土曜日, 5月 31, 2014

ヘーゲル左派とシュティルナー


              (マルクス柄谷行人プルードンヘーゲルリンク::::::::::

NAMs出版プロジェクト: ヘーゲル左派とシュティルナー

http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post_31.html:本頁


マルクスとエンゲルスは『聖家族』(1844)の時代にはまだプルードンを高く評価していました(ちなみに大月版全集第二巻によれば『聖家族』は共著だがプルードンを扱った節のある第四章はマルクスの単独執筆(『聖家族』英語版該当箇所)である)。
それはあくまで青年ヘーゲル派またはヘーゲル左派のグループの観念性を批判することで現実性を持とうとしたマルクスの思惑に利用された形の相対的な評価でしたが、、、

さて、エンゲルスが1842年のベルリンにおけるヘーゲル左派のグループ「自由人(フライエン)」("Die Freien")の人々の集まりを漫画にして描いた絵があります。


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/Skiz-hegel.png
ヘーゲル左派のメンバー・ルーゲやエトガー・バウアー・シュティルナーらがかかれている。エンゲルスによる風刺画。

解説:
1842年のエンゲルスによる戯画。左からアーノルド・ルーゲ*(『独仏年誌』共同編集者)、ルートヴィヒ・ブール*、カールナウ・ヴェルク*、ブルーノ・バウアー*、オット・ヴィーガント(『ハレ年誌』『ドイツ年誌』『唯一者とその所有』『聖家族』『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』を出版したライプツィヒの出版業者)、エトガー・バウアー*、マックス・シュティルナー*、エドゥアルド・マイエン(革命失敗後イギリスに亡命したジャーナリスト)、氏名不明の二人、カール・フリードリッヒ・ケッペン(隊長として。神学者だがこの絵では酒を飲んで酔っぱらっている)。ブルーノ・バウアーはマルクスが編集に参加した『ライン新聞』を踏みつけている。*印をつけた人の著作は平凡社『資料ドイツ初期社会主義』で邦訳を読むことができる。
壁には断頭台があり(ちょうどエドガー兄弟の上)、左の隅には一匹のリス(アイヒホルン)が描いてある(このリスはプロイセンの文部大臣ヨハン・アイヒホルン)を風刺したもの。(参照:大月書店『マル=エン全集』第27巻p345,531、または"The New Hegelians: Politics and Philosophy in the Hegelian School "by Douglas Moggach,p138-9 )

参考:青年ヘーゲル派wikipedia、およびthe young hegelians
ヘーゲル左派日本語研究文献目録

エドガー・バウアー(片手を上げた人)はプルードンに批判的な評論を書き、それが『聖家族』ではマルクスたちの再批判にさらされます。

左端のルーゲなどは、右傾化したと批判されます。そのルーゲと闘っているブルーノ・バウアーはエドガーの兄でエンゲルスを無神論に導いたとされる大学講師で、そのユダヤ人論はマルクスの『ユダヤ人問題によせて』(1843)で批判されています。

また、シュティルナーのクールな姿が有名ですが(別バージョンあり)、ただし、これらはあくまでエンゲルスとマルクスの側から見た見取り図です。

もし、プルードンを思想的な中心におくとしたなら、

  マルクス(批判)→プルードン←(批判)シュティルナー

というように左右からプルードンが批判されている構図を描くことができるでしょう。

このように、ヘーゲル左派からはじまりプルードンに着目するのは突拍子もないことではありません。
実際、ヘーゲル左派を研究されている石塚正英氏は、「交換銀行論の系譜——プルードン・ヴァイトリング・ゲゼル 」といった発表をされていて、仏、米、独、といった国境を越えたプルードンの系譜に着目されていて、成果が待たれます。
参考:http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/
   http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/g.html

また、佐藤優氏は『私のマルクス』で、ヘーゲル左派の多様性に着目し、スターリン主義、神学、マルクス主義、ユダヤ主義といった要素を読み取っており、ジジェクなどと同様この時期の可能性を掘り起こすことに成功していますが、こちらは残念ながらプルードンへの言及はありません。
参考:http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0709.htm

