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嬬二義ム的な人間平等と民主主義的な同質性との対立を顧慮しないで、M・J。ボンが語っている――、2 次に近、代、国、家、ぃか機、(アルフレット・ウェーバー)および最後に議、分主、妻の危、格である。ここに問題とされている議会主義の危機は、社会主義と民主主義との結びつきのように、民主主義と自由主義とが一時期相互に結びつきえたということ、だがこの自由民主主義が権力を獲得するや否や、直ちにその二つの要素の関係が危機に瀕せざるをえなくなるということに基づいている。それはあたかも、近代の大衆民主主義が本質的に自由主義的要素を含むために、やはり真実においては社会=自由=民主主義となるところの社会=民主主義の場合と同様である。民主制においては、平等な者たちの平等性と平等な者たちに属する者の意志とがあるだけである。これ以外のすべての制度は、何らかの形において表現された人民の意志に、その固有の価値と原理とを対置させ得ないところの、本質のない社会的=技術的補助手段に転化してしまう。近代国家の危機は、大衆民主主義、人間性の民主主義が何らの国家形態をも実現するものではなく、したがってまた、いかなる民主主義国家をも実現し得ないものであるということに基づいている。
これに反して、ボルシェヴィズムとファッシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし必ずしも反民主主義的であるわけではない。民主主義の歴史には、多くの独裁制やシーザー主義や、またそれ以外にも十九世紀の自由主義の伝統からみれば全く異常な方法で人民の意志を形成し同質性を創り出そうとする多くの奇異な例がある。すべての個々の市民が、胸奥深く保たれた秘密と十分に隔離された状態において、つまり私的なるものと弁明の責任を負う必要のない事柄との領域から踏み出すことなく、――ドイツ共和国選挙法が規定しているように――「衝立て」によって他人から「観察されることなく」投票を行い、そして個々の投票が記録され算術的多数が計算されるといヶような方法においてのみ人民がその意志を発表することができるという考えは、非民主主義的な観念であってそれは十九世紀において自由主義的諸原則との混合の結果発生したものである。この観念によって全く基礎的な諸々の真理が忘れ去られているのであり、見受けたところ今日の国家論もそれに気附いていないのである。人民とは公法上の概念である。人民は、公共性の領域においてのみ存在している。 一億の私的な人々の一致した意見といえども、それは人民の意志でも世論でもない。人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置によってよりも喝朱→?鮎”8,一【gによって、すなわち反論の余地を許さない自明のものによる方が、むしろいっそうよく民主主義的に表現され得るのである。民主主義的な感情の力が強ければ強いほど、民主主義は秘密投票の計算組織とは違った何ものかである、という認識がますます深くなって行くのである。技術的な意味にとどまらず、また本質的な意味においても直接的な民主主義の前には、自由主義的思想の脈絡から発生した議会は、人工的な機械として現われるのに反して、独裁的およびシーザー主義的方法は、人民の喝果によって支持されるのみならず、民主主義的実質および力の直接的表現であり得るのであスつ。
たとえボルシェヴィズムが制圧され、ファッシズムが排除されたとしても、今日の議会制の危機は少しも克服されない。何故ならば、議会制の危機は、この二つの敵手の出現の結果成立しているので
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第二版へのまえがき
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これに反して、ボルシェヴィズムとファッシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし必ずしも反民主主義的であるわけではない。民主主義の歴史には、多くの独裁制やシーザー主義や、またそれ以外にも十九世紀の自由主義の伝統からみれば全く異常な方法で人民の意志を形成し同質性を創り出そうとする多くの奇異な例がある。すべての個々の市民が、胸奥深く保たれた秘密と十分に隔離された状態において、つまり私的なるものと弁明の責任を負う必要のない事柄との領域から踏み出すことなく、――ドイツ共和国選挙法が規定しているように――「衝立て」によって他人から「観察されることなく」投票を行い、そして個々の投票が記録され算術的多数が計算されるといヶような方法においてのみ人民がその意志を発表することができるという考えは、非民主主義的な観念であってそれは十九世紀において自由主義的諸原則との混合の結果発生したものである。この観念によって全く基礎的な諸々の真理が忘れ去られているのであり、見受けたところ今日の国家論もそれに気附いていないのである。人民とは公法上の概念である。