月曜日, 9月 28, 2015

経済学者ヒューム

              (経済学マルクス論理学リンク::::::::::

ヒューム:メモ
 http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_07.html
NAMs出版プロジェクト: ヒューム再考
 http://nam-students.blogspot.jp/2014/11/blog-post_23.html
NAMs出版プロジェクト: 経済学者ヒューム
 http://nam-students.blogspot.jp/2015/09/blog-post_28.html(本頁)

デイヴィッド・ヒューム(David HUME)1711-1776

ロック『利子・貨幣論』…  the Lowering of Interest and the Raising the Value of Money, John Locke 1691
 http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/some-considerations-of-lowering-of.html

 ヒュームは熾烈な反重商主義だった。富というのは、その国の財のストックで計測されるべきで、お金のストックで計測されるのではないと確信していた。また、 貨幣数量説と貨幣中立説を比較的うまく説明した(「お金は交易の車輪などではない。それは車輪の動きをなめらかで容易にする潤滑油なのだ」Of Money, 1752)。重商主義者とはちがって、ヒュームは低金利はお金がたくさんあるせいではなく、商業が絶好調だからだ、と考えた。金利の融資可能資金理論を始めて考案した人物で、金利は融資の需要と貯蓄の供給で決まるのだ、と論じている。低金利はこのように、好調な商業経済の症状であり、抜け目なさと利益や貯蓄の欲求がそこでは主流になるために金利が下がるというわけだ。だが、短期的には(そして短期的にだけ)お金の供給(マネーサプライ)を増やすと産業によい影響があることは認めた。


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川村論考
「機械的貨幣数量説」および正金の自動調節作用という考え方には,ヒュームの先駆者がいる。学説史的研究からは,数重説をはじめて定式化したとされるジョン・ロック,ヒュームと同時代で影響を受けたモンテスキューがあげられる。また,数蛍説と正金の自動調節作用をヒュームが組み合わせたことについては,当時はあまり知られていなかった叙述家であるが,マルクスによってヒュームとの関連が指摘されたヴァンダーリントがあげられる。

ハイエクらが評価したのは「連続的影響説」の方

ヒュームは経済学ではマネタリスト、反重商主義者ということになっている。
彼は絶対的な貨幣の価値を疑った。マルクスはそこにブルジョア経済学を見た☆。

http://nam-students.blogspot.jp/2015/02/httpnam-students.html#refka
☆☆『ヒューム 政治論集』 (近代社会思想コレクション04): ヒューム, 田中 秀夫: 本 2010
http://www.amazon.co.jp/dp/4876989621
「貨幣について」1752
http://www.eonet.ne.jp/~bookman/zenkotennha/hume.html
《この現象を説明するためには、われわれはつぎのことを考察しなければならない。すなわち、財貨の高価格は、金銀の増加の必然的結果であるけれども、しかしこの増加につづいてただちに生じるものではなく、貨幣が国家の全体に流通し、その影響がすべての階級の人びとに及ぶまでには、いくらかの時間が必要である。最初は、何らの変化も感じられないが、まず一つの財貨から他の財貨へと次第に価格が騰貴して行き、ついにはすべての財貨の価格がこの国にある貴金属の新しい量ちょうど比例する点に到達する。私の意見では、金銀の量の増加が勤労にとって有利なのは、貨幣の獲得と物価の騰貴との間の間隙、あるいは中間状態においてだけである…》(同p.42)。
貨幣が国家全体を流れていくのを巡ることはたやすい。その場合、貨幣は労働の価格を騰貴させるよりも前に、まずあらゆる個人の勤労を増大させるにちがいない。》(同p.46)。
(マンキュー邦訳第3版入門編1:3:7,281頁、邦訳第2版応用編2:3:8,256頁参照。『市民の国について (下) 』57~8頁(岩波文庫.ヒューム, 小松 茂夫)参照。)

経済学批判要綱 - Wikipedia
マルクスは本文の一部である「貨幣にかんする章」をもとにした原初稿(Urtext)を執筆し、さらにこれを改稿して、翌1859年に『経済学批判』☆を出版した。『経済学批判』の序言(Vorwort、「序説」とは異なる)で述べられる、資本・土地所有・賃労働・国家・外国貿易・世界市場の全6部からなる経済学批判の著述計画は、1857-58年の経済学草稿の執筆のなかで構想されたものである。その後、彼の研究の進展を受けてこの計画は変更され、1867年に『資本論』第1巻が出された。したがって、この草稿はマルクスが本格的にまとめた経済学研究の最初の成果であり、『経済学批判』を経て主著『資本論』へと至る彼の経済学研究の中心部分の構想を展開した最初の原稿と見なされる。他方で、『経済学批判』や『資本論』には反映されなかった議論もあり、この草稿の独自の価値も存在する。