エドガー・バウアーの描いた「批判的」プルードンとマルクスの理解する「ほんとうの/非批判的/大衆的」プルードンを対比によってマルクスが論じる『聖家族』*は、後の『哲学の貧困』の時期よりもプルードンの本質を描いていると思う。

*追記:
以下のマルクスの言葉をグラムシが何度も引用しているそうだ。

「もしエドガー氏がフランス語の平等を、ほんのしばらくでもドイツ語の自己意識と比べてみるならば、彼は後者の原理とは、前者がフランス語で、つまり政治と思考的直観のことばでいうところを、ドイツ語でつまり抽象的思考のことばであらわしていることがわかるであろう……」
(該当箇所邦訳大月版全集第二巻p36)。<戻る>


http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/philosophy/kindaiseiotetugaku/doitu/foierubaha/top.html



孤立を求めて連帯を恐れず(Ⅰ)・柄谷行人のエッセイ(2)   柄谷行人

 
 私が「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉に嫌な気がしたのは、シュティルナーの『唯一者とその所有』を60年代の初めに熱心に読んだことがあったからだ。アナーキストは、シュティルナーとプルードンを始祖として並べているが、本当は、シュティルナーのこの本は、たんにフォイエルバッハの批判ではなく、むしろプルードンの批判なのだ。シュティルナーは、フォイエルバッハは神や精神を否定したけれども、彼がいう「人間」(類的本質)そのものが神や精神の変形にすぎないという。同様に、プルードンは、神を斥けているが、結局、キリスト教的な自己犠牲的道徳にもとづいている、とシュティルナーはいう。

かくて、フォイエルバッハはわれわれに説いていう。「人は、思弁的哲学を要するに転倒させるならば、つまりは客語を主語とし、主語を目的語とし、原則とするならば、あらわな、純粋・無垢なる真理をもつ」[原注・「アネクドータ」Ⅱ、六四頁]と。それによって、われわれはたしかに、限定された宗教的立場の別の側面、道義的立場を手にするだけなのだ。われわれはたとえばもはや「神は愛なり」と言わぬかわりに「愛は神的なり」というのだ。(片岡啓治訳『唯一者とその所有 上』現代思潮社 p64)
 敬神は、一世紀このかた、多くの打撃をうけ、その超人的本質を「非人間的」とそしられるのを耳にしなければならなかったため、人は改めてそれに対して身構えてみようという気にはとてもなれない。さてそうなると、一つの――別の最高存在のために、この最高存在に闘いをいどむべく闘技場にあらわれるのは、ほとんどつねに道義的な敵対者だけであった。かくて、プルードンは臆面もなくいい放つ〔原注・秩序の創造〕他、三六頁〕。「人間は宗教なく生きる定めにある、しかし、道義の掟〔la loi morale〕は永遠・絶対である。今日道徳を攻撃することを、誰があえてしようか」。(『唯一者とその所有 上』 p63)
 シュティルナーの考えでは、プルードンにおいて、国家は否定されているが、結局、「社会」あるいは「共同体」がそれにとって代わっただけである。そこでは、社会の一員としての個人だけが認められ、「この私」は無視されている。シュティルナーは、それを「私の所有」として語っている。しかし、それはむしろ、プルードンの『所有とは何か』に対していわれた言葉である。実際は、それは所有と関係がない。《「自由」とは、一つの憧れ、一つのロマン的嘆きの声、彼岸と未来に託するキリスト教的希望であり、そうでありつづける。「自己性」は一つの現実、まさに諸君自身の道を阻み妨げるかぎりの不自由を自ずから排除した現実であるのだ。(中略)自己所有者〔der Eigene〕は生まれながらの自由人であり、本来的自由人であるのだ。それに反して、自由人とは要するに自由を求める者、夢想者、空想者にすぎないのだ》(『唯一者とその所有 下』p19~20)。
 つまり、シュティルナーにとって、自由は所有すべき何かではない。だから、彼は別の所で、それを「無」と呼んでいる。『唯一者とその所有』という本は、「私の事柄を、無の上に、私は据えた」という言葉で終っている。これは、先行者アーノルド・ルーゲの「私は一切を歴史の上におく」という言葉をもじったものである。それは歴史的な諸関係によって規定される「私」ではなく、それらを括弧に入れた、無であるところの「私」の実存から出発するということである。したがって、「私の所有」とは、各人がたんに各人であることであり、またユニーク(唯一性)ということは特殊な才能などを指すものではない。
 彼は端的に、エゴイストであると主張する。そして、プルードンの構想するアソシエーションに、教会の臭いをかぎとった。つまり、他人のためにエゴイズムを否定する道徳性によって成り立っている。そういう連帯はくそくらえ、私は徹底的にエゴイストだ、と彼はいうのである。しかし、同時に、彼は通常エゴイストと見なされる者はエゴイストではない、という。たとえば、人が利益あるいは欲望の追求に「憑かれて」(所有されてpossessed)いるのであれば、それはまさに「私の所有」を失うことであり、エゴイストではありえないからである。
だから、彼がエゴイズムをいいながら、連帯(アソシエーション)を志向することは少しも矛盾しない。むしろ、彼はエゴイストのみがアソシエーションを形成しうるし、また、アソシエーションはそのようなものであるべきだといったのである。孤立を求めない者が、どうして連帯できよう。連帯を軽蔑するような奴らは、本当は、孤立を恐れているだけなのだ。その証拠に、連帯しない代わりに、彼らは群れたがるのだ。NAMは、「自由を求める人」の共同体ではない、「自己所有者」のアソシエーションである。


