月曜日, 8月 19, 2019

2019年8月12日放映NHKスペシャル「かくて“自由”は死せり ~ある新聞と戦争へ の道~」

戦争礼讃の過激思想は「経済失政による国民生活の困窮」から生まれる

マクロ経済からみた太平洋戦争の教訓

国粋主義はいかにして台頭したか

この時期になると、毎年、太平洋戦争に関する様々なドキュメンタリー番組が各局で放映される。お盆休みで長期休暇という方も少なからずいらっしゃると思うが、実家に帰省してこのようなドキュメンタリー番組を見る機会もあるかもしれない。

今年も様々な切り口から日本が太平洋戦争へ突き進んでいく過程を描いた番組が放映されるようだが、8月12日に放映されたNHKスペシャル「かくて“自由”は死せり ~ある新聞と戦争への道~」は非常に興味深い内容であった。

当番組は、最近発見された「日本新聞」の記事の解析結果を元に、言論界がいかにして戦争に協力的になっていくかを時系列で追ったものである。「日本新聞」とは、あの悪名高き「治安維持法」制定に関わった小川平吉氏が創刊した右派系新聞である。

「日本新聞」は大正デモクラシー期の1925年に創刊され、10年後の1935年に廃刊となった。創刊当時、「日本新聞」は、自由主義を謳歌していた大正期において、国粋主義を主張する超少数派の集うカルト的なメディアであった。だが、10年後には、この国粋主義が国民の圧倒的な支持を得ることとなり、「創刊時の目的をほぼ達成した」として、廃刊することになる。

いったいこの10年間の日本に何があったのだろうか? というのが番組の趣旨であった。

この番組では、浜口雄幸首相(当時)が東京駅で狙撃され、重傷を負った1930年11月14日を歴史の転換点と捉えているように感じた。浜口雄幸は、1930年1月21日にロンドンで開催された軍縮会議で軍の反対を押し切り、軍縮条約に調印した。これに憤慨した右翼活動家によって浜口首相は狙撃され、死去した。

その後、「血盟団事件(井上準之助蔵相の暗殺)」、「5.15事件(犬養毅首相らの暗殺)」など、右翼活動家らによるテロ事件が頻発し、政党政治は瓦解していく。そして、政党に代わって、その後の日本の政治を担っていったのが軍部であった。

「日本新聞」を中心とした右系メディアは、政党政治を批判すると同時に、テロリストらに対して同情的な記事を頻繁に掲載することで、世論を転換させた。そして、この右系メディアをうまく利用しながら、世論を好戦的に誘導し、政治の主導権を奪ったのが軍部であった。

すなわち、自由主義の象徴であった政党政治の崩壊が右翼活動家のテロを契機に加速し、テロ行為を同情的に描写した右系メディアの世論誘導によって、日本は戦争への道を突き進むことになった、というのが番組の骨格であったと思われる。

そして、その一翼を担ったのが「日本新聞」であり、「日本新聞」創刊時に創刊趣旨に賛同した言論人、政治家、軍人の中から戦争を主導した人物が多く輩出されたとされる。


戦争礼讃の過激思想は「経済失政による国民生活の困窮」から生まれる

マクロ経済からみた太平洋戦争の教訓

戦争へ向かわざるを得なかった要因

今回のドキュメンタリー番組は、これまで存在は知られながら実物が発見されてこなかった「日本新聞」のバックナンバーを発見し、その内容を詳細に分析した点が「売り」だったようだが、内容的には、古典的な歴史の教科書の解釈を超えるものではなかった。

筆者は、平成のデフレ問題を考察するために、過去におけるデフレの事例と比較する必要があると考え、戦前昭和の経済について調べたことがある(『脱デフレの歴史分析 ~「政策レジーム」転換でたどる近代日本~』というタイトルで藤原書店より上梓させていただいた)。

そこで、当時出版された雑誌や書物を読み、そして、当時の経済統計を用いた定量分析を行ったが、日本が戦争へ突き進まざるを得なかった要因をマクロ経済の側面からみた場合に、これまでは見過ごされてきた重要なポイントがいくつかあることがわかった。そのいくつかを簡単に指摘すると以下のようになる。

1)大正デモクラシー期の自由主義的社会が崩壊したのは、歴史的には「悲劇のヒーロー」として同情的な扱いを受ける立憲民政党内閣の浜口雄幸首相・井上準之助蔵相の下で断行された「金解禁」がもたらした深刻なデフレであった。

その意味で、凶弾に倒れたとはいえ、両者の犯した経済失政の影響は深刻だった。彼らの経済失政の帰結は、ドイツのワイマール共和国の経済失政がナチスドイツの台頭をもたらした構図とほぼ同じである。

2)その後、経済失政による政権交代をうけて誕生した立憲政友会の犬養毅首相・高橋是清蔵相の下でのリフレーション政策(高橋財政)は、現在の文脈でいうと、典型的な「財政拡大+金融緩和」のポリシーミックスであった。

この中で、金融緩和として、日銀による国債引受は、いまの「量的緩和」に近いものであった。ただし、「高橋財政」期のリフレーション政策は、経済政策の「レジーム転換」による人々の期待転換の効果が大きかったので、実際には、それほど大きな金融緩和にはならなかった。