ヒュームへの言及
大月全集第13巻
136~9
経済学批判
#2


貨幣を流通の結晶した産物としての形態規定性だけで知っているにすぎない重金主義と重商主義に対立して、古典派経済学がそれをなによりもまずその流動的な形態で、商

9品変態そのものの内部でつくりだされてはまた潜え去る交

換価値の形態として把握したのは、当然至極なことであった。だから商品流通がもっぱらWIGIWの形態で、この形態がまたもっぱら販売と買との過程的統一という規定性で把握されるように、貨幣は、貨幣としてのその形態規定性に対立して、流通手段としてその形態規定性において主張される。流通手段そのものが、錆貨としてのその機能において孤立させられると、すでに見たように、それは価値章標に転化する。だが、古典派経済学は、まずもって流通の支配的形態としての金属流通に対面したのであるから、金展貨幣を貨として、金属結貨をたんなる価値章標としてとらえる。そういうわけで、価値章標の流通の法則に照応して、商品の価格は流通する貨幣の量によって決まるのであって、逆に流通する貨答の量が商品の価格によって決まるのではない、という命題がうちたてられる。われわれは、こういう見解が一七世紀のイタリアの経済学者たちのあいだで多かれ少なかれほのめかされ、ロックによってときには青定され、ときには否定され、コスペクテーター』(一七一一年一〇月一九日号)によって、モンテスキューととかいかとによって決定的に展開されているのを見いだすのである。といいムは一八世紀におけるとの理論の最も重要な代表者であるから、われわれの展望も彼から始めよう。

 一定の前提のもとでは、流通する金属貨幣にせよ、流通する価値章標にせよ、その量の増減は、諸商品価格に一般に作用するように見える。商品の交換価値を価格として評価する金または銀の価値が低下または上昇すれば、価格はその価値尺度が変化したのだから、勝貴または下落する。

そして価格が勝貴または下落したのだから、より多量のまたはより少量の金銀が鉄貨として流通する。ところが、目に見える現象は、諸商品の交換価値は同じままなのに、流通手段の量の増減につれて価格が変動するということである。他方では、流通する価値章の量が必要なその水準以上または以下に増減すれば、それは諸商品価格の下落または勝貴によっていやおうなしに必要な水準に還元される。

どちらの場合にも、同じ結果が同じ原因によってひきおこされたように見える。そしてとかいかはこの外観をしっか

りととらえたのである。


 流通手段の数量と商品の価格運動との関係についてのあらゆる科学的研究は、貨幣材料の価値をあたえられたものとして前提しなければならない。これとは逆にヒュームは、もっぱら貴金属の価値そのものの変革、したがって価値の尺度の変革の時期だけを考察する。アメリカの鉱山の発見以来の金属貨幣の増加と時を同じくする商品価格の勝貴が、

10彼の理論の歴史的背景をたしている一方、重金主義と重商主義とにたいする論争が、彼の理論に実的動機をあたえたのである。貴金属の供給は、もちろんその生産費が同じままであっても増加されうる。他方では、貴金属の価値の減少、すなわちその生産に必要な労働時間の減少は、さしあたってその供給の増加に現われるだけである。それゆえに、のちにヒュームの学徒は貴金属の価値の減少は流通手段の量の増加に現われ、流通手段の量の増加は商品価格の貴に現われる、と言った。しかし実際には、流通手段としての金銀ではなく、商品としての銀と交換される輸出商品の価格だけが勝費するのである。こうして、価値の減少した金銀で評価されるこれらの商品の価格は、その交換価値がひきつづき金銀のもとの生産費の基準にしたがって評価される他のすべての商品にたいして勝貴する。同じ国内での諸商品の交換価値のこういう二重の評価は、もちろん一時的なものでしかありえず、金価格または銀価格は交換価値そのものによって規定された比率で平衡化されなければならず、こうして結局は、すべての商品の交換価値は、貨幣材料の新しい価値におうじて評価されることになる。こういう過程の展開は、一般に市場価格の動揺のなかで商品の交換価値が自己を貫徹するしかたと同じように、ここでの問題ではない。だが、この平衡化が、ブルジョア的生産のあまり発展していない時代には、きわめてゆっくりと、また長期にわたっておこなわれ、どんな場合でも流通する現金の増加と歩調をそろえるものではないことは、一六世紀の商品価格の運動についての新しい批判的研究によって的確に証明されている。ヒュームの学徒は、マケドニア、エシプト、小アジアの征服の結果として古代ローマに起こった物価勝貴をこのんで引合いにだすが、これはまったく見当ちがいである。古代世界に特有な、貯めこまれた蓄蔵貨幣の一国から他国への、突然で強力的な移転、略奪という単純な過程による貴金属の生産費の一定の国にとっての一時的減少は、たとえばエシブトやシチリアの殺物をローマで無償で分配したことが、殺物価格を規制する一般的法則に影響するものではないのと同じように、貨幣流通の内在的法則に影響するものではない。貨幣流通の詳細な観察に必要な材料、すなわち一方では商品価格のよく吟味された歴史、他方では流通媒介物の膨張と収縮、貴金属の流入と流出等についての公式の連続的な統計、一般に銀行制度が十分に発展してはじめて生じてくる材料は、ヒュームも、一八世紀のすべての著述家も、もっていなかったのである。ヒュームの流通理論を要約すれば、決の命題になる。

