ヘーゲル『精神現象学』(1807年)の「意識」の章の終わりあたりより、翻訳の比較です。
以下、同じ箇所を引用してみました。
/////////////
「知覚を越えて高まったとき、意識は現象という媒語を通じて超感覚的なものと推理的に連結したものとして現われてきて、現象という媒語を通じて[超感覚的なものという] この背景(後ろの根拠)を観じている。」
金子武蔵訳、岩波書店『精神の現象学』上p166
「知覚を超えて高まったとき、意識は、現象という媒語[中間]によって、超感覚的なものと推理的に結ばれて、現われる。この媒語を通じて意識はその背景を見るのである。」
樫山欽四郎訳、平凡社上p203
(「知覚を超えて高まったとき、意識は、現象という媒語によって、超感覚的なものと推理的に結ばれて、現われる。この媒語を通じて意識はその背景を見るのである。」樫山欽四郎訳、世界の大思想版1972年。先の平凡社版は1966年版を改訂したもの。この箇所はほぼ同じ。全体を見れば細かい違いがあるかもしれないが未確認。)
「知覚を超えた境地にある意識は、現実界を媒介とし、現実界の背後を透視するというかたちで超感覚的世界とつながっている。」
長谷川宏訳、作品社p117
「意識[自身はというと、それ]は知覚よりは高まっているから、現象という中項を介して超感覚的なもの[内なるもの]と連結するのであり、意識はその中項を介してこの[超感覚的なものという]背景を覗き見るのである。」
牧野紀之訳、未知谷p311
"Raised above perception, consciousness exhibits itself closed in term of appearance, through which it gazes into this background [lying behind appearance]."
"HEGEL'S Phenomenology of Spirit"translated by A.V.Miller,p103
"Erhoben über die Wahrnehmung stellt sich das Bewußtsein mit dem Übersinnlichen durch die Mitte der Erscheinung zusammengeschlossen dar, durch welche es in diesen Hintergrund schaut."
G.W.F. Hegel"Phänomenologie des Geistes"
http://www.marxists.org/deutsch/philosophie/hegel/phaenom/kap3.htm
追加:精神の章の冒頭。
「理性が精神であるのは、あらゆる実在性であるという確信が真理にまで高められ、そうして理性が自分自身を自分の世界として、また、世界を自分自身として意識しているときである。」
金子武蔵訳、岩波書店『精神の現象学』下p731
「全実在であるという確信が真理に高められ、理性が自己自身を自己の世界として、世界を自己自身として意識するようになったとき、理性は精神なのである。」樫山欽四郎訳、創文社『ヘーゲル精神現象学の研究』p388
「物の世界すべてに行きわたっているという理性の確信が真理へと高められ、理性がおのれ自身を世界として、また、世界をおのれ自身として意識するに至ったとき、理性は精神である。」
長谷川宏訳、作品社p296
「理性は[今や]精神となっている。[自分は]全ての実在であるという[自己意識の主観的]確信が[客観的]真理にまで高まり、その確信が自分の世界との一体性を自覚するに至ったからである。」
牧野紀之訳、未知谷p618
「 理性が精神となるのは 、 「いっさいの実在性である 」とする確信が真理まで高められたときである 。つまりそのばあい理性は 、じぶん自身をみずからにとっての世界として 、また世界をじぶん自身として意識することになる 。」
熊野訳ちくま
"REASON is spirit, when its certainty of being all reality has been raised to the level of truth, and reason is consciously aware of itself as its own world, and of the world as itself. "
"THE PHENOMENOLOGY OF MIND "Translated by J. B. Baillie(先出とは違うmindバージョン。)
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/texts/Hegel%20Phen/hegel%20phen%20ch%20VI.htm
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/ToC/Hegel%20Phen%20ToC.htm
"Die Vernunft ist Geist, indem die Gewißheit, alle Realität zu sein, zur Wahrheit erhoben, und sie sich ihrer selbst als ihrer Welt und der Welt als ihrer selbst bewußt ist."
G.W.F. Hegel"Phänomenologie des Geistes"
http://www.marxists.org/deutsch/philosophie/hegel/phaenom/kap6.htm
http://www.marxists.org/deutsch/philosophie/hegel/phaenom/index.htm
専門家には金子訳、一般には長谷川訳でいいのではないでしょうか?
