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釈門正統


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駒澤大學佛教學部論集 第41號 平成22年10月(111) 

略説中国天台宗・近世篇 

林   鳴 宇

 一、宋代天台宗が伝えたもの 中国天台宗は、唐末の乱世を経て新生政権の宋代に入ると、明州僧知礼(中国天台の一七祖)の努力により再興された。知礼の天台宗再興は、湛然以降の天台教団に残されたいくつかの懸案を解決したと見られる。第一に、教理面において、知礼は他宗の影響を受けて教団内部に生じた諸種の異説を排除し、発展的な新説を作り出した点である。これは、彼の教学が後に天台正統と認められ確固たる地位を築いたことに大きく関連した。もちろん、これらの新説に対し、智?教学からの乖離であり「天台の変態」であるとまで罵倒する後世の学人が存在するものの、宋代の約三百年間における天台宗の思想体系の核心、明末天台復興の思想背景、江戸時代の安樂律院の復古意識などに大きな道標を示したのである。第二に、実践面において、知礼は同門の遵式とともに、懺法をはじめ、授戒会、念仏会などを通じて仏教の門戸を一般民衆に開いた点である。そのうちの観音懺法などは、鎌倉時代に遠く日本にまで伝わり定着した。また、中国本土では、さらに今でも宋代天台が定めた諸種の法要をもとに教化活動が行われている。 一方で、知礼教学が残した課題も多かった。特に思想面においては、知礼教学を本格的に超えようとする者はきわめて少なかった。例えば、仁岳や従義のように、正面から異議を唱えても、結局、教団内部において十分に議論されないまま、放置されたり異端視されてしまったのである。また、教団の運営についても、明州を本拠地とする知礼教団は、智?教団のように政権の中枢と深く関わることは少なく、湛然教団のように、遠く五臺山まで積極的に天台教学を弘めることもなかった。禅宗勢力による侵食を避けるため、既得の地盤を堅守する姿勢が目立つ。しかし、最大の拠点である、知礼が創設した明州延慶寺が、金・元との戦乱により一時期に宗教活動を行えず、荒廃すると、教団の求心力は大幅に低下し、天台宗の勢力範囲は縮小し衰退を余儀なくされたのである。 −326−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(112) 1、宋代天台の諸文集 知礼が入滅してから一七五年後、その七代目の法孫の宗暁(一一五一〜一二一四)が、『国清百録』の体裁を見習い、知礼教学を顕彰するために、嘉泰二年(一二〇二)に『四明尊者教行録』(以下『教行録』と略称)を編集し終えた。『教行録』は七巻一五五篇の詩・文から構成されている。その内容は、天台教学のみならず、宋王朝の仏教政策、士大夫仏教、民衆仏教、他宗との交渉などにも関連し、宋初天台の動向を知る第一級の史料集である。巻一は、知礼の年譜のほか、延慶寺で行われた一般民衆向けの受戒会、念仏会、放生会などの記録が収録される。巻二は、『観無量寿経』、『摩訶止観』、『大乗起信論』、『請観音経疏』などの典籍について、知礼が如何にして天台教学を展開したかを伺うことのできる資料集である。巻三は、天台教団内部の教理に関わる問答集の収録である。巻四は、天台教団以外の僧侶、日本の源信、禅宗の清泰、子凝との間の教理問答を収録する。巻五は政治家や僧侶との書簡集である。巻六は延慶寺の十方住持制に関連する文献、知礼が紫衣を下賜された時に仏教界の長老たちが書いた祝詩集、そして知礼とその門下の逸話を収録する。その中の祝詩集は宋代の『九僧詩』に匹敵する文学的な価値をも有する。巻七は知礼の塔銘、伝記、祭文に関する資料である。 宋代天台教学史の研究において、『教行録』には『釈門正統』、『仏祖統紀』などの天台史伝書にはない新しい資料も収められており、四明天台発祥の地である延慶寺を中心に知礼教学がどのように展開されたかを詳しく究明することができる。 『教行録』のほか、遵式の遺文を集めた『金園集』、『天竺別集』、智円の『閑居編』なども、天台の史料集として重要な意義を持つ。これらの資料のさらなる解明によって宋代天台の歴史が一層明らかになるであろう。2、『釈門正統』 宋の嘉定一三年(一二二〇)の正月、宗鑑(生沒年不詳)は杭州の天台寺院上天竺寺に参学した。その時、彼は上天竺寺の首座である懷怛と共に天台の祖師像を建てようとした。しかし、祖師像の配列順序について、知礼の像を入れるべきであると宗鑑が主張したのに対し、遵式を祖と仰いできた天竺寺の僧は、知礼と肩を並べる祖師として遵式も祭るべきであると主張した。こうして、祖 −325−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(113) 師像の設置は一旦中止を余儀なくされた。知礼滅後約二百年近くが経ったあとでも、天台宗内部には知礼及び遵式の何れを祖師とするかという争いが存在したのである。このような相承の混乱を痛感した宗鑑は、天台宗における知礼の地位を正しく評価しなければならないと決意した。これが、宗鑑の『釈門正統』が世に現れる契機の一つであったと言われる。『釈門正統』は呉克巳の『釈門正統』(散逸)の中に設けられた本運、列伝、総論の項目をもとに、本紀、世家、列伝、諸志、載記の五項目に拡大して記述したものである。これは、現存する紀伝体仏教史書としては最古のものである。『釈門正統』の最大の業績は、知礼が天台の「中興祖師」であることを改めて確認した点にある。宗暁の『教行録』から多くの影響を受けた宗鑑は、『教行録』に収録された文章を引用するだけでなく、これまでの天台宗に於ける知礼の地位を抜本的に見直し、「史伝」の立場から知礼の地位を一層強固なものとした。この点で、『釈門正統』は後の『仏祖統紀』に大きな影響を与えた。

