木曜日, 4月 02, 2020

今昔物語より

参考:
http://nam-students.blogspot.com/2020/04/1919-5-httpyab.html

文藝雜話 饒 舌   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年五月発行の『新小説』に掲載された。芥川龍之介には「饒舌」と題する小説があるが(大正七年一月『時事新報』)、全くの別物…
岩波全集#3,ちくま妖婆所収
 ハイネによると獨逸の幽靈は、佛蘭西の幽靈より不幸だとあるが、日本と支那の幽靈の間にも大分懸隔がある。第一日本の幽靈は非社交的で、あんまり近づきになつても愉快でない。精々凄い所が身上しんじやうだから、御岩稻荷にしも、敬遠されるのが關の山である。所が支那の幽靈になると、教育があつて、義理人情が厚くつて、生人せいじんよりは餘程始末が好いい。噓だと思つたら、一部の聊齋志略れうさいしりやくを讀んで見るがいゝ。何百かの長篇短札たんさつの中には、隨所にさう云ふ幽靈が出て來る。女鬼によきした所で、泉鏡花氏の女主人公が支那服を着たやうなのだつて稀ではない。


 あゝ云ふ話を集めたのでは、古いもので、僕には今昔が一番面白い。文章も素朴でしつかりしてゐる。僕なんぞは新刊の英譯大陸小説よりあれを讀む方が爲になる所も餘程多い。
 前に云つた聊齋はたしか乾隆の中葉頃に出來たものだから、今昔に比べると餘程新しい。所が今昔と聊齋と、よく似た話が兩方に出てゐる。たとへば聊齋の種梨しゆりの話は大體の段どりから云つて、今昔の本朝第十八卷にある以外術破盜食瓜語げじゆつをもつてうりをぬすみくはるるものがたりと云ふ話と更に變りがない。梨と瓜とを取換へれば、殆ど全く同じである。かう云ふのは日本の話が支那へ輸入されたのであらうか。
 が、これなぞはどうも話の性質が支那じみてゐる。するとこの話のプロトタイプが始はじめ支那にあつて、それが先に日本に輸入されたのであらうか、暇があつたら誰たれか考證して見るのも面白からうと思ふ。序ついでに云ふが、聊齋の鳳陽士人ほうやうしじんと云ふ話も、今昔の本朝第二十一卷常澄安永於不破關夢見京妻語つねづみやすながふわのせきにてけうにあるのつまをゆめみしものがたりと云ふ話とよく似てゐる。




https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86

今昔物語集

今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)とは平安時代末期に成立したと見られる説話集である。全31巻。ただし8巻・18巻・21巻は欠けている。 『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっている事に由来する便宜的な通称である。
『今昔物語集』の成立年代と作者は現在も不明である。

年代

11世紀後半に起こった大規模な戦乱である前九年の役後三年の役に関する説話を収録しようとした形跡が見られる(ただし後者については説話名のみ残されており、本文は伝わっていない)事から、1120年代以降の成立であることが推測されている。一方、『今昔物語集』が他の資料で見られるようになるのは1449年のことである[要出典]。 成立時期はこの1120年代~1449年の間ということになるが、保元の乱平治の乱治承・寿永の乱など、12世紀半ば以降の年代に生きた人ならば驚天動地の重大事だったはずの歴史的事件を背景とする説話がいっさい収録されていないことから、上限の1120年代からあまり遠くない白河法皇鳥羽法皇による院政期に成立したものと見られている[要出典]

作者

作者についてはっきり誰が書いたものであるかは分かっていない。

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外術を以て瓜を盗み食はるる語 今昔物語集巻二十八第四十
https://japanese.hix05.com/Narrative/Konjaku/konjaku2/konjaku211.uri.html

外術を以て瓜を盗み食はるる語 今昔物語集巻二十八第四十





今は昔、七月ばかりに、大和國より多くの馬共に瓜を乗せて、下衆どもが京へ上っていった。宇治の北に、成らぬ柿の木という木があった。下衆どもはその木影にとどまって、瓜の籠を馬から下ろして休みながら、自分用にとっておいた瓜を取り出して食った。


するとその辺に住んでいると思われる老人が現れた。帷を帯で結い、平下駄を履き、杖をついて、瓜を食う下衆どもの傍らに立ち止まり、扇を力弱く仰ぎながら、瓜を食う様子をじっと見つめた。


しばらくして老人は、「俺にもひとつ食わせてくれ、のどが渇いて仕方がない」といった。



だが下衆どもは、「これは自分たちの私物ではないので、ひとつくらい差し上げたいとは思うが、人に頼まれて京に運ばねばならぬ故、やるわけにはいかぬ」と応えた。すると老人は、「つれないお方たちじゃ、老人を哀れと思う気持ちがござらぬのか。どこに持っていくのかは知らぬが、俺は俺でひとつ瓜を作ってみよう」といった。

下衆どもはへんなことを言うやつだと、笑いあっていたが、老人は傍らの木の枝を取って、それで畑を耕した。下衆どもが見ていると更に、老人は食い散らした瓜の種を集めて、地ならしした畑に植えた。すると程もなく、種から芽が出て、双葉が生えてきた。





下衆どもが不思議な気持ちで見守っていると、双葉は瞬く間に大きくなり、葉っぱが茂り、花が咲いて、立派な瓜の実がなった。


下衆どもはその様子を、「これは神様の仕業かな」と恐れながら見ていたが、老人は瓜の実をもぎって食いながら、下衆どもに向かって、「あんたらが食わせてくれぬ故、こうして自分で瓜を作ったのじゃ」といい、下衆どもにもそのおすそ分けをしてやった。また道行く人々にも、振舞ってやった。

瓜を食い終わると老人は、「もう引き上げよう」といって、立ち去り、行方も知れなかった。下衆どもは「馬に瓜を積んで出発しよう」と思ったが、籠の中にはあるべき瓜がひとつもない。手を打って悔しがったが、あとの祭りであった。



下衆どもは、「あの老人はわれらの目をくらませて、籠の中から瓜を取り出したんだ」と後悔したが、いまや行方も知れず、仕方がなくそのまま大和に引き返した。道行く人たちはこの様子を見て、笑わぬものがいなかった。 

下衆どもが瓜を出し惜しみせず、二つ三つでも食わせてやったならば、全部とられることもなかったであろうに。物惜しみしたお怪我で、こんな目にあったのだ。この老人は多分変幻自在なのだろう、その後ついに誰にも行方を知られなかったという。

。。。


これは催眠を利用した手品のような話だ。蒔いた種があっという間に実を結ぶというありそうにない話の影には、人を催眠にかけて実物のウリをなったように見せかける仕掛けがあった。




実際今昔物語の時代にこのような仕掛けが行われていたのかどうか、筆者にはわからない。




今は昔、七月許に、大和國より多くの馬共瓜を負せ列ねて、下衆共多く京へ上りけるに、宇治の北に、成らぬ柿の木と云ふ木有り、其の木の下の木影に、此の下衆共皆留まり居て、瓜の籠共をも皆馬より下しなどして、息み居て冷みける程に、私に此の下衆共の具したりける瓜共の有りけるを、少々取り出でて切り食ひなどしけるに、其の邊に有りける者にや有らむ、年極じく老いたる翁の、帷に中を結ひて、平足駄を履きて、杖を突きて出で來て、此の瓜食ふ下衆共の傍に居て、力弱氣に扇打仕ひて、此の瓜食ふをまもらひ居たり。







暫く許護りて、翁の云はく、「其の瓜一つ我れに食はせ給へ。喉乾きて術無し」と。瓜の下衆共の云はく、「此の瓜は皆己れ等が私物には非ず。糸惜しさに一つをも進るべけれども、人の京に遣す物なれば、否食ふまじきなり」と。翁の云はく、「情座さざりける主達かな。年老いたる者をば『哀れ』と云ふこそ吉きことなれ。然はれ、何に得させ給ふ。然らば翁、瓜を作りて食はむ」と云へば、此の下衆共、戯言を云ふなめりと、可咲しと思ひて咲ひ合ひたるに、翁、傍に木の端の有るを取りて、居たる傍の地を堀りつつ、畠の樣に成しつ。其の後に此の下衆共、「何態を此れは爲るぞ」と見れば、此の食ひ散らしたる瓜の核共を取り集めて、此の習したる地に植ゑつ。其の後、程も無く、其の種、瓜にて二葉にて生ひ出でたり。此の下衆共、此れを見て、奇異しと思ひて見る程、其の二葉の瓜、只生ひに生ひて這ひ絡りぬ。只繁りに繁りて、花榮きて瓜成りぬ。其の瓜、只大きに成りて、皆微妙き瓜に熟しぬ。





其の時に、此の下衆共此れを見て、「此れは神などにや有らむ」と恐ぢて思ふ程に、翁、此の瓜を取りて食ひて、此の下衆共に云はく、「主達の食はせざりつる瓜は、此く瓜作り出だして食ふ」と云ひて、下衆共にも皆食はす。瓜多かりければ、道行く者共をも呼びつつ食はすれば、喜びて食ひけり。食ひ畢つれば、翁、「今は罷りなむ」と云ひて立ち去りぬ。行方を知らず。其の後、下衆共、「馬に瓜を負せて行かむ」とて見るに、籠は有りて、其の内の瓜一つも無し。其の時に、下衆共手を打ちて奇異しがること限無し。「早う、翁の籠の瓜を取り出だしけるを、我れ等が目を暗まして見せざりけるなりけり」と知りて、嫉がりけれども、翁行きけむ方を知らずして、更に甲斐無くて、皆大和に返りてけり。道行きける者共、此れを見て、且は奇しみ、且は咲ひけり。




下衆共、瓜を惜しまずして、二つ三つにても翁に食はせたらましかば、皆は取られざらまし。惜しみけるを翁も みて、此くもしたるなめり。亦、變化の者などにてもや有りけむ。其の後、其の翁を遂に誰人と知らで止みにけりとなむ、語り傳へたるとなり。

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国家・企業・通貨―グローバリズムの不都合な未来―

岩村充/著
2020/02/19

https://www.amazon.co.jp/dp/4106038528/

FTPLとMMTは背反しない
岩村充はMMTを批判するがデフレ下の消費増税が供給能力を毀損していることをどう考えるのか?
岩村がMMT批判の枕として紹介した芥川龍之介の瓜売りの話は供給能力を見る必要を説いていると読める
ゲゼルマネーを好意的に紹介したこれまでの本から後退しているのは
商品貨幣論の限界だろう

あるいは政治的党派性と統制経済を恐れてのことか
利子に着目したゲゼルは正しいが…

ちなみに岩村が芥川龍之介経由で紹介した今昔物語の瓜売りの話の結語は
贈与の有効性を説いている

外術を以て瓜を盗み食はるる語 今昔物語集巻二十八第四十
https://japanese.hix05.com/Narrative/Konjaku/konjaku2/konjaku211.uri.html

