MMTの命題が「異端」でなく「常識」である理由
「まともな」経済学者は誰でも認める知的常識
62ページにわたるMMTへの反論資料を作成した財務省。堅く閉ざされた「扉」が開く日は来るのか(写真:barman / PIXTA)
「財政は赤字が正常で黒字のほうが異常、むしろ、どんどん財政拡大すべき」という、これまでの常識を覆すのではないか、とも言われているMMT(現代貨幣理論)。関連報道も増え続け、国会でも議論され、同理論提唱者の1人、ステファニー・ケルトン氏(ニューヨーク州立大学教授)も来日し、各所での講演やメディア登場が話題になるなど、まずますホットなテーマとなっている。
米英急進左派の経済政策理論の1つ
2018年のアメリカ中間選挙でサンダース派が躍進し、10人の国会議員が誕生した。中でも史上最年少の議員、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスは有名である。
なにしろ無名のプエルトリコ系の女性が、民主党のベテラン最高幹部を予備選で打ち負かし、さらに共和党候補に圧勝したのだから。彼らはあのアメリカにおいて社会主義者を自称することをいとわぬ最左翼の政治勢力である。
こうした動きは、新自由主義的な体制への反乱の広がりととらえられ、日本の左派の間にも希望を与えている。そして、「それに引き比べて日本では」と、安倍政権がかくも強権的立法と政治私物化を進めながら、若者の内閣支持率が高く、選挙のたびに自民党の圧勝をもたらすこの国の大衆の現実を嘆くのが、ありがちなパターンである。
しかし、こうした論者たちのどれだけが、これら欧米の急進的勢力の経済政策論について意識してきただろうか。
MMTの命題が「異端」でなく「常識」である理由
「まともな」経済学者は誰でも認める知的常識
アメリカの政府債務の総額は、とくにトランプ政権成立以降急激に膨らみ、今や日本の倍に達している。日本の左派・リベラル派の中には、民主党の左の端にしてトランプ政権への最も熾烈な批判者であるオカシオ=コルテスであるなら、さぞかしこの財政毀損をケシカランとたたくであろうと期待した向きがあったのではないだろうか。
あにはからんや、彼女は当選後、ウェブ雑誌『ビジネス・インサイダー』のインタビューで、「政府は予算のバランスをとる必要はなく、むしろ財政黒字は経済に悪影響を与える」とするMMT(Modern Monetary Theory:現代貨幣理論)こそ「絶対に」「私たちの言論の中にもっと広がる」必要があると語ったのだ。
彼女のMMT支持発言をきっかけに、アメリカではこの学説をめぐる議論がマスコミを舞台に盛り上がり、それは例によって日本にも波及した。
大マスコミも大臣たちも有名エコノミストたちも、やっきになってこれをトンデモ扱いし、ついには財務省が、海外の経済学者17人の非難を並べ、グラフ30枚以上、表もイラストも駆使したスライド62ページにわたる本気の反論資料を発表するに至った。
奇妙なのは、それに対してMMT支持を表明した論客や政治家は、保守派ばかりだったことだ。世間で左派サイドとみなされる政治家でその主張内容に支持を表明したのは現在のところ、「れいわ新選組」代表の山本太郎ただ1人である。
そのような中、本家アメリカでは、MMTの代表的論客の1人であるステファニー・ケルトンが、バーニー・サンダースの政策顧問に就くと報じられた。もともと彼女は、2016年の大統領選挙のときにも、サンダースの経済政策顧問を務めていた。
またその前年2015年には、イギリス労働党党首選で、最左翼で泡沫候補と見られていたジェレミー・コービンが圧勝しているが、そのときの目玉公約であった「人民の量的緩和」は、MMTの財政学者、リチャード・マーフィのアイデアであった。
このように、MMTは、生地米英では急進左翼系の経済政策のバックにある経済理論の1つとなっているのだが、なぜか日本ではそうなっていない。私はMMT論者ではないが、このことは異常なことだと思っている。
「異端」扱いの標準的経済理論
