マルクス『経済学批判』(1859年刊行)序言より
参考:
要綱wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E6%89%B9%E5%88%A4%E8%A6%81%E7%B6%B1
ジェームズ・スチュアート
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/07/james-steuart-economist-17121780.html
グルントリッセ1857~8...(+資本論草稿関連)
http://nam-students.blogspot.com/2016/07/blog-post.html
http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHiJ.html
第一部 資本について
http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html
価値を固定化する価値形態論よりも中期マルクスに可能性はある
…
最後に、金銀が、鋳貨の形態から地金形態に、地金形態から奢侈品の形態に、またその逆の方向に転化されうること、それゆえひとたびあたえられた一定の使用形態にしばられないという、ほかの商品よりすぐれた点をもっていること、このことは、金銀を、貨幣というたえずひとつの形態規定性から他の形態規定性に転じなければならないものの自然的な材料たらしめるのである。…
<…‥わたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、
簡単につぎのように公式化することができる。人間は、その生涯の社会的生産において、一定の、
必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸カの一定の発展段
階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっ
ており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、
一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、
政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのてはなくて、逆
に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。(社会の物質的生産諸力は、その発展があ
る段階にたっすると、いままでそれがそのなかで働いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法
的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生涯諸力の発展諸形態
からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。)経済的基礎の変化に
つれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察
するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革
と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の
諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。(ある個人を
判断するのに、かれが自分自身をどう考えているかということにはたよれないのと同様、このよ
うな変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識
を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説
明しなければならないのである。[一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展
の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産
諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとって
かわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけであ
る、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条
件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生
するものだ、ということがつねにわかるであろうから。])大ざっぱにいって、経済的社会構成が進
歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげる
ことができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵
対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形
態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこ
の敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって。人間社
会の前史はおわりをつげるのである。>
(マルクス『経済学批判』岩波文庫13~15頁より。『世界史の構造』4-5頁参照)
人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。
Karl Marx - Zur Kritik der Politischen Oekonomie - Vorwort…Das allgemeine Resultat, das sich mir ergab und, einmal gewonnen, meinen Studien zum Leitfaden diente, kann kurz so formuliert werden:In der gesellschaftlichen Produktion ihres Lebens gehen die Menschen bestimmte, notwendige, von ihrem Willen unabhängige Verhältnisse ein, Produktionsverhältnisse, die einer bestimmten Entwicklungsstufe ihrer materiellen Produktivkräfte entsprechen. Die Gesamtheit dieser Produktionsverhältnisse bildet die ökonomische Struktur der Gesellschaft, die reale Basis, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebt und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprechen. Die Produktionsweise des materiellen Lebens bedingt den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt. Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt.Auf einer gewissen Stufe ihrer Entwicklung geraten die materiellen Produktivkräfte der Gesellschaft in Widerspruch mit den vorhandenen Produktionsverhältnissen oder, was nur ein juristischer Ausdruck dafür ist, mit den Eigentumsverhältnissen, innerhalb deren sie sich bisher bewegt hatten. Aus Entwicklungsformen der Produktivkräfte schlagen diese Verhältnisse in Fesseln derselben um. Es tritt dann eine Epoche sozialer Revolution ein. Mit der Veränderung der ökonomischen Grundlage wälzt sich der ganze ungeheure Überbau langsamer oder rascher um.In der Betrachtung solcher Umwälzungen muß man stets unterscheiden zwischen der materiellen, naturwissenschaftlich treu zu konstatierenden Umwälzung in den ökonomischen Produktionsbedingungen und den juristischen, politischen, religiösen, künstlerischen oder philosophischen, kurz, ideologischen Formen, worin sich die Menschen dieses Konflikts bewußt werden und ihn ausfechten. Sowenig man das, was ein Individuum ist, nach dem beurteilt, was es sich selbst dünkt, ebensowenig kann man eine solche Umwälzungsepoche aus ihrem Bewußtsein beurteilen, sondern muß vielmehr dies Bewußtsein aus den Widersprüchen des materiellen Lebens, aus dem vorhandenen Konflikt zwischen gesellschaftlichen Produktivkräften und Produktionsverhältnissen erklären.Eine Gesellschaftsformation geht nie unter, bevor alle Produktivkräfte entwickelt sind, für die sie weit genug ist, und neue höhere Produktionsverhältnisse treten nie an die Stelle, bevor die materiellen Existenzbedingungen derselben im Schoß der alten Gesellschaft selbst ausgebrütet worden sind. Daher stellt sich die Menschheit immer nur Aufgaben, die sie lösen kann, denn genauer betrachtet wird sich stets finden, daß die Aufgabe selbst nur entspringt, wo die materiellen Bedingungen ihrer Lösung schon vorhanden oder wenigstens im Prozeß ihres Werdens begriffen sind.In großen Umrissen können asiatische, antike, feudale und modern bürgerliche Produktionsweisen als progressive Epochen der ökonomischen Gesellschaftsformation bezeichnet werden. Die bürgerlichen Produktionsverhältnisse sind die letzte antagonistische Form des gesellschaftlichen Produktionsprozesses, antagonistisch nicht im Sinn von individuellem Antagonismus, sondern eines aus den gesellschaftlichen Lebensbedingungen der Individuen hervorwachsenden Antagonismus, aber die im Schoß der bürgerlichen Gesellschaft sich entwickelnden Produktivkräfte schaffen zugleich die materiellen Bedingungen zur Lösung dieses Antagonismus. Mit dieser Gesellschaftsformation schließt daher die Vorgeschichte der menschlichen Gesellschaft ab.…Diese Skizze über den Gang meiner Studien im Gebiet der politischen Ökonomie soll nur beweisen, daß meine Ansichten, wie man sie immer beurteilen mag und wie wenig sie mit den interessierten Vorurteilen der herrschenden Klassen übereinstimmen, das Ergebnis gewissenhafter und langjähriger Forschung sind. Bei dem Eingang in die Wissenschaft aber, wie beim Eingang in die Hölle, muß die Forderung gestellt werden:
Qui si convien lasciare ogni sospetto
Ogni viltà convien che qui sia morta.<Hier mußt du allen Zweifelmut ertöten,
Hier ziemt sich keine Zagheit fürderhin.
