結論から言えば、デリダは亡霊というよりも恐怖や不安や怒りという情状性(ハイデガー)を導入することで、単なる表象批判ではなく、人間性(統整的理念としてのそれ)をマルクス主義に導入したのだと思う。それはグローバリゼーション及び踏み絵を迫るようなマルクス主義的言説空間の両方を批判するものだ。
全5章のうち、1はシェークスピアをモチーフにブランショに言及し、2はフクヤマを批判し、3は社会問題を列挙し、4は『ブリュメール18日』を扱ったうえでシュティルナーを批判し、5は『ドイツイデオロギー』や『資本論』(=価値形態に関して使用価値以前に物神化があったと指摘している)を扱いハイデガーの存在論に言及している。
デリダは経済学、というよりマルクス経済学を重視していないので、より文学的な政治−経済学的批判になっている。
それは最終的に政治−経済的というよりもユダヤ的なもの(メシアニズムなきメシア的なもの)の擁護になっている。
ただし、4の冒頭で(ここと2の最後の数ページが一番わかりやすいし重要だ)ユゴーの1848年への記述について触れたのにプルードン(明らかにマルクスはプルードンにコンプレックスを持っている)について言及しないのはフェアでないと思うし、今日ではシュティルナーの持つ個人主義をマルクスによる唯物論とその裏返しの亡霊論?の追認(精神/亡霊という分節化において複数の精神をデリダは擁護する)によって揚棄することはできないと思う。
横断的なデリダの思考は刺激的だが、それはプルードンが唱えたような社会革命が政治革命に対抗して待たなければならない実践における横断性を暗示するにとどまっている。
とはいえ、第三期のポストモダン批判以降、つまり冷戦終結以降(柄谷行人が指摘したように知識人が批判的ポジションに安住できなくなった時期である。ちなみに柄谷の『歴史と反復』におけるマルクスとハイデガーを援用した表象批判の方がデリダと同じ主題を扱いつつもより明解である)のこのデリダが一番重要であるのは変わらない、と思う。
少し高価だが待望の翻訳である。
ラカン
「精神分析はバカを利口にすること以外ならなんでもできる」1967
デリダ
「愚かさ([Bêtise]) の哲学はそうした無意識への参照とは相容れないと考えます。その点において、「無
意識」という語、理論的ないしメタ心理学的な構築は必要とされません——「私」、イド、超自我、理
想自我、自我理想、またラカンにおける「私」の現実界、象徴界、想像界といったものは必要とされま
せん。最小限の条件として、どのようなものであれ生きものにおける分割可能性、多様性、諸力の差異
を考慮するだけで十分なのです。」
(「ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化」「現代思想」2009年7月70頁)
参考:
"The Transcendental "Stupidity" [Bêtise] of Man and the Becoming-Animal According to Deleuze "
(in Derrida, Deleuze, Psychoanalysis, ed. Gabriele Schwab, Columbia University Press, 2007)
http://youtu.be/HGnXcI3oCpc?t=1h30m40s
《La psychanalyse peut tout sauf rendre intelligent quelqu'un d'idiot.》
http://network.architexturez.net/pst/az-cf-56379-817742161
(ドゥルーズ「思い出すこと」批評空間1996Ⅱ-9より)
"Le 'Je me souviens' de Gilles Deleuze" (interview by Didier Eribon)
in Le Nouvel Observateur 1619 (16-22 November 1995), 50-51.
「本セミネールは社会科学高等研究院(EHESS)の巨大な階段教室で、水曜日の夕方五時から七時まで開かれた。二五〇席の大教室はいつも超満員で、開始三〇分前には席を確保しなければならなかった。一般向けに開かれたセミネールの聴衆は多種多様で、集っていたのは学生から大学教員、会社員や定年退職後の人までさまざまな年齢と国籍の人々である。[…]デリダは遅刻することなく、五時数分前には教室に現れて教壇の席に着いた。教卓にはすでに聴衆によって録音機器が何台も並べられていて、授業が始まると各自がおもむろに詰め寄り、録音のスイッチが押された。二〇〇一年度のセミネールもまた、大勢の聴衆が見守る緊張感溢れる教室で最初の言葉が発せられた。La bête et le souverain──定冠詞の女性形と男性形が強調されつつ何度もくり返された呪文のようなあの合言葉はまだ耳に残っている。」(本書[訳者解説]より)