http://www.freeassociations.org/
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_11.html
SUZUKI Daisetz 鈴木大拙 NHK婦人の時間 聞き手犬養道子
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/suzuki-daisetz-nhk.html
NAMs出版プロジェクト: The Sutras(禅インド関連サブインデックス)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/the-sutras.htmlFROM THE CHINESE ZEN MASTERS(禅中国関連サブインデックス)
FROM THE JAPANESE ZEN MASTERS(禅日本関連サブインデックス)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/from-japanese-zen-masters.html
Manual of Zen Buddhism Index
http://www.sacred-texts.com/bud/mzb/index.htm
鈴木大拙の言う即非の論理は、スピノザの言う規定は否定である、と同じだ。
まとまった邦訳がないので、人類の知的遺産『ダルマ』、中公バックス『禅語録』、『禅の語録16』など複数の邦訳に頼るしかない。今のところ観音経1:11と大応国師関連5:1,2はネットで調べても詳細が不明。
(禅中国関連サブインデックス)FROM THE CHINESE ZEN MASTERS
NAMs出版プロジェクト: 景徳伝灯録 The Transmission of the Lamp 1004年(二入四行論 or 菩提達磨四行論)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_37.htmlNAMs出版プロジェクト: 二入四行論 - 菩提達磨 禅の歴史
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_67.html
【人類の知的遺産16『ダルマ』134~149頁に鈴木大拙が引用した部分の邦訳と解説がある。】
NAMs出版プロジェクト: 慧能 六祖壇経
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_98.html信心銘(僧燦)ON BELIEVING IN MIND by Seng-ts'an (J: Sosan)
証道歌(永嘉大師)YOKA DAISHI'S "SONG OF ENLIGHTENMENT"
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_6.htmlNAMs出版プロジェクト: Baso (Ma-tsu) and Sekito (Shih-tou) 馬祖道一と石頭希遷 景徳伝灯録
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/v-baso-ma-tsu-and-sekito-shih-tou-two.htmlNAMs出版プロジェクト: 大正新脩大蔵経(諸宗部)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_9.html
禅の語録〈16〉信心銘・証道歌・十牛図・坐禅儀 (1974年)
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J9AY2G/FROM THE JAPANESE ZEN MASTERS(禅日本関連サブインデックス)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/from-japanese-zen-masters.html
NAMs出版プロジェクト: 大応国師(1235-1309)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_42.html
NAMs出版プロジェクト: 大燈国師(1282-1338)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_15.html
NAMs出版プロジェクト: 関山国師(1277-1361)「無相大師遺誡」
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_88.html
NAMs出版プロジェクト: 夢窓疎石(1275-1351)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_29.html
NAMs出版プロジェクト: 白隠(1686-1769) 隻手音声
Amazon.co.jp: お経/曹洞宗 壇信徒勤行: (指導)大本山永平寺維那・大本山総持寺維那: デジタルミュージック
https://www.amazon.co.jp/dp/B0045PNTC2/お経/真言宗豊山派 壇信徒勤行: (指導)真言宗豊山派宗務所: デジタルミュージック
https://www.amazon.co.jp/dp/B0045PHWYI/お経/臨済宗 檀信徒勤行: (指導)花園大学法儀研究室: デジタルミュージック
https://www.amazon.co.jp/dp/B0045OXXKG/僧サン - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/僧サン
禅の法系図:
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年 祖師
┃
慧可大祖 487~593年
┃
僧璨(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃))禅宗の第三祖
┃
(2代略)
┃
慧能大観 638~713年 六祖
┏━━┳┻━━━━━━━━━━━━┓
青原行思 永嘉玄覚 南獄懐譲
┃ ┃
石頭希遷 馬祖道一 709~788年
┏━┻━┓ ┏━━┻━━━━━┓
┃ (中略) ┃ 南泉普願 748~834年
(以下略)┃ 百丈懐運 ┃
┃ ┣━━━━┓ 趙州従諗
龍潭 黄檗希運 潙山霊祐771~853年
┃ ┃ ┣━━━━━┓
徳山宣鑑780~865年 臨済義玄 香厳智閑 仰山
┃ ?~867年 ?~898年
雪峯 ┃
┣━━━━━━━┓ (12、3代略)
玄沙835~908年 雲門 ┃
廓庵禅師 12c?
(曹洞宗)(法眼宗) (雲門宗)(臨済宗) (潙仰宗)
(影山純夫『禅画を読む』126頁他参照)
禅の法系図:
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年 祖師
┃
慧可大祖 487~593年
┃
僧璨(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃))禅宗の第三祖
┃
(2代略)
┃
慧能大観 638~713年 六祖
┏━━┳┻━━━┓
青原行思 永嘉玄覚 南獄懐譲
┃ ┃
石頭希遷 馬祖道一 709~788年
┃ ┏━━┻━━━━━┓
(以下略) ┃ 南泉普願 748~834年
百丈懐運 ┃
┣━━━━┓ 趙州従諗
黄檗希運 潙山霊祐
┃ ┃771~853年
臨済義玄 香厳智閑
?~867年 ?~898年
┃
(12、3代略)
┃
廓庵禅師 12c?
(曹洞宗) (臨済宗)
影山純夫『禅画を読む』126頁他参照
Manual of Zen Buddhism Index
経典(開経偈・般若心経・観音経・金剛経・坐禅和讃等) : 臨済・黄檗 禅の公式サイト
http://www.rinnou.net/cont_01/kyouten.html臨済宗檀信徒経典|書籍|臨済宗大本山 妙心寺公式ショップ
http://www.myoshinji-shop.jp/fs/myoshinji/42330NAMs出版プロジェクト: 景徳伝灯録 The Transmission of the Lamp 1004年
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_37.htmlNAMs出版プロジェクト: 二入四行論 - 菩提達磨 禅の歴史
信心銘(僧燦)ON BELIEVING IN MIND by Seng-ts'an (J: Sosan)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_70.htmlNAMs出版プロジェクト: 慧能 六祖壇経
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_98.html証道歌(永嘉大師)YOKA DAISHI'S "SONG OF ENLIGHTENMENT"
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_6.html永嘉玄覚 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/永嘉玄覚NAMs出版プロジェクト: 景徳伝灯録 The Transmission of the Lamp 1004年(再掲)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_37.htmlNAMs出版プロジェクト: 『伝心法要』直指人心、見性成佛
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_64.html禅の法系図:
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年 祖師
┃
慧可大祖 487~593年
┃
僧璨(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃))禅宗の第三祖
┃
(2代略)
┃
慧能大観 638~713年 六祖
┏━━┳┻━━━┓
青原行思 永嘉玄覚 南獄懐譲
┃ ┃
石頭希遷 馬祖道一 709~788年
┏━┻━┓ ┏━━┻━━━━━┓
┃ (中略) ┃ 南泉普願 748~834年
(以下略)┃ 百丈懐運 ┃
┃ ┣━━━━┓ 趙州従諗
龍潭 黄檗希運 潙山霊祐771~853年
┃ ┃ ┣━━━━━┳━━┓
徳山 臨済義玄 香厳智閑 仰山 *徳山宣鑑780~865年
* ?~867年 ?~898年 ┃
(以下略)┃ 雪峯
(12、3代略) ┣━━━━━━━━┓
┃ 玄沙835~908年 雲門
廓庵禅師 12c?
(曹洞宗) (臨済宗) (潙仰宗)(法眼宗) (雲門宗)
(影山純夫『禅画を読む』126頁他参照)
徳山宣鑑 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/徳山宣鑑
徳山 宣鑑(とくざん せんがん、780年 - 865年)は、中国唐代の禅僧。 俗姓は周氏、剣南(四川省)の出身である。
後、石頭宗の天皇道悟の法嗣である龍潭崇信に師事し、その嗣法となり、30年間にわたって、その門下で修禅した。その後、潙山霊祐らに参禅した。
(本来龍潭の系譜だが上の図では潙山霊祐の系譜に置いた。本来なら曹洞宗に近い。)
鎌倉仏教 | 地球環境問題情報2016
http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress014/宗教・社寺・寺院/鎌倉仏教/
http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress014/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%83%BB%E7%A4%
BE%E5%AF%BA%E3%83%BB%E5%AF%BA%E9%99%A2/%E9%8E%8C%E5%80%89%E4%BB
禅の法系図:
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年 祖師
┃
慧可大祖 487~593年
┃
僧璨(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃))禅宗の第三祖
┃
(2代略)
┃
慧能大観 638~713年 六祖
┏━━┳┻━━━┓
青原行思 永嘉玄覚 南獄懐譲
┃ ┃
石頭希遷 馬祖道一 709~788年
┃ ┏━━┻━━━━━┓
(以下略) ┃ 南泉普願 748~834年
百丈懐運 ┃
┣━━━━┓ 趙州従諗
黄檗希運 潙山霊祐771~853年
┃ ┣━━━━━━━━┓
臨済義玄 香厳智閑 徳山宣鑑780~865年
?~867年 ?~898年 ┃
┃ 雪峯
(12、3代略) ┃
┃ 玄沙835~908年
廓庵禅師 12c?
(曹洞宗) (臨済宗)
(影山純夫『禅画を読む』126頁他参照)
僧サン - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/僧サン
僧璨(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃))禅宗の第三祖
徳山宣鑑 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/徳山宣鑑
徳山 宣鑑(とくざん せんがん、780年 - 865年)は、中国唐代の禅僧。 俗姓は周氏、剣南(四川省)の出身である。
後、石頭宗の天皇道悟の法嗣である龍潭崇信に師事し、その嗣法となり、30年間にわたって、その門下で修禅した。その後、潙山霊祐らに参禅した。
(本来龍潭の系譜だが上の図では潙山霊祐の系譜に置いた)
玄沙師備 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/玄沙師備鎌倉仏教 | 地球環境問題情報2016
http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress014/宗教・社寺・寺院/鎌倉仏教/
http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress014/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%83%BB%E7%A4%
BE%E5%AF%BA%E3%83%BB%E5%AF%BA%E9%99%A2/%E9%8E%8C%E5%80%89%E4%BB
禅の系譜:
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年
┃
慧可大祖 487~593年
┃
僧璨(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃))禅宗の第三祖
┃
(2代略)
┃
慧能大観 638~713年 六祖
┏━━━┻━━━┳━━━━━┓
青原行思 南獄懐譲 永嘉玄覚(ようか げんかく、665年 - 713年)
┃ ┃
石頭希遷 馬祖道一 709~788年
┃ ┏━━┻━━━━━┓
(以下略) ┃ 南泉普願 748~834年
百丈懐運 ┃
┣━━━━┓ 趙州従諗
黄檗希運 潙山霊祐
┃ ┃771~853年
臨済義玄 香厳智閑
?~867年 ?~898年
(曹洞宗) (臨済宗)
影山純夫『禅画を読む』126頁他参照
南嶽懐譲(なんがく えじょう、677年(儀鳳2年) - 744年(天宝)3載)は、唐代の中国の禅 僧。諡は大慧禅師。 公案[編集]. 懐譲は始めは五祖弘忍の法嗣、嵩山の慧安の元で 修行していたが、慧安は懐譲の人となりを見て六祖慧能の元で修行するように指示を出 ...
開経偈 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/開経偈
開経偈(かいきょうげ)とは、仏教各宗で法要や勤行などの際経典を読む(読経)にはいる前に読まれる偈である。開経文と呼ぶこともある。
一般的に読まれる開経偈
漢文
無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)
百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)
願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)
読み下し文
無上甚深微妙の法は
百千万にも遭い遇うこと難し
我今見聞し受持することを得たり
願わくは如来の真実義を解し奉らん
The Dharma incomparably profound and exquisite
Is rarely met with, even in hundreds of thousands of millions of kalpas;
We are now permitted to see it, to listen to it, to accept and hold it;
May we truly understand the meaning of the Tathagata's words!
通泉草禪思集: 秋聞《懺悔偈》
http://mazusfaurei.blogspot.jp/2014/10/blog-post_26.html懺悔偈 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/懺悔偈I take refuge in the Buddha;
I take refuge in the Dharma;
I take refuge in the Sangha.
I take refuge in the Buddha, the incomparably honoured one;
I take refuge in the Dharma, honourable for its purity;
I take refuge in the Sangha, honourable for its harmonious life.
I have finished taking refuge in the Buddha;
I have finished taking refuge in the Dharma;
I have finished taking refuge in the Sangha.
三帰依文(さんきえもん)
人身(にんじん)受(う)け難(がた)し、いますでに受(う)く。仏法(ぶっぽう)聞(き)き難(がた)し、いますでに聞(き)く。此(こ)の身(み)今生(こんじょう)において度(ど)せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身(み)を度(ど)せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至(し)心(しん)に三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し奉(たてまつ)るべし。
ーー
自(みずか)ら仏(ぶつ[ほとけ])に帰依(きえ)したてまつる。まさに願(ねが)わくは衆(しゅ)生(じょう) とともに、大道(だいどう)を体解(たいげ)して、無上(むじょう)意(い)を発(おこ)さん。
自(みずか)ら法(ほう)に帰依(きえ)したてまつる。まさに願(ねが)わくは衆(しゅ)生(じょう) とともに、深(ふか)く経蔵(きょうぞう)に入(い)りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくな らん。
自(みずか)ら僧(そう)に帰依(きえ)したてまつる。まさに願(ねが)わくは衆(しゅ)生(じょう) とともに、大衆(だいしゅう)を統理(とうり)して、一切(いっさい)無碍(むげ)ならん。
ーー
無上(むじょう)甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法(ほう)は、百千万(ひゃくせんまん)劫(ごう)にも遭遇(あいお)うこと難(かた)し。我(われ)いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得(え)たり。願(ねが)わくは如来(にょらい)の真実(しんじつ)義(ぎ)を解(げ)したてまつらん。
「三帰依(きえ)文(もん)」現代語訳(ごやく)
この世に人として身を受けることは、私の思いをはるかにこえたことであるにもかかわらず、私は今すでにここにこの身を受けておりました。 出遇(であ)い難(がた)い仏法(ぶっぽう)に、はからずも今、私は出遇うことができました。ここに生きている私が、今、救われなければ、いったいいつになったら救われるというのでありましょうか。だからこそ、今、あらゆる人々と共に私の全てを尽(つ)くして、心から仏(ぶっ)・法(ぽう)・僧(そう)の三宝を尊(とうと)び、それを依(よ)りどころとして生きていきたいと願わずにはいられません。
・私は、仏(ぶつ)(ブッダ)を尊び、それを依(よ)りどころとして生きていきます。
それは、あらゆる人々と共に、真実の法を明らかにされた正しい仏の道をこの身にうなずき、人間を成就(じょうじゅ)する大いなる心がおこることを願うからにほかなりません。
・私は、法(ほう)(ダルマ)に目覚(めざ)めて、それを依りどころとして生きていきます。 それは、あらゆる人々と共に、真実の教えを深く求め、あたかも海のように深く限りない智慧(ちえ)をいたたせくことを願うからにほかなりません。
・私は、僧(そう)(サンガ)を敬(うやま)い、それを依りどころとして生きていきます。 それは、あらゆる人々と共に、仏法によって生きる平等で自由な集(つど)い(世界)が開かれることを願うからにほかなりません。
この上もなく奥深く尊い真実の法は、どれだけ長い時間をかけても出遇うことは大変むずかしいものです。そうであるのに、私は今、その真実の法に出遇うことができ、その真実の法を依りどころとして生きる身となることができました。ここに、聞法(もんぽう)の生活を通して、本当にの身に生きてはたらく阿弥陀如来の真実を、私のいのちの中に明らかにしていきたいと願っています。 (真宗大谷派宗務所『真宗門徒の生活』より)
帰依 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/帰依
三帰依文
三宝に帰依した後は以下の文章を毎日3回唱えて仏法僧への誓いを新たにし、御仏や諸尊、加えて御先祖様の加護を祈るようにする。
南無帰依仏
南無帰依法
南無帰依僧
また、『華厳経』浄行品第7にある、以下の経文を「三帰礼拝文」とし、日本の伝統宗派では唱えながら礼拝する場合もある。
自帰於仏 当願衆生 体解大道 発無上意
自帰於法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
自帰於僧 当願衆生 統理大衆 一切無碍
真宗大谷派では、開経偈と併せて以下のように唱える。
人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自から僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。
我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
■四弘誓願は仏教を信ずる者として、まず誓うべき四つの基本的な誓いです。
■独自のものがあれば、これに足してゆくことになります。
1.衆生無辺誓願度しゅじょうむへんせいがんど たくさんの人が幸せになれるように勤める。
2.煩悩無尽誓願断ぼんのうむじんせいがんだん 尽きる事のない煩悩を無くす。
3.法門無量誓願学ほうもんむりょうせいがんがく 壮大なお釈迦様の教えをすべて学ぶ。
4.仏道無上誓願成ぶつどうむじょうせいがんじょう 最上の悟りを得て仏様と同レベルに達する。
However innumerable beings are, I vow to save them;
However inexhaustible the passions are, I vow to extinguish them;
However immeasurable the Dharmas are, I vow to master them;
However incomparable the Buddha-truth is, I vow to attain it.
[1. These vows are recited after every service.]
NAMs出版プロジェクト: 慧能 六祖壇経
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_98.html舎利礼文 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/舎利礼文舎利礼文(しゃりらいもん)は大乗仏教の経典の1つ。僅か72字の本文に大乗仏教の主旨が説かれているとされ、釈迦の遺骨(仏舎利)を礼拝する内容から始まる。一部の宗派を除き一般に葬儀・枕経・回向用の読誦経典の1つとして用いられているが、特に、曹洞宗では開祖(高祖)道元の火葬の際に読誦されたことから重要視されている。作者は不明であるが不空金剛が伝えたとも、釈道安が作ったともいわれている。
遺骨の礼拝を通して釈迦の本質や法、世界全体を礼拝し、如来と一体となって悟りを得、神仏の力によって人々を救済し、悟ろうとする心で菩薩行を修めれば、涅槃にいたり大智が完成される。
We prostrate ourselves in all humbleness before the holy Sarira representing the body of Sakyamuni, the Tathagata, who is perfectly endowed with all the virtues, who has the Dharmakaya as the ground of his being, and Dharmadhatu as the stupa dedicated to him.