《下衆共、瓜を惜しまずして、二つ三つにても翁に食はせたらましかば、
皆は取られざらまし。惜しみけるを翁も みて、此くもしたるなめり。》
下衆どもが瓜を出し惜しみせず、二つ三つでも食わせてやったならば、
全部とられることもなかったであろうに。物惜しみしたお怪我で、こんな目にあったのだ。)




二 M M Tの風景金融緩和で得する人と損する人今昔物語に 『以外術被盗食瓜語 』という短編があります 。これは 「外術ヲ以テ瓜ヲ盗ミ食ワルルコト 」と読むのだそうですが 、普通には 「植瓜 (あるいは殖瓜 )の術 」という名で呼ばれている幻術つまり集団催眠術についての説話で 、内容を思いきり要約するとこんな感じでしょうか 。 「ある暑い日 、男たちの一団が数頭の馬に車を引かせて甘い瓜を大和から京の都に運ぶ途中で休憩して 、瓜を少しばかり食べていた 。そこに杖を突いた老人が通りかかり 、喉が渇いているので瓜を施してくれとせがんだのだが 、男たちは 、食っているのは自分用ので 、他は京の雇い主のところに運ぶものだからと拒絶した 。そこで老人は落ちていた瓜の種を拾って地に埋めたところ 、たちまちのうちに芽が出て枝葉が育ち花も咲いて瓜が実ったので 、老人は実った瓜を自分も食し 、瓜を施すのを拒んだ男たちにもすすめ 、そして見物人たちにも振る舞って去って行った 。すべて終わった後で男たちが車を振り返って見ると 、そこに積んでいた瓜が一つ残らずなくなっていたので 、やっと自分たちは老人の幻術にかかっていたことに気が付いたのであった 」この話 、よほど日本人の好みに合うようで 、いろいろな変化形となって近現代の小説などに登場しています 。また 、芥川龍之介は 、同じ筋書きの説話が瓜ではなく梨の話として清代の 『聊斎志異 』にあることを指摘し 、説話の成立時期から言ってそれが日本に流入したはずはないし ( 『聊斎志異 』は 『今昔物語集 』より五百年以上も後の説話集です ) 、その逆つまり日本から中国へというル ートも文化の構造から言ってありそうもないので 、要するに東洋文化のどこかにル ーツがあるのだろうと書いたりしています 。ところで 、こんな話を持ち出したのは 、この話に 、世に無償のものはないということ 、しかし 、それだからこそ分配の問題は存在するということ 、その両方が入っていて 、そこに金融政策について私が言いたいことに通じるものがあるからです 。男たちが地から生えたと思い食べていたのは 、自分の車に積んであった瓜だったというところは 、金融政策が無償でないということに当たります 。そして 、男たちの雇い主のものだったはずの瓜が 、老人と通行人そして当の瓜運びの男たちに食われてしまったというところは 、金融政策は分配に関係するということに当たるわけです 。植瓜の幻術を使う老人に中央銀行は似ているのです 。もう少し説明すると 、現代の中央銀行が幻術を使えるのは 、彼らの使命の中に 、通貨価値の安定以外に雇用の安定あるいは経済成長への貢献を求めてしまう私たちの心の弱さがあるからなのですが 、それは暑い日に車に積んである瓜を食したいという植瓜の説話に出て来る人々の気持ちと似たようなものでしょう 。しかし 、植瓜の老人と中央銀行は違うところもあります 。それは 、老人は 、自分がやっているのが無から有を生み出す生産行為ではなく 、車に積んだ瓜の盗食つまり再分配であることも分かっているのに対し 、現代の中央銀行たちの多くは 、自分が無から有を作り出していると信じているばかりか 、彼らの行っている金融政策自体が富の分配であることにも気付いていないようだというところです 。しかも 、植瓜の術ならぬ金融政策の恩恵を得ているのは 、企業の株主たちだけではありません 。低金利のおかげで大量の国債を発行できている政府も恩恵を受けています 。それは 、彼らに低コストの資金調達を可能にすることによっ


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柴田宵曲 續妖異博物館 「大和の瓜」: Blog鬼火~日々の迷走
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柴田宵曲 續妖異博物館 「大和の瓜」


 大和の瓜

 大和國から瓜を馬に積んで京へ出る者があつた。宇治の北にある成らぬ柿の木といふ木の下まで來ると、皆瓜の籠を馬から下ろして、暫くその蔭に涼んでゐるうちに、積んで來た瓜を取り出して、少しつつ食ひはじめた。そこへどこからやつて來たか、帷子に平足駄を穿き、杖をついた老人が現れて、扇を使ひながら皆の瓜を食ふのを見守つてゐたが、その瓜を一つ私にも食べさせてくれませんか、咽喉がかわいて堪らないのです、と云ひ出した。瓜を運ぶ下人達は、氣の毒だから上げたいが、これは私どもの物ではない、人に賴まれて京へ持つて行くのだから上げるわけに往かぬ、とすげなく斷つた。

 老人は、あなた方は情けを知らぬとか、年寄はいたはつてやるものだとか、ぶつぶつ云つてゐたが、そのうちに、下さらぬものは仕方がない、よろしい、私が瓜を作つて食ひませう、と云つたかと思ふと、木片を拾つて地面を畑のやうに掘り、下人達の食ひ散らした瓜の種をそこに埋めた。はじめの間は笑談半分に見てゐた下人達も、その種が間もなく二葉を出し、蔓を延してあたり一面の瓜畑になるのを見ては、びつくり仰天せざるを得なかつた。老人は澄ましたもので、自分がその瓜を取つて食ふだけでなしに、下人達にも食べろと云ふ。通行人にも勸める。あるほどの瓜を食べ盡してしまつたら、それでは皆さん失禮、と云つて老人はどこかへ立ち去つた。大分暇を潰したから、吾々も出かけようといふので、下人達が見ると、籠の中の瓜は一つもない。瓜をこゝに作ると見せて、籠の中から持ち出したのかと騷いでも追付かぬ。空の籠を馬に積んで大和へ引返すより外はなかつた。
[やぶちゃん注:以上は、以下に述べられる通り、「今昔物語集」の話で「卷第二十八」の「以外術被盜食瓜語第四十」(外術(ぐゑずつ)を以つて瓜を盜み食はるる語(こと)第四十しじふ))である。「外術」(げじゅつ)は(歴史的仮名遣では実は「げじゆつ」でよい)外道(げどう)の術で、魔法。幻術のこと。「下術」とも書く。
   *
 今は昔、七月許(ばか)りに、大和の國より、多くの馬(むま)共に瓜を負(お)ほせ烈(つら)ねて、下衆(げす)共多く京へ上りけるに、宇治の北に、不成(なら)ぬ柿の木と云ふ木有り。其の木の下の木影(こかげ)に、此の下衆共、皆、留(とど)まり居(ゐ)て、瓜の籠共をも皆、馬より下(おろ)しなどして、息(やす)み居て、冷(すず)みける程に、私(わたくし)に[やぶちゃん注:自分らが食う分として]、此の下衆共の具したりける瓜共の有りけるを、少々取り出でて切り食ひなどしけるに、其の邊に有りける者にや有(あ)らむ、年極(いみ)じく老いたる翁の、帷(かたびら)に中(なか)を結ひて[やぶちゃん注:単衣(ひとえ)の薄物を纏い、その腰の辺りを紐で結わいて。]、平足駄(ひらあしだ)を履きて、杖を突きて出で來たりて、此の瓜食ふ下衆共の傍らに居(ゐ)て、力弱氣(ちからよはげ)に扇(あふぎ)、打ち仕ひて、此の瓜食ふを、まもらひ居たり[やぶちゃん注:凝っと見守り続けている。]。
 暫し許り護りて、翁の云く、
「其の瓜一つ、我れに食はせ給へ。喉(のど)乾きて術無(ずつな)し。」
と。瓜の下衆共の云く、
「此の瓜は、皆、己等(おのれら)が私物(わたくしもの)には非ず。糸惜(いとほ)しさに[やぶちゃん注:気の毒に感ずるから。]一つをも可進(たてまつるべ)けれども[やぶちゃん注:差し上げたいとは思うけれども。]、人の京に遣す物なれば、否不食(えくふ)まじき也。」
と。翁の云く、
「情け不座(いまさ)ざりける主達(ぬしたち)かな。年老いたる者をば、哀れと云ふこそ、吉(よ)きことなれ、然(さ)はれ、何(いか)に得させ給ふ[やぶちゃん注:「(愚痴は)さてもそれまでとして、ではでは……そなたらは……どのようにして私に……その瓜どもを得させてくれりょうかのぅ?」。後の妖術の仕儀を暗示させる不思議な予言めいた謂いである。]。然らば、翁、瓜を作りて食はむ。」
と云へば、此の下衆共、
「戲言(たはぶれごと)を云ふなんめり。」
と、
「可咲(をかし)。」
と思ひて、咲(わら)ひ合ひたるに、翁、傍らに木の端(はし)の有るを取りて、居たる傍らの地を掘りつつ、畠の樣(やう)に成しつ。
 其の後(のち)に、此の下衆共、
「何に態(わざ)を此れは爲(す)るぞ。」[やぶちゃん注:何の真似をこの爺いはするつもりなんだ?」。]
と見れば、此の食ひ散したる瓜の核(さね)共を取り集めて、此の習(なら)したる[やぶちゃん注:平らに均(なら)した。]地(ぢ)に植ゑつ。其の後ち、程も無く、其の種瓜(たねうり)にて、二葉にて生ひ出でたり。此の下衆共、此れを見て、
「奇異(あさま)し。」
と思ひて見る程に、其の二葉の瓜、只(ただ)[やぶちゃん注:無暗に。急速に。]、生ひに生ひて這凝(はびこりまつは)りぬ。只、繁りに繁りて、花、榮(さ)きて、瓜、成りぬ。其の瓜、只、大きに成りて、皆、微妙(めでた)き瓜に熟しぬ。
 其の時に、此の下衆共、此れを見て、
「此は神などにや有(あ)らむ。」
と、恐れて思ふ程に、翁、此の瓜を取りて食ひて、此の下衆共に云く、
「主達(ぬしたち)の食はせざりつる瓜は、此(か)く瓜作り出だして食ふ。」
と云ひて、下衆共にも、皆、食はす。瓜、多かりければ、道行(みちゆ)く者共をも呼びつつ、食はすれば、喜びて食ひけり。食ひ畢(は)てつれば、翁、
「今は罷(まか)りなむ。」
と云ひて、立ち去りぬ。行方(ゆきかた)を不知(し)らず。
 其の後(のち)、下衆共、
「馬に瓜を負(お)ほせて、行かむ。」
とて、見るに、籠は有りて、其の内の瓜、一つも、無し。其の時に、下衆共、手を打ちて奇異(あさま)しがること限り無し。
「早う、翁の籠の瓜を取り出だしけるを、我等が目を暗(くら)まして不見(み)せざりける也けり。」
と知りて、嫉(ねた)がりけれども、翁、行きけむ方を知らずして、更に甲斐無くて、皆、大和へ返りてけり。道行ける者共、此れを見て、且つは奇(あや)しみ、且つは咲(わら)ひけり。
 下衆共、瓜を惜しまずして、二つ三つにても翁に食はせたらましかば、皆は不被取(とられ)ざらまし。惜みけるを翁も※(にく)みて此(か)くもしたるなんめり。亦、變化の者などにてもや有りけむ。[やぶちゃん字注:「※」=「忄」+「惡」。]
 其の後(の)ち、其の翁を遂に誰人(たれひと)と不知(し)らで止みにけり、となむ語り傳へたるとや。
   *]

