火曜日, 5月 27, 2014

フロイト「欲望転換、とくに肛門愛の欲望転換について」1916より

        (フロイトリンク::::::::::
フロイト「欲望転換、とくに肛門愛の欲望転換について」より
http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post_27.html:本頁
NAMs出版プロジェクト: フロイトの性図式 : 転載
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_24.html

フロイト「糞便は子供の最初の贈り物であり、子供の身体の一部である」
(「欲動転換、特に肛門愛の欲動転換について」『エロス論集』中山元訳、ちくま学芸文庫382頁)



<正常な発達において糞便への関心が弱まると、ここで説明した器官の類似関係に基づいて、ぺニスに関心が移行する。子供がその後、性の問題を探究するようになると、赤子は腸から生まれると考えるようになるため、赤子が肛門愛の主要な部分を引き継ぐのである。しかし别の観点からみても、赤子の前身はぺニスである。
 ここで説明した糞便-ぺニス-赤子という系列は、非常に錯綜したものとなってしまったので、図解してこのの欠陥を補いたいと思う。図によって同じ資料を別の順序で考察することができる。しかしこの図解という技術的な手段は、われわれの意図を十分に示せるほど柔軟性の高いものではない。あるいは、これを適切な形で使用する方法をまだ学んでいないというべきかもしれない。上記の図に、あまり厳密さを求めないでいただきたい。

*(訳注)
「うんこ」というところには、「ある五歳児の恐怖症分析」でハンスが「 うんこ」を呼ぶために作った造語である Lumpf という語が使われている。

 肛門愛をナルシシズム的に利用すると、強情という性格が生まれる。これは他者からの求めに対する自我の重要な反応である。糞便に向けられた関心は贈り物への関心に、さらに金錢への関心に移行する。ぺニスが登場すると、少女ではぺニス羡望が生まれ、それは後にぺニスの所有者である男性への願望に転換される。その前にぺ二スへの願望は赤子への願望に転換しているか、この子供願望がぺニス願望の場所に登場している。ペニスと赤子の器官的な類似(点線)は、両方に共通するシンボル(「ちび」)を所有することによって生まれる。そして合理的な経路(複線)を通って、子供顧望から男性への願望へと
進む。…>(同384~6頁)




邦訳著作集5、389頁参照

 Sigmund Freud, “Über Triebumsetzungen, insbesondere der Analerotik” (1917,初出は1916?), in Sigmund Freud, Gesammelte Werke: Chronologisch Geordnet, eds. Anna Freud et al., vol. 10 (London: Imago,1946), pp. 401–410〔. フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」田中麻知子訳『フロイト著作集 5(』人文書院、1977年)、 385‒390 ページ〕



参考:
<実際、太古的な考え方が支配的であったところ、あるいは残っているところではどこでも、古代文化においても、神話、童話、迷信においても、無意識的な思考においても、夢においても、また神経症 においても、貨幣は糞便ともっとも深い関係をもたされている。悪魔がその情婦に贈る黄金が、彼の立ち去った後、糞に変わってし まうという話はよく知られているが、この悪魔はしかし、抑圧された無意識の本能生活が擬人化されたものにほかならないのである。さらによく知られているのは、宝の発見を糞便と一緒にする迷信であり、また「ドゥカーテンシャイサー〔金貨をひり出す者〕」の像は誰にも親しまれているものである。>
Sigmund Freud, “Charakter und Analerotik” (1908), in Gesammelte Werke 7 (1955), pp. 203–209.〔ジークムント・フロイト「性格と肛門愛」懸田克躬・吉村博次訳、
『フロイト著作集 5』(人文書院、1969 年)、137 ページ〕。
原文を参照しながら、訳文に多少の改変を加えた。

追記:
フロイトは糞便を、のちのラカンはファロス(ペニスのギリシャ語)を強調するが、どちらも患者の自由連想に対して分析家としての自由連想で対抗しているのである。


1916,1917年?の論文でフロイトはルー・ザロメの以下の論考を参照している。

Lou Andreas-Salomé – »Anal« und »Sexual«.