 『釈門正統』は書名通り、天台宗こそが釈門の正統であると主張した書物である。当時の最大勢力である禅宗に対する批判が、随処に見られる。

 巻三「弟子志」では、


 禅宗は菩提達磨が中国に伝えた当時、不立文字のような説がなく、ただ面壁して習禅するのみである。後に南泉普願が教外別伝・不立文字・見性成仏などの説を創った。また菩提達磨が慧可に四巻の『楞伽経』を渡し、教えに従い一家の宗旨を了知せよと明言したにもかかわらず、慧能以降の禅徒は払拳棒喝を貴ぶこととして重んじ、経論による理解を完全に捨てたのである。さらに禅宗の者にその所以を聞くと、禅宗は修無き証無くと答えるのみである。このような者には、当然天台六即の奧義を理解できない。禅の真意を体得できる者にしても、経論が述べた禅定の概念から離脱することがなく、天台が説いた定聖行の範囲に過ぎないのである。


と言うように、禅宗の教えが論理一貫しない点を示した。

 巻三「護法志」では、呉克己の「與喩貢元書」(喩貢元に與える書)を掲載し、仏教は中国に伝来して約二千年の間、儒教からの排斥は絶えていない。韓愈・欧陽修のような高名な廃仏論者も到底仏説を論破できなかった。宋代では、二程・張載に学ぶ者及び胡安国・胡宏親子が仏教を厳しく批判しているが、その矛先はほとんど禅宗の教えに向かっているのみである。なぜ −324−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(114) ならば、釈門にある禅宗は、儒教にある老莊と同じであるからである。拈椎豎拂のような異説を以て釈尊の正教を疑うこと自体は、王弼・何晏の玄学を以て六経の正義を疑うことと同様である。現今の仏教は釈尊当時より数千年も離れ、禅宗のような異端も存在するが、ただ天台大師の教えのみが釈門の正伝である。とし、儒者の仏教への批判を全て禅宗へと押しつけてしまったのである。 さらに「護法志」では、呉克己の「重刊刪定止觀序」も収録し、唐代梁粛の『刪定止観』を救世明道の書と位置づけ、「皇帝官僚が読めば、廃仏のような行為は起こらず、儒教学者が読めば、排仏のような論調は講じず、禅僧が読めば、教外別伝という自他を欺す異説を判明でき、教僧が読めば、仏教の名相分別に執着し苦しむことがなくなる」と説き、「教外別伝」という禅宗の標榜を斥け、釈尊の真意が天台の所伝にあり、天台の「教観雙修」こそ世間・出世間に亘り通用できるものであるとした。 『釈門正統』の禅宗批判の目的は明確である。すなわち、達磨以降に生じた禅宗の異説は仏教界を乱し、天台僧の修行にも影響を与えた。このような変わった禅宗を警戒するように、天台の僧侶に示すことが『釈門正統』の目的であると見られる。また、その批判の多くは、客観的な資料に基づき、それぞれに関連付けをして展開したものである。問題意識のみを提起するだけで、あとは読者の判断に譲る場面もしばしば見られる。総合的な禅宗批判資料としては、天台宗の最初のものである点でも重要な意義を持つ。3、『仏祖統紀』 志磐(生沒年不詳)の『仏祖統紀』は宝祐六年(一二五八)に書き始められ、前後一二年間をかけて完成したものである。『仏祖統紀』は、宗鑑の『釈門正統』及び景遷の『宗源録』(散逸)を刪補して作られたものであると考えられる。『釈門正統』では中国の天台諸祖を「世家」に列するのに対し、『仏祖統紀』では天台の金口相承説に基づき、竜樹、慧文から知礼までの天台祖師を全て「本紀」に編入し、知礼の地位をさらに高めている。 『仏祖統紀』は、現存する最大級の天台史伝資料ではあるが、欠損部分が多いのも事実であり、解読に際しては、『釈門正統』の関連する内容と照合する必要がある。 『仏祖統紀』が引用した禅宗批判資料は多くない。その大部分は『釈門正 −323−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(115) 統』の所録を参照している。さらに、『釈門正統』のように禅宗と明確に対抗する姿勢も見られない。『仏祖統紀』の通例では「達磨、賢首、慈恩、灌頂、南山の諸師は、皆な一代の宗師であり、ともに仏道を発揚するといえども、それぞれ教えは異なり、宗派も別である。これゆえに、諸宗立教志の一巻を作る」と述べ、できる限り中立の立場で各宗を紹介することを目的とした。この点において、『釈門正統』の「禅宗・賢首・慈恩相渉載記」の作成目的、いわゆる天台こそ正統であるとする点と異なる。4、外国僧との交流 日本の惠心僧都源信は弟子の寂照を遣わし、知礼に天台典籍や自著『往生要集』などを送り、教理面でも交流があった。高麗の義通は、中国に留まり、知礼などを育てた。諦観は、『天台四教儀』を著し、宋代天台の発展に大きく寄与した。 宋朝の約三〇〇年間の歴史において、天台山を訪ねたり、天台教学に親しんだ外国僧は数多く見られる。例えば、成尋(一〇一一〜八一)は、延暦寺総持院阿闍梨であったが、六二歳の時に宋に渡り天台山や五台山などを巡礼し、北宋・神宗(一〇六七〜八五在位)の令により宋に残り、そのまま中国で沒し、遺骨は国清寺に埋葬された。成尋が『参天台五台山記』の中で克明に記録した宋代天台の寺院の様子は、注目に値する。また、同じく日本僧の俊芿(一一六六〜一二二七)は、京都の泉涌寺を開いた人物である。一一九九(日紀・正治元)年に入宋し、知礼下五代の法孫の宗印(一一四八〜一二一三)の下で天台教学を八年間勉学した。日本に戻った後、宋の天台寺院の様式にならって泉涌寺に修懺堂や十六観堂などを建て、天台の懺法を日本に将来し自ら実修した。さらに、弁円(一二〇二〜八〇)は、嘉禎元年(一二三五)に入宋し、『教行録』の編者である宗暁と同門の善月(一一四九〜一二四一)から天台教観を学んだ。帰朝した後、九条道家に迎えられ、東福寺の開山となった。彼が請来した宋代天台の典籍には、貴重な孤本が数多く含まれている。 義天(一〇五五〜一一〇一)は、高麗の王家に生まれ、一〇代で出家し、三〇代で宋の地に入り、杭州天竺寺にいる知礼の孫弟子従諫(一〇三四〜一一〇八)に天台教観を学んだ。高麗に戻り、天台道場として国清寺を開いたほか、『新編諸宗教蔵総録』(『義天録』ともいう、大正蔵第五五巻に収録)という仏教典籍の目録を編集した。特筆すべきは、この目録に掲載された宋代天 −322−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(116) 台典籍の内容であり、最も古い総合目録として高く評価できる。