水曜日, 3月 06, 2019

ジャック・デリダ──ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化

https://www.blogger.com/blog/post/edit/28938242/7724525883543956906



マルクスの亡霊たち―負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル 単行本 – 2007/9/25 

2007年10月1日に日本でレビュー済み
フォーマット: 単行本
結論から言えば、デリダは亡霊というよりも恐怖や不安や怒りという情状性(ハイデガー)を導入することで、単なる表象批判ではなく、人間性(統整的理念としてのそれ)をマルクス主義に導入したのだと思う。それはグローバリゼーション及び踏み絵を迫るようなマルクス主義的言説空間の両方を批判するものだ。
全5章のうち、1はシェークスピアをモチーフにブランショに言及し、2はフクヤマを批判し、3は社会問題を列挙し、4は『ブリュメール18日』を扱ったうえでシュティルナーを批判し、5は『ドイツイデオロギー』や『資本論』(=価値形態に関して使用価値以前に物神化があったと指摘している)を扱いハイデガーの存在論に言及している。
デリダは経済学、というよりマルクス経済学を重視していないので、より文学的な政治−経済学的批判になっている。
それは最終的に政治−経済的というよりもユダヤ的なもの(メシアニズムなきメシア的なもの)の擁護になっている。
ただし、4の冒頭で(ここと2の最後の数ページが一番わかりやすいし重要だ)ユゴーの1848年への記述について触れたのにプルードン(明らかにマルクスはプルードンにコンプレックスを持っている)について言及しないのはフェアでないと思うし、今日ではシュティルナーの持つ個人主義をマルクスによる唯物論とその裏返しの亡霊論?の追認(精神/亡霊という分節化において複数の精神をデリダは擁護する)によって揚棄することはできないと思う。
横断的なデリダの思考は刺激的だが、それはプルードンが唱えたような社会革命が政治革命に対抗して待たなければならない実践における横断性を暗示するにとどまっている。
とはいえ、第三期のポストモダン批判以降、つまり冷戦終結以降(柄谷行人が指摘したように知識人が批判的ポジションに安住できなくなった時期である。ちなみに柄谷の『歴史と反復』におけるマルクスとハイデガーを援用した表象批判の方がデリダと同じ主題を扱いつつもより明解である)のこのデリダが一番重要であるのは変わらない、と思う。
少し高価だが待望の翻訳である。


ジャック・デリダ──ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化 - YouTube
https://youtube.com/watch?v=HGnXcI3oCpc

「ジャック・デリダ──ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化」(2004年、96分、英語) 2004年、スイスのザース・フェーにあるEuropean Graduate School(EGS)のメディア・コミュニケーション学科での公開講義映像。読み上げている原稿は、"The Transcendental "Stupidity" [Bêtise] of Man and the Becoming-Animal According to Deleuze " (in Derrida, Deleuze, Psychoanalysis, ed. Gabriele Schwab, Columbia University Press, 2007)で、日本語訳は、「ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化」(西山雄二・千葉雅也訳、「現代思想」2009年7月号)。『獣と主権者』第1巻にも同様の議論が収録されている。


ラカン
「精神分析はバカを利口にすること以外ならなんでもできる」1967

デリダ
「愚かさ([Bêtise]) の哲学はそうした無意識への参照とは相容れないと考えます。その点において、「無
意識」という語、理論的ないしメタ心理学的な構築は必要とされません——「私」、イド、超自我、理
想自我、自我理想、またラカンにおける「私」の現実界、象徴界、想像界といったものは必要とされま
せん。最小限の条件として、どのようなものであれ生きものにおける分割可能性、多様性、諸力の差異
を考慮するだけで十分なのです。」
(「ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化」「現代思想」2009年7月70頁)
参考:
"The Transcendental "Stupidity" [Bêtise] of Man and the Becoming-Animal According to Deleuze "
(in Derrida, Deleuze, Psychoanalysis, ed. Gabriele Schwab, Columbia University Press, 2007)

「ばかな人間を利口にすること以外なら、精神分析は何でもできる」ラカン
《La psychanalyse peut tout sauf rendre intelligent quelqu'un d'idiot.》
http://network.architexturez.net/pst/az-cf-56379-817742161

(ドゥルーズ「思い出すこと」批評空間1996Ⅱ-9より)
"Le 'Je me souviens' de Gilles Deleuze" (interview by Didier Eribon)
in Le Nouvel Observateur 1619 (16-22 November 1995), 50-51. 