参照:
『唯一者とその所有』(現代思潮新社)
定本『トランスクリティーク』258~9頁
『秩序の創造』リヴィエール版原著p.63

10. Cette assertion n’a plus rien d’effrayant, après la distinction que nous avons faite de la loi morale et du symbole religieux : celle-là, éternelle et absolue ; celui-ci, variable, transitoire, et n’ayant pour objet que de donner momentanément à la morale une sanction et une base. Or, la science nouvelle doit suppléer partout la religion, et faire mieux que sa devancière ; à cette condition seule, les conclusions que nous allons poser sont légitimes. Ainsi, que les âmes timorées se rassurent. Eh ! qui donc aujourd’hui oserait attaquer la morale ? mais, en revanche, qui se soucie des symboles ? Les pères envoient-ils leurs enfants au catéchisme pour y apprendre à théologiser, ou bien pour y puiser des principes de probité et de politesse ? Toute la question est là.



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Oeuvres de Proudhon
Pierre Joseph Proudhon
2012年5月15日
15 Oeuvres de Pierre-Joseph Proudhon

Ce livre numérique présente une collection des oeuvres majeures de Pierre-Joseph Proudhon éditées en texte intégral. Une table des matières dynamique permet d'accéder directement aux différentes oeuvres.

Liste des oeuvres:

- 1840 - Qu’est ce que la propriété
- 1842 - Explications présentées au ministère public sur le droit de propriété
- 1843 - De la Création de l’Ordre dans l’Humanité ☆
- 1846 - Correspondance entre Karl Marx et Pierre-Joseph Proudhon
- 1846 - Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère
- 1849 - Les malthusiens
- 1851 - Idée générale de la Révolution au dix-neuvième siècle
- 1851 - Les Confessions d’un révolutionnaire
- 1857 - Manuel du Spéculateur à la Bourse
- 1858 - De la justice dans la Révolution et dans l’Eglise - Tome I
- 1858 - De la justice dans la Révolution et dans l’Eglise - Tome II
- 1858 - De la justice dans la Révolution et dans l’Eglise - Tome III
- 1863 - Du Principe fédératif
- 1865 - De la Capacité politique des classes ouvrières
- 1866 - Théorie de la propriété
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7 Comments:

Blogger yoji said...