(1)一国の諸商品の価格は、その国に存在する(現実的または象徴的)貨幣の量によって規定される。(二)一国に流通している貨幣は、その国に存在するすべての商品を代理する。代理者、すなわち貨幣の数量が増減するのに比例して、代理される物が個々の代理者に割り当てられる最が増減する。(三)商品が増加すれば、それらの価格が下落し、つまり貨幣の価値が上昇する。貨幣が増加すれば、逆に諸商品の価格が勝費して、貨幣の価値が低下する。


 *ヒュームは、彼の原理には一致しなかったけれども、この平化がゆっくりしたものであることをともかくも認めている。デーヴィット・ヒューム「若干の論題にかんする試論と論述」、ロンドン、一七七七年、第一巻、三〇〇ページを参照。

 **ステュアート、前掲書、第一巻、三九四1四〇〇ページを参照。


ヒュームは言う。


「貨幣が過剰なためにあらゆる物が高価であることは、すべての既存の商業にとって不利益である。なぜならば、そのために貧乏な国々がすべての外国市場で富んだ国々より安く売ることができるようになるからである。」「もしわれわれが一国民をそれだけとして考察するならば、商品を計算したり代理したりするための鋳貨が多いか少ないかは、よいにせよわるいにせよ、なんの影響をも及ぼしえない。それはちょうど、商人が記帳にさいして、わずかな数字しか必要としないアラビア式記数法のかわりに、多くの数字を必要とするローマ式記数法を用いても、彼の帳尻になんの違いもないのと同じである。いやそれどころか、貨幣の量が多いのは、ローマ数字と同じように、むしろ不便であって、その保管と輸送により多くの手数がかかるのである。」

   ※デーウィット・ヒューム、前掲書、三〇〇ページ。

   **デーウィット・ヒューム、前掲書、三〇三ベージ。

[マルクス(13)138]


 およそなにかを証明するためには、ヒュームは、あるあたえられた記数法で、使用される数字の数が数値の大きさによって決まるのではなく、逆に数値の大きさが使用される文字の数によって決まることを示さなければならなかったであろう。商品価値を価値の低下した金または銀で評価したり「計算」したりしても、なんの利益にもならぬことは、大いに正しい。だから諸国民は、流通する商品の価値総額が増加するにつれて、鍋で計算するよりも銀で計算するほうが、銀で計算するよりも金で計算するほうが、つねに便利だと考えた。諸国民は、彼らが富んでくるのにつれて、価値の小さい金属を補助S貨に、価値の大きい金属を貨幣に転化した。他方ではヒュームは、価値を金銀で計算するためには、金も銀も「現存する」必要のないことを忘れている。彼にとっては、計算貨幣と流通手段とは同じものであって、両者とも鉄貨(coin)である。価値の尺度の価値変動、言いかえれば計算貨幣として機能する貴金属の価値変動は、商品価格を貴または下落させ、したがってまた流通速度が同じままならば、流通する貨幣の量を増加または減少させるから、ヒュームは商品価格の勝落は流通する貨幣の量に依存する、と結論する。一六世紀と一七世紀には、金銀の量が増加したばかりでなく、同時にまたそれらの生産費も減少したということを、ヒュームは、ヨーロッパの諸鉱山が閉鎖されたことから知ることができた。