(Dante, "Göttliche Komödie")>
London, im Januar 1859…経済学の領域におけるわたくしの研究の経過についてのこの簡単な叙述は、わたくしの見解がどのように評価されようとも、また支配諸階級の利己的な偏見とどれほど一致しにくくとも、それが長年月にわたる良心的な研究の成果であることだけは、はっきりと示してくれるはずである。だが、科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ。臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ*。* ダンテ『神曲』一八五九年一月ロンドンにて カール・マルクスマルクス『経済学批判』序言(全)iTunes :世界共和国へ-資本=ネーション=国家を超えて柄谷行人 2014年5月21日以下、上記書より
第Ⅰ部 交換様式
1 「生産」から「交換」へ史的唯物論への疑問資本とネーションと国家について考えるとき、私が参照したいのはマルクスです。というのは、マルクスだけがそれらに関して、包括的な把握を示したからです。しかし、すでに述べたように、そこには国家やネーションに関する認識上の欠落があります。たとえば、マルクスはつぎのように書いています。
わたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単につぎのように公式化することができる。人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。(『経済学批判』序言、武田隆夫ほか訳)
このような見方は、のちにエンゲルス以下のマルクス主義者によって「史的唯物論」と呼ばれています。ここで問題があるのは、国家を、文学や哲学その他と同じようなものであるかのように「上部構造」においたことです。しかし、国家が経済的な下部構造の上にある上部構造だというような見方は、近代資本主義国家以後にしか成立しません。それ以前においては、国家(政治)と経済とに、はっきりした区別はありえないのです。
たとえば、原始社会(部族的共同体)においては、そもそも国家がなく、したがって、経済的な構造と政治的な構造の区別はありません。また、「東洋的国家」においても、国家装置(軍・官僚・警察機構など)は、経済的な意味での支配階級の上にあるものではない。皇帝・王とそれを支える官僚層全体が、まさに経済的な意味での支配階級なのです。「生産様式」がもたらす誤謬 マルクスは「経済的社会構成体が進歩してゆく段階として、アジア的、〔古典〕古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげることができる」と書いています(同前)。しかし、資本制以前の社会構成体においては、国家もいわば生産様式の一部です。つまり、そこでは経済的構造と政治的構造の区別がありません。にもかかわらず、「生産様式」という観点に立つと、まるでそのような区別があるかのように見えてしまいます。したがって、このような混乱を避け、資本制以前をふくめて社会構成体の歴史を普遍的に見るためには、「生産様式」という言い方をやめたほうがよいのです。
マルクスは「経済学批判序説」で、個人と個人の間の商品交換からはじめるアダム・スミスに対して、それは近代社会での在り方を原始段階に投影することだと批判しました。だが、そうだとしたら、史的唯物論にも同じ誤謬があるといわねばならないでしょう。「生産様式」から「交換様式」へ
マルクスが経済的な下部構造を重視したのは、人間をまず自然との関係において見るという観点をとったからです。そのために彼は、人間が自然に働きかけて財を作り出す「生産」を重視した。さらに、彼は、生産が人間と人間の関係を通してなされること、いいかえれば、一定の生産関係の下で生産がなされることを見た。それが生産様式という概念です。
本来、生産様式とは、生産が一定の交換や分配の形態でなされる形態を意味します。つまり、生産があって、そののちに交換・分配がなされるのではない。ところが、「生産様式」という表現をとると、交換や分配が二次的なものとみなされてしまいます。
たとえば、原始的氏族的生産様式という場合、それは狩猟採集というようなこと人間と自然の関係を指すのではありません。それは、生産物が互酬によって全員に配分されるような生産の様式人間と人間の関係を指します。であれば、それは生産様式というよりも、「交換様式」と呼ぶべきだと思います。
その場合、交換様式は一つではありません。交換は普通、商品交換のようなイメージで考えられています。それは相互の合意と契約によって成立するものです。しかし、そのような交換は、交換一般の中ではむしろわずかの部分でしかありません。
_________英語版:Economic Manuscripts: A Contribution to the Critique of Political Economy 1859Karl Marx 1859A Contribution to the Critique of Political Economy
Written: 1859
Publisher: Progress Publishers, Moscow
First Published:1859
Translated: S.W. Ryazanskaya
On-Line Version: Marx.org 1993 (Preface, 1993), Marxists.org 1999
Transcribed: Tim Delaney, Zodiac;
Proofed: and corrected by Matthew Carmody 2009.
CONTENTS
Chapter 1: The CommodityChapter 2: Money or Simple Circulation3. Moneya) Hoarding
b) Means of Payment
c) World Money
AppendicesINTRODUCTION by Karl Marx
I. Production, Consumption, Distribution, Exchange (Circulation)1. Production4. ProductionREVIEW by Frederick Engels
II. Karl Marx. "A Contribution to the Critique of Political Economy"
Economic Manuscripts: Critique of Political Economy. The CommodityEconomic Manuscripts: Means of Payment