ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus、1401 - 1464)&ブルーノ
(『岩波 哲学・思想事典』より。谷川多佳子氏執筆)
山本義隆 「磁力と重力の発見」(みすず書房)3/7 - 週に一冊
記号の組み合わせが全知を導く ” part2 ライプニッツ 「デ・アルテ・コンビナ ...
しかし、私にとっては結合法は事実は全く異なったものです。即ち ”形相の学” あるいは ” 相似と相似でないこと ...
結合法(けつごうほう)とは - コトバンク
大辞林 第三版 - 結合法の用語解説 - 〘哲〙 ライプニッツが提唱した普遍的記号法。 複合概念を少数の単純概念の結合から ...
ライプニッツ - 純丘曜彰教授博士の哲学講義室 - Seesaa Wiki
【結合法 ars combinatoria】 .... モナドという発想は、すでにジョルダノ・ブルーノに見られ、ライプニッツはこれを ...
亰雜物的野乘: ライプニッツ『モナドロジー』より
近世でニコラウス・クザーヌスやブルーノは、世界を構成し、世界の多様を ... 単純な要素を〈モナド〉と名付け、モナドどうしの結合から宇宙のさまざまな在り方が生じるが、 モナド自身は不滅とした。
(『岩波 哲学・思想事典』より。谷川多佳子氏執筆)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%
生涯
思想
主要著作
- De concordantia catholica
- 普遍的和合について(カトリック的和合について)
- De docta ignorantia、1440年
- 『知ある無知』 岩崎允胤・大出哲訳、創文社、1966年。
- 『学識ある無知について』 山田桂三訳、平凡社〈平凡社ライブラリー〉、1994年11月。ISBN 4-582-76077-5。
- De filiatione dei、1445年
- 「神の子であることについて」、『隠れたる神』 大出哲・坂本尭訳、創文社、1972年。ISBN 4-423-30117-2。
- 「神の子であることについて」、『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』 坂本尭訳、教文館、2000年8月。ISBN 4-7642-3210-3。
- De dep abscondito、1445年
- 「隠れたる神についての対話」、『隠れたる神』 大出哲・坂本尭訳、創文社、1972年。ISBN 4-423-30117-2。
- De quaerendo Deum、1445年
- 「神の探求について」、『隠れたる神』 大出哲・坂本尭訳、創文社、1972年。ISBN 4-423-30117-2。
- De dato patris luminum、1445年
- 『光の父の贈りもの』 大出哲・高岡尚訳、国文社〈アウロラ叢書〉、1993年10月。ISBN 4-7720-0385-1。
- De Genesi、1446年
- 「創造についての対話」酒井紀幸訳、『中世思想原典集成17 中世末期の神秘思想』 上智大学中世思想研究所編訳・監修、平凡社、1992年2月。ISBN 4-582-73427-8。
- Idiota de sapientia、1450年
- 「知恵に関する無学者考」小山宙丸訳、『中世思想原典集成17 中世末期の神秘思想』 上智大学中世思想研究所編訳・監修、平凡社、1992年2月。ISBN 4-582-73427-8。
- De pace fidei、1453年
- 「信仰の平和」八巻和彦訳、『中世思想原典集成17 中世末期の神秘思想』 上智大学中世思想研究所編訳・監修、平凡社、1992年2月。ISBN 4-582-73427-8。
- De visione dei、1453年
- 『神を観ることについて 他二篇』 八巻和彦訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2001年7月。ISBN 4-00-338231-5。 - 他二篇は「オリヴェト山修道院での説教」、「ニコラウスへの書簡」。
- 「神を観ることについて」、『隠れたる神』 大出哲・坂本尭訳、創文社、1972年。ISBN 4-423-30117-2。
- Trialogus de possest、1460年
- 『可能現実存在』 大出哲・八巻和彦訳、国文社〈アウロラ叢書〉、1987年6月。ISBN 4-7720-0111-5。
- Directio speculantis、seu De non aliud、1462年
- 「観察者の指針、すなわち非他なるものについて」松山康国訳、『非他なるもの』 創文社〈ドイツ神秘主義叢書 7〉、1992年1月。ISBN 4-423-39603-3。
- Complementum theologicum、1463年
- 『神学綱要』 大出哲・野澤建彦訳、国文社〈アウロラ叢書〉、2002年11月。ISBN 4-7720-0497-1。
- De venatione sapientiae、1463年
- 「知恵の狩猟について」、『隠れたる神』 大出哲・坂本尭訳、創文社、1972年。ISBN 4-423-30117-2。
- De apice theoriae、1463年
- 「観想の極地について」、『隠れたる神』 大出哲・坂本尭訳、創文社、1972年。ISBN 4-423-30117-2。
- 「テオリアの最高段階について」佐藤直子訳、『中世思想原典集成17 中世末期の神秘思想』 上智大学中世思想研究所編訳・監修、平凡社、1992年2月。ISBN 4-582-73427-8。
日本語研究
- 坂本尭 『クザーヌス 宇宙精神の先駆』 春秋社、1986年7月。ISBN 4-393-32202-9。
- 薗田坦 『〈無限〉の思惟 ニコラウス・クザーヌス研究』 創文社、1987年5月。
- 薗田坦 『クザーヌスと近世哲学』 創文社、2003年9月。ISBN 4-423-17138-4。
- 『クザーヌス研究序説』 日本クザーヌス学会編、国文社、1986年2月。
- 八巻和彦 『クザーヌスの世界像』 創文社、2001年2月。ISBN 4-423-17131-7。
- 『境界に立つクザーヌス』 八巻和彦・矢内義顕編、知泉書館、2002年8月。ISBN 4-901654-04-7。
- 渡邉守道 『ニコラウス・クザーヌス』 聖学院大学出版会、2000年9月。ISBN 4-915832-34-1。
脚注
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ところが『微分積分学の誕生』を見てみると、クザーヌスの専門書でないにもかかわらず、彼の学説の要点が数学の視点から端的にまとめられており、小伝まで付いていました。しかもその解説は私にとっては非常にわかりやすいものでした。これまで私が読んだ(それほど多くない)数学史の本の中では、クザーヌスにかなりの比重が置かれているといえるでしょう。特にライプニッツへの影響が詳しく記されています。この本によると、ライプニッツが曲線を
「無限小の辺を無限に連ねて形成される多角形」
と捉えた発想の淵源はクザーヌスにあったそうです。高瀬氏は次のようにも記しています。
『実際にデカルト、フェルマー、ライプニッツと、三者三様の接線法が現れました。唯一の普遍的な答えがあるわけではなく、ライプニッツの場合にはクザーヌスの神秘思想の影響が感知されます。』(『微分積分学の誕生』(高瀬著)、p.159より引用)
今からすれば、微分積分が神秘思想とつながるのはおかしく感じますが、当時は微分あるいは無限小という考え方はそのくらい得体の知れないものだったのでしょう。しかしその後の微分積分の役割を考えると、クザーヌスからライプニッツへの継承は、神秘主義から科学への飛躍と言えるのかも知れません。このように、多くの学者が神秘として厳密には扱えないようなものが、明晰な数学理論として捉えられ始めるとき、科学の理論的側面に大きな発展が起こるようです。
ところでインターネットで検索すると、まだ Nicolaus Cusanus Gymnasium は健在で、その公式サイトのトップには次のように書かれていました。
Das NCG ist ein Gymnasium mit bilingualem deutsch-englishen Bildungsgang und mathematisch-naturwissenshaftlichem Schwerpunkt, das durch seine Gruendungssurkunde von 1951 den Leitideen des Nicolaus Cusanus verpflichtet ist.