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Pierre Joseph Proudhon
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- 1842 - Explications présentées au ministère public sur le droit de propriété
- 1843 - De la Création de l’Ordre dans l’Humanité
- 1846 - Correspondance entre Karl Marx et Pierre-Joseph Proudhon
- 1846 - Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère
- 1849 - Les malthusiens
- 1851 - Idée générale de la Révolution au dix-neuvième siècle
- 1851 - Les Confessions d’un révolutionnaire
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- 1858 - De la justice dans la Révolution et dans l’Eglise - Tome II
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2:55 午前  
Blogger yoji said...

10。 この主張は、私たちが道徳律や宗教的シンボルた区別が後に怖いものがありません:1、永遠と絶対に; その、変数、一過性、および瞬間的に道徳的制裁や塩基を得たよりも、他のオブジェクトを持たない。 ただし、新しい科学はすべての宗教を補償し、その前任者より優れた操作を行う必要があります。 この状態は、私たちが聞いてきます結論は正当である。 このように、臆病な魂は安心。 え! したがって、今日の道徳を攻撃する勇気? しかし、一方で、誰が、シンボルを気に? 彼らは神学を研究するために、あるいは誠実さと礼儀正しさの原理から描画することを学ぶために日曜学校に子供を送る父親? 質問があります。

3:20 午前  
Blogger yoji said...

『秩序の創造』リヴィエール版原著p.63

10. Cette assertion n’a plus rien d’effrayant, après la distinction que nous avons faite de la loi morale et du symbole religieux : celle-là, éternelle et absolue ; celui-ci, variable, transitoire, et n’ayant pour objet que de donner momentanément à la morale une sanction et une base. Or, la science nouvelle doit suppléer partout la religion, et faire mieux que sa devancière ; à cette condition seule, les conclusions que nous allons poser sont légitimes. Ainsi, que les âmes timorées se rassurent. Eh ! qui donc aujourd’hui oserait attaquer la morale ? mais, en revanche, qui se soucie des symboles ? Les pères envoient-ils leurs enfants au catéchisme pour y apprendre à théologiser, ou bien pour y puiser des principes de probité et de politesse ? Toute la question est là.

 敬神は、一世紀このかた、多くの打撃をうけ、その超人的本質を「非人間的」とそしられるのを耳にしなければならなかったため、人は改めてそれに対して身構えてみようという気にはとてもなれない。さてそうなると、一つの――別の最高存在のために、この最高存在に闘いをいどむべく闘技場にあらわれるのは、ほとんどつねに道義的な敵対者だけであった。かくて、プルードンは臆面もなくいい放つ〔原注・秩序の創造〕他、三六頁〕。「人間は宗教なく生きる定めにある、しかし、道義の掟〔la loi morale〕は永遠・絶対である。今日道徳を攻撃することを、誰があえてしようか」。(『唯一者とその所有 上』 p63)

3:22 午前  
Blogger yoji said...

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50241
なぜマルクスは宗教を「民衆のアヘン」と批判したか

21世紀の今も色褪せぬ思想の本質
佐藤 優作家
プロフィール
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なぜ宗教は「民衆のアヘン」なのか?

ソ連が崩壊してから25年になるが、共産主義理論の創始者であるマルクスの名前は今でも有名だ。もっとも主著『資本論』をはじめ、マルクスの著書は知られていても、実際に読んだ人は少ない。

マルクスが宗教を「民衆のアヘン」と批判したことは何となく知られているが、それがどの著作であるかということを知っている人はほとんどいない。

21世紀になって、共産主義の影響はほとんど無くなったが、イスラム原理主義やアメリカのキリスト教右派は無視できない影響力を持っている。日本では、既成宗教、新興宗教がともに影響力を低下させている。他方、自己啓発セミナーやマルチ商法のような擬似宗教が影響力をますます拡大している。

おかしな宗教や擬似宗教に引っかかると人生が滅茶苦茶になる。宗教のリスクを知るために25歳の若きマルクスが「民衆のアヘン」と書いた『ヘーゲル法哲学批判』について、検討してみよう。