人民は、公共性の領域においてのみ存在している。 一億の私的な人々の一致した意見といえども、それは人民の意志でも世論でもない。人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置によってよりも喝朱→?鮎”8,一【gによって、すなわち反論の余地を許さない自明のものによる方が、むしろいっそうよく民主主義的に表現され得るのである。民主主義的な感情の力が強ければ強いほど、民主主義は秘密投票の計算組織とは違った何ものかである、という認識がますます深くなって行くのである。技術的な意味にとどまらず、また本質的な意味においても直接的な民主主義の前には、自由主義的思想の脈絡から発生した議会は、人工的な機械として現われるのに反して、独裁的およびシーザー主義的方法は、人民の喝果によって支持されるのみならず、民主主義的実質および力の直接的表現であり得るのであスつ。
たとえボルシェヴィズムが制圧され、ファッシズムが排除されたとしても、今日の議会制の危機は少しも克服されない。何故ならば、議会制の危機は、この二つの敵手の出現の結果成立しているので
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制である。すべての専制的な制度は、近代民主主義におけるがごとく普通選挙権によって認可されると否とにかかわらず、中央集権主義と権威とに立脚するものである。パクーニンは、神と国家に対するこうした闘争に、主知主義ならびに教養の伝統的形式一般に対する闘争の性格を与えた。彼は――充分な根拠をもって――個性を援用することのうちに、 一つの運動の首となり頭となり脳髄とならんとする要求を、すなわちまた一つの新しい権威を認めている。科学といえども支配する権利をもつものではない。それは生ではなく、それは何物をも創造せず、それは構成し保持するが、 一般的なもの、抽象的なものを理解するだけであって、生の個別的な充実をその抽象化の祭壇の犠牲に供するのである。芸術は人類の生活にとっては、科学よりも重要である。バクーニンのこれらの発言はベルグソンの思想と驚くほど一致しており、人々の認めるところとなったことは当然であっ沌。労働者階級の直接的。内在的な生活自体から、労働組合およびその特殊な闘争手段、特にストライキの意義が認識された。こうしてプルードンとバクーニンとは、サンジカリズムの父となり、ベルグソン哲学の議論に基づいて、ソレルの思想がよって立つところの伝統を創り出したのである。この伝統の核心をなすものが神話の理論であって、これは絶対的な合理主義およびその独裁に対する最も強い対立を意味しているが、しかし同時に、それは直接的能動的決断の理論であるが故に、均衡化、公開の討論、議会主義というような表象を中心とする観念群の相対的合理主義に対しては、更にいっそう強い対立を意味しているのである。
行動力と英雄的行為への能力、すべての世界史的な活動は、ソレルにとっては、神話への牽引力によるものである。こうした神話の例としては、ギリシャ人における名誉と名声の観念、ないしは古代キリスト教における最後の審判の期待、フランス大革命中における徳→o『一こと革命的自由に対する信念、一八一三年のドイツ解放戦争の国民的な感激が挙げられる。 一民族または他の社会的集団が歴史的使命をもっているか否か、また彼らの歴史的な時期が到来しているか否かを決定する基準は、神話のうちにのみある。偉大なる熱狂、偉大なる道徳的決断および偉大なる神話は、推理や合目的的考量から生まれるのではなく、純粋な生の本能の深みから生まれるのである。熱狂した大衆は直接的な直感によって神話的イメージを創造する。このイメージこそは彼らの活力を推進せしめ、殉教への力ならびに暴力行使への勇気を彼らに与えるのである。ただこうしてのみ、 一民族ないし一階級は世界史の動力となる。こういうものを欠く場合には、いかなる社会的、政治的な権力といえども維持され得ず、またいかなる機械的な装置も、歴史的生の新たな潮流が解き放たれたときにはその防波堤となることができないのである。したがってすべては、今日どこに神話に対するこの能力とこの生命力とが実際に活きているかを、正しく見ることにかかっている。これらの能力は、近代のブルジョアジー、すなわち金銭と所有についての不安のために堕落し、懐疑主義、相対主義、議会主義によって精神的に損なわれている社会層においては、もちろん発見されないであろう。この階級の支配形態である自由主義的な民主主義は、「煽襲ッ雌な金権政治」にすぎない。それならば誰が今日偉大なる神話の担い手であるのであろうか。ソレルは、まだ産業プロレタリアートの社会主義的大衆だけは神話をもつということ、しかもそれは彼らの信ずるゼネストそのものに外ならないということを証明しようとす