Essay

Zeitschrift für Anwendung der Psychoanalyse auf die Geisteswissenschaften, Herausgegeben von Prof. Dr. Sigm. Freud, IV. Jahrgang, Heft V, 1915/1916, Hugo Heller & Cie, Leipzig und Wien, S. 249-273.

3 Comments:

Blogger yoji said...

フロイト「糞便は子供の最初の贈り物であり、子供の身体の一部である」
(「欲動転換、特に肛門愛の欲動転換について」『エロス論集』中山元訳)



<正常な発達において糞便への関心が弱まると、ここで説明した器官の類似関係に基づい
て、ぺニスに関心が移行する。子供がその後、性の問題を探究するようになると、赤子は
腸から生まれると考えるようになるため、赤子が肛門愛の主要な部分を引き継ぐのである。
しかし别の観点からみても、赤子の前身はぺニスである。
 ここで説明した糞便-ぺニス-赤子という系列は、非常に錯綜したものとなってしまっ
たので、図解してこのの欠陥を補いたいと思う。図によって同じ資料を別の順序で考察する
ことができる。しかしこの図解という技術的な手段は、われわれの意図を十分に示せるほ
ど柔軟性性の高いものではない。あるいは、これを適切な形で使用する方法をまだ学んでい
ないというべきかもしれない。上記の図に、あまり厳密さを求めないでいただきたい。


「うんこ」というところには、「ある五歳児の恐怖症分析」でハンスが「 うんこ」を呼ぶた
めに作った造語である Lumpf という語が使われている。

 肛門愛をナルシシズム的に利用すると、強情という性格が生まれる。これは他者からの
求めに対する自我の重要な反応である。糞便に向けられた関心は贈り物への関心に、さ
らに金錢への関心に移行する。ぺニスが登場すると、少女ではぺニス羡望が生まれ、それ
は後にぺニスの所有者である男性への願望に転換される。その前にぺ二スへの願望は赤子への願望に転換しているか、この子供願望がぺニス願望の場所に登場している。ペニス
と赤子の器官的な類似(点線)は、両方に共通するシンボル(「ちび」)を所有することに
よって生まれる。そLて合理的な経路(複線)を通って、子供顧望から男性への願望へと
進む。…>(同384~6頁)

8:45 午後  
Blogger yoji said...

アメリカが兌換を中止したのは金の流出を防ぐためだし、リーマンショック以降の金の価格上昇は記憶に新しい。
柄谷はヒステリーのような恐慌はもうないと言っているが、、、、


http://www.systemicsarchive.com/ja/a/phallic_money.html
ラカン研究者の福原泰平は、ファルスと貨幣の類似を次のように説明している。

貨幣がその物質的素材である金や銀、そして銅やアルミニウムといったものの現実の使用価値を無化して、そこに等価的な交換への傾きを担わされているように、ファルスもその実体的な内容が問題とされるようなものではない。それはペニスが一方の性に欠如しており、その突出した形態から特権的なものとして選ばれたにしろ、脚でも親指でも何でもかまわなかったことをみれば理解される。

さらにいえば、貨幣の代表選手である金が、地上における現実的なものの次元を離れ、ある日突然、物々交換における価値の尺度へと高められて市場に介入してきたように、ペニスも現実の性的対象であることを離れ、突如あらゆる快を担う幻想的な運び手として世界に介入してくる。

こうした過程を経ることで性的な原器とでもいったものが成立すると、あらゆる性的対象は悦びに対して交換可能なものとなり、人々の間を流通しはじめる。母の欲望も父による禁止もすべてのものが性的等価物として市場に出回り、そこで値を付けて売り買いがなされるようになっていく。

[福原 泰平:ラカン―鏡像段階, p.154-155]
ファルスとはたんなるペニスではない。貨幣はファルスのように振舞うというよりも、むしろファルスそのものなのである。

8:33 午後
yoji さんは書きました...
物々交換が行われている前近代社会を幼児と比べてみよう。生後2-3年の肛門期で、幼児は、排尿・排便に快を感じるようになる。幼児は、母乳のお返しとして、便と尿を母親に与えていると意識する。フロイトによれば、金や銀が物品貨幣として流通したのは、尿が金色で、便が鋳潰した銀のような色をしているためであり、吝嗇、すなわち、資本主義の原動力となった蓄積への欲望は、便を貯めることによって得られる肛門の快楽に由来する。

