(→
ショーペンハウアーとウィトゲンシュタイン、
リンク::::::)
「スピノザは、石がある衝撃によって空中を飛ぶとき、石に意識があれば、自分自身の意志で飛んでいるのだと考えるだろう、と言っている[書簡六十二]。わたしはこれにさらにつけ加えて、石の考えていることは正しいとだけ言っておく。」「意志と表象としての世界」第24節より
Spinoza sagt (epist. 62), daß der durch einen Stoß in die Luft fliegende Stein, wenn er Bewußtsein hätte, meinen würde, aus seinem eigenen Willen zu fliegen. Ich setze nur noch hinzu, daß der Stein Recht hätte.
Die Welt als Wille und Vorstellung §24
図解:ショーペンハウエル(『意志と表象〜』)とスピノザ『エチカ』
目次TOP、
別図、
図TOP
数学 論理
(
表象1)
+ 根拠律
2b様態 因果律 行為
/\
/
無限\
無
完全性 / \
悲しみ______小←/_2a属性__\→大___
性__
喜び
\
個体化の原理(
意志2) \
性格/
人間
性格\
死 悪/___1実体=
物自体\
善 生/
自己犠牲(
手や脚他)\ (
共苦)
知_/\_至
福 /\ /
憐憫
動物
憎しみ/ 経験/ \ 第三種/
認識\
愛 正義
植物 /\
客観化\/_\/_\/
イデア/\ ↑
有機体
所産的自然\/_神\__
徳__自然(能産的) \ 三種類の道徳
の体液 / 延長\
個体 5自由/
認識/思惟 \
物体/_____
身体__(
宗教4)_精神_____\観念
重力=努力?(
表象)客観\ 4
理性 /
主観
音楽 \ /
(リズム/和声/旋律) \
努力/
悲劇(悪意/運命/関係)\/
建築美術 性格 欲望
↑ 3感
情
意志の客観性の各
段階 (
芸術3) イデア
芸術
歴史/自然学/数学
以前書いたように、ショーペンハウアー哲学は、カント(及びプラトン)よりスピノザにより親和性が高い。
スピノザは第一巻15節脚注、16節他でその演繹を、続編最終章でその楽観主義を批判され17節でその直観重視が擁護される。対ヘーゲルで複雑化するがショーペンハウアーにおけるスピノザの影響はかなり大きい。スピノザの場合は意志=知性とされており意志の地位は低い。ただし意志=コナトゥスに当ると考えれば矛盾はない。
樹頭 知性
地下茎 自我
根 意志 参照:続19章(6巻26頁)
人間(手や脚他)/動物/植物/有機体の体液/
(20、26、27節)
三種類の道徳 参照:62−63、67、70節等
意志の客観化の諸段階 参照:52、続39
図TOP
または、
「意志と表象としての世界」:図解
______
| |
|
意志 =物自体 意志=ES
|__/\__|
宗教 死、性
/客観化
/ イデア\
/個体化の原理\
/ \
/
表象=根拠率に従う\ 知性=自我
/______|_____\
|
数学 |論理学
___|____
因果律| 行為
芸術(音楽)、
美
TOP
ショーペンハウアーが本書の序論とみなしている博士論文「根拠律の四つの根について」においては表象は以下の4類に分かたれている。
1. 原因と結果の法則、あるいは「生成 (fiendi) の根拠」20節
2. 概念論理的判断、ないしは「認識 (cognoscendi) の根拠」29節
3. 先天的な時間空間、ないしは「存在 (essendi) の根拠(充足理由律)」36節
4. 行為の動機づけの法則、ないしは「行為 (agendi) の根拠」43節
参照:付録の『カント哲学の批判』及び、学位論文『根拠律の四つの根について』
参考:
以下、フロイトのショーペンハウアー評。
<先達として高名な哲人たちの名を、とりわけ偉大なショーペンハウアーの名を挙げなければならない。彼の言う無意識的な「意志」とは精神分析が魂の本能と呼んでいるものと同じである。さらにこの同じ思想家は忘れることの出来ない力強い言葉によって、いまだに過小評価を受けている
性的努力の意義について人間に警告したのであった。>
(「精神分析に関わるある困難」(1917)、フロイト著作集人文書院第10巻 331−2頁)
以下、トーマス・マンの指摘。
<意志の心理学者としてのショーペンハウアーは、あらゆる現代心理学の父である。かれから出発して、ニーチェの 心理的ラディカリズムをこえてフロイト、およびフロイトの深層心理学を拡大して精神諸科学に適用した人たちに いたる一本のまっすぐな線が走っている。(略)ショーペンハウアーの暗い意志の王国は、フロイトが「無意識」と よび、「エス」と名づけたものとまったく同一であり、他方において、ショーペンハウアーの「知性」は、フロイト の「自我」(つまり、たましいの外界にむけられた部分)と完全に照応している。>
(トーマス・マン「ショーペンハウアー」『ショーペンハウアー全集 別巻』白水社、238−9頁。)
__ _____ ショーペンハウアー
意識_|__|_|_____|_ 知性
前意識_|超_|_|_自我__|// 自我及び身体
無意識 | | |_____//抑圧 意志、エス、魂の本能
| | ____//
|自 | | //|
| | | |
| | | イド |
|我 | | |
|__| |_____|
第一局所論 第 二 局 所 論
『夢判断』 「自我とエス」(1923)
(1900) 『続精神分析入門』(1933、
超自我を追加)
夢については『意志と〜』第5節で言及がある。
続編19章では自我(正編19節では身体にあたる)は意欲(意志?)と認識(知性?)との二重性をもったものとして捉えられている。
__________________
「意志と表象としての世界」:目次
Die Welt als Wille und Vorstellung
The World as Will and Representation
(参照サイト:
http://panse.livedoor.biz/archives/51637523.html)
ショーペンハウアー 1788-1860
Arthur Schopenhauer
<内容目次>
(「世界の名著 続10 ショーペンハウアー」による目次)、()内に正編続編の各対応章を追記した。
第一巻 表象としての世界の第一考察 ☆
--根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観--
第1節 (1−7→続第一部)
世界はわたしの表象である。
第2節
主観と客観は直かに境界を接している。
第3節
根拠の原理の一形態としての時間。 世界は夢に似て、マーヤーのヴェールに蔽われている。
第4節
物質とは働きであり、因果性である。 直観能力としての悟性。
第5節
外界の実在性に関するばかげた論争。 夢と実生活との間に明確な目じるしはあるだろうか。
第6節
身体は直接の客観である。すべての動物は悟性をもち、 動機に基づいた運動をするが、理性をもつのは人間の みである。理性を惑わすのは誤謬、悟性を惑わすのは 仮象である。とくに仮象の実例。
第7節
われわれの哲学は主観や客観を起点とせず、表象を 起点としている。全世界の存在は最初の認識する生物 の出現に依存している。 シェリング批判、唯物論批判、フィヒテ批判。
第8節 (→続5、6)
理性は人間に思慮を与えるとともに誤謬をもたらす。 人間と動物の相違。言葉、行動。
第9節 (→続5、6、9、10、11)
概念の範囲と組み合わせ。論理学について。
「旅をする」という概念が別の概念の範囲に
多種多様に食い込んでいく様子
(『意志と表象としての世界 I』のなかの図)
http://books.google.co.jp/books?id=qywdvi7bRAgC&hl=ja&source=gbs_navlinks_s
Begriff des Reisens(concept of travel)
独語版図表はネット上で見つからなかった。
第10節
理性が知と科学を基礎づける。
第11節
感情について。
第12節 (→続7)
理性は認識を確実にし、伝達を可能にするが、理性は悟性の直観的な活動の障害にあることがある。
第13節 (→続8)
笑いについて。
第14節 (→続12)
一般に科学は推論や証明ではなしに、直観的な明証を 土台にしている。
第15節 (→続17)
数学も論理的な証明にではなく、直観的な明証に基づく。 ユークリッド批判。理性を惑わす誤謬の実例。哲学とは 世界の忠実な模写であるというベーコンの言葉。
第16節 (→続16)
カントの実践理性への疑問。理性は善に結びつくだけで はなく悪にも結びつく。ストアの倫理学吟味。
第二巻 意志としての世界の第一考察 ☆
--すなわち意志の客観化 --
第17節
事物の本質には外から近づくことはできない。すなわち 原因論的な説明の及びうる範囲。
第18節 (→続18)
身体と意志とは一体であり、意志の認識はどこまでも 身体を媒介として行われる。
第19節 (→続19)
身体は他のあらゆる客観と違って、表象でありかつ意志 でもあるとして二重に意識されている。
第20節 (→続20)
人間や動物の身体は意志の現象であり、身体の活動は意志 の働きに対応している。それゆえ身体の諸器官は欲望や 性格に対応している。
第21節
身体を介して知られている意志は、全自然の内奥の本質を 認識する鍵である。意志は物自体であり、盲目的に作用す るすべての自然力のうちに現象する。
第22節
従来意志という概念は力という概念に包括されていたが、 われわれはこれを逆にして、自然の中のあらゆる力を 意志と考える。
第23節 (→続23)
意志は現象の形式から自由である。意志は動物の本能、 植物の運動、無機的自然界のあらゆる力のうちに盲目的に活動している。意志の活動に動機や認識は必要で はない。
第24節
どんなに究明しても自然の根源力は「隠れた特性」と して残り、究明不可能である。しかしわれわれの哲学 はこの根源力のうちに人間や動物の意志と同じものを 類推する。スピノザ、アウグスティヌス、オイラーの 自然観。
第25節
意志はいかなる微小な個物の中にも分割されずに全体 として存在している。小さな一個物の研究を通じ宇宙 全体を知ることができる。意志の客観化の段階はプラトンのイデアにあたる。
第26節
合法則的な無機的自然界から、法則を欠いた人間の個 性に至るまで、意志の客観化には段階がある。自然の 根源諸力が発動する仕方と条件は、自然法則のうちに 言いつくされるが、根源諸力そのものは、原因と結果 の鎖の外にある。マルブランシュの機会因説。
第27節 (後半→続22)
元来意志は一つであるから、意志の現象と現象の間に も親和性や同族性が認められる。しかし意志は高い客観化を目指して努力するので、現象界はいたるところ 意志が低位のイデアを征服し、物質を奪取しようとす る闘争の場となる。有機体は半ばは死んでいるとする ヤーコブ・ベーメの説。認識は動物において個体保存 の道具として現われる。認識の出現とともに表象とし ての世界が現われ、本能の確実性は休止し、人間における理性の出現とともに、この確実性は完全に失われ る。
第28節 (→続26、27)
意志の現象は段階系列をなし、「自然の合意」によって 無意識のうちに相互に一致し合う合目的性をそなえて いる。叡智的性格と経験的性格からの類比。意志は時 間の規定の外にあるから、時間的に早いイデアが後か ら出現する遅いイデアに自分を合わせるという自然の 先慮さえ成り立つ。自然の合目的性を証明する昆虫や 動物の本能の実例。
第29節 (→続28)
意志はいかなる目標も限界もない。 意志は終わるところを知らぬ努力である。
第三巻 表象としての世界の第二考察 ☆
--根拠の原理に依存しない表象、すなわちプラトンの イデア、芸術の客観--
第30節 (→続29)
意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。 個別の事物はイデアの模像であり、無数に存在し、た えず生滅しているが、イデアはいかなる数多性も、い かなる変化も知らない。
第31節 (→続29)
カントとプラトンの教えの内的意味と目標とは完全に一致している。
第32節 (→続29)
プラトンのイデアは表象の形式下にあるという一点に おいてカントの物自体と相違する。
第33節 (→続30)
認識は通常、意志に奉仕しているが、頭が身体の上に のっている人間の場合だけ、認識が意志への奉仕から 脱却する特別の事例がありうる。
第34節 (→続30)
永遠の形相たるイデアを認識するには、人は個体であることをやめ、ただひたすら直観し、意志を脱した純粋な認識主観であらねばならない。
第35節
イデアのみが本質的で、現象は見せかけの夢幻的存在で しかない。それゆえ歴史や時代が究極の目的をそなえ、 計画と発展を蔵しているというような考え方はそもそも 間違いである。
第36節 (→続31、後半→続32)
イデアを認識する方法は芸術であり、天才の業である。 天才性とは客観性であり、純粋な観照の能力である。 天才性と想像力。天才と普通人。インスピレーションに ついて。天才的な人は数学を嫌悪する。天才的な人は 怜悧ではなく、とかく無分別である。天才と狂気。 狂気の本質に関する諸考察。
第37節
普通人は天才の眼を借りてイデアを認識する。
第38節 (→続33)
対象がイデアにまで高められるという客観的要素と、人 間が意志をもたない純粋な認識主観にまで高められると いう主観的要素と、この二つの美的要素が同時に出現し たときにはじめてイデアは把握される。十七世紀オラン ダ絵画の静物画。ロイスダールの風景画。回想の中の 個物の直観。光はもっとも喜ばしいものであり、直観的 認識のための条件である。ものが水に映ったときの美しさ。
第39節
崇高感について
第40節
魅惑的なものについて。
第41節
美と崇高との区別。人間がもっとも美しく、人間の本質 の顕現が芸術の最高目標であるが、いかなる事物にも、 無形なものにも、無機的なものにも、人工物にさえ美は ある。自然物と人工物のイデアに関するプラトンの見解。
第42節
イデア把握の主観的側面から客観的側面へしだいに順を 追って、以下各芸術を検討していきたい。
第43節 (→続35)
建築美術と水道美術について
第44節 (→続36)
造園美術、風景画、静物画、動物画、動物彫刻について。
第45節 (→続36)
人間の美しさと自然の模倣について。優美さをめぐって。
第46節 (→続36)
ラオコーン論
第47節 (→続36)
美と優美とは彫刻の主たる対象である。
第48節 (→続36)
歴史画について
第49節 (→続34、36)
イデアと概念との相違。芸術家の眼の前に浮かんでいるの は概念ではなく、イデアである。不純な芸術家たちは概念 を起点とする。
第50節 (→続36)
造形芸術における概念、すなわち寓意について。象徴、標 章について。詩文芸における寓意について。
第51節 (→続37、38)
詩について。詩と歴史。昔の偉大な歴史家は詩人である。 伝記、ことに自伝は歴史書よりも価値がある。自伝と手紙 とではどちらが多く嘘を含んでいるか。伝記と国民史との 関係。抒情詩ないしは歌謡について。小説、叙事詩、戯曲 をめぐって。詩芸術の最高峰としての悲劇。悲劇の3つの 分類。
第52節 (→続39)
音楽について
ラファエロ、聖女チェチリア
第四巻 意志としての世界の第二考察 ☆
--自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならび に否定--
第53節
哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではないし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきもので もない。
第54節 (→続41)
☆
死と生殖はともに生きんとする意志に属し、個体は滅びても全自然の意志は不滅である。現在のみが生きることの形 式であり、過去や未来は概念であり、幻影にすぎない。死の恐怖は錯覚である。
第55節 (→続47)
人間の個々の行為、すなわち経験的性格に自由はなく、経験的性格は自由なる意志、すなわち叡智的性格によって決 定づけられている。
第56節 (→続46)
意志は究極の目的を欠いた無限の努力であるから、すべて の生は限界を知らない苦悩である。意識が向上するに従って苦悩も増し、人間に至って苦悩は最高度に達する。
第57節 (→続46)
人間の生は苦悩と退屈の間を往復している。苦悩の量は確定されているというのに、人間は外的原因のうちに苦悩の言い逃れを見つけようとしたがる。
第58節 (→続46)
われわれに与えられているものは欠乏や困窮だけで、幸福とは一時の満足にすぎない。幸福それ自体を描いた文学は 存在しない。最大多数の人間の一生はあわれなほど内容空虚で、気晴らしのため彼らは信仰という各種の迷信を作り出した。
第59節 (→続46)
人間界は偶然と誤謬の国であり、個々の生涯は苦難の歴史 である。しかし神に救いを求めるのは無駄であり、地上に 救いがないというこのことこそが常態である。人間はつね に自分みずからに立ち還るよりほか仕方がない。
第60節 (→続45)
☆ ☆ ☆
性行為とは生きんとする意志を個体の生死を超えて肯定す ることであり、ここではじめて個体は全自然の生命に所有 される。
第61節
意志は自分の内面においてのみ発見され、一方自分以外の すべては表象のうちにのみある。意志と表象のこの規定か ら人間のエゴイズムの根拠が説明できる。
第62節 (→続47)
正義と不正について。国家ならびに法の起源。刑法について。
第63節
マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き 破って見ている者は、加害者と被害者との差異を超越した ところに「永遠の正義」を見出す。それはヴェーダの ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻の神話に通じるものがある。
第64節
並外れた精神力をそなえた悪人と、巨大な国家的不正に 抗して刑死する反逆者と、--人間本性の二つの注目すべ き特徴。
第65節
真、善、美という単なる言葉の背後に身を隠してはなら ないこと。善は相対概念である。
第66節
徳は教えられるものではなく、学んで得られるものでも ない。徳の証しはひとえに行為にのみある。通例「個体化 の原理」に仕切られ、自分と他人との間には溝がある。 エゴイストの場合この溝は大きく、自発的な正義はこれか ら解放され、さらに積極的な好意、慈善、人類愛へ向かう。
第67節 (→続47)
他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。 愛はしたがって共苦、すなわち同情である。人間が泣く のは苦痛のせいではなく、苦痛の想像力のせいである。 喪にある人が泣くのは人類の運命に対する想像力、すなわ ち同情(慈悲)である。
第68節 (→続48)
真の認識に達した者は禁欲、苦行を通じて生きんとする 意志を否定し、内心の平安と明澄を獲得する。キリスト 教の聖徒もインドの聖者も教義においては異なるが、行 状振舞いにおいて、内的な回心において唯一同一である。 普通人は認識によってではなく、苦悩の実際経験を通じ て解脱に近づく。すべての苦悩には人を神聖にする力がある。
第69節
意志を廃絶するのは認識によってしかなし得ず、自殺は 意志の肯定の一現象である。自殺は個別の現象を破壊す るのみで、意志の否定にはならず、真の救いから人を遠 ざける。ただし禁欲による自発的な餓死という一種特別 の例外がある。
第70節
完全に必然性に支配されている現象界の中へ意志の自由が出現するという矛盾を解く鍵は、自由が意志から生じ るのではなしに、認識の転換に由来することにある。 キリスト教の恩寵の働きもまたここにある。アウグスティヌスからルターを経たキリスト教の純粋な精神は、 わたしの教説とも内的に一致している。
第71節
いかなる無もなにか他のあるものとの関係において考えられる欠如的無であり、記号の交換が可能である。 意志の完全な否定に到達した人にとっては、われわれが 存在すると考えているものがじつは無であり、かの無こそじつは存在するものである。彼はいっさいの認識を超えて、主観も客観も存在しない地点に立つ。
第一版への序文
第二版への序文
第三版への序文
___________
「意志と表象としての世界」続編目次
第一部 直観的表象についての学説 (正編1-7)
第1章 観念論的本質見解に関して
第2章 直観的認識、すなわち悟性の認識についての学説に関して
第3章 感覚について
第4章 ア・プリオリな認識について
第二部 抽象的表象、すなわち思考についての学説
第5章 理性を欠いた知性について (正編8、9)
第6章 抽象的認識、すなわち理性認識についての学説に関して (正編8、9)
第7章 直観的認識と抽象的認識との関係について (正編12)
第8章 滑稽についての理論に関して (正編13)
第9章 論理学一般に関して (正編9)
第10章 三段論法に関して (正編9)
第11章 修辞学に関して (正編9)
第12章 学問論に関して (正編14)
第13章 数学の方法論に関して (正編15)
第14章 観念連合に関して
第15章 知性の本質的不完全さについて
第16章 理性の実践的使用とストア主義について (正編16)
第17章 人間の形而上学的欲求について (正編15)
____以上邦訳白水社版全集第5巻
第二巻の補足
第18章 物自体の認識可能性について (正編18)
第19章 自己意識における意志の優位について (正編19)
第20章 動物的有機体における意志の客観化 (正編20)
第21章 回顧と総括
第22章 客観的な知性観 (正編27後半)
第23章 認識をもたぬ自然における意志の客観化について (正編23)(スピノザ、コナトゥス?)