Sis hoc quod vis! -Sei das, was du willst!
(Nicolaus Cusanus, 1456)
NCGはドイツ語-英語のバイリンガルな教育課程をもち、数学-自然科学に重点をおいた中高学校で、1951年の創立憲章以来、ニコラス・クザーヌスの基本思想に負っています。
Sis hoc quod vis! 汝が欲するものであれ
(ニコラス・クザーヌス、1456)
Google map で調べてみると、友人たちと歩いた通学路のあたりは大筋、中学時代と同じ風景でした。日進月歩のインターネットで実感するのも変ですが、昔居たことのある所がほとんど変わっていないというのも感慨深いものです。
前回までの『私の名著発掘』はこちらへどうぞ
https://researchmap.jp/joqw0hldv-1782088/#_1782088
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三十年戦争に疲れるドイツ、ライプツィヒの、哲学教授の家庭に生まれ、二十で早くも法学博士となり、ドイツのマインツ侯国の法律顧問となった。哲学には、早くから関心をもち、ホッブズ、デカルト、パスカルを学び、スピノザにはたびたび会いに行っている。そして、ロンドン王立科学協会、フランス科学学士院の会員に選ばれ、みずから、ベルリンにドイツ始めての学士院(アカデミー)を創設し、初代院長となった。また、カトリックとプリテスタントの再統一という理想に長年、努力したが、現実の政治的利害関係に阻まれて、実現することはなかった。彼は、天性の才能に加え、法律、歴史、数学、物理学、産業等、広く関心を持ち、ヨーロッパの辺境で学問水準の遅れているドイツにあって、ヨーロッパ中の当時の第一線の政治家、文人、思想家、科学者、宗教家に会いに行ったり、また、膨大な書簡を交わしたりし、みずからの学問を発展させるとともに、ドイツの文化振興に努めた。また、ニュートンとほぼ同時に独立に《微積分法》を発見し、その後先をはげしく争ったことは有名である。
このように、彼は、学問のみならず、社交や、名誉、世評にも敏感であり、後年、さまざまな理由から宮廷内の支持を失ったことは、彼にはことさら不遇であったと思われる。
彼の哲学は、さまざまな活動のなかで形成され、それゆえ、断片的にノートの書簡にその独創的な発想が書留められているにすぎない場合が多い。主著『モナドロジー』にしても、本来は題名もないままの自分の哲学体系の抜粋的なものでしかない。また、『形而上学論』も、教会の再統一のための新たな神学的理念を提示するための論文であった。
しかし、彼の哲学の理念は、基本的には、徹底した《合理主義》に基づく《学の普遍性》ということにあったと思われる。そこには西洋も東洋もなく、ましてや、カトリックもプロテスタントもない。彼の求めたものは、宇宙の普遍性であって、その原理であり、また、それを知る人間理性の普遍性であり、その原理である。そして、宇宙がこのような原理からなる秩序を持ち、調和へと至ることを彼はかたく信じ、そして、これを彼自身も、政治や学問において実現すべく行動したのである。
彼の哲学は、このように断片的であったが、死後、弟子のヴォルフらによって、スコラ学的に整理、改編、体系化され、以後、しばらくドイツの哲学教育の標準となり、カント等にも多大な影響を与えた。この体系を《ライプニッツ・ヴォルフ哲学》という。一般に、このヴォルフ派の体系化によって、ライプニッツ哲学はゆがめられ、通俗化されたとされる。しかし、それまで書簡か小冊子で、それもラテン語しか知ることのできなかった哲学を、普通のドイツ語で、大学から広く世間に普及した意義は大きく、その後のドイツ哲学の発展の基礎は、このヴォルフ派の活躍によるといっても過言ではあるまい。
【結合法 ars combinatoria】
(『結合法について』)
すべての語が26種の文字の結合から成立するように、人間の思想にもそれを構成する究極要素である〈人間思想のアルファベット〉があるにちがいない。そこで、このすべてを見出し、可能なすべての結合形式を探究することで、既知の認識の論証はもちろん、新たな認識の発見も可能となるはずである。
これは、彼が弱冠二十才にして記した小論文であり、この独創的発想は、《記号論理学》の最初の文献とされる。ただし、中世末の神秘学者の中には、ルルスのように同じような構想を持っていた者もいたのであり、ライプニッツ自身も後に関心を持って、練金術師の用いる神秘的記号を用いたりしている。また、彼は、同じ発想の中国の《易学》にも深い関心を寄せていたと言われる。
【普遍学 scientia generalis】
デカルトは、諸学において、計量と秩序が問題となる限り、数学的方法の適用が可能であると考え、諸学の実質的内容にかかわらず、すべての学問に共通な秩序と計量関係を説明する学を構想し、これを《普遍数学 mathesis universalis》と呼んだ。
ライプニッツは、さらに、計量的諸学のみならず、すべての学に類比と調和があるとして、諸学の諸概念を、比較的少数の単純基礎概念に還元し、ここから諸学を演繹的に再構成しようと試みた。このような《普遍学》は、すべての学問に共通な《普遍記号法》と《推理計算法》からなるとされる。
しかし、それは、《記号法》と《推論規則》だけからなる、いわゆる今日の《記号論理学》とはことなり、多分に神秘的な色合の強い独創的な存在論を伴ったものであり、その一端を『モナドロジー』等からうかがい知ることができる。それゆえ、この発想は、よくもわるくも《合理主義》の徹底した立場を明確に打出したものであると言える。
【充分理由の原理 principium rationis sufficientis】
(『モナドロジー』32など)
矛盾の原理と並ぶ、我々の思考の働きの二大原理のひとつ。すなわち、[ひとつの原因、または、少なくともひとつの決定的理由なくしてはなにものも決して起こらない、AがなぜAであって、A以外ではないかということを充分に満たすにたる理由がなければ、どんな事実も成立せず、命題も正しくない]ということ。もっとも、このような理由は、十中八九我々には知ることはできないが、その根本理由は、神が最善を知恵によって知り、善意によって選び、力によって生み出すことである、とされる。