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る。ゼネストが今日実際に何を意味するかということは、プロレタリアートがいかなる信念をこれに結びつけるかということ、ゼネストはいかなる行為と犠牲とを彼らに為さしめるかということ、それが新たな道徳を生み出すことができるか否かということに比べれば、邊かに重要ではない。こうして、ゼネストに対する信念、ゼネストによってもたらされる全社会的、経済的生活の恐ろしい破局に対する信念は、社会主義の生命に属するのである。この信念は、大衆自身から、産業プロレタリアートの生活の直接性から生ずるものであって、知識人や文筆家の発見から、あるいはュートピァからできあがっているのではない。けだしソレルによれば、ユートピアもまた合理主義的な精神の産物であり、機械的な図式にしたがって生活を外部から支配しようとするものだからである。
この哲学の見地においては、すべての者に利益を与え、よき商売をなさしむべき平和的協約というブルジョア的な理想は、卑怯な主知主義の所産となり、討論し、商議し、討議することは、神話に対する裏切りに見え、すべてがそれにかかっている偉大なる感激に対する一暴切りに見える。均衡についての商業主義的なイメージにはもう一つのイメージが対立する。すなわち血腟い、最期的、せん滅的な決戦についての戦闘的イメージでぁる。議会主義的な立憲主義に対して、このイメージは、 一人四八年には、二つの側から現われた。すなわち、保守的な意味における伝統的秩序の側からは、旧教的スペイン人ドノソ・コルテスに代表されて現われ、 一方においてはプルードンの急進的なアナルコ・サンジカリズムにおいて現われた。両者はともに決断を要求した。このスペイン人の全思想は、大なる闘争(r鴨”●8●一【8P)、日の前に追っている怖るべき破局を核として展開される。そしてこの破局は討論に終始する自由主義の形而上学的怯儒のみがよく否認するところである。そしてプルードンの思想にとってここでは、その著『戦争と平和』(いヽさヽミミミきヽや)が特徴的であるが、彼はこの書の中で、反対者を絶滅するナポレオン的戦い(σ”一”一】げZ3色8コいo●●←について語っている。血握い闘争に必要なあらゆる暴力行使と権利侵害とは、プルードンにとっては歴史的裁可を得ているものなのである。相対的な、議会主義的討議の手におえるような対立(〇£8∽,一じの代りに、今や絶対的対立(>●”】”ぎ∽8)が現われる。「根本的な否定と至上の肯定の日が到来する」、議会の討論も決してそれを阻止しえない。本能に駆られた民衆は、詭弁家の演壇を打ち砕くであろう。これはすべてコルテスの述べたところであるが、 二言もたがわずにソレルがそう言ったとしても、少しもおかしくはなかったであろう。ただこのアナーキストは民衆の本能の側に立っているという点が異っているだけなのである。コルテスにとっては、急進的な社会主義は自由主義的な討議よりも偉大なる何ものかである。何故ならそれは最終的な諸問題に遡って、根本的な諸問題に決定的な解答を与えるからであり、それは一つの神学を持っているからである。他ならぬプルードンがここでは彼の敵となっているのだが、それは、プルードンが一八四八年当時においてもっとも人口に檜灸した社会主義者であってそれに反対してモンタランベールが有名な議会演説を行ったといったことのためではなくて、プルードンがまさにラディカルな原理をラディカルに主張していたためなのである。コルテスは、正統主義者の愚鈍な短見と、ブルジョアジーの卑怯な狡猾さを見て失望した。彼は、社会主義においてのみ、まだ、彼が本能(⊆F■ユ3と呼んだものを認め、そしてそこから、結局はすべての党派が社会主
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義のために活動するに至るであろう、という結論を引き出した。こうして彼らの対立は再び精神的に9 拡がって、しばしば終末論的な緊張に達したのである。しかし、 ヘーゲル的マルクス主義の弁証法的に構築された緊張とは異って、ここで問題となるのは、神話的イメージの直接的。直観的な対立である。マルクスはそのヘーゲル哲学についての高い教養からプルードンを哲学の素人として取扱い、プルードンがヘーゲルをいかにひどく誤解したかを示すことができたのである。今日、急進的社会主義者は、最近流行の哲学を借りてマルクスに向って次のように言うことができるかも知れない。憐れな、罵倒されたプルードンは、ともかく労働する大衆の現実の生活に対する本能を所有していたが、マルクスはこの点では単なる学校教師にすぎず、西欧的=ブルジョア的な教養に対する主知主義的な過重評価になお全くはまり込んだままであった、と。コルテスの眼には、社会主義的無政府主義者は悪霊、悪魔であり、プルードンにとっては、このカトリック教徒は狂信的な大審問官であった。これを彼は嘲笑しようとしたのである。ここに二人の真の対立者がいたこと、(ま繁他のすべてのものが仮りの中途半端なものであったということは、今日では認識し易いところである。