第24章 物質について
第25章 物自体としての意志に関する超越的諸考察
第26章 目的論について (正編28)
第27章 本能と技術衝動について (正編28)
第28章 生への意志の特性叙述 (正編29)
第三巻の補足
第29章 イデアの認識について (正編30ー32)
第30章 純粋な認識主観について (正編33、34)
第31章 天才について (正編36)
第32章 狂気について (正編36節後半)
第33章 自然美に関する断想 (正編38)
第34章 芸術の内的本質について (正編49)
第35章 建築術の美学について (正編43)
第36章 造形芸術の美学に関する断想 (正編44ー50)
第37章 詩の美学について (正編51)
第38章 歴史について (正編51)
第39章 音楽の形而上学について (正編52)
_____以上全集第6巻
第四巻の補足
第40章 序 言
第41章 死および、死とわれわれの本質の不壊性との関係について (正編54)
第42章 種属の生命
第43章 性質の遺伝性
第44章 性愛の形而上学
第44章の付録
第45章 生への意志の肯定について (正編60)
第46章 人生の空虚と苦悩について (正編56ー59。『余録』2:11、12)
第47章 倫理について (正編55、62、67) スピノザ
第48章 生への意志の否定に関する学説について (正編68。『余録』2:14)
第49章 救いの道
第50章 哲学余話 _____以上全集第7巻
TOP
図解:ショーペンハウエル(『意志と表象〜』)とスピノザ『エチカ』
目次TOP、
図TOP
人間(
手や脚他)(
意志2)
無
動物 1実体(=
物自体)
自己犠牲
植物
個体化の原理\
憐憫
有機体の体液
/
無限\
正義
重力=コナトゥス?
/_無限定_\
↑
____ _
客観化/_2a属性__\
イデア____(
宗教) 三種類の道徳
音楽 \
知 抑制(
共苦)小←
/\→大 完全性 至福/
(旋律 \
悪/___2b様態\____\
善 /
和声 \
死 /\悲しみ(
表象1)喜び/\
生/
リズム) \/ 憎しみ (
努力)
愛/
\/ 数学 論理
悲劇 /\対象/物体_\/_観念\
認識/(
表象)
+根拠律
(関係 /
所産的自然_
身体欲望精神_(
理性) 因果律 行為
運命 (
表象)延長\ 受動3感
情/能動 /思惟 \能産的
悪意)/
神_____\__(
芸術3)第三種認識___
\自然
建築美術 (
表象)客観\ 4理性 /
主観
↑イデア \
/
意志の客観性の各段階 \_徳_/
\/
5自由
(
宗教4)
190 Comments:
yoji said...
正編原文
http://www.egs.edu/library/arthur-schopenhauer/articles/die-welt-als-wille-und-vorstellung/introduction/
4:33 午後
yoji said...
Spinoza sagt (epist. 62), daß der durch einen Stoß in die Luft fliegende Stein, wenn er Bewußtsein hätte, meinen würde, aus seinem eigenen Willen zu fliegen. Ich setze nur noch hinzu, daß der Stein Recht hätte.
手をニギニギすると、客観的な物体としてとらえられるとともに、内側の主観的な「手」
のあり方を感じられます。つまり、普通の物体は、外部から観察されるだけ(客観的存在)
ですが、自分の身体だけは、外側(客観)と内側(主観)で二重にわかるってわけです。
それが、「身体は認識の主簡に二重の仕方で与えられる」の意味です。
『図解でよくわかる ニーチェの哲学』97頁
3:08 午前
yoji said...
正19:参照
機能は二重だが本質は二重ではない
コの字型
\| 意志=ES
\ ____
数学 |論理学 客観化\ | |
__根拠率=表象 イデア \意志 =物自体
に従う 個体化 /|____|
因果律| 行為 の原理/
____________/___________
//
/|
宗教 / | 芸術
\ |
死、性 \| (音楽)美
\
共苦 |\ 知性=自我
人間/動物/
植物/有機体の体液
意志の客観化の段階
27節
図解:ショーペンハウエル(『意志と表象〜』)とスピノザ『エチカ』
目次TOP、別図、図TOP
数学 論理
(表象1) + 根拠律
2b様態 因果律 行為
/\
/無限\ 無
完全性 / \
悲しみ______小←/_2a属性__\→大______喜び
\ 個体化の原理(意志2) \ 性 /
\死 悪/___1実体=物自体\善 生/ 自己犠牲
\ (共苦)知_/\_至福 /\ / 憐憫
憎しみ/ 経験/ \ 第三種/認識\愛 正義
/\客観化\/_\/_\/イデア/\ ↑
所産的自然\/_神\__徳__自然(能産的) \ 三種類の道徳
/ 延長\個体 5自由/ 認識/思惟 \
物体/_____身体__(宗教4)_精神_____\観念
(表象)客観\ 4理性 /主観
\ /
音楽(リズム/和声/旋律) \努力/
悲劇(悪意/運命/関係) \/
建築美術 欲望
↑ 3感情
意志の客観性の各段階(芸術3) 人間/動物/植物/有機体の体液/
重力、コナトゥス? (27節)
図解:ショーペンハウエル(『意志と表象〜』)とスピノザ『エチカ』
目次TOP、別図、図TOP
数学 論理
(表象1) + 根拠律
2b様態 因果律 行為
/\
/無限\ 無
完全性 / \
悲しみ______小←/_2a属性__\→大______喜び
\ 個体化の原理(意志2) \ 性 /
\死 悪/___1実体=物自体\善 生/ 自己犠牲
\ (共苦)知_/\_至福 /\ / 憐憫
憎しみ/ 経験/ \ 第三種/認識\愛 正義
/\客観化\/_\/_\/イデア/\ ↑
所産的自然\/_神\__徳__自然(能産的) \ 三種類の道徳
/ 延長\個体 5自由/ 認識/思惟 \
物体/_____身体__(宗教4)_精神_____\観念
(表象)客観\ 4理性 /主観
\ /
音楽(リズム/和声/旋律) \努力/
悲劇(悪意/運命/関係) \/
建築美術 欲望
↑ 3感情
意志の客観性の各段階(芸術3)/人間/動物/植物/有機体の体液/
重力、コナトゥス? (27節)
図解:ショーペンハウエル(『意志と表象〜』)とスピノザ『エチカ』
目次TOP、別図、図TOP
数学 論理
(表象1) + 根拠律
2b様態 因果律 行為
/\
/無限\ 無
完全性 / \
悲しみ______小←/_2a属性__\→大______喜び
\ 個体化の原理(意志2) \ 性 /
\死 悪/___1実体=物自体\善 生/ 自己犠牲
\ (共苦)知_/\_至福 /\ / 憐憫
憎しみ/ 経験/ \ 第三種/認識\愛 正義
/\客観化\/_\/_\/イデア/\ ↑
所産的自然\/_神\__徳__自然(能産的) \ 三種類の道徳
/ 延長\個体 5自由/ 認識/思惟 \
物体/_____身体__(宗教4)_精神_____\観念
(表象)客観\ 4理性 /主観
\ /
音楽(リズム/和声/旋律) \努力/
悲劇(悪意/運命/関係) \/
建築美術 欲望
↑ 3感情
意志の客観性の各段階(芸術3) 人間(手や脚他)/動物/植物/有機体の体液/
重力、コナトゥス? (20、26、27節)
図解:ショーペンハウエル(『意志と表象〜』)とスピノザ『エチカ』
目次TOP、別図、図TOP
数学 論理
(表象1) + 根拠律
2b様態 因果律 行為
/\
/無限\ 無
完全性 / \
悲しみ______小←/_2a属性__\→大______喜び
\ 個体化の原理(意志2) \ 性 /
\死 悪/___1実体=物自体\善 生/ 自己犠牲
\ (共苦)知_/\_至福 /\ / 憐憫
憎しみ/ 経験/ \ 第三種/認識\愛 正義
/\客観化\/_\/_\/イデア/\ ↑
所産的自然\/_神\__徳__自然(能産的) \ 三種類の道徳
/ 延長\個体 5自由/ 認識/思惟 \
物体/_____身体__(宗教4)_精神_____\観念
(表象)客観\ 4理性 /主観
\ /
音楽(リズム/和声/旋律) \努力/
悲劇(悪意/運命/関係) \/
建築美術 欲望
↑ 3感情
意志の客観性の各段階(芸術3) /人間(手や脚他)/動物/植物/有機体の体液/
重力、コナトゥス? (20、26、27節)
Commented by yojisekimoto at 2010-02-03 21:09
「我思う、故に我あり」デカルト
「我あり、故に我思う」ハイデガー
「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する、Ego sum cogitans.)」スピノザ
「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
「我思う=我あり(同語反復)」カント?
「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
Commented by yoji at 2010-04-06 02:08 x
2b様態
/\
/無限\
/ \
悲しみ________/_2a属性__\________喜び
\ 憎しみ / /\ \ 愛 /
\ 悪/___1実体\___\善 /
\ /\ 知_/\_至福 /\ /
\/ \/ \ / \/ \/
/\ /\/_\/_\ /\ / \
所与的自然\/ 神\__徳__自然(能産的) \
/ 延長\個体 5自由/ 認識/思惟 \
物体/_____身体__4理性___精神_____\観念
\ /
\ /
\努力/
\/
欲望
3感情
Commented by yoji at 2010-04-14 16:52 x
「悟性」 | 「理性」
:知的=意志に対立 |:反省する認識=信仰に対立
(Verstand=intellectus)| (Vernunft=ratio)
___________________|_______________
スピノザ ◯知性的認識 | 第2種認識
___________________|_______________
ロック ◯understanding | ratio / reason は
=論証能力 | 悟性に含まれる。
|
_________________価値観の逆転______________
下位 | ◯上位 ヴォルフ・
| (知的直観はない) カント
___________________|_______________
経験主義 | 理性主義
「我思う、故に我あり」デカルト
「我あり、故に我思う」ハイデガー
「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する、Ego sum cogitans.)」スピノザ
「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
「我思う=我あり(同語反復)」カント?
