Pm
G1-W< ……P……W'-G1'
A< A
g1
|
G2
|
A
「とほうもない商品のあつまり」
…熊野純彦東大教授の「マルクス 資本論の思考」は、こんなふうにはじまる。
《....永山の目に飛び込んできたのは、まずはこういう一節であったはずである。〈資本制的な生産様式が支配している社会の富はひとつの「とほうもない商品のあつまり」として現象し、個々の商品はその富の原基形態として現象している。私たちの研究は、それゆえ商品の分析からはじめられるのである〉......》8頁まえがき
…「とほうもない商品のあつまり」、これだけで本書の勝ちである。「世界をつかむことば」として「全世界を獲得」しているとは言えないかも知れないが…
そもそもこれまでが、ようそけいたい、げんきけいたいなど日本語になっていない訳語が多すぎた。熊野のハイデガー翻訳より和語の採用がバランスとして成功している(ハイデッガーは42頁などで的確に参照される)。
宇野ヘーゲル関係、柄谷、経済表(439頁に図)、転形問題、擬制資本(架空資本,703頁)など、各巻のツボを押さえている。
宇野を批判しつつ宇野のトリアーデを採用していることに危惧があったが成功している。
要するに参照し易いのだ。
構成は宇野譲りだが、「第Ⅰ篇 資本の生成、第Ⅱ篇 資本の運動、第Ⅲ篇 資本の転換」という新たな章立てへの命名も日本語として的確。
ただし「全世界を獲得する」ためにはプルードン、ゲゼルの理解が欠かせない。
【目次】
はじめに――同盟綱領・再読――
序論 資本論をどう読むか
第Ⅰ篇 資本の生成
Ⅰ・1 商品と価値
Ⅱ・2 価値形態論 a
Ⅲ・3 貨幣と資本 b
第Ⅱ篇 資本の運動
Ⅱ・1 生産の過程 c
Ⅱ・2 流通の過程 c
Ⅱ・3 再生産表式 d
第Ⅲ篇 資本の転換 e
Ⅲ・1 利潤
Ⅲ・2 地代
Ⅲ・3 利子
おわりに――宗教批判・再考
あとがき
参考:
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/<資本の転換>/\
/ \ / \
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ \ 熊野純彦 資本の\
貨幣と資本\ 『資本論の思考』 /再生産表式
/______\ /______\
/<資本の生成>/\ /\<資本の運動>\
/ \ / \ / \ / \
商品と価値\ 価値形態論\ 生産の過程\ /流通の過程
/______\/______\/______\/______\
ただ本書は目次がよくない。
上記よりは詳しい目次が掲げられているがそれでもシンプルすぎて項毎の興味深いトピックを伝えていない。
人名索引はあるが項目索引がないのも勿体無い。
思考2013と哲学2018との比較用目次:
熊 野 純 彦
2013 2018
『マルクス 資本論の思考』せりか書房2013 『資本論の哲学』熊野純彦 岩波新書 2018
【目次】 【目次】
まえがき―世界革命と世界革命とのあいだで―
はじめに――同盟綱領・再読――
序論 資本論をどう読むか
第Ⅰ篇 資本の生成
Ⅰ・1 商品と価値
Ⅱ・2 価値形態論 第1章 価値形態論―形而上学とその批判
Ⅲ・3 貨幣と資本 第2章 貨幣と資本―均質空間と剰余の発生
第Ⅱ篇 資本の運動
Ⅱ・1 生産の過程
第3章 生産と流通―時間の変容と空間の再編
Ⅱ・2 流通の過程
Ⅱ・3 再生産表式
第4章 市場と均衡―近代科学とその批判
第Ⅲ篇 資本の転換
Ⅲ・1 利潤
Ⅲ・2 地代
Ⅲ・3 利子 第5章 利子と信用―時間のフェティシズム
おわりに――宗教批判・再考
終 章 コミューン主義のゆくえ
あとがき あとがきにかえて
―資本論の研究の流れにことよせて―
追記:
『マルクス 資本論の哲学』熊野純彦 岩波新書 2018/1/19
目次
まえがき―世界革命と世界革命とのあいだで―
第1章 価値形態論―形而上学とその批判
第2章 貨幣と資本―均質空間と剰余の発生
第3章 生産と流通―時間の変容と空間の再編
第4章 市場と均衡―近代科学とその批判
第5章 利子と信用―時間のフェティシズム
終 章 コミューン主義のゆくえ
あとがきにかえて―資本論の研究の流れにことよせて―
『思考』で採用された(宇野弘蔵をトレースした)構成が『哲学』では再編されている(本書終章を六とすれば、3×2=6)。
第4章(#4)で経済表(再生産表式の原型)が再度紹介される(166頁)。
終章(#6)では『経哲草稿』「ゴータ綱領批判」*が新たに参照される。
*
「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」254頁(岩波文庫望月訳38頁)
資本論以外に考察を広げるならまずは佐々木隆治『カール・マルクス』(ちくま新書)の方がいいかも知れない。価値形態論、再生産表式、信用の問題にポイントを絞ったのは正しいが。地代は#5:205,213に挿入されるのみ。
ライプニッツが頁iiiで、アリストテレスが#2:52頁で、カント(#5:193ではトマス・アクィナスと共に)とベルクソンが#2:79頁で参照される。
アルチュセールが#4:183頁で廣松渉が#6:256頁で言及される。
あとがき参考文献**にも柄谷行人(『世界共和国へ』263頁)と廣松渉らの名がある。
その他の人名索引(作業中):
アリストテレス#2:52,#3:87,#5:212
トマス・アクィナス#1:48,#5:193,205
アルチュセール#4:187
ヴェーバー#3:88
カント#5:193,213
ハイデガー#3:130
ヒューム#5:216
ヒルファーディング#4:184(転形問題)
フーコー#3:107
プラトン#3:87,#5:190,193
フロイト#3:100