こうしたフロイトの説明は、物品貨幣の説明としては適切である。肛門期の幼児は、母親との間に鏡像的でシンメトリカルな関係を持ち、そこで体験する取引は物々交換的である。しかし、生後3-5年の男根期になると、子供の関心は、ペニスへと向けられる。そしてシンメトリカルな母子関係に、父親という第三項が加わる。子供は、母親の欲望が、自分の糞尿ではなくて、父親のペニスに向けられていることに気が付く。そして男の子は母親のペニスになることを欲望しつつ、去勢に怯え、女の子はペニスがないことに劣等感を持ち、ペニスを羨望するようになる。こうした男根期の子供が持つ欲望を、ファルスへの欲望と呼ぶことができる。

ファルスとはペニスを意味するギリシャ語である。しかし精神分析では、ファルスは、母親の欲望の対象を意味する象徴的な言葉として使われる。ファルスは肉の塊としてのペニスではないし、現実に存在するみすぼらしい父親のことでもない。だから、「私の母は父親のペニスに欲情していなかった」とか「うちはかかあ天下で、父親に権勢はなかった」などと反論しても的外れである。

8:34 午後
yoji さんは書きました...
2、「わたしがお父さんに叩かれる」
 ラカンは、『無意識の形成物』のセミネールにおいて、エディプス・コンプレックスが形成され、そこから自我理想(ラカンの用語で言えば<父の名>)が主体に導入される過程を論じているが、そのなかでもこの幻想の第二段階を特に重視している。この第二段階において、主体は「自分を冒涜しつつも、同時にそれ自体として聖別し価値を高めてくれるものに行き当たった」と感じ、「承認の次元と、主体の父性的主体との関係の禁じられた様態とを同時に示す」としている(Lacan, S5-Ja362)。
つまり、この第二段階において、父が「叩く」という行為は二重の意味作用――メッセージとそのシニフィカシオン――を持っているのである(S5-Ja355)。つまり父親が「ぶった」ということは、「ぶたれる価値があるお前は愛されている」というシニフィカシオンとして主体に理解されるのである。
 ということは、この段階には、父と子供である「私」の他に、「私」のライバルである兄弟や姉妹が想像されているということである。ライバルである様々な他者たち[autrui]のなかから「私」が一人だけ選ばれて叩かれることによって、「私」にはぶたれる価値があるというシニフィカシオンが生まれる。



 最後に、幻想の第三段階である。これは、<父の名>の導入として理解できる。



「子供が叩かれる」とマルクスの価値形態論
 ここでラカンは「一般的形式」という言葉を用いているが、この言葉はマルクスのいう「貨幣の一般形式」としてとらえることができるのではないだろうか。
 「子供が叩かれる」という幻想の第三段階において、ひとつの主人のシニフィアン[signifiant maitre]が制定されることによって、その他のすべての主体(子供たち)が表現されるという事態は、まさしく貨幣が体現している事態(マルクスのいう「貨幣形態」)に他ならないのである。*4

http://psychanalyse.hatenablog.com/entry/20070522/p1

8:57 午後  
Blogger yoji said...

8:38 午後
yoji さんは書きました...
「子供が叩かれる」とマルクスの価値形態論
 ここでラカンは「一般的形式」という言葉を用いているが、この言葉はマルクスのいう「貨幣の一般形式」としてとらえることができるのではないだろうか。
 「子供が叩かれる」という幻想の第三段階において、ひとつの主人のシニフィアン[signifiant maitre]が制定されることによって、その他のすべての主体(子供たち)が表現されるという事態は、まさしく貨幣が体現している事態(マルクスのいう「貨幣形態」)に他ならないのである。*4

8:39 午後
yoji さんは書きました...
フロイト 貨幣 糞 著作集 欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」田中麻知子訳『フロイト著作集 5 』