「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
サティッシュ・クマール. 「我思う、故に我あり」
ショーペンハウアー「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」続第四章全集5巻64頁
フォイエルバッハ「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」『理性論』四章
別訳:
フォイエルバッハ
「私は思考する、ゆえに私はすべての人間である(Cogito, ergo omnes sum homines)」『理性論』四章
fgw1-94,IV.17
タイトル 理性と認識衝動 : 初期フォイエルバッハ研究. 下 / 半田秀男 著
リセイ ト ニンシキ ショウドウ : ショキ フォイエルバッハ ケンキュウ. 003
risei to ninshiki shōdō : shoki foierubahha kenkyū. 003
出版事項 広島 : 溪水社, 1999.2
ヒロシマ : ケイスイシャ
hiroshima : keisuisha
配架場所 請求記号 現況
中央 B2研究書庫 134.5 00020 2 利用可能
形態 456p ; 22cm
ISBN 4874405444
4874405312
注記 平成10年度文部省助成出版
内容注記 索引あり
分類 134.5 njb/9
別著者等 半田 秀男, 1938-
ハンダ, ヒデオ, 1938-
handa, hideo, 1938-
件名 Feuerbach, Ludwig, 1804-1872
http://wine.wul.waseda.ac.jp/search~S12*jpn?/t{214b48}{213e34}{692448}{215870}{21593c}{21574a}{213434}/t{214b48}{213e34}{692548}{215870}{21593c}{21574a}{213434}/1%2C2%2C2%2CB/frameset&FF=t{214b48}{213e34}{692548}{215870}{21593c}{21574a}{213434}+{21574e}{214364}{692555}{692529}{692524}{692528}{69256b}{692550}{692543}{69254f}{214e37}{214f4e}+{213025}&1%2C1%2C
図解:ショーペンハウエル(『意志と表象〜』)とスピノザ『エチカ』
人間(手や脚他)(意志2)
動物 1実体(=物自体)
植物 個体化の原理\
有機体の体液 /無限\
重力=コナトゥス? /_無限定_\
____ _客観化/_2a属性__\イデア____(宗教)
音楽 \知 抑制(共苦)小←/\→大 完全性 至福/
(旋律 \ 悪/___2b様態\____\善 /
和声 \死 /\悲しみ(表象1)喜び/\ 生/
リズム) \/ 憎しみ (努力) 愛/ \/ 数学 論理
悲劇 /\対象/物体_\/_観念\認識/(表象)+根拠律
(関係 /所産的自然_身体欲望精神_(理性) 因果律 行為
運命 (表象)延長\ 受動3感情/能動 /思惟 \能産的
悪意)/神_____\___\/__第三種認識___\自然
建築美術 (表象)客観\ 4理性 /主観
↑イデア \ /
意志の客観性の各段階(芸術3)_徳_(宗教4)三種類の道徳
\/ ↓
5自由 正義/憐憫/自己犠牲/ 無
人間(手や脚他)(意志2)
動物 1実体(=物自体)
植物 個体化の原理\
有機体の体液 /無限\
重力=コナトゥス? /_無限定_\
____ _客観化/_2a属性__\イデア____(宗教)
音楽 \知 抑制(共苦)小←/\→大 完全性 至福/
(旋律 \ 悪/___2b様態\____\善 /
和声 \死 /\悲しみ(表象1)喜び/\ 生/
リズム) \/ 憎しみ (努力) 愛/ \/ 数学 論理
悲劇 /\対象/物体_\/_観念\認識/(表象)+根拠律
(関係 /所産的自然_身体欲望精神_(理性) 因果律 行為
運命 (表象)延長\ 受動3感情/能動 /思惟 \能産的
悪意)/神_____\___\/__第三種認識___\自然
建築美術 (表象)客観\ 4理性 /主観
↑イデア \ /
意志の客観性の各段階(芸術3)_徳_(宗教4)三種類の道徳
\/ ↓
5自由 正義/憐憫/自己犠牲 無
図解:ショーペンハウエル(『意志と表象〜』)とスピノザ『エチカ』
目次TOP、別図、図TOP
数学 論理
(表象1) + 根拠律
2b様態 因果律 行為
/\
/無限\ 無
完全性 / \
悲しみ______小←/_2a属性__\→大______喜び
\ 個体化の原理(意志2) \ 性 /
人間 \死 悪/___1実体=物自体\善 生/
(手や脚他)\ (共苦)知_/\_至福 /\ /
動物 憎しみ/ 経験/ \ 第三種/認識\愛
植物 /\客観化\/_\/_\/イデア/\
有機体 所産的自然\/_神\__徳__自然(能産的) \
の体液 / 延長\個体 5自由/ 認識/思惟 \
物体/_____身体___\/___精神_____\観念
重力=努力?(表象)客観\ 4理性 /主観
音楽 (芸術3)\ /(宗教4) 三種類の道徳
(リズム/和声/旋律) \努力/ ↓
悲劇(悪意/運命/関係)\/ 正義
建築美術 欲望 憐憫
↑ 3感情 自己犠牲
意志の客観性の各段階 イデア 無
中公意志〜 、エチカ
229頁一巻16節、2:40備考一
359頁三巻34節、5:31備考
656頁四巻67節、3:27系3備考
668頁四巻68節、5:42備考
「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から分離する、
唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の世界に属するのである。
従って一方には何も残存しなく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論は
厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。[((論考)5.64を参照]」
1916年10月15日
「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁
D・A・ワイナーによれば上記の記述もショーペンハウアー『意志と表象〜』に応酬したもの
だと言う(三和書籍141頁)。
「…表象としての世界に徹頭徹尾立ち止まるなら、私が客観を私の頭の中の表象と説こうが、
時間と空間の中に現われる表象と説こうが、どちらでもよい(略)そこでこの意味でなら、
観念的なものと実在的なものとの同一性ということが、ともかく主張されうるかも知れな
い。」
(『意志と表象』続編第18章第二巻の補足。白水社版では第6巻13頁)
参考:
P.M.S.ハッカー『洞察と幻想 ヴィトゲン シュタインの哲学観と経験の形而上学』(八千代出版)
続編第一章の実在論、観念論の議論も関係するだろう
性格
28
45
55
論考レビューより
113 人中、98人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 超高度な思考ゲーム、または哲学的思考の素材集 2005/8/2
By takeshi22xx
形式:文庫
訳や注、解説が非常に適切。論理の飛躍、前提知識の必要性、語の省略があるところは訳者が適宜補完してくれているので、論理を一つ一つ、梯子を上るように足場を固めながら上れた。もちろん、完全には理解できないし、曖昧な部分や、飛躍も多い。でも、世間で言われているほど難解で意味不明とは思わなかった。主要な命題は以下の7つ。
1.世界は成立していることがらの総体である
2.成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である
3.事実の論理像が思考である
4.思考とは有意味な命題である
5.命題は要素命題の真理関数である
6.真理関数の一般形式はこうである。→(ギリシャ文字とかめんどいから省略)
7.語りえぬものについては、沈黙せねばならない
前半は、非常に精巧に糸を紡ぐような世界の要素への分解とその組み立て。
中盤は、世界と論理のgrounding(ウィトゲンシュタインは現代の記号接地問題を見たらどう考えるのだろう?)→ 思考と論理の同一性と、命題の意味について →
有意味な命題、無意味な命題(トートロジー、矛盾)とは → 各要素命題から真理操作によって張られる"無意味な命題"を通しての論理空間の描画 → 個人の経験による要素命題の有限性と、個人の論理空間の限界(→独我論) → 諸学問(論理学・数学・物理学)の命題の特性と、その正体(目から鱗がボロボロ) → それらの世界記述に関する役割(世界の網目の編み方がここで完成)
クライマックスは、倫理や美に代表される超越的な価値の思考不可能性への帰結(さ最後に全てを理解したとき、上りきった梯子を捨てなければならない)
"哲学とは、自然科学ではない(4.111)"、"哲学の目的は思考の論理的明晰化である(4.123)"という自身の命題を地でいくかのように、ひたすら明晰に、世界、論理、思考、自我、生、神秘について語っている。
一週間以上かけてゆっくり読んだので、はじめの方とかけっこう忘れててちょっと間違ってるかも(--;)でも、これが論理哲学論考とういう本の各命題から、脳内に経験として写像され、操作を施されて生じた私の論理空間(思考の限界)なので、あしからず。あと何回かは読み直したい感じ。子供のころにぼんやりと浮かんでは消えていく問いを、論理という道具によってひたすら明晰にしていってる感じ。
その意味で、
"おそらく本書は、ここに表されている思想をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう"
という序文はまったく正しい。
前期ウィトゲンシュタイン哲学における 認識論の位置 (Adobe PDF) -htmlで見る
であり,真なる文に対応する事実の全体が世界であるから,どの要素命題もそれに対応 する要. 素的事実が存在する 12.そこで,p― をすべての要素命題の集合とし,ξ― を 命題全体の集合,N. (ξ― )をすべての命題の否定連言とすれば,真理関数の一般形式 は [p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )] と表すこと. ができる 13.これによってすべての命題を表す ...
www.u-bunkyo.ac.jp/center/library/.../hum2010_151-162.pdf
ウィトゲンシュタイン
1.世界は成立していることがらの総体である
2.成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である
3.事実の論理像が思考である
4.思考とは有意味な命題である
5.命題は要素命題の真理関数である
6.真理関数の一般形式は [p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )] である。
7.語りえぬものについては、沈黙せねばならない
ショーペンハウアー
第1節
世界はわたしの表象である。
第2節
主観と客観は直かに境界を接している。
第30節
意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。 個別の事物はイデアの模像であり、無数に存在し、た えず生滅しているが、イデアはいかなる数多性も、い かなる変化も知らない。
第17節
事物の本質には外から近づくことはできない。
第52節
哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではないし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきもので もない。
ウィトゲンシュタイン、論考より
1.世界は成立していることがらの総体である
2.成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である
3.事実の論理像が思考である
4.思考とは有意味な命題である
5.命題は要素命題の真理関数である
6.真理関数の一般形式は [p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )] である。
7.語りえぬものについては、沈黙せねばならない
ショーペンハウアー、意志と…より
第1節
世界はわたしの表象である。
第2節
主観と客観は直かに境界を接している。
第17節
事物の本質には外から近づくことはできない。
第30節
意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。 個別の事物はイデアの模像であり、無数に存在し、た えず生滅しているが、イデアはいかなる数多性も、い かなる変化も知らない。
第52節
哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではないし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきもので もない。
>>103
レスありがとうございます
> どういう意味で仮想敵だったんでしょうかね。意志に対して行為を持ってきたってことでしょうか。
ウィトがショーペンハウアーを独我論の典型として批判したというのが一般的な研究者の見方のようです
ただし、カント自身も遺稿でスピノザを再考しているのでスピノチストとしてショーペンハウアーを
考えるならばショーペンハウアーをカントの独我論的なトンデモ解釈とばかりは言えないと思います
ウィトゲンシュタインの方はショーペンハウアー経由でよりカントに近づいているような気がしますが
以下、参考までに
ショーペンハウアー、意志と…より
第1節 世界はわたしの表象である。
第2節 主観と客観は直かに境界を接している。
第17節 事物の本質には外から近づくことはできない。
第30節 意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。 個別の事物はイデアの模像であり、無数に存在し、たえず生滅しているが、イデアはいかなる数多性も、いかなる変化も知らない。
第52節 哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではないし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきものでもない。
ウィトゲンシュタイン、論考より
1.世界は成立していることがらの総体である
2.成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である
3.事実の論理像が思考である
4.思考とは有意味な命題である
5.命題は要素命題の真理関数である
6.真理関数の一般形式は [p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )] である。
7.語りえぬものについては、沈黙せねばならない
[p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )]
命題 すべての命題集合 すべての命題集合の否定
[p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )]
このシンボルの説明は次の通りです。
p―.は全ての原子命題を代表します。
ξ. ―.は命題の集合のいずれをも代表します。
N(ξ. ― )はξを作り上げる全ての否定を代表します。
シンボル全体[p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )] は次のようにして得ることのできるあらゆるものを意味します。即ち、
原子命題を任意に選択し、それら選択された命題を全て否定し、かくして得られる諸命題の集合から任意に命題
を選択し、これにはじめの原子命題を任意に付け加え、そしてこれらを全て否定する、といったことを無限に
くりかえして得られるあらゆるものを意味します。
ラッセルによる序文(論考、邦訳全集一12頁より)
真理関数の一般形式=[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)
[\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)].
第12節
理性は認識を確実にし、伝達を可能にするが、理性は悟性の直観的な活動の障害にあることがある。
[p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )]
このシンボルの説明は次の通りです。
p―.は全ての原子命題を代表します。
ξ. ―.は命題の集合のいずれをも代表します。
N(ξ. ― )はξを作り上げる全ての否定を代表します。
シンボル全体[p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )] は次のようにして得ることのできるあらゆるものを意味します。即ち、
原子命題を任意に選択し、それら選択された命題を全て否定し、かくして得られる諸命題の集合から任意に命題
を選択し、これにはじめの原子命題を任意に付け加え、そしてこれらを全て否定する、……といったことを無限に
くりかえして得られるあらゆるものを意味します。
ラッセルによる序文(論考、邦訳全集一12頁より)
8:35 午後
yoji さんは書きました...
真理関数の一般形式=[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)
[\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)].
第29節
意志はいかなる目標も限界もない。 意志は終わるところを知らぬ努力である。
第16節
理性は善に結びつくだけで はなく悪にも結びつく。
ショーペンハウアー、意志と…より
第1節 世界はわたしの表象である。
第2節 主観と客観は直かに境界を接している。
第16節 理性は善に結びつくだけで はなく悪にも結びつく。
第17節 事物の本質には外から近づくことはできない。
第29節 意志はいかなる目標も限界もない。 意志は終わるところを知らぬ努力である。
第30節 意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。 個別の事物はイデアの模像であり、無数に存在し、たえず生滅しているが、イデアはいかなる数多性も、いかなる変化も知らない。
第52節 哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではないし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきものでもない。
ウィトゲンシュタイン、論考より
1.世界は成立していることがらの総体である
2.成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である
3.事実の論理像が思考である
4.思考とは有意味な命題である
5.命題は要素命題の真理関数である
6.真理関数の一般形式は [p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)である。
7.語りえぬものについては、沈黙せねばならない
ショーペンハウアー、意志と…より
第1節 世界はわたしの表象である。
第2節 主観と客観は直かに境界を接している。
第16節 理性は善に結びつくだけで はなく悪にも結びつく。
第17節 事物の本質には外から近づくことはできない。
第29節 意志はいかなる目標も限界もない。 意志は終わるところを知らぬ努力である。
第30節 意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。
第52節 哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではないし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきものでもない。
ウィトゲンシュタイン、論考より
1.世界は成立していることがらの総体である
2.成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である
3.事実の論理像が思考である
4.思考とは有意味な命題である
5.命題は要素命題の真理関数である
6.真理関数の一般形式は [p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)である。
7.語りえぬものについては、沈黙せねばならない
ショーペンハウアー、意志と…より
第1節 世界はわたしの表象である。
第2節 主観と客観は直かに境界を接している。
第16節 理性は善に結びつくだけで はなく悪にも結びつく。
第17節 事物の本質には外から近づくことはできない。
第29節 意志はいかなる目標も限界もない。
第30節 意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。
第52節 哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではないし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきものでもない。
ウィトゲンシュタイン、論考より
1.世界は成立していることがらの総体である
2.成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である
3.事実の論理像が思考である
4.思考とは有意味な命題である
5.命題は要素命題の真理関数である
6.真理関数の一般形式は [p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)である。
7.語りえぬものについては、沈黙せねばならない
ウィト論考の肝は6.の数式です。
以下、ラッセルの解説。
[p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )]
このシンボルの説明は次の通りです。
p―.は全ての原子命題を代表します。
ξ. ―.は命題の集合のいずれをも代表します。
N(ξ. ― )はξを作り上げる全ての否定を代表します。
シンボル全体[p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )] は次のようにして得ることのできるあらゆるものを意味します。即ち、