ヘーゲル#2:77,#3:100(イエナ草稿),132,#4:176
ミル#3:99
ロック#5:215
通常価値形態論の解説はその集合論的な部分が強調されるが、「ist」を使わず「erscheine=あらわれる」(=前著では「現象し」)と表現される部分に着目する。ここは前著よりわかりやすくなっている。現象学的アプローチが成功している。翻訳者らしく重要単語にはドイツ語が併記される。(ただし資本論本文との対象は本人が訳しているせいかわかりやすくはない。『資本論の思考』と同じくディーツ版原書頁数の併記なのでディーツ版頁数記載の大月全集版が推薦されている(ほぼ同内容の国民文庫が評者からのオススメ)。ちなみにディーツ版には新旧二種あり世界の大思想版は旧の方だから原書頁数が合わない。岩波文庫版は原書頁数併記に改訂すべきだ。)
《資本制的な生産様式が支配している社会の富はひとつの「とほうもない商品のあつまり」として現象し、個々の商品はその富の原基形態として現象している。私たちの研究は、それゆえ商品の分析からはじめられるのである。》5頁
ちなみに前著では以下のようにこの部分の二箇所のerscheineの訳語として両方現象を使っていた、
《資本制的な生産様式が支配している社会の富はひとつの「とほうもない商品のあつまり」として現象し、個々の商品はその富の原基形態として現象している。私たちの研究は、それゆえ商品の分析からはじめられるのである。》
ただヘーゲル(言及多数)やカントへの言及は空回りしている。
位相が違うのだ。
これはアダム・スミスが二著で体現し、プルードンが貧困の哲学で説明している。
個人的には前著の転形問題関連は全部残しても良かったと思う。
#4:175,178の転形問題関連は重要。
「かれらはそれとは知らずに、それをおこなう」#1:44頁という資本論価値形態論直後(1:1:4)の
代表的な言葉に関してはカントではなくスピノザを参照すべきだが、スピノザは現象学と相性が悪い。
アンチノミーに関する記述があるのにプルードンが出てこないのは残念。
柄谷行人はマルクスと対立させない形でプルードンを再発見した。そこが画期的だった。
『マルクス 資本論の哲学』熊野純彦 岩波新書 2018/1/19
目次
まえがき―世界革命と世界革命とのあいだで―
第1章 価値形態論―形而上学とその批判 a
第2章 貨幣と資本―均質空間と剰余の発生 b
第3章 生産と流通―時間の変容と空間の再編 c
第4章 市場と均衡―近代科学とその批判 d
第5章 利子と信用―時間のフェティシズム e
終 章 コミューン主義のゆくえ
あとがきにかえて―資本論の研究の流れにことよせて―
**
あとがきで入門者用参考文献として挙げられていた本
注記以外岩波新書
宇野弘蔵『資本論の経済学』1969
柄谷行人『世界共和国へ』2006
内田義彦『資本論の世界』1966
大塚久雄『社会科学の方法』1966
佐藤金三郎『マルクス遺稿物語』1989
梅本克己『唯物史観と現代』1974
大川正彦『マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?』2004NHK出版
廣松渉『新哲学入門』1988
廣松渉へ『資本論の哲学』2010平凡社ライブラリー
参考:
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/<資本の転換>/\
/ \ / \
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ \ 熊野純彦 資本の\
貨幣と資本\ 『資本論の思考』 /再生産表式
/______\ /______\
/<資本の生成>/\ /\<資本の運動>\
/ \ / \ / \ / \
商品と価値\ 価値形態論\ 生産の過程\ /流通の過程
/______\/______\/______\/______\
宇野弘蔵『経済原論』と殆ど同じ。これは確信犯で細部は全く違う。
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ <分配論>/\
/ \ /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ /\ <生産論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\
ヘーゲル論理学と資本論との対応はもっと細かい。
追記:
資本論の哲学
熊野純彦 岩波新書 2018/1/19
目次
まえがき~世界革命と世界革命とのあいだで~
第1章 価値形態論~形而上学とその批判
第2章 貨幣と資本~均質空間と剰余の発生
第3章 生産と流通~時間の変容と空間の再編
第4章 市場と均衡~近代科学とその批判
第5章 利子と信用~時間のフェティシズム
終 章 コミューン主義のゆくえ
あとがきにかえて~資本論の研究の流れにことよせて~
____
熊野はボルトキェヴィッチには言及するが、ツガン=バラノフスキーまで遡行していない。個人的にはそこが不満。経済学の本ではないから欠点とは言えないが。
ボルトキェヴィッチが三分割創始
(消費部門を二つにしたのでカレツキとは違うが、カレツキはここから影響を受けているに違いない。もともとこの三分割は、ボルトキェヴィッチによれば☆54頁、ツガン=バラノフスキー『マルクシズムの理論的基礎』1905年によるもの。)
☆
石垣博美・上野昌美編訳[1982]『転形論アンソロジー』法政大学出版局
Bohm-Bawerk,E.[1896]Zum Abschluss des Marxschen Systems,in Sweezy[1949](P.,M.,スウィージー編,玉野井・石垣訳[1969]).