ヘーゲルが大急ぎで書いたものなので、早く読める長谷川訳がいいと思います。
細かい訳の問題は、それぞれの訳者の書いた入門書にあたるのがいいと思います。
牧野訳における「序言」「序論」という目次設定は的確だと思いますが、、、
なお英訳にも精神をmindとする バージョンとspiritとするバージョンがあって、意見が分かれます。spiritの方が歴史的には正確でしょうが、mindの方が現在の意味としてはニュアンスが正確に伝わるようです。
追記:
概念を把握でき、読みやすく、本の造りもいい(高価だが金子訳ほどではない)という点で牧野訳が一番推薦できると最近は考えています。金子訳と長谷川訳の長所短所をふまえているという部分も評価できます。
27 Comments:
世界の大思想」第1期第12巻(1972年9月30日初版
ワイド版 世界の大思想07 ヘーゲル 精神現象学 発行日 二〇一三年十二月三〇日 訳 者 樫山欽四郎
「つぼみは、花が咲くと消えてしまう。そこで、つばみは花によって否定されると言ってもよい。
同じように、果実によって花は植物の偽なる定在と宣告され、植物の真として果実が花の
代りとなる。これらの形式は互いに異なっているだけでなく、互いに相容れないものとして
斥け合う。しかし、これらの形式は、流動的な性質をもっているため、同時に有機的統一の
契機となり、この統一にあっては形式は互いに対抗しないばかりか、一方は他方と同じように
必然的である。この等しい必然があって初めて、全体という生命が成り立つのである。けれど
も或る哲学体系に自分の体系が矛盾する場合、一方では言った仕方で矛盾を理解しない
のが普通である。」
世界の大思想版
ーーーーー
精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200))新書 – 1997/6
G.W.F.ヘーゲル (著), 樫山 欽四郎 (翻訳)
5つ星のうち 4.4
9件のカスタマーレビュー
商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
感覚という意識の最も低次の段階から、経験を通じて、精神が〈絶対知〉に達する過程を描く「意識の経験の学」。人間の知の範囲の限界の拡張を試みるヘーゲル第一の主著。66年刊の元訳を補訂。
「本質的には哲学は、特殊を包む普遍という場〔境位〕のなかに在るものである。そのため、哲学の場合には他の諸々の学問の場合よりも一層、事柄そのものは、目的もしくは最終の結果のなかに、しかも完全な本質となって表現されている」
しかしだからといって、「実現の過程は本質的でない」ことはない。
たとえば、「特殊を手に入れるように努力しなければならないと、確信されている」解剖学は「目的やそれに類する普遍性」について語ろうとしても「事実を列記して行くだけの、無思想な方法」である。
序説 上16ー17
「諸々の哲学体系のちがい」は「真理が前進するときの展開」である
序論 上17ー18
■『ヘーゲル初期論文集成 全新訳』
http://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68325552&tr=s
――――――――――――――――――――――――――――――――――
【著者】村岡晋一 吉田達 訳
【発行】作品社
【予価】6,480円(税込み)※予価の為、価格が変更する場合がございます。
【発送時期】2017/04/下旬
ヘーゲル哲学の源泉。哲学・宗教・歴史・政治の初期主要論文を網羅。
本書は『精神現象学』刊行までの(年代的にはおよそ1795年から1807年まで
の)論文をおさめている。
『精神現象学』は、哲学はもとより自然科学、歴史、芸術、政治、宗教といっ
たじつに多彩な領域における西洋の知的遺産を弁証法という一貫した論理のも
とに鳥瞰させてくれる画期的な著作だが、それを可能にしたのは青年時代の思
索の積み重ねである。
そこで本書は、「I 哲学論文」、「II 宗教論文」、「III 歴史・政治・社会
論文」の三章をもうけて、青年ヘーゲルの知的活動をできるかぎり多方面にわ
たって収録するように努めた。(訳者「あとがき」より)
▼目次 (*)は初訳
I 哲学論文
◇フィヒテとシェリングの哲学体系の差異
◇哲学的批判一般の本質、とりわけ哲学の現状にたいするその関係について
(*)
◇懐疑主義と哲学の関係--そのさまざまな変種の叙述および最近の懐疑主義と
古代懐疑主義の比較(*)
◇抽象的に考えるのはだれか(*)
◇ドイツ観念論最古の体系プログラム(*)
II 宗教論文
◇ユダヤ人の歴史と宗教(*)
◇イエスの教えとその運命(*)
◇愛と宗教(*)
◇一八〇〇年の宗教論
III 歴史・政治・社会論文
◇自然法の学問的な取り扱いかた、実践哲学におけるその位置、および実定化
した法学との関係について
◇歴史的・政治的研究
◇ドイツ体制批判
◇原典解題
◇ヘーゲル略年譜
◇あとがき
◇索引
細川亮一『ヘーゲル現象学の理念』の説 だと、『精神現象学』は『哲学史講義』と並行対応関係にあり、
『哲学史講義』は『精神現象学』と一緒に読むといいそうだ。