原子命題を任意に選択し、それら選択された命題を全て否定し、かくして得られる諸命題の集合から任意に命題
を選択し、これにはじめの原子命題を任意に付け加え、そしてこれらを全て否定する、……といったことを無限に
くりかえして得られるあらゆるものを意味します。
ラッセルによる序文(論考、邦訳全集一12頁より)
ですから世界は行為であるという「反論」はN…に対応しており、
ウィトの真理関数は崩れないわけです。
ショーペンハウアーは行為と認識の二重性を認めますから、以下のような解説が可能になります。
「
手をニギニギすると、客観的な物体としてとらえられるとともに、内側の主観的な「手」
のあり方を感じられます。つまり、普通の物体は、外部から観察されるだけ(客観的存在)
ですが、自分の身体だけは、外側(客観)と内側(主観)で二重にわかるってわけです。
それが、「身体は認識の主簡に二重の仕方で与えられる」の意味です。」
『図解でよくわかる ニーチェの哲学』97頁
二重性を廃し、反論可能性を無限に認めたウィトはカント(の批判哲学)に近いですし、
ショーの二重性はアンチノミーを解決したいカントの初期衝動に忠実なわけです。
以下は『論理哲学論考』より
六・三六一 右手と左手を重ね合わせることができない、というカントの問題は、平面の場合に既に存立しており、
それどころか次のような一次元の空間においても存立しているのである。
…………〇━━━━━━ ×…………×━━━━━━ ○…………
a b
ここで二つの合同な図形a、bを、この空間の外へと動かすことなくしては、重ね合わせることはできない。
右手と左手とは実際に完全に合同である。そして両者が重ね合わされないことは、このこととは全く関係がない。
右手の手袋を仮に四次元空間で回転できるとすれば、それを左手にはめることも可能であろう。
『論理哲学論考』(邦訳全集第1巻p.114より)
カントに批判の数式化及び上記のような単純化(三次元から二次元へ)において、ウィトは
カントだ6批判を書いたとさえ言いたい。
第5批判はむろんニーチェではなくショーペンハウアーが書いたのだ。
追記:
カントは学部の構成の正当性について書いている
カントの再帰的反省的体系批判は大学にも当てはまるし、国家や国連にも当てはまる。
ウィト論考の肝は6.の真理関数の数式です。
以下、ラッセルの解説。
____________
[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)
…このシンボルの説明は次の通りです。
p―.は全ての原子命題を代表します。
ξ. ―.は命題の集合のいずれをも代表します。
N(ξ. ― )はξを作り上げる全ての否定を代表します。
<シンボル全体[p―. , ξ. ―. , N(ξ. ― )] は次のようにして得ることのできるあらゆるものを意味します。即ち、
原子命題を任意に選択し、それら選択された命題を全て否定し、かくして得られる諸命題の集合から任意に命題
を選択し、これにはじめの原子命題を任意に付け加え、そしてこれらを全て否定する、……といったことを無限に
くりかえして得られるあらゆるものを意味します。>
(ラッセルによる序文『論考』邦訳全集一12頁より)
____________
ですから世界は行為であるという「反論」はN…に対応しており、
ウィトの真理関数は崩れないわけです。
ショーペンハウアーの場合、は行為と認識の二重性を認めますから、以下のような解説が可能になります。
<手をニギニギすると、客観的な物体としてとらえられるとともに、内側の主観的な「手」
のあり方を感じられます。つまり、普通の物体は、外部から観察されるだけ(客観的存在)
ですが、自分の身体だけは、外側(客観)と内側(主観)で二重にわかるってわけです。
それが、「身体は認識の主簡に二重の仕方で与えられる」の意味です。>
富増 章成(『図解でよくわかる ニーチェの哲学』97頁)
二重性を廃し、反論可能性を無限に認めたウィトの方はカント(の批判哲学)に近いですし、
ショーの方は二重性はアンチノミーを解決したいカントの初期衝動に忠実なわけです。
(ウィトは『論考』でカント批判をしている。後述*)
ウィト論考の肝は6.の真理関数の数式です。
以下、ラッセルの解説。
____________
[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)
…このシンボルの説明は次の通りです。
p(pに上線)は全ての原子命題を代表します。
ξ( ξに上線)は命題の集合のいずれをも代表します。
N(ξ)(ξに上線)はξを作り上げる全ての否定を代表します。
<シンボル全体[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線) は次のようにして得ることのできるあらゆるものを意味します。即ち、
原子命題を任意に選択し、それら選択された命題を全て否定し、かくして得られる諸命題の集合から任意に命題
を選択し、これにはじめの原子命題を任意に付け加え、そしてこれらを全て否定する、……といったことを無限に
くりかえして得られるあらゆるものを意味します。>
(ラッセルによる序文『論考』邦訳全集一12頁より)
____________
ですから世界は行為であるという「反論」はN…に対応しており、
ウィトの真理関数は崩れないわけです。
ショーペンハウアーの場合、は行為と認識の二重性を認めますから、以下のような解説が可能になります。
<手をニギニギすると、客観的な物体としてとらえられるとともに、内側の主観的な「手」
のあり方を感じられます。つまり、普通の物体は、外部から観察されるだけ(客観的存在)
ですが、自分の身体だけは、外側(客観)と内側(主観)で二重にわかるってわけです。
それが、「身体は認識の主簡に二重の仕方で与えられる」の意味です。>
富増 章成(『図解でよくわかる ニーチェの哲学』97頁)
二重性を廃し、反論可能性を無限に認めたウィトの方はカント(の批判哲学)に近いですし、
ショーの方は二重性はアンチノミーを解決したいカントの初期衝動に忠実なわけです。
(ウィトは『論考』でカント批判をしている。後述*)
ウィト論考の肝は6.の真理関数の数式です。
以下、ラッセルの解説。
____________
[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)
…このシンボルの説明は次の通りです。
p(pに上線)は全ての原子命題を代表します。
ξ( ξに上線)は命題の集合のいずれをも代表します。
N(ξ)(ξに上線)はξを作り上げる全ての否定を代表します。
<シンボル全体[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線) は次のようにして得ることのできるあらゆるものを意味します。即ち、
原子命題を任意に選択し、それら選択された命題を全て否定し、かくして得られる諸命題の集合から任意に命題
を選択し、これにはじめの原子命題を任意に付け加え、そしてこれらを全て否定する、……といったことを無限に
くりかえして得られるあらゆるものを意味します。>
(ラッセルによる序文『論考』邦訳全集一12頁より)
____________
ですから世界は行為であるという「反論」はN…に対応しており、
ウィトの真理関数は崩れないわけです。
ショーペンハウアーの場合、は行為と認識の二重性を認めますから、以下のような解説が可能になります。
<手をニギニギすると、客観的な物体としてとらえられるとともに、内側の主観的な「手」
のあり方を感じられます。つまり、普通の物体は、外部から観察されるだけ(客観的存在)
ですが、自分の身体だけは、外側(客観)と内側(主観)で二重にわかるってわけです。
それが、「身体は認識の主簡に二重の仕方で与えられる」の意味です。>
富増 章成(「ショーペンハウアーの哲学とは?」『図解でよくわかる ニーチェの哲学』97頁)
二重性を廃し、反論可能性を無限に認めたウィトの方はカント(の批判哲学)に近いですし、
ショーの方は二重性はアンチノミーを解決したいカントの初期衝動に忠実なわけです。
(ウィトは『論考』でカント批判をしている。後述*)
ウィト論考の肝は6.の真理関数の数式です。
以下、ラッセルの解説。
____________
[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)
…このシンボルの説明は次の通りです。
p(pに上線)は全ての原子命題を代表します。
ξ( ξに上線)は命題の集合のいずれをも代表します。
N(ξ)(ξに上線)はξを作り上げる全ての否定を代表します。
<シンボル全体[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線) は次のようにして得ることのできるあらゆるものを意味します。即ち、
原子命題を任意に選択し、それら選択された命題を全て否定し、かくして得られる諸命題の集合から任意に命題
を選択し、これにはじめの原子命題を任意に付け加え、そしてこれらを全て否定する、……といったことを無限に
くりかえして得られるあらゆるものを意味します。>
(ラッセルによる序文『論考』邦訳全集一12頁より)
____________
ですから世界は行為であるという「反論」はN…に対応しており、
ウィトの真理関数は崩れないわけです。
ショーペンハウアーの場合、は行為と認識の二重性を認めますから、以下のような解説が可能になります。
<手をニギニギすると、客観的な物体としてとらえられるとともに、内側の主観的な「手」
のあり方を感じられます。つまり、普通の物体は、外部から観察されるだけ(客観的存在)
ですが、自分の身体だけは、外側(客観)と内側(主観)で二重にわかるってわけです。
それが、「身体は認識の主簡に二重の仕方で与えられる」の意味です。>
富増 章成(「ショーペンハウアーの哲学とは?」『図解でよくわかる ニーチェの哲学』97頁)
二重性を廃し、反論可能性を無限に認めたウィトの方はカント(の批判哲学の再帰的傾向を数式化したもの)に近いですし、
ショーの方は二重性はアンチノミーを解決したいカントの初期衝動に忠実なわけです。
(ウィトは『論考』でカント批判をしている。後述*)
*
カント『思惟において方向を定めるとは、どういうことか』(1786)への批判
以下は『論理哲学論考』より
___________
六・三六一 右手と左手を重ね合わせることができない、というカントの問題は、平面の場合に既に存立しており、
それどころか次のような一次元の空間においても存立しているのである。
…………〇━━━━━━ ×…………×━━━━━━ ○…………
a b
ここで二つの合同な図形a、bを、この空間の外へと動かすことなくしては、重ね合わせることはできない。
右手と左手とは実際に完全に合同である。そして両者が重ね合わされないことは、このこととは全く関係がない。
右手の手袋を仮に四次元空間で回転できるとすれば、それを左手にはめることも可能であろう。
『論理哲学論考』(邦訳全集第1巻p.114より)
______________
カントに批判の数式化及び上記のような単純化(三次元から二次元へ)において、ウィトは
カント第6批判書を書いたとさえ言いたい。
第5批判書はむろんニーチェではなくショーペンハウアーが書いたのだ。
追記:
カントは学部の構成の正当性について書いている(『諸学部の争い』1798年)。
カントの再帰的かつ反省的体系批判は大学にも当てはまるし、国家や国連にも当てはまる。
ちなみにショーもウィトもカントの「至上命令」を拒否している(ワイナー邦訳第三部)
ただこれはスピノザに比べると弱い
直観の擁護ではなく不可知論になるからだ
カントの功績は哲学に反証可能性を持ち込んだこと
そのことで自律を考える基盤が出来たことだろう
36節
歴史、自然学、数学 、芸術
36節
歴史、自然学、数学 、
芸術
永遠の
相
ワイナー194頁
論考6ー45、全集邦訳118頁
ショー34節。中公359頁
エチカ5:31備考
反哲学的断章邦訳32頁 永遠の相
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/tlpservice/tlpJP.html?ja#5.6331
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/tlpservice/tlpJP.html?ja#5.5423
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html
「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
6.36111
右手と左手を重ね合わすことができないというカントの問題は、すでに、平面においても、また一次元空間でも成り立つ。一次空間で二つの合同な図形 a と b は、
– – – ○————✕ – – ✕————○ – – –
a b
この空間の外に出さないかぎり、重ね合わすことができない。実際に右手と左手とはまったく合同なのである。つまり、両者を重ね合わせられないことは、それらが合同であることとは無関係なのである。
もし、四次元空間において手袋を回転させることができるならば、そのとき、右の手袋を左手にはめることができるだろう。
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html
5.5423
複合的なものを知覚するとは、その構成要素がお互いにしかじかの関係にあることを知覚することである。
このことはまた、次の図
が二通りの仕方で立方体として見ることができるということ、および類似した現象を、良く説明する。というのも、われわれはまさしく実際に二つの異なる事実を見ているのだからである。
(まず a の角を見つめ、それから b を一瞥すると、a が前に出て見える、逆もできる。)
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html
「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/tlpservice/tlpJP.html?ja#6.36111
6.36111
右手と左手を重ね合わすことができないというカントの問題は、すでに、平面においても、また一次元空間でも成り立つ。一次空間で二つの合同な図形 a と b は、
– – – ○————✕ – – ✕————○ – – –
a b
この空間の外に出さないかぎり、重ね合わすことができない。実際に右手と左手とはまったく合同なのである。つまり、両者を重ね合わせられないことは、それらが合同であることとは無関係なのである。
もし、四次元空間において手袋を回転させることができるならば、そのとき、右の手袋を左手にはめることができるだろう。
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/tlpservice/tlpJP.html?ja#5.5423
5.5423
複合的なものを知覚するとは、その構成要素がお互いにしかじかの関係にあることを知覚することである。
このことはまた、次の図
b_______b
/| /|
a/______a/ |
| | | |
| |____|__|
| /b | /b
|/______|/
a a
が二通りの仕方で立方体として見ることができるということ、および類似した現象を、良く説明する。というのも、われわれはまさしく実際に二つの異なる事実を見ているのだからである。
(まず a の角を見つめ、それから b を一瞥すると、a が前に出て見える、逆もできる。)
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html
「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/tlpservice/tlpJP.html?ja#6.36111
6.36111
右手と左手を重ね合わすことができないというカントの問題は、すでに、平面においても、また一次元空間でも成り立つ。一次空間で二つの合同な図形 a と b は、
– – – ○————✕ – – ✕————○ – – –
a b
この空間の外に出さないかぎり、重ね合わすことができない。実際に右手と左手とはまったく合同なのである。つまり、両者を重ね合わせられないことは、それらが合同であることとは無関係なのである。
もし、四次元空間において手袋を回転させることができるならば、そのとき、右の手袋を左手にはめることができるだろう。
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/tlpservice/tlpJP.html?ja#5.5423
5.5423
複合的なものを知覚するとは、その構成要素がお互いにしかじかの関係にあることを知覚することである。
このことはまた、次の図
b_______b
/| /|
a/______a/ |
| | | |
| |____|__|
| /b | /b
|/______|/
a a
が二通りの仕方で立方体として見ることができるということ、および類似した現象を、良く説明する。というのも、われわれはまさしく実際に二つの異なる事実を見ているのだからである。
(まず a の角を見つめ、それから b を一瞥すると、a が前に出て見える、逆もできる。)
「意志する主体を仮定すべきいかなる理由が存在するのか。
私の世界ということでは個体化にとって十分ではない、とでもいうのか。」
(1916年11月19日『草稿』邦訳ウィトゲンシュタイン全集1 巻283頁)
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html
「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/tlpservice/tlpJP.html?ja#6.36111
6.36111
右手と左手を重ね合わすことができないというカントの問題は、すでに、平面においても、また一次元空間でも成り立つ。一次空間で二つの合同な図形 a と b は、
– – – ○————✕ – – ✕————○ – – –
a b
この空間の外に出さないかぎり、重ね合わすことができない。実際に右手と左手とはまったく合同なのである。つまり、両者を重ね合わせられないことは、それらが合同であることとは無関係なのである。
もし、四次元空間において手袋を回転させることができるならば、そのとき、右の手袋を左手にはめることができるだろう。
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/tlpservice/tlpJP.html?ja#5.5423
5.5423
複合的なものを知覚するとは、その構成要素がお互いにしかじかの関係にあることを知覚することである。
このことはまた、次の図
b_____b
/| /|
a/____a/ |
| | | |
| |__|__|
| /b | /b
|/____|/
a a
が二通りの仕方で立方体として見ることができるということ、および類似した現象を、良く説明する。というのも、われわれはまさしく実際に二つの異なる事実を見ているのだからである。
(まず a の角を見つめ、それから b を一瞥すると、a が前に出て見える、逆もできる。)
http://www.youtube.com/watch?v=m-_Qb2YCg7Q&t=1m30s
[255]9/18(火)20:49 P↓
カントのカテゴリーが4つであることと
四則演算の記号が4つであることは偶然ではない
カント自身は数学を総合的に捉えてはいるが
特に数学記号を重視していないので
十分にその可能性を展開出来なかった
(言語論的転回の自覚が足りなかった)
その思考形式において+-×÷はそれぞれ量質関係様相に対応し得る
つまりカントは無自覚に四則演算を悟性において
無意識裏に展開していたのだ
カント哲学のこうした再形式化は、
ウィトゲンシュタインも行っている(後述)
[256]255
カント『思惟において方向を定めるとは、どういうことか』(1786)への批判
以下は『論理哲学論考』より
___________
六・三六一 右手と左手を重ね合わせることができない、というカントの問題は、平面の場合に既に存立しており、
それどころか次のような一次元の空間においても存立しているのである。
…………〇━━━━━━ ×…………×━━━━━━ ○…………
a b
ここで二つの合同な図形a、bを、この空間の外へと動かすことなくしては、重ね合わせることはできない。
右手と左手とは実際に完全に合同である。そして両者が重ね合わされないことは、このこととは全く関係がない。
右手の手袋を仮に四次元空間で回転できるとすれば、それを左手にはめることも可能であろう。
『論理哲学論考』(邦訳全集第1巻p.114より)
(窓)http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/tlpservice/tlpJP.html?ja#6.36111
______________
カントに批判の数式化及び上記のような単純化(三次元から二次元へ)において、ウィトは
カント第6批判書を書いたとさえ言いたい。
第5批判書はむろんニーチェではなくショーペンハウアーが書いたのだ。
追記:
カントは学部の構成の正当性について書いている(『諸学部の争い』1798年)。
カントの再帰的体系批判は大学にも当てはまるし、国家や国連にも当てはまる。
[257]255
追記:
ウィトによるカントの再形式化は(ショーペンハウアー批判を経由しつつも)、
真理関数 [p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)に帰着します
カント『思惟において方向を定めるとは、どういうことか』(1786)同様の主張
は、
プロレゴメナ13節にもある
兵頭高夫
ショーペンハウアー論に
インド哲学
フロイト
ヴィトゲンシュタイン
との関係の記述がある
兵頭は
ショーペンハウアーの
意志、イデア、表象が
スピノザの
実体、属性、様態に当たると書いている
69頁
ショーペンハウアーの4部構成は
仏教の苦集滅道
にあたるとされる
兵頭33頁
62頁
意志ブラフマン
表象アートマン
は必ずしも一致しない
ブラフマンはむしろ意志の否定
認識主体たり得るから
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「我思う、故に我あり」デカルト
「我あり、故に我思う」ハイデガー
「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する、Ego sum cogitans.)」スピノザ
「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
「我思う=我あり(同語反復)」カント?