ところで、〈真理〉には、〈推理の必然的真理〉と、〈事実の偶然的真理〉があるが、前者が〈矛盾の原理〉に基づくのに対して、後者はこの〈充分理由の原理〉に基づく。
また、ショーペンハウアーは、この〈充分理由〉をさらに〈生成の充分理由〉〈認識の充分理由〉〈存在の充分理由〉〈行為の充分理由〉の4つに分けた。
【理性の真理 verites de raison
/事実の真理 verites de fait】
(『形而上学』、『モナドロジー』他)
概念の結合には2種類あり、一方は、[絶対に必然的であって、その反対は矛盾を含むようなもの]であり、もう一方は、[仮定によって必然的であるにすぎず、その反対が少しも矛盾を含まず、それゆえ、それ自身おいては偶然的であるようなもの]である。前者は〈矛盾律〉に基づく〈理性の真理〉であり、後者は〈充分理由律〉に基づく〈事実の真理〉である。
前者は、分析によってその理由をたどっていくことによって、原初的真理に到達すが、後者は、際限なく分解され、無限に細かくなってしまう。それゆえ、この最後の理由はこの系列の外にあり、それが神にほかならず、神こそがそのような細部全体を満たす充分理由であり、神は最善なものを一挙に選択したのである。
【連続律 lex continui】
「自然は飛躍しない natura non facit sultum」、すなわち、[すべてのものは系列の中にあるのだが、この系列は連続しており、飛躍がなく、また、個々のものにおいても、その状態はつねに連続的に変化しているのであって、飛躍がない]ということ。
【不可識別者同一の原理 principium identitatis indiscerniblium】
(『モナドロジー』9など)
[自然においては、2つの存在がたがいにまったく同一で、そこに内的規定に基づく違いが発見できないなどということはなく、それゆえ、たがいに識別できない2つのものは、実は、同一の1つののものである]とされる。
ここから、論理学的には、[与えられた議論の言葉内で互いに区別できない対象は、その議論について同じものとみなされるべきである]、もしくは、[真理を損失することなしに、一方が他方に代入できるものは、互いに同じである]とされる。
また、この逆を、〈同一者不可識別の原理〉という。つまり、同じものは識別できない、ということである。
しかし、〈不可識別者同一の原理〉は、ライプニッツ独特の〈モナド〉の存在論と深く結びついており、一般に成立つとは言えない。
【モナド monade】
(『モナドロジー』)
単一(部分がない)な自然の要素。「単子」とも訳される。
モナドは、一斉に発生、絶滅し、二つと同じものはない。また、窓がなく、他によって変化することはないが、内的には〈欲求〉によって不断に表象が変化している。モナドは〈眠り〉から、さまざまな表象を〈魂〉の記憶によってつなぎ、〈精神〉の理性によって反省するに至る。そして、どのモナドも〈生きた鏡〉として神が選んだ最善の、同じ一つの宇宙を自分流に映し出すことによって、〈予定調和〉が成立する。
モナドという発想は、すでにジョルダノ・ブルーノに見られ、ライプニッツはこれを受継ぎ、発展させたとされる。
【微小知覚 petite perception】
(『形而上学』33、『モナドロジー』21など)
我々の知覚は、たとえそれが明晰である場合も、必ずなにか雑然とした感覚を含んでいる。なぜなら、宇宙のあらゆる物体は共感しあっているので、我々の感覚もすべてのものと係わりを持っているからである。つまり、我々の雑然とした感覚は、際限のないほど多様な〈微小知覚〉の結果なのである。それは、波のさわめきの音が、無数の波の反響の集合から生じてくるようなものである。
ところで、表象しか持たない〈裸のモナド〉は、いまだ〈統覚 apperception 〉を持たないがゆえに、これらの多くの表象の中にきわだったものがないならば、茫然とした状態にとどまったままでいる。つまり、〈魂〉として記憶を伴い、さらに〈精神〉として反省を伴ってこそ、より抽象的な表象も認識することができるようになるのである。
【宇宙の生きた鏡 miroir vivant de l'univers】
(『モナドロジー』56,63)
個々のモナドには窓がなく、相互に作用することはないが、どれもが神の選んだ最善の同じ一つの宇宙を映し出すがゆえに〈予定調和〉し、それゆえ、そのそれぞれが、他の被造物すべてと対応し、そこにすべての実体が表出している。それは、同じ町をさまざまな方角から眺めるようなものである。
【予定調和 harmonia praestabilita】
(『モナドロジー』など)
個々の部分があらかじめ精密に調整されていることによって、部分間の直接の相互作用なしに、後々まで全体の秩序が成立すること。
すなわち、個々のモナドには窓がなく、相互に作用することはないが、モナドは、エンテレキアとも呼ばれるように、自足的に内部に作用源を持つ自動機械であるので、世界もまた無限に細密な機械であり、物質のどの部分もが神の選んだ最善の同じ一つの宇宙を映し出すがゆえに、普遍的な調和が成立する。それは、同じ町をさまざまな方角から眺めるようなものである。そして、それゆえ、精神と身体との間、つまり、目的因の領域と動力因の領域の間、自然の物理的世界と恩寵の倫理的世界の間にも調和が成立つ。
【知性そのものを除いて nisi intellectus ipse】
(『悟性新論』)
〈あらかじめ感覚の中にないものは知性の中にない〉というロックの《経験論》に対して、それを承認しつつ、それを展開する力である知性そのものだけはあらかじめあることを強調した《合理論》の立場を表す言葉。
モナド (Monad) は、ライプニッツが案出した空間を説明するための概念である。ギリシア語 μονάς monas モナス(個、単一)、μόνος monos モノス(単一の)に由来する。単子と翻訳される場合もある。
内容
