水曜日, 1月 08, 2020

弘明寺の歴史

間宮家 : 歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし
http://yoshi-kanagawa.blog.jp/tag/%E9%96%93%E5%AE%AE%E5%AE%B6?p=2

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真言宗でも室町時代に横浜最古の寺院である瑞應山蓮華院弘明寺は間宮家が深く関わっていた寺で“宗閑”の名の初出展となる寺院だ。

北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。

今回、多目元忠公の記事をリニューアルするに当たり余りにも膨大な情報量に成ったので、今回はユックリと記事を三部に分けて解説をしたいと思います。
①北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
今回の記事⤴

今後追記予定の記事2部⤵
②多目元忠公が活躍した河越夜戦と山内/扇谷上杉家解説。
③多目元忠公は大活躍したのに子孫と思われる一族の禄高が低く抑えられている原因の推理。

そして、未訪問の三ッ沢に在る多目家菩提寺の豊顕寺さんの紹介記事もいずれ書きたいなと思います。

さて、では今回は多目元忠公の基本的な情報と当時の北条家の状況の解説、居城青木城と青木城前身の権現山城の構造と周辺の歴史を解説します・・・

戦国時代に神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県北部を統治した大名の北条家が100年後に日本を統治した徳川家よりも優れた政治で内政と軍政を行っていました・・・
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小田原北条家というのは戦国時代に既に初期の江戸幕府を凌駕する善政の統治機構を持ち、各方面で有事に別々に運用できる軍団制度を織田信長公の登場よりも早くから導入した内政と軍政に優れた大名家でした。
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現在も部分的に現存する❝小田原用水❞は日本初の上水道(飲用水道)として歴史学者には知られている存在です。又、城郭建築に長けた家臣団を多く持ち、更には修験道や神道の宮司も兼ねる有職故実に通じた由緒正しい教養高い家柄の重臣も多くいる民政と教養と城郭建築に特に長けた家柄でした。
この事は余り現代では歴史好き以外には知る人も少ないのですが、その北条家には五色備(ごしきそな)えと呼ばれた色別編成の主力部隊がいました。
この五色備えとは軍旗の色を、青色・黄色・白色・赤色・黒色の各色に分けて部隊編成された軍団で、この五色は仏教五色と呼ばれ当時神仏混合だった宗教観では仏教的な思想では唐時代の中国の高僧の不空三蔵法師が訳した経典で以下の意味が有り、その軍団には役目が有りました。
黄・・・皇帝
中心を指す、物事の本質を見抜き統率する知恵・・・北条綱成公、家中最高の統率力の名将
青・・・青龍
東方を指す、此の世の出来事を公平に見る知恵・・・富永直勝公、家中初期功臣家系の名将
白・・・白虎
西方を指す、此の世の全てを見極める為の知恵・・・笠原信為公、家中最高の文化人の名将
黒・・・玄武
北方を指す、此の世の物を完成させる為の知恵・・・多目元忠公、家中最高の知恵者の名将
赤・・・朱雀
南方を指す、此の世が平等である事を知る知恵・・・北条綱高公、文武の両面で優れた名将