「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール
「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー 続第四章全集5巻64頁
「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ『理性論』四章
< 主宰神の幻術(マーヤー)
讃歌、祭祀、儀礼、誓戒、過去、未来及び聖典の諸説等、万象はすべて
幻術師(マーイン)がこのもの(梵)より創り出せるものなり。そして他
のもの(個人我)は幻術の力によりて万象の中につな糸世(つな)がれてあり。
さて、幻術とは自性(ブラクリティ)にして、幻術師は大自在主と知るべし。
この一切世界は大自在主の分身となれる個我によりて満たされてあり。>
(「シヴェータシヴァタラ・ウパニシャッド」『ウパニシャッド』佐保田鶴治
訳、平河出版社241頁より)
<注
この一節は後のヴェーダーンダ哲学の迷妄説(ma`ya`-va`da)の最古の出典
として重んじられている(Veda`nta-su`tra 二・一・一四の註)。しかし、こ
このma`ya`は主観的な迷妄ではない。ma`ya`は神の大能なのである。>
(同377頁より)
< 主宰神の幻術(マーヤー)
讃歌、祭祀、儀礼、誓戒、過去、未来及び聖典の諸説等、万象はすべて
幻術師(マーイン)がこのもの(梵)より創り出せるものなり。そして他
のもの(個人我)は幻術の力によりて万象の中につな糸世(つな)がれてあり。
さて、幻術とは自性(プラクリティ)にして、幻術師は大自在主と知るべし。
この一切世界は大自在主の分身となれる個我によりて満たされてあり。>
(「シヴェータシヴァタラ・ウパニシャッド」『ウパニシャッド』佐保田鶴治
訳、平河出版社241頁より)
<この一節は後のヴェーダーンダ哲学の迷妄説(māyā-vāda)の最古の出典
として重んじられている(Vedānta-sūtra 二・一・一四の註)。しかし、こ
このmāyāは主観的な迷妄ではない。māyāは神の大能なのである。>
(同377頁より)
• マクロン - Wikipedia
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マクロンはダイアクリティカルマークの一つで、長音記号とも言う。これに対する ... 用例 : Ā ā Ē ē Ī ī N̄ n̄ Ō ō Ū ū ... Ā, U+0100, 1-9-85, Ā Ā, ā, U+0101, 1-9-90, ā ā, Ā. Ǟ, U+01DE, -, Ǟ Ǟ, ǟ, U+01DF, -, ǟ ...
用途 - 文字一覧 - 脚注 - 関連項目
• Ā - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/Ā - キャッシュ
Ā, ā は、Aにマクロンを付した文字である。日本語の ... 日本語のローマ字では「あ」の音の長音および、「あ」の音の連続を示す。 長音で表す場合[aː]の発音であり、「あ」の音の連続の場合は[aa]である。 ... Ā, ā, U+0101, 1-9-90, ā ā ...
プルシャとプラクリティ
www.ne.jp/asahi/hindu/vedanta/foot.../purusa.html - キャッシュ
これに対して物質原理は、プラクリティ(自性)、あるいはプラダーナ(根本原質)と呼ばれる質料因で、活動性があり、三種の構成要素(グナ)からなっている。 三種のグナは「サットヴァ(sattva:純質)」、「ラジャス(rajas:激質)」、「タマス(tamas:翳質)」であり、他 ...
•
• プラクリティ PRAKRITI - 八丁堀/インド料理 [食べログ]
http://yojiseki.exblog.jp/8774845/
インド唯名論と実在論 : 関本洋司のブログ
続表象四巻の補足
エチカ5:23注、永遠
41章
邦訳7巻46頁
同60頁
(「イデア[種族]」、39頁)
エチカ4:44、愛
44章
邦訳7巻115頁
エチカ4:67、自己保存
50章
同289頁
スピノザも基準として考察のなかに組み込むべき。
実体ーーーー属性ーーーー様態
意志ーーーーイデアーーー表象
ブラフマンー階級ーアートマン?
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、
大胆な仮説も必要だ。
スピノザも基準として考察のなかに組み込むべき、
実体ーーーー属性ーーーー様態
意志ーーーーイデアーーー表象
ブラフマンー階級ーアートマン
ーーーーーー自我ーーマーヤー
物自体ーーー悟性ーーーー現象
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、
大胆な仮説も必要だ。
スピノザも基準として考察のなかに組み込むべき、
実体ーーーー属性ーーーー様態
意志ーーーーイデアーーー表象
ブラフマンー階級ーアートマン
主宰神ーーー自我ーーマーヤー
物自体ーーー範疇ーーーー現象
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、
大胆な仮説も必要だ。
http://ganga-jal.com/hindu-god.html
--------------------
【ブラフマー】
宇宙創造の主宰神。
4つの顔、4本の腕を持つ姿が基本。
どこにいても美しい妻(サラスヴァティー)の顔を見ることが出来るようにと4つの顔が生じたという。仏教では梵天と呼ばれる。
●性別:男性神
●仕事:宇宙の創造を司る世界の主。
●装身具:水壺、笏、数珠、ヴェーダ聖典
●乗物:聖鳥ハンサ
●妻:サラスヴァティ、ガーヤトリー
スピノザ、カントも基準として考察のなかに組み込むべき、
実体ーーーー属性ーーーー様態
物自体ーーー範疇ーーーー現象
意志ーーーーイデアーーー表象
主宰神ーーー自我ーーマーヤー
_________________X__________
ブラフマンー階級ーアートマン
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、
大胆な仮説も必要だ。
スピノザ、カント、仏教も基準として考察のなかに組み込むべき、
実体ーーーー属性ーーーー様態
物自体ーーー範疇ーーーー現象
意志ーーーーイデアーーー表象
ーーーーーー自我ーーマーヤー
______________X__________
ブラフマンー階級ーアートマン
無ーーーーー空、悟りーーー色
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
スピノザ、カント、仏教も基準として考察のなかに組み込むべき、
実体ーーーー属性ーーーー様態
意志ーーーーイデアーーー表象
物自体?ーー自我ーーマーヤー
ブラフマンー階級ーアートマン?
無ーーーーー空、悟りーーー色
物自体ーーー範疇ーーーー現象
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
スピノザ、カント、仏教も基準として考察のなかに組み込むべき、
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
物自体?ーー自我ーーマーヤー
ブラフマンー階級ーアートマン? バラモン
無ーーーーー空、悟りーーー色 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
スピノザ、カント、仏教も基準として考察のなかに組み込むべき、
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
物自体ーーー自我ーーマーヤー
ブラフマンー階級ーアートマン バラモン
無ーーーーー空・悟りーーー色 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
スピノザ、カント、仏教も基準として考察のなかに組み込むべきだ。
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー階級ーアートマン バラモン
無ーーーーー空・悟りーーー色 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
スピノザ、カント、仏教も基準として考察のなかに組み込むべきだ。
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー階級ーアートマン バラモン
無ーーーーー空・悟りーーー色 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
スピノザ、カント、プラトン、仏教も基準として考察のなかに組み込むべきだ。
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー祭祀ーアートマン バラモン
無ーーーーー空・悟りーーー色 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
スピノザ、カント、プラトン、キリスト教、仏教も基準として考察のなかに組み込むべきだ。
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
神ーーーーーキリストーー人間 キリスト教
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー祭祀ーアートマン バラモン
無ーーーーー空・悟りーーー色 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
スピノザ、カント、プラトン、キリスト教、仏教も基準として考察のなかに組み込むべきだ。
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
神ーーーーー個体化ーーモナド ライプニッツ
神ーーーーーキリストーー人間 キリスト教
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー祭祀ーアートマン バラモン
無ーーーーー空・悟りーーー色 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
スピノザ、カント、プラトン、キリスト教、仏教も基準として考察のなかに組み込むべきだ。
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
神ーーーーー個体化ーーモナド? ライプニッツ
神ーーーーーキリストーー人間 キリスト教
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー祭祀ーアートマン? バラモン
無ーーーーー空・悟りーーー色 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
?は移動可能。
スピノザ、カント、プラトン、キリスト教、仏教も基準として考察のなかに組み込むべきだ。
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
モナド?ーー個体化ーーー世界 ライプニッツ
神ーーーーーキリストーー人間 キリスト教
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー祭祀ーアートマン? バラモン
無ーーーーー空・悟りーーー色 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
?は移動可能。
スピノザ、カント、プラトン、キリスト教、仏教等も基準として考察のなかに組み込むべきだ。
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
モナド?ーー個体化ーーー世界 ライプニッツ
神ーーーーーキリストーー人間 キリスト教
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー祭祀ーアートマン? バラモン(ウェーダンタ/サーンキヤ)
無ーーーーー空・悟りーーー色 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
?は移動可能。
スピノザ、カント、プラトン、キリスト教、仏教等も基準として考察のなかに組み込むべきだ。
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
モナド?ーー個体化ーーー世界 ライプニッツ
神ーーーーーキリストーー人間 キリスト教
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー祭祀ーアートマン? バラモン(ウェーダンタ/サーンキヤ)
無ーーーーー空・悟りーー五蘊 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
?は移動可能。
ワイナー222頁
家族的類似性はショーペンハウアーの言葉
17節中公243頁種族的な類似性
27節中公311頁同族的相似性、元はシェリング派の言葉らしい
31章?
Familienähnlichkeit (engl. family resemblance or family likeness, cluster definition)
http://www.egs.edu/library/arthur-schopenhauer/articles/die-welt-als-wille-und-vorstellung/17/
Wenn wir uns aber ihrer Belehrung hingeben, so werden wir bald gewahr, daß die Auskunft, welche wir hauptsächlich suchen, uns von der Aetiologie so wenig, als von der Morphologie zu Theil wird. Diese letztere führt uns unzählige, unendlich mannigfaltige und doch durch eine unverkennbare Familienähnlichkeit verwandte Gestalten vor, für uns Vorstellungen, die auf diesem Wege uns ewig fremd bleiben und, wenn bloß so betrachtet, gleich unverstandenen Hieroglyphen vor uns stehn. -
http://www.egs.edu/library/arthur-schopenhauer/articles/die-welt-als-wille-und-vorstellung/27/
Ihn aufzufinden ist auch ein Hauptgeschäft, oder doch
gewiß die löblichste Bestrebung der Naturphilosophen der Schellingischen Schule gewesen, welche sogar darin manches
Verdienst haben; wenn gleich in vielen Fällen ihre Jagd nach Analogien in der Natur zur bloßen Witzelei ausartet. Mit Recht
aber haben sie jene allgemeine Verwandtschaft und Familienähnlichkeit auch in den Ideen der unorganischen Natur
nachgewiesen, z.B. zwischen Elektricität und Magnetismus, deren Identität später konstatirt wurde, zwischen chemischer
Anziehung und Schwere u. dgl. m. Sie haben besonders darauf aufmerksam gemacht, daß die Polarität, d.h. das
Auseinandertreten einer Kraft in zwei qualitativ verschiedene, entgegengesetzte und zur Wiedervereinigung strebende
Thätigkeiten, welches sich meistens auch räumlich durch ein Auseinandergehn in entgegengesetzte Richtungen offenbart, ein
Grundtypus fast aller Erscheinungen der Natur, vom Magnet und Krystall bis zum Menschen ist. In China ist jedoch diese
Erkenntniß seit den ältesten Zeiten gangbar, in der Lehre vom Gegensatz des Yin und Yang.
ワイナー222頁
家族的類似性はショーペンハウアーの言葉
17節中公243頁種族的な類似性
27節中公311頁同族的相似性、元はシェリング派の言葉らしい
31章白水6巻296頁親族として相似している、天才
家族的類似性
哲学探求67節、70ページ
ウィトゲンシュタイン全集8
家族的類似性
定本トラクリ106頁
スピノザ、カント、プラトン、キリスト教、仏教等も基準として考察のなかに組み込むべきだ。
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
モナド?ーー個体化ーーー世界 ライプニッツ
神ーーーーーキリストーー人間 キリスト教
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー祭祀ーアートマン? バラモン(ヴェーダンタ/サーンキヤ)
無ーーーーー空・悟りーー五蘊 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
?は移動可能。
スピノザ、カント、仏教等も基準として考察のなかに組み込むべきだろう。
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
モナドーーー個体化ーーー世界 ライプニッツ
神ーーーーーキリストーー人間 キリスト教
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー祭祀ーアートマン バラモン(ヴェーダンタ/サーンキヤ)
無ーーーーー空・悟りーー五蘊 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
ショーペンハウアーの書誌研究も大事だが、大胆な仮説も必要だ。
トーマスマン『ブッデッッブローク家の人びと』下
208−9頁新潮文庫
に
続41章を読む描写がある
スピノザは意志と欲望を2:28備考では分け感情の定義1では同一視する
岩波文庫第三部の註6に詳しいが、その註に反し後者がスタンダードに思える
そのかわり神の欲望と人間の欲望は一致しない
岩波解説で、
スピノザの最初の構想で第四分の公理が複数あったのではないか
というのが興味深い
最新の研究が待たれる
エチカは3:27ラスト
4:37備考1など解釈が分かれるものがある
http://www1.odn.ne.jp/gakuju/kyokai/spinoza.html
ニュース:『エチカ』のマニュスクリプト発見さる
Brill社刊The Vatican Manuscript of Spinoza’s Ethicaの 解説によると、Leen Spruitおよび Pina Totaroにより、バチカンの図書館にて『エチカ』の草稿の初期の写本が発見されたとのことです。草稿はカトリックに改宗したスピノザの元友人、ニールス・ステンセン(ニコラウス・ステノ)の手でローマの検邪聖省(the Roman Holy Office)に1677年9月に手渡されたもので、これはスピノザの『遺稿集』が世に出た1678年よりも前の日付だということです。詳細はこちら。
The Vatican Manuscript of Spinoza’s Ethica
Leen Spruit and Pina Totaro
Brill authors Leen Spruit and Pina Totaro discovered the original manuscript of Spinoza's "Ethica" in the Vatican library. This spectacular discovery attracted a lot of media attention.
NRC Handelsblad,, 26th May 2011
Radio 1, News, 27th May 2011
NOS news, 27th May 2011
The Vatican codex, which contains the complete text of Spinoza’s Ethics, is the only surviving manuscript of this work and constitutes a document of great importance. On 23 September 1677, it was handed over to the Roman Holy Office by Spinoza’s former friend Niels Stensen who had converted to … read more
http://www.brill.com/vatican-manuscript-spinoza-s-ethica
The Vatican Manuscript of Spinoza’s Ethica
前表紙
Leen Spruit, Pina Totaro
http://books.google.co.jp/books?id=7swPH5qLrMIC
第4部の公理は現行と同じく1つだった
スピノザは意志と欲望を2:28備考では分け感情の定義1では同一視する
岩波文庫第三部の註6に詳しいが、その註に反し後者がスタンダードに思える
そのかわり神の欲望と人間の欲望は一致しない
2:49系では意志=知性
これは個々の判断力を指す
家族的類似性
哲学探求67節、70ページ
ウィトゲンシュタイン全集8
ワイナー222頁参照
家族的類似性
定本トラクリ106頁
家族的類似性
哲学探求67節、70ページ
ウィトゲンシュタイン全集8
ワイナー222頁参照
家族的類似性
定本2,173頁
定本トラクリ106頁
ウィト論考の肝は6.の真理関数の数式です。
以下、ラッセルの解説。
____________
[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線)
…このシンボルの説明は次の通りです。
p(pに上線)は全ての原子命題を代表します。
ξ( ξに上線)は命題の集合のいずれをも代表します。
N(ξ)(ξに上線)はξを作り上げる全ての否定を代表します。
<シンボル全体[p, ξ, N(ξ)](p, ξに上線) は次のようにして得ることのできるあらゆるものを意味します。即ち、
原子命題を任意に選択し、それら選択された命題を全て否定し、かくして得られる諸命題の集合から任意に命題
を選択し、これにはじめの原子命題を任意に付け加え、そしてこれらを全て否定する、……といったことを無限に
くりかえして得られるあらゆるものを意味します。>
(ラッセルによる序文『論考』邦訳全集一12頁より)
____________
ですから世界は行為であるという「反論」はN…に対応しており、
ウィトの真理関数は崩れないわけです。
ショーペンハウアーの場合、は行為と認識の二重性を認めますから、以下のような解説が可能になります。
<手をニギニギすると、客観的な物体としてとらえられるとともに、内側の主観的な「手」
のあり方を感じられます。つまり、普通の物体は、外部から観察されるだけ(客観的存在)
ですが、自分の身体だけは、外側(客観)と内側(主観)で二重にわかるってわけです。
それが、「身体は認識の主観に二重の仕方で与えられる」の意味です。>
富増 章成(「ショーペンハウアーの哲学とは?」『図解でよくわかる ニーチェの哲学』97頁)
二重性を廃し、反論可能性を無限に認めたウィトの方はカント(の批判哲学)に近いですし、
ショーの方は二重性はアンチノミーを解決したいカントの初期衝動に忠実なわけです。
67節中公655頁にも定言命法批判がある
Blogger yoji said...