To him we pay our respect with due deference. Manifesting himself in a bodily form for our sakes, the Buddha enters into us and makes us enter into him.
His power being added to us, we attain Enlightenment; and [again] dependent on the Buddha's miraculous power,
all beings are benefited, become desirous for Enlightenment, discipline themselves in the life of the Bodhisattva,
and equally enter into perfect quietude where prevails infinite wisdom of absolute identity. We now prostrate ourselves before him.
諸悪莫作 七仏通戒の偈 白楽天 善悪
http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa/peag118.htm 諸悪莫作 しょ あく まく さ 悪いことをしょうと思うても、できない 良いことを、せずにはおられない そのような生き方の中で、自然と心が浄まっていく これが仏教の生き方である |
「諸悪莫作 衆善奉行 自淨其意 是諸仏教」(法句経) 「しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう」 諸々の悪をなすことなく、衆々の善を奉行し、 自らのこころを浄める、これ諸仏の教えなり。 これは有名な七仏通戒の偈という教えです。 仏教は仏の教えであるとともに、仏となるための教えであります。それでは仏となるためにはどうすればよいのかと問われれば、ためらうことなく、 悪いことをしてはいけない 善いことをしなさい そして自分の心を浄めなさい これが諸仏の教えである ということにつきる、その意味は簡単明瞭であり、その教えるところに対してだれも異存はない。しかしそれを実践するとなると、これは何とまた難しいことであるか。 この教えを実践するということは、自らが日々心して努力する、修行の力によって自分を変えることであります、すなはち、 もろもろの悪はなされず もろもろの善はなされ 自らその心を浄くする これが諸仏の教えである そしてさらなる自分自身の日常の修行によって、莫作の力量(修行の力量、はたらき)が現れて、さらにすばらしい生き方ができるようになる 悪いことをしょうと思うも、することができない 良いことを、せずにはおられない そのような生き方の中で、自然と心が浄まっていく これが仏教の生き方である 道元禅師は、唐の白楽天の故事を引いて、「正法眼蔵 諸悪莫作」の巻のむすびとしておられる。 白楽天が道林禅師に参禅した、ある時、「仏法の大意とはどういうものでしょうか」と問うた、道林は「諸悪莫作 衆善奉行」と答えた。 白楽天は「そんなことなら、三歳の童子でもそう言うでしょう」というと、道林禅師は「たとえ三歳の童子が言い得ても、八十歳の老翁も実践することはむつかしい」と答えたので、白楽天は礼拝して去った。 |
七仏通誡偈 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/七仏通誡偈七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)は、仏教で釈迦以前に存在したとされる6人の仏と、釈迦を含む7人の仏(過去七仏)が共通して説いた教えを一つにまとめたとされている偈であり、『法句経』などに収録されている。 上座部仏教及び禅宗に於いて特に重んぜられ、禅宗では日常の読経にも取り入れられている。一休宗純による「諸悪莫作・衆善奉行」と大書した掛け軸が有名である他、道元は「正法眼蔵」#31で「諸悪莫作」の巻を設けてこの教えについて詳細に述べている。
(「衆善奉行」は漢語訳によっては「諸善奉行」とすることもある。)
中国唐の詩人・白居易は禅を好み、禅僧・鳥窠道林(鳥窠和尚)に「仏教の真髄とは何か」と問うたところ、この偈の前半を示された。白居易は「こんなことは3歳の子供でもわかるではないか」といったが、道林に「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人でもできないだろう」とたしなめられたため、謝ったという。
これは史実ではないが、道元もこの逸話について論じており、「わかる」と「できる」とは全く異なるということを示した逸話として有名である。
Not to commit evils,
But to do all that is good,
And to keep one's thought pure--
This is the teaching of all the Buddhas.
All composite things are impermanent,
They are subject to birth and death;
Put an end to birth and death,
And there is a blissful tranquillity.
[1. For the sake of the second half of this gatha the Buddha is said to have been willing to sacrifice his own life. For this reason this is also known as the "gatha of sacrifice".]
無常偈について - 住職のひとりごと
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/779d4443dd02ab6870245112e6473d24『延命十句観音経』-真言宗のお経(在家勤行式解説)-真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺
http://www.horakuji.hello-net.info/BuddhaSasana/Vajrayana/zaike/enmeikyo.htm原文
観世音 [かんぜおん] 南無仏 [なむぶつ]
与仏有因 [よぶつういん] 与仏有縁 [よぶつうえん]
仏法僧縁 [ぶっぽうそうえん] 常楽我浄 [じょうらくがじょう]
朝念観世音 [ちょうねんかぜおん] 暮念観世音 [ぼねんかんぜおん]
念念従心起 [ねんねんじゅうしんき] 念念不離心 [ねんねんふりしん]
読み下し文
観世音 南無仏
仏と因あり 仏と縁あり
仏法僧と縁[えにし]て 常・楽・我・浄(を得ん)
朝に観世音を念じ 暮に観世音を念じ
念念に心より起こせば 念念に心を離れず
現代語訳
観世音菩薩よ、仏陀に帰依します。
仏陀(が仏陀となったこと)にも原因があり、仏陀(が仏陀となったこと)にも条件がある。
(よって私も)仏・法・僧との縁によって、常・楽・我・浄(という大いなる平安の境地、仏陀の悟り)に達しよう。
朝に観世音菩薩を念じる。夕に観世音菩薩を念じる。
この念は心から生起するものであり、この念は心から離れるものではない。
延命十句観音経の世界
http://www.nenjudo.co.jp/page/jukku.html
口語訳
観音様。
私は観音様を信じ観音様にすべてをおまかせします。
私は仏にさせていただく因と縁をいただいております。
仏の教えを信じまた教えをもとめていく人々と
めぐりあえるおかげで、
常・楽・我・浄の観音様の四徳が私の
身にいただけますように。
わたしは、朝な朝な、夕べ夕べに観世音を念じます。
この一念は私の心からではなく、
私の心中に秘められている
仏の心の願いでございます。
観世音菩薩浄楽我浄の四徳とは?
常徳 : 無常の世の中を生きていくのに無常を大切にしていくとやがては
不安のなくなる平常心が具わる。
楽徳 : 苦の世の中を生きるには、苦をよく噛みしめていくと苦からいろいろ
教わり苦が苦痛でなくなる。
我徳 : 自分ひとりの力で生きるのではないさまざまな縁に助けられ支え
られて生かされ、
また、他を生かしていくと言う自利他利のはたらき。
常徳 : 苦だ、楽だと分け隔てをしない。
浄だ不浄だと選り好みをしない平等の智慧と慈悲
[Adoration to] Kwanzeon!
Adoration to the Buddha!
To the Buddha we are related
In terms of cause and effect.
Depending on the Buddha, the Dharma, and the Sangha,
[Nirvana is possible which is] eternal, ever-blessed, autonomous, and free from defilements.
Every morning our thoughts are on Kwanzeon,
Every evening our thoughts are on Kwanzeon.
Every thought issues from the Mind,
Every thought is not separated from the Mind.
[1. Yemmei means "Prolonging life"; when one daily recites this short document in ten clauses relating to Kwannon, one's health is assured for doing good not only for oneself but for the whole world.]
開甘露門(施餓鬼 文) : itou1953のblog
http://blog.livedoor.jp/itou1953/archives/12271197.html若人欲了知三世一切仏 (若 (も) し、 「三世」 に 亙 (わた) り 「一切仏」 を 了知したいのであれば) 応観法界性 (応 (マサ) に 「法界の性」 〔五色幕、赤〕 から内観し、至高の白にまで至れ) 一切唯心造 (ただ 『心』 (父神) だけが 背後のもの自体 『実質霊』 かつ 『造り主』 と知れ) 南無十方仏。 南無十方法。 南無十方僧。 ( = 【 南無 毘盧遮那如来 (大日如来) 】 ) 南無本師釈迦牟尼仏 南無大慈大悲救苦観世音菩薩 南無啓教 【阿難尊者】 |
南無薩婆 咃哆伽多 嚩慮枳帝 唵 (如来 (タターガタ) が観察した 【天地一切のもの】 に 帰依し奉る。オウム。)
三摩囉 三摩囉 吽 (あまねく集い給えあまねく集い給え フーン)
南無蘇嚕婆耶 多咃伽多耶 多姪咃 唵 (色身如来に帰依し奉る。例えば以下の如し。オウム。)
蘇嚕 蘇嚕婆耶 蘇嚕婆耶 蘇嚕 娑婆訶 (依止せよ (進み出でよ) 。 依止せよ (進み出でよ) 。)
(よく依止せよ (進み出でよ) 。 よく依止せよ (進み出でよ) 。 スヴァーハー。)
南無三曼多没駄喃 梵 (一切の 【真理に目覚めた人】 に帰依し奉る。 ヴァン。)
南無宝勝如来 南無多宝如来 【南無 妙色身 (妙心身) 如来】 南無広博身如来 南無離怖畏如来
南無甘露王如来 南無阿弥陀如来 南無阿弥陀婆耶 (阿弥陀如来に帰依し奉る。阿弥陀仏に帰依し奉る)
哆咃伽多耶 哆膩耶哆 (如来に祈る、 咒 ( しゅ、 じゅ ) を説いて言えば。)
阿弥唎 都婆毘 阿弥唎哆 悉耽婆毘 (甘露より発生するものよ。 甘露の成就より発生するものよ。)
阿弥唎哆 毘伽蘭帝 阿弥唎哆 毘伽蘭哆 (甘露にして勝利する者 よ、甘露と勝利によって行くもの よ。)
伽弥膩 伽伽那 枳哆伽唎 娑婆訶 ( 【 虚空蔵菩薩】 の名誉、 所作をなす ものよ、 スヴァーハー。)
神呪加持浄飲食 普施恒沙衆鬼神 (神呪を加持し 浄き飲食を 普く 恒沙 (ガンガー) 衆の鬼神に施す。) 願 皆 飽満 捨慳心 悉 脱幽冥 生善道 (皆 飽満して 慳貪の心を捨てんことを願う。 ことごとく 幽冥を脱して 善道に生きよ。) 帰依三宝発菩提 究竟得成無上覚 (三宝 〔仏法僧〕 に帰依し菩提を発心せよ。 無上 正等覚を得よ。) 功徳無辺尽未来 一切衆生同法食 (功徳 無辺。未来を尽くす。 一切衆生は同じ 【法食】 を得ている。) (ホオズキ) 汝等鬼神衆 我今施汝供 (汝ら鬼神衆よ。 我は今汝に供養を施す。) 此食遍十方一切鬼神供 (此の食 (アーハーラ) は、 あまねく 十方の、一切の鬼神に供える。) 以此修行衆善根 報答父母劬労徳 (此修行 ・ 衆生の善根 を以て、父母の苦労の徳に報い答えん。) 存者福楽寿無窮 亡者離苦生安養 (存命の者は福楽寿命 窮まり無く、 故人は苦を離れて 安楽なれ。) 四恩三有諸含識 ( 《父母 ・ 衆生 ・ 国王 〔あるいは 国土〕 ・ 三宝 〔父神 毘盧遮那仏〕 》 の四恩、 ) ( 《欲有 ・ 色有 ・ 無色有》 の三有 および 諸々の含識 (八識) 。) 三途八難苦衆生 ( 《地獄 ・ 餓鬼 ・ 畜生》 の三途、 ) ( 《地獄 ・ 餓鬼 ・ 畜生 ・ 長寿天 ・ 聾盲 ・ 世智弁聡 ・ 仏前仏後》 の八難が衆生を苦しめる。) 倶蒙悔過洗瑕疵 尽出輪廻生浄土 (暗く、くやまれる過失 とともに キズを洗い、 輪廻のウズ巻き から 出で尽くし 浄土に生まれる。) 願以此功徳 普及於一切 我等 与衆生 皆共成仏道 (大いなる願。 此の功徳、普く一切に及ぼし、 我らと衆生と皆な共に仏道を成ずる事を、である。) 十方三世一切 諸仏 諸尊菩薩 摩訶薩 摩訶般若波羅蜜 ( = 『摩訶般若』 大いなる知恵、 の 確立) |
【施餓鬼(開甘露門)】 全文 若人欲了知 三世一切佛 応観法界性 一切唯心造。 南無十方佛 南無十方法 南無十方僧。 〔アウム、 オウム、 ( GOD アイ アム) 南無毘盧遮那如来〕
南無本師釈迦牟尼佛 南無大慈大悲救苦観世音菩薩 南無啓教阿難尊者。 (なむさぼ ととぎゃと ぼりょきちい えん さんもら さんもら きん なむすりょぼや ととぎゃとや) 南無薩婆 咃哆伽多 嚩慮枳帝 唵 三摩囉 三摩囉 吽。 南無蘇嚕婆耶 多咃伽多耶 (とじと えん すりょ すりょぼや すりょぼや すりょ そもこ なむさまんだ ほどなんばん) 多姪咃 唵 蘇嚕 蘇嚕婆耶 蘇嚕婆耶 蘇嚕 娑婆訶 南無三曼哆 没駄喃梵。 南無宝勝如来 南無多宝如来 【南無 妙心身 (妙色身) 如来】 南無広博身如来 南無離怖畏如来 南無甘露王如来 南無阿弥陀如来。 南無阿弥陀婆耶。 (ととぎゃとや とにやと おみり つぼみ おみりと したぼみ) 哆咃伽多耶 哆膩耶哆 阿弥唎 都婆毘 阿弥唎哆 悉耽婆毘 (おみりと びぎゃらち おみりと びぎゃらと ぎゃみに ぎゃぎゃの しとぎゃり そもこ) 阿弥唎哆 毘伽蘭帝 阿弥唎哆 毘伽蘭哆 伽弥膩 伽伽那 枳哆伽唎 娑婆訶。 神呪加持浄飲食 普施 河沙 衆鬼神 願皆飽満 捨慳心 悉脱幽冥 生善道。帰依三宝 発菩提 究竟得成 無上覚 功徳無辺 尽未来 一切衆生 同 法食。 汝等鬼神衆 我今 施 汝供 此食 遍十方 一切鬼神倶。 以此修行 衆善根 報答 父母 劬労徳 存者 福楽 寿無窮 亡者 離苦 生安養。 四恩三有 諸含識 三途八難 苦 衆生 倶蒙 悔過 洗瑕疵 尽出輪回 生浄土。
願以此功徳 普及 於一切 我等 与衆生 皆共 成佛道。 十方三世 一切諸佛 諸尊 菩薩摩訶薩 摩訶般若 波羅蜜。 |
If one wishes to know all the Buddhas of the past, present, and future, one should contemplate the nature of this Dharmadhatu essentially as the creation of Absolute Mind.
Adoration to the Buddhas in the ten quarters;
Adoration to the Dharma pervading the ten quarters; Adoration to the Sangha in the ten quarters;
Adoration to Sakyamuni the Buddha who is our Master; Adoration to Kwanzeon the Bodhisattva, who is the great compassionate and pitying one, ready to save beings from afflictions;
Adoration to Ananda the Arhat who is the expounder of the Teaching.
Namu sabo totogyato boryakite, yen!
Sammola sammola, un!
Namu suryoboya totogyatoya tojito, yen!
Suryo suryo boya suryo boya suryo, somoko!
Namu samanda motonan, ban![1]
Adoration to Hoshin[2] the Tathagata;
Adoration to Taho[3] the Tathagata;
Adoration to Myoshishin[4] the Tathagata;
Adoration to Kohashin[5] the Tathagata;
Adoration to Rifui[6] the Tathagata;
Adoration to Kanroo[7] the Tathagata;
Adoration to Omito[8] the Tathagata.
Namu omitoboya totogyatoya,
Toniyato,
Omiritsubomi,
Omirito,
Shitabomi,
Omirito bigyaratei,
Omirito bigyarato gyamini,
Gyagyano shitogyari,
[1. It is difficult to tell how this dharani came to be inserted here. As most dharanis are, it is devoid of sense from the human point of view; but it may not be necessarily so to the hungry ghosts, for whom the prayer is offered.
Can this be restored to the original Sanskrit as follows?
Namah sarva-tathagatavalokite! Om!
Sambala, sambala! Hum!
Namah surupaya tathagataya!
Tadyatha,
Om, suru[paya], surupaya, surupaya, suru[paya], svaha!
Namah samantabuddhanam, vam!
"Be adored! O all the Tathagatas who are regarded [as our protectors]; Om! Provision, provision! Hum! Adored be the Tathagata Beautifully Formed! Namely: Om! To the Beautifully-formed One! To the Beautifully formed One! To the Beautifully-formed One! Hail! Adored be all the Buddhas! Vam!"
2. "Jewel-excelled" (ratnaketu).
3. "Abundant-in-jewel" (prabhutaratna).
4. "Fine-form-body" (surupakaya).
5. "Broad-wide-body" (vipulakaya).
6. "Freed-from-fear" (abhayankara).
7. "Nectar-king" (amritaraja).
8. "Amida" (amitabha).]
Somoko.[1]
By the supernatural power of this Dharani the food and drink is purified, and this we offer to the spiritual beings as numerous as the sands of the Ganga. We pray that they shall all be fully satisfied and abandon their greed; that they shall all leave their abodes of darkness and be born in the blissful paths of existence; and further that taking refuge in the Triple Treasure they shall awaken the desire for supreme enlightenment and finally come to the realization of it. The merit they thus attain is inexhaustible and will continue on to the end of time, making all beings equally share in this Dharma-food.
O you hosts of spiritual beings, we make this offering of food to you all, which we pray will fill the ten quarters and that all beings of your kind will partake of it.
By the practice of this meritorious deed we pray that we repay what we owe to our parents, who have done all they could for our sakes. May those who are still alive continue to enjoy their happy and prosperous lives for ever, while those who are no more with us be released from suffering and born in the land of bliss.
We pray that all sentient beings in the triple world who are recipients of the fourfold benefaction, together with those beings suffering in the three evil paths of existence and tormented with the eight kinds of calamities, may repent of all their sins and be cleansed of all their sores, so that they may all be released from the cycle of transmigration and be born in the land of purity.