以下、『精神現象学』内の章:対応する哲学者(及びキーワード)。
意識
感覚:パルメニデス(本来の哲学が始まる)からヘラクレイトス(一般的な過程)
知覚:レウキッポス(自立存在の定義、正なるものを負なるものの空虚として)
悟性:プラトン「ソピステス(ソフィスト)」(抽象的な統一)
自己意識
生命: アリストテレス「霊魂論」(一般的)
主と僕:アリストテレス「政治学」(服従)
ストア派(自然な素朴さ)
懐疑派(内容の否定)
不幸な意識:
新プラトン主義(統一、三位一体)
エンチクロペディでは、
個(個別)
\
類(普遍) →種(特殊)
精神現象学では、
個(個別)
\
類(普遍) ←種(特殊)
論理学に詳しい
(逆回転もある)
楽天ブックス: 無神論と国家 - コジェーヴの政治哲学に向けて - 坂井 礼文 - 9784779511219 : 本
https://books.rakuten.co.jp/rb/14646678/
発売日: 2017年02月01日
著者/編集: 坂井 礼文
出版社: ナカニシヤ出版
発行形態: 単行本
ページ数: 304p
ISBNコード: 9784779511219
商品説明
【内容情報】(出版社より)
凡例
序論
第1部 無神論
序 無神論の系譜
第1章 コジェーヴとシュトラウスーー著述技法及び無神論をめぐってーー
はじめに
1 『ユリアヌス帝とその著述技法』が書かれた背景
2 秘教的著述技法
3 無神論者としてのユリアヌス
4 コジェーヴによるユリアヌスの神話論読解
5 無神論的立場と有神論的見解の対立
おわりに
第2章 プラトン読解入門ーー概念及び永遠性の関連に着目してーー
はじめに
1 プラトン解釈の特質
2 概 念
3 パルメニデス的存在論の解釈
4 プラトン的存在論及び現象学の解釈
おわりに
第3章 「無神論的」あるいは人間学的なネオ・ヘーゲル主義ーー「三位一体論」の観点からーー
はじめに
1 ヘーゲル自身が展開した存在論
2 コジェーヴの存在論ーー存在・無・差異ーー
3 コジェーヴとタオのヘーゲル解釈の相違
4 ネオ・ヘーゲル主義における無の観念及び無神論
おわりに
第1部の結びに代えて
第2部 国家
序 国家論の系譜
第4章 コジェーヴとシュミットーー国家の終焉以降における政治的なもの及び法的なものーー
はじめに
1 敵
2 終焉
3 歴史終焉以降の世界情勢
4 法的なもの
5 プラトン・アリストテレス・ヘーゲル読解から導出された第三者
6 シュミットにおける第三者としての外部性
7 均衡理論の限界とカテコーンの観念
おわりに
第5章 普遍同質国家の予示ーー未来の,来たるべき国家についてーー
はじめに
1 ラテン帝国
2 シュトラウスとの関連
3 贈与型国家
おわりに
第2部の結びに代えて
結 語
注
参考文献
あとがき
初出一覧
人名索引
事項索引
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
哲学者は“神”となりうるのか。現代思想に多大な影響を与えた哲学者にして、官僚としてヨーロッパ共同体創設への道を切り開いたアレクサンドル・コジェーヴ。その政治哲学を解明する本邦初の本格的研究書。
【目次】(「BOOK」データベースより)
序論/第1部 無神論(コジェーヴとシュトラウスー著述技法及び無神論をめぐって/プラトン読解入門ー概念及び永遠性の関連に着目して/「無神論的」あるいは人間学的なネオ・ヘーゲル主義ー「三位一体論」の観点から)/第2部 国家(コジェーヴとシュミットー国家の終焉以降における政治的なもの及び法的なもの/普遍同質国家の予示ー未来の、来たるべき国家について)
【著者情報】(「BOOK」データベースより)
坂井礼文(サカイレイモン)
1983年鹿児島市に生まれる。2015年博士号(人間・環境学)(京都大学)取得。現在、京都外国語大学ほか非常勤講師。フランス思想・政治哲学専攻(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
ヘーゲル『精神現象学』(1807年)の「意識」の章の終わりあたりより、翻訳の比較です。
以下、同じ箇所を引用してみました。
_________
「知覚を越えて高まったとき、意識は現象という媒語を通じて超感覚的なものと推理的に連結し
たものとして現われてきて、現象という媒語を通じて[超感覚的なものという] この背景(後ろの
根拠)を観じている。」
金子武蔵訳、岩波書店『精神の現象学』上166頁
「知覚を超えて高まったとき、意識は、現象という媒語[中間]によって、超感覚的なものと推理
的に結ばれて、現われる。この媒語を通じて意識はその背景を見るのである。」
樫山欽四郎訳、平凡社上203頁(河出書房新社、世界の大思想版もほぼ同じ)
「知覚を超えた境地にある意識は、現実界を媒介とし、現実界の背後を透視するというかたち
で超感覚的世界とつながっている。」
長谷川宏訳、作品社117頁
「意識[自身はというと、それ]は知覚よりは高まっているから、現象という中項を介して超感覚
的なもの[内なるもの]と連結するのであり、意識はその中項を介してこの[超感覚的なものと