ウィトは
論考6.422
で
行為そのものに賞罰があるべきだと述べる
カントよりスピノザに近い
ショーもカント哲学の批判邦訳全集4巻253−4頁でカントの至上命令を批判する
1:02 午後
Blogger yoji said...
参考:
ワイナー177−8
続26でスピノザの目的論が批判される
続26でスピノザの無目的論が批判される
スピノザの場合
集苦滅道
3を苦と解釈してもいい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E8%AD%98%E8%AB%96
知識とは、真であり、かつ、信じられている命題の部分集合であるとの定式はプラトンに起源をもつ。
テアイテトス
ロックも至上命令を否定している
知性論2-23-6
私は思惟する事物である
ライプニッツ新論みすず368頁
4:2
「我思う、故に我あり」デカルト
「我あり、故に我思う」ハイデガー
「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する、Ego sum cogitans.)」スピノザ
「私は思惟する事物である」ライプニッツ新論みすず368頁4:2
「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
「我思う=我あり(同語反復)」カント?
「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール
「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー 続第四章全集5巻64頁
「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ『理性論』四章
Kant was for Bolzano throughout his life a permanent challenge that stimulated him to develop original ideas . 永久の 挑戦 が彼 を励ましてとても 独創的な 考え をもつ ようにした 人生で 、カント は彼のもの を通して ボルツァーノ に賛成でした 。
When he was eighteen years old , he already studied Kant 's Critique of Pure Reason . 18 才 であった とき 、彼 はPure Reason の カント のCritique をすでに 勉強しました 。
Of particular interest for Bolzano was Kant 's moral philosophy . カント の道徳学 は、ボルツァーノ のために 特に興味がありました 。
The Categorical Imperative was from the very beginning a target of his critique . Categorical Imperative は、最初から 彼 の批評 の 標的 でした 。
“The first points in which he [ i.e. , Bolzano ] thought he could definitely accuse Kant of being in error concerned the highest moral principle ”, Bolzano writes in his notes about himself in the third person ( Bolzano 1977 , 68 ) . 「カント をエラー において あった として 確かに 訴える ことができる と、彼 [ すなわち 、 ボルツァーノ ] が思った 最初の 点 は、最も高い 道徳的な 主義 に関しました 」と、ボルツァーノ は第三者 ( ボルツァーノ 1977 、 68 ) で 彼自身 について 彼 のメモ で 書き ます。
In the Textbook of the Science of Religion , Bolzano subjected the Categorical Imperative to a careful critique ( RW I , 253 ff. ) . Religion の サイエンス の Textbook に 、 ボルツァーノ はCategorical Imperative に慎重な 批評 ( RW I 、 253の ff. ) を 受けさせました 。
Bolzano 's main objection against the Categorical Imperative was that we cannot derive from it alone Categorical Imperative に対する ボルツァーノ の主要な 異議 は、我々 が単独で それ に 由来する ことができ ないということでした
— —
as Kant supposed 仮定される カント として
— —
whether a given act ought to be done or not. 既知の事実 が行うか どうか は、される べきです 。
Kant 's instruction to ask ourselves of a maxim whether we can will without contradicting ourselves that it should become a universal law is of no use , according to Bolzano , since for him there is no practical proposition or ought proposition whose contradictory opposite is self-contradictory . 格言 の 我々自身 に尋ねる カント の指示 どうか 、我々 は、我々自身 否認する ことのない 缶 意志 です彼 のために 実際的な 提案 が ない 時から 、ボルツァーノ によって 、それ が国際 法律 になら なければならない ことが無益で あります、あるいは、 必要があり ます矛盾している 正反対 が自己矛盾し ている 提案 。
This , however , is not a decisive argument against Kant 's Categorical Imperative for several reasons . しかし 、これ はいくつかの 理由 のための カント のCategorical Imperative に対する 決定的な 議論 であり ません 。
Nevertheless , Bolzano refused to accept the Categorical Imperative strictly and replaced it with the utilitarian principle of “the advancement of the general welfare ”, as he proudly reports in his autobiography ( Bolzano 1836 , 23 ) . それでも 、 彼 が自叙伝 ( ボルツァーノ 1836 、 23 ) で 誇りをもって 報告する ように 、ボルツァーノ は厳しく Categorical Imperative を受け入れる ことを拒否して 、 それ を「一般的な 福祉 の 進歩 」の 功利主義の 原則 と 入れ替えました 。
(1834b) [anonymous] Lehrbuch der Religionswissenschaft, ein Abdruck der Vorlesungshefte eines ehemaligen Religionslehrers an einer katholischen Universität, von einigen seiner Schüler gesammelt und herausgegeben, 3 parts in 4 volumes, Sulzbach: J. E. v. Seidel; BGA I, 6–8; E of selected parts in Bolzano 2007b, pp. 171–229. [Bolzano 1834b was put on the Index librorum prohibitorum on 23 September 1839, without mention of Bolzano's name; cf. Index 1841, pp. 211f. ]
[RW] Bolzano 1834b, with Roman numerals for the volumes and Arabic numerals for the pages (the page numbers of the original edition are used since they appear in later editions).
http://plato.stanford.edu/entries/bolzano/#CriKanCatImp
Bernard Bolzano (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
(1836) Lebensbeschreibung des Dr. B. Bolzano, Sulzbach: J. E. v. Seidel; 2nd edition: Vienna: Wilhelm Braumüller, 1875.
彼にインスパイアされたブライアン・オショーネシーというオーストラリア人は、畢生の大著『意志』(1980)を発表しましたが、英語が難しすぎて歯が立ちません。英語ネイティブですら、何を言ってるんだか分からない、と言ってます。実に残念に思います。
http://nam-students.blogspot.jp/2012/08/blog-post_28.html
NAMs出版プロジェクト: ショーペンハウアーとウィトゲンシュタイン
ショーペンハウアーが本書の序論とみなしている博士論文「根拠律の四つの根について」においては表象は以下の4類に分かたれている。
1. 先天的な時間空間、ないしは「存在 (essendi) の根拠(充足理由律)」36節
2. 原因と結果の法則、あるいは「生成 (fiendi) の根拠」20節
3. 概念論理的判断、ないしは「認識 (cognoscendi) の根拠」29節
4. 行為の動機づけの法則、ないしは「行為 (agendi) の根拠」43節
ドゥルーズ『差異と反復』第一章、結論の重要なモチーフ
2314の順
ショーペンハウアーが本書の序論とみなしている博士論文「根拠律の四つの根について」においては表象は以下の4類に分かたれている。
1. 先天的な時間空間、ないしは「存在 (essendi) の根拠(充足理由律)」36節
2. 原因と結果の法則、あるいは「生成 (fiendi) の根拠」20節
3. 概念論理的判断、ないしは「認識 (cognoscendi) の根拠」29節
4. 行為の動機づけの法則、ないしは「行為 (agendi) の根拠」43節
ドゥルーズ『差異と反復』第一章、結論の重要なモチーフ
2314の順
59頁、
391
394
402
509
ドゥルーズの順番、59頁
同一性、未規定な概念の形式における、生成
類比、規定可能なカテゴリー間の 認識
対立、概念内部の諸規定の関係における 存在
類似、対象における 行為
「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から分離する、
唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の世界に属するのである。
従って一方には何も残存しなく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論は
厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。[((論考)5.64を参照]」
1916年10月15日
「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁
同じ論理がショーペンハウアー根拠律19節邦訳全集51頁のスピノザに関する言及にある
ショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』の序論とみなしている博士論文
「根拠律の四つの根について」(邦訳全集第一巻)において表象は以下の4類に分かたれている。
1. 原因と結果の法則、あるいは「生成 (fiendi) の根拠」20節
2.概念論理的判断、ないしは「認識 (cognoscendi) の根拠」29節
3. 先天的な時間空間、ないしは「存在 (essendi) の根拠(充足理由律)」36節
4. 行為の動機づけの法則、ないしは「行為 (agendi) の根拠」43節
ちなみにドゥルーズは『差異と反復』(単行本59、391、394、402、509頁他参照)
でこの4つの分類を採用している。
ショーペンハウアーの名前は最後に出てくるだけだからなかなか着目されないが、
ドゥルーズは哲学史的には軽視されがちなショーペンハウアーによる表象の分類をその主著の
根幹に据えているのだ。
ドゥルーズの説明だと以下。
同一性、未規定な概念の形式における、生成
類比、規定可能なカテゴリー間の 認識
対立、概念内部の諸規定の関係における 存在
類似、対象における 行為
これらは『差異と反復』の全体構造にかかわっている。つまり『差異と反復』は『意志と表象
としての世界』を引き継いでいるのだ。
差異=表象
反復=意志
実_体
分_析
生成|認識
表象__|__意志
|
存在|行為
総_合
形_式
ライプニッツの同一律が生成に当る。
カントのカテゴリーは認識の中にあり、
それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
ただカント的、第二批判第三批判に存在と行為は対応するし、
全体としては
量質
関係様相
というカントのカテゴリーの枠のままだ。
また四つの項を順位にべれば、交互に表象と意志に対応する。
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
ライプニッツの同一律が生成に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーは認識の中にあり、
それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
ただカント的には第二批判と第三批判に、存在と行為は対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
また四つの項を順位にべれば、交互に表象と意志に対応する。
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
ライプニッツの同一律が生成に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーは認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判に、存在と行為は対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズ的にはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
ライプニッツの同一律が生成に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーは認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判に、存在と行為は対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
ライプニッツの同一律が生成に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーは認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
四つの根拠律
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
ライプニッツの同一律が生成に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーは認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
四つの根拠律
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
ライプニッツの同一律が生成に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーは認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
四つの根拠律:
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
ライプニッツの同一律が生成に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーは認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
根拠律の四つの根:
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
認識は更に
論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理
にわけられる。
ライプニッツの同一律は認識に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Critique_of_the_Kantian_philosophy
ドゥルーズは同一律を生成に見出し、
ショーは論理的真理に位置づける
根拠律の四つの根:
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
認識は更に
論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理
にわけられる。
ライプニッツの同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
根拠律の四つの根:
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツの同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
ライプニッツの原理:メモ
\////// 無矛盾
\//// 2、類比の原理
同一律 \// /|(結合法)
同一的なもの \ / ↑|
& /_\______/__|______
1、矛盾律 \/////分析的|//////
(例: \///(潜在 ↓|//////
アルファベット) \/ 的同一)|//////
/\充分理由律|//////
___________/__\3 ↓ |//////
/////////// (記号法、 |//////
////////// 微分積分dy/dx)|//////
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
//////// ↑ |//////
///////4、不可識別者同一の原理|//////
////// (モナド1/∞) |//////
__原理______存在の分類__包摂___________主語__述語_____無限_________
1、矛盾律 同一的なもの 自立的包摂 神 属性 それ自身による〜
2、類比の原理 定義可能 相互的包摂 外延 関係 原因による〜
3、充分理由律 条件づけ可能 一方向的局限可能包摂 内包 関係 内的極限を持つ〜の系列
4、不可識別者同一 個体 一方向的局限不可能包摂 実体 様式、出来事 内的極限を持つ〜の系列
(参照:ドゥルーズ『ライプニッツ』)
ショーペンハウアーも上記をカント批判に応用している。
ドゥルーズの順番、59頁
同一性、未規定な概念の形式における、生成
類比、規定可能なカテゴリー間の 認識
対立、概念内部の諸規定の関係における 存在
類似、対象における 行為
ショーもカントもドゥも
ライプニッツの原理が基礎にある
スピノザはその応用の際必要になる
四つの根23節のカントにおけるライプニッツの影響の指摘は重要だ
根拠律の四つの根:
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
根拠律の四つの根:
分_析
生成|認識
表象__|__意志
|
存在|行為
総_合
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
表象ー意志
延長ー思惟
流出論的には:
意志
/\
/ \
/生成 \
/ 認識\
/ 存在 \
/ 行為 \
/____________\
表象
スピノザ的には:
存在 /\ 行為
\/ \/
/\ /\
生成 \/ 認識
流出論的には:
意志
/\
/ \
/生成 \
/ 認識 \
/ 存在 \
/ 行為 \
/____________\
表象
スピノザ的には:
存在 /\ 行為
延長 \/ \/ 思惟
/\ /\
生成 \/ 認識
流出論的には:
意志
/\
/ \
/生成 \
/ 認識 \
/ 存在 \
/ 行為 \
/____________\
表象
スピノザ的には:
存在 /\ 行為
表象 \/ \/ 意志
延長 /\ /\ 思惟
生成 \/ 認識
根拠律の四つの根:
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
根拠律の四つの根:
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
流出論的には:
表象
/\
/ \
/生成 \
/ 認識 \
/ 存在 \
/ 行為 \意志
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
根拠律の四つの根:
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
流出論的には:
表象/\↓
/ \
/生成 \
/ 認識 \
/ 存在 \
/ 行為 \意志
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
根拠律の四つの根:
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
流出論的には:
/\↓
/ \
表象/生成 \
/ 認識 \
/ 存在 \
/ 行為 \意志
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
根拠律の四つの根:
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
流出論的には: ↓
/\
/ \
表象/生成 \
/ 認識 \
/ 存在 \
/ 行為 \意志
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
根拠律の四つの根:
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
流出論的には: ↓
/\
/ \
表象/生成 \
/ 認識 \意志
/ 存在 \
/ 行為 \
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
根拠律の四つの根:
分_析
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
総_合
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
流出論的には: ↓
/\
/ \
表象/生成 \
/ 認識 \意志
/ 存在 \
/ 行為 \
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
根拠律の四つの根:
分_析
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
総_合
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
流出論的には: ↓
延長/\思惟
/ \
表象/生成 \
/ 認識 \意志
/ 存在 \
/ 行為 \
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
ただ差異と反復を交互に論じる手法は表象と意志を交互に論じる手法と似ている。
根拠律の四つの根:
分_析
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
総_合
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
流出論的には: ↓
延長/\思惟
/ \
表象/生成 \
/ 認識 \意志
/ 存在 \
/ 行為 \
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
ただ差異と反復を交互に論じる手法は表象と意志を交互に論じる手法と似ている。
根拠律の四つの根:
分_析
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
総_合
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
流出論的には: ↓
延長/\思惟
/ \
表象/生成 \
/ 認識 \意志
/ 存在 \
/ 行為 \
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
ただ差異と反復を交互に論じる手法は表象と意志を交互に論じる手法と似ている。
http://schopenhauerundmystik.wordpress.com/
Arthur Schopenhauer lernte den Taoismus erst 1842 durch das Tao te king des Laotse etwas näher kennen, und zwar durch eine fragwürdige Übersetzung ins Französische von Stanislaw Julien. Hieraus übernahm Schopenhauer das Motto zu den “Ergänzungen zum vierten Buch” in seinem Hauptwerk “Die Welt als Wille und Vorstellung” II:
Alle Menschen trachten nur danach,
sich vom Tode zu befreien:
sie wissen nicht, sich vom Leben zu befreien.
Kaum weniger bedeutsam als Laotse war der taoistische Weise und Mystiker Dschuang Dsi (etwa 369-286 v. u. Ztr.). Er gilt als einer der Begründer des philosophischen Taoismus. Sein Werk, das von Richard Wilhelm übersetzt und unter dem Titel “Das wahre Buch vom südlichen Blütenland” veröffentlicht wurde, fand besonders bei Hermann Hesse hohe Wertschätzung: “Von allen Büchern chinesicher Denker, die ich kenne, hat dieses am meisten Reiz und Klang.”
http://translate.google.co.jp/translate?sl=de&tl=ja&js=n&prev=_t&hl=ja&ie=UTF-8&eotf=1&u=http%3A%2F%2Fschopenhauerundmystik.wordpress.com%2F
ペンハウアー 、 荘シーズー 、 ヘルマン·ヘッセ 、 老子 、 神秘主義 、 ショーペンハウアー 、 道教 )
アーサーショーペンハウアーは、スタニスワフジュリアンによってフランス語に疑わしい翻訳で、詳細を知るために老子の道徳経によって1842まで道教を学びました。 したがって、ショーペンハウアーは "世界意志とアイデアとして" II彼の主要な仕事に、 "第四の本への追加"をモットーを取った:
すべての人にのみ求める
死から自らを解放する:
彼らは人生から自由になるのか分からない。
道教セージ老子と荘シーズーよりほとんどあまり重要では(369から286程度のBC CWT)神秘的だった。 彼は哲学的な道教の創始者の一人と考えられている。 リチャードウィルヘルムによって翻訳され、タイトルは "南華のリアルブック"で公開されていました彼の作品は、特にヘルマン·ヘッセ高い自尊心で見つかりました: "私が知っているすべての書籍chinesicher思想家の、これが最も魅力とサウンドを持っています。 "
Stanislas Julien - Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Stanislas_Julien
In 1842 saw the publication of his translation of the 道德經 Dao De Jing. Then he turned his attention to the Buddhist literature of China, and more especially to the travels of Buddhist pilgrims to India. In order that he might better understand the references to Indian institutions and the transcriptions in Chinese ofSanskrit words and proper names, he began the study of Sanskrit, and in 1853 brought out his Voyages du pélerin Hiouen-tsang 大唐西域記 Da Tang Xi You Ji.
