古鏡歌三首。,0
463a6,0,盡道古鏡不曾見。借爾時人看一遍。,3
463a7,3,目前不覩一纖豪、湛湛冷光凝一片。凝一片、勿背面。,0
463a8,0,&C0-E172;母臨粧不稱情、潘生迴首頻嘉歎。何欣、欣、,0
463a9,0,何戚戚。好醜由來那箇是。只遮是、轉沈醉。,1
463a10,1,演若晨窺怖走時、子細思量還有以。,4
463a11,4,我問顛狂不暫迴。涙流向予聲哀哀。哽咽未能申吐得、,0
463a12,0,爾頭與影悠悠哉。悠悠哉。爾許多時那裏來。,0
463a13,0,迷雲開。行行携手上高臺。,0
463a14,0,其二。,0
463a15,0,誰云古鏡無様度。古今出入何門戸。,3
463a16,3,門戸君看不見時、即此爲君全顯露。全顯露。,3
463a17,3,與汝一生終保護。若遇知音請益來、,6
463a18,6,逢人不得輕分付。但任作見面、不須生怕怖。,6
463a19,6,看取當時演若多、直至如今成錯誤。如今不省影分明、,2
463a20,2,還是當時同一顧。同一顧。苦苦苦。,0
463a21,0,其三。,0
463a22,0,古鏡精明皎皎、皎皎遍照河沙。,5
463a23,5,到處安名題字、除儂更有誰家。過去未來現在、,4
463a24,4,諸佛鏡上纖瑕。纖瑕垢盡無物、此眞火裏蓮華。,3
463a25,3,蓮華千朶萬朶、朶朶端然釋迦。誰云倶尸入滅、,1
463a26,1,誰云穿膝蘆芽。不信鏡中看取、羊車鹿車牛車。,0
463a27,0,時人不識古鏡。盡道本來清淨。,5
463a28,5,只看清淨是假、照得形容不正。或圓或短或長、,4
463a29,4,若有纖豪倶病。勸君不如打破、鏡去瑕消可瑩。,3
463b1,3,亦見杜口毘耶、亦知圓通少剩。,0
463b2,0,潭州龍會道尋遍參三昧歌。,0
463b3,0,天涯海角參知識。遍咨惠我全提力。,3
463b4,3,師乃呵余退歩追、省躬廓爾從茲息。覩諸方、垂帶直。,0
463b5,0,善財得處難藏匿。棒頭喝下露幽奇、,3
463b6,3,縱去奪來看殊特。趙州關、雪嶺陟。築&C0-DD5D;峯前驗虚實。,0
463b7,0,據證靈由闢萬機、横揮祖刃聞三域。,3
463b8,3,巻舒重重孰可委。休呈識意謾猜揣。,6
463b9,6,衲子攅眉碧眼&C0-AB78;、黄海倒逆崑崙嘴。&C3-4C7D;山牛、道吾唱。,3
463b10,3,馬師奮迅呈圓相。執水投針作後規、,6
463b11,6,把鏡持幡看先匠。廣陵歌、誰繼唱。擬續宮商調難況。,3
463b12,3,石人慍色下鞭&C0-BEE2;、木馬奔嘶梵天上。麗水金、藍田玉。,0
463b13,0,祝融峯攅湘浪蹙。滿月澄谿松韻清、,3
463b14,3,雲從龍騰好觀矚。,0
463b15,0,丹霞和尚翫珠吟二首。,0
463b16,0,般若靈珠妙難測。法性海中親認得。,3
463b17,3,隱顯常遊五蘊中、内外光明大神力。,6
463b18,6,此珠非大亦非小、晝夜光明皆悉照。覓時無物又無蹤、,2
463b19,2,起坐相隨常了了。黄帝曾遊於赤水、,5
463b20,5,爭聽爭求都不遂。罔象無心却得珠、能見能聞是虚僞。,1
463b21,1,吾師權指喩摩尼、採人無數溺春池。,4
463b22,4,爭拈瓦礫將爲寶、智者安然而得之。森羅萬象光中現、,0
463b23,0,體用如如轉非轉。萬機消遣寸心中、,3
463b24,3,一切時中巧方便。燒六賊、爍衆魔。能摧我山竭愛河。,0
463b25,0,龍女靈山親獻佛、貧兒衣下幾蹉&C0-B659;。亦名性、,0
463b26,0,亦名心。非性非心超古今。全體明時明不得、,0
463b27,0,權時題作弄珠吟。,0
463b28,0,其二。,0
463b29,0,識得衣中寶、無明醉自醒。百骸雖潰散、,2
463c1,2,一物鎭長靈。知境渾非體、神珠不定形。,4
463c2,4,悟則三身佛、逃疑萬巻經。在心心可測、歴耳耳難聽。,1
463c3,1,罔象先天地、玄泉出杳冥。本剛非鍛錬、,3
463c4,3,元淨莫澄渟。盤泊輪朝日、玲瓏映曉星。瑞光流不滅、,0