『新編諸宗教蔵総録』から約百数十年後に、志磐は、史伝書『仏祖統紀』に「山家教典志」をまとめるのであるが、義天の目録と比較すると不備が目立つ。二、宋代以降の天台宗 祥興二年(一二七九)、南宋の最後の君主、幼帝趙昺は南侵したモンゴル軍に追われ、広州湾の崖山島(広東省江門市)にて家臣とともに海に身を投じた。これによって、宋王朝はついに滅び、モンゴル軍の首領フビライ汗(元の世祖、一二六〇〜九四在位)は国号を元と称して天下を統一した。『元史』によるフビライ汗の評価の中では、「能く夏をもって、夷を変えた」(中国の伝統をモンゴルの伝統と上手く融合させた)との一句が目につく。隋唐以来の中国政治の根幹である科挙制度の廃止をはじめ、仏教界に対して発した「崇教抑禅」(教宗を崇び、禅宗を抑える)の命令もその融合政策の一環であると言える。唐・宋の伝統が新国家に及ぼす不均衡を調整しようとしたフビライ汗の政策の功罪については、史学者の間でいまなお議論が続けられている。しかし、天台宗はこの新しい「崇教抑禅」の政策により確実に利益を得て、宋代禅宗の拡張により占拠されていた天台祖庭を回復することができたのである。1、国清寺の天台宗復帰 允沢(一二三一〜九八)は、明州延慶寺二八代住持の覚先(生沒年不詳)の弟子である。その名声は都の大都(北京)にまで届き、フビライ汗は自ら允沢に謁見し、仏法の要旨を尋ね、大師号と金襴の袈裟を授与した。允沢の門下の性澄(一二六五〜一三四二)は、こうした機運に乗じ、弱冠三十にして、ひとり大都に赴いた。そして、国清寺が本来、天台宗の講寺であるにも関わらず、長らく禅徒によって占拠されて来た顛末を力説した。その執念がフビライ汗に伝わり、性澄の意が認められ、皇帝の詔書が下り、国清寺は再び天台宗に帰属することになった。 子儀(一二四二〜一三二六)は、允沢の会下に参学し、至大元年(一三〇八)、武宗(一三〇七〜一一在位)の勅命を受け、天台山の方広寺の修復に着手した。翌年、大師号を授与され、講経三蔵に命じられ、その後、ほぼ二十年近く、仁宗(一三一一〜二〇在位)・英宗(一三二〇〜一三二三在位)の代ま −321−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(117) で、都において天台教学の弘宣に尽力した。 元代における天台宗の発展は、世祖の「崇教抑禅」政策と深く関連する。その発展規模は、教理教学においては宋代の規模には及ばないものの、長らく続いた戦乱によって破壊された天台寺院が徐々に復興した点や宋代からの教団や儀軌が継承された点で注目される。2、『教苑清規』の制定 モンゴル族の統治下の元代の仏教寺院では、宋代の作法をそのまま受け継ぐことが多かった。そして、それらの寺院規則をさらに完備し、教団の求心力を高めるため、律宗の省悟(生没年未詳)らは泰定二年(一三二五)に『律苑事規』を編集し、禅宗の徳輝(生没年未詳)は元統三年(一三三五)に『百丈清規』を重編し、天台宗の自慶(生没年未詳)も至正七年(一三四七)に『増補教苑清規』を刊行した。 自慶は杭州の大円覚教寺の住持であり、その号は雲外である。彼は徳輝の『勅修百丈清規』を強く意識し、上天竺寺がかつて南宋時代に監修した『教苑清規』を再編し、さらに禅院、律院の清規との区別をつけて、『増補教苑清規』を刊行した。『増補教苑清規』は十の項目から構成された。「祝贊門第一」は国家や皇帝を祝贊する作法、「祈禳門第二」は鬼神のための祈祷法、「報本門第三」は仏祖の降誕、成道、涅槃会や天台の歴代祖師の命日の作法、「住持門第四」は住持を任命する作法、「両序門第五」は寺院の各職の役割を定める説明、「摂衆門第六」は剃髪、受戒の作法や修行道具などの説明、「安居門第七」は結夏安居中の作法、「誡勧門第八」は立制法や寺院の僧の日常生活における注意事項、「真帰門第九」は僧侶の葬式作法、「法器門第十」は鐘、版、木魚、椎、磬、鐃鈸、鼓などの法器の使い方について記している。 六世紀の末、智?は天台宗の僧衆のために、はじめて「立制法」という寺院での行為規則を制定した。八世紀の湛然は、「授菩薩戒儀」を撰述し、天台宗に定着させた。一一世紀の知礼や遵式は、延慶寺および天竺寺における十方住持制度を確立し、天台宗の寺院のありかたに新たな方向性を示した。一四世紀の自慶が、禅宗・律宗と同等の地位を求め、約七百余年に亘り脈々と伝えられてきた各時代の天台宗の作法を再編成し、天台宗特有の規則をあらためて大幅に増補した意義は大きく、現代においても中国の天台宗僧衆はこれを行動の指南とすることが多い。 −320−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(118) 3、明代の宗教政策と天台宗 至正二八年(一三六八)の元日、朱元璋は応天府(南京)で皇帝の即位式を行い、元号を洪武とし、国号を大明と定めた。朱元璋は、若い時に元末の大乱の中で数年間にわたり僧侶の体験をした。さらに元朝政権の打倒を目標とした民間宗教の白蓮教にも参加したことがあった。これらのことは後、明王朝の統治における宗教政策に大きな影響を与えた。明王朝が建国した洪武元年(一三六八)から数年に亘り、朱元璋は、自ら大檀越となって天台僧を含む江南の名僧を集め、国家のために法会を開催し、主にラマ教を信仰する元王朝の指導者と一線を畫しつつも、仏教界を尊崇する一面を演出した。一方で、旧政権の打倒の主役となった白蓮教や弥勒教などの民間宗教を徹底的に弾圧した。こうして仏教界から信頼を得た後、一三八一(洪武一四)年(一説、一三八二年)には、僧録司(僧侶を国家の官僚として採用する機関)を設置し、国家のもとで天下の僧侶を統治することに成功した。 慧日(一二九一〜一三七九)は、かつて性澄(国清寺を天台宗に帰還させた僧)の会下で天台教理を参学し、元の順帝(一三三三〜六八在位)の要請を受け、荊州の玉泉寺を復興した人物である。一三六九(洪武二)年、慧日は新生の明王朝の法会に参加する際に、朱元璋から「白眉大師」の号を贈られた。さらに朱元璋は、当時の都である南京に存在した天台宗の開祖智?が住したことのある瓦官寺の再建をも約束している。 仏教を国家の管理下に置くことによって、寺院の復興が容易になり、一部の天台宗寺院も脚光を浴びることとなる。知礼が一〇世紀に創建し、宋代天台宗の本山とも言うべき明州の延慶寺は、明代になると、「天下講寺五山の第二山、今時の僧会司の所在である」と高く評価され、再び天台宗の中心的な存在となった。