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しかし、私にとっては結合法は事実は全く異なったものです。即ち ”形相の学” あるいは ” 相似と相似でないこと ...
大辞林 第三版 - 結合法の用語解説 - 〘哲〙 ライプニッツが提唱した普遍的記号法。 複合概念を少数の単純概念の結合から ...
【結合法 ars combinatoria】 .... モナドという発想は、すでにジョルダノ・ブルーノに見られ、ライプニッツはこれを ...
近世でニコラウス・クザーヌスやブルーノは、世界を構成し、世界の多様を ... 単純な要素を〈モナド〉と名付け、モナドどうしの結合から宇宙のさまざまな在り方が生じるが、 モナド自身は不滅とした。
| by araih |
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三十年戦争に疲れるドイツ、ライプツィヒの、哲学教授の家庭に生まれ、二十で早くも法学博士となり、ドイツのマインツ侯国の法律顧問となった。哲学には、早くから関心をもち、ホッブズ、デカルト、パスカルを学び、スピノザにはたびたび会いに行っている。そして、ロンドン王立科学協会、フランス科学学士院の会員に選ばれ、みずから、ベルリンにドイツ始めての学士院(アカデミー)を創設し、初代院長となった。また、カトリックとプリテスタントの再統一という理想に長年、努力したが、現実の政治的利害関係に阻まれて、実現することはなかった。彼は、天性の才能に加え、法律、歴史、数学、物理学、産業等、広く関心を持ち、ヨーロッパの辺境で学問水準の遅れているドイツにあって、ヨーロッパ中の当時の第一線の政治家、文人、思想家、科学者、宗教家に会いに行ったり、また、膨大な書簡を交わしたりし、みずからの学問を発展させるとともに、ドイツの文化振興に努めた。また、ニュートンとほぼ同時に独立に《微積分法》を発見し、その後先をはげしく争ったことは有名である。
モナド (Monad) は、ライプニッツが案出した空間を説明するための概念である。ギリシア語 μονάς monas モナス(個、単一)、μόνος monos モノス(単一の)に由来する。単子と翻訳される場合もある。
ライプニッツは、現実に存在するものの構成要素を分析していくと、それ以上分割できない、延長を (ひろがりも形も) 持たない実体に到達すると考えた (第3節)[1]。これがモナドである。ライプニッツによれば、モナドは構成されたものではなく、部分を持たない、厳密に単純 (単一) な実体であるが (第1節)[1]、にもかかわらず属性として状態を持つ。属性を持たなければすべてのモナドは区別できず、複数のモナドがあるとはいえなくなるからである (第8節)[1](不可識別者同一)。どのモナドも、他の全てのモナドと互いに必ず異なっており (第9節)、またモナドは変化する (第10節)[1]。このとき、或る状態から別の状態への変化の傾向性を欲求という (第15節)[1]。
この「状態」は他のすべてのモナドの状態を反映する。すなわち、究極的には無数のモナドから、そしてただそれだけからなる現実世界全体の状態(ということはすべてのモナドの状態)に、個別のモナドの「状態」は対応する。これがモナドの持つ「表象・知覚」能力である(モナドは鏡である)。しかし、モナドは部分を持たない厳密に単純な実体であるから、複合的なもの同士が関係するような意味で「関係」することはできない (第7節) (モナドには窓がない)[1]。厳密に相互に独立している。
したがってこの表象能力、他のモナドの状態との対応は、モナドの定義からいって不可能であるところの外的な「相互関係」によるものではなく、モナドの自然的変化は内的な原理から生ずる (第11節)[1]。
ちょうど、あらかじめ時刻を合わせた二つの時計のような意味での、神の創造の時点で予定・調整された「調和」である(予定調和)。モナドの状態の変化は、可能性としてそのモナド自身が有しているものの展開であり、厳密にそのモナドの先行状態にのみ由来する。
この表象能力には、その対応の正確さや明晰さに応じて、明晰・混雑などの度合いの差がある。すべての他の事物や世界の状態が同等に知覚・表象されるわけではない。対応するものを明晰に反映していない表象は、しかし雑然とした形で意識の状態に影響を与える。これを微小表象といい、後にいう無意識の概念に近い。たとえば眠っているときの意識は、身体や外界の状態に曖昧かつ不明瞭に対応する微小表象によって構成されている。人間や動物の精神や生命は、このモナドの表象・知覚の能力によって説明される。逆に言えば、そこから、すべてのものにはそれぞれの度合いに応じて精神や生命があるということにもなる。
一般にモナドロジーは因果関係を否定したものと受け取られることが多い。しかし、ライプニッツが「窓がない」という言い方で主張しているのは、因果関係に関する、当時支配的だった特定の考えである。