 この老人は何者であつたか、誰に聞いてもわからなかつたが、「今昔物語」はこの話に外術(げじゆつ)といふ言葉を使つてゐる。「列仙傳」の左慈なども時にこの手段を用ゐた。曹操が大勢の臣下を連れて郊外に遊んだ時、左慈はどこからか酒と脯(ほしにく)を持つて來て百官に振舞つた。曹操その出所を怪しみ、人を派して調べさせたら、宮中の藏に入れてあつた酒も脯も悉くなくなつてゐた、といふやうな話がある。
[やぶちゃん注:「左慈」既出既注
 以上の話は調べてみたが、「列仙傳」の中には何故か見当たらない。その代わり、「搜神記」の「第一卷」のこの話ならば、よく知っている。下線部太字部分がそれである。
   *
左慈、字符放、廬江人也。少有神通。嘗在曹公座、公笑顧眾賓曰、「今日高會、珍羞略備。所少者、松江鱸魚爲膾。」。放曰、「此易得耳。」。因求銅盤貯水、以竹竿餌釣于盤中、須臾、引一鱸魚出。公大拊掌、會者皆驚。公曰、「一魚不周坐客、得兩爲佳。」。放乃復餌釣之。須臾、引出、皆三尺餘、生鮮可愛。公便自前膾之、周賜座席。公曰、「今既得鱸、恨無蜀中生薑耳。」。放曰、「亦可得也。」。公恐其近道買、因曰、「吾昔使人至蜀買錦、可敕人告吾使、使增市二端。」。人去、須臾還、得生薑。又云、「於錦肆下見公使、已敕增市二端。」。後經餘、公使還、果增二端。問之、云、「昔某月某日、見人於肆下、以公敕敕之。」。後公出近郊、士人從者百數、放乃賚酒一罌、脯一片、手自傾罌、行酒百官、百官莫不醉飽。公怪、使尋其故。行視沽酒家、昨悉亡其酒脯矣。公怒、陰欲殺放。放在公座、將收之、卻入壁中、霍然不見。乃募取之。或見于市、欲捕之、而市人皆放同形、莫知誰是。後人遇放于陽城山頭、因復逐之。遂走入羊群。公知不可得、乃令就羊中告之、曰、「曹公不復相殺、本試君術耳。今既驗、但欲與相見。」忽有一老羝、屈前兩膝、人立而言曰、「遽如許。」。人即云、「此羊是。」。競往赴之。而群羊數百、皆變爲羝、並屈前膝、人立、云、「遽如許。」。於是遂莫知所取焉。老子曰、「吾之所以爲大患者、以吾有身也、及吾無身、吾有何患哉。」。若老子之儔、可謂能無身矣。豈不遠哉也。
   *
私はこの話全体がすこぶるつきに大好きなのである。だから、ちょっと今までなく、語りたいのである。前の部分は曹操(原文は「曹公」であるが、左慈の事蹟を調べると、これは曹操であろうと比定されている)の催した宴会での魔術で、その食卓の上の銅盤に釣り糸を垂らして曹操が足りないから欲しいといった鱸(すずき)を二尾も釣りあげ、次に、その膾に添えるために、遠く離れた僻地蜀(しょく)の生姜を持ってこさせ、序でに、「蜀に錦を買いに使者として出してあるから、その者にもう二反(たん)追加せよと言いつけよ」と難題を出す。左慈は一寸出て直きに生姜を持って帰って参り、伝言を伝えたと言う。一年後に帰って来た使者は二反多く買ってきており、その訳を聴けば、使者は「ずっと以前の何月何日に店で逢った方が公の御命令だと言って、追加の二反を買わせましたので。」と答えたという中型爆弾程度の仰天エピソードである。この話(但し、「搜神記」では「沽酒家」(百人の役人が全員ぐでんぐでんに酔ってしまったというのだから、都城中の酒屋という酒屋総ての謂いであろう)で柴田の言う「宮中」ではない)の後は、而して操は、酒を妖術で全部奪い取ったこと知って怒り、危険人物として左慈を密か殺そうとして捕えんとした。ところが、彼はすっと壁の中に消えてしまい、町を捜索させれば、町中の人間がみんな左慈となってしまっていて見分けがつかないという始末。後に陽城山の辺りで彼を見かけたという情報を受け、捕縛に向かわせると、今度は左慈は羊の群れの中に逃げ込んでしまう。捕り手が「曹公は貴君を殺そうと思ってはおられません。ただ、貴君の術を試してみようというだけのお気持ちに過ぎません。今はもうそれもよぅく分りましたから、どうか、もう、ただただ、お目にかかりたいばかりで。」と下手に出て、油断させたところが、一疋の年取った牡羊が前脚を折り曲げ、人間のように立ち上がると、「今までは殺す気だったのをやめて、許すって、か?」と喋った。捕り手はすかさず、「あれが左慈だッツ!」と叫んで皆して競うようにその直立した牡羊のところへ走り寄ろうとしたところが、同時に数百の羊が、総て牡羊に変じて、同じように前脚を屈めながら、人のように後ろ足立ちし、それがまた同じように、「今までは殺す気だったのをやめて、許すって、か?」と声をそろえて喋った。そのために、結局、どれを捕縛すればよいか判らなくなってしまった、というメガトン級痛快エピソードでシメてある個人的にはこの羊のシークエンスが好きで好きでたまらないんである!。最後の評言は、老子の言葉をまず引く。「私が最も大きな患(わずら)いとしていることは、私に肉体があることである。私から肉体が無くなるに及べば、さても、私に何の憂いが残ろうものか。」。そうして、左慈もこのような境地に遠くない存在であったのではなかろうか、と締めくくっている(梗概には竹田晃氏訳の昭和三九(一九六四)年東洋文庫版「捜神記」を参考にした)。]

「今昔物語」の瓜の話はそれほど大規模なものではないが、多分「探神記」にある徐光の話から來てゐるのであらう。徐光は三國時代の呉に奄つて、種々の術を行つた者である。或家に瓜を乞うた時、主人が惜しんで與へなかつたので、それでは花を貰ひたいと云つた。地面に杖を立ててその花を植ゑたら、忽ち蔓が伸び、花開いて實を結ぶ。これを採つて自ら食ひ、見物人にも與へたことは「今昔物語」と同樣である。然る後商人がその瓜を採つて賣りに出たが、中身は全部空であつた。
[やぶちゃん注:以上は前の注で私が引いた「搜神記 第一卷」の左慈の話の後の三つ目にある徐光の逸話の前半部である。そこだけ引く。
   *
呉時有徐光者、嘗行術於市里。從人乞瓜、其主勿與、便從索瓣、杖地種之、俄而瓜生、蔓延、生花、成實、乃取食之、因賜觀者。鬻者反視所出賣、皆亡耗矣。
   *]

 この話が支那でも後になつて「聊齋志異」に入つた時は、瓜から梨に變つてゐた。卓に梨を積んで市に賣らうとする者に對し、道士が一顆を乞うたけれども、與へようとしない。道士は、一車數百顆のうちたゞ一顆を乞ふに過ぎぬのだと云ひ、傍人もまた小さいのを一つ遣つたらいゝぢやないか、と忠告したに拘らず、頑強に讓步せぬ。途に或者が錢を出して一箱を買ひ、それを道士に渡した。道士は大いに感謝の意を表し、吾々は決して物吝(をし)みはせぬ、これはあなたに上げませう、と云ふ。折角あるものを食べたらよからうと云つても、いや、私はこの種で梨を作り、それから澤山食べます、と云つて澄ましてゐる。種から芽を生じ、樹が茂つて實がなるまでの過程は、瓜の場合と變りがない。あるだけの實が衆人によつて食ひ盡されてしまふと、入念に樹を伐り倒し、枝葉の類を肩に据いで悠々と步み去つた。梨の持主も見物の中にまじつて、ぽかんとして道士の業(わざ)を見てゐたが、道士がゐなくなつてから車の上を見れば、あれだけ積んであつた梨が一つもない。そこに置いた手綱までがなくなつてゐる。憤然として迹を追はうとする時、ずたずたに切られた手綱が垣根の下に棄ててあるのが目に入つた。彼が入念に木を伐り倒すと見えたのは、この手綱を斷ち切つたのであつた。

 この話は徐光の話よりも「今昔物語」の方に似てゐる。梨の種を蒔く前にも、梨を食つてしまつた後にも、「今昔物語」にないものが加はつてゐるのは、あらゆる話が簡單より複雜に赴く一例と見てよからう。已に「搜神記」に徐光の話がある以上、「今昔物語」が逆輸入されて、「聊齋志異」の話になつたと解する必要もあるまいと思ふ。
[やぶちゃん注:「聊齋志異」のそれは「第一卷」の「種梨」。まず原文を示す。
   *

 種梨

 有郷人貨梨於市、頗甘芳、價騰貴。有道士破巾絮衣、丐於車前。郷人咄之、亦不去。郷人怒、加以叱罵。道士曰、「一車數百顆、老衲止丐其一、於居士亦無大損、何怒爲。」。觀者勸置劣者一枚令去、郷人執不肯。肆中傭保者、見喋聒不堪、遂出錢市一枚、付道士。道士拜謝、謂眾曰、「出家人不解吝惜。我有佳梨、請出供客。」。或曰、「既有之、何不自食。」。曰、「吾特需此核作種。」。於是掬梨大啗。且盡、把核於手、解肩上鑱、坎地深數寸、納之而覆以土。向市人索湯沃灌。好事者於臨路店索得沸瀋、道士接浸坎處。萬目攢視、見有勾萌出、漸大、俄成樹、枝葉扶疏;倏而花、倏而實、碩大芳馥、纍纍滿樹。道人乃即樹頭摘賜觀者、頃刻向盡。已、乃以鑱伐樹、丁丁良久、乃斷、帶葉荷肩頭、從容徐步而去。初、道士作法時、郷人亦雜眾中、引領注目、竟忘其業。道士既去、始顧車中、則梨已空矣。方悟適所俵散、皆己物也。又細視車上一靶亡、是新鑿斷者。心大憤恨。急跡之。轉過牆隅、則斷靶棄垣下、始知所伐梨本、即是物也。道士不知所在。一市粲然。
 異史氏曰、「郷人憒憒、憨狀可掬、其見笑於市人、有以哉。每見郷中稱素封者、良朋乞米則怫然、且計曰、『是數日之資也。』。或勸濟一危難、飯一煢獨、則又忿然計曰、『此十人、五人之食也。』。甚而父子兄弟、較盡錙銖。及至淫博迷心、則傾囊不吝、刀鋸臨頸、則贖命不遑。諸如此類、正不勝道、蠢爾郷人、又何足怪。」。
   *
次に例によって、遺愛の名訳柴田天馬氏のそれを示す。原文と天馬訳を見ると宵曲が説明を避けるために、論理的に翻案した箇所(瓜を貰った道士の台詞とその後)があることが判る。底本はいつもの通り、昭和五一(一九七六)年改版八版角川文庫版を用いた。注以下はポイント落ちで全体が二字下げである。
   *