これを機に、延慶寺の僧衆は天台宗における「四明祖庭」への認知度を高めようとするのである。筆者が最近発見した「延慶寺歴代住持」の系譜は、まさにそのことを物語るものである。4、明州延慶寺の天台系譜 独自の教理教学や祖統、伝承系譜などを通して、仏教教団の僧衆は、異なる時空間においても、祖師とされる人々と仏教的な体験を分かち合い、共有できるのである。 −319−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(119)  明の嘉靖年間に作られたこの系譜は、当時の延慶寺の住持比丘、徳新(生没年未詳)と常誌(生没年未詳)が『四明尊者教行録』を再刊する際に添付したものである。延慶寺を開創してから約五百五十余年に亘り住持した百四代、総計百十三人の僧侶の名号を記している。当時、延慶寺にいた七人の東堂比丘(延慶寺歴住)、三人の寧波府都綱兼住持と住持比丘を合わせた、計十一名の住持経験者、更に百十四名の尊宿比丘(長年寺院にいる修行僧)の認可を受けたものであり、権威のある系譜と見ることができる。 確かに、数百年の間に、延慶寺が種々の災難に遭遇したという史実に照らすと、延慶寺の伝承が絶えることなく続いてきたかのように丁寧に整理されたこの系譜は不自然にも見える。しかし、不自然であってもこの系譜の作成によって、中国仏教の天台宗における「祖」及び「祖庭」に対する尊崇信仰の根強さを感じることができる。一宗一寺の法脈や伝承を尊ぶことは、自己の存在の歴史的価値を認めるものであり、祖統や伝承などの精神的紐帯を用いて、教団の求心力や独自の教理教学の優位性を強化していった点は注目されよう。5、伝燈と天台山高明寺法脈の樹立 天台山の高明寺は、智?が創建した道場の一つと言われ、唐末に「智者幽溪道場」と改名したことがある。伝燈(一五五四〜一六二八)が高明寺を再建し、自らここに新しい天台の祖庭を立てるまでは、天台宗の歴史においてそれほど注目されることはなかった。しかし、伝燈が高明寺に天台教観を復興したことは、現代中国の天台宗の法脈形成に深く関わっている。 伝燈は、慧日から五代目の法孫に当たる。彼は当時の禅浄融合の仏教界の風潮を一掃しようとし、天台教学こそが仏教思想の最高峰であり、浄土教学なども包容するものであると主張した。そして、天台の独自の懺法を積極的に実修し、教行双美を讃える天台の宗風を発揚しようとした。 伝燈が編集し、弟子の受教がさらに増補をした『幽溪別志』によれば、伝燈は天台の法脈を断絶させないため、高明寺にて祖師堂を建て、天台宗の源流図を石碑に刻んだ。同時に自分の師である真覚(一五三七〜八九)の法脈を天台宗の正伝と定め、新たに六十四世に及び高明寺法脈偈を作った。この法脈偈にしたがい、高明寺を中心とする天台宗教団はその後、智旭(一五九九〜一六五五)と正時(一五六四〜一六一〇)の二派に分かれ、その伝統は現代の中国大陸、台湾、香港などの大多数の天台宗寺院に継承されている。 −318−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(120) 6、智旭派と正時派の伝承 明末の四高僧の一人と称せられた智旭は、天台僧であると一度も自認してはいないが、若い時には高明寺にて天台教学を学び、伝燈より菩薩戒を受けた。また、伝燈を「師伯」(中国社会では、師を師父と呼ぶのが一般的である。師伯は師の先輩に当たるため、非常に敬意を込めた呼び方となる)と仰ぎ、さらに『教観綱宗』など天台の立場に基づいた論疏を多数著したことから、後世の天台僧により伝燈の法脈を嗣ぐ最適の人物であると評価された。これが高明寺法脈の智旭派(霊峰派ともいう)の由来である。この派下から、清代中期以降に観儀(生卒年未詳、伝燈下十世、中国天台四〇祖)、定融(生没年未詳、伝燈下十二世、中国天台四二祖)は、上海の竜華寺に住持し天台教学を伝え、諦閑(一八五八〜一九三二、伝燈下十三世、中国天台四三祖)は民国期の天台宗を復興し、現在の天台宗の形を整えた。 一方、正時は伝燈の直弟子であったが、四十代の若さで亡くなった。彼の法脈を嗣いだのは、『幽溪別志』の編集補佐をした受教である。正時派は、清代以降から現在に至るまで温州、台州の一部の天台宗寺院に伝承されているが、智旭派の門流たちのような活躍は見られない。 智旭派と正時派のほか、高明寺法脈とは異なる流れも存在する。清末の居士沈善登(一八三〇〜一九〇二)の「募建真覚寺縁起」によれば、清末における天台山真覚寺および智者大師の肉身塔の再建は天台宗四〇世の敏曦(一八二六〜一八九八)の功績であるという。さらに敏曦の法系は明代万暦年間(一五二二〜六六)に活躍した天台山の仏隴に住する天台宗二八世の真稔(生没年未詳、一説では、明代隆慶年間(一五六七〜七二)に活躍した天台宗二五世の真稔)から受けたものであるとして、その法系の正統性を主張している。 清代では、祖庭の国清寺でさえ、乾隆年間(一七三六〜九六)において、天台教学を伝えることのできた僧はおらず、臨済宗の禅僧を住職として招くことを余儀なくされた(『報恩論』附録「天台県護持叢林永禁私占示」)ほどである。天台教学の研鑽は、唐・宋代の天台学匠には及ばないものの、天台一流の行法の継承や祖廟の維持、祖師への尊崇の念は、いずれの時代でも変わることなく、脈々と天台宗教団の存続を支え続けたのである。 −317−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(121) 三、近現代の天台宗 ユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道のアジア側の起点は、黒竜江省の哈爾浜(ハルビン)である。かつてロシア人が多く滞在した、中国の最北端に位置するこの大都市は、異国情緒が溢れ、聖母守護教堂、聖ソフィア大聖堂などの東方正教会の施設をはじめ、ビザンティン式やバロック式の洋風建築が数多く残されている。哈爾浜には有名な仏教寺院がある。それは一九二一年に落成した極楽寺である。現在の黒竜江省仏教協会の所在地とされ、同時に東北三省の四大叢林の一つと称されるこの寺は、天台宗の法脈を受け継いだ寺院でもある。 天台宗の千余年の歴史を眺めてみても、天台教団の北方進出は、唐代の五台山天台の例があるのみで、ほとんどは江南の一角を活動拠点としていた。天台宗の全国範囲に及ぶ伝教活動は、二〇世紀初頭の民国時代になってから始められたのである。