それどころか、日銀による国債引受実施から約半年後には、国債の市中売却(今で言うところの「出口政策」)を始めている。ちなみに、当時の日本は「ゼロ金利」状態にもならなかった(同時期の米国FRBはゼロ金利・量的緩和を実施したが、当時の日銀はゼロ金利までは踏み込まずにすんだ)。


戦争礼讃の過激思想は「経済失政による国民生活の困窮」から生まれる

マクロ経済からみた太平洋戦争の教訓

3)ただし、昭和恐慌によるデフレ、特に商品価格の暴落によって、養蚕業を中心に農村部の困窮は容易には払拭できなかった。農村部は軍部にとっては兵力の供給源であったが、同時に当時の農村部は恐慌による需要収縮によって、多くの「人口余剰」を抱えていた。

1931年9月に勃発した満州事変、それに続く、中国本土での戦争は、軍部にとっては、「戦争ビジネス」を通じた既得権益の獲得・擁護、農村部にとっては、「人口余剰」の雇用対策になった可能性がある。もしそうだとすれば、リフレーション政策の行く先が、もはや「大正デモクラシーの復活」ではなかったことは自明だったように思える。

4)満州事変は、「デフレ政策の立憲民主党」から「リフレ政策の立憲政友会へ」のレジーム転換を民衆に強く印象づけるという意味でリフレ政策を補完する効果が大きかった可能性が否定できない。

そして、その満州事変の戦況を報道する新聞等のメディアは、満州事変を機に発行部数を飛躍的に増加させており、メディアは商業上も軍部と「共存共栄の関係」にあったことが容易に想像できる(当時は、中央紙だけではなく、地方紙も発行部数を大幅に増やしている。しかも、群馬や長野、山梨といった養蚕業が盛んな県での新聞販売店売上高が多かった点も特徴的である)。

その意味で、メディアが戦争を肯定的に報道する点もビジネス的には合理性を有すると思われる。

5)高橋是清蔵相は、1935年には、リフレーション政策からの出口を模索しており、国債発行の減額などを構想していた。だが、軍部とメディアにとっては、戦争はいわば擁護すべき既得権益であり、さらには、満州を新しい経済体制の実験場と考える「革新官僚」にとっても同様であったので、実行のプロセスはともかく、阻止すべき対象であったのだろう。

歴史に「if(もし)」があるなら、立憲民政党政権下でリフレ政策が実行されていれば、場合によっては大正デモクラシー期のような自由主義が復活していたかもしれない。

逆にいうと、軍人が「侮蔑の対象」となっていた大正デモクラシー期は軍部にとっては絶対に復活させてはならない局面であり、この軍部の意向が、政権交代を実現したい立憲政友会の利害と一致したところに戦争の悲劇の遠因があったと思われる。そして、立憲政友会のリフレ政策と同時に実行された満州事変によって、軍部は「侮蔑の対象」を脱し、政治の主役に躍り出ることになった。


戦争礼讃の過激思想は「経済失政による国民生活の困窮」から生まれる

マクロ経済からみた太平洋戦争の教訓

経済政策の失敗がもたらす悲劇

もう一つ興味深い点は、1935年に「日本新聞」が廃刊になって以降の右派の動向である。

確かに、右派が「退廃的・堕落的」とみなし嫌悪していた大正デモクラシーの自由主義は消滅したが、純粋思想的な右派の抱く「アジアの連帯・解放」に向けて世の中が進んでいったかといえば、必ずしもそうではない側面がある。

石原莞爾が絶望したように、満州国は新興財閥と関東軍の利権搾取の場と化すなど、アジアへの進出は、右派の崇高な思想を実現するというよりも利権ビジネス展開が優先されるようになった。例えば、アメリカが、当初は満州の共同統治を提案していたこと等を考えると、太平洋戦争も日米経済戦争の一種として見ることも可能かもしれない。そして、そういう展開を忸怩たる思いでみていた国粋主義者も多くいたと聞く。

以上のように、大正デモクラシーから太平洋戦争へのプロセスにおいて、右派といわれる人々の立ち位置も様々であり、これらの人々の主義・主張の変遷を追えば追うほど状況が複雑化してよくわからなくなる。だが、既得権益、もしくは利権の獲得競争という経済の視点からみると、戦争へのプロセスはかなり合理的に説明できるのではないか。

最後に、当番組には、小林八十吉氏という長野県の小学校の音楽教師が登場する。小林氏は、大正デモクラシー期には自由主義的な音楽教育を率先して行っていたが、昭和恐慌による地元養蚕業の壊滅と農村の貧困をみて、国粋主義者に転向、小学校教員を辞し、右翼思想の普及に奔走する。

庶民が経済的困窮に直面して過激思想に傾倒していく典型例だが、番組中、彼の子息が残された日記を読むシーンで、終戦前4日から日記が破り捨てられていることを発見し絶句する。その理由は不明だが、本人が終戦間際に自分の転向が間違っていたことを知ったとすれば、悲しい限りである。

太平洋戦争の一番の教訓は、経済政策の失敗が国民を困窮されることが国家の存続を危うくするほどの破滅的な影響をもたらすことである。その点をあらためて認識させられた番組であった。