物が物に作用するというとき、ひとつのありうるモデル、描像としては、作用するモナドから何かが出て、作用されるモナドの中へ入るという構図が考えられる。たとえば通信のモデルで、伝達を、メッセージが一方から出て他方へ入ると理解するように、力の作用も、押すモナドから「力」が出て押されるモナドに「力」が入ることで、押されるモナドの内部の構成が変化する、これが因果関係であるというようなモデルである。
これに対してライプニッツは、複合的な粗大な物体の場合は、媒介物の移動で作用を説明することができる場合もあるが、つきつめれば、モナドは部分や構成要素を持たないのだから、「外から何かが中に入る」ことはありえず、因果関係や作用は「外的な対応する変化」であって、「内的な何かのやり取り」としては理解できない、と主張しているのである。
したがって、この限りで、ライプニッツの主張は、決してとっぴではない。
現代の日本では「予定調和」という俗語が「予測どおりの物事が起きること」という意味で用いられている。特に小説や漫画などの物語(ストーリー)においては「このような状態になったら、次はこのような物事が起きる」という物語の類型が多数存在しているため、ある状態になったときに次に起こる物事を予測できることがままある。その予測どおりに進行したときに、物語の評価として「予定調和」という言葉を用いる。「フラグ」は物語における「予定調和」の一種である。
Monad (from Greek μονάς monas, "singularity" in turn from μόνος monos, "alone"),[1] refers in cosmogony to the Supreme Being, divinity, or the totality of all things. The concept was reportedly conceived by the Pythagoreans and may refer variously to a single source acting alone, or to an indivisible origin, or to both. The concept was later adopted by other philosophers, such as Leibniz, who referred to the monad as an elementary particle. It had a geometric counterpart, which was debated and discussed contemporaneously by the same groups of people.
According to Hippolytus, the worldview was inspired by the Pythagoreans, who called the first thing that came into existence the "monad", which begat (bore) the dyad (from the Greek word for two), which begat the numbers, which begat the point, begetting lines or finiteness, etc.[2] It meant divinity, the first being, or the totality of all beings, referring in cosmogony (creation theories) variously to source acting alone and/or an indivisible origin and equivalent comparators.[3]
Pythagorean and Platonic philosophers like Plotinus and Porphyry condemned Gnosticism (see Neoplatonism and Gnosticism) for their treatment of the monad.
For the Pythagoreans, the generation of number series was related to objects of geometry as well as cosmogony.[4] According to Diogenes Laertius, from the monad evolved the dyad; from it numbers; from numbers, points; then lines, two-dimensional entities, three-dimensional entities, bodies, culminating in the four elements earth, water, fire and air, from which the rest of our world is built up.[5][6]
The term monad was later adopted from Greek philosophy by Giordano Bruno, Leibniz (Monadology), John Dee, and others.
ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548年 - 1600年2月17日)は、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護した。異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。思想の自由に殉じた殉教者とみなされることもある。彼の死を前例に考え、轍を踏まないようにガリレオ・ガリレイは自説を撤回したとも言われる。
1548年にナポリ王国のノーラ(現在のイタリア・カンパニア州)で生まれた。もともとはフィリッポ・ブルーノ(Filippo Bruno) という名前であり、父ジョヴァンニ・ブルーノは兵士であった。1562年、14歳のときナポリに移り、ナポリ大学で学んだ。1565年、17歳でドミニコ会に入会、ジョルダーノを名乗った。1572年に司祭に叙階され、1575年にはトマス・アクィナスおよびペトルス・ロンバルドゥスについての論文によって神学博士となった。
ブルーノがトマス・アクィナスへ向けた尊敬は生涯にわたるものであったが、ナポリ時代にすでに独自の思想を育みはじめていた。エラスムス、偽ディオニシウス・アレオパギタ、ニコラウス・クザーヌス、ライムンドゥス・ルルスなどの神学者たち、プラトンおよび新プラトン主義(プロティノス、ポルピュリオス、イアンブリコス、プロクロスなど)やエピクロス主義(とくにルクレティウス)やピュタゴラス主義やセネカといった古代哲学、さらにはヘルメス主義、アヴィケブロンやクレスカスなどのユダヤ人哲学者の思想やカバラ、アヴェロエスはじめアラビア思想、フィレンツェ・プラトン主義(マルシリオ・フィチーノ、ピコ・デラ・ミランドラ)というように、ブルーノの哲学思想の源泉は多岐にわたっている。後年は一貫して批判し続けるアリストテレスについても、ナポリ時代に熱心に研究し、多くのことを学んだ。
1576年、異端の嫌疑をかけられたブルーノは、異端審問所の追及を逃れようとナポリを離れ、しばらくのローマ滞在を経て、北イタリア各地で文法や天文学などを教えながら放浪生活を送った。1578年にはアルプス山脈を越えてフランスに入り、翌1579年にはスイスのジュネーヴに滞在した。ジュネーヴ大学に在籍し、一時的にカルヴァン派に接近するが、改宗までしたかどうかは定かでない。また、すぐにジュネーヴ大学のカルヴァン派哲学者と論争を巻き起こし、名誉毀損で訴えられて有罪となり、ジュネーヴを離れた。同年、トゥールーズに移ったブルーノは、トゥールーズ大学の正規の講師となり、アリストテレス『魂について』の講読註解をおこなった。以後、2年近くをトゥールーズで過ごした。
1581年、パリに移住し、優れた記憶力が話題となって、フランス国王アンリ3世とも会見した。ソルボンヌ大学で正規の教授職を得ることはできなかったが、翌1582年に王立教授団(コレージュ・ド・フランスの前身)の講師に任命された。1583年、ブルーノはアンリ3世の推薦書を持ってイギリスに赴き、オックスフォード大学での教授職を得ようとしたが、同地で受け入れられず、イギリスで教壇に立つという望みは果たされなかった。だが、ロンドンに滞在する2年半のあいだに、ブルーノ前半期の主著とされる6つの対話篇『聖灰日の晩餐』『原因・原理・一者について』『無限・宇宙・諸世界について』『傲れる野獣の追放』『天馬のカバラ』『英雄的狂気』を上梓した。
1585年、パリに戻ったが、アリストテレスの自然哲学を批判した120のテーゼが問題とされた上、数学者ファブリツィオ・モルデンテとの裁判に巻き込まれ、ドイツへと去った。ドイツではマールブルク大学での教授職は得られなかったが、ヴィッテンベルク大学での教授許可を得ることができ、アリストテレスについて2年間講義した。1588年にヴィッテンベルクを去り、今度はボヘミアのプラハに現れた。そこでルドルフ2世に300テーラーという年俸を保証されたが、教授職は得られなかった。どうしても教壇に立ちたいブルーノはヘルムシュタットに移ったが、ルター派の権威者たちの反感を買い、ここも立ち去ることになった。
1591年、放浪を繰り返していたブルーノはフランクフルト・アム・マインにいた。ブルーノ後半期の主著とされる3部作『三つの最小者について』『モナド論』『測り知れざる巨大者について』はこのとき刊行された。同年、ブルーノは、ヴェネツィアの貴族ズアン・モチェニゴから記憶術の指南を受けたいという招請を受けた。モチェニゴ家はヴェネツィアでも屈指の大貴族であり、ブルーノはイタリアに戻る決意をした。ヴェネツィアに向かう途中、パドヴァに滞在し、空席となっていたパドヴァ大学の数学教授の座を得ようとするも、結局ガリレオ・ガリレイに教授職を持っていかれてしまった。ヴェネツィアに来たブルーノは、モチェニゴの家庭教師を2か月つとめた。だが、そのモチェニゴによって訴えられ、1592年、ヴェネツィア官憲によって逮捕された。さらに、ブルーノのことを聞きつけた異端審問所が介入し、最終的にローマの異端審問所に引き渡された。