 種梨(しゅり)

 郷(いなか)の人が梨を市で売っていた。たいそう甘くて芳(におい)がよかったから、たちまち値段が高くなった。すると破巾(やれずきん)、袈衣(やれぬのこ)の道士が、車の前に、もらいにきた。郷の人は叱ったが、道士は行かなかった。郷の人は怒って、ますますどなりつけた。すると道士は、
 「ひと車に数百顆(なんびゃく)とあるのじゃがな。老衲(ろうのう)は、その中の、たった一つをくださいというので、あんたにはたいした損でもないに、なぜ、そう怒りなさるのじゃ」
 と言った。見ている人たちが、劣者(わるいの)を一つやって行かせなさいと、すすめたけれど、郷(いなか)の人は聴かなかった。店の中にいた雇人は、やかましくて、たまらないので、とうとう銭を出して一つだけ買って道士にやった。すると道士は拝謝(おじぎ)をして、みんなに向かい、
 「出家人というものは、吝惜(けち)ということを知りませんのじゃ。わしに、よい梨がありますで、それを出して、お客さんがたに、あげたいと思いますじゃ」
 と言うので、ある人が、
 「あったら、なぜ自分で食わないんだ」
 と言うと、
 「わしは特に、この核をもらって、種にしようと思いましたからじゃ」
 と言って、梨を握って食ってしまい、その種を手に取ると、肩の鑱(すき)をおろして、地面を何寸か掘り、それを入れて土をかぶせ、市の人たちに向かって、かける湯をくれと言った。すると、好事者(ものずき)が路店買って熱い湯をもとめ、道士にやった。道士は、それを受けとって、掘った処を浸(ひた)た。みんなが見つめていると、勾(まが)った萠(め)が出て来る。だんだん大きくなる。にわかに樹となる。枝葉が茂る。たちまちにして花が咲く。たちまちにして実がなる。大きい芳馥(においのい)いのが、鈴なりに、なったのである。そこで道士は樹から摘みとり、見ている人たちに分けてやった。樹上の梨は、すぐになくなった。すると道士は鑱(すき)で樹を伐るのであったが、良久(しばらく)丁々(とんとん)やっているうちに、切れたので、葉のついたまま肩に荷い、静かに行ってしまった。
 初め、道士が法術をやりだした時、郷(いなか)の人も、やはり大ぜい中にまじって、首を長くして見入っていた。商売を忘れてしまっていたのである。道士が行ってしまってから車の中を見ると、梨は、もうなくなっていたので、いま俵散(わけてやっ)たのが、みんな自分の物であったのを、やっと悟ったのである。そして、よく見ると、車の靶(かじ)が一つ無くなっている。それは新たに切りとったものであった。たいそう、くやしがって、急いで迹をつけて行った。そして牆(へい)の隅(かど)を曲がると、切りとった靶が垣下(ねがた)に棄ててあった。で、道士の伐り倒した梨の木が、すなわち、これであったことを知った。道士の行くえはわからなかった。市じゅう粲然(おおわらい)をしたのである。

  注

一 衲は、ころも、のこと。それで僧のことを、衲子という。老衲は、年をとった僧という意。
二 詩の小雅に、伐木丁々、とある。丁々は、木を伐る音である。トウトウとよむ。
三 俵散とは、分ち与うることである、俵は、分つことで、たわらというのは、和訓である。
四 粲然とは、白歯を出して大笑することで、穀梁伝に「軍人みな粲然として笑う」とある。

   *
一つ、柴田宵曲の梗概訳で気になることがある。それは天馬氏が「靶(かじ)」と訳されている部分を宵曲は「手綱」(たづな)と訳している点である。「彼が入念に」梨の「木を伐り倒すと見えたの」が実はふにゃふにゃの手綱の繩だったというのは、おかしくはないだろうか? そこで調べてみると、この原文にある「靶」は、第一義が確かに牛や馬の引く車の「手綱」であるが、今一つ、そうした荷車・牛馬の牽引する車に乗る際に手を懸ける「握り」・「取っ手」・「柄」の意あったのである(因みに現代中国語では専ら、あの矢を射る同心円状の「的」の意)。そこで、はた! と私は膝を打ったのである。天馬氏の「かじ」というルビが腑に落ちたのである。これは、荷馬車の馭者台のような場所に乗り込む際に手を掛けるための「木製の取っ手」か、或いは手綱を引っ掛けておいて、それを引いて牛馬に進行や停止の合図を伝える「木製の棒状の楫(かじ)」なのではあるまいか? それなら小さくても「棒状でしっかりした木」であるからである。
 なお、「聊齋志異」の訳では辛気臭くてすこぶる人気がない、最後の作者蒲松齡の評言(天馬氏は思い切って一括割愛しておられる。事実、確かにだいたいが退屈な内容で、折角の志怪本文の面白さが殺がれる)は、
――まんまと騙された田舎者の愚かな様子が手にとるように見え、市中の人々に彼が笑われたのは当然と言うべきである。こうしたことはよく見かけることで、田舎の素封家と呼ばれる人が、朋輩から米を分けて呉れ頼まれると、渋面(しぶづら)をして、「これは、それ、○○日分にも相当する大事な糧(かて)だぞ!」と升(ます)でかっちり量っていやいや出すものである。或いは、災難に遇った人を援けるようにとか、貧しい者に飯を与えるように勧めると、やはり同じようにむっとして、「これは、これ、十人分、五人分に相当する大切な食物だぞ!」と升で量ってしぶしぶ出すものである。甚だしきは父や子や兄弟に対してですら、細かく算盤(そろばん)を弾きさえする。しかし、一たび、賭博や女色に溺れると、財布の底の塵まで払っても一向に平気なほどの浪費家になってしまい、そのために青龍刀や鋸を頸に当てられても命を贖う遑(いとま)もないほどに入れ込んでしまうのである。かくの如きの話の類いは、これもまた、数え上げるに、枚挙に遑がないほどに多く、この話も、かくも、ケチな田舎者の被ったことなればこそ、今さら、怪しむには足らぬことではないか。――
といった意味であろう。訳には所持する平凡社「中国古典文学大系」四十巻「聊斎志異 上」の松枝茂夫氏の訳を参考にしつつ、オリジナルに訳した。ここには漱石の「こゝろ」の「先生」のような田舎者に対する強い嫌悪感情が窺われ、作者の何かの私的な原体験に基づくトラウマがあるような感じがする点ではすこぶる興味深いとは言える。



16 Comments:

Blogger yoji said...

国家・企業・通貨―グローバリズムの不都合な未来―
岩村充/著
2020/02/19

https://www.amazon.co.jp/dp/4106038528/

FTPLとMMTは背反しない
岩村充はMMTを批判するがデフレ下の消費増税が供給能力を毀損していることをどう考えるのか?
ゲゼルマネーを好意的に紹介したこれまでの著書から後退しているのは
商品貨幣論の限界だろう

ちなみに岩村がMMT批判の枕として芥川龍之介経由で紹介した今昔物語の瓜売りの話の結語は
贈与の有効性を説いている

外術を以て瓜を盗み食はるる語 今昔物語集巻二十八第四十
https://japanese.hix05.com/Narrative/Konjaku/konjaku2/konjaku211.uri.html

《下衆共、瓜を惜しまずして、二つ三つにても翁に食はせたらましかば、
皆は取られざらまし。惜しみけるを翁も みて、此くもしたるなめり。》
(下衆どもが瓜を出し惜しみせず、二つ三つでも食わせてやったならば、
全部とられることもなかったであろうに。物惜しみしたお怪我で、こんな目にあったのだ。)

5:48 午後  
Blogger yoji said...

贈与の有効性は負債の有効性だ

5:49 午後  
Blogger yoji said...

田中貢太郎 種梨
https://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/1648_13207.html

種梨



 村に一人の男があって梨を市まちに売りに往ったが、すこぶる甘いうえに芳においもいいので貴たかい値で売れた。破れた頭巾をかむり、破れた綿入をきた一人の道士が有あって、その梨を積んでいる車の前へ来て、
「一つおくれ」
 と言った。村の男は、
「だめだよ」
 と言って叱ったが道士は動かなかった。村の男は怒って、
「この乞食坊主、とっとと往かないと、ひどい目に逢わすぞ」
 と言って罵った。
 すると道士は言った。
「この車には何百も積んであるじゃないか、わしがくれというのは、ただその中の一つだよ、一つ位くれたところで、あんたにそうたいした損はないじゃないか、なぜそんなに怒りなさる」
 側そばに立って見ていた人たちも道士に同情して、村の男に、
「一つわるいのをあげたらどうだ」
 と言ったが、村の男は頑として肯きかなかった。肆みせの中にいた奉公人がやかましくてたまらないので、とうとう銭を出して一つだけ買って道士にあたえた。道士はそれをいただいた後で側の人たちに向って言った。
「出家には、ものおしみをする人の心がどうしても解りません、わしに佳よい梨がある、それを出して、皆さんに御馳走をしよう」
 すると一人が言った。
「持ってるなら、それを食えばいいじゃないか」
 そこで道士が言った。
「わしが食わないのは、佳い梨だから、この核たねをとって種にしたいと思ってたからだよ」
 道士はそこで一つの梨をとって啗くってしまって、その核を手に把にぎり、肩にかけていた鋤すきをおろして、地べたを二三寸の深さに掘り、それを蒔まいて土をきせ、市の人たちに向って、
「これに灌かける湯がほしい」
 と言った。好事者ものずきが路ばたの店へ往って、沸きたった湯をもらってきて与えた。道士はそれを受けとって種を蒔いた所にかけた。皆がふしぎに思って見つめていると、そこから曲った芽が出てきて、しだいに大きくなり、やがて樹になり、枝葉が茂り、みるみる花が咲き、実になったが、その実は大きく芳がよく、それが累々として枝もたわわになったのであった。
 道士はそこでその梨を摘つまみとりながら、側に観ている人たちに与えたので、実はみるみるなくなってしまった。すると道士は鋤をもって樹を伐りはじめ、しばらく丁々とやっていたが、やがて断きれたので葉のついたままの樹を肩にしてしずかに往ってしまった。
 初め道士があやしい法術をおこないかけた時、村の男も皆の中に交って頸をながくして見ていたので、あきないに往くことも忘れていた。そして、道士が往ってしまったので、気がついてこれからあきないに往こうと思って、はじめて梨を積んであった車をふりかえった。車の中の梨は空になっていた。そこで村の男は道士が皆にわけてやったのは皆己おのれの物であったということを知った。また仔細に見ると車の手綱が一つ亡なくなっていた。それは新たに断りとったものであった。村の男は大いに恨み憤って急に道士の跡を追って往こうとした。牆かきの隅をまがるとき、断りとられた手綱が垣の下に棄ててあった。村の男ははじめて道士の伐り倒した梨の木が、即ちその手綱であったということを知った。そして道士の所在を尋ねたがわからなかった。そこで市の人たちは白い歯をだして笑いあった。




底本:「中国の怪談(二)」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年8月4日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
   1970(昭和45)年11月30日発行
入力:Hiroshi_O
校正:小林繁雄、門田裕志
2003年9月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



聊斎志異?