しかし、MMTに対してろくに読まないわら人形論法的批判や無理解が絶えないのは、本人たちが招いている面もあるように思う。主流新古典派の経済学者や共和党緊縮政治家に罵倒されることは本望なのかもしれない。
しかし、欧米の反緊縮左派世界の中で、少なくとも当面の経済政策主張がほとんど変わらないニューケインジアン左派などとの間でも、論争が対話不可能になる印象がある。
そもそもMMT論者は、自分たちの主張をわざと「異端」と位置づけているかのような言い方をする。既存の経済学がことごとく根本的に間違った前提の上に立っていて、自分たちの見方をとることで初めて真理が見えるというような。そこで批判された側もマスコミも、その自称を真に受けてMMTを異端の経済学と扱うわけである。
MMTの命題が「異端」でなく「常識」である理由
「まともな」経済学者は誰でも認める知的常識
しかし、本書でも説かれているMMTの主張とされる次のような事実命題は、実は異端でもなんでもない。まともな経済学者なら誰でも認める知的常識の類いであって、新奇なところは何もない不変の真理である。
・通貨発行権のある政府にデフォルトリスクはまったくない。通貨が作れる以上、政府支出に財源の制約はない。インフレが悪化しすぎないようにすることだけが制約である。
・租税は民間に納税のための通貨へのニーズを作って通貨価値を維持するためにある(*)。総需要を総供給能力の範囲内に抑制してインフレを抑えるのが課税することの機能である。だから財政収支の帳尻をつけることに意味はない。
・不完全雇用の間は通貨発行で政府支出をするばかりでもインフレは悪化しない。
・財政赤字は民間の資産増(民間の貯蓄超過)であり、民間への資金供給となっている。逆に、財政黒字は民間の借入れ超過を意味し、失業存在下ではその借入れ超過(貯蓄不足)は民間人の所得が減ることによる貯蓄減でもたらされる。
*MMTは、課税で貨幣というものを受け入れるニーズが質的に作られる論理次元と、課税で総需要が抑制されて貨幣価値が量的に維持される論理次元を区別する。しかし前者の次元の論理では、民事契約の司法的保護を自国通貨取引に限るとか、賃金を自国通貨で払う義務にするなどでも貨幣を受け入れるニーズは作られるはずだが、それ自体にインフレを抑える力がない以上、課税なくこれらの仕組みだけで貨幣システムを維持するのは困難だろう。
ニューケインジアン左派で、イギリス労働党経済顧問委員会委員のサイモン・レン=ルイスも、MMTの学説全般について、基本的には、標準的マクロ経済学の考え方から出てくることと同じことを言っていると繰り返し評している(「MMT: not so modern」「MMT and mainstream macro」)
しかしそのうえで、MMTの論者が政府取引の会計的細部にやたらとこだわるとの感想を述べ、そのことにいささか閉口している様子である。これは私もまったく同じ感想である。
さらに言えば、基本用語の使い方に一般の経済学とは違う独特なこだわりがある。とくに、本質論を直截に現象的な次元の議論に適用して、本質と矛盾する現象形態に即したものの言い方を排撃する傾向が感じられる。
例えて言えば、マルクス経済学を初めて学んで、利子も地代も労働の搾取が源泉だと把握したばかりの大学1年生の学生活動家が、利子を出資の報酬と扱ったり地代を土地提供の報酬と扱ったりして議論する言い方に、いちいち噛み付く姿に似た印象がある(プロのマルクス経済学者は、利子の源泉は労働の搾取と把握したうえで、現象的次元では利子を出資の報酬と扱う現実に則った説明を平気でするものであるが)。
「MMT」ケルトンとクルーグマンの対話不能な論争
そのことがよくわかる例として、最近見られた、有名なニューケインジアン左派のノーベル賞経済学者ポール・クルーグマンと、ケルトンとの間に交わされた論争を概観しよう。
クルーグマンはこの中で、赤字財政支出政策ばかりに頼って金融緩和政策を言わないMMTを批判して、両者の間には代替関係があると主張している。
