月曜日, 3月 04, 2019

パリ不戦条約 1928年

戦争→制裁→恐慌→戦争→

パリ不戦条約 1928年
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戰爭抛棄ニ關スル條約 - Wikisource

ja.wikisource.org/wiki/戰爭抛棄ニ關スル條約
2018年3月22日 ... ... 年7月24日; 常用漢字表記:戦争抛棄ニ関スル条約; 通称:パリ不戦条約、不戦条約、 ケロッグ・ブリアン協定 ...
不戦条約
不戦条約(ふせんじょうやく、戦争抛棄ニ関スル条約)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約パリ不戦条約とも。


週刊読書人2019年3月1日号(3279号)の目次
柄谷行人氏ロングインタビュー 
普遍的な世界史の構造を解明するために 
『世界史の実験』(岩波新書)刊行を機に
「実験の文学批評」
柄谷 一九二八年に、パリ不戦条約が締結されました。この条約は国際連盟に
関与した人たちによって考えられたものですから、同じ精神に基づいている。柳
田は当然、不戦条約についても熟知していた。一方、同じ年、日本では、三・一
五事件が起こり、共産党員への弾圧が強まる。その五年後には、共産党幹部であ
った佐野学、鍋山貞親らが転向の声明を出し、戦前の日本の共産党は、事実上終
わる。またこの年、日本は洲事変に端を発して、戦争へと向かう体制が整えられ
ていくことになるわけです。柳田がジュネーブ滞在以来考えていた道筋とは、
正反対に進んでいくことになった。そのような状況の下で、柳田は何もいわなく
なったんだろうと思います。
 しかし、柳田は決して諦めることはなかった。だから、戦争末期に、彼は「新た
な社会組織」ということをいいはじめたのでしょう。柳田のその気持はわか
るような気がする。私は今世紀のはじめごろ、NAM(新アソシエーショニスト
運動)という運動をやっていました。二年で解散しましたけど、別にあきらめて
いない。もう一度やろうと思っていますよ。



現代語私訳 「パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)」Add Star

「パリ不戦条約ケロッグ・ブリアン条約)」は、第一次大戦の悲劇や教訓を踏まえて、1928年国際紛争の解決の手段としての戦争を放棄した条約として有名である。

最近、第一次大戦についてのBBCの特集を見ていて、そのあまりの悲惨さに胸がつぶれ、ふとこの条約を読み直してみた。

BBC The Great War (一話あたり四回に分けてアップされているのが、七話まで。)

一次大戦の切実な反省から生まれたにもかかわらず、その後の第二次大戦に至る道のりを防ぐことができなかったため、この条約は実効性がなかったとよく言われる。
たしかにそうかもしれない。

しかし、条約というのは、人間や各国や関係機関が実現しようと努力し、意志をもってこそ、はじめて実現していくものである。

この「パリ不戦条約」は、期限が書かれていないため、今もこれからも、有効な条約とみなされている。
とすれば、日本は他ならぬ当事者として、遵守すべき条約であろう。

条約そのものはごく短い、そして無味乾燥なものかもしれない。
しかし、その背後に、第一次大戦のはかりしれない悲しみや苦しみや祈りを読み取ることができるか、それが大事なのではないかと思う。

この条約の文章は、以下のサイトで読めるが、なにせ昭和三年調印当時の翻訳の文章なので、古めかしくてとても読みづらい。

というわけで、以下の英語のサイトを見ながら、

自分で訳してみた。
法律的な厳密さはともかく、言わんとするところを自分で味わってみることは大事だと思う。




「パリ不戦条約ケロッグ・ブリアン条約)」

(調印国の元首の名簿)たちは、

人類の福利を促進する厳粛な義務を深く感じて、

諸国民の間に今存在している平和的で友好的な関係を永続させるために、国家の政策の手段としての戦争を素直に放棄する時代が来たことを納得し信じます。

そして、相互の関係を変える際にはすべて平和的手段にのみよることを求めるべきこと、そして平和的できちんとしたプロセスの結果にのみよるべきことを、確信します。
また、今後、いかなる署名国であっても、国益を増進することを求めて戦争の手段に訴える国は、この条約によって与えられる利益を拒否するものであることを確信します。