6:05 午後  
Blogger yoji said...


https://blog.goo.ne.jp/karamazosima/e/e6a591d550b24289a981b851aba72086

種梨(聊斎志異)

2020年3月22日
美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

 村に一人の男が有つて梨を市に売りに往つたが、頗る甘いうへに芳(にほひ)もいいので貴い値で売れた。破れた頭巾をかむり、破れた綿入をきた一人の道士が有つて、その梨を積んでゐる車の前へ来て、
「一つおくれ、」
 と云つた。村の男は、
「だめだよ、」
 と云つて叱つたが道士は動かなかつた。村の男は怒つて、
「この乞食坊主、とつとと往かないとひどい目に逢はすぞ、」
 と云つて罵つた。すると道士は云つた。
「この車には何百も積んであるぢやないか、わしがくれと云ふのは、ただその中の一つだよ、一つ位くれたところで、あんたにさうたいした損はないぢやないか、なぜそんなに怒りなさる、」
 側に立つて見てゐた人たちも道士に同情して、村の男に、
「一つわるいのをあげたらどうだ、」
 と云つたが、村の男は頑として肯かなかつた。肆(みせ)の中にゐた奉公人がやかましくてたまらないので、たうたう銭を出して一つだけ買つて道士にあたへた。道士はそれをいただいた後に側の人たちに向つて云つた。
「出家は、ものをしみをする人の心がどうしても解りません、わしに佳い梨が有る、それを出して、皆さんに御馳走をしよう、」
 すると一人が云つた。
「持つてるなら、それを食へばいいぢやないか、」
 そこで道士が云つた。
「わしが食はないのは、佳い梨だから、この核(たね)をとつて種にしたいと思つてたからだよ、」
道士はそこで一つの梨をとつて啗(く)つてしまつて、その核を手に把(にぎ)り、肩にかけてゐた鋤をおろして、地べたをニ三寸の深さに堀り、それを蒔いて土をきせ、市(まち)の人たちに向つて、
「これに灌(か)ける湯がほしい、」
 と云つた。好事者(ものずき)が路ばたの店へ往つて、沸きたつた湯をもらつて来て與へた。道士はそれを受けとつて種を蒔いた所にかけた。皆がふしぎに思つて見つめてゐると、そこから曲つた芽が出て来て、しだいに大きくなり、やがて樹になり、枝葉が茂り、みるみる花が咲き、実になつたが、その実は大きく芳がよく、それが累累として枝もたわわになつたのであつた。
 道士はそこでその梨を摘みとりながら、側に観てゐる人たちに與へたので、実はみるみる無くなつてしまつた。すると道士は鋤を以て樹を伐りはじめ、しばらく丁丁とやつてゐたが、やがて断られたので葉のついたままの樹を肩にしてしづかに往つてしまつた。
 初め道士があやしい法術をおこなひかけた時、村の男も皆の中に交つて領(くび)をながくして見てゐたので、あきなひに往くことも忘れてゐた。そして、道士が往つてしまつたので、気がついてこれからあきなひに往かうと思つて、始めて梨を積んであつた車をふりかへつた。車の中の梨は空になつてゐた。そこで村の男は道士が皆にわけてやつたのは皆己の物であつたといふことを知つた。又仔細に見ると車の手綱が一つ亡くなつてゐた。それは新に断りとつたものであつた。村の男は大に恨み憤つて急に道士の跡を追つて往かうとした。牆(かきね)の隅をまがる時、断りとられた手綱が垣の下に棄ててあつた。村の男は始めて道士の伐り倒した梨の木が、即ちその手綱であつたといふことを知つた。そして道士の所在を尋ねたがわからなかつた。そこで市の人たちは白い歯をだして笑ひあつた。

(「聊齋志異」 蒲松齢 田中貢太郎訳)


ラスト贈与推奨は日本の今昔物語のみ

6:06 午後  
Blogger yoji said...


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12135233012

蒲松齢の種梨の文です。現代語訳お願いします 郷人の梨を市に貨ぐ有り。頗る甘芳...

蒲松齢の種梨の文です。現代語訳お願いします
郷人の梨を市に貨ぐ有り。頗る甘芳にして、価騰貴す。道士の破巾絮衣にして、車前に丐ふ。郷人之れを咄るも、亦去らず。郷人怒りて、加ふるに叱罵を以てす。

道士曰く、「一車に数百顆、老衲止だ其の一を丐ふのみ、居士に於いても亦大損無し。何ぞ怒るを為さん。」と。観る者劣る者一枚を置きて去らしむるを勧むるも、郷人執して肯ぜず。
肆中の傭保せらるる者、喋聒堪えざるを、遂に銭を出だし一枚を市ひ、道士に付す。道士拝謝し、衆に謂ひて曰く、「出家の人吝惜を解せず。我に佳き梨有り、請ふ出だして客に供せん。」と。或る人曰く、「既に之有り、何ぞ自ら食らはざる。」と。曰く、「吾は特だ此の核を需めて種うるを作さんとするのみ。」と。是に於いて梨を掬りて大いに啗らふ。且に尽きんとするに核を手に把り、肩の上の鑱を解き、地を坎ること深さ数寸、之を納れて覆うに土を以てす。市人に向かひて湯の沃灌するを索む。事を好む者臨路の店に於いて索めて沸瀋を得たり。道士接りて坎処を浸す。万目攢視するに、勾萌の出づる。漸く大び、俄かに樹と成り、枝葉扶疎たり。倏にして花さき、倏にして実り、碩大芳馥累累として樹に満つ。道人乃ち即ちに樹頭より摘りて観る者に賜ふ。頃刻にして尽く。已はりて、乃ち鑱を以て樹を伐る。丁丁たること良久しくして、乃ち断つ。帯葉肩頭に荷ひ、従容として徐ろに歩みて去る。
初め道士法を作す時、郷人も亦衆中に雑りて、領を引きて、注目し、竟に其の業を忘る。道士既に去り、始めて車中を顧みれば、則ち梨すでに空たり。方めて適に俵散せし所は皆己の物なるを悟るなり。又細かに車上を視れば一靶亡く、是れ新たに鑿断せし者なり。心大いに憤恨し、急ぎ之を迹ふ。転じて牆隅を過ぐれば、乃ち断靶垣下に棄てらる。始めて伐る所の梨の本は即ち是の物なるを知る。道士在る所を知らず。一市燦然たり。

6:07 午後  
Blogger yoji said...

芥川妖婆274ページ
文藝雑話 饒舌

6:08 午後  
Blogger yoji said...


https://ameblo.jp/muroitakashi/entry-11465978219.html

「芥川龍之介『藪の中』と、今昔物語集 (2)」 (カンダタ)

むろいたかし2013-02-08
今昔物語集・巻第29の23 『妻を具して丹波国に行きたる男、大江山に於いて縛られし話』


 今は昔、京にいた男で、妻は丹波国の者がいた。男が、その妻を連れて、丹波の国に行くとき、妻を馬に乗せて、夫は竹箙(たけえびら)に、矢を十ばかり入れて背負って、弓を持って、馬の後ろに立って歩いていった。



 そのとき、大江山の辺りに、立派な太刀を帯刀した若い男で、屈強そうな者と出会って、同じ道中を歩いた。



 さて、いっしょに歩いて行くときに、お互いに身の上話などをして、「あなたは、どこへ行くのですか?」など話しながら、歩いていった。



 太刀を帯刀した男が、「自分が帯刀している太刀は、陸奥の国から伝来した名高い太刀です。ちょっと見てください」といって抜いて見せたところ、非常に立派な太刀であった。

 

 妻と同行している男は、これを見て欲しくて仕方がなくなった。

 

 太刀を持っている男は、その顔色を見て、「この太刀が欲しかったら、あなたが持っている弓と交換しましょう」と言った。



 弓を持っている男は、「私が持っている弓はたいした物ではない、その太刀は本当に立派な太刀で、ちょうど太刀が欲しかったところだから、本当にいいタイミングで手に入れることができる」と喜んで、二つ返事で交換した。



 さて、同行の途中、太刀を譲った男が、

 「私が、弓だけもっているのは、見た目が悪い。山を越える間、矢を二本貸してください。あなたも、どうせ私といっしょにしばらく歩くのだから、結局、同じことでしょう」と言った。



 太刀をもらった男は、もっともなことだと思い、立派な太刀と、たいした価値のない弓を交換できたことが嬉しくて仕方なかったので、言われた通りに、矢を二本抜いて、太刀を譲ってくれた男に渡した。



 すると、その男は、弓を持って矢を二本手に持って、後ろをついていった。

太刀をもらった男は、矢が入った竹箙(たけえびら)を背負って、太刀を帯刀しながら歩いた。



 その間、昼食を食べようと、藪の中に入って行くと、太刀をもらった男は「人前で食事をするのは見苦しいので、もう少し奥に行こう」と行ったので、奥へと入って行った。



 さて、太刀をもらった男が、妻を馬から抱き下ろしたりする間に、太刀を譲った男は、突然、矢を弓にあてて、太刀をもらった男に対して、弓を強く引いた。



 「お前、もし動けばこの矢で打ち殺すぞ」と言ったので、太刀をもらった男は、想定外の出来事に、茫然自失して、ただ立ち尽くすだけであった。



 そのとき、「山の奥に、さらにどんどん入って行け」とおどしたので、命の惜しさに、妻といっしょに七八町ほど山のさらに奥へと入って行った。



 さて、「お前が持っている太刀を投げ捨てなさい」と強い口調で言われたのでと、すべて投げ捨てた。

 弓を持っている男は、それをかき集めて、太刀を投げ捨てた男をうつぶせにし、馬の指縄(さしなわ)で、木に強く縛り付けた。

 

 そして、その妻に寄って来て、よく見ると、年齢が二十あまりで、身分は低いが、愛くるしく大変清々しかった。

 男は、彼女の美しさに魅かれ、他のことは一切忘れてしまって、女の衣を脱がした。

 女は抵抗する様子もなく、言われるがままに自分から衣を脱いだ。

 そして、男も着物をぬいで、女を倒し二人は臥した。

 女は、何も言わず、男の言うがままであった。



 木に縛りつけられた男は、この様子をどんな気持ちで見ていたのだろうか?