いう]背景を覗き見るのである。」
牧野紀之訳、未知谷311頁
精神現象学 上 (ちくま学芸文庫 (ヘ-10-1)) 文庫 – 2018/12/10
G.W.Fヘーゲル (著), 熊野 純彦 (翻訳)
ヘーゲル弁証法に真面目に取り組みたい哲学科の学生さんなら
まずウィリアム・ローヴェア氏の著作などで圏論を学ぶことだろうね。
そして彼がヘルマン・グラスマンについて言及した論文を読むこと。
フランシス・ウィリアム・ローヴェア(Francis William Lawvere, 1937年2月9日 - 、ローヴィア[1]、ローヴェルとも[2])は、アメリカの数学者。
F. ウィリアム ローヴェア
William Lawvere.jpg
生誕
1937年2月9日(81歳)
マンシー (インディアナ州)
国籍
アメリカ合衆国の旗 アメリカ
研究分野
数学
研究機関
ニューヨーク州立大学バッファロー校
出身校
コロンビア大学
博士課程
指導教員
サミュエル・アイレンベルグ
博士課程
指導学生
Marta Bunge
Emilio Faro-Rivas
Anders Kock
Xiao-Qing Meng
Philip Mulry
Jack Reichman
Kimmo Rosenthal
Michael Roy
Michel Thiébaud
主な業績
圏論,トポス, 数学の哲学
主な受賞歴
Premio Giulio Preti, awarded by the Consiglio regionale della Toscana in 2010
プロジェクト:人物伝
インディアナ州マンシー生まれ。1966年からシカゴ大学助教授、1968年から1969年までニューヨーク市立大学大学院センター準教授、1974年からニューヨーク州立大学バッファロー校教授を務めた。圏論、トポス、数学の哲学の研究で知られる。
目次
ヘルマン・ギュンター・グラスマン(Hermann Günther Graßmann, 1809年4月15日 - 1877年9月26日)はドイツの数学者・物理学者・言語学者。
ヘルマン・ギュンター・グラスマン
Hermann Graßmann.jpg
生誕
1809年4月15日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国 ポンメルン州(英語版)シュテッティン
死没
1877年9月26日(68歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国 ポンメルン州シュテッティン
研究分野
数学、物理学、言語学、生理学
出身校
ベルリン大学
主な業績
多重線型代数
グラスマンの法則 (言語学)
グラスマンの法則 (色彩)
補足
息子のヘルマン・エルスント・グラスマン(Hermann Ernst Grassmann, ヘルマン・グラスマン2世、1857年 - 1922年)も数学者である。
プロジェクト:人物伝
まず数学を研究し、現在グラスマン代数と呼ばれる成果をあげたが、時代に先んじていたため認められなかった。しかし他の分野でも才能を開花させ、色彩論および言語学においてそれぞれグラスマンの法則と呼ばれる業績を残した。
目次
生涯 編集
プロイセン王国シュテッティン(現ポーランド領シュチェチン)生まれ。父ユストゥスはギムナジウムの教授で、物理学・数学の本も著している。ギムナジウム卒業後ベルリンで数学を学び、潮汐に関する論文(Theorie der Ebbe und Flut, 1840年)を書いて教師資格を得た。
さらにゴットフリート・ライプニッツの考えた、座標を用いない幾何学計算法の建設を目指した論文 Geometrische Analyse を学会に提出し、1846年に賞を授与された。グラスマンの数学的業績で特に重要なのは広延論 (Ausdehnunglehre) と称する理論に関する2論文(Die lineale Ausdehnunglehre, ein neuer Zweig der Mathematik, 1844年 と Die Ausdehnunglehre: Vollständig und in strenger Form bearbeitet, ベルリン、1862年。それぞれ「A1」「A2」と呼ばれている)にまとめられたものだが、これらは当時あまり注目されず、死後に高く評価されることになった。「A1」は博士論文として提出したのだが、アウグスト・メビウスはこれを理解できず、エルンスト・クンマーに回したが、彼もこれをろくに検討せず拒絶してしまった。
グラスマンは結局、ギムナジウム教授資格を取得して一生をシュテッティンで過ごした。グラスマンは数学に才能を発揮したのみならず、物理学(結晶学、電磁気学、力学など)、生理学(色覚、音声)も研究している。特に色彩の理論とグラスマンの法則が著名な業績である。
Topology, Hegel and Chronicle of Philosophical Topology | borislav ...
www.academia.edu/.../Topology_Hegel_and_Chronicle_of_P...