ライプニッツは、現実に存在するものの構成要素を分析していくと、それ以上分割できない、延長を (ひろがりも形も) 持たない実体に到達すると考えた (第3節)[1]。これがモナドである。ライプニッツによれば、モナドは構成されたものではなく、部分を持たない、厳密に単純 (単一) な実体であるが (第1節)[1]、にもかかわらず属性として状態を持つ。属性を持たなければすべてのモナドは区別できず、複数のモナドがあるとはいえなくなるからである (第8節)[1](不可識別者同一)。どのモナドも、他の全てのモナドと互いに必ず異なっており (第9節)、またモナドは変化する (第10節)[1]。このとき、或る状態から別の状態への変化の傾向性を欲求という (第15節)[1]。
この「状態」は他のすべてのモナドの状態を反映する。すなわち、究極的には無数のモナドから、そしてただそれだけからなる現実世界全体の状態(ということはすべてのモナドの状態)に、個別のモナドの「状態」は対応する。これがモナドの持つ「表象・知覚」能力である(モナドは鏡である)。しかし、モナドは部分を持たない厳密に単純な実体であるから、複合的なもの同士が関係するような意味で「関係」することはできない (第7節) (モナドには窓がない)[1]。厳密に相互に独立している。
したがってこの表象能力、他のモナドの状態との対応は、モナドの定義からいって不可能であるところの外的な「相互関係」によるものではなく、モナドの自然的変化は内的な原理から生ずる (第11節)[1]。
ちょうど、あらかじめ時刻を合わせた二つの時計のような意味での、神の創造の時点で予定・調整された「調和」である(予定調和)。モナドの状態の変化は、可能性としてそのモナド自身が有しているものの展開であり、厳密にそのモナドの先行状態にのみ由来する。
この表象能力には、その対応の正確さや明晰さに応じて、明晰・混雑などの度合いの差がある。すべての他の事物や世界の状態が同等に知覚・表象されるわけではない。対応するものを明晰に反映していない表象は、しかし雑然とした形で意識の状態に影響を与える。これを微小表象といい、後にいう無意識の概念に近い。たとえば眠っているときの意識は、身体や外界の状態に曖昧かつ不明瞭に対応する微小表象によって構成されている。人間や動物の精神や生命は、このモナドの表象・知覚の能力によって説明される。逆に言えば、そこから、すべてのものにはそれぞれの度合いに応じて精神や生命があるということにもなる。
相互独立と因果関係
一般にモナドロジーは因果関係を否定したものと受け取られることが多い。しかし、ライプニッツが「窓がない」という言い方で主張しているのは、因果関係に関する、当時支配的だった特定の考えである。
物が物に作用するというとき、ひとつのありうるモデル、描像としては、作用するモナドから何かが出て、作用されるモナドの中へ入るという構図が考えられる。たとえば通信のモデルで、伝達を、メッセージが一方から出て他方へ入ると理解するように、力の作用も、押すモナドから「力」が出て押されるモナドに「力」が入ることで、押されるモナドの内部の構成が変化する、これが因果関係であるというようなモデルである。
これに対してライプニッツは、複合的な粗大な物体の場合は、媒介物の移動で作用を説明することができる場合もあるが、つきつめれば、モナドは部分や構成要素を持たないのだから、「外から何かが中に入る」ことはありえず、因果関係や作用は「外的な対応する変化」であって、「内的な何かのやり取り」としては理解できない、と主張しているのである。
したがって、この限りで、ライプニッツの主張は、決してとっぴではない。
俗語としての「予定調和」
現代の日本では「予定調和」という俗語が「予測どおりの物事が起きること」という意味で用いられている。特に小説や漫画などの物語(ストーリー)においては「このような状態になったら、次はこのような物事が起きる」という物語の類型が多数存在しているため、ある状態になったときに次に起こる物事を予測できることがままある。その予測どおりに進行したときに、物語の評価として「予定調和」という言葉を用いる。「フラグ」は物語における「予定調和」の一種である。
参考文献
- ライプニツツ 『単子論』 河野与一訳、岩波書店〈哲学古典叢書 5〉、1928年。
- ライプニツ 『単子論』 河野与一訳、岩波書店〈岩波文庫 青616-1〉、1951年9月25日。ISBN 4-00-336161-X。
- ライブニッツ「モナッド論」松永材訳、『世界大思想全集』第2巻、春秋社、1929年。
- 「モナドロジー(哲学の原理)」西谷裕作訳、『後期哲学』〈ライプニッツ著作集 第9巻〉、1989年6月。ISBN 4-87502-154-2。
- ライプニッツ 『モナドロジー 形而上学叙説』 清水富雄・竹田篤司・飯塚勝久訳、中央公論新社〈中公クラシックス〉、2005年1月。ISBN 4-12-160074-6。
関連項目
出典
外部リンク
Monad (from Greek μονάς monas, "singularity" in turn from μόνος monos, "alone"),[1] refers in cosmogony to the Supreme Being, divinity, or the totality of all things. The concept was reportedly conceived by the Pythagoreans and may refer variously to a single source acting alone, or to an indivisible origin, or to both. The concept was later adopted by other philosophers, such as Leibniz, who referred to the monad as an elementary particle. It had a geometric counterpart, which was debated and discussed contemporaneously by the same groups of people.