 その後、太刀をゆずった男は起き上がって、服を元のように着た。そして竹箙(たけえびら)を背負って、太刀を奪い返して帯刀して、弓をもって、女が乗っていた馬に乗った。



 彼は女に「あなたのことが、とても愛しいが、もうここにいるわけにはいかないので、私は去る。夫のことは赦して、決して殺してはいけないぞ。この馬は、この場所からすばやく去るために乗って行く」と行って、あわてて立ち去っていった。

 その男がどこに行ったのかは、わからない。



 その後、女は夫に寄って、縄を解き解放した。



 夫は、茫然自失とした表情だったので、妻は「あなたをどう慰めようと慰めきれません。今日からもずっと、こんな状態では、安定はたもてないでしょう」と言った。



 夫は何も言うことができず、それからいっしょに丹波に行った。



 馬で去って行った男の心は奥ゆかしい。

 夫婦の着物は残していったのだから。



 一方、夫の方の心は、弱々しい。

 危険な山道で、初めて遇った男に、弓矢を渡してしまったことは、大変おろかなことだ。



 馬で去った男が、どうなったのかは、結局誰も知らない。

むろいたかしのブログ

『大江山(京都府北部・天の橋立近く)』

*****

 以上の「今昔物語集」の三話をモデルにした、芥川龍之介の『藪の中』を、これ以降掲載します。

 途中、映画『羅生門』のシーンを入れて行きます。

 『藪の中』は難解とされますが、同じ事件でも、見る人によって全く解釈が異なること、人間は自分に都合のいいように言い訳をする、ということが書かれています。

 ただ、こういう執着の強い人間観は、ちょっと寂しいです。

 芥川は『藪の中』以外にも、さまざまな作品を書いているのですが、彼は、なんで鎌倉以前の王朝・説話文学に向かってしまったのか不思議です。

 当時の文壇では、文学は『ストーリーか、人間の本質を書くべきか』という議論がなされていたようで、芥川は後者の側にいて、文壇から浮いていたいたようです。

 芥川のいう《人間の本質》って、19世紀以降に欧米で流行した《実存主義》の影響がとてもつよい。

 《実存主義》は、社会の分業化で失われて行く《自己》を回復する思想ですが、つきつめると泥沼にはまる(失われていく《自己》を回復する作業は、執着心のかたまりになるから)。

 なんで芥川は、室町・戦国の頃の時代に向かわずに、鎌倉以前に行ってしまったのか。

 芥川の作風はその後、《私小説》に向かっていって、《社会》に《自分》をさらけ出していくのですが、なぜ逆に行かなかったのだろう?

 というわけで、古文の勉強がてら、芥川(羅生門、鼻・・・など)と向き合って、今を考えようと思っていたのですが、今回の『藪の中』だけで、当面は保留していくつもりです。

 これは、黒澤監督の『羅生門』でも、同じ印象を持ちました。

 

6:29 午後  
Blogger yoji said...

巻29第23話 具妻行丹波国男於大江山被縛語 第廿三 [やたがらすナビ]
https://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku29-23

巻29第23話 具妻行丹波国男於大江山被縛語 第廿三

今昔、京に有ける男の、妻は丹波の国の者にて有ければ、男、其の妻を具して丹波の国へ行けるに、妻をば馬に乗せて、夫は竹蚕簿(えびら)箭十許差たるを掻負て、弓打持て、後に立て行ける程に、大江山の辺に、若き男の大刀許を帯(はき)たるが糸強気なる、行き烈ぬ。

然れば、相具して行くに、互に物語などして、「主は何(いづこ)へぞ」など、語ひ行く程に、此の今行烈たる大刀帯たる男の云く、「己が此の帯たる大刀は、陸奥の国より伝へ得たる高名の大刀也。此れ見給へ」とて、抜て見すれば、実に微妙き大刀にて有り。本の男、此れを見て、欲(ほし)き事限無し。今の男、其の気色を見て、「此の大刀、要に御せば、其の持給へる弓に替へられよ」と云ければ、此の弓持たる男、持たる弓は然までの物にも非ず、彼の大刀は実に吉き大刀にて有ければ、大刀の欲かりけるに合せて、「極たる所得してむず」と思て、左右無く差替てけり。

然て、行く程に、此の今の男の云く、「己が弓の限り持たるに、人目も可咲し。山の間、其の箭二筋借されよ。其の御為も、此く御共に行けば、同事には非ずや」と。本の男、此れを聞くに、「現に」と思ふに合せて、吉き大刀を弊(わろ)き弓に替つるが喜さに、云ままに箭二筋を抜て取せつ。然れば、弓持て、箭二筋を手箭に持て、後りに立て行く。本の男は、竹蚕簿の限を掻負て、大刀引帯てぞ行ける。

而る間、「昼の養せむ」とて、薮の中に入るを、今の男、「人近には見苦し。今少し入てこそ」と云ければ、深く入にけり。然て、女を馬より抱き下しなど為る程に、此の弓持の男、俄に弓に箭番て、本の男に差宛て、強く引て、「己れ動(はたら)かば射殺してむ」と云へば、本の男、更に此れは思懸ざりつる程に、此くすれば、物も思えで只向ひ居たり。其の時に、「山の奥へ罷入れ、入れ」と恐せば、命の惜きままに、妻をも具して、七八町許山の奥へ入ぬ。然て、「大刀・刀投よ」と、制命(いさめおほ)すれば、皆投て居るを、寄て取て打伏せて、馬の指縄を以て木に強く縛り付けてつ。

然て、女の許に寄来て見るに、年廿余許の女の、下衆なれども愛敬付て、糸清気也。男、此れを見るに、心移にければ、更に他の事も思えで、女の衣を解けば、女、辞得べき様無ければ、云ふに随て衣を解つ。男も着物を脱て、女を掻臥せて、二人臥ぬ。女、云ふ甲斐無く男の云ふに随て、本の男縛付けられて見けむに、何許思けむ。

其の後、男、起上て、本の如く物打着て、竹蚕簿掻負て、大刀を取て引き帯て、弓打持て、其の馬に這乗て、女に云く、「糸惜とは思へども、為べき様無き事なれば去ぬる也。亦、其れに男をば免して殺さずなりぬるぞ。馬をば疾く逃なむが為に、乗て行ぬるぞ」と云て、馳散じて行にければ、行にけむ方を知らざりけり。

其の後、女、寄て、男をば解免してければ、男、我れにも非ぬ顔つきして有ければ、女、「汝が心云ふ甲斐無し。今日より後も、此の心にては、更に墓々しき事有らじ」と云ければ、夫、更に云ふ事無くして、其よりなむ、具して丹波に行にける。

今の男の心、糸恥かし。男、女の着物を奪取らざりける。本の男の心、糸墓無し。山中にて人目も知らぬ男に、弓箭を取せけむ事、実に愚也。其の男、遂に聞えで止にけりとなむ、語り伝へたるとや。

6:33 午後  
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47) 具妻行丹波国男於大江山被縛

答他伊奈2012年02月18日
今昔物語集からです。



具妻行丹波国男於大江山被縛

(めをぐしてたんばのくににゆくをとこおほえやま

                 にしてしばらるる)



妻を馬に乗せて丹波国に出かけた男が大江山の

辺で道連れになった若い男に気をゆるし、欲にか

られて弓矢と太刀を交換したばかりに、道連れの

若い男に弓矢で脅され木にしばられました。

妻は若い男に着物を脱がされ、夫の眼の前で強

姦されたのです。若い男は馬を奪って逃走しました。

妻は夫の縄をほどきながら「なんとだらしない人で

しょ。これから先も良い事はないでしょう」夫は返す

言葉もなく、妻を連れて丹波に向かいました。



芥川龍之介が「藪の中」という小説を書いています。

それの元の話です。

6:34 午後  
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参考文献
(1)蒲松齢 立間祥介編訳[2002a]「聊斎志異〈上〉 」岩波文庫、
◆冥界の登用試験―考城隍◆耳の中の小人―耳中人◆宿屋の怪―尸変◆妖婆―噴水◆壁画の天女―画壁◆義侠の亡者―王六郎◆桃盗人―偸桃◆道士と梨の木―種梨◆仙術修行―労山道士◆狐の嫁入り―狐嫁女◆美女と丸薬―嬌娜◆犬神―野狗◆怨念の受験―葉生◆消えた花婿―新郎◆亡者の金儲け―王蘭◆こそ泥と鷹匠神―鷹虎神◆拾った釵―王成◆青鳳という女―青鳳◆化けの皮―画皮◆女妖と二人の男―董生◆美女の首―陸判◆笑う娘―嬰寧◆蘇った美女―聶小倩◆大地震―地震◆冥土行きの車―耿十八◆侠女―侠女◆飲み仲間―酒友◆二人妻―蓮香◆癡の一念―阿宝◆老狐の復讐―九山王◆狐の告
(2)蒲松齢 立間祥介編訳[2003]「聊斎志異〈下〉 」岩波文庫
◆狐妻の苦心―辛十四娘◆夜毎の美女―双灯◆狐の子―鴉頭◆酒の精―酒虫◆木彫りの美人―木彫美人◆狐の仲人―封三娘◆麝香の香り―花姑子◆竜王の娘―西湖主◆冥土の殺人―伍秋月◆緑衣の人―緑衣女◆悍婦―馬介甫◆可憐な幽鬼たち―小謝◆悍婦―(その二)―江城◆すっぽん大王―八大王◆仙女―青蛾◆月下老人―柳生◆甄夫人と劉〓@53ED―甄后◆二人の阿繍―阿繍◆玉帝の娘―小翠◆月宮の人―嫦娥◆盗人という戸籍―盗戸◆金持ち狐―醜狐◆愛奴の死-愛奴◆賢妻と狐妻―張鴻漸◆天上の宮―天宮◆冥土の冤罪訴訟―席方平◆底なしの米倉―阿繊◆痣の下の美玉―瑞雲◆地中の世界
(3)宮崎市定[1963]「科挙-中国の試験地獄」中公新書

6:44 午後  
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8:07 午後  
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E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B+1919+5+%E9%A5%92%E8%88%8C&u=yab.o.oo7.jp%2Fjyouzetu.html



やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

文藝雜話 饒 舌   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年五月発行の『新小説』に掲載された。芥川龍之介には「饒舌」と題する小説があるが(大正七年一月『時事新報』)、全くの別物で、現在、ネット上には、この「文藝雜話 饒舌」の方の電子テクストはない。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、読みの振れるもの及び若い読者に難字と思われるもののみのパラルビとした。なお、表題の「文藝雜話」は、底本では「饒舌」の上にポイント落ちで割注風に左右に「文藝」「雜話」とある。繰り返し記号「〱」は正字に直した。これは私が見落としていた一種のアフォリズム集であり、また、勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊の「芥川龍之介作品事典」の坂本昌樹氏の解説によれば、『芥川の怪異譚に関する知識と関心のなみなみならぬ深さを示す随筆として興味深』く、芥川龍之介の怪異蒐集記録である「椒圖志異」(リンク先は私の電子テクスト)『との内容的な関連においても注目される随筆である。この随筆に特徴的な神秘談や怪異譚への強い関心は、芥川の多彩な創作活動の一つの淵源となっていた』と評されておられる。私の趣向から言っても、これはテクスト化せずんばならぬ作品である。注釈を附す予定であったが、これは附けだすと思いの外、膨大になることが予想されるので、今回はまずは本文公開とする。【二〇一二年九月二四日 藪野直史】]