ボルトキェヴィッチ「マルクス体系における価値計算と価格計算」1906~7年所収。
参考:
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/<資本の転換>/\
/ \ / \
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ \ 熊野純彦 資本の\
貨幣と資本\ 『資本論の思考』 /再生産表式
/______\ /______\
/<資本の生成>/\ /\<資本の運動>\
/ \ / \ / \ / \
商品と価値\ 価値形態論\ 生産の過程\ /流通の過程
/______\/______\/______\/______\
内容一覧
まえがき
凡例
はじめに――同盟綱領[引用者注:共産党宣言]・再読――
序論 資本論をどう読むか
第Ⅰ篇 資本の生成
Ⅰ・1 商品と価値
Ⅰ・2 価値形態論
Ⅰ・2・1 価値形態(1) Ⅰ・2・2 価値形態(2)
Ⅰ・2・3 交換過程
Ⅰ・3 貨幣と資本
Ⅰ・3・1 商品流通
Ⅰ・3・2 信用取引
Ⅰ・3・3 資本形態
第Ⅱ篇 資本の運動
Ⅱ・1 生産の過程
Ⅱ・1・1 労働過程
Ⅱ・1・2 増殖過程
α 価値形成過程の分研
β 価値増殖過程の分析
γ 不変資本と可変資本
Ⅱ・1・3 剰余価値
α 絶対的剰余価値
β 相対的剰余価値
a 諸概念の規定
b 工場制手工業(マニュファクチュア)
c 機械と大工場
γ 資本の蓄積過程
a 労働の「包摂」
b 蓄積の諸様相
c 資本制の原罪
Ⅱ・2 流通の過程
Ⅱ・2・1 資本循環
α 貨幣資本の循環
β 生産資本の循環
γ 商品資本の循環
Ⅱ・2・2 資本回転
α 流通期間と流通費用
β 回転期間と回転回数
γ 固定資本と流動資本
Ⅱ・2・3 回転周期
Ⅱ・3 再生産表式
Ⅱ・3・1 価値の循環
Ⅱ・3・2 単純再生産
α 単純再生産の条件・再考
β 資本の蓄積と拡大再生産
γ 再生産表式論とはなにか
第Ⅲ篇 資本の転換
Ⅲ・1 利潤
Ⅲ・1・1 利潤率への「転化」
α 費用価格
β 利潤率
γ 生産条件
Ⅲ・1・2 一般利潤率の形成
α 生産価格
β 市場価格
γ 転形問題
Ⅲ・1・3 一般利潤率の傾向
Ⅲ・2 地代
Ⅲ・2・1 地代論の諸前提
Ⅲ・2・2 「差額地代」論
α 落流の例
β 差額地代
γ 絶対地代
Ⅲ・2・3 貨幣地代の形成
Ⅲ・3 利子
Ⅲ・3・1 商業資本の問題
α 商業資本
β 商業利潤(1)
γ 商業利潤(2)
Ⅲ・3・2 貸付資本の生成
α 貨幣取引資本
β 利子生み資本
γ 利潤の再分化
Ⅲ・3・3 信用制度の展開
α 信用制度の形成
β 銀行信用の問題
γ 架空資本の成立 ☆☆
おわりに――宗教批判・再考――
参考文献
あとがき
人名索引
参考:
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/<資本の転換>/\
/ \ / \
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ \ 熊野純彦 資本の\
貨幣と資本\ 『資本論の思考』 /再生産表式
/______\ /______\
/<資本の生成>/\ /\<資本の運動>\
/ \ / \ / \ / \
商品と価値\ 価値形態論\ 生産の過程\ /流通の過程
/______\/______\/______\/______\
/架空資本の成立 おわりにー宗教批判ー
/__\
/信用制度の展開
信用制度の形成_\/_銀行信用の問題
/\ /\
/__\<利子>/__\
商業資本の問題\ /貸付資本の生成
/__\/__\/__\/__\
/\ /\
/ \ / \
一般利潤率の傾向\ <<資本の転換>>/貨幣地代の形成
/______\ /______\
生産条件\ /転形問題 /\ /\
/__\<利潤>/__\ / \<地代>/_絶対地代
利潤率への「転化」\ 一般利潤率の形成 /地代論の\ 「差額地代」論
費用価格\/利潤率/生産\/市場\/__諸前提_\落流の\/_差額地代
/\ 価格 価格 例 /\
/ \ / \
/資本形態\ / \
/______\ /______\
/\ /\ 熊野純彦 /\<再生産 /再生産表式論とはなにか
/ <貨幣と資本> \ <<<資本論の思考>>> / \ 表式>/__\
/商品流通\ /信用取引\ 価値の循環\ /単純再生産
/______\/______\ /______\/条件\/_資本の蓄積と拡大再生産
/\ /\ /\ ・再考 /\
/ \ / \ /__\ / \
/ \<<資本の生成>> /交換過程\ /剰余価値\<<資本の運動>> /回転周期\
/______\ /______\ 剰余価値率の規定_\/相対的~ /______\
/\ /\ /\ /\ /\<生産の /\ /\<流通の 固定資本と流動資本
/ <商品と価値> \ / <価値形態論> \ / \ 過程>/ \商品資本の循環\ 過程>/__\
/ \ / \ 価値形態1\ 価値形態2\ /労働過程\ /増殖過程\ /資本循環\ /資本回転\
/______\/______\/______\/______\/______\/_____*\貨幣~\/生産~/__\/__\
著者紹介
熊野純彦(くまの すみひこ)
1958年、神奈川県生まれ。1981年、東京大学文学部卒業、現在、東京大学文学部教授。専攻は、倫理学、哲学史。
著書に『レヴィナス入門』『ヘーゲル』(以上、筑摩書房)、『レヴィナス』『差異と隔たり』『西洋哲学史 古代から中世へ』『西洋哲学史 近代から現代へ』『和辻哲郎』(以上、岩波書店)、『カント』『メルロ=ポンティ』(以上、NHK出版)。『戦後思想の一断面』(ナカニシヤ出版)、『埴谷雄高』(講談社)、『日本哲学小史』(編者・中央公論新社)など。
