金曜日, 4月 26, 2019

自由の否認





《ヤコービもヘーゲルも、スピノザ主義における「自由」の否認を、この思想の難点として
指摘していた。だが見落としてはならないのは、スピノザが人間の「自由」を全面的に
否定しているわけではなく、むしろ(「意志の自由」に代わる)新たな「自由」概念を
提示しているのだということ、そしてヤコービもヘーゲルもこの「自由」概念を決して
看過していたわけではないということである。スピノザは、「意志は自由原因ではない」
として「意志の自由」を否定するが☆、他方「自由な人間」の在り方について言及し、
このような人間とは「理性に従っている人間」☆☆あるいは「理性の指図によってのみ生きる
」☆☆☆であるとしている。スピノザがこのように考えるのは、彼が自由を「自己の本質に
のみ従うこと」であると考え、この本質の認識機能を理性におくからにほかならない。》

☆『エチカ』第一部定理三二、『エチカ』第二部定理三五注解
☆☆『エチカ』第四部定理六六注解
☆☆☆『エチカ』第四部定理六七証明

笹澤 豊
講座ドイツ観念論5ヘーゲル~時代との対話 1990より

エチカ
1:32
 定理三二 意志は自由なる原因とは呼ばれえずして、ただ必然的な原因とのみ呼ばれうる。
 証明 意志は知性と同様に思惟のある様態にすぎない。したがって(定理二八により)個々の意志作用は他の原因から決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因もまた他の原因から決定され、このようにして無限に進む。もし意志を無限であると仮定しても、それはやはり神から存在および作用に決定されなくてはならぬ。そしてこれは神が絶対に無限な実体である限りにおいてではなくて、神が思惟の無限・永遠なる本質を表現する一属性を有する限りにおいてである(定理二三により)。ゆえに意志はどのように考えられても、つまり有限であると考えられても無限であると考えられても、それを存在および作用に決定する原因を要する。したがってそれは(定義七により)自由なる原因とは呼ばれえずして、ただ必然的なあるいは強制された原因とのみ呼ばれうる。Q・E・D・
 系一 この帰結として第一に、神は意志の自由によって作用するものではないということになる。
 系二 第二に、意志および知性が神の本性に対する関係は、運動および静止、または一般的に言えば、一定の仕方で存在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物(定理二九により)が神に対する関係と同様であるということになる。なぜなら、意志は、他のすべての物のように、それを一定の仕方で存在し作用するように決定する原因を要するからである。そしてたとえ与えられた意志あるいは知性から無限に多くのものが生起するとしても、神はそのために意志の自由によって働くと言われえないことは、運動および静止から生起するもののために(というのはこれからもまた無限に多くのものが生起する)神は運動および静止の自由によって働くと言われえないのと同様である。ゆえに意志は、他の自然物と同様に、神の本性には属さないで、むしろこれに対しては、運動および静止、また神の本性の必然性から生起しかつそれによって一定の仕方で存在し作用するように決定されることを我々が示した他のすべてのものと、まったく同様な関係に立っているのである。