We pray to all the Buddhas, all the Bodhisattva-Mahasattvas in the ten quarters, of the past, present, and future, and to Mahaprajna-paramita, that by virtue of this merit universally prevailing, not only we but all beings shall equally attain Buddhahood.
[1. Namo 'mitabhaya tathagataya! Tadyatha, amritodbhave, amritasiddhe, (?)-bhave, amritavikrante, amrita-vikranta-gamine, gaganakirtikare! Svaha!
"Adored be the Tathagata of Infinite Light! Namely: O Nectar-raising one! O Nectar-perfecting one! [O Nectar-] producing one! O One who makes nectar pervade! O One who makes nectar universally pervade! O One who makes nectar known as widely as space! Hail!"]
Would that the sound of the bell might go beyond our earth,
And be heard even by all the denizens of the darkness outside the Iron Mountains (cakravala) !
Would that, their organ of hearing becoming pure, beings might attain perfect interfusion [of all the senses],
So that every one of them might come finally to the realization of supreme enlightenment![1]
[1. It is customary in the Zen monastery to recite the Kwannongo while striking the big bell, which is done three times a day. The present gatha is recited when the striking is finished. As will be seen below, from Kwannon issues a sound which is heard by those who sincerely believe in his power of releasing them from every form of disaster. Each sound emitted by the bell is the voice of Kwannon calling on us to purify our sense of hearing, whereby a spiritual experience called "interfusion" will finally take place in us. See under the Ryogonkyo[Mahayana Shurangama Sutra 楞厳呪] and the Kwannongyo below.]
google翻訳
仏頂尊勝陀羅尼 - つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉
http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%CA%A9%C4%BA%C2%BA%BE%A1%C2%CB%CD%E5%C6%F4陀羅尼の功能、目出たくこそ覚ゆれ。殊に尊勝陀羅尼を、もし毎日に二十一反誦すれば、極楽に往生し、虚空を鉢として受くとも、信施の消ゆべき由、説かれたり。世、こぞて誦すれば、僧宝殊に頼むべき真言なり。 無住道曉『沙石集』巻9
NAMs出版プロジェクト: 景徳伝灯録 The Transmission of the Lamp 1004年
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_37.html24. Mahaprajnaparamita is a Sanskrit term of the Western country; in T'ang it means "great-wisdom (chih-hui), other-shore reached". This Truth (dharma=fa) is to be lived, it is not to be [merely] pronounced with the mouth. When it is not lived, it is like a phantom, like an apparition. The Dharmakaya of the Yogin is the same as the Buddha.
What is maha? Maha means "great". The capacity of Mind is wide and great, it is like emptiness of space. To sit with a mind emptied makes one fall into emptiness of indifference. Space contains the sun, the moon, stars, constellations, great earth, mountains, and rivers. All grasses and plants, good men and bad men, bad things and good things, Heaven and hell-they are all in empty space. The emptiness of [Self-] nature as it is in all people is just like this.
25. [Self-] nature contains in it all objects; hence it is great. All objects without exception are of Self-nature. Seeing all human beings and non-human beings as they are,
[1. The Tun-huang copy, edited by D. T. Suzuki, 1934. Hui-neng = Yeno, 637-712.]
evil and good, evil things and good things, it abandons them not, nor is it contaminated with them; it is like the emptiness of space. So it is called great, that is, maha. The confused pronounce it with their mouths, the wise live it with their minds. Again, there are people confused [in mind]; they conceive this to be great when they have their minds emptied of thoughts--which is not right. The capacity of Mind is great; when there is no life accompanying it it is small. Do not merely pronounce it with the mouth. Those who fail to discipline themselves to live this life, are not my disciples.
26. What is prajna? Prajna is chih-hui (wisdom). When every thought of yours is not benighted at all times, when you always live chih-hui (=prajna, wisdom), this is called the life of Prajna. When a single thought of yours is benighted, then Prajna ceases to work. When a single thought of yours is of chih, i.e. enlightened, then Prajna is born. Being always benighted in their minds, people yet declare themselves to be living Prajna. Prajna has no shape, no form, it is no other than the essence (hsing) of chih-hui (wisdom).
What is Paramita? This is a Sanskrit term of the Western country. In Yang it means "the other shore reached". When the meaning (artha in Sanskrit) is understood, one is detached from birth and death. When the objective world (visaya) is clung to, there is the rise of birth and death; it is like the waves rising from the water; this is called "this shore". When you are detached from the objective world, there is no birth and death for you; it is like the water constantly running its course: this is "reaching the other shore". Hence Paramita.
The confused pronounce [Prajna] with their mouths; the wise live it in their minds. When it is merely pronounced, there is at that very moment a falsehood; when there is a .falsehood, it is not a reality. When Prajna is lived in every thought of yours, this is known as reality. Those who understand this truth, understand the truth of Prajna and practise the life of Prajna. Those who do not practise it are ordinary people. When you practise and live it in one thought of yours, You are equal to the Buddha.
Good friends, the passions are no other than enlightenment (bodhi). When your antecedent thought is confused yours is an ordinary mind; as soon as your succeeding thought is enlightened, you are a Buddha.
Good friends, Prajnaparamita is the most honoured, the highest, the foremost; it is nowhere abiding, nowhere departing, nowhere coming; all the Buddhas of the past, present, and future issue out of it. By means of Great Wisdom (ta-chih-hui=mahaprajna) that leads to . the other shore (paramita), the five skandhas, the passions, and the innumerable follies are destroyed. When thus disciplined, one is a Buddha, and the three passions [i.e. greed, anger, and folly] will turn into Morality (sila), Meditation (dhyana), and Wisdom (prajna).
27. Good friends, according to my way of understanding this truth, 84,000 wisdoms (chih-hui) are produced from one Prajna. Why? Because there are 84,000 follies. If there were no such innumerable follies, Prajna is eternally abiding, not severed from Self-nature. He who has an insight into this truth is free from thoughts, from recollections, from attachments; in him there is no deceit and falsehood. This is where the essence of Suchness is by itself. When all things are viewed in the light of wisdom (chih-hui=prajna), there is neither attachment nor detachment. This is seeing into one's Nature and attaining the truth of Buddhahood.
28. Good friends, if you wish to enter into the deepest realm of Truth (dharmadhatu), and attain the Prajnasamadhi, you should at once begin to exercise yourselves in the life of Prajnaparamita; you just devote yourselves to the one volume of the Vajracchedika-prajnaparamita Sutra, and you will, seeing into the nature of your being, enter upon the Prajnasamadhi. It should be known that the merit of such a person is immeasurable, as is distinctly praised in the sutras, of which I need not speak in detail.
This Truth of the highest order is taught to people of great intelligence and superior endowments. If people of small intelligence and inferior endowments happen to hear it, no faith would ever be awakened in their minds. Why? It is like a great dragon pouring rains down in torrents over the Jambudipa: cities, towns, villages are all deluged and carried away in the flood, as if they were grass-leaves. But when the rain, however much, falls on the great ocean, there is in it neither an increase nor a decrease.
When people of the Great Vehicle listen to a discourse on the Vajracchedika their minds are opened and there is an intuitive understanding. They know thereby that their own Nature is originally endowed with Prajna-wisdom and that all things are to be viewed in the light of this wisdom (chih-hui) of theirs, and they need not depend upon letters. It is like rain-waters not being reserved in the sky; but the water is drawn up by the dragon-king out of the rivers and oceans, whereby all beings and all plants, sentient and non-sentient, universally share the wet. All the waters flowing together once more are poured into the great ocean, and the ocean accepting all the waters fuses them into one single body of water. It is the same with Prajna-wisdom which is the original Nature of all beings.
29. When people of inferior endowments hear this "abrupt" doctrine here discoursed on, they are like those plants naturally growing small on earth, which, being once soaked by a heavy rain, are all unable to raise themselves up and continue their growth. It is the same with people of inferior endowments. They are endowed with Prajna-wisdom as much as people of great intelligence; there is no distinction. Why is it then that they have no insight even when listening to the Truth? It is due to the heaviness of hindrance caused by false views and to the deep-rootedness of the passions. It is like an overcasting cloud screening the s un; unless it blows hard no rays of light are visible.
There is no greatness or smallness in Prajna-wisdom, but since all beings cherish in themselves confused thoughts, they seek the Buddha by means of external exercises, and are unable to see into their Self-nature. That is why they are known to be people of inferior endowments.
Those beings who, listening to the "Abrupt" doctrine, do not take themselves to external exercises, but reflecting within themselves raise this original Nature all the time to the proper viewing [of the Truth], remain [always Undefiled by] the passions and the innumerable follies; and at that moment they all have an insight [into the Truth]. It is like the great ocean taking in all the rivers, large and small, and merging them into one body of water -'this is seeing into one's own Nature. [He who thus sees into his own Nature] does not abide anywhere inside or outside; he freely comes and departs; he knows how to get rid of attaching thoughts; his passage has no obstructions. When one is able to practise this life, he realizes that there is from the first no difference between [his Self-Nature] and Prajnaparamita.[1]
30. All the sutras and writings, all the letters, the two vehicles Major and Minor, the twelve divisions [of Buddhist literature]-these are all set forth because of the people of the world. Because there is wisdom-nature (chih-hui-hsing), therefore there is the establishment of all these works. If there were no people of the world, no multitudinous objects would ever be in existence. Therefore, we know that all objects rise originally because of the people of the world. All the sutras and writings are said to have their existence because of the people of the world.
The distinction of stupidity and intelligence is only possible among the people of the world. Those who are stupid are inferior people and those who are intelligent are superior people. The confused ask the wise, and the wise discourse for them on the Truth in order to make the stupid enlightened and have an intuitive understanding of it. When the confused are enlightened and have their minds opened, they are not to be distinguished from the people of great intelligence.
Therefore, we know that Buddhas when not enlightened are no other than ordinary beings; when there is one thought of enlightenment, ordinary beings at once turn into Buddhas. Therefore, we know that all multitudinous objects are every
[1. The text has "the Prajnaparamita Sutra" here. But I take it to mean Prajna itself instead of the sutra.]
one of them in one's own mind.[1] Why not, from within one's own mind, at once reveal the original essence of Suchness? Says the Bodhisattvasila Sutra: "My original Self-nature is primarily pure; when my Mind is known and my Nature is seen into I naturally attain the path of Buddhahood." Says the Vimalakirti Sutra: "When you have an instant opening of view you return to your original Mind."
48. The Great Master died on the third day of the eighth month of the second year of Hsien-t'ien (713 C.E.). On the eighth day of the seventh month of this year he had a farewell gathering of his followers as he felt that he was to leave them forever in the following month, and told them to have all the doubts they might have about his teaching once for all settled on this occasion. As he found them weeping in tears he said: "You are all weeping, but for whom are you so sorry? If you are sorry for my not knowing where I am departing to, you are mistaken; for I know where I am going. Indeed, if I did not, I would not part with you. The reason why you are in tears is probably that you do not yourselves know whither I am going. If you did, you would not be weeping so. The Essence of the Dharma knows no birth-and-death, no coming-and-going. Sit down, all of you, and let me give you a gatha with the title, "On the Absolute"[2]
There is nothing true anywhere,
The true is nowhere to be seen;
If you say you see the true,
This seeing is not the true one.[3]
[1. The text has the "body", while the Koshoji edition and the current one have "mind".
2. The title literally reads: "the true-false moving-quiet". "True" stands against "false" and "moving" against "quiet" and as long as there is an opposition of any kind, no true spiritual insight is possible. And this insight does not grow from a quietistic exercise of meditation.
3. That is, the Absolute refuses to divide itself into two: that which sees and that which is seen.]
Where the true is left to itself,
There is nothing false in it, which is Mind itself.
When Mind in itself is not liberated from the false,
There is nothing true, nowhere is the true to be found.
A conscious being alone understands what is meant by "moving";[1]
To those not endowed with consciousness, the moving is unintelligible;
If you exercise yourself in the practice of keeping your mind unmoved, [i.e. in a quietistic meditation],
The immovable you gain is that of one who has no consciousness.
If you are desirous for the truly immovable,
The immovable is in the moving itself,
And this immovable is the [truly] immovable one;
There is no seed of Buddhahood where there is no consciousness.
Mark well how varied are aspects [of the immovable one],
And know that the first reality is immovable;
Only when this insight is attained,
The true working of Suchness is understood.
I advise you, O students of the Truth
To exert yourselves in the proper direction;
Do not in the teaching of the Mahayana
Commit the fault of clinging to the relative knowledge[2] of birth and death.
[1. "Moving" means "dividing" or "limiting". When the absolute moves, a dualistic interpretation of it takes place, which is consciousness.
2. Chih, jnana in Sanskrit, is used in contradistinction to Prajna which is the highest form of knowledge, directly seeing into the Immovable or the Absolute.]
Where there is an all-sided concordance of views
You may talk together regarding the Buddha's teaching;
Where there is really no such concordance,
Keep your hands folded and your joy within yourself.
There is really nothing to argue about in this teaching;
Any arguing is sure to go against the intent of it;
Doctrines given up to confusion and argumentation
Lead by themselves to birth and death.
NAMs出版プロジェクト: 『伝心法要』直指人心、見性成佛
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_64.htmlThe master[1] said to Pai-hsiu:
Buddhas and sentient beings[2] both grow out of One Mind, and there is no other reality than this Mind. It has been in existence since the beginningless past; it knows neither birth nor death; it is neither blue nor yellow; it has neither shape nor form; it is beyond the category of being and non-being; it is not to be measured by age, old or new; it is neither long nor short; it is neither large nor small; for it transcends all limits, words, traces, and opposites. It must be taken just as it is in itself; when an attempt is made on our part to grasp it in our thoughts, it eludes. It is like space whose boundaries are altogether beyond measurement; no concepts are applicable here.
[1. Wobaku Ki-un in Japanese, died 850.
2 One of the first lessons in the understanding of Buddhism is to know what is meant by the Buddha and by sentient beings. This distinction goes on throughout all branches of the Buddhist teaching. The Buddha is an enlightened one who has seen into the reason of existence, while sentient beings are ignorant multitudes confused in mind and full of defilements. The object of Buddhism is to have all sentient beings attain enlightenment like the Buddha. The question is whether they are of the same nature as the latter; for if not they can never be enlightened as he is. The spiritual cleavage between the two being seemingly too wide for passage, it is often doubted whether there is anything in sentient beings that will transform them into Buddhahood. The position of Zen Buddhism is that One Mind pervades all and therefore there is no distinction to be made between the Buddha and sentient beings and that as far as Mind is concerned the two are of one nature. What then is this Mind? Huang-po attempts to solve this question for his disciple Pai-hsiu in these sermons.]
This One Mind only is the Buddha, who is not to be segregated from sentient beings. But because we seek it outwardly in a world of form, the more we seek the further it moves away from us. To make Buddha seek after himself, or to make Mind take hold of itself--this is an impossibility to the end of eternity. We do not realize that as soon as our thoughts cease and all attempts at forming ideas are forgotten the Buddha reveals himself before us.
This Mind is no other than the Buddha, and Buddha is no other than sentient being. When Mind assumes the form of a sentient being, it has suffered no decrease; when it becomes a Buddha, it has not added anything to itself. Even when we speak of the six virtues of perfection (paramitas) and other ten thousand meritorious deeds equal in number to the sands of the Ganges, they are all in the being of Mind itself; they are not something that can be added to it by means of discipline. When conditions' are at work, it is set up; when conditions cease to operate, it remains quiet. Those who have no definite faith in this, that Mind is Buddha and attempt an achievement by means of a discipline attached to form, are giving themselves up to wrong imagination; they deviate from the right path.
This Mind is no other than Buddha; there is no Buddha outside Mind, nor is there any Mind outside Buddha. This Mind is pure and like space has no specific forms [whereby it can be distinguished from other objects]. As soon as you raise a thought and begin to form an idea of it, you ruin the reality itself, because you then attach yourself to form. Since the beginningless past, there is no Buddha who has ever had an attachment to form. If you seek Buddhahood by practising the six virtues of perfection and other ten thousand deeds of merit, this is grading [the attainment of Buddhahood]; but since the begnningless past there is no Buddha whose attainment was so graded. When you get an insight into the One Mind you find there that is no particular reality
[1. Yuan in Chinese and pratyaya in Sanskrit. One of the most significant technical terms in the philosophy of Buddhism.]
[which you can call Mind]. This unattainability is no other than the true Buddha himself.
Buddhas and sentient beings grow out of the One Mind and there are no differences between them. It is like space where there are no complexities, nor is it subject to destruction. It is like the great sun which illumines the four worlds: when it rises, its light pervades all over the world, but space itself gains thereby no illumination. When the sun sets, darkness reigns everywhere, but space itself does not share this darkness. Light and darkness drive each other out and alternately prevail, but space itself is vast emptiness and suffers no vicissitudes.
The same may be said of the Mind that constitutes the essence of Buddha as well as that of sentient being. When you take Buddha for a form of purity, light, and emancipation and sentient beings for a form of defilement, darkness, and transmigration, you will never have the occasion however long [your striving may go on] for attaining enlightenment; for so long as you adhere to this way of understanding, you are attached to form. And in this One Mind there is not a form of particularity to lay your hand on.
That Mind is no other than Buddha is not understood by Buddhists of the present day; and because of their inability of seeing into the Mind as it is, they imagine a mind beside Mind itself and seek Buddha outwardly after a form. This way of disciplining is an error, is not the way of enlightenment.
It is better to make offerings to a spiritual man who is free from mind-attachment' than to make offerings to all
[1. Wu-hsin, or mu-shin in Japanese. The term literally means "no-mind" or "no-thought". It is very difficult to find an English word corresponding to it. "Unconsciousness" approaches it, but the connotation is too psychological. Mu-shin is decidedly an Oriental idea. "To be free from mind-attachment" is somewhat circumlocutionary, but the idea is briefly to denote that state of consciousness in which there is no hankering, conscious or unconscious ' after an ego-substance, or a soul-entity, or a mind as forming the structural unit of our mental life. Buddhism considers this hankering the source of all evils moral and intellectual. It is the disturbing agency not only of an individual life but of social life at large. A special article in one of my Zen Essays will be devoted to the subject.]
the Buddhas in the ten quarters. Why? Because to be free from mind-attachment means to be free from all forms of imagination.