文藝雜話 饒 舌

         *

 ハイネによると獨逸の幽靈は、佛蘭西の幽靈より不幸だとあるが、日本と支那の幽靈の間にも大分懸隔がある。第一日本の幽靈は非社交的で、あんまり近づきになつても愉快でない。精々凄い所が身上しんじやうだから、御岩稻荷にしも、敬遠されるのが關の山である。所が支那の幽靈になると、教育があつて、義理人情が厚くつて、生人せいじんよりは餘程始末が好いい。噓だと思つたら、一部の聊齋志略れうさいしりやくを讀んで見るがいゝ。何百かの長篇短札たんさつの中には、隨所にさう云ふ幽靈が出て來る。女鬼によきした所で、泉鏡花氏の女主人公が支那服を着たやうなのだつて稀ではない。

         *

 日本の怪談を材料にした作品では、雨月が名高いが、どうも文品ぶんぴんが稍賤しいやうな心もちがする。丁度肅白しようはくの畫ゑにあるやうな、惡く奇峭きしやうがつた所が氣になつて仕方がないが、秋成しうせいでも春雨物語になると、到底凡手ぼんしゆには書けない所がある。殊に「血かたびら」や「海賊」は、短篇としてどこへ出しても恥しくはない。文章は簡勁かんけいで、如何にも蒼古さうこの趣がある。さうさう、谷崎潤一郎君は、頭の惡い時に海賊を讀んだら、返て氣分がはつきりしたと云つてゐたつけ。

         *

 あゝ云ふ話を集めたのでは、古いもので、僕には今昔が一番面白い。文章も素朴でしつかりしてゐる。僕なんぞは新刊の英譯大陸小説よりあれを讀む方が爲になる所も餘程多い。
 前に云つた聊齋はたしか乾隆の中葉頃に出來たものだから、今昔に比べると餘程新しい。所が今昔と聊齋と、よく似た話が兩方に出てゐる。たとへば聊齋の種梨しゆりの話は大體の段どりから云つて、今昔の本朝第十八卷にある以外術破盜食瓜語げじゆつをもつてうりをぬすみくはるるものがたりと云ふ話と更に變りがない。梨と瓜とを取換へれば、殆ど全く同じである。かう云ふのは日本の話が支那へ輸入されたのであらうか。
 が、これなぞはどうも話の性質が支那じみてゐる。するとこの話のプロトタイプが始はじめ支那にあつて、それが先に日本に輸入されたのであらうか、暇があつたら誰たれか考證して見るのも面白からうと思ふ。序ついでに云ふが、聊齋の鳳陽士人ほうやうしじんと云ふ話も、今昔の本朝第二十一卷常澄安永於不破關夢見京妻語つねづみやすながふわのせきにてけうにあるのつまをゆめみしものがたりと云ふ話とよく似てゐる。
[やぶちゃん字注:「不破」の「ふわ」のルビはママ。]

         *

 もう一つ序に云ふが、聊齋の諸城某甲しよじやうのぼうかふと云ふ話には、戰たゝかひで頭に創きずを負つた男が、後で笑ひすぎて頭を落した事が書いてある。それと同じやうな思ひつきは、西洋人にもあつたと見えて、アプレイウスの一番始めか何かにも魔女に首を斬られた男が、あくる日泉を飮まうとして、首を落してしまふ所があつた。但し「首を落す話」は聊齋の話が材料になつてゐる。

         *

 支那の話を譯したのでは明治になつてからも、依田學海よだがくかい氏や小金井きみ子女史があつた。ずつと遲れて、支那奇怪集の著者がゐるが、これは同一人でないと見えて、同じ本の中にも、話によつて大分出來不出來がある。讀んで面白いのでは、泉鏡花氏の「櫻草さくらさう」の中にあるのに及ぶものはない。「奇情雅趣」の中の話を譯したのなぞは殊巧しゆかうだつたやうな記憶がある。

         *

 支那の本を譯すのに、全部國文にしてしまつた程莫迦げた事はない。(同じ漢字を使つてゐると云ふが少しも利用されないのだから)最近に出た和詳の西廂記せいしやうきなぞが原作の俤おもかげを少しも傳へてゐないのも、七五調か何かの國文に譯した爲である。「風簾間ふうれんかんに靜じやうにして紗窓しやそうに透とうり蘭麝らんじゃの香散かうさんず。朱扉しゆひを啓ひらいて雙環さうくわんを搖響えいきやうすれば、絳臺高かうだいたかし。金荷小きんかせうにして銀紅猶燦ぎんこういうさんたり。暖帳だんちやうを輕彈けいだんするに及およぶ頃ころ、先まづこの梅紅羅ばいこうらの軟簾なんれんを掲起けいきす」と云ふやうな所を、「風かぜは簾すだれにかよひ來きて」とか何とかやつたのでは、到底原作の美しさが現されるものではない。
 尤も七むづかしい割に、大して面白いとも思はない雜劇の事だから、格別原作の肩を持つ必要もないが、序だから引き合ひに出した。

         *

 兎に角、支那の幽靈は概して可愛かあいいが、縊鬼いきと云ふ奴には、餘り同情がない。これは人を唆そゝのかして首を縊くゝらせるのだから、危險である。殊にいつか拍案驚異記ひやうあんきやういきと云ふ俗書を讀んだら、これが動物になつてゐた。なつてゐたと云ふのは、縊鬼が化けたと云ふのではない、縊鬼と云ふ奴が元來動物だと云ふのである。何でも毛むくぢやらな、小さな人間みたいなものだと云ふから、イワンの莫迦の中の小惡魔こあくまだと思へば間違ひはない。さうなつては、愈いよいよ共に伍するのは不愉快である。

         *

 動物と云へば狐のやうな變化自在な先生も好いが、夜譚隨錄の※1※2と云ふ奴が、もしどこにでもゐたら、甚重寶である。「通體烏黑無頭無面無手足つうたいうこくむめんむしゆそく、唯ただ二目雪白もくせつぱく、一嘴尖長烏喙しせんちやううかいの如ごとし。」それでゐて、酒屋へ使ひに行つたりなんかする。勿論怪獸だから、瓶びんと錢ぜにさへ持たせてやれば、夜中でも何でも、戸の閉つてゐる酒屋へはいつて、錢だけ置いて酒を持つて來る。尤も桝目ますめはどうするのだかわからないが、格別勘定に合はない酒を持つて來る事なんぞはないらしい。
[やぶちゃん字注:「※1」=「衤」+「能」。「※2」=「衤」+「戴」。]

         *

 こいつは便利だが、莊子以來有名な鵬ほうは大きい丈に大害をする。一度空をとびながら、糞をしたら一村悉くこの糞に埋れてしまつたと云う。尤も後で糞の中を、村中總出で掘ぢくり返したら、鵬の食つた海老や鯛が、まだぴんぴんしてゐたと云ふから、損にはならないかも知れない。併しかしアラビアのロツク鳥に此べると、甚不行儀な譯わけである。

         *

8:07 午後  
Blogger yoji said...

い時に海賊を讀んだら、返て氣分がはつきりしたと云つてゐたつけ。

         *

 あゝ云ふ話を集めたのでは、古いもので、僕には今昔が一番面白い。文章も素朴でしつかりしてゐる。僕なんぞは新刊の英譯大陸小説よりあれを讀む方が爲になる所も餘程多い。
 前に云つた聊齋はたしか乾隆の中葉頃に出來たものだから、今昔に比べると餘程新しい。所が今昔と聊齋と、よく似た話が兩方に出てゐる。たとへば聊齋の種梨しゆりの話は大體の段どりから云つて、今昔の本朝第十八卷にある以外術破盜食瓜語げじゆつをもつてうりをぬすみくはるるものがたりと云ふ話と更に變りがない。梨と瓜とを取換へれば、殆ど全く同じである。かう云ふのは日本の話が支那へ輸入されたのであらうか。
 が、これなぞはどうも話の性質が支那じみてゐる。するとこの話のプロトタイプが始はじめ支那にあつて、それが先に日本に輸入されたのであらうか、暇があつたら誰たれか考證して見るのも面白からうと思ふ。序ついでに云ふが、聊齋の鳳陽士人ほうやうしじんと云ふ話も、今昔の本朝第二十一卷常澄安永於不破關夢見京妻語つねづみやすながふわのせきにてけうにあるのつまをゆめみしものがたりと云ふ話とよく似てゐる。
[やぶちゃん字注:「不破」の「ふわ」のルビはママ。]

         *

 もう一つ序に云ふが、聊齋の諸城某甲しよじやうのぼうかふと云ふ話には、戰たゝかひで頭に創きずを負つた男が、後で笑ひすぎて頭を落した事が書いてある。それと同じやうな思ひつきは、西洋人にもあつたと見えて、アプレイウスの一番始めか何かにも魔女に首を斬られた男が、あくる日泉を飮まうとして、首を落してしまふ所があつた。但し「首を落す話」は聊齋の話が材料になつてゐる。

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 支那の話を譯したのでは明治になつてからも、依田學海よだがくかい氏や小金井きみ子女史があつた。ずつと遲れて、支那奇怪集の著者がゐるが、これは同一人でないと見えて、同じ本の中にも、話によつて大分出來不出來がある。讀んで面白いのでは、泉鏡花氏の「櫻草さくらさう」の中にあるのに及ぶものはない。「奇情雅趣」の中の話を譯したのなぞは殊巧しゆかうだつたやうな記憶がある。

         *

 支那の本を譯すのに、全部國文にしてしまつた程莫迦げた事はない。(同じ漢字を使つてゐると云ふが少しも利用されないのだから)最近に出た和詳の西廂記せいしやうきなぞが原作の俤おもかげを少しも傳へてゐないのも、七五調か何かの國文に譯した爲である。「風簾間ふうれんかんに靜じやうにして紗窓しやそうに透とうり蘭麝らんじゃの香散かうさんず。朱扉しゆひを啓ひらいて雙環さうくわんを搖響えいきやうすれば、絳臺高かうだいたかし。金荷小きんかせうにして銀紅猶燦ぎんこういうさんたり。暖帳だんちやうを輕彈けいだんするに及およぶ頃ころ、先まづこの梅紅羅ばいこうらの軟簾なんれんを掲起けいきす」と云ふやうな所を、「風かぜは簾すだれにかよひ來きて」とか何とかやつたのでは、到底原作の美しさが現されるものではない。
 尤も七むづかしい割に、大して面白いとも思はない雜劇の事だから、格別原作の肩を持つ必要もないが、序だから引き合ひに出した。

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 兎に角、支那の幽靈は概して可愛かあいいが、縊鬼いきと云ふ奴には、餘り同情がない。これは人を唆そゝのかして首を縊くゝらせるのだから、危險である。殊にいつか拍案驚異記ひやうあんきやういきと云ふ俗書を讀んだら、これが動物になつてゐた。なつてゐたと云ふのは、縊鬼が化けたと云ふのではない、縊鬼と云ふ奴が元來動物だと云ふのである。何でも毛むくぢやらな、小さな人間みたいなものだと云ふから、イワンの莫迦の中の小惡魔こあくまだと思へば間違ひはない。さうなつては、愈いよいよ共に伍するのは不愉快である。