2:35
 定理三五 虚偽〔誤謬〕とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。
 証明 観念の中には虚偽の形相を構成する積極的なものは何も存しない(この部の定理三三により)。しかし虚偽は(認識の)絶対的な欠乏には存しえない(なぜなら、誤るとか錯誤するとか言われるものは精神であって身体などではないのだから)。だからといってそれは絶対的無知にも存しない。なぜなら、あることを知らないということと誤るということは別ものだからである。 それゆえ虚偽〔誤謬〕とは事物の非妥当な認識、あるいは非妥当で混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。Q・E・D・
 備考 この部の定理一七備考の中で私はいかなるわけで誤謬が認識の欠乏に存するかを説明した。しかしそのことをいっそう詳細に説明するために例を挙げよう。
 例えば人間が自らを自由であると思っているのは、(すなわち彼らか自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、)誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。なぜなら、彼らが、人間の行動は意志を原因とすると言ったところで、それは単なる言葉であって、その言葉について彼らは何の理解も有しないのである。すなわち意志とは何であるか、また意志がいかにして身体を動かすかを彼らは誰も知らないのである。またそれを知っていると称して魂の在りかや住まいを案出する人々は嘲笑か嫌悪をひき起こすのが常である。
 同様に、我々は太陽を見る時太陽が約二百フィート我々から離れていると表象する。この誤謬はそうした表象自体の中には存せず、我々が太陽をそのように表象するにあたって太陽の真の距離ならびに我々の表象の原因を知らないことに存する。なぜなら、もしあとで我々が太陽は地球の直径の六百倍以上も我々から離れていることを認識しても、我々はそれにもかかわらずやはり太陽を近くにあるものとして表象するであろう。なぜなら、我々が太陽をこれほど近いものとして表象するのは、我々が太陽の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状〔刺激状態〕は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである。

☆☆
4:66
 定理六六 理性の導きに従って我々は、より小なる現在の善よりはより大なる未来の善を、またより大なる未来の悪よりはより小なる現在の悪を欲求するであろう。
 証明 もし精神が未来の物に関して妥当な認識を有しうるとしたら、精神は未来の物に対しても現在の物に対するのと同じ感情に刺激されるであろう(この部の定理六二により)。ゆえに我々が理性そのものを念頭に置く限り〜〜この定理で我々はそうした場合を仮定しているのである〜〜より大なる善ないし悪が未来のものと仮定されようと現在のものと仮定されようとそれは同じことである。このゆえに(この部の定理六五により)我々はより小なる現在の善よりはより大なる未来の善を、またより大なる未来の悪よりは云々。Q・E・D・
 系 理性の導きに従って我々は、より大なる未来の善の原因たるより小なる現在の悪を欲求し、またより大なる未来の悪の原因たるより小なる現在の善を断念するであろう。この系は前定理に対して、定理六五定理六五に対するのと同一の関係にある。
 備考 そこでもしこれらのことをこの部の定理一八までに感情の力について述べたことどもと比較するなら、感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違があるかを我々は容易に見うるであろう。すなわち前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのため自己の最も欲する事柄、のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名づける。なお自由人の心境および生活法について以下に若干の注意をしてみたい。

☆☆☆
 定理六七 自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。
 証明 自由の人すなわち理性の指図のみに従って生活する人は、死に対する恐怖に支配されない(この部の定理六三により)。むしろ彼は直接に善を欲する(同定理により)。言いかえれば彼は(この部の定理二四により)自己自身の利益を求める原則に基づいて、行動し、生活し、自己の有を維持しようと欲する。したがって彼は何についてよりも死について思惟することが最も少なく、彼の知恵は生についての省察である。Q・E・D・




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1:23
 定理二三 必然的にかつ無限に存在するすべての様態は、必然的に、神のある属性の絶対的本性から生起するか、それとも必然的にかつ無限に存在する一種の様態的変状に様態化したある属性から生起するかでなければならぬ。
 証明 なぜなら、様態は他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられなければならぬ(定義五により)。言いかえれば(定理一五により)神のうちにのみ在りかつ神によってのみ考えられうる。ゆえにもし様態が必然的に存在しかつ無限であると考えられるなら、この二つのことは、必然的に、無限性と存在の必然性〜〜すなわち(定義八により同じことだが)永遠性〜〜とを表現すると考えられる限りにおいての、言いかえれば(定義六および定理一九により)絶対的に考察される限りにおいての、神のある属性によって結論ないし知覚されなければならぬ。ゆえに必然的にかつ無限に存在する様態は、神のある属性の絶対的本性から生起しなければならぬ。そしてこのことは直接的に起こるか(これについては定理二一)、それともその絶対的本性から生起するような、言いかえれば、(前定理により)必然的にかつ無限に存在するような、ある種の様態的変状を媒介として起こるかでなければならぬ。Q・E・D・