その立役者は諦閑である。1、諦閑の天台宗復興 諦閑は浙江省黄岩の出身、俗姓は朱氏、二四歳の時に国清寺で具戒を受け、その後は、敏曦のもとで天台教学を勉学した(ただし、その後、法脈伝承の相違により、諦閑は生涯に亘り、敏曦を、師ではなく「太祖」と尊称している)。二八歳の時、上海竜華寺の定融より智旭派の法脈を授けられ、正式に天台教観を伝持する第四三代の天台祖師となった。一九一二年、諦閑は荒廃したかつての宋代天台の祖庭、延慶寺を再興し、知礼が創建した天台浄土教を修める十六観堂を「観宗講寺」と改めた。翌年に「観宗研究社」を開設し、民国期の天台教学の復興拠点として、僧侶を育成し、天台教学の研究をはじめた。また延慶寺の開祖知礼が制定した「十方住持制」に基づき、門弟たちを通して全国各地に天台寺院を創設し、天台教学の伝播に尽力した。一九三二(民国二一)年七月、七五歳にして観宗講寺で入滅した。その著書に、『大乗止観述記』、『教観綱宗講録』、『普門品講義』などがある。 諦閑の入室弟子は宝静、倓虚、静権、定西などを含む数十人に及び、在俗の弟子は十万人に上ると言われる。 宝静(一八九九〜一九四〇)は民国初期、雲南、香港、東南アジア諸国を転々と弘法した。一九二七年、天台教学の専門誌『弘法月刊』を創刊し、 −316−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(122) 一九三二年は諦閑の後を継ぎ、天台四四祖として観宗講寺に住持した。その著書には、『修習止観坐禅法要講義』、『台宗二十五方便浅説』などがある。その弟子の顕明(一九一七〜二〇〇七、天台四五祖)は、一九八四年よりアメリカに渡り、アメリカ仏教会の会長を勤め、ニューヨーク州の莊嚴寺にも住持している。覚光(一九一九〜)は宝静より法脈を受け、天台四六祖になり、現在は香港の観宗寺の住職であり、香港仏教連合会の会長でもある。 倓虚(一八七五〜一九六三)は、天台宗北進の立役者として名が残る。営口(遼寧省)の楞厳寺、長春(吉林省)の般若寺、哈爾浜(黒竜江省)の極楽寺(この三寺は瀋陽の慈恩寺と合わせて東北四大叢林と呼ばれている)、青島(山東省)の湛山寺などを創建したほか、瀋陽(遼寧省)の般若寺、天津の大悲院などを再興した。それぞれの天台寺院に僧侶の育成機関である仏学院を置いたことは注目される。一九四九年の四月、彼は香港の華南仏学院の院長になり、その後生涯に亘り、香港で天台教学を弘め、天台精舎、極樂寺、仏教印経処、中華仏教図書館など数多くの仏教施設を作った。現在、香港の約四〇〇の仏教寺院の半分弱が天台の法脈を持つという事実は、倓虚をはじめとする天台僧の努力によるものである。その著書には、『楞厳玄義』、『妙玄要旨』などがある。 静権(一八八一〜一九六〇)は、一九三一年、国清寺の住持可興(臨済宗の四五世門人)の要請を受け、天台山で仏学研究社を開き、国清寺の妙法堂で天台教学を伝授したほか、国清寺の再建にも力を尽くした。人民中国が成立した後、一九五七年に中国仏教協会の副会長に選出されている。その著書には、『天台宗綱要』(但し、現在の流布本は別人による偽作であるとする説もある)、『大勢至菩薩念仏円通章講義』などがある。 定西(一八九五〜一九六一)は、一九二九年、倓虚に続き、哈爾浜の極樂寺の二代目の住職となった。彼は諦閑に深く帰依し、住職になった一七年間に亘り極樂寺の施設を増築し、中国東北部における最大の天台道場に押し上げた。日本軍の敗戦に伴い、彼は哈爾浜から離れて香港に渡り、東林念仏堂、仏経流通処などを建て、倓虚とともに伝教活動を続けた。著書に、『定西大師語録』などがある。2、台湾における天台宗の伝播 寧波の観宗講寺で宝静より学を受け、さらに天台山で静権から天台の法脈を −315−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(123) 嗣いだ斌宗(一九一一〜五八)は、台湾鹿港の出身で、一九四三年、台湾の新竹市に法源講寺を創建し、一九四九年、境内に南天台仏学研究院を開設し、台湾において天台教学を伝播できる人材を育成し、その後、台北に南天台弘法院、法済寺を創建した。斌宗の弟子である慧嶽(一九一七〜)は、立正大学博士課程を修了し、一九六六年に台湾に戻り、法済寺を受け継ぎ、天台学研究所、止観実践堂などを新設し、教と行の両面で天台教観の闡揚に尽力している。 斌宗のほか、倓虚の法脈を継いだ暁云(尼僧、一九一三〜二〇〇四)と慧峰(一九〇九〜七三)も台湾に天台の教えを伝えた。暁云は、総合教育機関である華梵大学を一九九七年に開設し、大学主催の「天台学会」も五回目を数える。一方、慧峰は若くして青島の湛山寺仏学院の学監に任命され、倓虚から重んじられている。一九四三年、台南市に湛然精舍を構え、南台湾における天台教学の伝播に尽力した。しかし、一九七三年、湛然寺の改修工事の完成を見ないうちに遷化した。現在、湛然寺の住持である弟子の水月(一九二八〜)は師の遺志を続いで、天台山の仏隴に因み、台南の虎頭埤に仏隴道場を設け、修行道場、天台宗の祖師堂、『因明』雑誌の編集部、仏教図書館なども置いた。3、現在の中国大陸の天台宗寺院 一九四九年、社会主義体制の中華人民共和国が建国した。宗派や民族を超えた中国仏教協会(北京・広済寺)が組織され、仏学院の設立、寺院の修復、仏教典籍の整理などを進め、仏教復興の兆しが見え始めた。当時の国清寺の住持は、諦閑の法孫にあたる澹雲(一九〇一〜七五)である。しかし、一九六〇年代の文化大革命によって、中国仏教協会の事業は停止させられ、天台宗のみならず、各地の仏教寺院は破壊され大きな打撃を受けた。歴代の天台宗の祖庭とされる国清寺、延慶寺、高明寺なども例外ではなく、僧侶は強制的に還俗させられた。その時の国清寺の寺務は、静慧(一九一五〜二〇〇〇)と唯覚(一九一九〜九〇)の両者によって担われ、一九七六年、唯覚は国清寺の住持となった。一九七八年、文化大革命が終息し、唯覚は当時の中国仏教協会の趙朴初会長が率いる中国仏教代表団とともに来日し、比叡山延暦寺など数多くの寺院を訪問した。一九八二年、憲法の改正が行われ、従来の「無神論を宣伝する自由」の条文は削除され、あらためて国民は「信教の自由を有する」ことが明記された。九〇年代に入り、宗教活動や宗教団体の規則が整備され、仏教界もこれを機に、寺院の復興を加速させた。国清寺、延慶寺、高明寺など −314−