一六世紀と一七世紀には、ヨーロッパの商品価格は、輸入されたアメリカの金銀の量の増加につれて勝費した。したがって各国の商品価格は、その国に存在する金銀の量によって規定される。これがヒュームの第一の「必然的帰結」であった。一六世紀と一七世紀には、物価は貴金属の増加につれて一様に勝費したのではなかった。また、商品価格になんらかの変化が現われるまでには、半世紀以上が経過したし、変化が現われてからでも、諸商品の交換価値が一般的に金銀の低下した価値にしたがって評価されるまでには、したがってこの革命が一般の商品価格をとらえるまでには、さらに長い期間がかかったのである。そこでヒュームは、彼の哲学の根本命題と完全に矛盾して、一面的に考察された事実を無批判的に一般的命題に転化させて、次のように結論する。すなわち、商品の価格または貨幣の価値は、一国に存在する貨幣の絶対量によって規定されるのではなく、むしろ実際に流通にはいる金銀の量によって規定されるが、しかし、結局は一国に存在するすべての金銀は、鮮貨として流通によって吸収されざるをえない、様。金銀がそれ自身の価値をもつとすれば、流通の他のすべての法則を度外視しても、ただ一定量の金銀だけが諸商品のあたえられた価値総額にたいする等価物として流通できるということは、明らかである。だからどれだけであろうと、た

39またま一国内に存在する金銀の量が、商品価値の総額にかかわりなく、流通手段として商品交換にはいりこまなければならないとすれば、金銀はなんら内在的価値をもたず、


ヒューム






下落または勝貴させる。商品価格にたいするこれと同じ作

£60

用を、いまや、銀行が金属流通の法則を模徴することによって、人為的に生じさせなければならない。金が外国から流入すれば、それは、〔貨幣〕流通が不足で、貨幣価値が高すぎ、商品価格が低すぎる証拠であって、したがって新たに輸入された金に比例して、銀行券が流通に投入されなければならない。逆に、金が国内から流出するのに比例して、銀行券は流通から引き揚げられなければならない。言いかえるならば、銀行券の発行は、貴金属の輸出入におうじて、または為替相場におうじて、調節されなければならない。金*は鋳貨にほかならず、したがって輸入されるすべての金は流通する貨幣を増加させ、したがって物価を勝貴させるし、輸出されるすべての金は鋳貨を減少させ、したがって物価を下落させる、というリカードの誤った前提、この理論的前提は、この場合、そのときどきに現存すお金と同量の鶏を流通させようとする実際上の実験となったのである。


イギリスで「通貨主義」〔currency principle]学派という名称で知られているオーヴァストン卿(銀行家ジューンズ・ロイド)、トレンズ大佐、ノーマン、クレー、アーバスノットその他無数の著述家たちは、この学説を説教したばかりでなく、一八四四年と一八四五年のサー・ロバート・ピールの銀行法をつうじて、それをイングランドとスコットランドにおける現行の銀行立法の基礎とした。


このうえなく大がかりな全国的規模の実験ののちに、この学説が理論上も実践上も不面目な失敗をこうむったことは、信用論のところではじめて述べることができる。だが、貸幣を流通手段としてのその流動的形態だけに閉じこめるリカードの理論が、貴金属の増減に、重金主義の迷信家たちの夢想だにしなかったほどの絶対的な、ブルジュア経済への影響力をあてがう結果となったことだけは、明らかである。こうして、紙幣を貨幣の最も完成した形態だと宜言するリカードは、地金主義者の予言者となったのである。


※ 一八五七年の一般的商業恐慌が起こる二、三ヵ月まえに、一八四四年と一八四五年の銀行法の効果を調査するための下院の一委員会がひらかれた。これらの法律の理論上の父であるオーヴァストン卿は、委員会での彼の証言のなかで次のように大言壮語した。「一八四四年の法律の諸原則を厳格に、また敏速に遊守したために、万事は規則ただしく、また容易におこなわれてきました。貨幣制度は安固不動で、わが国の繁栄は争う者もなく、一八四四年の法律の賢明さにたいする公衆の信頼は日々にたかまりつつあります。もし、本委員会がこの法律の基礎となっている諸原則の健全さ、またこの法律が保証した有益な諸結果について、これ以上の実地の例証を望まれるならば、委員会にたいする真実で十分な答弁は、諸君の周囲を見てください、わが国の貿易の現状をごらんなさい、人民の満足をごらんなさい、社会のあらゆる階級にゆきわたっている富と繁栄とをごらんなさい、ということです。