続40
http://www.american-buddha.com/lit.schopenwill.supp4.htm
THE WORLD AS WILL AND REPRESENTATION
SUPPLEMENTS TO THE FOURTH BOOK.
Tous les hommes desirent uniquement de se dilivrer de la mort: ils ne savent pas se delivrer de la vie.
-- Lao-tse, Tao-te-king, ed. Stanislas Julien, p. 184.
["All men desire solely to free themselves from death; they do not know how to free themselves from life." -- Tr.]
SUPPLEMENTS TO THE FOURTH BOOK
CHAPTER XL: Preface
The supplements to this fourth book would be very considerable, were it not that two of their principal subjects specially in need of a supplement, the freedom of the will and the foundation of morality, were fully discussed by me in the form of a monograph, and offered to the public in the year 1841 under the title The Two Fundamental Problems of Ethics, on the occasion of prize-questions set by two Scandinavian Academies. Accordingly I assume on the part of my readers an acquaintance with the work just mentioned, just as unconditionally as in the case of the supplements to Book II I assumed an acquaintance with the work On the Will in Nature. In general, I make the demand that whoever wishes to make himself acquainted with my philosophy shall read every line of me. For I am not a prolific writer, a fabricator of compendiums, an earner of fees, a person who aims with his writings at the approbation and assent of a minister; in a word, one whose pen is under the influence of personal ends. I aspire to nothing but the truth, and I write as the ancients wrote with the sole object of preserving my thoughts, so that they may one day benefit those who know how to meditate on them and appreciate them. I have therefore written little, but this little with reflection and at long intervals; accordingly, I have also confined within the smallest possible limits the repetitions, sometimes unavoidable in philosophical works on account of continuity and sequence, from which no single philosopher is free, so that most of what I have to say is to be found only in one place. Therefore, whoever wants to learn from me and to understand me must not leave unread anything that I have written. Yet without this people can criticize and condemn me, as experience has shown; and for this also I further wish them much pleasure.
1生成3存在
4行為2判断(認識)
直覚的表象 生成の根拠律 物理的必然性
抽象的表象 認識の根拠律 論理的必然性
直覚的表象2 存在の根拠律 数学的必然性
意欲の主体 行為の根拠律 道徳的必然性
これらの根拠律を通して生まれる必然性である。
この必然性を各表象が持つために、それぞれの分野の学問は、
その拠って立つべき主たる表象が異なるのである。
横レスさせてもらうと
ショーペンハウアーの意志は(どちらかと言えば)個人的無意識に当たるかもしれません
フロイトもショーペンハウアーが精神分析の先駆者だと認めているようですし
ニーチェへの影響は言わずもがなです
<先達として高名な哲人たちの名を、とりわけ偉大なショーペンハウアーの名を挙げ
なければならない。彼の言う無意識的な「意志」とは精神分析が魂の本能と呼んで
いるものと同じである。さらにこの同じ思想家は忘れることの出来ない力強い言葉
によって、いまだに過小評価を受けている性的努力の意義について人間に警告した
のであった。>
(「精神分析に関わるある困難」(1917)、フロイト著作集人文書院第10巻 331-2頁)
以下、トーマス・マンの指摘。
<意志の心理学者としてのショーペンハウアーは、あらゆる現代心理学の父である。かれ
から出発して、ニーチェの 心理的ラディカリズムをこえてフロイト、およびフロイトの深層
心理学を拡大して精神諸科学に適用した人たちに いたる一本のまっすぐな線が走っている。
(略)ショーペンハウアーの暗い意志の王国は、フロイトが「無意識」と よび、「エス」と
名づけたものとまったく同一であり、他方において、ショーペンハウアーの「知性」は、
フロイト の「自我」(つまり、たましいの外界にむけられた部分)と完全に照応している。>
(「ショーペンハウアー」トーマス・マン『ショーペンハウアー全集 別巻』白水社、238-9頁。)
次25
根拠律の四つの根:
分_析
1生成|2認識
表象___|___意志
|
3存在|4行為
総_合
生成とは因果律であり、三つの形式(原因、刺激、動因)を持つ。
認識は更に、論理的真理、経験的真理、先験的真理、超論理的真理、にわけられる。
ライプニッツ(実は根拠律の源流)の同一律は認識の論理的真理に当る(ラッセルに先行したライプニッツ再評価でもあった)。
カントのカテゴリーも認識の中にあり、それは狭いとショーペンハウアーは言いたいのだろう。
また四つの項を順番に並べれば、交互に表象と意志に対応する。
ただカント的には第二批判と第三批判は、存在と行為に対応するし、
全体としては、量質関係様相、というカントのカテゴリーの枠のままだ。
ドゥルーズが再評価したのはセリー状の思考によってカントのカテゴリーを相対化したかったのではないか?
流出論的には: ↓
延長/\思惟
/ \
表象/生成 \
/ 認識 \意志
/ 存在 \
/ 行為 \
ドゥルーズ自身はショーペンハウアーを客観視しているし、同一律を生成に見出すなど意見がまったく同じというわけではない。
ただ差異と反復を交互に論じる手法は表象と意志を交互に論じる手法と似ている。
ショーペンハウアーはウパニシャッドとやはりつながる。発生論があるところが
仏教と違う。
「この微細なるものはと言えば、・・・この一切(全宇宙)はそれを本質とするものである。
それは真実である。それはアートマンである。
お前はそれである (Tat tvam Asi)。シュヴェータケートゥよ」
(『チャーンドーギア・ウパニシャッド(Ch?ndogya Upanishad)』6章第8節、ウッダーラカ・
アールニUddalaka Aruniの息子シュヴェータケートゥ?vetaketuへの教えより)
「お前はそれである」(tat tvam asi、タット・トヴァン・アスィ、タット ワム アシー、you are that、お前は
そのようである)という文言は、われわれの内にあるアートマンが、本質的に絶対者ブラフマンと
同一であることを端的に示す文章として、そして「ウパニシャッド」全体の中心思想を的確に表現
している文章として、今ひとつの重要な文章「私はブラフマンである」(aham brahm?smi)とともに、
極めて有名である。 中でもヴェーダーンタ学派の中の不二一元論を主張するシャンカラならびに
その後継者たちによって、自分たちの立場を明確に表現している文章として、大文章(mah?v?kya)
といって大変に尊重している。
追記:
先行者にスピノザ、後継者にフロイト。建設的対抗者としてウィトゲンシュタインを置きたい。
http://yojiseki.exblog.jp/11527385/
「お前はそれである…」
ショーペンハウアーもベネターもそうだが、「生まれてこなければよかった」「人類は無に返っていくべきだ」と主張する哲学者が、どうしてかくまで精力的に自説を生産し、弁護し、生き生きと生きているように見えるのだろうか。
12:14:24 via web
4)ショーペンハウアー「(承前)読者階層のそのときどきの傾向、その他百般のことを念頭に置いているからではないのか。・・・現代の哲学的な諸党派は、こぞって下心を追求しているのだが、わたしはただ明察のみを提供せねばならぬからである。」
12:10:08 via web
3)ショーペンハウアー「(承前)百の下心と千の顧慮とを背負わされ、いろいろ気を配りながら用心深くその道を切り抜けていく。というのも大学の哲学は、主君への怖れ、内閣の意向、地方教会の掟、出版者の希望、学生の好評、同僚たちとの友誼、時局の動向、・・・」(続
12:07:38 via web
2)ショーペンハウアー「わたしの哲学は、自らの北極星としてもっぱらただ真理だけをーー報いられることもなく、盟友もなく、しばしば迫害される赤裸々な真理だけを、ひたすら目指し、右顧左眄することなく、真理へ向けて一直線に舵をとっている。これにひきかえ大学の哲学は、・・・」(続
12:05:32 via web
1)ショーペンハウアー「まがいものではないほんものの仕事は、それを産み出す能力のない連中がともに結束して台頭をはばむことがなければ、もっとたやすくこの世に場所を得られることであろう。」『意志と表象としての世界』第3版への序文。ショーペンハウアーの恨み節最高!
http://d.hatena.ne.jp/kanjinai+twitter/20131015/1381849414
3 1/4(土)07:17 0↓
【書籍名】読書について
【著者名】ショウペンハウエル(斉藤忍髄訳)
【出版社】岩波文庫
【書込文】↓
“いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、
量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。
何か一つのことを知り、一つの真理をものにするといっても、
それを他のさまざまの知識や真理と結合し比較する必要があり、この手続きを経て初めて、
自分自身の知識が完全な意味で獲得され、その知識を自由に駆使することができるからである。
我々が徹底的に考えることができるのは、自分で知っていることだけである。” (第58刷 p.5)
何ゆえに哲学すると問うなら、自分であり続けるための、自由に真理の価値があるから
ショーペンハウエル 「女について」
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/wom/1219762723/
女たちの虚栄心は、たとえ、それが男たちの虚栄心より大きくない場合でも、全く物質的な事
物、すなわち、自分を美しく飾ることとか、ついでは、浮華・贅沢、壮麗といった面に熱中する
悪癖があり、従って、女たちの最も好むところは、まさしく、社交ということである。この虚栄
心は、特に、その理性の貧弱なためでもあるが、女たちを浪費に傾かせる。だから、古代人は、
早くも「女たちは、たいてい、生まれながらにして、むだづかいをする」と言っている。(エス・
ブルンク著『ギリシア詩の格言集』第百十五節)。これに反して、男たちの虚栄心は、おおむね、
非物質的な長所ーたとえば、悟性とか教育とか勇気などのようなことーに向けられる。ーアリ
ストテレスは、この『政治学』第二巻第九節で、スパルタでは、女たちが遺産を相続したり持参
金を携える権利を有ち、そのほかにも広範囲にわたって束縛されずにいたほど、女に対して、あま
りにも多くの自由が許されていたので、そのことから、スパルタの男たちにとって、どれほど重
大な不利益が発生し成長したか、また、そのことが、スパルタの没落に、どれほど深い関係を有
っていたかということを、詳しく説明している。-フランスにおいても、ルイ十三世以来、絶
えず増大してきた婦人の勢力が、宮廷と政府とを徐々に腐敗せしめ、ひいては、第一革命を惹き
起こし、その結果、かずかずの政変が続発したことについて、責を負うべきではあるまいか?
いずれにしても、ヨーロッパに淑女というものが存在するということにつけて、その最も鮮明な
証徴を現している女性の誤った地位は、社会状態の根本的な欠陥であり、この欠陥は、その中
心から、すべての部分へと、その不利益な影響をおし及ぼすにちがいない。
女が、その天性から従順であるように定められているということは、そのひとりびとりが、完
全な独立という、女の天性にとって自然にそむくような地位におかれている場合に、間もなく、その
地位を誘導し、かつ支配してもらえるような一人の男に結びつくということによって、はっきり
と認められる。何といっても、女には主人が必要なのである。その際、女が若ければ、主人は、
すなわち、愛人であり、年老いているならば、それが懺悔聴聞僧ということになる。
19 :Ms.名無しさん:2008/08/27(水) 01:32:43 O
女にサワタ事ないヤシの机上の空論( ´_ゝ`)
女について論議するより向かいあって喋ってみるがヨロシ
百聞は一見にしかずらしいおっおっ
直覚的表象 生成の根拠律 = 因果律
抽象的表象 認識の根拠律 = 判断の根拠
直覚的表象2 存在の根拠律 = 存在の根拠
意欲の主体 行為の根拠律 = 道徳の根拠
生成の根拠律とは、因果律のことである。
認識の根拠律とは、論理的/経験的/先験的/超論理的の
それぞれの真理の判断の根拠のことである。
存在の根拠律とは、空間と時間の相互の規定である。
行為の根拠律とは、どんな人間も動物もその行動の前には動機があり、
また動機によって必然的に遂行することの根拠である。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=AbwL2nygUjQJ&p=%E3%82%B7%E3%83%A7%
E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%
83%BC+%E9%9B%86%E5%90%88%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98&u=www.inahokogane
.com%2Fmirainokagakusya%2Fmenu2.html
Amazon.co.jp: 読書について 他二篇 (岩波文庫): ショウペンハウエル, Arthur Schopenhauer, 斎藤 忍随: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4003363221/ref=pd_bxgy_b_img_y
晩年の著作『付録と補遺』の中から「思索」「著作と文体」「読書について」の三篇を収録。「読書とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費す勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失ってゆく」――鋭利な寸言、痛烈なアフォリズムの数々は、山なす出版物に取り囲まれた現代のわれわれにとって驚くほど新鮮である。 --このテキストは、 単行本(ソフトカバー) 版に関連付けられています。
Amazon.co.jp: 幸福について―人生論 (新潮文庫): ショーペンハウアー, 橋本 文夫: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4102033017/ref=pd_sim_b_3
5つ星のうち 5.0 オリジナルのタイトルの「処世術箴言」の方が、より的確に中身を表しているかもしれない 2012/6/30
By Edgeworth-Kuiper Belt 殿堂入りレビュアー トップ10レビュアー
形式:文庫
TVで紹介されて注目されたということで読んでみた。ドイツの哲学者ショーペンハウアーが遺した著作。1851年に出版された「筆のすさびと落穂拾い」に載った最大編「処世術箴言」の邦訳版とのこと。古典らしい固い書きぶりではあるが、論理的で小気味よく、時々辛らつで厳しい。例として、いくつか拾ってみる。
「まず高度の完全な健康を得て、そこから朗らかさが花と咲き出るように心がけるがよかろう」
「苦痛のない状態にあって、しかも退屈がなければ、大体において地上の幸福を達成したものと見てよい。それ以外はすべて架空だからだ」
「富は海水のようなもので、飲めば飲むほど喉が渇く。名声もこの点は同じである」
「幸福と栄華と享楽を求める努力や苦闘こそ、大災厄をもたらすものなのだから、享楽・財産・位階・名誉などに対する要求は、ごくわずかなところまで引き下げるのが賢明である」
「孤独を愛さない者は、自由をも愛さない者というべきだ。というのは、人は独りでいる間だけが自由だからである」
「すなわち何かをするということ、できることなら何かを仕上げるということ、せめて何かを覚えるということは、人間の幸福には欠くことができない」
「ある人を大いに尊敬しながら同時に大いに愛することは難しい」
「借金を断ったために友を失うことはないが、金... 続きを読む ›
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113 人中、98人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 内容充実!! 2004/9/8
By sanny6
形式:文庫
訳者の言葉(裏表紙)「幸福は人間の一大迷妄である。蜃気楼である。だがそうは悟れるものでない。この悟れない人間を悟れないままに、幸福の夢を追わせつつ、救済しようというのである。人生はこの意味で、そのまま喜劇である。戯画である。ユーモアである。したがってこれを導く人生論も諷刺的、ユーモア的にならざるをえない。本書は厭世哲学者といわれる著者が、豊富な引用文と平明な表現で人生の意義を説き幸福を教える名随筆『処世術箴言』の全訳である。」
この本の小ささからは想像も出来ないほど内容が詰まっています。特に第四章の「人の与える印象について」と、第五章の「訓話と金言」は是非読んでみてください。
第四章は人の目を気にしがちな人にお勧めです。(と言っても気にしない人は少ないと思いますが)日々、私たちは多くの人の中で生活する中で、他人の目に映る自己を構築し、一喜一憂していることが多々あります。しかし、果たしてこの事に意味があるのか?この決断は精神の貴族への第一歩だと思います。
第五章は正に処世術に関する箴言です。様々な状況における処世術を53のエッセイの形で書いてあります。赤線を引きながら読むことをお勧めします。
この本を何度も何度も読み、赤線を引っ張り、本がボロボロになるにつれ、あなたの人生の大切な宝物になるはずです。ちょっと言いすぎましたが・・・難しい所もありますが、全体的に読... 続きを読む ›
62節