Suchness as it expresses itself inwardly may be likened o wood or rock, it remains there unmoved, unshaken; while outwardly it is like space, nothing is obstructed or checked. Suchness, as it is free both from activity and passivity, knows no orientation, it has no form, there is in it neither gain nor loss. Those who are running [wildly] do not dare enter this path, for they are afraid of falling into an emptiness where there is no foothold to keep them supported. They beat a retreat as they face it. They are as a rule seekers of learning and intellectual understanding. Many are indeed such seekers, like hair, while those who see into the truth are as few as horns.
Manjusri corresponds to li (reason or principle) and Samantabhadra to hsing (life or action). Li is the principle of true emptiness and non-obstruction, hsing is a life of detachment from form, and inexhaustible. Avalokitesvara 'corresponds to perfect love and Sthamaprapta to perfect wisdom. Vimala-kirti means "undefiled name"; undefiled is Essence and name is form. Essence and form are not two different things, hence the name Vimala-kirti ("pure-name"). All that is represented by each one of the great Bodhisattvas is present in each of us, for it is the contents of One Mind. All will be well when we are awakened to the truth.
Buddhists of the present day look outward, instead of inwardly into their own minds. They get themselves attached to forms and to the world--which is the violation of the truth.
To the sands of the Ganges the Buddha refers in this way: these sands are trodden and passed over by all the Buddhas, Bodhisattvas, Sakrendra, and other devas, but the sands are not thereby gladdened; they are again trodden y cattle, sheep, insects, and ants, but they are not thereby incensed; they may hide within themselves all kinds of treasures and scented substances, but they are not covetous; they may be soiled with all kinds of filth and ill-smelling material, but they do not loathe them. A mental attitude Of this nature is that of one who has realized the state of mushin ("being free from mind-attachment").
When a mind is free from all form, it sees into [the fact] that there is no distinction between Buddhas and sentient beings; when once this state of mushin is attained it completes the Buddhist life. If Buddhists are unable to see into the truth of mushin without anything mediating, all their discipline of aeons would not enable them to attain enlightenment. They would ever be in bondage with the notion of discipline and merit as cherished by followers of the Triple Vehicle, they would never achieve emancipation.
In the attainment of this state of mind (mushin), some are quicker than others. There are some who attain to a state of mushin all at once by just listening to a discourse on the Dharma, while there are others who attain to it only after going through all the grades of Bodhisattvaship such as the ten stages of faith, the ten stages of abiding, the ten stages of discipline, and the ten stages of turning-over. More or less time may be required in the attainment of mushin, but once attained it puts an end to all discipline, to all realization and yet there is really nothing attained. It is truth and not falsehood. Whether this mushin is attained in one thought or attained after going through the ten stages its practical working is the same and there is no question of the one being deeper or shallower than the other. Only the one has passed through long ages of hard discipline.
Committing evils or practising goodness-both are the outcome of attachment to form. When evils are committed on account of attachment to form, one has to suffer transmigration; when goodness is practised on account of attachment to form, one has to go through a life of hardships. It is better therefore to see all at once into the essence of the Dharma as you listen to it discoursed.
By the Dharma is meant Mind, for there is no Dharma apart from Mind. Mind is no other than the Dharma, for there is no Mind apart from the Dharma. This Mind in itself is no-mind (mushin), and there is no no-mind either. When no-mind is sought after by a mind, this is making it a particular object of thought. There is only testimony of silence, it goes beyond thinking. Therefore it is said that [the Dharma] cuts off the passage to words and puts an end to all form of mentation.
This Mind is the Source, the Buddha absolutely pure in its nature, and is present in every one of us. All sentient beings however mean and degraded are not in this particular respect different from Buddhas and Bodhisattvas--they are all of one substance. Only because of their imaginations and false discriminations, sentient beings work out their karma and reap its result, while, in their Buddha-essence itself, there is nothing corresponding to it; the Essence is empty and allows everything to pass through, it is quiet and at rest, it is illuminating, it is peaceful and productive of bliss.
When you have within yourself a deep insight into this you immediately realize that all that you need is there in perfection, and in abundance, and nothing is at all wanting in you. You may have most earnestly and diligently disciplined yourself for the past three asamkhyeya kalpas and passed through all the stages of Bodhisattvahood; but when you come to have a realization in one thought, it is no other than this that you are from the first the Buddha himself and no other. The realization has not added anything to you over this truth. When you look back and survey all the disciplinary measures you have gone through, you only find that they have been no more than so many idle doings in a dream. Therefore, it is told by the Tathagata that he had nothing attained when he had enlightenment, and that if he had really something attained, Buddha Dipankara would never have testified to it.
It is told again by the Tathagata that this Dharma is perfectly even and free from irregularities. By Dharma is meant Bodhi. That is, this pure Mind forming the source of all things is perfectly even in all sentient beings, in all the Buddha-lands, and also in all the other worlds together with mountains, oceans, etc., things with form and things without form. They are all even, and there arc no marks of distinction between this object and that. This pure Mind, the Source of all things, is always perfect and illuminating and all-pervading. People are ignorant of this and take what they see or hear or think of or know for Mind itself; and their insight is then veiled and unable to penetrate into the substance itself which is clear and illuminating. When you realize mushin without anything intervening [that is, intuitively], the substance itself is revealed to you. It is like the sun revealing itself in the sky, its illumination penetrates the ten quarters and there is nothing that will interfere with its passage.
For this reason, when followers of Zen fail to go beyond a world of their senses and thoughts, all their doings and movements are of no significance. But when the senses and thoughts are annihilated, all the passages to the Mind are blocked and no entrance then becomes possible. The original Mind is to be recognized along with the working of the senses and thoughts, only it does not belong to them, nor is it independent of them. Do not build up your views on your senses and thoughts, do not carry on your understanding based on the senses and thoughts; but at the same time do not seek the Mind away from your senses and thoughts, do not grasp the Dharma by rejecting your senses and thoughts. When you are neither attached to nor detached from them, when you are neither abiding with nor clinging to them, then you enjoy your perfect unobstructed freedom, then you have your seat of enlightenment.
When people learn that what is transmitted from one Buddha to another is Mind itself, they imagine that there is a particular object known as a mind which they attempt to grasp or to realize; but this is seeking something outside Mind itself, or creating something which does not exist. In reality, Mind alone is. You cannot pursue it by setting up another mind; however long, through hundreds of thousands of kalpas, you are after it, no time will ever come to you when you can say that you have it. Only when you have an immediate awakening to the state of mushin you have your own Mind. It is like the strong man's seeking for his own gem hidden within his forehead: as long as he seeks it outside himself in the ten quarters, he will not come across it; but let the wise once point at it where it lies hidden, and the man instantly perceives his own gem as having been there from the very first.
That followers of Zen fail to recognize the Buddha is due to their not rightly recognizing Where their own Mind is. They seek it outwardly, set up all kinds of exercises which they hope to master by degrees, and themselves work out diligently throughout ages. Yet they fail to reach enlightenment. No works compare with an immediate awakening to a state of mushin itself.
When you come to a most decided understanding to the effect that all things in their nature are without possessions, without attainments, without dependence, without an abiding place, without mutual conditioning, you will become free from cherishing imagination, which is to realize Bodhi. When Bodhi is realized, your own Mind which is Buddha is realized. All the doings of long ages are then found to have been anything but real disciplining. When the strong man recovered his own gem in his own forehead the recovery had nothing to do with all his efforts wasted in his outside research. So says the Buddha, "I have not had anything attained in my attainment of Enlightenment." Being anxious about our not believing this, he refers to the five eyes[1] and the five statements.[2] But it is truth, not falsehood, for it is the first true statement.
[1. The five eyes are: (1) the physical eye, (2) the heavenly eye, (3) the eye of wisdom, (4) the eye of the Dharma, and (5) the eye of the Buddha.
2. In the Diamond Sutra (Vajracchedika), the Buddha makes five statements as regards the truth of his teaching.]
「碧巌録・第88則 《玄沙の三種の病人》」|野狐禅RRPGのブログ
https://ameblo.jp/realroleplaying/entry-11630318436.html【第88則 玄沙接物利生】
垂示に云う、
初心者向けの方便は、どれも決まった型を打ち砕くものである。
道理に深く立ち入って論ずるには、自由自在に動き回れるためのものでなければならない。
相手の核心をずばり突いて、金の錠前とその奥のカンヌキを撃破した上で、法令を守りながら、きれいさっぱりと片付ける。
さて、入り組んだところはどこにあるか?
真理を見抜く目を持つ者は、取り上げてみなさい。
**
【本則】
玄沙が大衆に説法した。
「各地の長老方はみな、衆生を導き、利を与えよと言う。
もし三種の病人が来るのに出会ったら、どう教化したらいいのか?
盲者には、鎚を手にして払子を立てたとしても、彼には見えない。
聾者には、言葉を尽くして論じても、彼には聞こえない。
唖者には、しゃべらせたとしても、彼はしゃべれない。
どのように教化するのか?
もし彼らを教化できないとしたら、仏法には霊験がないことになるぞ」
*
僧は、雲門に教えを乞うた。
雲門が言った、
「礼拝しなさい」。
僧は礼拝して立ち上がった。
雲門は挂杖で突こうとすると、僧は後退した。
雲門が言った、
「お前は、盲者ではない」。
次に雲門は言った、
「近寄りなさい」。
僧が近づくと、雲門が言った、
「お前は、聾者ではない」。
さらに、雲門が言った、
「解ったか?」。
僧が言った、
「解りません」。
すると雲門、
「お前は、唖者ではない」。
僧はここで、はっと悟った。
**
【頌】
盲聾瘖唖、
査絶機宣。
天上天下、
堪笑、堪悲。
離婁不辯正色、
師曠豈識玄糸。
争如独坐虚窓下、
葉落花開自有時。
復云、還会也無、
無孔鉄槌。
*
頌って云う、
盲や聾や唖には、
対応する手段がない。
しかし、天地のあらゆるところで、
盲であっても、盲でないかもしれない。
盲でなくても、盲であるかもしれない。
視力が優れているからといって、正しい色が判別できるわけではない。
張力が優れているからといって、奥深い調べがわかるのだろうか?
音も色も形もない窓辺に一人坐ると、
季節に合わせて、葉が落ちて、花が咲く。
自分とは関係がないけれど、こちらの方がましだ。
雪竇はさらに言う。
「この意味がわかるだろうか? 穴がなくて棒を挿せないハンマーだ」
When gates and courts are established, then there are twos, there are threes, there is a realm of multiplicities; when a deep discourse is carried on on the highest subjects of intuition a world of sevens and eights is thoroughly broken through. In whatever ways views and opinions may be presented, they are crushed to pieces so that the barricades even when they are of golden chains are successfully brushed aside. When orders are given from the highest quarters, all traces are wiped off, leaving nothing whereby trailing is made possible. When do we come across such a koan? Let one who has an eye on the forehead see to it.[2]
Gensha gave the following sermon:
"It is asserted by all the worthy masters of the present time that they are working for the benefit of all beings. [--Each keeps a shop according to his means.--Some are rich and others are poor.]
"This being the case, what will you do if there suddenly appear before you three kinds of invalids? [--By beating up the weeds, we mean to frighten snakes out.--As for me, it makes my eyes open wide and my mouth close.-We all have to beat a retreat even for three thousand 1i.]
"Those who are blind fail to see you even when you
[1. Hsuan-sha, 835-908. The following is a literal translation of Case LXXXVIII of the Pi-yen Chi, which is one of the most important and at the same time the most popular of Zen texts. The words in brackets in the "Illustrative Case" and in Seccho's verse are those of Yengo. As to the nature and composition of the Pi-yen Chi, see my Zen Essays, Series II, p. 237 et seq.
2. The Remark purposes to make the reader abandon his usual relative point of view so that he can reach the absolute ground of all things.]
hold up a mallet or a hossu. [--Blind to the very core.--This is no other than 'benefiting all beings'.--Not necessarily failing to see.]
"Those who are deaf fail to hear you even when you talk volubly enough. [--Deaf to the very core!--This is no other than 'benefiting all beings'.--Not necessarily altogether deaf.--That something is still unheard.]
"Those who are dumb fail to speak out, whatever under. standing they may have inwardly. [--Dumb to the very core!--This is no other than 'benefiting all beings'.--Not necessarily altogether dumb.--That something is still left untold of.]
"What treatment are you going to accord to such people? If you do not know how to go on with them, Buddhism must be said to be lacking in miraculous works." [--Quite true, this world-I am ready to give myself up with my hands folded.--"Benefiting" already accomplished!--"He then struck."]
A monk asked Ummon (Yun-men) to be enlightened. [--It is also important to go about and inquire.--Hit!]
Said Ummon, "You make bows." [--As the wind blows, the grass bends.--Ch'ua!]
When the monk rose from making bows, [--This monk's staff is broken!]
Ummon poked him with a staff, and the monk drew back. Said Ummon, "You are not blind then?" [--Blind to the very core!--Do not say that this monk has a failing eye-sight.]
Ummon now told him to approach, and the monk approached. [--Washed with a second dipperful of dirty water.--Kwan-non is come! To give a "Kwatz!" was better.] Said Ummon, "You are not deaf then?" [--Deaf to the very core!--Do not say that this monk is deaf in his ears.]
Ummon further continued, "Do you understand?" [--Why does he not feed him with the right forage?--Pity that he then uttered a word at all.]
"No, master, I do not," was the reply. [--A double koan!--What a pity!]
Ummon said, "You are not dumb then?" [--Dumb is to the very core!--What eloquence!--Do not say that this monk is dumb.]
The monk now grasped the point. [--Stretching the bow when the burglar is off.--What old bowl is he after?]
Gensha gives this sermon from his standpoint where he is now able to sit, after years of his study of Zen, in absolute nakedness with no trumpery trimmings about him, altogether shorn of imaginations and free from conceptualism. In those days there were many Zen monasteries each of which rivalled the others. Gensha used to give this sermon to his monks:
"It is asserted by all the worthy masters of the present time that they are working for the benefit of all beings. This being the case, what will you do if three kinds of invalids suddenly appear before you here? Those who are blind fail to see you even when you hold up a mallet or a hossu. Those who are deaf fail to hear you even when you may talk volubly enough. Those who are dumb fail to speak out whatever understanding they may have inwardly. What treatment are you going to accord to such people? If you do not know how to go on with them, Buddhism must be said to be lacking in miraculous works."
If people understand him here as merely making reference to the blind, to the deaf, to the dumb, they are vainly groping in the dark. Therefore, it is said that you are not to search for the meaning in the words which kill; you are requested to enter directly into the spirit itself of Gensha, when you will grasp the meaning.
As Gensha ordinarily tested his monks with this statement, a monk who was staying for some time with him one day accosted him when he came up to the Dharma-hall, and asked: "Will you allow me to present my way of reasoning about your sermon on the three invalids?" Gensha said, "Yes, you may go on." Whereupon the monk remarked, "Fare thee well, O master!" and left the room. Gensha said, "Not that, not that." We can see that this monk has fully grasped Gensha.
Later on, Hogen (Fa-yen, died 958) made this statement: "When I listened to Master Jizo (Ti-tsang) making reference is to this monk's remark, I was enabled to understand Gensha's sermon on the three invalids."
I ask you now. "[Here is a puzzle for you, O monks!] If that monk did not understand Gensha, how was it that Hogen made this statement of his? If that monk understood Gensha, why did the latter declare, 'Not that, not that'?"
One day Jizo said to Gensha, "I am told that you have given a sermon on the three invalids, is that so?" Gensha answered, "Yes." Jizo then said, "I have my eyes, cars, nose, and tongue; what treatment would you give me?" Gensha was quite satisfied with this request on the part of Jizo.
When Gensha is understood, you will realize that his spirit is not to be sought in words. You will also see that those who understand make themselves naturally distinguishable from the rest.
Later when a monk came to Ummon (Yun-men, died 949) and asked him about Gensha's sermon, Ummon was ready to demonstrate it in the following way, for he thoroughly understood Gensha. Said Ummon to the monk, "You make bows." When the monk rose from making bows, Ummon poked him with a staff, and the monk drew back. Said Ummon, "You are not blind then?" Ummon now told him to approach, and the monk approached. Said Ummon, "You are not deaf then?" Finally, he said, "Do you understand?" "No, master", being the reply, Ummon remarked, "You are not dumb then?" This made the monk grasp the point.
If this monk of Ummon's had any sort of understanding about Gensha, he would have kicked up the master's chair when he was told to make bows, and no more fussing would have been necessary. In the meantime let me ask you whether Ummon and Gensha both understood the problem in the same way, or not. I tell you that their understanding is directed to one point. That the ancient masters come out among us and make all kinds of contrivance is because they wish to see somebody bite their hook and be caught up. They thus make bitter remarks in order to have us see into the great event of this life.
My own master Goso (Wu-tsu, died 1104) had this to say: "Here is one who can talk well but has no understanding; here is another who understands but is unable to talk about it. When these two present themselves before you, how will you distinguish the one from the other? If you cannot make this discrimination, you cannot expect to free people from their bondage and attachment. But when you can, I will see to it that, as soon as you enter my gate, I put on a pair of sandals and run through the inside of your body several times even before you realize. In case, however, you fail to have an insight in this matter, what is the use of hunting around for an old bowl? Better be gone!"
Do you wish to know what is the ultimate meaning of these complications in regard to the blind, deaf, and dumb? Let us see what Seccho says about it.
Blind, deaf, dumb! [--Even before any word is uttered.--The three sense-organs are perfectly sound.--Already finished is one paragraph!]
Infinitely beyond the reach of imaginative contrivances! [--Where do you wish to hunt for it?--Is there anything here which permits your calculations?--What relationship have they after all?]
Above the heavens and below the heavens! [--Perfectly free is the working of Truth.--Thou hast said!]
How ludicrous! How disheartening! [--What is it that is so ludicrous, so disheartening?--Partly bright and partly dark.]
Li-lou does not know how to discriminate the right colour. [--Blind fellow!--A good craftsman leaves no trace.--Blind to the very core!]
How can Shih-k'uang recognize the mysterious tune? [--Deaf in his ears!--There is no way to appreciate the greatest merit.--Deaf to the very core!]