この色分けと其々の方位を守る聖獣は横浜市民と神戸市民は良く知っていると思います。
横浜中華街仏教五色四方聖獣の門と黄色の善隣門位置 久良岐のよし
横浜中華街には東西南北の四方を守護する青龍・白虎・朱雀・玄武の門が在り、中心には善隣門が据えられており、この善隣門の屋根瓦は正に日本の神道にも影響を与えた中国道教と仏教で皇帝を表す黄色の瓦が用いられています。
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そして海側の大手口と成る朝陽門は鯱鉾(しゃちほこ)の部分の飾瓦が青龍のデザインで屋根瓦全体も仏教五色の青に成っています。
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安土桃山時代~江戸時代初期に織田信長公や豊臣秀吉や徳川家康公や徳川家光公によって寄進され神社建築遺産や居城だった安土城や伏見城等、海外との貿易が活発で華やかな色合いが好まれた当時の建築文化や仏像の極彩色装飾では、正にこういった道教と仏教の影響を受けた華やかな仏教五色を彩色された場所が多く有りました。
明治に廃仏毀釈で多くの華やかな社殿が消え官製神社に質素な色の鳥居や社殿が増えたのは実は明治の宗教改革をやった政治家がプロテスタントキリスト教徒で仏教を弾圧した影響なんですね。
日光東照宮の陽明門が正に現存する極彩色に装飾された建築文化財の代表例でしょう。
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織田信長公が社殿再建した京都府八幡市の男山、石清水八幡宮や・・・
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秀吉が社殿寄進した織田家所縁の愛知県津島市の津島大社とか…
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静岡市駿河区の久能山東照宮とか…
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神奈川県鎌倉市扇ヶ谷に在る徳川家康公に勝利の女神として大切に愛された側室の太田お梶の方の御廟所とかですね。
当時は神社仏閣で白黒と赤の基調の差は有れど、華やかな極彩色に彩られた場所が多く有った訳です。
色には宗教哲学や易学的な意味で方位守護を目的とした鎮護の意味が込められていたんですね。
北条家初期の北条五色備え軍団奇(く)しくも各軍団と大将は不空三蔵法師の仏教解釈の通りの色に符号した役割と能力を有しており、その為に軍団長として任命されている事も解ります。
北条氏綱公そして例えば青備え隊は初期は江戸城を後に葛西城を本拠地にしており、現在の東京都葛飾区辺りに居り北条氏綱公時代の領地の最東端に位置する地域の防衛を担(にな)っていました。
黄備え隊は武家の本拠地である鎌倉郡玉縄城に在り、主だった合戦では各方面に援軍として出張し主力として戦っていました。
白備え隊は甲斐武田家や後に徳川家に対する備えとして伊豆と相模の国境を守備する事が多い部隊でしたし、徳川家と北条家が激突した黒駒合戦でも黄備え隊と合わせて2万の大軍で相模国の西側の駿河国から甲斐国へ侵攻しました。
赤備え隊は初期の北条綱高公の時代には南方の要として江戸城で里見海賊の来襲に備え且つ、伊豆方面を守備する事が多く有りました。北条綱高公が江戸城で没した頃に小大名から北条傘下の軍団に組み込まれた世田谷城主蒔田吉良氏朝公の与力武将は江戸衆に成っていた様で豊臣秀吉の北条征伐の際には、やはり伊豆国下田の下田城防衛を担当し、城将清水康英公と共闘しています。又、蒔田吉良家には喜多見江戸家や河野家や杉田家や並木家等の水軍も保有しており江戸城周辺と品川港一帯東京湾中央部の防衛の要として機能していました。
そして多目元忠公の黒備え隊は北条家の知恵袋として良く本隊に組み込まれていましたが、北条早雲公や北条氏綱公の時代の初期の北条家北限が青木城周辺でした。北条家は当主自ら本隊を率いて敵軍と激突する事が多く、黒備え隊は遊軍でありながら隊長の多目元忠公が戦全体をコントロールする軍師としての役割を本陣で担う事が多かった軍団でした。秀吉の小田原攻めの際も多目家は小田原城に籠城していますし、小田原に籠城しなかった者は蒔田御所こと室町時代まで鎌倉公方代理だった蒔田吉良家の吉良頼康公の保護の為に近くの南区蒔田の蒔田城にもかけつけています。この時、吉良頼康公は水軍で城下の蒔田湾や磯子から出陣して単独で鎌倉防衛しようと無謀な構えを豊臣軍に対して準備していたので、もし多目一族が吉良頼康公を止めていなけらば、その後の江戸幕府高家の蒔田家→吉良家は存在しなかったでしょう。
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南区蒔田城跡の城下には太田道灌公の親友で戦上手として記録の残る吉良成高公が開いた勝國寺が現存しており、吉良成高公の先代の吉良政忠公から吉良頼康公までの御廟所と家臣団である佐々木家、森家、並木家等の御子孫達檀家サンの御墓が今でも殿様の御廟所を囲む様に存在しています。
以前書いた記事⤵
三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区の笹下川~大岡川流域蒔田湾の流通の拠点。
世田谷八幡宮所縁の殿様、吉良頼康公…東急世田谷線宮の坂駅と横浜市営地下鉄蒔田駅の殿様。
招き猫発祥の寺、世田谷区の豪徳寺…彦根藩井伊家の菩提寺で、蒔田吉良家所縁の大寺院。

今回紹介するのは北条家で最も有名な北条早雲公の時代の話でも無く、民政化として最も有名でありながら軍才に長けて北条家最強時代を築き上げた北条氏康公の時代の五色備えの黒備え大将だった武将の話です。
北条氏康※KOEIさんのゲームより画像拝借。
・・・北条氏康公が小田原北条家第三代当主と成った頃、五色備え軍団の大将の内の3人の殿様と2人の名副将が現在の横浜市と成った昔の鎌倉郡・久良岐郡・橘樹郡・都築郡に居住していらっしゃいました。