1593年にローマに移されて以降、裁判はなかなか実施されず、ブルーノは7年を獄中で過ごした。彼への告発理由は神への冒瀆、不道徳な行為、教義神学に反する教説であり、ブルーノの哲学と宇宙論にみられるいくつかの点も問題とされた。ブルーノは教皇クレメンス8世に直接面会して自説の一部を撤回することを明言すれば嫌疑は晴れると考えていたが、クレメンス8世はこれを拒絶し、異端審問の開始を命令した。
異端審問が行われると、当時の異端審問所の責任者であった枢機卿のロベルト・ベラルミーノはブルーノに対し、自説の完全な撤回を求めたが、ブルーノは断固としてこれを拒絶した。結果、罪状は24に上り、上記に加えて魔術・占術の信奉、マリアの処女性の否定、輪廻説の支持などが挙げられた。1600年1月8日、ベラルミーノはブルーノを異端とし死刑判決を下した。同年2月17日、ローマ市内のカンポ・デ・フィオーリ広場に引き出されたブルーノは火刑に処された。処刑の様子はブレスラウの学生ガスパール・ショップ (Gaspar Schopp) が目撃し、家族へ送った手記により後世に伝えられている。それによると、ブルーノは処刑を宣告する執行官に対して「私よりも宣告を申し渡したあなたたちの方が真理の前に恐怖に震えているじゃないか」と言い、結果舌枷をはめられた。さらに、刑の直前に司祭が差し出した十字架へは侮蔑の一瞥をくれただけで顔を背け、死の際には1つも声を発さなかったという。遺灰はテヴェレ川へ投げ捨てられ、遺族に対しては葬儀ならびに墓の造営も禁じられた。
ブルーノの著作のすべては1603年に禁書目録に加えられた。それでも、著作のほとんどはパリ・ロンドン・フランクフルトなどイタリア半島の外で出版されていたため、わずかではあったが流通しつづけた。
17世紀から18世紀にかけては、ピエール・ベールやマラン・メルセンヌが、著作のなかでブルーノ哲学をとりあげた。ヨハン・ベルヌーイはゴットフリート・ライプニッツ宛の書簡で、ルネ・デカルトの渦動説がブルーノ宇宙論の剽窃だと書いた。ジョン・トーランド (哲学者)は、ブルーノの著作を英語訳し、積極的な普及活動を行った。そのトーランドの影響もあってか、フランスの匿名の自由思想家によって地下文書『ジョルダーノ・ブルーノ復活』が書かれ、広範な読者を得た。
19世紀からは、ドイツでの汎神論論争のなかで『原因・原理・一者について』の抜粋がドイツ語訳され、ドイツ語圏の哲学者たちの関心を惹くことになった。なかでもフリードリヒ・シェリングは、ブルーノを主人公とした対話篇『ブルーノ』を著した。また、イタリア統一運動(リソルジメント)が高揚するなかで、イタリアでもブルーノへの関心が高まり、著作集の編纂や伝記考証など実証研究が行われるようになった。
ジョルダーノ・ブルーノの名誉が完全に回復されたのは、20世紀に入ってからである。カトリック教会の歴史における負の遺産の清算を訴えた教皇ヨハネ・パウロ2世のもとで、ブルーノに対する裁判過程が再検証され、「処刑判決は不当であった」という判断が下された。この動きはもともとナポリ大学の神学部のドメニコ・ソレンティーノ教授らによって始められたもので、これによって1979年、カトリック教会は公式に異端判決を取り消した[1]。
16世紀の後半、コペルニクス・モデルはヨーロッパ全域で知られるようになっていた。ブルーノはコペルニクスが観察よりも数学的整合性を重要視したことを批判していたが、地球が宇宙の中心ではないという点についてはコペルニクスに賛同していた。ただブルーノはコペルニクスの理論の中にある「天界は不変不朽で地球や月とは異なった次元のものである」という意見には賛同しなかった。ブルーノは「世界の中心は地球か太陽か」などという議論を超越し、3世紀のプロティノスやさらに後の時代のブレーズ・パスカルのような思想、すなわち宇宙の中心などどこにも存在しないという立場にたっていた。