What life can compare with this?--Sitting alone quietly by the window, [--This is the way to go on.--Do not try to get your livelihood in a cave of ghosts.--Break up all at once this cask of coal tar!]
I observe the leaves fall and the flowers bloom as the seasons come and go. [--What season do you think it is now?--Do not regard this as doing-nothingness.--Today, morning is followed by evening; tomorrow, morning is followed by evening.]
Seccho now remarked: "Do you understand, or not?" [--"Repeated in the gatha."I
An iron bar without a hole! [--Coming up with your own confession!--Too bad that he was released too easily,--"Then he struck."]
"Blind, deaf, dumb!
Infinitely beyond the reach of imaginative contrivances!"
In this, Seccho has swept everything away for you what you see together with what you do not see, what you hear together with what you do not hear, and what you talk about together with what you cannot talk about. All these are completely brushed off, and you attain the life of the blind, deaf, and dumb. Here all your imaginations, contrivances' and calculations are once for all put an end to, they are no more made use of this is where lies the highest point of Zen, this is where we have true blindness, true deafness, and true dumbness, each in its artless and effectless aspect.
"Above the heavens and below the heavens!
How ludicrous! how disheartening!"
Here Seccho lifts up with one hand and with the other puts down. Tell me what he finds to be ludicrous, what he finds to be disheartening. It is ludicrous that this dumb person is not after all dumb, that this deaf one is not after all deaf; it is disheartening that the one who is not at all blind is blind for all that, and that the one who is not at all deaf is deaf for all that.
'Li-lou does not know how to discriminate the right colour."
When he is unable to discriminate between blue and yellow, red and white, he is certainly a blind man. He lived in the reign of the Emperor Huang. He is said to have been able to discern the point of a soft hair at a distance of one hundred steps. His eye-sight was extraordinary. When the Emperor Huang had a pleasure-trip to the River Chih, he dropped his precious jewel in the water and made Li fetch it up. But he failed. The Emperor made Ch'ih-kou search for it, but he also failed to locate it. Later Hsiang-wang was ordered to get it, and he got it. Hence:
"When Hsiang-wang goes down, the precious gem shines most brilliantly;
But where Li-lou walks about, the waves rise even to the sky."
When we come up to these higher spheres, even the eyes of Li-lou are incapacitated to distinguish which is the right colour.
"How can Shih-kuang recognize the mysterious tune?"
Shih-kuang was son of Ching-kuang of Chin in the province of Chiang in the Chou dynasty. His other name was Tzu-yeh. He could thoroughly distinguish the five sounds and the six notes, he could even hear the ants fight on the other side of a hill. When Chin and Ch'u were at war, Shih-kuang could tell, by merely quietly playing on the strings of his lute, that the engagement would surely be unfavourable for Chu. In spite of his extraordinary sensitiveness, Seccho (Hsueh-t'ou) declares that he is unable to recognize the mysterious tune. After all, one who is not at all deaf is really deaf in his ears. The most exquisite note in the higher spheres is indeed beyond the ear of Shih-kuang. Says Seccho: "I am not going to be a Li-lou, nor to be a Shih-kuang, but
"What life can compare with this?--Sitting alone quietly by the window,
I observe the leaves fall, the flowers bloom as the seasons come and go."
When one attains this stage of realization, seeing is no-seeing, hearing is no-hearing, preaching is no-preaching. When hungry one eats, when tired one sleeps. Let the leaves fall, let the flowers bloom as they like. When the leaves fall, I know it is the autumn; when the flowers bloom, I know it is the spring. Each season has its own features.
Having swept everything clean before you, Seccho now opens a passageway, saying: "Do you understand, or not?" He has done all he could for you, he is exhausted, only able to turn about and present to you this iron-bar without a hole. It is a most significant expression. Look and see with your own eyes! If you hesitate, you miss the mark for ever.
Yengo (Yuan-wu, the author of this commentary note) now raised his hossu and said, "Do you see?" He then struck his chair and said, "Do you hear?" Coming down from the chair, he said, "Was anything talked about?"
看脚下(かんきゃっか) | |
『碧巌録』第二二則の頌に「象骨巖高人不到。到者須是弄蛇手。稜師備師不奈何。喪身失命有多少。韶陽知。重撥草。南北東西無處討。忽然突出拄杖杖頭。〓(才尢力)對雪峰大張口。大張口兮同閃電。剔起眉毛還不見。如今藏在乳峰前。來者一一看方便。師高聲喝云。看脚下。」(象骨は巌高くして人到らず、到る者はすべからく是れ蛇を弄する手なるべし。稜師、備師、いかんともせず。喪身失命多少かある。韶陽知って、重ねて草を撥う。南北東西討ぬるに処なし。忽然として拄杖頭を突き出し、雪峰に放対して大いに口を張る。大いに口を張るや閃電に同じ、眉毛を剔起るも還た見えず。如今、蔵して乳峰の前に在り、来る者は一一方便するを看よ。師、高声に喝して云く、脚下を看よ。)とある。象骨(ぞうこつ);福州(福建省)象骨山。『祖庭事苑』に「象骨、即雪峰之別山、以形似而稱。」(象骨、すなわち雪峰の別山、形似るを以って称す。)とある。稜師(りょうし);中国唐五代の禅僧・長慶慧稜(ちょうけいえりょう:854~932)。備師(びし);中国唐五代の禅僧・玄沙師備(げんしゃしび:835~908)。韶陽;雲門のこと。雲門大師が韶州雲門山に住するによる。剔起眉毛(てつきびもう);目を見開くこと。乳峰(にゅうほう);雪竇山のこと。『五燈會元』の五祖法演禪師章に「三佛侍師於一亭上夜話。及歸燈已滅。師於暗中曰。各人下一轉語。佛鑑曰。彩鳳舞丹霄。佛眼曰。鐵蛇橫古路。佛果曰。看脚下。師曰。滅吾宗者。乃克勤爾。」(三仏、師に侍し一亭上に夜話す。帰るに及び灯已滅す。師、暗中に曰く、各人一転語を下せと。仏鑑曰く、彩鳳、丹霄に舞う。仏眼曰く、鉄蛇、古路に横たわる。仏果曰く、脚下を看よ。師曰く、吾宗を滅する者は、すなわち克勤のみ。)とあり、圜悟克勤がその師五祖法演に示したところから特に喧伝されるようになる。三佛;五祖法演の弟子で「五祖下三佛」といわれる、佛果克勤、佛鑑慧懃、佛眼清遠の三人。「演門二勤一遠」ともいう。 | |
南浦紹明 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/南浦紹明幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び、1249年(建長元年)鎌倉建長寺の蘭渓道隆に参禅した。1259年(正元元年)宋に渡って、虚堂智愚の法を継いだ。1267年(文永4年)日本に帰国して建長寺に戻り、その後は1270年(文永7年)筑前国興徳寺、1272年(文永9年)、博多崇福寺の住持をつとめた。1304年(嘉元2年)後宇多上皇の招きにより上洛し万寿寺に入る。1307年(徳治2年)鎌倉に戻り建長寺の住持となったが、1309年(延慶元年)に75歳で死去した。門下には宗峰妙超(大燈国師)、恭翁運良などがいる。
没後の延慶2年(1309年)、後宇多上皇から「円通大応」の国師号が贈られたが、これは日本における禅僧に対する国師号の最初である。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属する。
There is a reality even prior to heaven and earth;
Indeed, it has no form, much less a name;
Eyes fail to see it; It has no voice for ears to detect;
To call it Mind or Buddha violates its nature,
For it then becomes like a visionary flower in the air;
It is not Mind, nor Buddha;
Absolutely quiet, and yet illuminating in a mysterious way,
It allows itself to be perceived only by the clear-eyed.
It is Dharma truly beyond form and sound;
It is Tao having nothing to do with words.
Wishing to entice the blind,
The Buddha has playfully let words escape his golden mouth;
Heaven and earth are ever since filled with entangling briars.
O my good worthy friends gathered here,
If you desire to listen to the thunderous voice of the Dharma,
Exhaust your words, empty your thoughts,
For then you may come to recognize this One Essence.
Says Hui the Brother, "The Buddha's Dharma
Is not to be given up to mere human sentiments."
Those who enter the gate of Buddhism should first of all cherish a firm faith in the dignity and respectability of monkhood, for it is the path leading them away from poverty and humbleness. Its dignity is that of the sonship of the Dharmaraja of the triple world; no princely dignity which extends only over a limited area of the earth compares with it. Its respectability is that of the fatherhood of all sentient beings; no parental respectability belonging Only to the head of a little family group equals it. When the monk finds himself in this position of dignity and respectability, living in the rock-cave of the Dharma where he enjoys the greatest happiness of a spiritual life, under the blissful protection of all the guardian gods of the Triple Treasure, is there any form of happiness that can surpass his?
The shaven head and the dyed garment are the noble symbols of Bodhisattvahood; the temple-buildings with all their ornamental fixtures are the honorific emblems of Buddhist virtue. They have nothing to do with mere decorative effects.
[1. Left to his disciples as his last words when he was about to pass away.]
That the monk, now taking on himself these forms of dignity and respectability, is the recipient of all kinds of offerings from his followers; that he is quietly allowed to pursue his study of the Truth, not troubling himself with worldly labours and occupations-this is indeed due to the loving thoughts of Buddhas and Fathers. If the monk fails in this life to cross the stream of birth-and-death, when does expect to requite all the kindly feelings bestowed upon him by his predecessors? We are ever liable as time goes on miss opportunities; let the monk, therefore, be always on e watch not to pass his days idly.
The one path leading up to the highest peak is the mysterious orthodox line of transmission established by Buddhas and Fathers, and to walk along this road is the essence of appreciating what they have done for us. When the monk fails to discipline himself along this road, he thereby departs from the dignity and respectability of monk-hood, laying himself down in the slums of poverty and misery. As I grow older I feel this to be my greatest regret, and, O monks, I have never been tired day and night of giving you strong admonitions on this point. Now, on the eve of my departure, my heart lingers with you, and my sincerest prayer is that you are never found lacking in the virtue of the monkish dignity and respectability, and that you ever be mindful of what properly belongs to monkhood. Pray, pray, 'be mindful of this, O monks!
This is the motherly advice of Nampo;[1] old monk-mendicant of Kencho Monastery.
吹毛常磨『大燈遺偈』 | 實相寺 公式サイト
http://jissouji.main.jp/info/2011/08/吹毛常磨『大燈遺偈』/…そうした気概溢れる鋭い禅者であった大燈国師が亡くなる時の境地を表現したのが次の遺偈です。
仏祖を裁断し
吹毛常に磨く。
機輪転ずる処
虚空、牙を咬む。
非常に難解で、私のような者が解釈することは不遜でありますので、そのままを味わって頂くのが一番だと思いますが、用語の説明だけしておきます。
仏祖=お釈迦様や歴代の祖師方
裁断=断ち切ること
吹毛=吹毛剣のこと。『碧巌録』100則「巴陵吹毛剣」に出てくる。細く柔らかい兎の毛でも、吹きつけただけで切れてしまうような鋭い刃。
機輪=師家がその禅機を発動して弟子達を導いていく働きに喩える。「輪」はその機用の展開ぶりを車輪の回転になぞらえたもの。『碧巌録』79則頌評唱に出てくる。
虚空、牙を咬む=『臨済録』上堂、『宏智(わんし)広録』四、『虚堂録』六に「虚空に橛(けつ)を釘(う)つ」という言葉がある。糠に釘のこと。「虚空、牙を咬む」も同意か?
大燈国師の遺偈? - 哲学 解決済 | 教えて!goo
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3702623.html
大燈国師の遺偈といわれるものは、
截断仏祖、吹毛常磨。
機輪転処、虚空咬牙。
仏祖を截断して、吹毛常に磨す。
機輪転ずる処、虚空、牙を咬む。
Buddhas and Fathers cut to pieces--
The sword is ever kept sharpened!
Where the wheel turns,
The void gnashes its teeth.
[1. In those monasteries which are connected in some way with the author of this admonition, it is read or rather chanted before a lecture or Teisho begins.]
截断仏祖 吹毛常磨 機輪転処 虚空咬牙|向龍昇人
http://ameblo.jp/commun-2012-kouryu/entry-11997595900.html無相大師遺誡 #1 - web智光院
http://chikoin.com/blog-entry-183.htmlIt was in the Shogen period (1259) that our forefather venerable Dai-o crossed the stormy waves of the great ocean in order to study Zen in Sung. He interviewed Hsu-t'ang (Kido) the great Zen master at Ching-tz'u (Jinzu) and under him Dai-o whole-heartedly devoted himself to the realization of Zen experience. Finally at Ching-shan (Kinzan) he was able to master all the secrets longing to it. For this reason he was praised by his master as "having once more gone over the path", and the prophecy was also given him that his "descendants would ever be increasing." That the rightful lineage of the Yang-ch'i, (Yogi) school was transported to this country of ours is to be ascribed to the merit of our venerable forefather.
Daito, my old venerable teacher, followed the steps of Dai-o who stayed in the western part of the capital; personally attending on him, he was in close contact with the "Master during his residence at Manju in Kyoto and at Kencho in Kamakura. Throughout the many years of attendance Daito never laid himself on a bed for sleep. He reminds us in many respects of the ancient worthies. When finally he mastered Zen, the venerable Dai-o gave him his testimony but ordered him to mature his experience for twenty years in quiet retirement. Surely enough, he proved to be a great successor truly worthy of his illustrious master, Dai-o. He resuscitated Zen which had been in a state of decline; he left an admonition for his followers to be ever mindful of keeping vigorously alive the true spirit of Zen discipline; all this is his merit.
[1. Muso Daishi is the honorific title posthumously given by an Emperor to Kwanzan Kokushi, the founder of Myoshinji, Kyoto, which is one of the most important Zen headquarters in Japan. All the Zen masters of the present day in Japan are his descendants. Some doubt is cherished about the genuineness of this Admonition as penned by Kwanzan himself, on the ground that the Content is too "grandmotherly".]
That in obedience to the august order of his Holiness the Ex-Emperor Hanazono I have come to establish this monastery, is due to the motherly love of my late master who chewed food for his helpless baby. O my followers, you may some day forget me, but if you should forget the loving thoughts of Dai-o and Daito, you are not my descendants. I pray you to strive to grasp the origin of things. Po-yun (Hakuun) was impressed with the great merit of Pai-chang (Hyakjo), and Hu-ch'iu (Kokyu) was touched with the words of warning given by Po-yun (Hakuun). Such are our precedents. You will do well not to commit the fault of picking leaves or of searching for branches, [instead of taking hold of the root itself].
白隠禅師坐禅和讃翻訳
http://koufukuji.yokohama/scripture/12衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
私たちは元来仏である。仏と凡夫の違いは、水と氷のようなもので,
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
氷が溶けたものが水であるように,自我の妄執が融ければ仏である。
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
私たちは自らが仏であることを知らず,それを遠くに求めている。なんと儚いことか。
たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり
ちょうど水の中で、のどの渇きを訴えるようなものである。
長者の家の子となりて 貧里に迷うにことならず
裕福な家を迷い出て、困苦しているようなものである。
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
六悪道を輪廻する原因は,自己への深い妄執と分別心のため,己が己に迷っているからである。
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき
分別に分別をかさね、妄執に妄執をかさねて,いつ迷いの世界を離れるのか。
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
大乗の坐禅のすばらしさは、とても言葉ではあらわせない。
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
布施や持戒などの六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)
其品多き諸善行 皆このうちに帰するなり
念仏,懺悔など善行の根本は、みな坐禅(無心)に帰する。
一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
たった一度の坐禅(無心)の体験で、過去に犯した全ての罪が消え去る。
悪趣何処に有りぬべき 浄土即ち遠からず
六悪道などどこにもない。浄土は今,目前にある。
辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時
この大乗の教えを聴いて、仏の教えに出会えたことを喜び、
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし
その教えに随って生きてゆく人は,多くの福徳を得るであろう。
いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば
いわんや自ら坐禅を行い,無心を体験して自己の本性に気付けば,
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
それは何の実体もない空であるから,もはや、ああこうの分別の世界,
妄執の迷いから遠く離れることができる。
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
仏と自己が本来一体であったという,大乗の門が開けた。それは分別に分かれない真っ直ぐな道である。
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
坐禅によってこの身を空にした,その「無の身」を体とすれば、その行為のすべてが真理を離れない。
無念の念を念として 歌うも舞うも法の声
坐禅によってこの心を空にした「無の心」を心とすれば、その行為はすべて教えの姿,真実の姿となる。
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
世界と自己が一体になった三昧の世界のひろやかさ。
その三昧の大空には仏の智慧の光が、月のように光り輝いている。
此時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
ここに到ってなにを求めるのか,悟りは今・ここ・自分の上に現れている。
当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり
ここが極楽浄土であった。この自分が,仏であった。
Sentient beings are primarily all Buddhas:
It is like ice and water,
Apart from water no ice can exist;
Outside sentient beings, where do we find the Buddhas?
Not knowing how near the Truth is,
People seek it far away,--what a pity!
They are like him who, in the midst of water,
Cries in thirst so imploringly;
They are like the son of a rich man
Who wandered away among the poor.
The reason why we transmigrate through the six worlds
Is because we are lost in the darkness of ignorance;
Going astray further and further in the darkness,
When are we able to get away from birth-and-death?
As regards the Meditation practised in the Mahayana,
We have no words to praise it fully:
The virtues of perfection such as charity, morality, etc.,
And the invocation of the Buddha's name, confession, and ascetic discipline,
And many other good deeds of merit,--
All these issue from the practice of Meditation;
Even those who have practised it just for one sitting
Will see all their evil karma wiped clean;
Nowhere will they find the evil paths,
But the Pure Land will be near at hand.
With a reverential heart, let them to this Truth
Listen even for once,
And let them praise it, and gladly embrace it,
And they will surely be blessed most infinitely.
For such as, reflecting within themselves,
Testify to the truth of Self-nature,
To the truth that Self-nature is no-nature,
They have really gone beyond the ken of sophistry.
For them opens the gate of the oneness of cause and effect,
And straight runs the path of non-duality and non-trinity.
