大阪栄華物語~資産200兆円!史上最大の豪商 淀屋~
☆ 日本史上最大のお金持ち 淀屋 ☆
先日、日本大っ嫌いな米誌ニューヨークタイムスが例によって「大阪は停滞する日本の象徴」ってな記事を書いて、論議を呼んだのだそうです。
しかもいつもは何を言われても沈黙は金を地で行く日本大使館が、この時ばかりは猛然と反論したのだとかでちょっと話題に。
もしかしたら大使館の人は大阪出身だったのでしょうかね?
さて、とはいえ大使館員さんの必死の努力もむなしく、やはり現実は大阪の凋落は隠せないものがありまして、元々関東人とはいえ好き好んで大阪に商売しに来た私としては些か心配なところです。
なにせ大阪といえば古くは天下の台所、近代になっても日本の近代産業、知識人、文化の源であり、人口も戦後の一時期までは東京を上回っていたほど。
大阪人が憤慨し嘆くのもわかるというものです。
そんなわけで、本日は地元大阪の全盛時代を象徴するあるエピソードをご紹介しましょう。
現在私が暮らしているマンションの目の前に中之島という場所があります。
大阪市役所や高層ビルが立ち並ぶ大阪の人間なら誰でも知っている文字通り大阪の中心地ですが、この島に掛かる橋のひとつに淀屋橋、という橋があります。
現在では淀屋橋は橋の名前というよりは地名として、大阪屈指のビジネス街として知られていますが、この中之島を開発し、淀屋橋をかけたのが、その名の通り“淀屋”と呼ばれる江戸時代の豪商なのです。
しかも豪商と言ってもただの大商人と桁が違います。
恐らく日本の歴史上最大の豪商。つまり史上最大の金持ち。
まさに商都大阪を代表する超大富豪だったのです。
☆ 世界初のデリバティブ取引は大阪から始まった ☆
淀屋は海運から海外貿易まで手掛ける江戸時代の総合商社とも言うべき存在でした。
そのビジネスの基幹は米、現代風にいえば日本の穀物メジャー。
そしてその繁栄を支えたのが淀屋が創設した私的“取引所”の存在でした。
当時米の生産高は2700万石で、実際に流通していた米の流通量は約500万石と言われています。(大部分は自分で食べるためにつくっていたのです)
うち淀屋などを通じて大阪から全国へ流通されていた米は、実に40%以上の200万石にも登ったそうです。
当時の米は単なる穀物ではなく武士の給料など貨幣がわりにも使われていました。
すなわちほとんど擬似貨幣。
淀屋は米の流通にあたって、現物ではなく手形を発行し、現物を持ってこなくても手形を使って取引できるようにしました。
重い米をわざわざ輸送せず、しかも信用ある淀屋の手形を使えば、あたかも現物がそこにあるのと同じように取引できるのですから、当然皆淀屋の取引所を使うようになったわけですね。
やがてこのシステムは公営化され、名高い堂島の米取引所につながっていきます。
さて、手形の流通という“金融取引”の必然ですが、現物の裏付けのない取引、例えば米の先物取引など、がやがて派生するようになります。すなわち江戸時代版“デリバティブ”の始まりです。
淀屋の米取引は、その意味で世界初のデリバティブ市場でもあったのです。
さて、こうして日本の米の流通=金融を支配した淀屋の資産は史上類を見ないものとなりました。
四代目の淀屋重當(しげまさ)の時代には、北浜に実に1万坪の屋敷を構え、内装はオール金張り。
昼夜かかわりなく商人や諸大名の来客があるため毎日畳を変え、夏には天井をガラス張りにして巨大水槽を設置し、中に珍種の金魚を泳がせて涼をとったと言われています。
記録によれば、淀屋の総資産は金12万両、銀12万5000貫、諸大名への貸付金だけで銀1億貫(大半は未返済利息だったようですが)、その他不動産や書画骨董など総額で小判に換算して20億両であったそうです。
・・・・なんて、冷静に記述してますが、因みに20億両とは現在の貨幣価値に換算して、なんとなんと約200兆円!!!!!!!!!!!!!(まあ大半が未収利息なんですけどね)
200兆ですよ、200億ちゃいますよ、わかってます?お客さん!
もう三菱とか三井とかそんなんとは桁が違いますわ。
江戸なんてせいぜい紀伊国屋がミカン売ったり、三越が定価販売、別名江戸のユニクロ商法で儲けた程度。
こんだけの富が、たった一商店だけで、この大阪にあったわけですね。まさにビバ大阪。
東京(江戸)がナンボのもんじゃい。
興奮ついでに言っとけば、淀屋の遊興費は年間約100万両だったらしいのですが、現在の価値になおすと、これ又約1000億円!!!!!!
1年で1000億パッと遊びに使っちゃう!つまり一日あたり約3億円!
幾ら食べても飲んでも使い切れへん。だいいち体が持ちませんわ。
そりゃ、あんた北新地あたりは超ウハウハ。
というか、新地は元々淀屋をはじめとする米商人が開いた歓楽街なわけなんですね。
もう順序が逆。
ということで、大阪米バブルを満喫していた淀屋ですが、書いているうちに以前紹介した に似ているような気がしてきました。
そうです、歴史とは皮肉なもので、テンプル騎士団からリーマンブラザースまで金融の秘密を発見して富を気づいたものの末路は大体決まっているわけです。
☆ 明治維新は淀屋の復讐だった!? ☆
1705年、あまりに多額になった淀屋から借入金(大名貸)が返済できないと見た幕府は、商人の分際で浪費三昧、風紀を乱すことはけしからんという訳の解らん理由で淀屋の財産を没収、大阪から追放しました。
借金は帳消し、しかも淀屋の溜め込んだ金銀で国家財政は潤うということで幕府は万々歳。
ホントまるっきりテンプル騎士団と同じパターンですね。
さて、通常ならこれで淀屋の栄華の物語もお終いのはずなのですが、実はこの話には後日談があります。
お取り潰しの動きを察知した淀屋は、実は密かに番頭の牧田家に暖簾分けして鳥取に商売の一部を逃がしていたのです。(後期淀屋)
その後鳥取の倉吉で存続していた淀屋はほとぼりが冷めると大阪に戻って、以前とは裏腹の堅実な商売で再び豪商として復活するにいたりました。
これだけでも十分大したものだと思うのですが、淀屋がすごいのはこの後。
淀屋のお取り潰しから150年たった幕末。
淀屋はその後の歴史に大きな影響を及ぼすある決断をするのです。
1859年後期淀屋8代目当主淀屋清兵衛は全店舗を突如閉鎖、その全財産を換金し得られた膨大な富を朝廷に献上して、人知れず姿を消してしまったのです。
淀屋のこの決断の目的・・・ それは150年前本家を取潰した幕府への復讐、すなわち倒幕の為でした。
淀屋はその全財産を倒幕の資金として提供し、そこから還流された資金は薩長軍の武器買い付け資金となって、最終的に幕府を倒すことに成功したわけです。
淀屋の資金がなければ実際の武器買いつけに行った坂本龍馬なんてただの貧乏田舎侍。
世の中最後は金、金の恨みは金で返す。恐るべしナニワ商人なのです。
150年の時を経て江戸(幕府)に一矢報いた大阪人の華、淀屋。
先人と比べ、ちょっと元気のない現代の大阪人ですが、ここらで一矢報いたいところですね。
0 Comments:
コメントを投稿
<< Home