Historical background
According to Hippolytus, the worldview was inspired by the Pythagoreans, who called the first thing that came into existence the "monad", which begat (bore) the dyad (from the Greek word for two), which begat the numbers, which begat the point, begetting lines or finiteness, etc.[2] It meant divinity, the first being, or the totality of all beings, referring in cosmogony (creation theories) variously to source acting alone and/or an indivisible origin and equivalent comparators.[3]
Pythagorean and Platonic philosophers like Plotinus and Porphyry condemned Gnosticism (see Neoplatonism and Gnosticism) for their treatment of the monad.
Pythagorean concept
For the Pythagoreans, the generation of number series was related to objects of geometry as well as cosmogony.[4] According to Diogenes Laertius, from the monad evolved the dyad; from it numbers; from numbers, points; then lines, two-dimensional entities, three-dimensional entities, bodies, culminating in the four elements earth, water, fire and air, from which the rest of our world is built up.[5][6]
Modern philosophy
The term monad was later adopted from Greek philosophy by Giordano Bruno, Leibniz (Monadology), John Dee, and others.
See also
Notes
- ^ Compact Oxford English Dictionary.
- ^ Diogenes Laertius, Lives and Opinions of Eminent Philosophers.
- ^ Fairbanks, Arthur, Ed., "The First Philosophers of Greece". K. Paul, Trench, Trubner. London, 1898, p. 145.
- ^ Sandywell, p. 205. The generation of the series of number is to the Pythagoreans, in other words, both the generation of the objects of geometry and also cosmogony. Since things equal numbers, the first unit, in generating the number series, is generating also the physical universe. (KR: 256) From this perspective ‘the monad’ or ‘One’ was readily identified with the divine origin of reality.
- ^ Diogenes Laertius, Lives of Eminent Philosophers.
- ^ This Pythagorean cosmogony is in some sense similar to a brief passage found in the Daoist Laozi: "From the Dao comes one, from one comes two, from two comes three, and from three comes the ten thousand things." (道生一、一生二、二生三、三生萬物。) Dao De Jing, Chapter 42
References
- Hemenway, Priya. Divine Proportion: Phi In Art, Nature, and Science. Sterling Publishing Company Inc., 2005, p. 56. ISBN 1-4027-3522-7
- Sandywell, Barry. Presocratic Reflexivity: The Construction of Philosophical Discourse C. 600-450 BC.Routledge, 1996.
- De monade numero et figura (On the Monad, Number, and Figure, Frankfurt, 1591)[98]
ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548年 - 1600年2月17日)は、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護した。異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。思想の自由に殉じた殉教者とみなされることもある。彼の死を前例に考え、轍を踏まないようにガリレオ・ガリレイは自説を撤回したとも言われる。
生涯
ナポリ時代(1548年–1575年)
1548年にナポリ王国のノーラ(現在のイタリア・カンパニア州)で生まれた。もともとはフィリッポ・ブルーノ(Filippo Bruno) という名前であり、父ジョヴァンニ・ブルーノは兵士であった。1562年、14歳のときナポリに移り、ナポリ大学で学んだ。1565年、17歳でドミニコ会に入会、ジョルダーノを名乗った。1572年に司祭に叙階され、1575年にはトマス・アクィナスおよびペトルス・ロンバルドゥスについての論文によって神学博士となった。