Abiding with the not-particular which is in particulars,
Whether going or returning, they remain for ever unmoved;
Taking hold of the not-thought which lies in thoughts,
In every act of theirs they hear the voice of the truth.
How boundless the sky of Samadhi unfettered!
How transparent the perfect moon-light of the fourfold Wisdom!
At that moment what do they lack?
As the Truth eternally calm reveals itself to them,
This very earth is the Lotus Land of Purity,
And this body is the body of the Buddha.
NAMs出版プロジェクト: 大正新脩大蔵経(諸宗部)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_9.html
諸宗部 (大正蔵) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/諸宗部_(大正蔵)諸宗部 (五) 第48巻 - No.2001-2025
日常語に生きる禅の言葉
http://kozu5.la.coocan.jp/zuisou/09.01.24.zen.htm
投機(トウキ)
・ 「投機」は経済用語として知られるが、これはもともと禅語であった。
・ そのことはどの経済用語辞典にも書かれていないが、経済用語としての「投機」は、「Speculation=<予想、展望>」が
訳されて生まれたもので、その意味では、明治以降にしか使われていない。
・ 禅語としての「投機」は、人対人の関係において、それ以前から用いられている。
・ 「挨拶」と似て、「機」に「投げ入れる」=「弟子の眼を覚まさせる」という意味がある。
・ 「機」にはさまざまな意味があるが、「心のはたらき」や「能力」を指す。何かのはずみで、たとえば仏の教えに触れる
ことによって、心のはたらきの可能性が作用する。そういう素質が人には本来備わっている。それを「機」という。
・ 「機」にも能力の差があり、教えを聞いて必ず悟りを得る者、そうでない者、どちらとも決定しがたい者があるので、
「教えを聞く人」、「修行者」或いは「弟子」という意味にもなる。
・ 禅宗では、弟子の機と師の機が相投じて冥合(ミョウゴウ)することを「投機」という。
・ 心のはたらきは千変万化でとらえどころがない。経済学が借用した「投機」の意味は、このへんのところを採ったので
あろうが、当時の学者(訳者)は禅語の「投機」を知っていたものと思われる。
____
大正蔵(大正新脩大蔵経)の読み方
「大正蔵31巻p60b07-08」は大正蔵の31巻、p60、上・中・下段(=a・b・c段)、7-8行目
大正新脩大蔵経テキストデータベース
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/
→SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2015版 (SAT 2015)
「唯識三十論頌」の該当項目の探し方
(1)画面左上のキーワード検索から「唯識三十論頌」を検索
→唯識三十論頌 (1586) 0060a17-0060a17: 唯識三十論頌 [show] (1 match)
→ [show] をクリック
(2)画面左のディレクトリから辿る
→「中觀部・瑜伽部」
→「中觀部・瑜伽部 Vol. 31」
→「唯識三十論頌:1586 (世親造 玄奘譯)」
→「0060b07〜0060b08」
本文をカーソルで選択すると、フローティングウィンドウに、英訳、日訳が表示される。
32 Comments:
捨身の行為 - ひろしのスピリチャル交流会 - Yahoo!ブログ
blogs.yahoo.co.jp/hiroshi006iwama/13709752.html
2017年3月28日 ... エックハルトの離脱 · 兎の自己犠牲物語> ... この出処の経典は『金光明経』第四の「 捨身品」で、もろもろの衆生を救済するために、薩埵王子が「わが身の血肉を」捧げようと 、自ら進んで虎 ... 金光経の他にも、法華経や涅槃経にも同じ光景が記されており、これ を題材とした図がパキスタン、西域、敦煌、朝鮮半島などに存在すること ...
光明 - やっしーの休憩室
tsukinoshizuku2012.weebly.com/2080926126.html
しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採って来る事が出来なかったので、老人を助け たいという思いから、自らの身を食料として捧げようと、焚き火の中に飛び込みました。 この様子を見 ... 他の命の犠牲の上に、自分の命が成り立っているということです。 .... 読者自らにイエスの言葉を「解釈」するよう求めており、自身の解釈によって本来の自己 を「認識・覚知」(グノーシス)するための道が示されています。 .... 仏性」とは、人間に、も とから備わっている仏になる種を言い、『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理です。
パンニャーサ・ジャータカに説かれる捨身の目的 - 名古屋大学 (Adobe PDF)
ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/.../1/哲学59_2_畝部.pdf
自己犠牲(self-sacrifice)、または、本邦でよく知られた用語を以て言い換えるならば、「 捨身(施. 身)」(自分自身 ... 499)やウサギ本生(JA no. 316)のように自分 ... 大乗の 菩薩は声聞や独覚の境地に堕ちることなく一切知の獲得へ向かうとする、般若経類に見 . られる定型的な ..... せ、正法の船を満たして、正しき涅槃を人々に得しむるのです。」( 12).
仏教哲学の基本 - 長保寺
www.chohoji.or.jp/houwa/tetugaku.htm
仏教では、涅槃経で「一切衆生悉有仏性」と言い切って、つまり生きとし生けるもの すべて、いつかは仏となると断言している これが、お釈迦様の遺言 ... 無気力無意味でも 、仏となる過程ということになる 努力とか忍耐とか頑張りや自己犠牲など、してもしなくて も、仏となるという結末に変わりはない ...... 鹿 春日大社・鹿島神宮・厳島神社 兎 住吉 大社 猿 日吉大社・春日大社 烏 熊野三山・諏訪大社・日吉大社 鳩 八幡宮
菩薩成仏論 と捨 身二 譚 (Adobe PDF)
ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=en&type=pdf...
光明経』. も 『涅槃経』. もその 後 の 我が 国で 最 も流行 した 大乗経典 の 双璧 と見做 し. うるほ どの もの で あ る こ と と、 その 流行 を支 えた ... ドに お ける 捨身譚の 代表 的な. もの として 本稿 で も取 り上 げ る 、. シ ビ 王 の. 「捨 身救鴿(3 ). 」 と兎 の. 「捨 身救仙 」. と ...... や 「自己犠牲」. に 解釈 され る場合 も少 な くな い 〔48 >が 、. 私 自身は 話の 本質. を異っ. た方向に 解釈 す る こ と を充分 な手続 さえ踏 め ば む しろ ...
捨身の行為 - ひろしのスピリチャル交流会 - Yahoo!ブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/hiroshi006iwama/13709752.html?__ysp=5raF5qeD57WMIOiHquW3seeKoOeJsiDlhY4%3D
釈尊が菩薩であった時の前世物語(ジャータカ:本生譚 ( ほん生たん ))の一つ摩訶薩埵 ( まかざつた )本生のクライマックスを描いたものに「捨身飼 ( しゃしんいく )虎 ( こ )」の図があります。この出処の経典は『金光明経』第四の「捨身品」で、もろもろの衆生を救済するために、薩埵王子が「わが身の血肉を」捧げようと、自ら進んで虎の親子のいる崖の下に飛び込んだストーリーを描いたものです。これを題材とする聖徳太子の一連の前世物語があります。それが前世の太子が、竹林を彷徨する飢えた虎の親子に身を捧げる姿(国宝「玉虫 ( たまむしの )厨子 ( ずし )」)として法隆寺に残されています。周囲を唐草模様の透かし彫りの装飾金具の下にタマムシの羽が敷き詰められているものです。
「捨身」とは、他の生物、または仏を供養するためにわが身を投げ出す布施行為であり、布施の中でも最上のものとされています。金光経の他にも、法華経や涅槃経にも同じ光景が記されており、これを題材とした図がパキスタン、西域、敦煌、朝鮮半島などに存在することから、捨身思想がこれらの地域及び聖徳太子に持たれていたことがわかります。飢えた虎とは、大衆の救いを求める乾いた心を象徴的に描いたものであり、大乗仏教の、広く大衆を救おうとする精神を表わしたものです。
このように、自らの身を捧げるという放棄の行為は、至高の大悲の行為として理解されるのですね。
国立国会図書館デジタルコレクション - 禅への道 : 禅のことば
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禅への道 : 禅のことば
目次・巻号
書誌情報
操作方法
目次・巻号
↓ 禅への道 : 禅のことば [125]
・ 禅への道-目次-
・ まえがき
・ 1 心について〈信心銘より〉/p9
・ 作者・内容/p9
・ 信心銘原文(抄)/p12
・ 心について/p13
・ 2 悟りについて〈証道歌より〉/p27
・ 作者・内容/p27
・ 証道歌原文(抄)/p30
・ 悟りについて/p31
・ 3 差別即ち平等について〈参同契より〉/p59
・ 作者・内容/p59
・ 参同契原文/p63
・ 差別即ち平等について/p64
・ 4 無について〈無門関より〉/p85
・ 作者・内容/p85
・ 無門関原文(抄)/p87
・ 無について/p88
・ 5 食事の心得について〈五観・三匙の偈より〉/p117
・ 作者・内容/p117
・ 五観・三匙の偈原文/p120
・ 食事の心得について/p121
・ 6 風性について〈正法眼蔵より〉/p143
・ 作者・内容/p143
・ 正法眼蔵原文(抄)/p150
・ 風性について/p151
・ 7 誡めについて〈大応国師禅誡より〉/p167
・ 作者・内容/p167
・ 大応国師禅誡原文/p171
・ 誡めについて/p172
・ 8 修行の心がまえについて〈大燈国師遺誡より〉/p191
・ 作者・内容/p191
・ 大燈国師遺誡原文/p194
・ 修行の心がまえについて/p195
・ 9 弟子について〈夢想国師遺誡より〉/p209
・ 作者・内容/p209
・ 夢想国師遺誡原文/p221
・ 弟子について/p222
Manual of Zen Buddhism Index
http://www.sacred-texts.com/bud/mzb/index.htm
Manual of Zen Buddhism by D.T. Suzuki | Philosophy | Kindleストア 2007
https://www.amazon.co.jp/Manual-Zen-Buddhism-D-T-Suzuki-ebook/dp/B005012OWG/
introduction入門(1934),training生活(1934),manual便覧(1935),
鈴木大拙による英語版禅仏教入門三部作のうち、最後のマニュアルはアンソロジー。
鈴木大拙の単独の著作としての邦訳はない。もっと安価な電子版もあるし、
無料でも閲覧出来る。上のkindleバージョンの目次が見やすかった。
以下別々の邦訳情報をまとめてみた(作業中)。
CONTENTS
EDITOR’S NOTE AUTHOR’S PREFACE
I. GATHAS AND PRAYERS 偈頌と祈祷
1. On Opening the Sutra 開経偈
2. Confession 懺悔偈
3. The Threefold Refuge 三帰依文
4. The Four Great Vows 四弘誓願
5. The Worshipping of the Sarira 舎利礼文
6. The Teaching of the Seven Buddhas 七仏通誡偈(法句経#183)
7. The Gatha of Impermanence 『涅槃経』の中の無常偈
8. The Yemmei Kwannon Ten-Clause Sutra 延命十句観音経
9. Prayer on the Occasion of Feeding the Hungry Ghosts 施餓鬼
10. General Prayer 楞厳呪 真言
11. Prayer of the Bell 観音経
II. THE DHARANIS
1. Dharani of Removing Disasters 消災呪
2. Dharani of the Great Compassionate One 大悲心陀羅尼
3. Dharani of the Victorious Buddha-Crown 仏頂尊勝陀羅尼
III. THE SUTRAS
1. The Prajnaparamita-hridaya-sutra, or Shingyo (complete) 般若心経
2. The Kwannongyo, or “Samantamukha Parivarta” (complete) 観音経
3. The Kongokyo, or Vajracchedika (the first half and extracts from the second half) 金剛経
4. The Lankavatara Sutra, or Ryogakyo (extracts) 楞伽経
5. The Ryogonkyo, or Surangama Sutra (résumé) 楞厳経
IV. FROM THE CHINESE ZEN MASTERS
1. Bodhidharma on the Twofold Entrance to the Tao 景徳伝灯録(二入四行論、菩提達磨四行論)
2. The Third Patriarch on “Believing in Mind” 三祖僧燦の信心銘
3. From Hui-neng’s Tan-ching 慧能 六祖壇経より
4. Yoka Daishi’s “Song of Enlightenment” 永嘉大師 証道歌
5. Baso (Ma-tsu) and Sekito (Shih-tou) 馬祖道一と石頭希遷 景徳伝灯録
6. Obaku’s (Huang-po) Sermon from “Treatise on the Essentials of the Transmission of Mind” 黄檗希運 伝心法要#1
7. Gensha on the Three Invalids (from the Hekiganshu or Pi-yen Chi) 玄沙の三種の病人 碧巌録#88
8. The Ten Oxherding Pictures, I The Ten Oxherding Pictures, II 十牛図 廓庵と普明(図版は普明版)
V. FROM THE JAPANESE ZEN MASTERS
1. Daio Kokushi on Zen 大応国師禅誡
2. Daio Kokushi’s Admonition 大応国師示衆
3. Daito Kokushi’s Admonition and Last Poem 大燈国師遺偈
4. Kwanzan Kokushi’s Admonition 関山国師(無相大師)遺誡
5. Muso Kokushi’s Admonition 夢窓国師遺戒
6. Hakuin’s “Song of Meditation” 白隠禅師坐禅和讃
VI. THE BUDDHIST STATUES AND PICTURES IN A ZEN MONASTERY 禅堂における仏教徒の彫像と絵画
Buddhas 仏
Bodhisattvas 菩薩
Arhats 阿羅漢
Protecting Gods 守護神
Historical Figures 肖像彫刻
INDEX 索引
第1章は以下と大部分が重なる。
経典(開経偈・般若心経・観音経・金剛経・坐禅和讃等)
http://www.rinnou.net/cont_01/kyouten.html
あるいは、
臨済宗檀信徒経典
http://www.myoshinji-shop.jp/fs/myoshinji/42330
Manual of Zen Buddhism Index
http://www.sacred-texts.com/bud/mzb/index.htm
Manual of Zen Buddhism by D.T. Suzuki | Philosophy | Kindleストア 2007
https://www.amazon.co.jp/Manual-Zen-Buddhism-D-T-Suzuki-ebook/dp/B005012OWG/
introduction入門(1934),training生活(1934),manual便覧(1935),
鈴木大拙による英語版禅仏教入門三部作のうち、最後のマニュアルはアンソロジー。
鈴木大拙の単独の著作としての邦訳はない。
CONTENTS
EDITOR’S NOTE AUTHOR’S PREFACE
I. GATHAS AND PRAYERS 偈頌と祈祷
1. On Opening the Sutra 開経偈
2. Confession 懺悔偈
3. The Threefold Refuge 三帰依文
4. The Four Great Vows 四弘誓願
5. The Worshipping of the Sarira 舎利礼文
6. The Teaching of the Seven Buddhas 七仏通誡偈(法句経#183)
7. The Gatha of Impermanence 『涅槃経』の中の無常偈
8. The Yemmei Kwannon Ten-Clause Sutra 延命十句観音経
9. Prayer on the Occasion of Feeding the Hungry Ghosts 施餓鬼
10. General Prayer 楞厳呪 真言
11. Prayer of the Bell 観音経
II. THE DHARANIS
1. Dharani of Removing Disasters 消災呪
2. Dharani of the Great Compassionate One 大悲心陀羅尼
3. Dharani of the Victorious Buddha-Crown 仏頂尊勝陀羅尼
III. THE SUTRAS
1. The Prajnaparamita-hridaya-sutra, or Shingyo (complete) 般若心経
2. The Kwannongyo, or “Samantamukha Parivarta” (complete) 観音経
3. The Kongokyo, or Vajracchedika (the first half and extracts from the second half) 金剛経
4. The Lankavatara Sutra, or Ryogakyo (extracts) 楞伽経
5. The Ryogonkyo, or Surangama Sutra (résumé) 楞厳経
IV. FROM THE CHINESE ZEN MASTERS
1. Bodhidharma on the Twofold Entrance to the Tao 景徳伝灯録(二入四行論、菩提達磨四行論)
2. The Third Patriarch on “Believing in Mind” 三祖僧燦の信心銘
3. From Hui-neng’s Tan-ching 慧能 六祖壇経より
4. Yoka Daishi’s “Song of Enlightenment” 永嘉大師 証道歌
5. Baso (Ma-tsu) and Sekito (Shih-tou) 馬祖道一と石頭希遷 景徳伝灯録
6. Obaku’s (Huang-po) Sermon from “Treatise on the Essentials of the Transmission of Mind” 黄檗希運 伝心法要#1
7. Gensha on the Three Invalids (from the Hekiganshu or Pi-yen Chi) 玄沙の三種の病人 碧巌録#88
8. The Ten Oxherding Pictures, I The Ten Oxherding Pictures, II 十牛図 廓庵と普明(図版は普明版)
V. FROM THE JAPANESE ZEN MASTERS
1. Daio Kokushi on Zen 大応国師禅誡
2. Daio Kokushi’s Admonition 大応国師示衆
3. Daito Kokushi’s Admonition and Last Poem 大燈国師遺偈
4. Kwanzan Kokushi’s Admonition 関山国師(無相大師)遺誡
5. Muso Kokushi’s Admonition 夢窓国師遺戒
6. Hakuin’s “Song of Meditation” 白隠禅師坐禅和讃
VI. THE BUDDHIST STATUES AND PICTURES IN A ZEN MONASTERY 禅堂における仏教徒の彫像と絵画
Buddhas 仏
Bodhisattvas 菩薩
Arhats 阿羅漢
Protecting Gods 守護神
Historical Figures 肖像彫刻
INDEX 索引
不立文字
ページの問題点
不立文字(ふりゅうもんじ)は、禅宗の教義を表す言葉で、文字や言葉による教義の伝達のほかに、体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味。
目次
概要 編集
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の語句の始めに当たり、「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する」という意味となり、禅の根本を示すものとして知られる。
禅は定(じょう)とも呼び、インドで古くからある精神修行の方法で、それが仏教に取り入れられたものである[1]が、「不立文字」は、禅宗の開祖として知られるインドの達磨(ボーディダルマ)の言葉として伝わっており、「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない」という戒めである。唐代の中国の禅僧である慧能は特にこれを強調し、慧能を祖のひとつと考える南宗禅によって禅の真髄として重視された。 こんにちでも禅においては、中心経典を立てず、教外別伝[注釈 1]を原則としている。
仏教の悟りにおいて重要な姿勢は、仏心を持って智慧を学ばなければ悟りに至らないという考え方。
脚注 編集
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注釈 編集
^ 人格を相伝すること。禅においては、文字や言葉を残す以外にも、禅師の全人格をそのまま弟子に伝えることが重要であるとされる。
出典 編集
^ 村上(1981)p.92
参考文献 編集
村上重良『日本の宗教』岩波書店、1981年3月。ISBN 4005000274
関連項目 編集
禅
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鈴木大拙と英語 « 国際文化学科
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鈴木大拙と英語
川畑 松晴
鈴木大拙
鈴木大拙という名前を聞いたことがあるだろうか。最近、地元の北國新聞が彼の没後40年を記念した企画「禅ZEN 鈴木大拙没後40年」を連載しているので、それで知った人もいるかもしれない。(これは、アメリカやヨーロッパで直接取材も行っているなかなか意欲的な記事である。バックナンバーも含めて、ぜひ読んでみてほしい。)
空前絶後の「世界の禅者」
この見出しはあながち誇張ではない。「不立文字 (ふりゅうもんじ)No dependence on words and letters (言葉や文字で伝えることはできない)」と称し、「悟り体験(experiencing satori-awakening)」によってのみ感得されるという禅は、大拙によって初めて本格的に西洋に紹介された。英語という言葉を通じて。