これらの例に勇気づけられ、世界のすべての他の国々がこの人間らしい努力に加わることを、そして、この条約が効力を発揮してからはすぐに本条約を遵守することにより、諸国民がこの条約適用範囲内の利益の恵みを受けて、そのことによって国家の政策の手段としての戦争を共に放棄することによって、この世界の文化と文明を持つ国々が結びつくことに希望を持ちます。


上記のことにより、条約を結ぶことを決意し、その目的のために以下の人々を全権大使として任命します。

(各国全権委員の名簿、日本の全権委員は内田康哉

以上の全権大使たちは、お互いにそのために適切な良い形式において十分な力を持っていることを知らせ合い、以下の条文に同意します。


第一条
締約国は、国際紛争の解決のために戦争に頼ることを非難し、お互いの関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、各自の国民の名前において、厳粛に宣言します。


第二条
締約国は、自分たちの間に起こるであろう、あらゆる論争や紛争が、いかなる性質であろうと、またいかなる起源によるものであろうと、平和的な手段以外によっては決してその決着や解決を求めないことに同意します。

条約は、各国の憲法における必要条件に従って、前文に署名した締約国によって、批准されます。
そして、これらすべての批准書がワシントンに預けられてからすぐに、お互いに効力を生じます。


(以下、手続き上のことについての文章、略)


1928年8月27日、パリにおいてなされました。


(以下略)




昭和3年(1928)8月|不戦条約が調印される:日本のあゆみ

www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s03_1928_02.html
昭和3年(1928)8月27日、不戦条約(正式には、戦争抛棄ニ関スル条約」と言います。) がパリで締結されました。同条約は、 ...


参考:

ケインズ

20世紀前半、イギリスの経済学者。修正資本主義の理論を提示して、アメリカのニューディール政策や戦後のイギリス労働党の経済政策に大きな影響を与えた。

John Maynard Keynes
1883-1946
 ケインズ John Maynard Keynes は1883年に生まれたが、それは奇しくもマルクスが死んだ年であった。ケンブリッジ大学で経済学を学び、若い頃はロンドンの芸術科集団ブルームズベリー・グループ(小説家のヴァージニア=ウルフ、評論家のリットン=ストレイチーら、当時としては反権威主義的な思想の人々の集まり)に加わっていた。ケンブリッジの経済学の教師から大蔵省の役人となり、第一次世界大戦後のパリ講和会議のイギリス代表団に加わった。1919年に『平和の経済的帰結』を発表してヴェルサイユ条約がドイツに対して過度な賠償を求めたことが後の戦争につながることを警告し注目を集めた。さらに、ロシア革命で登場した社会主義国家と活発になったコミンテルンに対し、自由主義の政治体制と経済をいかに維持するかを熟考した。その中から、古典派経済学の自由放任主義を批判的に克服する道を見いだそうとした。
 1929年の世界恐慌によって資本主義は危機を迎えたが、ケインズは社会主義・全体主義に対しては否定しながら、資本主義に修正を加えることによって危機を克服する道筋をさぐり、1936年に『雇用・利子および貨幣の一般的理論』を発表した。そこでは完全雇用を生み出す有効需要の開発を、国家が公共事業を興すことによって生み出すことを提唱し、おりからアメリカのフランクリン=ローズヴェルト政権が展開していたニューディール政策に理論的意義付けを与えた。ケインズの、管理通貨と財政政策(税による景気の調整)、金融政策などの国家による市場の統制によって経済恐慌を回避することが可能であると考える「修正資本主義」は大きな影響を与え、社会主義に対抗する思想としてアメリカ・イギリスの経済政策の基本とされた。ケインズは第二次世界大戦後のブレトン=ウッズ会議でも主導的な役割を果たし、IMFの発足に尽力したが、1946年に心臓発作で急死した。ケインズ経済学と福祉国家の理念はアトリー労働党内閣の経済政策である重要産業国有化社会保障制度によって具体化されていった。