ブルーノがトマス・アクィナスへ向けた尊敬は生涯にわたるものであったが、ナポリ時代にすでに独自の思想を育みはじめていた。エラスムス、偽ディオニシウス・アレオパギタ、ニコラウス・クザーヌス、ライムンドゥス・ルルスなどの神学者たち、プラトンおよび新プラトン主義(プロティノス、ポルピュリオス、イアンブリコス、プロクロスなど)やエピクロス主義(とくにルクレティウス)やピュタゴラス主義やセネカといった古代哲学、さらにはヘルメス主義、アヴィケブロンやクレスカスなどのユダヤ人哲学者の思想やカバラ、アヴェロエスはじめアラビア思想、フィレンツェ・プラトン主義(マルシリオ・フィチーノ、ピコ・デラ・ミランドラ)というように、ブルーノの哲学思想の源泉は多岐にわたっている。後年は一貫して批判し続けるアリストテレスについても、ナポリ時代に熱心に研究し、多くのことを学んだ。
放浪時代(1576年–1592年)
1576年、異端の嫌疑をかけられたブルーノは、異端審問所の追及を逃れようとナポリを離れ、しばらくのローマ滞在を経て、北イタリア各地で文法や天文学などを教えながら放浪生活を送った。1578年にはアルプス山脈を越えてフランスに入り、翌1579年にはスイスのジュネーヴに滞在した。ジュネーヴ大学に在籍し、一時的にカルヴァン派に接近するが、改宗までしたかどうかは定かでない。また、すぐにジュネーヴ大学のカルヴァン派哲学者と論争を巻き起こし、名誉毀損で訴えられて有罪となり、ジュネーヴを離れた。同年、トゥールーズに移ったブルーノは、トゥールーズ大学の正規の講師となり、アリストテレス『魂について』の講読註解をおこなった。以後、2年近くをトゥールーズで過ごした。
1581年、パリに移住し、優れた記憶力が話題となって、フランス国王アンリ3世とも会見した。ソルボンヌ大学で正規の教授職を得ることはできなかったが、翌1582年に王立教授団(コレージュ・ド・フランスの前身)の講師に任命された。1583年、ブルーノはアンリ3世の推薦書を持ってイギリスに赴き、オックスフォード大学での教授職を得ようとしたが、同地で受け入れられず、イギリスで教壇に立つという望みは果たされなかった。だが、ロンドンに滞在する2年半のあいだに、ブルーノ前半期の主著とされる6つの対話篇『聖灰日の晩餐』『原因・原理・一者について』『無限・宇宙・諸世界について』『傲れる野獣の追放』『天馬のカバラ』『英雄的狂気』を上梓した。
1585年、パリに戻ったが、アリストテレスの自然哲学を批判した120のテーゼが問題とされた上、数学者ファブリツィオ・モルデンテとの裁判に巻き込まれ、ドイツへと去った。ドイツではマールブルク大学での教授職は得られなかったが、ヴィッテンベルク大学での教授許可を得ることができ、アリストテレスについて2年間講義した。1588年にヴィッテンベルクを去り、今度はボヘミアのプラハに現れた。そこでルドルフ2世に300テーラーという年俸を保証されたが、教授職は得られなかった。どうしても教壇に立ちたいブルーノはヘルムシュタットに移ったが、ルター派の権威者たちの反感を買い、ここも立ち去ることになった。
1591年、放浪を繰り返していたブルーノはフランクフルト・アム・マインにいた。ブルーノ後半期の主著とされる3部作『三つの最小者について』『モナド論』『測り知れざる巨大者について』はこのとき刊行された。同年、ブルーノは、ヴェネツィアの貴族ズアン・モチェニゴから記憶術の指南を受けたいという招請を受けた。モチェニゴ家はヴェネツィアでも屈指の大貴族であり、ブルーノはイタリアに戻る決意をした。ヴェネツィアに向かう途中、パドヴァに滞在し、空席となっていたパドヴァ大学の数学教授の座を得ようとするも、結局ガリレオ・ガリレイに教授職を持っていかれてしまった。ヴェネツィアに来たブルーノは、モチェニゴの家庭教師を2か月つとめた。だが、そのモチェニゴによって訴えられ、1592年、ヴェネツィア官憲によって逮捕された。さらに、ブルーノのことを聞きつけた異端審問所が介入し、最終的にローマの異端審問所に引き渡された。
ローマ時代(1593年–1600年)

1593年にローマに移されて以降、裁判はなかなか実施されず、ブルーノは7年を獄中で過ごした。彼への告発理由は神への冒瀆、不道徳な行為、教義神学に反する教説であり、ブルーノの哲学と宇宙論にみられるいくつかの点も問題とされた。ブルーノは教皇クレメンス8世に直接面会して自説の一部を撤回することを明言すれば嫌疑は晴れると考えていたが、クレメンス8世はこれを拒絶し、異端審問の開始を命令した。
異端審問が行われると、当時の異端審問所の責任者であった枢機卿のロベルト・ベラルミーノはブルーノに対し、自説の完全な撤回を求めたが、ブルーノは断固としてこれを拒絶した。結果、罪状は24に上り、上記に加えて魔術・占術の信奉、マリアの処女性の否定、輪廻説の支持などが挙げられた。1600年1月8日、ベラルミーノはブルーノを異端とし死刑判決を下した。同年2月17日、ローマ市内のカンポ・デ・フィオーリ広場に引き出されたブルーノは火刑に処された。処刑の様子はブレスラウの学生ガスパール・ショップ (Gaspar Schopp) が目撃し、家族へ送った手記により後世に伝えられている。それによると、ブルーノは処刑を宣告する執行官に対して「私よりも宣告を申し渡したあなたたちの方が真理の前に恐怖に震えているじゃないか」と言い、結果舌枷をはめられた。さらに、刑の直前に司祭が差し出した十字架へは侮蔑の一瞥をくれただけで顔を背け、死の際には1つも声を発さなかったという。遺灰はテヴェレ川へ投げ捨てられ、遺族に対しては葬儀ならびに墓の造営も禁じられた。
死後
ブルーノの著作のすべては1603年に禁書目録に加えられた。それでも、著作のほとんどはパリ・ロンドン・フランクフルトなどイタリア半島の外で出版されていたため、わずかではあったが流通しつづけた。
17世紀から18世紀にかけては、ピエール・ベールやマラン・メルセンヌが、著作のなかでブルーノ哲学をとりあげた。ヨハン・ベルヌーイはゴットフリート・ライプニッツ宛の書簡で、ルネ・デカルトの渦動説がブルーノ宇宙論の剽窃だと書いた。ジョン・トーランド (哲学者)は、ブルーノの著作を英語訳し、積極的な普及活動を行った。そのトーランドの影響もあってか、フランスの匿名の自由思想家によって地下文書『ジョルダーノ・ブルーノ復活』が書かれ、広範な読者を得た。
19世紀からは、ドイツでの汎神論論争のなかで『原因・原理・一者について』の抜粋がドイツ語訳され、ドイツ語圏の哲学者たちの関心を惹くことになった。なかでもフリードリヒ・シェリングは、ブルーノを主人公とした対話篇『ブルーノ』を著した。また、イタリア統一運動(リソルジメント)が高揚するなかで、イタリアでもブルーノへの関心が高まり、著作集の編纂や伝記考証など実証研究が行われるようになった。
ジョルダーノ・ブルーノの名誉が完全に回復されたのは、20世紀に入ってからである。カトリック教会の歴史における負の遺産の清算を訴えた教皇ヨハネ・パウロ2世のもとで、ブルーノに対する裁判過程が再検証され、「処刑判決は不当であった」という判断が下された。この動きはもともとナポリ大学の神学部のドメニコ・ソレンティーノ教授らによって始められたもので、これによって1979年、カトリック教会は公式に異端判決を取り消した[1]。