そうしてはじめて、本委員会は、こういう成果をもたらした法律の存続を妨げるべきかいなかの決定を公正になしうるでありましょう。」オーヴァストンは、一八五七年七月一四日にこのように帰たかだかと自画自賛したのであるが、同じ年の一一月一二日には、内閣は一八四四年のこの奇跡的な法律を、自己の責任で停止しなければならなかった。

*一八五九年版では、貨階、となっていた。自用本で訂正。


 ヒュームの理論、すなわち重金主義にたいする抽象的な対立が、こうして究極の帰結にまで発展させられたのちに、ステュアートによる貨幣の具体的な把握が、トマス・トゥックによってついにふたたびその当然の地位にすえられた。


160~161


デビッド・ヒューム (David Hume), 1711-1776. 

 西洋史上最大の哲学者の一人で、さらに一流歴史家、経済学者、終生の懐疑主義者で好人物。デビッド・ヒュームはスコットランド啓蒙主義最大の一人で、アダム・スミスの親友。ヒュームの経済学への貢献はもっぱら『政治論集』 (1752) にあり、これは後に『道徳・政治・文学論集』 (1758) に組み込まれた。
 ヒュームは熾烈な反重商主義だった。富というのは、その国の財のストックで計測されるべきで、お金のストックで計測されるのではないと確信していた。また、 貨幣数量説と貨幣中立説を比較的うまく説明した(「お金は交易の車輪などではない。それは車輪の動きをなめらかで容易にする潤滑油なのだ」Of Money, 1752)。重商主義者とはちがって、ヒュームは低金利はお金がたくさんあるせいではなく、商業が絶好調だからだ、と考えた。金利の融資可能資金理論を始めて考案した人物で、金利は融資の需要と貯蓄の供給で決まるのだ、と論じている。低金利はこのように、好調な商業経済の症状であり、抜け目なさと利益や貯蓄の欲求がそこでは主流になるために金利が下がるというわけだ。だが、短期的には(そして短期的にだけ)お金の供給(マネーサプライ)を増やすと産業によい影響があることは認めた。
 ヒュームの最大の貢献は国際貿易面でのものだ。 重商主義者とはちがって、ヒュームは貿易がゼロサムゲームだとは思わず、相互に利益があるのだと論じた。国際貿易の総量はまったく固定されたものではなく、あらゆる国の多様性と富に直接関連しているのだ、とヒュームは論じた。その結論に曰く「したがって私は、一人の人間としてのみならずイギリス臣下として、ドイツ、スペイン、イタリア、そしてフランスさえも、それ自体の商業の開花を祈念するものである」 (Of the Jealousy of Trade, 1758)。
 ヒュームはまた自動「価格-正金フロー」メカニズムと「reflux principle」を提唱した。その基本的な議論は、黄金正貨の国内流入は対外貿易収支を操作することで実現できるという、古い重商主義政策提案を否定することだった。ヒュームによれば、正金の流入は貨幣数量説により国内価格上昇をもたらし、相手国に対する交易条件を変える。したがって外国での輸出品需要が下がり、対外貿易収支は逆転して、正金はこんどは流出してしまう。ヒュームはまたこの論理を使い、物価上昇が賃金上昇のせいだという発想を否定した。具体的には、もしイギリスで賃金上昇からくる物価上昇があれば、イギリスと他の国との交易条件は、イギリスの輸出品に不利な形で変化し、他国からの輸入品には有利になる。これによってお金はイギリスから流出し、したがってイギリスのお金のストックを減らして、するとイギリスでの物価水準はまた下がる。
 ヒュームの国際貿易における自動フローメカニズムは、国々の間の貿易には「自然なバランス」があって、意図的な政策ではこれを変えたり否定したりはできないという発想に裏付けを与えた。だがヒュームは同時代の政治社会哲学者たちに人気のあった「自然法」や「社会契約」を信じてはいなかった。政治面でも哲学面でも、ヒュームは徹底した経験論者だった。道徳についての快楽主義的な理論は、効用主義の基盤となった。倫理や制度、社会慣習の「進化」に関する理論は、ハイエクやその後の進化的理論に大きく影響した。ヒューム思想の他の具体面については デビッド・ヒューム入門を参照。

デビッド・ヒュームの主要著作

デビッド・ヒュームに関するリソース



2 Comments:

Blogger yoji said...