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略説中国天台宗・近世篇(林)(124) の天台寺院も、政府から「重点文物保護単位」(保護すべき重要文化財を有する機構)または「全国重点寺院」(国家の重要寺院)に指定され、天台宗寺院としての機能を徐々に取り戻し、仏学院など天台教学を学ぶ機関も開設された。その中で、特に国清寺は、日中韓三国の天台宗の祖庭として、住持僧可明(一九二八〜)の下で、各国の天台僧や信者の多大な支援を得て、往時の偉容を保持している。 天台宗の開祖智?は、開皇一七年(五九七)の冬、普段通り説法をした後、自らの死を弟子たちに告げて、「私たちは、仏の教えによって出逢い、親しくなった。仏の正伝の法脈を授けたことで、師資の相承(弟子が師から仏法を継承すること)ができた。これから代々この法脈を正しく伝授できないものは、仏弟子とは言えない!」と遺言し、涅槃に入った。以来千四百年の間、天台宗は智?の遺言を順守し、時代の流れとともに枯栄衰盛を経験しつつ、その宗風を今日にまで伝えている。 


〔附記〕 本稿は、『略説中国天台宗・陳隋編』(『言語・文化・社会』第8号、2010、学習院大学)、『略説中国天台宗・唐宋編』(『駒澤大学仏教学部研究紀要』第 68 号、2010、駒澤大学)の続編である。これら三篇の論文は、駒澤大学で筆者が開講した平成二一年~ 二二年の「仏教特講」の一部を基礎としたものである。原稿の修正段階においては、池田魯参先生から、各節ごとに貴重なご指摘ご教示をいただいた。先生は、今後の研究に新たな方向性をも示してくださった。先生の学恩に対しては、「感謝」の一言では言い尽くせない気持ちでいっぱいである。