463c5,0,眞氣觸還生。鑒照&C0-B153;&C0-ABD0;寂、羅籠法界明。,2
463c6,2,挫凡功不滅、超聖果非盈。龍女心親獻、,4
463c7,4,闍王口自呈。護鵝人却活、黄雀意猶輕。解語非關舌、,1
463c8,1,能言不是聲。絶邊彌汗漫、無際等空平。,3
463c9,3,演教非爲説、聞名勿認名。兩邊倶莫立、中道不須行。,0
463c10,0,見月休觀指、還家罷問程。識心心則佛、,2
463c11,2,何佛更堪成。,0
463c12,0,關南長老獲珠吟。,0
463c13,0,三界兮如幻、六道兮如夢、聖賢出世兮如電。,0
463c14,0,國土猶如水上泡、無常生滅日遷變。,3
463c15,3,唯有摩訶般若堅、猶若金剛不可鑚。,5
463c16,5,軟似兜羅大等空、小極微塵不可見。擁之令聚而不聚、,1
463c17,1,撥之令散而不散。側耳欲聞而不聞、,4
463c18,4,&C0-C0FC;目觀之而不見。歌復歌。盤陀石上笑呵呵。笑復笑。,0
463c19,0,青松影下高聲叫。自從獲得此心珠、,3
463c20,3,帝釋輪王倶不要。不是山僧獨施爲、,6
463c21,6,自古先賢作此調。不坐禪、不修道。任運逍遙只麼了。,3
463c22,3,但能萬法不干懷、無始何曾有生老。,0
463c23,0,香嚴和尚智閑吟二首。,0
463c24,0,勵覺吟。,0
463c25,0,滿口語、無處説。明明向人道不決。,4
463c26,4,急著力勤咬齧。無常到來救不徹。日裏語暗瑳切、,2
463c27,2,快磨古錐淨挑掲。理盡覺、自護持、此生事、終不説。,0
463c28,0,玄學求他古老吟、禪學須窮心影絶。,0
463c29,0,歸寂吟贈同住。,0
464a1,0,同住道人七十餘。共辭城郭樂山居。,3
464a2,3,身如寒木心牙絶、不話唐言休梵書。,6
464a3,6,心期盡處身雖喪。如來弟子沙門樣。深信共崇鉢塔成、[涅槃經云、,0
464a4,0,如來之身已於無量阿僧祇劫不受飮食。爲諸聲聞説、先受二牧牛女乳糜。故本行經云、菩薩將往道樹、,3
464a5,3,時有天人告善生神王二女、一名難陀、華言喜、二名婆羅、華言昌、汝可最初施食。於是二女。以乳烹糜、,6
464a6,6,其釜上現種種端相、乃用鉢盛奉獻。菩薩食已、將其鉢擲向尼連河中。天帝釋收歸天上、建塔安置供養、故名鉢塔。,5
464a7,5,此天上四塔之一也。四塔者、一髪塔、二箭塔、三鉢塔、四牙塔。人間亦有四塔。一如來生處塔、二如來成道處塔、,5
464a8,5,三如來轉法輪處塔、四如來涅槃處塔。]巍巍置在青山掌。,6
464a9,6,觀夫參道不虚然、脱去形骸甚高上。從來不説今朝事、,1
464a10,1,暗裏埋頭隱玄暢。不留蹤迹異人間、,4
464a11,4,深妙神光飽明亮。,0
464a12,0,韶山和尚心珠歌。,0
464a13,0,山僧自達空門久。淬錬心珠功已搆。,3
464a14,3,珠迥玲瓏主客分。往往聲如師子吼。師子吼、非常義。,0
464a15,0,皆明佛性眞如理。有時往往自思惟、,3
464a16,3,豁然大意心歡喜。或造經、或造論。或説漸兮或説頓。,0
464a17,0,若在諸佛運神通、或在凡夫興鄙悋。此心珠、,0
464a18,0,如水月。地角天涯無殊別。只因迷悟有參差、,0
464a19,0,所以如來多種説。地獄趣、餓鬼趣。,4
464a20,4,六道輪迴無暫住。此非諸佛不慈悲、豈是閻王配交做。,0
464a21,0,勸時流、深體悉。見在心珠勿浪失。,4
464a22,4,五蘊身全尚不知、百骸散後何處覓。,0
464a23,0,景徳傳燈録巻第三十。,0
景徳伝燈録〈上〉 (1970年) | 佐橋 法竜 1970