訳書として、レヴィナス『全体性と無限』、レーヴィット『共同存在の現象学』、ハイデガー『存在と時間」(以上、岩波書店)、カント『純粋理性批判』、同『実践
理性批判 倫理の形而上学の基礎づけ』(以上、作品社)。
*
2:1:2:2-
174頁
《よく知られているとおり、宇野弘蔵は『資本論』では労働過程に当たる部分を「労働=生産過程」として拡充し、そこに労働価値説が「論証」される場面をみとめようとした。そのさい、まず「価値形成過程」では「個々の生産過程の生産物が資本の生産物として社会的に流通する過程」のうちに、労働者が賃金によって労働生産物としての生活資料を資本から「買戻す」ことが注目され、この生活資料の価値規定を基軸として、他のいっさいの生産物が価値規定を受けることを示そうとする(宇野『著作集』第一巻、九四頁以下)。鈴木鴻一郎を中心として編成された原論体系では、この関係が逆になる(鈴木(編)、一九六〇年、一一一頁以下)他、宇野学派の内部でも理解は一様ではない。ちなみに柄谷行人が、NAMいらい強調する視点(柄谷、二〇〇〇年、参照)、すなわち産業資本の特性を、「労働者が資本の下で自らが作ったものを買いもどすシステム」にあるとする視角は、基本的に宇野原論体系のそれと一致している(柄谷、二〇一〇年、二八二頁以下)。》
労働者が「自らが作ったものを買いもどす」のはプルードンの主張でもある
☆☆
熊野はマルクスの二重性、資本の二重性を現象学的に解きほぐそうとしている(696~7頁)。
《 いわゆる『経済学批判要綱』の段階でマルクスが、株式会社を、資本一般、競争、信用につづけて、「資本の最高の完成形態」と位置づける構想を有していたしだいは、よく知られているとおりである。『資本論』第三巻における株式会社論は、とはいえ、草稿の未整理もあって、きわめて断片的なものに止まっている。本項では主要には、擬制資本の形成という論点との関連でのみ問題を考えているけれども、ここではまず、右に見られる株式会社観の一側面についてふれておく。
当面の文脈でのマルクスの認定の流れは、こうである。たとえば鉄道の敷設はかつて国家の事業であったが、株式会社の形成によりそれが私企業としても可能となる(論点1)。その結果として、当該企業はそれじたい一方で社会的な性格を帯びることになり(論点2)、他方では機能資本と貨幣資本との分化が進行することになる(論点3)。その意味で株式会社は、 一面では一定の限度内での「私的所有としての資本の廃棄Aufhebung des Kapitals als Privateigentum」なのであり、他面では「資本所有」からの「機能」の分割(vgl.s.453)、いわゆる〈所有と経営の分離〉を意味する。かくてそれは「資本制的生産様式そのもののなかでの資本制的生産様式の廃止であり、かくてまたじぶん自身を解消する矛盾」にほかならない。株式会社は、こうしてマルクスにとって、或る意味ではたしかに「あらたな生産形態へのたんなる通過点」としてあらわれていた(s.454)。
この認定をめぐっては、ここではこれいじょう立ちいらない。当面の論脈で、主要な問題はほかにある。
思考698頁:
株式会社制度は「じぶん自身を解消する矛盾」であると述べた直後にマルクスは、つづけてつぎのように書いていた。これも引用しておく。
じぶん自身を解消する矛盾として、この矛盾はまた現象のうちにも立ちあらわれる。それはいくつかの部面では独占を出現させ、したがってまた国家の干渉をも呼びおこす。それはあらたな金融貴族を再生産し、企画屋や発起人や名目だけの役員のすがたをまとったあらたな種類の寄生虫を再生産し、会社の創立や株式発行や株式取引についての、思惑と詐欺との金制度を再生産する。それは、私的所有による制御のない私的生産なのである。(s.454)
エンゲルスが付記しているように、マルクスはここで、じっさいに事件がおこる二〇年もまえにパナマ運河詐欺を予見しているかのようである。
699頁:
証券市場の成立
たんなる将来の収益請求権を示すにすぎない紙片が「二倍になるように見え、また場合によっては三倍になるように見える」(s.488)。株式という擬制資本が、かくて架空資本へと肥大化し、価値蓄積過程そのものがおなじ病理に感染する。いまや信用制度の中核を担っている銀行資本のかなりの部分は、しかもこうした各種証券、いわゆる「利子付証券」からなっている。銀行資本はかくしてこの意味でも、その相当部分が「純粋に架空的なもの」にほかならない(s.487)。銀行に集積された貨幣資本の大きな部分が、たんなる価値請求権という「価値記号」となっているからである(s.524.f)。かくしてまた、「この信用制度のもとでは、すべてが二倍にも三倍にもなって、ただの幻想(bloBes Hirngespinst)に転化する」のだ(s.490)。
(架空資本:fiktives.岡崎次郎訳『資本論』は「架空資本」という訳語を採用する。岡崎自身はのちに『資本論』入門書を執筆するさいには「擬制資本」という訳語を選択している。703頁)
700頁:
その結果、どうなるか。帰結するところは、およそ「最大規模での収奪」である。株式制度そのものが示すものは、一箇の「社会的所有」でしかありえない。ところが、とマルクスは書いている。
この収奪は、ところが資本制的システムそのものの内部では、反対のすがたをとり、少数者による社会的所有の取得としてあらわれる。さらに信用は、これらの少数者に対してますます純粋な山師の性格を与えるのだ。所有はここでは株式のかたちで存在するのだから、その運動や移転は、よりいっそうひとり取引所投機の結果となるのであって、そこでは小魚は鮫に飲みこまれ、羊は取引所狼に呑みこまれてしまう。(s.456)
哲学238頁:
株式制度(Aktienwesen)は、たしかに、生産手段の社会的所有への移行をあらわしているかに見える。それはしかし「資本制的な制限のうちになお囚われて」おり、それゆえ株式制度は「社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を克服するのではなく、ただこの対立をあらたなすがたで形成するだけ(ibid.)なのです。
熊野はマルクスの二重性、資本の二重性を現象学的に解きほぐそうとするが、概念の軽視につながる恐れもある。大くの場合成功しているが。
資本論の思考701~2頁:
《いま、株式制度における流通の形態を考えてみる。株式(A)が発行されて、
貨幣(G1)と交換される。Gはふたつの部分に分かれ、 一方(g1)が創業者
利得となって、流通から脱落する。他方は機能資本に転化して、たとえば産業資本の
循環を描くことだろう。たほう株式そのものが売られて、持ち手を替えるかぎりでは、
あらたな貨幣(G2)が流通手段として登場することになる。流通圏は、ヒルファー
ディング『金融資本論』にしたがえば、かくてつぎのようになるだろう。
Pm
G1-W/ ……P……W'-G1'
A/ \A
|\g1
G2
|
A
…垂直方向の流通(A-G2-A)は、証券市場で生起し、しかも反復的に生起する。…》
参考:
金融資本論 上 岩波文庫 ヒルファディング Hilferding/著 岡崎次郎/訳
原著 Das Finanzkapital 1910
旧版220頁
英語版
2/5:7/25
Pm
G1-W< ……P……W'-G1'
A< A
g1
|
G2
|
A
G1-W-Pm……P……W'-G1'
A/ \A
|\g1
G2
|
A
ドイツ語原著:
Pm
G1-W< ……P……W'-G
A< A
g1
|
G2
|
A
2:2:1:β:294頁
生産資本の循環も参照
(一番右の部分が微妙に3ヶ国語版全部違うが熊野版が正確だろう)
____
106(1:3:2)
(吉田憲夫『資本論の思想』参照)新書#2:58頁
1:3:1
W─G(亜麻布─貨幣)、すなわち、W─G─W(亜麻布─貨幣─バイブル)のこの最初の段階は、同時に、G─W(貨幣─亜麻布)であり、W─G─W(小麦─貨幣─亜麻布)というもう一つの運動の最後の段階である。
W─G─W(小麦─貨幣─亜麻布)
X
W─G─W(亜麻布─貨幣─バイブル)
X
W─G(バイブル─貨幣)
第17段落
一つの商品の総変態は、四つの極と、3人が必要である。
① リンネルW - 貨幣 G ②
① 貨幣 G - W 聖書 ③
★四つの極とは、1行目のリンネルと貨幣、2行目の貨幣と聖書のことであり、三人の登場人物とは①リンネル生産者(リンネルを売り、聖書を買う)、②小麦生産者(小麦を売り、リンネルを買う)、③聖書生産者(聖書を売る)の三人である。
もしくは、
第17段落
一つの商品の総変態は、四つの極と、3人が必要である。
①1リンネルW - 貨幣 G 2
②
3貨幣 G - W 聖書 4③
★四つの極とは、1行目のリンネル1と貨幣2、2行目の貨幣3と聖書4のことであり、三人の登場人物とは①小麦生産者(小麦を売り、リンネルを買う)、②リンネル生産者(リンネルを売り、聖書を買う)、③聖書生産者(聖書を売る)の三人である。
____
スラッファとマルクスの類似の問題は熊野2013も提示している。
〔需要関数と生産関数の違い――イタリア人経済学者ピエロ・スラッファは、「マーシャル・クロス」を「〈需要関数〉は、効用逓減という基本的かつ自然的なる仮定の上に立つ。これに反して、生産における関数関係は、これよりもずっと複雑な仮定を持った体系の結果である。限界効用に関する研究が、価格と(消費された)数量との関係に注意をひきつけたあとではじめて、類推によって費用と生産量との関係という均斉的な概念が生まれたというのが事実である」(『経済学における古典と近代』、菱山泉・田口芳弘訳、有斐閣、1956年)と評した。十分ではないが、極めて妥当な鑑定である。〕
《要約すれば、価値は直接価格を決定し,直接価格は生産価格に転形される。
そして市場価格は、それらの生産価格のまわりを変動することになる。転形問
題は、それゆえ、価値を価格に転形する問題でなくて、代わりに、それは直
接価格を生産価格に転形する問題である。》『価値と価格の理論』リヒテンシュタイン著202頁
無差別曲線の効用空間――ミクロ経済学の空間――には、このプリンピキアの「自然は常に単純であり、常にそれ自身に倣うもの」との確信が再現されていると思われる。それは「自然は空虚そのものである」と喝破したゲーテが、もはや人の住むに耐えなくなった古い城塞と形容したニュートン科学の牙城、もしくは、その城の「プラモデル」である。〕
ジェボンズは、後に、「エッジワース・ボックス」として知られるようになる交換理論のアイデアを発案した。その前提にあったのは、箱(ボックス)の縦横のサイズに相当する所与の商品の存在が仮定されていることである。
この点を手厳しく批判したのは、ケンブリッジ大学のアルフレッド・マーシャルであった。ジェボンズは、価値は限界効用にのみ依存するという立場を貫くために、「生産量(A)は供給(B)を決定する」→「供給(B)は最終効用度(C)を決定する」→「最終効用度(C)は価値(D)を決定する」といった因果の連鎖を主張した。マーシャルは、これはおかしいと言う。A→B→C→Dならば、途中を端折って、A→D、つまり、生産量が価値を決めるとして構わないことになる。それぐらいならば、効用(C)が供給(B)を決定し、供給(B)が生産量(A)を決定し、生産量(A)が価値(D)を決定すると因果を逆流させて言った方が、真実に近いとも。
マーシャルがこうした批判をしたのは、価値は消費者の効用によって決まるとか、生産量によって決まるとか、バランスを欠いて、消費と生産の一方の側から説明するのではなくて、価値=価格は需要と供給の両者で決まる《需給のシンメトリー》の均衡点であると言いたかったからである。誰でもが図解的に知っている需給均衡のあのシンメトリーな一致――需要曲線と供給曲線が交叉――のイメージは、「マーシャリアン・クロス」の名で呼ばれてきた。一般に広がった経済観における十字架だ。