 元・明・清時代の天台宗に関する日本や中国の先行研究は多数あり、本稿を執筆するにあたり、参照した主な著書や資料は以下の通りである。


慧嶽『天台教学史』(中華仏教文献編纂社、1974)

陳公余・野本覚成『聖地天台山』(佼成出版社、1996)

蔭木原洋「洪武帝の仏教政策−宋濂と季潭宗泐に焦点を当てて」(上)(下)(兵庫教育大学東洋史研究会、『東洋史訪』5-6、1999-2000

朱封鰲・韋彦鐸『中華天台宗通史』(宗教文化出版社、2001)

朱封鰲『天台宗史迹考察与典籍研究』(上海辞書出版社、2002)

野口善敬『元代禅宗史研究』(禅文化研究所、2005)

果玄『台湾仏教天台宗伝播史』(南天書局、2006)

心皓『天台教制史』(厦門大学出版社、2007)

林鳴宇『宋代天台教学の研究』(山喜房仏書林、2003)

林鳴宇「宋代天台における禅宗批判の諸相  『釈門正統』・『仏祖統紀』を中心に」(禅文化研究所、『禅文化研究所紀要』27、2004)林鳴宇「新出資料 延慶寺歴代住持譜の意義」(花園大学、『禅学研究』87、2009)


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method of Zen which was to see straightway into the truth of Enlightenment and attain Buddhahood without going through so many stages of preparation prescribed by the scholars. Our knowledge of the life of Bodhidharma comes from two sources. One, which is the earliest record we have of him is by Tao-hsüan道宣in his Biographies of the High Priests 高僧伝 which was compiled early in the T‘ang dynasty, A.D. 645. The author was the founder of a Vinaya sect in China and a learned scholar, who, however, was living before the movement of the new school to be known as Zen came into maturity under Hui-nêng, the sixth patriarch, who was nine years old when Tao-hsüan wrote his Biographies. The other source is the Records of the Transmission of the Lamp景徳傳燈録, A.D. 1004, compiled by Tao-yüan道原early in the Sung dynasty. This was written by a Zen monk after Zen had received full recognition as a special branch of Buddhism, and contains sayings and doings of its masters. The author often refers to some earlier Zen histories as his authorities, which are, however, lost now, being known by the titles only. It is quite natural that these two accounts of the life of Bodhi-Dharma should vary at several points. The first was written when Zen was not yet fully established as a school, and the second by one of the Zen masters. In the first, Dharma, the founder of Zen, is treated as one of the many other Buddhist priests eminent in various fields as translators, commentators, scholars, Vinaya-followers, masters of meditation, possessors of miraculous virtues, etc., and Dharma could not naturally occupy in such a history any very prominent position distinguishing himself from the other ‘high priests’. He is described merely as one of those ‘masters of meditation’ whose conception of dhyana did not differ from the old traditional one as was practised by the Hinayana followers.