ブルーノの在世時、コペルニクスのモデルにはまだまだ欠陥が多く、天動説の方が明快に説明できることが多かったため、コペルニクスの説に賛同した天文学者はほとんどいなかった。わずかにミヒャエル・メストリン(1550年 - 1631年)、クリストフ・ロスマン(1550年代 - 1600年以降)、トーマス・ディッグス(1546年 - 1595年)などが挙げられる程度である。ヨハネス・ケプラー(1571年 - 1630年)とガリレオ・ガリレイ(1564年 - 1642年)はまだまだ若く無名の存在だった。ブルーノは本当の天文学者とはいえないが、もっとも早い時期に地球中心説を退けてコペルニクスの世界観を受け入れた著名人であった。1584年から1591年にかけて執筆した著作の中でブルーノは盛んにコペルニクスを擁護している。
アリストテレスとプラトンは、宇宙は完全な球体であり、さまざまな球体が入れ子構造になっていて回転していると考えた。その回転力を与えているのは超越的な神であり、神は宇宙とは別次元に存在しているとされた。恒星は最も外側の天球に貼り付けられており、全宇宙の中心こそが地球であるというのが2人の宇宙観であった。プトレマイオスは恒星を1,022個数え、48の星座に分類している。惑星もそれぞれ透明な球体の上にあって運動していると考えられていた。
コペルニクスの宇宙論も決して完全なものではあったわけではなく、古代以来の概念を多く継承していた。たとえばプトレマイオスからは惑星が球面上に固定されているという考え方を受け継いでいたが、その不可解な動きの原因は地球の公転であることは見抜いていた。また、コペルニクスは宇宙には不動の中心が存在するという概念も持ち続けていたが、中心にふさわしいのは地球よりも太陽であると考えていた。恒星はかつて天球上に貼り付けられているため地球から等距離にあると信じられていたが、そのことについてコペルニクスは特に言及していない。
ブルーノの主張でもっとも画期的だったものは「地球自体が回転しており、それによって地球上からは見かけ上天球が回転しているように見える」ということであった。ブルーノはまた、「宇宙が有限であること」あるいは「恒星は宇宙の中心から等距離に存在している」と考える理由はないとした。
ブルーノの宇宙論は先行するトーマス・ディッグスの1576年の著作『天界論』(A Perfit Description of the Caelestial Orbes) とも共通する部分がみられるが、ディッグスは中世において信じられていたように、恒星天の外側が神と天使の世界であると考えていた。またディッグスは宇宙の中で地球だけが生命と知性の存在しうる場所であること、不変の天界に対して地球だけが変化する世界であると考えた。
1584年、ブルーノは二つの重要な著作を出版した。ブルーノはその著作の中で惑星が天球の上に階層をなして存在しているという説を批判した。2年後の1586年にロスマンが同様の主張を行い、さらに1587年にはティコ・ブラーエも続いた。ブルーノは無限宇宙が「純粋気体」で満たされていると考えた。これは後に創案される「エーテル」概念のはしりであり、この気体は惑星や恒星の動きに一切影響を及ぼすことはないとされた。ブルーノの宇宙論で特筆すべきことは、それまで信じられていた宇宙が特定の中心から広がる階層球によって成り立っているという考え方を否定し、地球も太陽も宇宙の1つの星にすぎないと主張したことにあった。
地球だけが特別な星であるという当時の常識に挑戦するかのように、ブルーノは神が宇宙の一部だけに特別に心を配ることはないと考えた。彼にとって神とは心の中に内在する存在であって、宇宙のどこかにある天国にいて地球を見ているものではなかった。
ブルーノは四元素説(水、気、火、土)は信じていたものの、宇宙が特別な物質でできているのではなく地球とおなじ物質からなっているとし、地球上でみられる運動法則が宇宙のどこでも適用されると考えた。さらに宇宙と時間は無限であると考えていたことは、宇宙の中で地球だけが生命の存在できる空間であるという当時のキリスト教的宇宙観を覆すものとなった。
このような考え方に従うなら、太陽も決して特別な存在でなく、あまたある恒星の1つにすぎないことになる。ブルーノは太陽を惑星が囲む太陽系のようなシステムは宇宙の基本的な構成要素であると考えた。ブルーノにしてみれば神が無限の存在である以上、無限の宇宙を創造することはなんらおかしなことではないということであった。ブルーノはアリストテレス以来、伝統的に信じられてきた「自然は真空を嫌う」ことを信じていたため、宇宙にある無数の太陽系の間はエーテルによって満たされていると考えていた。彗星は神の意志を伝える役割をもって天界から到達するというのもブルーノのアイデアであった。
ブルーノの宇宙論の特徴は宇宙の無限性と同質性の提示、さらに宇宙には多くの惑星が存在していると考えたことにあったといえる。ブルーノにとって宇宙とは数学的計算によって分析できるものでなく、星達の意志によって運行しているものであった。このようなアニミズム的宇宙観はブルーノの宇宙論のポイントの1つである。