ブルーノと宇宙論
当時の人々の宇宙観
16世紀の後半、コペルニクス・モデルはヨーロッパ全域で知られるようになっていた。ブルーノはコペルニクスが観察よりも数学的整合性を重要視したことを批判していたが、地球が宇宙の中心ではないという点についてはコペルニクスに賛同していた。ただブルーノはコペルニクスの理論の中にある「天界は不変不朽で地球や月とは異なった次元のものである」という意見には賛同しなかった。ブルーノは「世界の中心は地球か太陽か」などという議論を超越し、3世紀のプロティノスやさらに後の時代のブレーズ・パスカルのような思想、すなわち宇宙の中心などどこにも存在しないという立場にたっていた。
ブルーノの在世時、コペルニクスのモデルにはまだまだ欠陥が多く、天動説の方が明快に説明できることが多かったため、コペルニクスの説に賛同した天文学者はほとんどいなかった。わずかにミヒャエル・メストリン(1550年 - 1631年)、クリストフ・ロスマン(1550年代 - 1600年以降)、トーマス・ディッグス(1546年 - 1595年)などが挙げられる程度である。ヨハネス・ケプラー(1571年 - 1630年)とガリレオ・ガリレイ(1564年 - 1642年)はまだまだ若く無名の存在だった。ブルーノは本当の天文学者とはいえないが、もっとも早い時期に地球中心説を退けてコペルニクスの世界観を受け入れた著名人であった。1584年から1591年にかけて執筆した著作の中でブルーノは盛んにコペルニクスを擁護している。
アリストテレスとプラトンは、宇宙は完全な球体であり、さまざまな球体が入れ子構造になっていて回転していると考えた。その回転力を与えているのは超越的な神であり、神は宇宙とは別次元に存在しているとされた。恒星は最も外側の天球に貼り付けられており、全宇宙の中心こそが地球であるというのが2人の宇宙観であった。プトレマイオスは恒星を1,022個数え、48の星座に分類している。惑星もそれぞれ透明な球体の上にあって運動していると考えられていた。
コペルニクスの宇宙論も決して完全なものではあったわけではなく、古代以来の概念を多く継承していた。たとえばプトレマイオスからは惑星が球面上に固定されているという考え方を受け継いでいたが、その不可解な動きの原因は地球の公転であることは見抜いていた。また、コペルニクスは宇宙には不動の中心が存在するという概念も持ち続けていたが、中心にふさわしいのは地球よりも太陽であると考えていた。恒星はかつて天球上に貼り付けられているため地球から等距離にあると信じられていたが、そのことについてコペルニクスは特に言及していない。
ブルーノの宇宙論
ブルーノの主張でもっとも画期的だったものは「地球自体が回転しており、それによって地球上からは見かけ上天球が回転しているように見える」ということであった。ブルーノはまた、「宇宙が有限であること」あるいは「恒星は宇宙の中心から等距離に存在している」と考える理由はないとした。
ブルーノの宇宙論は先行するトーマス・ディッグスの1576年の著作『天界論』(A Perfit Description of the Caelestial Orbes) とも共通する部分がみられるが、ディッグスは中世において信じられていたように、恒星天の外側が神と天使の世界であると考えていた。またディッグスは宇宙の中で地球だけが生命と知性の存在しうる場所であること、不変の天界に対して地球だけが変化する世界であると考えた。
1584年、ブルーノは二つの重要な著作を出版した。ブルーノはその著作の中で惑星が天球の上に階層をなして存在しているという説を批判した。2年後の1586年にロスマンが同様の主張を行い、さらに1587年にはティコ・ブラーエも続いた。ブルーノは無限宇宙が「純粋気体」で満たされていると考えた。これは後に創案される「エーテル」概念のはしりであり、この気体は惑星や恒星の動きに一切影響を及ぼすことはないとされた。ブルーノの宇宙論で特筆すべきことは、それまで信じられていた宇宙が特定の中心から広がる階層球によって成り立っているという考え方を否定し、地球も太陽も宇宙の1つの星にすぎないと主張したことにあった。
地球だけが特別な星であるという当時の常識に挑戦するかのように、ブルーノは神が宇宙の一部だけに特別に心を配ることはないと考えた。彼にとって神とは心の中に内在する存在であって、宇宙のどこかにある天国にいて地球を見ているものではなかった。
ブルーノは四元素説(水、気、火、土)は信じていたものの、宇宙が特別な物質でできているのではなく地球とおなじ物質からなっているとし、地球上でみられる運動法則が宇宙のどこでも適用されると考えた。さらに宇宙と時間は無限であると考えていたことは、宇宙の中で地球だけが生命の存在できる空間であるという当時のキリスト教的宇宙観を覆すものとなった。
このような考え方に従うなら、太陽も決して特別な存在でなく、あまたある恒星の1つにすぎないことになる。ブルーノは太陽を惑星が囲む太陽系のようなシステムは宇宙の基本的な構成要素であると考えた。ブルーノにしてみれば神が無限の存在である以上、無限の宇宙を創造することはなんらおかしなことではないということであった。ブルーノはアリストテレス以来、伝統的に信じられてきた「自然は真空を嫌う」ことを信じていたため、宇宙にある無数の太陽系の間はエーテルによって満たされていると考えていた。彗星は神の意志を伝える役割をもって天界から到達するというのもブルーノのアイデアであった。
ブルーノの宇宙論の特徴は宇宙の無限性と同質性の提示、さらに宇宙には多くの惑星が存在していると考えたことにあったといえる。ブルーノにとって宇宙とは数学的計算によって分析できるものでなく、星達の意志によって運行しているものであった。このようなアニミズム的宇宙観はブルーノの宇宙論のポイントの1つである。
ブルーノに関連する事物
月の北緯36度、東経103度にはジョルダーノ・ブルーノと名づけられた直径20 kmのクレーターがある。このクレーターは1178年にイングランドの修道士によって目撃・記録された[2]、隕石の衝突によってできたものと考えられていたが、2007年に打ち上げられた日本の月探査機かぐやの観測によって、実際には100万年から1,000万年前に形成されたことが明らかになった。しかし、月面にある直径10 km以上のクレーターの中で最も新しいことに変わりはない[3][4]。
日本語文献
著作の訳書
- 『無限、宇宙と諸世界について』 清水純一訳、現代思潮社〈古典文庫〉、1967年。
- 『無限、宇宙および諸世界について』 清水純一訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1982年4月。ISBN 4-00-336601-8。 ※上記の改訳版
- 『ジョルダーノ・ブルーノ著作集』 加藤守通訳、東信堂。
- 『カンデライオ』 加藤守通訳、東信堂〈ジョルダーノ・ブルーノ著作集 1〉、2003年7月。ISBN 4-88713-500-9。