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J9AGCO/アジアの禅仏教史を調べると面白い。574年に中国に渡った南インド出身の毘尼多流支(ヴィニタルチ)は中国禅三祖の僧さん(〜606年)に師事して嗣法し、580年に交州(ベトナム北部)の法雲寺で布教した。従って、ベトナム禅は菩提達磨のインド禅に近い。一方、中国禅六祖が北宋禅の神秀から南宋禅の慧能に切り替る原因を作った神会(684〜758)の影響を強く受けたらしい禅僧摩訶衍がチベットで広めた噸悟禅を誤解したチベット王は、インドからシャーンタラクシタ(寂護)の弟子カマラシーラ(蓮華戒)を招いて摩訶衍を折伏させた。従って、チベット仏教もインド仏教に近い。日本禅は南宋禅から派生した臨済宗と曹洞宗の流れを汲むので、神会や摩訶衍の護持した噸悟禅が核にあると考えられる。
本書は、誤解されやすい南宋禅(噸悟禅)の理解に最適と思われる。禅宗の仏教用語は分かりにくいが、対応するパーリ語を知るともっと易しい表現が可能であることが分かる。例えば、「真如」とはパーリ語の「タタター(あるがまま)」であるなど、禅籍の用語に対応するパーリ語が分かれば、本書の理解は更に増す。
馬祖の語録 禅文化研究所刊 | 入矢義高 | 宗教入門 | Kindleストア 2013,1984
https://www.amazon.co.jp/dp/B00NGFSZ1M/祖堂集 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/祖堂集祖堂集(そどうしゅう)は、五代十国の南唐の静・均の二人の禅僧によって952年(広順2年)に編集された中国禅宗の燈史である。唐代の801年(貞元17年)に成立した洪州宗系統の智矩が編纂した燈史、『宝林伝』の後を受けて編纂されている。編者たちの立場は、青原行思系の一派を、南嶽懐譲系よりも前に置いていることによって、窺い知ることができる。
祖堂集は中国国内で編集されたものの、入蔵されず、高麗に持ち込まれて、1245年(淳祐5年)に高麗大蔵経の附録として刊行されたため、20世紀初頭に発見されるまでその存在は知られていなかった。
内容の特徴として、朝鮮半島出身の禅僧の伝記を数多く含むほか、1004年(景徳元年)に編集された『景徳傳燈録』には含まれない独自の問答を収録するなど、未入蔵で伝世したものではあるが、その内容に関しては非常に貴重な禅宗史書である。
版本
- 『祖堂集』(禅文化研究所) 油印本
- 『祖堂集』(新文豊出版公司)
- 『祖堂集』(中州古籍出版社)
- 『祖堂集索引』上中下(京都大学人文科学研究所)
- 『祖堂集索引』(禅文化研究所)
現代語訳
外部リンク
高橋新吉全集 3 | |
著者名等 | 高橋新吉/著 ≪再検索≫ |
出版者 | 青土社 |
出版年 | 1982.5 |
大きさ等 | 23cm 556p |
注記 | 著者の肖像あり 限定版 |
NDC分類 | 918.68 |
内容 | 内容:深奥山方広寺. 奥山の半僧坊. 参禅記. 座禅修業. 臘八接心. 紫山老師 . 足利紫山百寿の祝い. 父親となって. 人生記録. 大応国師六百五十年遠忌. 大燈国師像. 禾山和尚. カトリックと禅. 禅の本. 私は知らぬ. 科学と仏教. 禅の現代化. 短歌と現代詩. 正岡子規と禅. 華厳経. 憲道老師の遷化. 柴山 老師の遷化. 一株の花. 仏教の復活. 真言と禅. 禅の効能. 禅と念仏. 禅と 金沢. 道元禅師の生涯-その思想と行実. 興禅護国論. 如浄禅師語録. 景徳伝燈 録. 碧巌の詩. 達磨大師. 馬祖道一. 趙州和尚. 徳山宣鑒. 雪峯義存. 以 心伝心. 大般若経. 「息だけになれ」という教え. 文字禅. 私と禅. 武士道と 禅. 因果応報. 山岡鉄舟. 六十華巌. 金剛経. 雲門文偃. 不伝の伝. 師子 比丘. 白隠禅師. ランボーと禅. 眦婆尸仏の偈. 破頭道信. 法融禅師と慧忠国 師. 法融禅師の偈. 不立文字. 空海の仏教. 大応国師. 雲居禅師. 誠拙周樗 . 晦巌和尚. 禾山和尚のこと. 禾山の詩. 禾山の墨蹟.ほか21篇. 解題 一 柳喜久子著 |
書誌番号 | 3-0190103214 |
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