マルクスは、

〈反宗教的批判の根本は、人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない、ということである。

たしかに宗教は、人間が人間らしい生き方をまだしていないか、もうできなくなっている場合の、自己意識であり自己感情である。けれども人間というものは、けっしてこの世界の外にうずくまっている抽象的存在ではない。

人間、それはつまり人間の世界のことであり、国家であり社会のことである。この国家、この社会が、宗教という倒錯した世界意識をうみだすのは、この国家、この社会が倒錯した世界であるためである〉

と指摘する。

人間が宗教を作るのであるという至極当たり前のことをマルクスは指摘している。その上でマルクスは、宗教が人生の問題を解決する際に参照する百科辞典のようなものだという考えを示す。

〈宗教は、この世界の一般理論であり、それの百科辞典的な綱要であり、その論理学が通俗的な形をとったものであり、それの精神主義的な名誉問題であり、それの興奮であり、それの道徳的是認であり、それのおごそかな補足であり、それの慰めと弁解の一般根拠でもある。

宗教が人間の本質を空想的に実現したものであるのは、人間の本質が真の現実性を持っていないからである。だから宗教にたいする闘争は、間接的には、宗教を精神的香科としてもちいているこの世界にたいする闘争である〉

もっともこの百科辞典は、通俗版なので、宗教によって人間は世の中の問題を何となくわかってしまったような気になるが、「真の現実性を持っていない」と批判する。

現代に引き寄せて言うならば、日銀の金融政策や、安倍首相の北方領土戦略をテレビのワイドショーによって理解するようなものだ。

21世紀の今も価値は変わらない

宗教には人間に即効性のある幻想的な解答を与える危険性があると考える。

〈宗教上の不幸は、一つには実際の不幸のあらわれであり、一つには実際の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやんでいる者のため息であり、また心のない世界の心情であるとともに精神のない状態の精神である。それは、民衆のアヘンである〉。

宗教や自己啓発セミナーやマルチ商法のような擬似宗教に阿片のような作用があることは間違いないと思う。

それではどうすれば、人間は宗教を脱構築することができるのであろうか。

マルクスの見つけた答え

2:50 午前  
Blogger yoji said...

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50241?page=2
ツイートブックマーク6
マルクスは、

〈幻想のなかで民衆の幸福をあたえる宗教を廃棄することは、現実のうちに民衆の幸福を要求することである。自分の状態についての幻想をすてろと要求することは、幻想を必要とするような状態をすてろと要求することである。だから宗教の批判は、いずれは、宗教を後光にいただく苦しいこの世の批判にならずにはいられないものである〉

と指摘する。

宗教は幻影に過ぎないのだから、この幻影を作り出している社会を批判しなくてはならないとマルクスは考えている。

マルクスは、プロテスタンティズムがカトリックの神から人間に力点をシフトしたと考える。プロテスタンティズムの創設者の一人であるマルティン・ルターは、聖書をドイツ語に翻訳し、すべての信徒が神父(僧侶)と同様の知識を持つならば神父はいらなくなると考えた。従って、プロテスタントには聖職者という概念はない。牧師は聖なる人ではなく、一般信者と同じ人間だ。

マルクスは、

〈ルターはたしかに帰依からの屈従を克服したが、それは確信からの屈従をかわりにもってきたからであった。かれは権威への信仰を打破したが、それは信仰の権威を挽回したからであった。彼は僧侶を俗人らしくしたが、それは俗人を僧侶らしくしたからであった。彼は外形的な宗教心から人間を解放したが、それは宗教心を人間に内在的にしたからであった。彼はからだを鎖から解放したが、それは心を鎖につないだからであった。