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 動物と云へば狐のやうな變化自在な先生も好いが、夜譚隨錄の※1※2と云ふ奴が、もしどこにでもゐたら、甚重寶である。「通體烏黑無頭無面無手足つうたいうこくむめんむしゆそく、唯ただ二目雪白もくせつぱく、一嘴尖長烏喙しせんちやううかいの如ごとし。」それでゐて、酒屋へ使ひに行つたりなんかする。勿論怪獸だから、瓶びんと錢ぜにさへ持たせてやれば、夜中でも何でも、戸の閉つてゐる酒屋へはいつて、錢だけ置いて酒を持つて來る。尤も桝目ますめはどうするのだかわからないが、格別勘定に合はない酒を持つて來る事なんぞはないらしい。
[やぶちゃん字注:「※1」=「衤」+「能」。「※2」=「衤」+「戴」。]

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 こいつは便利だが、莊子以來有名な鵬ほうは大きい丈に大害をする。一度空をとびながら、糞をしたら一村悉くこの糞に埋れてしまつたと云う。尤も後で糞の中を、村中總出で掘ぢくり返したら、鵬の食つた海老や鯛が、まだぴんぴんしてゐたと云ふから、損にはならないかも知れない。併しかしアラビアのロツク鳥に此べると、甚不行儀な譯わけである。

         *

 右の鵬糞ほうふんの話は袁隨園だが、趙甌北てうぐわぼくの通臂猿つうぴゑんも、とぼけてゐる點では出色である。これは腕が衣紋竹えもんだけのやうに、右へも左へも二倍だけに延びる猿で、その代かはり一方が延びてゐる時は、一方は手頸が肩の所へ來てしまふ。手長猿か何かを誰かが見間違へたものだらう。水滸傳にこの猿の名を渾名にした侯健こうけんと云ふ仕立屋の親方のある事は誰たれでも知つてゐる。何かに蠻僧ばんそうの腕が、此通常猿のやうに延びたり縮んだりしたのがあつたと思ふが、本の名は覺えてゐない。
[やぶちゃん字注:「趙甌北てうぐわぼく」のルビはママ。これは正しくは「てうおうほく(ちょうおうほく)」である。]

         *

 動物と云へば、思ひ出す事がある。小學校の時に先生が紙を一枚づつくれて、それに「可愛いひもの」「綺麗なもの」とを書いて出せと云ふから、前項の下に象と書き、後項の下に蜘蛛と書いた。象の可愛いひものは同感の士も多いだらうが、蜘蛛も當時女郎蜘蛛の大きいのを見て、心から綺麗だと思つたのだから仕方がない。所が象は大きくつて可愛くないし、蜘蛛は毒々しいから綺麗とは云へないとか反かへつて先生に小言を云はれた。その先生がもし今でも生きてゐたら、文藝批評家になればいゝにと思つてゐる。

         *

 小説もその頃始めて書いた。勿論小説も凄すさまじいがロビンソンクルウソオか何かの模傚もほうで、無人島へ流れついたり、大蛇を射殺したりする甚はなはだ勇壯活潑な冐險談である。長さは半紙十枚位くらいだつたかと思ふ。口繪にはその無人島の地圖を、赤インキと靑インキとで、刻銘に描かいたのが挾んである。これが尋常の何年かで、高等一年――今の尋常五年頃には、友だちと一しよに囘覧雜誌を拵へて、春日散策だとか中秋觀月だとか云ふ作文を、毎號五六篇づつ掲載した。大彦おほひこの若主人なんぞもその頃は同級で、舟は出て行く煙は殘るとか何とか、都々逸どゞいつで始まる小説を大眞面目で書いてゐたものである。事によると德富蘆花氏の小説なんぞを讀み出したのも、その時分の話だつたかも知れない。
[やぶちゃん字注:「模傚」の「傚」はママ。]

         *

 すべて立志談を讀むと、どうも主人公には貧乏人の息子が多い。夜よる本を讀みたくも油がなかつたとか親が養へないので毎朝納豆を賣つたとか、そんな類るゐの事ばかりである。そこでその時分には、妙に兩親がもつと貧乏してくれればいいにと思つた。と同時に自分も草鞋わらじを作つたり、薪たきゞを樵きつたりして、立志傳の眞似がしたかつた。それが大人になつて互に話し合つて見ると、かう云ふ事を考へたのは、何も僕ばかりではないらしい。どうも小供の時は、誰でも皆ロマンテイケルなのだらうと思ふ。

         *

 そのロマンテイシズムが高じた結果、ガアフヰルドが小供の時に、卵を殼ごと食つたと書いてあるのを讀んで、ちよいとその眞似をした事がある。それから友だちと二人で、學校の窓掛まどかけを破つた時に、一人でその罪を背負つて出た事がある。と云ふと立派だが、先生の前へ出て、「先生。私はあの窓掛を一人で破りました」と云つたのだから、恐縮する。こればかりは今考へても、下等な氣がして仕方がない。それに比べれば、毎日乾物屋の豆を少しづゝ盜んで學校で豆のぶつけつこをやつた方が、遙はるかに高尚な思ひ出である。

         *

 それから貸本屋の恩惠を蒙つたのも、その時分から中學の三四年位迄の間だが、中でも平田篤胤ひらたあつたねの稻生平太郎いなふへいたらう何とか錄ろくと云ふ寫本を借りて讀んだ時程、面白かつた覺えはない。今でも日本の化物では少くとも發明の才に富んでゐる點で、あの本の中に出る魔が最も非凡だと思つてゐる。幻の虚無僧こむそうが何人なんいんとなく家うちの中なかへはいつて來るのも面白いが、殊に節足動物の足のやうな、曲尺かねざしをつないだやうな、節ふしの澤山ある妙なものを部屋の隅から何本も出してその節々ふしぶしを鍵かぎの手に曲げたり延ばしたりする手腕に至つては、敬服の外はない。名前は確たしか、山本さんもと五郎右衞門ろうゑもんとか何とか云つた。同類に神野惡しんのあく五郎なるものがゐるさうだが、これは唯たゞ名前が、擧つてゐるだけである。山本やまもとを「さんもと」と讀み、神野かんのを「しんの」と讀むのは大方魔界の發音法であらう。


文藝雜話 饒 舌   芥川龍之介   完

8:08 午後  
Blogger yoji said...


文藝雜話 饒 舌   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年五月発行の『新小説』に掲載された。芥川龍之介には「饒舌」と題する小説があるが(大正七年一月『時事新報』)、全くの別物

 ハイネによると獨逸の幽靈は、佛蘭西の幽靈より不幸だとあるが、日本と支那の幽靈の間にも大分懸隔がある。第一日本の幽靈は非社交的で、あんまり近づきになつても愉快でない。精々凄い所が身上しんじやうだから、御岩稻荷にしも、敬遠されるのが關の山である。所が支那の幽靈になると、教育があつて、義理人情が厚くつて、生人せいじんよりは餘程始末が好いい。噓だと思つたら、一部の聊齋志略れうさいしりやくを讀んで見るがいゝ。何百かの長篇短札たんさつの中には、隨所にさう云ふ幽靈が出て來る。女鬼によきした所で、泉鏡花氏の女主人公が支那服を着たやうなのだつて稀ではない。


 あゝ云ふ話を集めたのでは、古いもので、僕には今昔が一番面白い。文章も素朴でしつかりしてゐる。僕なんぞは新刊の英譯大陸小説よりあれを讀む方が爲になる所も餘程多い。
 前に云つた聊齋はたしか乾隆の中葉頃に出來たものだから、今昔に比べると餘程新しい。所が今昔と聊齋と、よく似た話が兩方に出てゐる。たとへば聊齋の種梨しゆりの話は大體の段どりから云つて、今昔の本朝第十八卷にある以外術破盜食瓜語げじゆつをもつてうりをぬすみくはるるものがたりと云ふ話と更に變りがない。梨と瓜とを取換へれば、殆ど全く同じである。かう云ふのは日本の話が支那へ輸入されたのであらうか。
 が、これなぞはどうも話の性質が支那じみてゐる。するとこの話のプロトタイプが始はじめ支那にあつて、それが先に日本に輸入されたのであらうか、暇があつたら誰たれか考證して見るのも面白からうと思ふ。序ついでに云ふが、聊齋の鳳陽士人ほうやうしじんと云ふ話も、今昔の本朝第二十一卷常澄安永於不破關夢見京妻語つねづみやすながふわのせきにてけうにあるのつまをゆめみしものがたりと云ふ話とよく似てゐる。

8:12 午後  
Blogger yoji said...

http://nam-students.blogspot.com/2020/04/1919-5-httpyab.html

8:12 午後  
Blogger yoji said...

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文藝雜話 饒 舌   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年五月発行の『新小説』に掲載された。芥川龍之介には「饒舌」と題する小説があるが(大正七年一月『時事新報』)、全くの別物

 ハイネによると獨逸の幽靈は、佛蘭西の幽靈より不幸だとあるが、日本と支那の幽靈の間にも大分懸隔がある。第一日本の幽靈は非社交的で、あんまり近づきになつても愉快でない。精々凄い所が身上しんじやうだから、御岩稻荷にしも、敬遠されるのが關の山である。所が支那の幽靈になると、教育があつて、義理人情が厚くつて、生人せいじんよりは餘程始末が好いい。噓だと思つたら、一部の聊齋志略れうさいしりやくを讀んで見るがいゝ。何百かの長篇短札たんさつの中には、隨所にさう云ふ幽靈が出て來る。女鬼によきした所で、泉鏡花氏の女主人公が支那服を着たやうなのだつて稀ではない。


 あゝ云ふ話を集めたのでは、古いもので、僕には今昔が一番面白い。文章も素朴でしつかりしてゐる。僕なんぞは新刊の英譯大陸小説よりあれを讀む方が爲になる所も餘程多い。
 前に云つた聊齋はたしか乾隆の中葉頃に出來たものだから、今昔に比べると餘程新しい。所が今昔と聊齋と、よく似た話が兩方に出てゐる。たとへば聊齋の種梨しゆりの話は大體の段どりから云つて、今昔の本朝第十八卷にある以外術破盜食瓜語げじゆつをもつてうりをぬすみくはるるものがたりと云ふ話と更に變りがない。梨と瓜とを取換へれば、殆ど全く同じである。かう云ふのは日本の話が支那へ輸入されたのであらうか。
 が、これなぞはどうも話の性質が支那じみてゐる。するとこの話のプロトタイプが始はじめ支那にあつて、それが先に日本に輸入されたのであらうか、暇があつたら誰たれか考證して見るのも面白からうと思ふ。序ついでに云ふが、聊齋の鳳陽士人ほうやうしじんと云ふ話も、今昔の本朝第二十一卷常澄安永於不破關夢見京妻語つねづみやすながふわのせきにてけうにあるのつまをゆめみしものがたりと云ふ話とよく似てゐる。

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