彼は、ゼロ金利のときにはMMTの言うこともあてはまるが、プラスの利子が付いているときには、赤字財政支出をすると、金利が上昇して民間投資が減ってしまうと言う。いわゆる「クラウディング・アウト」効果である。同じ完全雇用を達成するにも、赤字財政支出はほどほどにして、残りは金融緩和で金利を下げて設備投資を増やすことで実現することも必要になると言うわけだ。
ケルトンはこれに対して、逆に、赤字財政支出をすると金利は下がるのだと反論している。そして、金利が下がりすぎて困るから、望ましい水準にまで金利を引き上げるために、当局は国債を売るのだと言う。
MMTの命題が「異端」でなく「常識」である理由
「まともな」経済学者は誰でも認める知的常識
これに対してクルーグマンは何を言っているのかさっぱりわからないという対応をし、ケルトンはわからないのはクルーグマンの前提しているIS‐LMのようなモデルが間違っているからだと応じている。
クルーグマンはここで、赤字財政政策という言葉で、国債を民間に向けて発行して調達した資金でもって政府支出することを指している。それに対してケルトンが同じ言葉で指しているものはまったく違う。
確かに、マクロ経済の本質としては、政府・中央銀行を一緒にした「統合政府」が、民間人に通貨という購買力を出して財やサービスを買い、それで世の中の購買力が高まりすぎてインフレがひどくならないように、徴税してそれを消し去っている。
マクロ経済にとっての効果は、国債は政府が出そうが中央銀行が出そうが同じ。それを合わせた統合政府が出した国債の純増(減)は、結局金利調整のためになされている。こうしたことは、政府取引の会計手続きをどんなふうに決めようがまったく関係なく成り立っている、人の意識を離れた機能法則的事実である。
「売りオペ」と「赤字財政支出」という2つの呼び方
ところがMMTはこれをどんな話の次元にも直截に適用する。
MMT論者は、たまたま現実の財政支出の会計手続きがこの「本質」と合致した形式の見かけであることをことさら重視する傾向がある。
私はその正誤を判断する力を持たないが、赤字財政支出に際しては、ある例では後日民間の銀行が買い戻す約束をつけた国債を中央銀行が民間の銀行から買うことで、別の例では政府支出先の業者が取引銀行に持ち込んだ政府発行小切手を中央銀行が引き受けることで、政府支出額と同じ額の準備預金が民間の銀行の資産側にまず作られるという。
これが、政府支出先業者の銀行預金に政府から払い込まれた額と一致し、この預金が給料や仕入代金として払われて世の中に貨幣として出回っていく。それに対して政府の国債発行は別途行われ、民間の銀行は国債を買った分、政府に準備預金が吸収される。
(これをもってMMT論者は国債発行が支出に先立つ財源調達でないことの表れと見なすのだが、『MMT現代貨幣理論入門』でも、政府支出に先立って国債発行で財源を用意しなければならない制度的制約をつけたとしても結局は同じということが示されているように、これは見かけの形式を巡る議論であって本質的ではない。)
このようにケルトンが赤字財政政策と呼ぶのは、統合政府が通貨を作って財政支出することである。
だから、そのために民間の銀行のもとにお金(準備預金)が出すぎて金利が下がってしまう。それを受けて統合政府が、いわば「売りオペ」で国債を出してお金を吸収することで、金利を元に戻しているのだと説明しているのである。
結果的には、ケルトンの見方で政府が「売りオペ」しすぎて、出したお金をまるまる回収して国債に換えた事態が、「クルーグマン語」で言う赤字財政支出の結果とまったく同じになる。このときにはクルーグマンの言うとおり、金利が元の水準よりも上がって当然だろう。
しかしそれをケルトンは赤字財政支出自体がもたらしたクラウディング・アウトとはみなさない。いわば行きすぎた金融引き締めがもたらしたものと解釈されることになるのだろう。
「ケルトン語」の赤字財政支出のあとで、統合政府が適切に「売りオペ」して、出したおカネを部分的に国債に換えた事態は、クルーグマン語に翻訳すれば、赤字財政支出と金融緩和が組み合わさったものと表現されるだろう。
そういうわけだから、私見では、両者は基本的に用語法の違いで行き違っているにすぎない。クルーグマン同様IS‐LMを前提してもケルトン語を表すことはできる。