- 『原因・原理・一者について』 加藤守通訳、東信堂〈ジョルダーノ・ブルーノ著作集 3〉、1998年4月。ISBN 4-88713-290-5。
- 『傲れる野獣の追放』 加藤守通訳、東信堂〈ジョルダーノ・ブルーノ著作集 5〉、2013年9月。ISBN 4-7989-1188-7。
- 『英雄的狂気』 加藤守通訳、東信堂〈ジョルダーノ・ブルーノ著作集 7〉、2006年6月。ISBN 4-88713-691-9。
研究書
- 清水純一 『ジョルダーノ・ブルーノの研究』 創文社、2003年11月(原著1970年3月)。ISBN 4-423-17022-1。
- 清水純一 『ルネサンスの偉大と頽廃 ブルーノの生涯と思想』 岩波書店〈岩波新書〉、1972年。
- 根占献一編・共著、伊藤博明・伊藤和行・加藤守通 『イタリア・ルネサンスの霊魂論 フィチーノ・ピコ・ポンポナッツィ・ブルーノ』 三元社、1995年9月。ISBN 4-88303-028-8。 - 加藤守通「第4部 ジョルダーノ・ブルーノ」[5]
- ヌッチョ・オルディネ 『ロバのカバラ ジョルダーノ・ブルーノにおける文学と哲学』 加藤守通訳、東信堂、2002年6月。ISBN 4-88713-439-8。
- ハンス・ブルーメンベルク 『近代の正統性3 時代転換の局面』 村井則夫訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス 608〉、2002年6月。ISBN 4-588-00608-8。
- フランセス・イエイツ 『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』 前野佳彦訳、工作舎、2010年5月。ISBN 978-4-87502-429-3。
- 岡本源太 『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』 月曜社〈古典転生 第7巻〉、2012年3月。ISBN 978-4-901477-92-5。 - 附録:ジェイムズ・ジョイス「ブルーノ哲学」「ルネサンスの世界文学的影響」。
脚注
- ^ ジョルダーノ・ブルーノという修道僧にして哲学者
- ^ ジェイ・イングラム 『天に梯子を架ける方法 科学奇想物語』 中村和幸訳、紀伊国屋書店、2000年4月、[要ページ番号]。ISBN 4-314-00865-2。 - 原タイトル:The barmaid’s brain and other strange tales from science.
- ^ 諸田智克ほか (2009年11月18日). “月面クレータ、ジョルダノ・ブルーノの形成年代に関する研究成果” (日本語). 会津大学先端情報科学研究センター. 2012年5月13日閲覧。
- ^ 『月のかぐや』 宇宙航空研究開発機構編、新潮社、2009年11月、22頁。ISBN 978-4-10-320021-5。
- ^ 他は、根占献一「第1部 マルシリオ・フィチーノ」、伊藤博明「第2部 ピコ・デッラ・ミランドラ」、伊藤和行「第3部 ピエトロ・ポンポナッツィ」。
関連項目
外部リンク
- 大谷啓治「ブルーノ」[リンク切れ] - Yahoo!百科事典
1 Comments:
Philosophia - 第 73~76 号 - 195 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
1988 - スニペット表示 - 他の版
尤も後者の問題については,アリストテレスとライプニッツの微妙なズレを参酌すれば, 容易に端倪し難い局面をクザーヌスにも発生させる。ともあれ縮限と分有,包含と展開等が絡み合う構造の中で,段階的連続面と非連続面とを交錯させたクザーヌスの諸概念を, ...
岩波哲学・思想事典 - 1061 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
廣松涉 - 1998 - プレビューは利用できません
思想哲学書全情報 1945-2000 2 思想・哲学史 - 68 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
日外アソシエーツ - 2001 - スニペット表示
160111 (平凡社ライブラリー) 1400 円( ; )4 - 582-76077-5 0132.4 〔 0 15 02 〕 0 隠れたる神ニコラス'クザーヌス著.大出哲.坂本弗訳創文社 1972193? ... 宗教意織の展開に関する一考察一クザーヌスとライプニッツをめぐつて清水富雄著.教会改革者としての ...
善と悪の経済学: ギルガメシュ叙事詩、アニマルスピリット、ウォール街占拠
https://books.google.co.jp/books?isbn...
トーマス・セドラチェク - 2015 - プレビュー
☆2 「この代数的な解析学の発展は、デカルトの解析幾何学の発見、続いてニュートンとライプニッツの微分法の発見と時を同じくして起きた。もしピタゴラスが、 ... この場合、ニコラウス・クザーヌスが主著Idiota de sapientia(邦訳『知恵に関する無学者考』)を著した 1450年が「近代哲学とスコラ哲学が決別した日」ということになる。そして、デカルトの『 ...
学識ある無知について
https://books.google.co.jp/books?isbn...
ニコラウス・クザーヌス - 1994 - プレビューは利用できません
「哲学」のゆくえ: 近代認識論から現代存在論へ - 143 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
池田善昭 - 2005 - スニペット表示
何故に、若きライプニッツは全存在性を個体化原理として理解したのか、また何故に、 個体というものを全存在性によって把握しょう ... に、ライプニッツにはピコゃクザーヌス、 就中ボヴイルスなどのルネサンス期の宇宙観の影響があったのではないかと思われる。
Kōgakkan Ronsō: Kogakkan Studies in Humanities
https://books.google.co.jp/books?id...
1985 - スニペット表示 - 他の版
もとより、ライプニッツ哲学の基礎に伏在した神学的、啓示依存的前提はクザ—ヌスにおいても根深く存在していたことであらう。このことを基本に置く鼠り、ライプ二ッッの先駆者クザーヌスという見方は正当なものと考えられる。しかし今度はやや観点を変え、 「 ...
近代世界の哲学: ミュンツァーからライプニッツへ
https://books.google.co.jp/books?isbn...
フランソワシャトレ - 1998 - プレビューは利用できません - 他の版
宗教改革、宇宙観の転換、新しい自然観などを通じて、十六、七世紀の思想の特質を辿る。扱われる思想家は、ミュンツァー、クザーヌス、ブルーノ、ガリレイ、デカルト、ホッ ...
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