http://yojiseki.exblog.jp/11527385/
「お前はそれである」
http://www.geocities.jp/princegifu/indotetu25.htm
以下上記サイト参照。
「この微細なるものはと言えば、・・・この一切(全宇宙)はそれを本質とするものである。
それは真実である。それはアートマンである。
お前はそれである (Tat tvam Asi)。シュヴェータケートゥよ」
(『チャーンドーギア・ウパニシャッド(Chāndogya Upanishad)』6章第8節、ウッダーラカ・アールニUddalaka Aruniの息子シュヴェータケートゥŚvetaketuへの教えより)英訳
「お前はそれである」(tat tvam asi、タット・トヴァン・アスィ、タット ワム アシー、you are that、お前はそのようである)という文言は、われわれの内にあるアートマンが、本質的に絶対者ブラフマンと同一であることを端的に示す文章として、そして「ウパニシャッド」全体の中心思想を的確に表現している文章として、今ひとつの重要な文章「私はブラフマンである」(aham brahm?smi)とともに、極めて有名である。 中でもヴェーダーンタ学派の中の不二一元論を主張するシャンカラならびにその後継者たちによって、自分たちの立場を明確に表現している文章として、大文章(mah?v?kya)といって大変に尊重している。
この後ウパニシャッドは、蜂蜜の比喩(六・九)、河川の比喩(六・一〇)、樹木の比喩(六・一一)、バニヤン(榕樹)の比喩(六・十二)、塩水の比喩(六・一三)、目隠しされた人の比喩(六・一四)、重体に陥った人の比喩(六・一五)、手を縛られた人の比喩(六・一六)を巧みに用い、その後で定型句 〜「この微細なるものはと言えば、・・・この一切(全宇宙)はそれを本質とするものである。 それは真実である。 それはアートマンである。 お前はそれである。 シュヴェータケートゥ」よ。 [子が言った、]「父上、さらに、私に教えてください」と。 [父が]言った、「愛児よ。 よろしい」と。が繰り返されている。
参照:世界の名著1
以下引用:
http://kamiya0296.blog.so-net.ne.jp/2009-05-15-13
[インドの一元論] 何を万有の根源とするかについてインドでは古くから諸説があったが,ウパニシャッド,とくにウッダーラカ・アールニの有論によって,中性原理ブラフマンがそれであるとする説が主流となった。この説を展開したのがベーダーンタ学派であるが,ブラフマンと万有との関係については種々の異説があった。5世紀前半に完成したとされる《ブラフマ・スートラ》では,ブラフマンは世界の質料因であると同時に,動力因,つまり最高主宰神でもあり,まったく自律的に世界を開展 paril´ma すると説かれている。のちにシャンカラは,ブラフマンが世界を開展するのは無明avidy´ によるのだとし,《ブラフマ・スートラ》のいわば実在論的一元論を,幻影主義的一元論(不二一元論)に置き換えた。しかし,ブラフマン以外に無明を立てることはサーンキヤ学派的二元論に陥ることを意味し,シャンカラ以降,不二一元論派の学匠の間で,無明の位置づけが激しく議論された。⇒多元論∥二元論 宮元 啓一
http://www.harekrsna.com/sun/features/08-08/features1121.htm
シャンカラについては以下、
http://ancientindians.net/2010/09/14/sankaracharya-and-advaitam/
世界の名著1『バラモン教典原始仏典』(中央公論)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』とは、ウパニシャッドの1つ。サーマ・ヴェーダに付属し、古ウパニシャッドの中では初期の「古散文ウパニシャッド」に分類され、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』と並び、最初期・最古層のウパニシャッドとされる[1]。
目次 [非表示]
1 内容
2 日本語訳
2.1 全訳
2.2 抄訳
3 脚注・出典
4 関連項目
内容[編集]
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日本語訳[編集]
全訳[編集]
湯田豊 『ウパニシャッド 翻訳および解説』 大東出版社、2000年。ISBN 4-500-00656-7。
岩本裕 『原典訳 ウパニシャッド』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2013年。ISBN 4-480-09519-5。
岩本裕 『ウパニシャッド』 筑摩書房〈世界文学古典全集3〉、1967年。
抄訳[編集]
服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1, 中公バックス〉、1979年。ISBN 412400611X。
服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1〉、1969年。
佐保田鶴治 『ウパニシャッド』 平河出版社、1979年。ISBN 4892030260。
日野紹運、奥村文子 『ウパニシャッド』 日本ヴェーダンタ協会、2009年。ISBN 4931148409。
脚注・出典[編集]
^ 『原典訳ウパニシャッド』岩本裕 ちくま学芸文庫 p349
関連項目[編集]
ウパニシャッド
カテゴリ: ウパニシャッド
意志と表象~第63節
マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き 破って見ている者は、
加害者と被害者との差異を超越した ところに「永遠の正義」を見出す。それは
ヴェーダの ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻
の神話に通じるものがある。
上記格言、「お前はそれである」(tat tvam asi、タット・トヴァン・アスィ、タット
ワム アシー、you are that、お前はそのようである)は、
世界の名著1『バラモン教典原始仏典』(中央公論)か、
『原典訳ウパニシャッド』岩本裕 ちくま学芸文庫
に収録されている。
前者は抄訳。
「この微細なるものはと言えば、・・・この一切(全宇宙)はそれを本質とするものである。
それは真実である。それはアートマンである。
お前はそれである (Tat tvam Asi)。シュヴェータケートゥよ」
(『チャーンドーギア・ウパニシャッド(Chāndogya Upanishad)』6章第8節、ウッダーラカ・アールニUddalaka Aruniの息子シュヴェータケートゥŚvetaketuへの教えより)英訳
「お前はそれである」(tat tvam asi、タット・トヴァン・アスィ、タット ワム アシー、you are that、お前はそのようである)という文言は、われわれの内にあるアートマンが、本質的に絶対者ブラフマンと同一であることを端的に示す文章として、そして「ウパニシャッド」全体の中心思想を的確に表現している文章として、今ひとつの重要な文章「私はブラフマンである」(aham brahm?smi)とともに、極めて有名である。 中でもヴェーダーンタ学派の中の不二一元論を主張するシャンカラならびにその後継者たちによって、自分たちの立場を明確に表現している文章として、大文章(mah?v?kya)といって大変に尊重している。
意志と表象~第63節
マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き 破って見ている者は、
加害者と被害者との差異を超越した ところに「永遠の正義」を見出す。それは
ヴェーダの ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻
の神話に通じるものがある。
上記格言、「お前はそれである」(tat tvam asi、タット・トヴァン・アスィ、タット
ワム アシー、you are that、お前はそのようである)は、
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』にある言葉で、
世界の名著1『バラモン教典原始仏典』(中央公論)か、
『原典訳ウパニシャッド』岩本裕 ちくま学芸文庫
に収録されている。
前者は抄訳。
以下、意志と表象~第63節、中公版目次より
「マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き 破って見ている者は、
加害者と被害者との差異を超越した ところに「永遠の正義」を見出す。それは
ヴェーダの ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻
の神話に通じるものがある。」
上記格言、「お前はそれである」(tat tvam asi、タット・トヴァン・アスィ、タット
ワム アシー、you are that、お前はそのようである)は、
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』にある言葉で、
世界の名著1『バラモン教典原始仏典』(中央公論)か、
『原典訳ウパニシャッド』岩本裕 ちくま学芸文庫
に収録されている。
前者は抄訳。
「マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き 破って見ている者は、
加害者と被害者との差異を超越した ところに「永遠の正義」を見出す。それは
ヴェーダの ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻
の神話に通じるものがある。」(以下、意志と表象~第63節、中公版目次より)
上記格言、「お前はそれである」(tat tvam asi、タット・トヴァン・アスィ、タット
ワム アシー、you are that、お前はそのようである)は、
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』にある言葉で、
世界の名著1『バラモン教典原始仏典』(中央公論)か、
『原典訳ウパニシャッド』岩本裕 ちくま学芸文庫
に収録されている。
前者は抄訳。
「マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き 破って見ている者は、
加害者と被害者との差異を超越した ところに「永遠の正義」を見出す。それは
ヴェーダの ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻
の神話に通じるものがある。」(意志と表象~第63節、中公版目次より)
上記格言、「お前はそれである」(tat tvam asi、タット・トヴァン・アスィ、タット
ワム アシー、you are that、お前はそのようである)は、
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』にある言葉で、
世界の名著1『バラモン教典原始仏典』(中央公論)か、
『原典訳ウパニシャッド』岩本裕 ちくま学芸文庫
に収録されている。
前者は抄訳。
<マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き 破って見ている者は、
加害者と被害者との差異を超越した ところに「永遠の正義」を見出す。それは
ヴェーダの ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻
の神話に通じるものがある。>(意志と表象~第63節、中公版目次より)
上記格言、「お前はそれである」(tat tvam asi、タット・トヴァン・アスィ、タット
ワム アシー、you are that、お前はそのようである)は、
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』にある言葉で、
世界の名著1『バラモン教典原始仏典』(中央公論)か、
『原典訳ウパニシャッド』岩本裕 ちくま学芸文庫
に収録されている。前者は抄訳。
<マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き 破って見ている者は、
加害者と被害者との差異を超越した ところに「永遠の正義」を見出す。それは
ヴェーダの ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻
の神話に通じるものがある。>(意志と表象~第63節、中公版目次より)
上記格言、「お前はそれである」(tat tvam asi、タット・トヴァン・アスィ、タット
ワム アシー、you are that、お前はそのようである)は、
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』(6:8他)にある言葉で、
世界の名著1『バラモン教典原始仏典』(中央公論)か、
『原典訳ウパニシャッド』岩本裕 ちくま学芸文庫
に収録されている。前者は抄訳。
人間 性格 死 自己犠牲
(手や脚他) 憐憫
動物 正義
植物 ↑
有機体 三種類の道徳
の体液
(物体_____身体_宗教_精神_____観念)
重力=努力?(表象)
音楽
(リズム/和声/旋律)
悲劇(悪意/運命/関係)
建築美術 性格
↑
意志の客観性の各段階
芸術
歴史/自然学/数学
個体化の原理 性格
人間 性格 死 自己犠牲
(手や脚他) (共苦)知 憐憫
動物 正義
植物 ↑
有機体 三種類の道徳
の体液
(物体_____身体_宗教_精神_____観念)
重力=努力?(表象)
音楽
(リズム/和声/旋律)
悲劇(悪意/運命/関係)
建築美術 性格
↑
意志の客観性の各段階 (芸術) イデア
芸術
歴史/自然学/数学
ルカーチのアドルノ批判
グランドホテル深淵の元ネタ
ショーペンバウアー論の章はルカーチ著作集邦訳第12巻(303頁)に所収。該当箇所は論の最後の頁(303頁)。
《こうして――形式的には頭梁的な才知と見渡しをもって造営された――ショーペンハウ
アーの体系は、ありとあらゆる快適な設備のできた美しい近代的なホテルのごとく、深淵の、
無の、無意味の縁にそそり立っている。そして、御馳走や美術品を愉快に堪能する合い間に日
毎に深淵を眺めるのは、こうした洗練された快適におぼえる喜びをただただ高めることができ
るばかりである。
これが、ショーペンハウアーの非合理主義がその課題を果たすゆえんなのである。要するに、
かれの課題は、インテリゲンチャの平生から不満をいだいている層が、「既存のもの」に関す
る、すなわち既存の社会秩序に関するかれらの不満を、そのときどきの支配的な資本主義制度
に具体的に向けるのを抑制することだからである。これで、この非合理主義はその中心的目標
設定――それをショーペンハウアー自身がどの程度まで意識していたかは、どうでもよろし
い――を成就するのである。すなわち資本主義的社会秩序の間接的弁護論を提供するという
その中心的目標設定を。》理性の破壊(上)邦訳ルカーチ著作集12,303頁
ちなみにトルストイに集合力を持つ民衆の概念を教えたのはショーペンハウアーである。
ショーペンバウアー論の章はルカーチ著作集邦訳第12巻(303頁)に所収。該当箇所は論の最後の頁(303頁)。
《こうして――形式的には頭梁的な才知と見渡しをもって造営された――ショーペンハウ
アーの体系は、ありとあらゆる快適な設備のできた美しい近代的なホテルのごとく、深淵の、
無の、無意味の縁にそそり立っている。そして、御馳走や美術品を愉快に堪能する合い間に日
毎に深淵を眺めるのは、こうした洗練された快適におぼえる喜びをただただ高めることができ
るばかりである。
これが、ショーペンハウアーの非合理主義がその課題を果たすゆえんなのである。要するに、
かれの課題は、インテリゲンチャの平生から不満をいだいている層が、「既存のもの」に関す
る、すなわち既存の社会秩序に関するかれらの不満を、そのときどきの支配的な資本主義制度
に具体的に向けるのを抑制することだからである。これで、この非合理主義はその中心的目標
設定――それをショーペンハウアー自身がどの程度まで意識していたかは、どうでもよろし
い――を成就するのである。すなわち資本主義的社会秩序の間接的弁護論を提供するという
その中心的目標設定を。》理性の破壊(上)邦訳ルカーチ著作集12,303頁
ちなみにフロイトはショーペンハウアーを賞賛している。
《先達として高名な哲人たちの名を、とりわけ偉大なショーペンハウアーの名を挙げなければ
ならない。彼の言う無意識的な「意志」とは精神分析が魂の本能と呼んでいるものと同じである。
さらにこの同じ思想家は忘れることの出来ない力強い言葉によって、いまだに過小評価を受けて
いる性的努力の意義について人間に警告したのであった。》
(「精神分析に関わるある困難」(1917)、フロイト著作集人文書院第10巻 331−2頁)
ウィトゲンシュタインも「家族的類似性」なる語をショーペンハウアーから借りている。
ウィトゲンシュタインはショーペンハウアーと対峙するなかで『論考』を書いた。
私見ではトルストイに集合力を持つ民衆の概念を教えたのはショーペンハウアー(とプルードン)である。
ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」日本語版目次より
63
マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き 破って見ている者は、
加害者と被害者との差異を超越した ところに「永遠の正義」を見出す。それは
ヴェーダの ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻の
神話に通じるものがある。
67
他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。 愛はしたがって共苦、
すなわち同情である。人間が泣く のは苦痛のせいではなく、苦痛の想像力のせいで
ある。 喪にある人が泣くのは人類の運命に対する想像力、すなわ ち同情(慈悲)
である。
以下、ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」日本語版目次より
63
マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き 破って見ている者は、
加害者と被害者との差異を超越した ところに「永遠の正義」を見出す。それは
ヴェーダの ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻の
神話に通じるものがある。
67
他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。 愛はしたがって共苦、
すなわち同情である。人間が泣く のは苦痛のせいではなく、苦痛の想像力のせいで
ある。 喪にある人が泣くのは人類の運命に対する想像力、すなわ ち同情(慈悲)
である。
____
ショーペンハウアーは仏教の影響も受けていて『意志…』の4部構成は仏教の「苦集滅道」
にあたるとされる。
ブラフマンー祭祀ーアートマン バラモン
無ーーーーー空・悟りーーー色 仏教
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
神ーーーーーキリストーー人間 キリスト教
実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
モナド-ーー個体化ーーー世界 ライプニッツ
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
哲学者のショーペンハウエルは主著『意志と表象としての世界』に「私が本書で言いたかったことはたった一つである。しかしその一つのことを言うのにこれ以上短くすることはできなかった」という有名な序文を書いている。『意志と表象としての世界』は未読なので本当に同書が要約不可能なのかどうかはわからないが、
ショーペンハウアー
意志と
第一序文
中公3
真理にはほんの束の間の勝利の祝祭が許されるだけで、その前と後とには、背理として呪われたり、陳腐として侮られたりする二つの長い歳月があるばかりである。しかも真理の創始者には、二つのうちでも前者の運命が、すなわち背理を唱えたとして呪われる運命が降りかかってくるのを常とする。──
しかし人生は短いが、真理は遠くにまで影響し、永く生きる。さればわれわれは真理を語ろう。
1818年
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