〔需要関数と生産関数の違い――イタリア人経済学者ピエロ・スラッファは、「マーシャル・クロス」を「〈需要関数〉は、効用逓減という基本的かつ自然的なる仮定の上に立つ。これに反して、生産における関数関係は、これよりもずっと複雑な仮定を持った体系の結果である。限界効用に関する研究が、価格と(消費された)数量との関係に注意をひきつけたあとではじめて、類推によって費用と生産量との関係という均斉的な概念が生まれたというのが事実である」(『経済学における古典と近代』、菱山泉・田口芳弘訳、有斐閣、1956年)と評した。十分ではないが、極めて妥当な鑑定である。〕
ただし、マーシャル自身は、「自利心の自由な作用」によって成立するこの需給均衡点が一般に社会的に最大満足をもたらす点であるとし、スミスの自然価格のようなイメージを付与していたが、貧者と富者では同じ六ペンスでも貨幣の限界効用が違ってくることによって、需給均衡点を超えて生産を拡大した方が総効用は増大するようなケースも考えられるとした。また、該当する商品が収穫逓減か収穫逓増かの違いによって、つまり、豊作で売れ残るミカンか市場を独占するマイクロソフトのソフトかによって、総効用最大は需給均衡点からズレてくるようなケースも考慮した。
マーシャルのこうしたファジーな部分を勘案しようとする経済学の伝統は、「ケンブリッジ学派」として継承されることになるが、グローバルな経済と経済学の展開の中では、主流派にならなかった。主流派の新古典派経済学は、ジェボンズ流の「快楽と苦痛の微積分学」に無邪気に通じたアメリカの経済学者にノーベル経済学賞を乱発、権威化を図ることに成功した。マーシャル自身が発した危惧の言葉として、「自由企業の下にある世界は、経済騎士道が発展するまでは、完全な理想から程遠いだろう」(”Social Possibilities of Economic Chivalry(1907)”、根井雅弘『経済学の歴史』)が伝わる。
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第Ⅲ篇 資本の転換
506頁
三部門構成への改変
再生産表式論を展開するにあたってマルクスは、生産部門のうちで第I部門(生産手段生産部門)と第Ⅱ部門(消費手段生産部門)を区別していた(本書、Ⅱ・3・2参照)。生産手段とは、言いかえるなら生産財であり、消費手段あるいは生活手段は主要には労働者用の消費財のことである。この二部門については、とりあえずそのままとしておく。マルクスもまた、拡大再生産を問題とするにさいし、部門Ⅱにかんしては、通常の「消費手段」と「奢侈消費手段」という、いわば「亜部門」への分割をみとめている(本書、Ⅱ・3・3参照)。
ボルトケヴィッチは、この亜部門を第Ⅲ部門として独立させる。これがボルトケヴィッチにあっては、問題を分析するさいの方法的枠組みとして重要な意味をもつことになるだろう。再生産表式を素材補填の関係としてとらえる場合、奢修品は産出の側にはあらわれるにもかかわらず、投入の側にはあらわれないことになるからである。
いま、資本の構成部分を示す記号はマルクス的な標記を採用して、マルクスのいう単純再生産を考えてみる。単純再生産が可能となるためには、第I部門において、その総資本価値が三部門全体の不変資本価値と一致し、第Ⅱ部門にかんして、それが三部門全体の可変資本価値と合致し、第Ⅲ部門をめぐっては、剰余価値の総計とひとしいことが必要である。
これを「価値表式」として簡略に示せば、つぎのようになる。ただし添え字1〜3は部門I〜Ⅲの別を示す。
I(生産財生産部門)c1 + v1 + m1=c1+c2+c3
Ⅱ(消費財生産部門)c2+v2+m2=v1+v2+v3
Ⅲ(奢侈財生産部門)c3+v3+m3=m1+m2+m3
そのうえで、 一般利潤率をr、第Iから第Ⅲ部門について、価値と生産価格の乖離率をそれぞれ x、y、z として、「生産価格表式」として示すとすると、つぎのとおりである。ただし、利潤率は1未満の小数であらわし、それを費用価格1に対して加算したものを、費用価値部分(乖離率との積にもとづいて価格タームで計算)に掛けることで生産価格が計算されるものとする。
I(生産財生産部門) (1 + r) (c1x + v1y) = (c1+ c2 + c3) x
Ⅱ(消費財生産部門) (1 + r) (c2x + v2y) = (v1 + v2+ v3)y
Ⅲ(奢侈財生産部門) (1 + r) (c3x + v3y)=(m1 + m2+ m3) z
この三つの式を連立方程式ととらえて、その解法を考えるとき、問題が数理的なかたちで明確になる。ボルトケヴィッチの思考のみちゆきを、もうすこしだけ跡づけてみる。
ボルトケヴィッチによる「追加方程式」
ボルトケヴィッチの見るところでは、マルクスは価格形成を分析するにあたって、問題となる項のそれぞれが、先行する項によって因果的に規定されているとみなす、「継起主義」を取っている。この認定そのものの当否は、ここでは措いておく。これに対してボルトケヴィッチ自身の手つづきは、一般利潤率と生産価格とを「同時決定」しようとするものであって、その背後にはリカード流の生産価格論が存在するばかりでなく、そこではまたワルラス的な一般均衡論との接合という問題関心がはたらいていた。
さて、見られるとおり、ボルトケヴィッチの生産価格表式において、未知数はx、y、z、それにrの四個であって、それに対する方程式の数は三である。方程式を解いて未知数をもとめるためには、もうひとつの方程式を追加しなければならない。ボルトケヴィッチそのひとは、貨幣材料である金にかんしては価値と価格の乖離が生じないものと想定して、第Ⅲ部門の奢侈財生産をその金生産により代表させることで z=1と置き、方程式を追加して連立方程式を解こうとこころみた。