「世界の禅者」鈴木大拙は、明治3(1870)年、金沢市本多町の生まれ。彼が、本格的に世界に向けて、禅、そして日本(と東洋)の精神について講演行脚をするようになったのは、太平洋戦争で日本が無条件降伏をしてからである。時に75歳。現在の長寿社会でもとっくに定年期を過ぎている。それまでも仏教や禅に関する訳書や著作を出版し、アメリカ在住12年の経歴はあったが、敗戦後の彼の世界へ向けての活動は目覚ましい。とくに80歳からは連続9年、アメリカやヨーロッパの大学および国際会議に直接足を運び、講演活動を続けている。仏教、とくに禅の世界的な広がりを促がした功績において、大拙の右に出る者はいまい。また、これから出ることもないのではないか。95歳という高齢で静かな死を迎える直前まで「達者」に講演や著作を続けた大拙、そして、禅の本場である日本に生まれながら、「達者」な英語で多くの著作・講演を続けた大拙は、まさに稀有の「行動する禅学者」と言えよう。筆者は、二つの「達者」のどちらにも興味を惹かれるが、本論は後者の英語に絞って紹介したい。
英語教師としての大拙
貞太郎(大拙は禅の修業者として20代後半に与えられた名称=居士)は英語教師としてまず出発した。18歳の時に奥能登の飯田尋常小学校(現在の珠洲市飯田町)高等科の英語助手を約半年間つとめ、ついで翌年には美川尋常小学校(現在の白山市美川町)高等科訓導(現在の教諭)になっている。美川には丸2年いたようである。18歳から3年間本県で英語の教師をしていたことになるが、明治3年に生まれた彼は、どのような教育を受け、どのように学んだのであろうか。
明治期の英語
意外な事実を披露しよう。この時期の日本人にはすばらしい英語の使い手が輩出している。福沢諭吉、新渡戸稲造、岡倉天心、野口英世、夏目漱石等など。お札の顔写真で馴染みの人物が多い。本県出身者では、高峰譲吉((医学・薬学者)、木村栄(天文学者)が自然科学者ではあるが、英語を苦にせず世界的名声を獲得した。哲学者、西田幾多郎も金沢の旧制第四高等学校で一時期ドイツ語を教えている。彼らはどのようにして、英語やドイツ語を習得したのだろうか。
独学に近い英語学習
それぞれの素質、地域の教育事情の違いはあろうが、貞太郎の場合は独学に近いといわれる。彼は明治9年、5歳半で小学校に入学した。そして、12歳で石川県専門学校付属初等中等学校に入学し、この専門学校が改称した旧制第四高等学校は1年半の在籍で中退している。これが、18歳の年である。この間に英語の基礎を習得しているはずだが、どのように教えられそして学んだか、詳しいことは分かっていない。明治新政府の近代化政策の下、英語は西洋文明を摂取する重要な科目とみなされたので、小学校の高学年で少しは取り入れられ、中等学校では専門科目の一部も英語で教えたようである。が、なにしろ明治初期の、地方都市金沢のことである。加賀百万石の威光の下「天下の書府」といわれた金沢には「お雇い外国人」教師も数名いたが、貞太郎が彼等から学校や塾で英語の特別な手ほどきを受けたという記録は残っていない。ただ、彼は町医者の家に4人兄弟の末弟として生まれ、教育熱心な父の下で幼い頃から兄たちを真似て暗誦をしたり、文字を読んだり(もちろん日本語)したそうである。また、父の書架にはオランダ語や英語の書物もあったらしい。想像するに、未熟な日本人英語教師から習ったわずかの文法や語彙の知識と、粗末な辞書を頼りに、貴重な英書を一人であるいは仲間と読み続けたのだろうか。 鋭く、豊かな想像/創造力なしでは不可能な勉学である。
東京でも英語は独習
とにかく、父の死後、家が没落し、わずかの授業料が払えないため18歳で旧制高校を中途退学し、すぐ上述のように英語教師となった。その後、学問への抑えがたい情熱から上京し、東京専門学校(早稲田大学の前身)、東京帝国大学に入学するが、いずれも半年間、1年間でやめている。学校で学ぶよりも、臨済宗の本山・円覚寺(鎌倉)での参禅に没頭したためである。二つの学校で高名な教師から英語を習ったが、いずれもあまり感銘を受けなかったというエピソードが伝わっている。一方で、この時期に、アメリカの世界宗教会議で講演する師・釈宗演の日本語原稿の英訳をまかされたり、米国人ポール・ケーラスの著作を日本語に訳して出版したりしている。つまり、貞太郎の英語は上京する前に、ほとんど、いや少なくともその基礎は出来上がっていたことになる。ポール・ケーラスの翻訳がきっかけとなり、彼はは27歳で渡米しこの恩人と共に12年間宗教雑誌編集・出版の仕事をすることになる。帰国後はアメリカ人女性と結婚し、母語話者並に達した英語を駆使して「世界の禅者」としての道を自ら切り開くが、再度強調したいのは、「大拙の英語力は間違いなく金沢で基礎が築かれた、しかも(現時点から見るならば)自学自習に近い方法で鍛えられた」という点である。
辞書を暗記した大拙
大拙に限らず、明治期の(いや時代を問わず)傑出した人物に共通の特徴は「強い動機」である。一種の「立身出世欲」と言えばそうであるが、とにかく学問や事業欲が旺盛であった。美川時代、「英語のアンカ」として親しまれていた鈴木先生は、「辞書を全部暗記した」というエピソードを地元に残している。この頃の彼はまだ、禅や哲学より、英語で身を立てたいと考えていたらしい。
私たちへの教訓
私たちは辞書を暗記する必要はない。当時の辞書ならば基本的な語彙に限られていただろうから、その必要はあったかもしれないが。それにしても、基本は徹底して理解し、モノにしなければならない。なによりも、どんなに教育環境が整ったとしても、肝心なのは学習者自身の心構えである。大拙にかぎらず、貧しい時代の先人が教えてくれるのはそれである。
大拙は色紙に揮毫(きごう)を求められると、よく、“To do good is my religion, The world is my home.” と筆をとって典麗な英語で書いたそうである。「善をなすのがわが宗教であり、世界がわが家である」という意味であるが、英語と世界との関係は、大拙の時代より格段に広がっている。
諸君! この恵まれた時代、この良き環境の中で世界共通語を学べる幸せをかみ締め、大拙の爪の垢でも煎じて飲もうではありませんか。 私自身も、老い呆けてはいられません。彼の両面の「達者」に少しで近づけるよう頑張りたいものです。
注: 大拙の肉声に(ただしテープで)接することができます。彼の講演テープが一部保存されています。英語テープもあります。日本語の場合も英語の場合も変わらぬ調子で、適切な言葉を捜し探し訥々と語る彼の講演は不思議な魅力であなたに迫ります。また、禅や大乗仏教に関する英語の著作物を直接読むのもchallengingな課題です。関心を持った学生は研究室までどうぞ!
2006年 5月 28日
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鈴木大拙と英語
http://kg.kanazawa-gu.ac.jp/kokusaibunka/?p=5434
「不立文字 (ふりゅうもんじ)No dependence on words and letters (言葉や文字で伝えることはできない)」
対訳 禅と日本文化 - Zen and Japanese Culture | 鈴木 大拙, 北川 桃雄 2012
https://www.amazon.co.jp/dp/4770040261
不立文字は「言葉に頼るな」と訳されている…
宋時代の五祖法演(Fa-yen、1104年死亡)の次の物語(五祖録所収)は、禅の方法と禅の精神を理解する上で、知性や論理、
口頭弁論。 「禅がどんなものなのか人々が尋ねるなら、私は泥棒の芸術を学ぶようなものだと
Google 翻訳
https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja?sl=en&tl=ja&u=http%3A//quod.lib.umich.edu/cgi/t/text/text-idx%3Fc%3Dgenpub%3Bcc%3Dgenpub%3Brgn%3Dmain%3Bview%3Dtext%3Bidno%3DAFZ6295.0001.001
不立文字(=文字に頼るな)
以下漱石『門』#18より
《この居士は山へ来てもう二年になるとかいう話であった 。宗助はそれから二 、三日して 、始めてこの居士
を見たが 、彼は剽軽な羅漢のような顔をしている気楽そうな男であった 。細い大根を三 、四本ぶら下げて 、
今日は御馳走を買って来たといって 、それを宜道に煮てもらって食った 。宜道も宗助もその相伴をした 。この
居士は顔が坊さんらしいので 、時々僧堂の衆に交って 、村の御斎などに出掛ける事があるとかいって宜道が笑
っていた 。》
『禅堂生活』岩波文庫解説によると上記は鈴木大拙がモデルらしい。
they need not depend upon letters. It is like rain-waters not being reserved in the sky
intro 3
hui han
NAMs出版プロジェクト: 慧能 六祖壇経
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_98.html
チャリティーは、フォーム(の考え方を用いて実施ルパ天国の誕生をもたらすことができる)、
しかし、それは、空を背景に矢を撃つようなものです
力は矢印が地面に落下排出されるとき。
同様に、[天の報酬が終了したとき]、次の人生は幸運の一つになるはずです。
they need not depend upon letters. It is like rain-waters not being reserved in the sky
manu 4-3
hui han
340b5,3,故知本性自有般若之智。自用知惠觀照。不假文字。,0
340b6,0,譬如其雨水不從無有。,8
340b7,8,元是龍王於江海中將身引此水。,12
28. Good friends, if you wish to enter into the deepest realm of Truth (dharmadhatu), and attain the Prajnasamadhi, you should at once begin to exercise yourselves in the life of Prajnaparamita; you just devote yourselves to the one volume of the Vajracchedika-prajnaparamita Sutra, and you will, seeing into the nature of your being, enter upon the Prajnasamadhi. It should be known that the merit of such a person is immeasurable, as is distinctly praised in the sutras, of which I need not speak in detail.
This Truth of the highest order is taught to people of great intelligence and superior endowments. If people of small intelligence and inferior endowments happen to hear it, no faith would ever be awakened in their minds. Why? It is like a great dragon pouring rains down in torrents over the Jambudipa: cities, towns, villages are all deluged and carried away in the flood, as if they were grass-leaves. But when the rain, however much, falls on the great ocean, there is in it neither an increase nor a decrease.
When people of the Great Vehicle listen to a discourse on the Vajracchedika their minds are opened and there is an intuitive understanding. They know thereby that their own Nature is originally endowed with Prajna-wisdom and that all things are to be viewed in the light of this wisdom (chih-hui) of theirs, and they need not depend upon letters. It is like rain-waters not being reserved in the sky; but the water is drawn up by the dragon-king out of the rivers and oceans, whereby all beings and all plants, sentient and non-sentient, universally share the wet. All the waters flowing together once more are poured into the great ocean, and the ocean accepting all the waters fuses them into one single body of water. It is the same with Prajna-wisdom which is the original Nature of all beings.
聞くと、彼らの心が開かれ、直感的な理解ができます。彼らは、自分たちの自然は、もともとプラーニャの知恵に恵まれていることを知っており、すべてのものは、この知恵に照らして見るべきであり、手紙に依存する必要はありません。それは雨水が空に留まらないようなものです。川や海から竜王によって水が引き出され、すべての生き物とすべての植物が、感覚的で非感覚的に、普遍的に濡れたものを共有します。もう一度一緒に流れるすべての水が大海に注ぎ込まれ、すべての水を受け入れる海がそれらを一つの水の体に融合させます。それはすべての存在の元の性質であるプラジナ知恵と同じです。
Encyclopedia of Monasticism
https://books.google.co.jp/books?isbn...
William M. Johnston - 2013 - プレビュー - 他の版
Chan traditions soon promoted a public image aptly summarized by the epitome “ an extraordinary transmission beyond doctrines
- no dependence upon or establishing of words or letters”:
(1) as practice toward abrupt realization ( Chinese, wu\ Japanese, satori) unlike other systematic path (ra#rgtf)-based Indian and Chinese Buddhist schools, (2) as a non-scripture-based direct master/ disciple existential encounter, and (3) as an unmediated, nonsymbolic “pure” experience of ...
The Lankavatara Sutra A Mahayana Text (Tr. For The First Time From ...
https://books.google.co.jp/books?isbn...
Daisetz Teitarō Suzuki - 2009 - プレビュー - 他の版
Daisetz Teitarō Suzuki. to birth and death whereas meaning is not. Mahamati, words are dependent on letters, but meaning is not. As meaning is freed from existence and non-existence, it is not born, it has no substratum. And, Mahamati, the Tathagatas do not teach the doctrine that is dependent upon letters. As to letters, their being or non-being is not attainable; it is otherwise with the thought that is never dependent on letters. Again, Mahamati, anyone that discourses on a truth that is ...
Handbook of Zen, Mindfulness, and Behavioral Health - 317 ページ
https://books.google.co.jp/books?isbn...
Akihiko Masuda, William T. O'Donohue - 2017 - プレビュー - 他の版
As many prisoners are without local support for their practice, having a “good spiritual friend” on the outside can be a real lifeline. ... in these letters. Shunryu Suzuki Roshi, our founder, said that “In the beginner's mind there are many possibilities, but in the expert's there are few (Suzuki 1970, p. 21). ... A special transmission outside the scriptures; No dependence on words and letters; Direct pointing to the mind of man; Seeing into one's nature and attaining Buddhahood. These four ...
Both Sides of the Circle: The Autobiography of Christmas ...
https://books.google.co.jp/books?isbn...
Christmas Humphreys - 2015 - プレビュー - 他の版
Dr Suzuki had had to face the difficulty inherent in any attempt to teach Zen Buddhism. For the Indian sage, Bodhidharma, who founded the school in China about AD500 had traditionally laid down its principles with fierce simplicity: A special transmission outside the Scriptures No dependence upon words and letters; Direct pointing to the heart of man; Seeing into its nature and becoming Buddha. Truth or Reality – for Zen in the sense of ZEN amounts to no less – can never be found ...
Zen Buddhism | Psychology Wiki | FANDOM powered by Wikia
psychology.wikia.com/wiki/Zen_Buddhism
A special transmission outside the scriptures; (教外別傳):
No dependence upon words and letters; (不立文字):
Direct pointing to the human mind; (直指人心):
Seeing into one's own nature and attaining Buddhahood. (見性成佛).
The idea of a line of descent from Śākyamuni Buddha is a distinctive institution of Zen which Suzuki (1949:168)
contends was invented by hagiographers to grant Zen legitimacy and prestige. John McRae's study “Seeing Through Zen” explores this assertion of ...
Zen Buddhism:Selected Writings of D.T. Suzuki - 豆瓣
www.douban.com/group/topic/23662716/
Horney saw something similar, but in terms of her own psychology: namely, the search for self-realization without either the false image of an idealized self ("We are saved such as we are," says the Zen master), or without the resigned and dependent clinging to external props like family, social group, or church (after his enlightenment the disciple slaps the Master Obaku's face, remarking "There is not , after all, very much in the Buddhism of Obaku", and the master is ...
Zen and Psychiatry
“「禅定 samādhi サマーディ」は瞑想によって得られる、統一された高いレベルの心の境地です。
恐怖感があると禅定はひとかけらもなくなります。[略]
執着を断って真理を観察する状態(禅定)が壊れてしまうのです。
悪魔はこのことを理解していて「怖がらせてやればいい」と考えたのですから、けっこう頭がよいのです。[略]
阿羅漢はそもそも煩悩をなくしているので、そんな手には乗りませんが、迷惑は迷惑です。
悟っていない人は怖くなって、修行から逃げてしまうこともあります。[略]
もし悪魔が瞑想道場にもぐり込んだら面倒です。”
― アルボムッレ・スマナサーラ 『般若心経は間違い?』 (2007)
“日本語の「心」という言葉は、ふつう英語でmindと訳されますが、
この英語は主として「理性」を意味します。
ところが、禅でいう「心」は意味が広く、意識一般を指します。
たとえば、私たちが「心を静めて調和へ至る」と言うときには、
記憶、想像、感情、さらには理性を含むすべての精神活動を静めることを意味します。”
― イレーヌ・マキネス 『禅入門 カトリック修道女の歩んだ道』 (2009) 3章
>>836
“ある程度の意識の深みに達すると、
リニア思考の嵐は少しずつおさまってきますが、
そのかわり「ランダム思考」と呼ばれる
脈絡のない想念に煩わされることがよくあります。
[略]
ランダム思考はさほど不自然なものではありません。
山田耕雲老師はこれを「富士山のまわりに浮かんでは消える雲」にたとえられました。
雲のように漂ってきては、そのまま消え去るのです。”(5章)
>>836
“―― 体から光が出るのですか?
いいえ、禅ではそれはありません。”(付録1)
ここまでのまとめ。
1.
原始仏教に於て説かれた禅定(C)観は仏教独自のものでなく、その当時行なわれていたインドの修法に基づくものであろう。(吉瀬)
2.