ヒックスの景気循環論によれば、ヒュームはモンテスキューを意識していた
またアメリカからの銀流入を念頭に入れていた

10:06 午後  
Blogger yoji said...

ロック
ジョン・ロック(John Locke、1632年8月29日 - 1704年10月28日)は、イギリスの哲学者。哲学者としては、イギリス経験論の父と呼ばれ、主著『人間悟性論』(『人間知性論』)において経験論的認識論を体系化した。また、政治哲学者としての側面も非常に有名である。『統治二論』などにおける彼の自由主義的な政治思想は名誉革命を理論的に正当化するものとなり、その中で示された社会契約や抵抗権についての考えはアメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。



ヒューム
デイヴィッド・ヒューム(David Hume、ユリウス暦1711年4月26日(グレゴリオ暦5月7日) - 1776年8月25日)は、イギリス・スコットランド・エディンバラ出身の哲学者である。ジョン・ロック、ジョージ・バークリーらに続き英語圏の経験論を代表する哲学者であり、歴史学者、政治哲学者でもある。生涯独身を通し子供もいなかった。





重商主義の経済思想(続きの続き)(2003年度経済学史)
park.saitama-u.ac.jp/~yanagisawa/het03/money.html
ただし、ロックは開放経済(貿易が行われている経済)では、貨幣数量説は妥当しにくいと考えていた。 ヒュームの貨幣論ヒュームも後期重商主義に分類するのが普通である。 ただし、私見では古典派経済学に近いので ...
ヒュームの貨幣論の背景 (Adobe PDF) -htmlで見る
kokushikan.repo.nii.ac.jp/index.php?...block...
ヒュームの貨幣論に並存するといわれる「機械的貨幣数量説」と「連続的影. 響説」をまずはそれぞれを呈示し ... るジョン・ロック]'1,ヒュームと同時代で影響を受けたモンテスキュー'2}があ. げられる。また,数蛍説と正金 ...
貨幣はどこに消えたのか? : 貨幣数量説の再検討 (Adobe PDF) -htmlで見る
kwansei.repo.nii.ac.jp/index.php?...block...
貨幣数量説は 1930 年代の大恐慌の時代にはケインズの批判に遭い. 一旦は後退した ... 他にもジョン・ロックやモンテスキューなども同様. の指摘をして ... イギリスのヒューム とされる。その関係は ...
スチュアートとヒュームの貨幣数量説 | 秋山のブログ
ameblo.jp/chichukai/entry-12163533765.html
貨幣数量説は重商主義の時代からのもののようだ。経済思想史に面白い記載があった。抜粋して、引用する。
デビッド・ヒューム (David HUME) - Cruel.org
cruel.org/econthought/profiles/hume.html
また、 貨幣数量説と貨幣中立説を比較的うまく説明した(「お金は交易の車輪などではない。それは車輪の動きをなめらかで容易 ...
マルクスの貨幣数量説批判 - 駒澤大学学術機関リポジトリ (Adobe PDF) -htmlで見る
repo.komazawa-u.ac.jp/opac/.../all/.../rkz047-3-06-miyata.pdf
イタリアの経済学者にも散見されるが、ロック. <論 説>. マルクスの貨幣数量説 ... さて、このようなヒュームの貨幣数量説は古.
ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む(3/5): 主体性確立のための ...
dialectic.seesaa.net/article/453089264.html
つまり、ヒュームの貨幣論は、古典派経済学の貨幣数量説を先駆的に主張するものであった、といえるわけです ...
金貨幣の合理性に関する考察 - 政策科学学会|ホームページ (Adobe PDF) -htmlで見る
www.apsj.org/nenpou/00_01.pdf
ロックによる貨幣数量説の形成とヒューム. による貨幣=道具説の確立と重商主義批判としての貨幣数量説の完成。フィッシャー ...
D・ヒュームにおける貨幣と権力 - Core (Adobe PDF)
core.ac.uk/download/pdf/35424146.pdf
この想定は,古典派経済学の生成期に貨幣数量説とともに登. 場したと理解されている。 しかし,本稿で ..... こうしてヒュームの貨幣理論は、. ロックから現代のマネタリストに至る貨幣数量説の発展の文脈でのみ位置づ.
1 (Microsoft Word) -htmlで見る
www3.econ.fukuoka-u.ac.jp/~yamazaki/chapter1.doc
ヒュームの議論の背景には、ロックによって最初に唱えられたといわれる貨幣数量説がある。ロックはこの考え方を、一晩で国民 ...
もっと見る

10:45 午後  

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