その帰結は、とりあえず二重である。第一に、いわゆる総計一致命題のうちで、総剰余価値=総利潤は成立するいっぽうで、総価値=総生産価値は成立しない。なぜなら、第Ⅲ部門(そこではz=1と想定されている)の有機的構成は、社会的平均と一致しないからである。第二に、第四の方程式z=1をくわえて価格表式の連立方程式を解いても、第Ⅲ部門の係数はふくまれないから、利潤率の決定にさいしては、第Ⅲ部門の資本の有機的構成は関与しない、ということである。
ボルトケヴィッチの問題提起と解法は、スウィージーによって紹介されることでひろく知られるようになった。そののち、ボルトケヴィッチの追加方程式z=1の評価(それを承認するか、べつの方程式によって置換するか等々)をめぐって、論者たちは、いくつかの立場へと分岐してゆくことになるが、ここでは立ちいらない。
ボルトケヴィッチがあきらかにしたことがらを要約するなら、それは、いわゆる総計一致命題がきわめて限定的な条件のもとでしかなりたたないということである。その前提は、すでに確認しておいたように、第Ⅲ部門すなわち奢侈財生産部門が、そもそも産出の側にはあらわれるにもかかわらず、投入の側にはあらわれないという事情にほかならない。このようなそれじたい余剰的な性格
をともなう特殊な財を前提としないとすれば、結果もまたことなってくるのではないだろうか。
508頁
スラッファ、およびスラッファ以後
あらたな次元で考察を展開するにいたったのは――ボルトケヴィッチ自身もそうであったように――非マルクス経済学系のエコノミストたちであった。問題の地平をあらためて設定するのに影響力があったのは、まずスラッファの「商品による商品の生産」論である。
いま、均一の利潤率(一般利潤率)をおなじくr、くわえて同様に均一の賃金率をwとしよう。また労働量をLとし、商品の価格をpとする。そのとき、以下の一連の等式がなりたつものとしてみる。
(Aapa+Bapb+………+ Kapk)(1+ r )+LaW=Apa
(Abpa+Bbpb+………+Kbpk)(1+ r )+Lbw=Bpb
………………………………………………………
(Akpa+Bkpb+………+Kkpk)(1+ r )+Lkw=Kpk
たとえば第一行についていえば、左辺のAa, Ba, Ka は、右辺の商品aの産出量Aを生産する産業部門が、まいとし投入する商品a、b、……kの数量を示す。以下、商品kまで同様である。
このように物量体系と価値(価格)体系とを関連づけるとすると、そこで仮定された標準体系にあっては、投入される商品と産出される商品の物的構成比がひとしい。標準体系においては、それゆえ、費用価格を生産価格化したとしても、投入の側にあらわれる商品と、産出の側にあらわれる商品の双方で、商品の構成比が同等であることになる。したがって価値と生産価格との乖離は存在しない(相殺される)はこびとなり、いわゆる総計一致命題が成立するしだいとなるだろう。
スラッファの標準体系は、こうして、その全体が生産的であり、純生産物のみを産出する。個々の商品種は別種の商品の生産財であるか、純然たる消費財であって、そのけっか体系総体は「自己補填状態」にある。このような標準体系によって産出される、 一種の合成商品がスラッファのいうところの「標準商品」にほかならない。
スラッファの標準体系モデルは、いわゆる静学的モデルを提供しているだけではなく、その理論全体がけっきょくフィクショナルな前提にもとづいているようにも見える。スラッファ以後、問題となったのは、この点である。
これに対して、たとえば置塩信雄は、(ボルトケヴィッチが継起主義的な方法として斥けた)反復的アルゴリズムを――価値に対応する価格ベクトルRから出発し、市場生産価格Pへといたる過程をマルコフ過程をもちいて――定式化することで、総計一致命題(総価値=総生産価格)を導出し、さらにまたモデルそのものの動学化をはかった。その後マルクスとフォン・ノイマンを接合し、いわゆる「マルクス‐フォン・ノイマン体系」を構築することで、森嶋通夫が問題に動学的な解決を与えるにいたったことも、よく知られているところだろう。
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資本論
3:5:35:2
《第三五章 貴金属と為替相場〔612〕
第二節 為替相場(末尾)
…
重金主義(モネタールジステール)は本質的に旧教的であって、信用主義(クレディッ
トジステール)は本質的に新教的である。「スコットランド人は金貨をきらう。」
(The Scotch hate gold.)紙幣としては、諸商品の貨幣定在はただ社会的な定在で
ある。救済するものは信仰である。諸商品の内在的精霊としての貨幣価値を信仰
すること、生産様式とその予定秩序とを信仰すること、自己じしんを増殖する
資本の単なる人格化としての、生産の個々の代理者を信仰すること。だが、新教が
旧教の基礎から解放されていないように、信用主義は重金主義の基礎から解放され
ていない。》河出書房新社世界の大思想
熊野資本論の思考712頁参照
ケインズの脱金本位制案も金の流出を防ぐためのものだ。マルクスは ケインズに先行している。
544頁参照:
| 本屋のカガヤ (@kagayam) |
熊野純彦『マルクス 資本論の哲学』(岩波新書)の「他方/たほう」出現頁。
他方 11,20,27,38,40,48,52,56,57,64,76,77,85,93,94,102,105,118,131,147,154,170,190,221,240,245,247
たほう 2,25,63,125,169,184,194,212,226,233