仏教が成立した最初の時期には、禅定(C)の修行は行っていたが、それを意味する術語としては、ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。
すなわちdhyana、yoga, samadhi などである。(中村)
3.
瞑想(C)はその機能から大きく二つの範疇(止観(A,B))に分けられました。(箕輪)
4.
samatha(止(A)) というのは、仏教が成立してしばらくたって一部の修行僧のあいだで用いられるに至つた。(中村)
5.
vjipassan(観(B)) という語は、原始仏教においても、かなり遅れて成立した。(中村)
6.
定には種々の使用例があり、止(A) 観(B)もその一部である(吉瀬)
引用論文
1.6. 〜 原始仏教の禅定観〜吉瀬 勝 / https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_823/_article/-char/ja
2.4.5. 〜 原始仏教における止観〜中村 元 / https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/1/23_1_24/_article/-char/ja/
3. 〜 仏教瞑想論 ──アジア諸地域の特徴について── 〜箕輪顕量 / http://zenken.agu.ac.jp/research/42/14.pdf
禅の法系図:
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年 祖師
┃
慧可大祖 487~593年
┃
僧璨(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃))禅宗の第三祖
┃
道信(どうしん、580~651年)
┃
弘忍(ぐにん/こうにん、602~ 675年)
┃
慧能大観 638~713年 六祖
┏━━┳┻━━━━━━━━━━━━┓
青原行思 永嘉玄覚 南獄懐譲
┃ ┃
石頭希遷 馬祖道一 709~788年
┏━┻━┓ ┏━━┻━━━━━┓
┃ (中略) ┃ 南泉普願 748~834年
(以下略)┃ 百丈懐運 ┃
┃ ┣━━━━┓ 趙州従諗
龍潭 黄檗希運 潙山霊祐771~853年
┃ ┃ ┣━━━━━┓
徳山宣鑑780~865年 臨済義玄 香厳智閑 仰山
┃ ?~867年 ?~898年
雪峯 ┃
┣━━━━━━━┓ (12、3代略)
玄沙835~908年 雲門 ┃
廓庵禅師 12c?
(曹洞宗)(法眼宗) (雲門宗)(臨済宗) (潙仰宗)
道信(どうしん、580年 - 651年)は、禅宗の第四祖。蘄州黄梅県を中心として布教に励み、弟子の五祖弘忍と共に「東山法門」と呼ばれる一大勢力を築き、後の禅宗の母胎を形成する。
弘忍(ぐにん/こうにん、602年(隋・仁寿2年) - 675年(唐・上元2年))は、中国禅宗の五祖。没後に代宗の時代になって、大満禅師の諡号と、法雨塔の塔号を賜る。
禅の法系図:
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年 祖師
┃
慧可大祖 487~593年
┃
僧璨(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃))禅宗の第三祖
┃
道信(どうしん、580~651年)
┃
弘忍(ぐにん/こうにん、602~ 675年)
┃
慧能大観 638~713年 六祖
┏━━┳┻━━━━━━━━━━━━┓
青原行思 永嘉玄覚 南獄懐譲
┃ ┃
石頭希遷 馬祖道一 709~788年
┏━┻━┓ ┏━━┻━━━━━┓
┃ (中略) ┃ 南泉普願 748~834年
(以下略)┃ 百丈懐運 ┃
┃ ┣━━━━┓ 趙州従諗
龍潭 黄檗希運 潙山霊祐771~853年
┃ ┃ ┣━━━━━┓
徳山宣鑑780~865年 臨済義玄 香厳智閑 仰山
┃ ?~867年 ?~898年
雪峯 ┃
┣━━━━━━━┓ (12、3代略)
玄沙835~908年 雲門 ┃
廓庵禅師 12c?
(曹洞宗)(法眼宗) (雲門宗)(臨済宗) (潙仰宗)
禅の法系図:
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年 祖師
┃
慧可大祖 487~593年
┃
僧サン(そうさん、生年不詳、推定500年~505年頃、禅宗の第三祖)
┃
道信(どうしん、580~651年)
┃
弘忍(ぐにん/こうにん、602~ 675年)
┃
慧能大観 638~713年 六祖
┏━━┳┻━━━━━━━━━━━━┓
青原行思 永嘉玄覚 南獄懐譲
┃ ┃
石頭希遷 馬祖道一 709~788年
┏━┻━┓ ┏━━┻━━━━━┓
┃ (中略) ┃ 南泉普願 748~834年
(以下略)┃ 百丈懐運 ┃
┃ ┣━━━━┓ 趙州従諗
龍潭 黄檗希運 潙山霊祐771~853年
┃ ┃ ┣━━━━━┓
徳山宣鑑780~865年 臨済義玄 香厳智閑 仰山
┃ ?~867年 ?~898年
雪峯 ┃
┣━━━━━━━┓ (12、3代略)
玄沙835~908年 雲門 ┃
廓庵禅師 12c?
(曹洞宗)(法眼宗) (雲門宗)(臨済宗) (潙仰宗)
The Teaching of the Seven Buddhas 七仏通戒偈
(「法句経(ダンマパダ)」第183偈)
http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa/peag118.htm
諸悪莫作
しょ あく まく さ
悪いことをしょうと思うても、できない
良いことを、せずにはおられない
そのような生き方の中で、自然と心が浄まっていく
これが仏教の生き方である
http://buddhism-lifehack.com/touki
有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは、投機とはどういう意味か、ご存じでしょうか。
442011 投機とは、現在は経済や金融関連の用語であったり、お金が絡む言葉として捉えられていることかと存じます。
私も、仏教徒再会する以前、経営学や経済を学んでいた時代には、投機とはお金の絡む意味としか捉えておりませんでした。
投機とは、実は仏教用語、禅語に由来致します。
いつの間にか、お金絡みの意味にさすらった、この「投機」という言葉の意味を、改めて読み直し、仏教的な学びとしたいと思います。
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投機とは何か、その意味を仏教・禅に学ぶ
投機とは何か、そう意味を聞かれたときに、現代社会においては、経済なり金融の事と絡めた説明がなされる言葉と概念でありましょう。
投機とは、冒頭でお伝え致しました通り、仏教用語、禅語であります。
仏教用語や禅語としての投機とは、
:心機投合、師弟の心機(こころの動きや在り方)が投合する
という意味や解釈が御座います。
また、「機に投ず」という読み方や解釈もなされており、「修行者が真理の世界に入らんとして、道と合わさる・合一するという体験」という意味や解釈も御座います。
このことについては、禅僧であられる玄侑宗久さんが「日本的」という本で、詳しく伝えて下さっています。
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日本的 [ 玄侑宗久 ]
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仏教が説く「機」とは「心」「心の働き」という事であり、また素質や能力の事でもあります。
「機に投ず=投機」とは、つまり「道と一体化、心と一体化」という事であり、心に身を投じる、心と体の輪郭も解けて一体化する、ということでもあります。
玄侑宗久さんの本では、もっとわかりやすく「身体一つに戻る勇気のこと」と表現されていました。
心だけでは無く、身体性だけでは無く、輪郭が融和して概念がなくなる状態の事として、私は味わい頂いております。
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投機とは、現代は私欲に繋がる意味にさすらった
仏教用語として、禅語としての投機とは、概念もなくなる世界、私という輪郭が解けていく、という頂き方をしております。
仏教用語・禅語の投機とは、現代社会で使われている投機の意味とは、全く違っていることがよくわかるかと存じます。
それが、一体どういうさすらい方をしたのか、現代社会では、まさにお金という概念とくっついて、私利私欲であったり、我利の欲得を表す言葉にまで変化していったものであります。
マネーゲームの一種であるとも認識している人もいらっしゃる通り、仏教が説く「投機」から、随分とさすらったものです。
最早、原形を留めていない程にさすらった仏教用語・禅語の一例と言えましょう。
仏教、とりわけ禅の世界においては、人間か勝手に創り出す概念への囚われや、概念への執着から離れる事を説きます。
一切の概念を捨てる事、「放下著(ほうげじゃく)」という禅語も御座います。
それが、概念の最もたるとも言える、お金・金銭と結びつき、我利の煩悩や私欲を示すまでに「投機」という言葉と概念が流転したのは、なんとも不可思議だと感じるところであります。
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自己投資という名の投機
昨今よく見聞きする言葉で、特にインターネットビジネスとか自己啓発系ビジネス、詐欺師や似非コンサルタントの類いがよく使う言葉に「自己投資」が御座います。
自己投資自体は、まあ、いわんとしている事は分からんでもありませんし、それはそれで有用性も御座いましょう。
ただ、この「自己投資」という言葉を使って、あなたから巧みに金銭をかすめ取ろうという輩がいる事にも、注意しなければなりません。
現在の投機的資本主義とも言われる娑婆世界においては、あなたから財を奪い取ろうとする我利我利亡者の類いが、うようよおりますがゆえに。
よく、なんちゃらビジネスやら詐欺コンサルタントは、セールスレターやメールマガジンで「これは自己投資です」と呼びかけてきます。
「このまま稼げないで良いのですか?それとも今、自己投資を決断しますか?」という、そんな謳い文句でこちらを煽ってきます。
このような有財餓鬼や我利我利亡者がのたまう「自己投資」は「浪費投機」と言い換えてもよいでしょう。
あなたの身になる投資ではなくて、単に自分達のお財布事情が潤う今年か考えておらず、実際にお金を出す側であるあなたにとっては、投機でしかありません。
投機した分の財を回収できるかどうかなんて、誰にも予測出来ない事は明白です。
詐欺師や我利我利亡者は、来るかどうかも分からない未来という概念と、自己投資という概念であなたを操作しているだけです。
そんな、来るかどうか分からない未来に対して投機するのは、私はばかばかしいと思いますが、如何で御座いましょうか。
自己投資をうたってお金を取ろうとする輩のいう「自己投資」は、「浪費投機」と読み替えるくらいで丁度良い塩梅です。
そう考えると、私は保険や株式投資も、投機的な感じが致します。
http://buddhism-lifehack.com/touki
投機とは、実は仏教用語、禅語に由来致します。
…
仏教用語や禅語としての投機とは、
:心機投合、師弟の心機(こころの動きや在り方)が投合する
という意味や解釈が御座います。
仏教が説く「機」とは「心」「心の働き」という事であり、また素質や能力の事でもあります。
「機に投ず=投機」とは、つまり「道と一体化、心と一体化」という事であり、心に身を投じる、心と体の輪郭も解けて一体化する、ということでもあります。
玄侑宗久さんの本では、もっとわかりやすく「身体一つに戻る勇気のこと」と表現されていました。
心だけでは無く、身体性だけでは無く、輪郭が融和して概念がなくなる状態の事として、私は味わい頂いております。
投機とは、現代は私欲に繋がる意味にさすらった
仏教用語として、禅語としての投機とは、概念もなくなる世界、私という輪郭が解けていく、という頂き方をしております。
仏教用語・禅語の投機とは、現代社会で使われている投機の意味とは、全く違っていることがよくわかるかと存じます。
それが、一体どういうさすらい方をしたのか、現代社会では、まさにお金という概念とくっついて、私利私欲であったり、我利の欲得を表す言葉にまで変化していったものであります。
マネーゲームの一種であるとも認識している人もいらっしゃる通り、仏教が説く「投機」から、随分とさすらったものです。
最早、原形を留めていない程にさすらった仏教用語・禅語の一例と言えましょう。
https://www.crazy-investor.jp/entry/2018/06/14/130802
投機という言葉
考えごと
「投機」というとマイナスのイメージがある。博打やギャンブルといったニュアンスが感じられるからだろう。
そもそもこの「投機」という言葉はどこから来ているのか。
投機という言葉はもともと禅宗の用語で「修行者の機根が禅の真精神にかなうこと。師弟の心機が一致投合すること。」を意味するらしい。
禅問答というのがあるが、師匠と弟子が問いかけ答えながら機を合わせていく。それを投機と言う。
だから投機には深い思索があって成り立っている。投機を意味する英語はspeculation(スペキュレーション)というが、この言葉にも「思索、推測」といった意味がある。
市場では売り手の思惑と買い手の思惑がぶつかり合い価格が決まるわけだが、このことに投機という禅の言葉を当てはめた昔の人には何か深いものを感じるし、そこにマイナスのイメージはない。
そういえば投機家というとジョージ・ソロスを思い浮かべる。ソロスはもともと哲学者になりたかったらしいから、投機家(スペキュレーター)というのは思索家でもあり彼にぴったりな呼び名ではないだろうか。
では投機と投資は何が違うのか。
私は「価格」に注目するか「価値」に注目するかの違いではないかと思う。
価格に注目してその変動から利益を生み出そうとするのが投機。市場でまさに売り手と買い手の思惑を見極めながら取引するのだから必然的に価格の動きを見ることになる。
一方、投資は価値に注目する。価値が増加するものに対して資金を投ずるということだ。バフェットが金や仮想通貨に投資しないのは価値が増加しないものとみているからだ。金は価格は変動するが、金そのものの価値というのは変わらない。金は決して銅や鉄にはならないしダイヤモンドにもならない。それに対し企業の発行する株式はその企業が成長すればその価値が増加する。その増加を見込んで資金を投じているのだ。
風に吹かれて : 「投機」が禅語だなんて、信じられます・・・(@_@;)。
http://blog.livedoor.jp/ayabeda/archives/51265113.html
株価小学館の日本国語大辞典によると、「投機」は・・・
1.仏語。禅宗で、修行者が仏祖の教えの要諦にかなって大悟すること。また学人(がくにん)の機と師家(しけ)の機とが一致すること。
2.機会をうまくとらえること。
3.偶然の利益・幸運をねらう行為。やま。「投機心(熟)」
4.市価の変動によって生じる差額を利益として得るために行う商取引。相場。「投機市場」
「投機」という言葉の変遷がよくわかる記述だが、禅の教えである「投機」を「相場」に応用した先人こそ、江戸時代の出羽国(山形県)の酒田(西廻り航路の港として繁栄していた)の天才相場師の本間宗久のようだ・・・酒田の本間家を豪商に導いたのは、宗久の投機の成功によるものだが、宗家から相場の危険故に追放された後、江戸の米相場で失敗し全財産を失う。
ここで宗久は故郷に戻り、禅寺で「非風非幡(幡=旗がはためくのは風が吹くからか?)」という公案(禅問答)に取り組んだ挙句、相場必勝法「三位(さんみ)の法」を編み出し、以後「百戦百勝」する・・・「ローソク足」の株価チャートも、「酒田五法」と言われる相場必勝の秘伝も、宗久が基盤を築いた故、酒田から発祥したのであり、「執着心をさらりと捨てて、平常心で事をなす」という禅の「無の境地」が相場への投機でも、根本の心得となるのである。
「武士は食わねど高楊子」というように、「穢銭思想(お金はキタナい)」という儒教と言霊信仰が結びついたせいで、日本人にとって投機や先物取引は「悪」であるとの思いが強い・・・先物取引は、現物取引では採算割れする可能性がある商品を、先だって取引することで、わずかな頭金だけで相場が上がっても下がっても、利益を出しうる価格で入手できるというメリットがあり、単なるギャンブラーを除けば、経済として必要な制度なのである。
「相場」という「泥沼」から、見事な「蓮華=ハス」の花が咲く・・・江戸時代の商人道は、本場シカゴに百年以上先だって、大阪の堂島にデリバティブの先物相場を形成したのである。
今朝は雨で、路面の乾いた昼前から、金武~高崎~愛宕山。
本日の走行距離:29km
277 考える名無しさん[] 2019/05/22(水) 18:04:35.82 ID:0
http://buddhism-lifehack.com/touki
投機とは、実は仏教用語、禅語に由来致します。
仏教用語や禅語としての投機とは、
:心機投合、師弟の心機(こころの動きや在り方)が投合する
という意味や解釈が御座います。
…
http://blog.livedoor.jp/ayabeda/archives/51265113.html
小学館の日本国語大辞典によると、「投機」は・・・
1.仏語。禅宗で、修行者が仏祖の教えの要諦にかなって大悟すること。また学人(がくにん)
の機と師家(しけ)の機とが一致すること。
2.機会をうまくとらえること。
3.偶然の利益・幸運をねらう行為。やま。「投機心(熟)」
4.市価の変動によって生じる差額を利益として得るために行う商取引。相場。「投機市場」
…禅の教えである「投機」を「相場」に応用した先人こそ、江戸時代の出羽国(山形県)
の酒田(西廻り航路の港として繁栄していた)の天才相場師の本間宗久のようだ・・・酒田の
本間家を豪商に導いたのは、宗久の投機の成功によるものだが、宗家から相場の危険故に
追放された後、江戸の米相場で失敗し全財産を失う。
ここで宗久は故郷に戻り、禅寺で「非風非幡(幡=旗がはためくのは風が吹くからか?)」
という公案(禅問答)に取り組んだ挙句、相場必勝法「三位(さんみ)の法」を編み出し、
以後「百戦百勝」する・・・
https://www.crazy-investor.jp/entry/2018/06/14/130802
禅問答というのがあるが、師匠と弟子が問いかけ答えながら機を合わせていく。
…
だから投機には深い思索があって成り立っている。投機を意味する英語は
speculation(スペキュレーション)というが、この言葉にも「思索、推測」といっ
た意味がある。
296 考える名無しさん[] 2019/05/26(日) 06:09:43.39 ID:0
ビートたけしが事故で入院した時
原節子はたけしに数珠を贈ったそうだ…
数珠は精神の危機に対応する
脳がざわめく時手に数珠を持っているといい
290 考える名無しさん[] 2019/05/25(土) 09:22:31.63 ID:0
空~~~~_~~~~~頭上~青
風~~_( )_~~~眉間~黒
火~( )~~~胸~赤
水~_\ z /_~~~臍~白
地(__\_/__)~尿道~黄
「真言者、円壇をまず自体に置け」
(真言の行者よ、自分自身をマンダラとせよ)
「五輪成身観」(『密教のすべて』花山勝友75頁参照)
ジョージ
@jo2geor2
鈴木大拙の戦争協力について語るジジェクの動画に字幕をつけました pic.twitter.com/56DWCPbPnA
2022/04/30 15:40
https://twitter.com/jo2geor2/status/1520292043498876928?s=21
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