金曜日, 2月 02, 2018

風信帖



第28話 暗号解読「風信帖」 - へげぞぞ超短編小説集第二期(へげぞぞ) - カクヨム

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880552932/episodes/1177354054880553179

 ちなみに、空海の「風信帖」の暗号の解き方は、簡単であり、縦に書いてあるものを横に読めばよいだけである。

 「風信帖」の一番上の文字を横に読むと、「風被恵不法随願及法仏降不」と読める。これは、仏から先を読まないという条件をつけて読むと、「風、恵みを得、法に則らず、願いのままに、法に及ぶ、仏降不」と読める。これは、「風(君子の徳? ポップ文化? 左道?)は得をして、法に縛られることなく、思いのままに行動でき、やがて、それが法になる」というちょっとびっくりするような世の中の奥義について書かれたものである。と説明したら、バカにされたことをわたしはとても恨んでいるのである。このように空海の「風信帖」は暗号文なのである。




風信帖(ふうしんじょう)は、空海最澄に宛てた尺牘(せきとく)3通の総称である。国宝に指定されており、指定名称は弘法大師筆尺牘三通(風信帖)(こうぼうだいしひつ せきとく さんつう)。


『風信帖』は、『灌頂歴名』と並び称せられる空海の書の最高傑作であり[1]、『風信帖』(1通目)、『忽披帖』(2通目)、『忽恵帖』(3通目)の3通を1巻にまとめたもので、その1通目の書き出しの句に因んでこの名がある。大きさは、28.8cm×157.9cm。東寺蔵。

もとは5通あったが、1通は盗まれ、1通は関白豊臣秀次の所望により、天正20年(1592年)4月9日に献上したことが巻末の奥書に記されている[2]

『風信帖』のスケールの大きさは日本の名筆中第一といえよう[3]。また、日本天台宗の開祖伝教大師最澄と真言宗の開祖弘法大師空海という平安仏教界の双璧をなす両雄の交流を示す資料としてもこの3通の存在は貴重である[1]

風信帖編集

3通とも日付はあるが年紀はなく、弘仁元年(810年)から3年(812年)まで諸説ある。1通目の宛名は「東嶺[4]金蘭[5]」、3通目は「止観[6]座主」とあり、ともに空海が最澄の消息に答えた書状であることがわかる。2通目には宛名がなく、最澄、もしくは藤原冬嗣の両説ある。

2通目の『忽披帖』は紙がやや異なるが他の2通は同じで、書体は3通とも行草体である。しかし、幾分筆致を異にし、ことに2通目は行書、3通目は草書が多い[3]。2通目の文中に「因還信[7]」、3通目に「因還人」とある所からみて、それぞれ率意の書であるとも思われる[8]

風信帖の評価

鈴木翠軒は『風信帖』について次のように記している[8]

古来、『風信帖』は空海の書として最上位に推され、代表作といわれているが、『灌頂記』の方が実際は上位であろう。3通のうち最初の1通は、さすがの空海も偉大なる先輩最澄に宛てただけに、かたくなったためか、空海のものとしてはやや萎縮している。(中略)第2通目は異色の風があって第1通より上位にあると思う。第3通目の草書風のものは最も傑出している。空海は行草の名人であるが、この最後のところの草書はそのうちでの尤なるものであろう。

風信帖(1通目)編集

1通目の狭義の『風信帖』である。書風は王羲之書法に則した謹厳なもので[1]、それは「風」や「恵」その他が『蘭亭序』と酷似していることでも立証できる[9]。特に「恵」の最後の点を右側に大きく離し、収筆を上方にはね上げる運筆は王羲之の書法の特徴の一つで、この収筆のはね上げにより、運筆のスピード感と切れ味を字形全体の印象として感じさせる効果をもたらす。王羲之書法に傾倒する人の筆跡にはこの運筆が見られ、米芾の『蜀素帖』の中の「穂」や「盡」にも認められる[10]

『風信帖』

風信雲書自天翔臨
披之閲之如掲雲霧兼
恵止觀[11]妙門頂戴供養
不知攸厝已冷伏惟
法體何如空海推常擬
隨命躋攀彼嶺限以少
願不能東西今思与我金蘭[5]
及室山[12]集會一處量商[13]
法大事因縁共建法幢報
仏恩徳望不憚煩勞蹔
降赴此院此所々望々忩々
不具釋空海状上
   九月十一日
東嶺[4]金蘭法前[14]
         謹空[15]

— 『風信帖』[16]

文面は、冒頭の挨拶、『摩訶止観』のお礼、比叡山には行けない旨を告げたあとに、「あなた(最澄)と堅慧(推定)と私の3人が集まって、仏教の根本問題を語り合い仏教活動を盛んにして仏恩に報いたい。どうか労をいとわず、この院(乙訓寺と推定)まで降りて来て下さい。ぜひぜひお願いする。」という趣旨の内容である[17]

忽披帖編集

2通目の『忽披帖』(こつひじょう)は、「忽披枉書」の句で始まるのでこの名がある。書風は一転して覇気に満ちた力強い書きぶりで[1]、精気があり、また情緒もある[2]

『忽披帖』

忽披枉書[18]已銷陶尓
御香兩褁[19]及左衛士
督尊書状並謹領
訖迫以法縁暫闕談
披過此法期披雲
因還信[7]奉此不具
釋遍照[20]状上
   九月十三日

— 『忽披帖』[21]

文面は、御香と左衛士の督[22]の手紙を受け取った旨を告げたあとに、「このところ法要が迫っており、お手紙を拝見したり、使いの方とも話をする時間がない。法要が済んだら早速に拝見する。使者の方にこの手紙を託す。」という趣旨の内容である[21]

忽恵帖編集

3通目の『忽恵帖』(こつけいじょう)は、「忽恵書礼」の句で始まるのでこの名がある。書風は流麗な草体で内熟した境地を示している[1]

『忽恵帖』

忽恵書礼深以慰情香[23]
等以三日来也従三日起
首至九日一期[24]可終
十日拂晨[25]将参入願
留意相待是所望
山城[26]石川[26]兩大徳[27]
渇仰[28]望申意也
仁王経[29]等備[26]講師[30]
去未還後日親将去
奉呈莫責々々也因
還人[7]不具沙門[31]遍照状上
   九月五日
止觀[6]座主法前
           謹空

— 『忽恵帖』[32]

文面は、「別便に托した御香その他の贈物は3日に落手した(または、香らは3日にこちらに参った)。3日からはじめた法要は9日に終わるので、10日早朝にお伺いしたい。どうか心に留めてお待ち下さい。山城と石川の両高僧は深くあなたを仰ぎ慕い、お会いしてお話ししたいと望んでいる。『仁王経』などの借用を申し出られたが、備講師が持っていっているので、後日必ずお貸ししたい。」という趣旨の内容である[17][32]

空海と最澄編集

空海

空海編集

中国では五筆和尚、日本では入木道の祖と仰がれ、その書流大師流、また嵯峨天皇橘逸勢とともに平安時代初期の第一の能書家として三筆と称された。まさに日本の王羲之ともいうべき不世出の能書家である。[2][8]