Tao-hsüan did not understand the message of Dharma in its full signification, though he could read in it something not quite of the so-called ‘practice of meditation’. And therefore it is sometimes argued by scholars that there is not much of Zen in Tao-hsüan’s account of Dharma worthy of its first Chinese promulgator and that therefore Dharma could not be so regarded as is claimed by the followers of the Zen school of Buddhism. But this is not doing justice to Zen, nor to Tao-hsüan, who never thought of writing a Zen history before Zen came to be known as such. Tao-hsüan could not be a prophetic historian. While the biographical history of Tao-yüan contains much that is to be discredited as regards the life of Bodhidharma, especially that part of his life before he came to China, we have reason to believe that the greater part of Tao-yüan’s account of Dharma’s doings after his arrival in China is historical. In this latter respect Tao-hsüan must be taken as complementing Tao-yüan. It is not quite in accord with the spirit of fair critical judgment to be partial to one authority at the expense of the other without duly weighing all the historically known circumstances that contributed to the making of these histories. According to Tao-hsüan, Bodhidharma left many writings or sayings which were apparently still in circulation at the time of the author of the Biographies of the High Priests, but the only authentic writing of the Zen founder’s at present in our possession is a very short one, which is preserved in Tao-hsüan’s Biographies, as well as in Tao-



645年


高僧伝』 の内容・解説 | 教学用語検索|創価学会公式サイト-SOKAnet

k-dic.sokanet.jp/『高僧伝』(こうそうでん)/

正伝257人、付伝243人の伝記が収められている。高僧伝として初めて整備されたもの で後世の僧伝の範となった。 ②『唐高僧伝』。『続高僧伝』ともいう。唐の道宣の著作。30 巻。『梁高僧伝』に次いで、梁の初めから唐の貞観19年(645年)までの高僧の事跡を 記録したもの。正伝340人、付伝160人の伝記が収められている。その後も増補され、 正伝485人、付伝210人以上を数える伝記となった。なお、現行本には若干、巻数の 異同があるが、これは道宣の『後集続高僧伝』10巻が編入されたためとされる。 ③『宋 高僧伝』。



1004年

景徳傳燈録(けいとくでんとうろく、新字表記:景徳伝灯録、全30巻)は、中国北宋代に道原によって編纂された禅宗を代表する燈史である。

過去七仏から天台徳韶門下に至る禅その他僧侶の伝記を収録している。多くの禅僧の伝記を収録しているため、俗に「1,700人の公案」と呼ばれているが、実際に伝のあるものは965人である。 1004年景徳元年)に道原が朝廷に上呈し、楊億等の校正を経て1011年続蔵に入蔵を許されて天下に流布するようになったため、年号をとって、景徳傳燈録と呼ばれるようになった。これ以降、中国禅宗では燈史の刊行が相次ぎ、それはやがて公案へと発展した。 現在もなお、景徳傳燈録は禅宗を研究する上で代表的な資料であり、必ず学ぶべきものとされるが、内容は必ずしも史実とは限らない部分もある。

なお、撰者に関しては、元々は拱辰が編集したが、朝廷に提出する旅の途中で道原に横取りされて提出されてしまったとの説があるが、中国の仏教学者陳垣によって否定されている。

目次

内容編集

全30巻の内容は次の通りである。

  1. 釈迦を含む過去七仏から西天14祖の龍樹まで
  2. 西天15祖の迦那提婆から西天27祖の般若多羅まで
  3. 菩提達磨から東土五祖の弘忍まで
  4. 四祖道信傍流の牛頭宗及び、北宗神秀など南宗以外の僧
  5. 六祖慧能門下。荷沢神会南嶽懐譲青原行思慧忠国師など
  6. 南嶽門下。馬祖道一など。及び、馬祖門下。百丈懐海など
  7. 馬祖門下の続き。西堂智蔵塩官斉安帰宗智常など
  8. 馬祖門下の続き。南泉普願など
  9. 百丈門下。潙山霊祐黄檗希運福州大安など
  10. 南泉門下。趙州従諗など。及び、白居易など
  11. 潙山門下。仰山慧寂香厳智閑王敬初など
  12. 黄檗門下。臨済義玄裴休など。及び、仰山門下
  13. 南嶽系統。風穴延沼首山省念など
  14. 青原門下。石頭希遷。及び、石頭門下。天皇道悟丹霞天然雲巌曇晟投子大同など
  15. 青原三世。徳山宣鑑石霜慶諸洞山良价夾山善会など
  16. 徳山門下。巌頭全豁雪峰義存など。及び、石霜門下。九峰道虔など
  17. 洞山門下。雲居道膺曹山本寂など
  18. 雪峰門下。玄沙師備長慶慧稜鏡清道怤など
  19. 雪峰門下の続き。保福従展雲門文偃など
  20. 雲居門下。及び、曹山門下。育王弘通など
  21. 玄沙門下。羅漢桂琛など
  22. 雪峰三世。
  23. 雲門門下。
  24. 羅漢門下。法眼文益など
  25. 法眼門下。天台徳韶など
  26. 法眼門下の続き
  27. 禅宗以外の参禅者。宝誌傅大士南嶽慧思智顗僧伽萬迴豊干寒山拾得布袋。及び、短い問答
  28. 長い問答
  29. 偈頌
  30. 銘・歌・書

テキスト編集

上記のように、テキストには諸版あり、その校訂だけでも1つの研究分野を為し得、これまでに数多くの研究成果が公表されている。

関連項目編集

参考文献編集

外部リンク編集