クルーグマン語の赤字財政支出拡大政策はIS曲線単独の右シフトで表されるのに対して、ケルトン語の赤字財政支出拡大政策はIS曲線、LM曲線双方の右シフトで表されるというそれだけのことである。
しかし、MMTにとっては、政府支出の財源として国債を売って資金調達するというような表現をすること自体が、事態の本質をわかっていないタブー表現扱いである。国債はあくまで事後的な金利調整のために出されているという言い方にこだわる。銀行の資産であるおカネ(準備預金)と国債は、共に政府の債務であるが、前者は利子が付かず、後者は利子が付く点に違いがあるにすぎないとされている。
MMTの命題が「異端」でなく「常識」である理由
「まともな」経済学者は誰でも認める知的常識
私などは、数学的に同値なものは同値と見なすいいかげんな人間なので、本質がわかっているなら、どっちでもいいじゃないかと思ってしまう。ことに、デフレ脱却するまでの実践的方針としては、あからさまに通貨を発行することによる政府支出を求めることについて、クルーグマンら左派ケインジアンとMMTの間に違いがあるとは思えない。
そもそもイデオロギーで歪められる障害なく、本質がクリアに表れるシステムを作ることは、MMT派の望むところだろうから(私見同様ニューケインジアンの場合はこれに、インフレ予想の上昇による実質金利低下がもたらす総需要拡大という、MMTが同意しない賛成根拠がついてくるだけの違いである)。
ところで、やはり同様に通貨発行による政府支出を唱える欧米反緊縮左翼の経済政策論に、信用創造廃止を唱えるヘリマネ論の潮流がある。彼らはMMT同様、貨幣はすべて債務なりという立場であるが、MMTと異なり、だから現行システムの貨幣はよくない制度であるという判断をつけて、「債務なき貨幣」の実現を提唱している。
この点をめぐっても論争になっていて、本書においても、あらゆる貨幣はそもそも債務であるという立場からの批判が述べられている。
銀行預金貨幣が債務なのはわかりやすいが、MMTは政府が出す通貨も債務と見なす。政府が公衆に対して持つ徴税債権を相殺・消滅させるものという意味で、政府の公衆に対する債務だと言うのである。
この論理が成り立つには、国民は皆もともと納税債務を国家に負っているという前提がなければならない。これは私にはなかなか心情的に受け入れがたい前提である。
人の意識を離れて存在する法則的現実は、政府が財やサービスを買ったために公衆に購買力がたまっていくのを、他方で消滅させることで、インフレを受忍可能な程度に抑えることである。
徴税・納税の債権債務関係という考えは、人間の意識の中で、これを司るための決まりごとの一種である。その意味で、MMTの嫌う、政府支出の財源として徴税するとか国債を出すとかという議論と、五十歩百歩のイデオロギーのように私には思える。
「こっち側」の大義!
このように、欧米反緊縮左派世界の中でも、MMTは他学派と論争しているのであるが、そんな中、2019年5月に、アメリカ上院で共和党議員が、なんと「MMT非難決議」を上げる動きを始めた。
このとき、上記のとおりケルトンと熾烈な論争をしたクルーグマンは、ツイッターで、「私はMMTのファンではないが、共和党の連中が信奉する経済学教義よりは、はるかにいい。理論に同意しないならそれに基づく政策をとらなければいいだけだ。だが共和党の連中は思想警察みたいなまねをしようとしている」と抗議の声を上げている。
日本の左派・リベラル派の諸氏は、ここにようやく本格教科書が翻訳されて、MMTについての妖怪物語を脱してちゃんとした検討ができるようになったわけだが、本書を読んだうえでなお反対という人たちはいて当然だろう。しかし、アメリカで起こったようなことが日本でも起こったとき、クルーグマンのように大義に立つことができるだろうか。
(この解説文の原稿を修正するにあたっては、望月慎氏との議論が大きく役立っている。記して感謝する。ただしこのことは意見の一致を意味するものではない)
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