獣と主権者1
狼、狐、獅子、子羊、蛇、鷲……多種多様な動物をとりあげながら、獣と主権者の古典的対立を脱構築的に読みかえ、主権概念の伝統的な規定を問いなおしてゆく。著者晩年の政治=哲学的思索の白眉。

「本セミネールは社会科学高等研究院(EHESS)の巨大な階段教室で、水曜日の夕方五時から七時まで開かれた。二五〇席の大教室はいつも超満員で、開始三〇分前には席を確保しなければならなかった。一般向けに開かれたセミネールの聴衆は多種多様で、集っていたのは学生から大学教員、会社員や定年退職後の人までさまざまな年齢と国籍の人々である。[…]デリダは遅刻することなく、五時数分前には教室に現れて教壇の席に着いた。教卓にはすでに聴衆によって録音機器が何台も並べられていて、授業が始まると各自がおもむろに詰め寄り、録音のスイッチが押された。二〇〇一年度のセミネールもまた、大勢の聴衆が見守る緊張感溢れる教室で最初の言葉が発せられた。La bête et le souverain──定冠詞の女性形と男性形が強調されつつ何度もくり返された呪文のようなあの合言葉はまだ耳に残っている。」(本書[訳者解説]より)

ベスト500レビュアー
2015年1月11日
形式: 単行本
 ジャック・デリダの講義録が全43巻で約半世紀かけてフランスで出版される計画であることをつい最近知りました。日本語訳は2冊刊行され、本書はその中の1冊であり、「獣と主権者1」という表題の下に2001年から2002年にかけて行われた講義録です。もう一冊の講義録『哲学への権利1』も翻訳が出版されています。同じく講義録『ハイデッガー−存在と歴史の問い』は仏語版は出版されていますが、日本語訳は未刊行です。今後の翻訳が待たれます。しかし、これは最初期の講義録であり、この書物の内容については既に翻訳されている『精神について』(平凡社ライブラリー)を読めば参考になると思います。この「獣と主権者」はデリダ最晩年の講義録であり、動物−哲学の構想を本書から知ることができます。初期の「脱構築」思想もアプローチは字義的な手法によるものでした。字義的手法とは、言葉の多義的な意味に注目することです。例えばレゾンraisonというフランス語は英語のリーズンreasonに当たる単語ですが、理由・根拠・理性という意味の他にavoir raison deで「打ち負かす、勝つ」という意味もあります。ここにデリダは注目し、獣性と結びつけて考える。狼・山羊・羊・豚・鳩などの動物がもつさまざまな形象を用いて政治哲学を構想します。狼loupという意味のフランス語が黒ビロードの「仮面」loupをも意味し、相手に見られずして相手をよく見ることができ、音を立てずに相手に忍び寄り一気に獲物を捕らえる狼の形象とその獣的性格は孤高の主権者に相応しい。これが狼にとって理にかなっておりしかも敵をに勝つ合理的な生き方なのです。狼のこうした形象は人間にも適用され、例えばローマ建国神話に登場するロムルスとレムスの双子の兄弟神は狼の形象を持ちます。人間が人間にとって狼なのです。その一方でデリダはホッブズやルソーの著作を引用しながら主権者というものが神的性格をもたない人工の観念的な構想物であることを明らかにし、動物の形象が主権者の人工的な観念創造に導入されていくことを論証していきます。デリダの講義は難解ですが、実に面白く、著作よりは分かりやすい。こうして月一回の講義は聴講者を動物−哲学の虜にしていくのです。本書を理解するポイントはデリダの字義的解釈にしっかりとついていくことであり、時間をかけて分からなければ行きつ戻りつしながらデリダの思考の軌跡を丹念にたどっていくことです。今後の講義録の続編の出版を楽しみにしながらデリダの「脱構築」を味読したいと思います。現代思想に興味ある人にお薦めの一冊です。