闘争と結びついている戦闘的、英雄的表象は、ソレルによって再び強烈な生の真の衝動として真剣にとりあげられた。プロレタリアートは階級闘争を、議会の演説や民主主義的な選挙の宣伝の標語としてではなく、現実の闘争として信じなければならない。プロレタリァートは階級闘争を、科学的構成なしに生命の本能から捉え、しかも決戦に対する勇気を自己に与えるところの偉大なる神話の創造者として把握する。したがって社会主義およびその階級闘争の思想にとっては、職業的政治や議会主義制度への参加ほど危険なことはない。これらのものは偉大なる熱情を饒舌と陰謀のうちに消耗させ、道徳的な決断を産み出す純粋な本能と直感を殺してしまうのである。人間の生命において価値あるものは、理屈から生ずるのではなくて、戦時にあって、偉大なる神話的イメージに鼓舞されて闘争に参加する人間において生ずるものであり、それは「人々が参加することを肯い、はっきりとした神話の形をとって現われる戦争状態」「暴力論』三一九頁)に依存するのである。戦闘的。革命的な感激、恐ろしい破局への期待こそは、生の内的集中に属するものであって、歴史を動かすものである。しかしながら、その飛躍は大衆自体から発しなければならない。けだしイデオローグや知識人はそれを発見し得ないからである。 一七九二年の革命戦争はそのようにして発生しているし、ソレルがルナンと共に十九世紀の最大の叙事詩であると祝福した時代、すなわち一人一三年のドイツ解放戦争もそのようにして発生している。無名の大衆の非合理的な生命のエネルギーから、これらの戦争の歴史的な精神が生み出されたのである。
あらゆる合理主義的な解釈は、生の直接性を歪めるものであろう。神話は決してユートピアではない。何故ならユートピアは推理的な思考の産物であって、せいぜい改革に導くだけだからである。また戦いの躍動は、軍国主義と混同してはならない。とりわけこの非合理性の哲学における暴力行使は、独裁とは異ったものであろヶと欲する。ソレルはプルードンと同様に、あらゆる主知主義、あらゆる中央集権化、画一化を憎悪しながら、しかもまたプルードンと同じく、最も厳格な規律とモラルとを要求している。偉大なる戦いは、ソレルによれば、科学的な戦略のみによって行われるものではなく、
カール・シュミットは『現代議会主義の精神史的地位』でソレル経由でプルードンに言及している
Die geistesgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentarismus(1922, 2.erw. Aufl. 1926)
稲葉素之訳『現代議会主義の精神史的地位』(みすず書房、1972年、原著第2版1926年刊の翻訳)
樋口陽一訳『現代議会主義の精神史的地位』(岩波書店【岩波文庫】、2015年、「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」を併録)
《…民主主義は保守的でも反動的でもありうるーー ちなみに、このことをプルードンは予言していたーー》
カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況』(1923)[2015新訳]
岩波文庫18頁
《均衡という商人的な像に対して、もうひとつの
像、すなわち、血なまぐさい、決定的な、殲滅的な決戦という、戦士的な観念が対置
される。この像は、一八四八年に、議会主義的立憲主義に対抗して、二つの側からあ
らわれた。保守的な意味における伝統的な秩序の側からは、スペインのカトリック教
徒、ドノソ·コルテスによって代表され、急進的なアナルコサンディカリスム側で
はプルードンにおいてである。両者とも、ひとつの決断を求める。かのスペイン人の
すべての思想は、おそるべき破局のための大いなる闘争(la gran contienda)をめぐって
展開する。その破局はさしせまっており、討論する自由主義の形而上学的な怯懦さに
よってのみ否定されうるにすぎない。また、プルードンはーーかれの思考にとって、
ここで『戦争と平和』(La guerre et la paix)という著作が特徴的なのであるがーー、敵
を殲滅する「ナポレオン的戦闘」(Bataille Napoléonienne)について語っている。プルー
ドンにとっては、血な生ぐさい闘争につきもののあらゆる暴力性、法の侵犯は、歴史
の裁可を得るのである。議会主義的な取引になじむ相対的な対立にかわって、いまや
絶対的な対立があらわれる。「徹底的な否定と絶対的な断定の日が来る」。いかなる議
会の討論も、その日をおしとどめることはできない。その本能によってかりたてられ
た民衆は、ソフィストたちの講壇をうちこわすだろうーーコルテスのすべての言辞は、
一言一句ソレルのものともなりうるほどであるが、ただ、この無政府主義者のほうは
民衆の本能の味方をしている、という点は別である。コルテスにとって、急進的な社
会主義は自由主義的寛容よりも偉大なものであるが、それは、急進的な社会主義が究
極の問題まで遡り、根源的問題について決定的な回答を与えるからであり、それがひ
とつの神学をもっているからである。まさしくプルードンは、ここでは敵なのである
が、それは、プルードンが一八四八年において最も知られた社会主義者であったーー
かれに反対してモンタランベールが有名な議会演説をしたーーからではなくて、かれ
が、根源的な原理を根源的に主張したからである。》
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