8:46 午後
yoji さんは書きました...
地下一階に展示された作品に視点を移してみよう。貨幣システム を考察した作品の中でひと際異彩を放っていたのは、地下の金庫室 の鉄格子の奥に展示されたトム・フリードマンの《真実の愛(》2004 年)である。
フリードマンの作品は、黄色い蝶が糞にとまっているものである。 職人芸的に精巧に作られた美しい蝶(北米でよく見かけるオオカバマ ダラを模している)と、同じく本物そっくりに作られた汚らしい糞が、 ともに紙という同じ素材で作られている。糞に群がるのは蝿と思いが ちであるが、実際は蝶も栄養補給のために糞に食らいつく。美しい 蝶と汚らしい糞の間に芽生えた「真実の愛」を形にした作品である。
ゲルトシャイサーは、金を糞のように尻からひり出す存在であった ように、貨幣と糞便の間には密接な関係がある。それを最も説得力 のある形で論じたのはジグムント・フロイトであろう。この精神分析 の創始者は「、欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について(」1917 年)で、肛門期の幼児が、糞便への関心を、贈り物への関心、さら には貨幣への関心へと移行させていく様子を論じている(6)。肛門 期の幼児にとって、糞便を上手に保持したり排泄したりすると褒めら れるので、糞便は母親を喜ばせる贈り物として象徴化され、さらに、 労働に対する対価としての貨幣へと置換されていくのである。
糞便が貨幣に象徴的に置換されるとは、何を意味するのだろうか。 フロイトによれば、清潔でありたいという欲求は、糞便に塗れて汚ら しくありたいとする欲望を転換させたもの、つまり、肛門期の欲動に 対する反動形成である。それがこの論文の表題になっている「欲動 転換」の意味である。フロイトは、成人して吝嗇という性格が生まれ るのも反動形成に他ならないと考える。つまり、貨幣をコツコツと蓄 えようとする欲望は、糞便を自由にぶちまけたいとする欲望を抑圧し た結果生じたものなのである。
この貨幣への関心と糞便への関心が同一視されるのは、個人の性 格発達に関してだけではない「。性格と肛門愛(」1907 年)で、フ ロイトは人類史的な視点から次のように述べている。

実際、太古的な考え方が支配的であったところ、あるいは残って いるところではどこでも、古代文化においても、神話、童話、迷信に おいても、無意識的な思考においても、夢においても、また神経症 においても、貨幣は糞便ともっとも深い関係をもたされている。悪 魔がその情婦に贈る黄金が、彼の立ち去った後、糞に変わってし まうという話はよく知られているが、この悪魔はしかし、抑圧され た無意識の本能生活が擬人化されたものにほかならないのであ る。さらによく知られているのは、宝の発見を糞便と一緒にする迷 信であり、また「ドゥカーテンシャイサー〔金貨をひり出す者〕」の 像は誰にも親しまれているものである(7)。


貨幣と糞便の密接な関係を、神話や童話、迷信の中にも見いだそ うとするフロイトは、ここで「ドゥカーテンシャイサー」というゲルトシャ イサーの別名にも言及している。情婦に気前よく与えていた金は実は 糞便だったという悪魔の所業に「抑圧された無意識の本能生活」を 見るフロイトは、いわば、資本としての貨幣の背後でいかに多形的な 欲動が作動しているかを指摘したのである。


6 Sigmund Freud, “Über Triebumsetzungen, insbesondere der Analerotik” (1917), in Sigmund Freud, Gesammelte Werke: Chronologisch Geordnet, eds. Anna Freud et al., vol. 10 (London: Imago,1946), pp. 401–410〔. フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」田中麻知子訳『フロイト著作集 5(』人文書院、1977年)、 385‒390 ページ〕
7 Sigmund Freud, “Charakter und Analerotik” (1908), in Gesammelte Werke 7 (1955), pp. 203–209.〔ジークムント・フロイト「性格と肛門愛」懸田克躬・吉村博次訳、
『フロイト著作集 5』(人文書院、1969 年)、137 ページ〕。原文を参照しながら、訳文に多少の改変を加えた。

8:58 午後  

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