パリ講和会議

1919年~20年、パリで開催された第一次世界大戦の講和国際会議。
 1919年1月18日から20年の8月10日まで、第一次世界大戦の講和会議としてパリで開催された。パリ平和会議とも言う。32ヶ国が参加し、アメリカ(ウィルソン)、イギリス(ロイド=ジョージ)、フランス(クレマンソー)、イタリア(オルランド)、日本(西園寺公望)の5大国が会議の中心となったが、実質的には米英仏三国によって主導された。議長のクレマンソーはドイツに対する報復を優先させる現実路線をとり、ウィルソンは国際協調を進める理想主義をとった。ロイド=ジョージはその両者の中間にあったが、最終的にはフランスに同調した。また敗戦国ドイツと社会主義政権のソヴィエト=ロシアは参加が認められず、ロシア革命に対しては対ソ干渉戦争が続けられていた。会議はウィルソンの十四カ条の原則の柱となる国際協調・民族自決の精神で進められ、国際連盟の設立東ヨーロッパ諸国の独立という成果を得たが、ヴェルサイユ条約などでドイツなどの敗戦国に対しては過酷な条件を押しつけたことと、アジアの民族運動には冷淡であったことなどが問題点であった。ここで出来上がった戦勝国優先の新たな秩序であるヴェルサイユ体制に対し、ドイツでのナチズムの台頭、朝鮮での三・一独立運動と中国での五・四運動などの民族運動が激しく展開されることとなる。

ヴェルサイユ条約(ヴェルサイユじょうやく、Traité de Versailles)は、1919年6月28日フランスヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国ドイツ国の間で締結された講和条約の通称。
1925年にイギリス・フランス・イタリア・ベルギー・ドイツの集団安全保障を定めたロカルノ条約の締結によってドイツは国際社会に復帰し、1926年9月には国際連盟にも加盟した。1928年には不戦条約の締結でロカルノ体制は安泰となったかに思われたが、世界恐慌の発生とそれにともなうヨーロッパの不安定化は、英仏に新たな体制構築をせまることとなった。


国際連盟(こくさいれんめい)とは - 国際連盟の読み方 Weblio辞書

www.weblio.jp/content/国際連盟
国際連盟」の意味は第一次大戦後、アメリカ合衆国大統領ウィルソンの提唱によって、 世界平和の確保と国際協力の促進を目的 ...

国際連盟 | ニューワイド学習百科事典 | 学研キッズネット

kids.gakken.co.jp/jiten/3/30007980.html
1920年,ベルサイユ条約にもとづき設立された国際平和機構。

国際連盟とは - はてなキーワード - はてなダイアリー

d.hatena.ne.jp>はてなキーワード>社会
国際連盟」とは - League of Nations 1920年に世界ではじめて発足した国際平和機構。 第一次世界大戦(1914年~1918年)の ...




ジュネーヴ時代 - So-net


www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni64.html
1921年(大正10)に国際連盟委任統治委員となり、スイスのジュネーヴに赴いたいきさつについて、柳田国男は『故郷七十年』の ...