けれども、プロテスタンティズムは課題の真の解決ではなかったにしても、課題の真の提出であった〉

と指摘する。

キリスト教から神秘的要素を除去しようとするプロテスタンティズムによって近代社会が抱える問題が提示されたと考える。

そして、

〈ただ一つ実際上可能なドイツの解放は、人間が人間の最高存在であると言明するような理論の立場にたってする解放である。(中略)この解放の頭脳は哲学であり、この解放の心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアートを止揚することなしには現実化されえず、プロレタリアートは哲学を現実化することなしには止揚されえない〉

とマルクスは結論づける。

プロレタリアート(賃金労働者)に対するマルクスの思い入れにはついていけないが、宗教や擬似宗教で物事を真剣に考えるのを停止してしまうリスクを指摘した点で、21世紀の今日もこの論文の価値は減じていない。


『週刊現代』2016年11月26日号より

2:52 午前  
Blogger yoji said...

https://ja.m.wikisource.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB%E6%B3%95%E5%93%B2%E5%AD%A6%E6%89%B9%E5%88%A4%E5%BA%8F%E8%AA%AC
ヘーゲル法哲学批判序説
作者:カール・マルクス

序文

 ドイツにとって宗教の批判は本質的には終わっており、宗教の批判は全ての批判の前提である。

 誤謬の天の、祭壇と炉のための弁論が論駁されてから、誤謬の世俗的な存在は評判を傷つけられている。超人的な人間を探し求めた天の空想的な現実の中に、ただ自分自身の反映しか見つけなかった人間は、本当の現実を探し求めたり、本当の現実を探し求めなければならない場合に、ただ自分自身の外見だけを、すなわちただ非人間的な人間だけを見つけようとはもはや思わないであろう。

 不信仰な批判の基本は「人間が宗教をつくり、宗教は人間たちをつくらない」ということだ。もっと言うと宗教とは、まだ自分自身を手に入れていないか、あるいはまたもや自分を失ってしまった人間の自己意識と自己感情である。しかし、人間、それは世界の外で屈み込んでいる抽象的な本質ではない。人間、それは人間の世界であり、国家であり、社会性である。この国家、この社会性が宗教、すなわちひっくり返った世界意識を生み出すのは、それらがひっくり返った世界だからである。宗教はこのひっくり返った世界の一般的な理論であり、その百科的概説書であり、一般向けの形式におけるその論理であり、その精神主義者の名誉に関わる点であり、その熱狂であり、その道徳的な是認であり、その壮麗な補いであり、その一般的な慰安と正当化の根元である。それが人間的な本質の空想的実現であるのは、人間的な本質が本当の現実を何も有していないからである。ゆえに宗教に対する闘争は間接的に、精神的な香りが宗教である先のひっくり返った世界に対する闘争である。

 宗教的な惨状は、現実的な惨状の表現に、そして現実的な惨状に対する抗議に存在する。宗教は窮迫した生き物のうめき声であり、それは精神なき状態の精神であるように、無情な世界の心情である。それは国民の阿片である。

 国民の幻覚の幸福としての宗教の廃止は国民の現実的な幸福の要求である。国民の状態に関して幻覚を捨てるよう要求することは、幻覚を必要とする状態をやめるよう要求することである。ゆえに宗教の批判は萌芽では、神聖な光が宗教である涙の谷の批判である。

2:54 午前  
Blogger yoji said...

https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB%E6%B3%95%E5%93%B2%E5%AD%A6%E6%89%B9%E5%88%A4%E5%BA%8F%E8%AA%AC
ヘーゲル法哲学批判序説

 宗教的な惨状は、現実的な惨状の表現に、そして現実的な惨状に対する抗議
に存在する。宗教は窮迫した生き物のうめき声であり、それは精神なき状態の
精神であるように、無情な世界の心情である。それは国民の阿片である。

 国民の幻覚の幸福としての宗教の廃止は国民の現実的な幸福の要求である。
国民の状態に関して幻覚を捨てるよう要求することは、幻覚を必要とする状態
をやめるよう要求することである。…

参考:
なぜマルクスは宗教を「民衆のアヘン」と批判したか
21世紀の今も色褪せぬ思想の本質 佐藤 優
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50241
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50241?page=2

2:57 午前  

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