必ずしも統一する必要はないが、平仮名《たほう》は読みづらいの…… pic.twitter.com/mb4WqwB0wV |
好意的に読めばマルクスの二重性を現象学的に解きほぐそうとしている…
問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
熊野も踏襲しているがこの点は宇野弘蔵『経済原論』(岩波文庫版が入手可能)がわかりやすい。
なお宇野のヘーゲル依拠はそのアイデアをマルクス自身の草稿、レーニンの考察に負っているとしても徹底しているという点で今なお影響力がある。マルクス自身はヘーゲル的トリアーデを捨てカント的になっていると思うが。
*:
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。
…マルクスはこれを剰余価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、
労働力の搾取度を示すものとするのである。」(岩波全書版『経済原論』67頁)
**:
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率は
m/(c+v)として、剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係を
あらわすものになる。」(岩波全書版『経済原論』137頁)
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ <分配論>/\
/ \ / \
/ 利潤 \ / 地代 \
**_____\/______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ *\ <生産論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\_
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第二章 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働=生産過程
第二節 価値形成=増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展 *
第二章 資本の流通過程
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産〜〜資本の再生産と労働力の再生産
第二節 拡張再生産〜〜資本家的蓄積の現実的過程
第三節 社会総資本の再生産過程〜〜価値法則の絶対的基礎
第三篇 分配論
第一章 利潤 **
第一節 一般的利潤率の形成〜〜価値の生産価格への転化
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)〜〜需要供給の関係と超過利潤の形成
第三節 一般的利潤率の低落の傾向〜〜生産力の増進と景気循環
第二章 地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
参照:
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html リンク切れ
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re2_index/U/uno_kozo.html リンク切れ
メモ(作業中):
小幡価値論批判への書評
ものすごく細かい話だが、熊野純彦は『資本論の思考』最終部702頁でヒルファー
ディングの『金融資本論』所収の図を引用している。自分の考えだと正確に引用し
ているのは熊野だけ
各種言語版のサイト、旧版岩波文庫版(上220頁)、すべて不正確なのに、だ。
熊野版:
《
Pm
G1-W< ……P……W'-G1'
A< A
g1
|
G2
|
A
…垂直方向の流通(A-G2-A)は、証券市場で生起し、しかも反復的に生起する。…》702頁
「ひとたび創造されれば、株式は、それが代表する産業資本の現実の循環とはもはや
なんら関係がない。」岩波文庫旧版上220頁
熊野以外は、Aの位置やG1'の表記法を間違えている、と思う。
ちなみに岩波文庫では右端はG'1
山口 重克
第三部を分配論ではなく競争論という呼び方にしている。また利子についての記述を第一部に持ってきている。第三部の利潤利子地代という三位一体の構図が崩されている。これはこれで卓見で、現代的要求に基づいたマルクス、宇野の読み替えと言える。
序論
第1篇 流通論
第1章 商品
第2章 貨幣
第3章 資本 (貸付金融資本)☆
第2篇 生産論
第1章 労働・生産過程
第2章 剰余価値の生産☆☆
第3章 資本・賃労働関係の再生産 (再生産表式)
第3篇 競争論
第1章 諸資本の競争 (利潤、地代)
第2章 競争の補足的機(商人資本)
第3章 景気循環論 (好況、恐慌、不況)
☆
《山口原論の「資本」章は,方法・体系の処理として,いくつかの特色をもっている。いわゆる産業資本的形式を「商品生産資本の形式」とするなど,資本形式の名称を抽象化していること。三形式の順序として,産業資本的形式(山口原論においては「商品売買資本の形式」)を金貸資本的形式(山口原論では「貨幣融通資本の形式」)の前にもってきていること。資本循環論を「流通論」の資本形式論に,資本回転論を「競争論」の利潤論に吸収し,資本循環論の変態論としての側面を資本形式論にとりこみ,循環の三形式論はなくす。PmやAを組み入れた範式は再生産表式論のところで初めて登場。符号Pは生産の表示とする。といった諸点である。》勝村務
「資本の価値と価値喪失過程」
☆☆
2:2:1
分配と連結
Km PmI PmII
人 間 生 活
Km=最終消費財 Pm=生産手段