週刊読書人2019年3月1日号(3279号)の目次
柄谷行人氏ロングインタビュー 
普遍的な世界史の構造を解明するために 
『世界史の実験』(岩波新書)刊行を機に
「実験の文学批評」
柄谷 一九二八年に、パリ不戦条約が締結されました。この条約は国際連盟に
関与した人たちによって考えられたものですから、同じ精神に基づいている。柳
田は当然、不戦条約についても熟知していた。一方、同じ年、日本では、三・一
五事件が起こり、共産党員への弾圧が強まる。その五年後には、共産党幹部であ
った佐野学、鍋山貞親らが転向の声明を出し、戦前の日本の共産党は、事実上終
わる。またこの年、日本は洲事変に端を発して、戦争へと向かう体制が整えられ
ていくことになるわけです。柳田がジュネーブ滞在以来考えていた道筋とは、
正反対に進んでいくことになった。そのような状況の下で、柳田は何もいわなく
なったんだろうと思います。
 しかし、柳田は決して諦めることはなかった。だから、戦争末期に、彼は「新た
な社会組織」ということをいいはじめたのでしょう。柳田のその気持はわか
るような気がする。私は今世紀のはじめごろ、NAM(新アソシエーショニスト
運動)という運動をやっていました。二年で解散しましたけど、別にあきらめて
いない。もう一度やろうと思っていますよ。
フランク・ビリングス・ケロッグFrank Billings Kellogg1856年12月22日 - 1937年12月21日)は、アメリカ合衆国政治家で行政家。
フランク・ケロッグ
FrankKellogg.jpg
アメリカ合衆国国務長官
任期
1925年3月5日 – 1929年3月28日
大統領カルビン・クーリッジ
ハーバート・フーヴァー
前任者チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ
後任者ヘンリー・スティムソン
在イギリスアメリカ合衆国大使
任期
1924年1月14日 – 1925年2月10日
大統領カルビン・クーリッジ
前任者George B. M. Harvey
後任者Alanson B. Houghton
アメリカ合衆国上院議員
ミネソタ州選出
任期
1917年3月4日 – 1923年3月3日
前任者Moses E. Clapp
後任者Henrik Shipstead
個人情報
生誕Frank Billings Kellogg
フランク・ケロッグ

1856年12月22日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州
死没1937年12月21日(80歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミネソタ州
政党共和党
受賞ノーベル平和賞(1929)
署名
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1929年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:ケロッグ・ブリアン協定締結に尽力

生涯編集



アリスティード・ブリアンAristide Briand1862年3月28日 - 1932年3月7日)は、フランスの政治家。首相外相などを務めた。
アリスティード・ブリアン
Aristide Briand
Aristide Briand 2.jpg
生年月日1862年3月28日
出生地フランスの旗 フランス共和国ナント
没年月日1932年3月7日(69歳没)
死没地フランスの旗 フランス共和国パリ
所属政党フランス社会党
急進社会党

在任期間1909年7月24日 - 1911年3月2日
大統領アルマン・ファリエール

在任期間1913年1月21日 - 1913年3月22日
大統領アルマン・ファリエール
レイモン・ポアンカレ

在任期間1915年10月29日 - 1917年3月20日
大統領レイモン・ポアンカレ

在任期間1921年1月16日 - 1922年1月15日
大統領アレクサンドル・ミルラン

在任期間1925年11月28日 - 1926年7月20日
大統領ガストン・ドゥメルグ

その他の職歴
フランスの旗 フランス共和国首相
1929年7月29日 - 1929年11月2日
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1926年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:ロカルノ条約の締結に尽力
ナント出身。最初はサンディカリストとして活動したが、ジャン・ジョレスの引きでフランス社会党に入党。1902年には執行部入りし、しばらくの後国民議会議員となる。その後急進社会党に籍を移し、1909年ジョルジュ・クレマンソーの後を受けて首相に就任する。以後、1913年1915年1921年1925年1929年とたびたび首相に就任する。特に1925年に就任した時にはレーモン・ポアンカレが引き起こしたルール問題の収拾を図り、結果的にグスタフ・シュトレーゼマンとの間で取りまとめたロカルノ条約として結実する。この功績から1926年にシュトレーゼマンと共にノーベル平和賞を受賞した。また、アメリカの元国務長官フランク・ケロッグと共にパリ不戦条約(『戦争ノ抛棄ニ関スル条約』)いわゆるケロッグ・ブリアン協定の締結に尽力し、1929年に締結した。ブリアンはシュトレーゼマンとケロッグ同様、フリーメイソンである[1]
ジュール・ヴェルヌの『15少年漂流記』の少年大統領ブリアンは彼の名前からとられた。