月の北緯36度、東経103度にはジョルダーノ・ブルーノと名づけられた直径20 kmのクレーターがある。このクレーターは1178年にイングランドの修道士によって目撃・記録された[2]、隕石の衝突によってできたものと考えられていたが、2007年に打ち上げられた日本の月探査機かぐやの観測によって、実際には100万年から1,000万年前に形成されたことが明らかになった。しかし、月面にある直径10 km以上のクレーターの中で最も新しいことに変わりはない[3][4]。
1 Comments:
Philosophia - 第 73~76 号 - 195 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
1988 - スニペット表示 - 他の版
尤も後者の問題については,アリストテレスとライプニッツの微妙なズレを参酌すれば, 容易に端倪し難い局面をクザーヌスにも発生させる。ともあれ縮限と分有,包含と展開等が絡み合う構造の中で,段階的連続面と非連続面とを交錯させたクザーヌスの諸概念を, ...
岩波哲学・思想事典 - 1061 ページ
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廣松涉 - 1998 - プレビューは利用できません
思想哲学書全情報 1945-2000 2 思想・哲学史 - 68 ページ
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日外アソシエーツ - 2001 - スニペット表示
160111 (平凡社ライブラリー) 1400 円( ; )4 - 582-76077-5 0132.4 〔 0 15 02 〕 0 隠れたる神ニコラス'クザーヌス著.大出哲.坂本弗訳創文社 1972193? ... 宗教意織の展開に関する一考察一クザーヌスとライプニッツをめぐつて清水富雄著.教会改革者としての ...
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トーマス・セドラチェク - 2015 - プレビュー
☆2 「この代数的な解析学の発展は、デカルトの解析幾何学の発見、続いてニュートンとライプニッツの微分法の発見と時を同じくして起きた。もしピタゴラスが、 ... この場合、ニコラウス・クザーヌスが主著Idiota de sapientia(邦訳『知恵に関する無学者考』)を著した 1450年が「近代哲学とスコラ哲学が決別した日」ということになる。そして、デカルトの『 ...
学識ある無知について
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ニコラウス・クザーヌス - 1994 - プレビューは利用できません
「哲学」のゆくえ: 近代認識論から現代存在論へ - 143 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
池田善昭 - 2005 - スニペット表示
何故に、若きライプニッツは全存在性を個体化原理として理解したのか、また何故に、 個体というものを全存在性によって把握しょう ... に、ライプニッツにはピコゃクザーヌス、 就中ボヴイルスなどのルネサンス期の宇宙観の影響があったのではないかと思われる。
Kōgakkan Ronsō: Kogakkan Studies in Humanities
https://books.google.co.jp/books?id...
1985 - スニペット表示 - 他の版
もとより、ライプニッツ哲学の基礎に伏在した神学的、啓示依存的前提はクザ—ヌスにおいても根深く存在していたことであらう。このことを基本に置く鼠り、ライプ二ッッの先駆者クザーヌスという見方は正当なものと考えられる。しかし今度はやや観点を変え、 「 ...
近代世界の哲学: ミュンツァーからライプニッツへ
https://books.google.co.jp/books?isbn...
フランソワシャトレ - 1998 - プレビューは利用できません - 他の版
宗教改革、宇宙観の転換、新しい自然観などを通じて、十六、七世紀の思想の特質を辿る。扱われる思想家は、ミュンツァー、クザーヌス、ブルーノ、ガリレイ、デカルト、ホッ ...
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