... also: William Lawvere, Grassmann's Dialectics and Category Theory, in Hermann Günther Graßmann (1809–1877): ...
https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-94-015-8753-2_21
HermannGüntherGraßmann(1809-1877):幻想的な数学者、科学者、新ヒューマニストの学者 pp 255-264 | 引用する
グラスマンの弁証法とカテゴリー理論
著者
著者と所属
F.ウィリアム・ローレンス
章
1
件の引用
4つの
言及
591
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科学哲学書シリーズのボストン研究の一部(BSPS、第187巻)
抽象
グラスマンは150年前の弁証的哲学を大いに活用しています。 グラスマンの洞察力と方法でこれらを表現することは、現代のジオメーターには分かります。 例えば、アフィン線形空間および写像のカテゴリーAは、(反)交換性勾配代数のカテゴリに対する標準的な随伴関数を有する。これは、Grassmanの詳細な説明のように、適用されたときに16次元の代数を生じる。 (3次元ベクトル空間の8次元外部代数とは異なり)3次元アフィン空間である。 この代数の自然代数構造は、(署名された)ライプニッツ規則を満たす境界演算子∂を含む。 例えば、 A 、 Bがアファイン空間の点である場合、積ABは、次数の境界であるAからBまでの軸ベクトルです。∂( AB )= B - A (∂A=∂Bポイント= 1)。 グラスマンは哲学的に "単純な法則"という考え方に動機づけたが、1890年代の彼の編集者はこの考え方に矛盾があり、単なる翻訳を意味していたと判断した。
キーワード
境界演算子 カテゴリ理論 軸ベクトル 幾何学代数 アフィン空間
これらのキーワードは、著者によってではなく機械によって追加されたものです。 このプロセスは実験的なものであり、学習アルゴリズムが向上するにつれてキーワードが更新される可能性があります。
Hermann Günther Graßmann (1809–1877): Visionary Mathematician, Scientist and Neohumanist Scholar pp 255-264 | Cite as
Grassmann’s Dialectics and Category Theory
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F. William Lawvere
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Part of the Boston Studies in the Philosophy of Science book series (BSPS, volume 187)
Abstract
In several key connections in his foundations of geometrical algebra, Grassmann makes significant use of the dialectical philosophy of 150 years ago. Now, after fifty years of development of category theory as a means for making explicit some nontrivial general arguments in geometry, it is possible to recover some of Grassmann’s insights and to express these in ways comprehensible to the modern geometer. For example, the category A of affine-linear spaces and maps (a monument to Grassmann) has a canonical adjoint functor to the category of (anti)commutative graded algebras, which as in Grassmann’s detailed description yields a sixteen-dimensional algebra when applied to a three-dimensional affine space (unlike the eight-dimensional exterior algebra of a three-dimensional vector space). The natural algebraic structure of these algebras includes a boundary operator ∂ which satisfies the (signed) Leibniz rule; for example, if A, B are points of the affine space then the product AB is the axial vector from A to B which the boundary degrades to the corresponding translation vector: ∂(AB) = B−A (since ∂A = ∂B = 1 for points). Grassmann philosophically motivated a notion of a “simple law of change,” but his editors in the 1890’s found this notion incoherent and decided he must have meant mere translations.
Keywords
Boundary Operator Category Theory Axial Vector Geometrical Algebra Affine Space
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Grassmann's Dialectics and Category Theory
F. William Lawvere
Boston Studies in the Philosophy of Science 187:255-264 (1996)
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精神現象学 上 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2018/12/11
Georg Wilhelm Friedrich Hegel (原著), G.W.F. ヘーゲル (著), 熊野 純彦 (翻訳)
5つ星のうち 4.6 3件のカスタマーレビュー
1066-1154
5つ星のうち5.0今読み始めています
2018年12月21日
Amazonで購入
翻訳間もない中で、すでに、レヴューが出ていることに少し驚いています。熊野純彦さんはこれまでも、真摯な努力のたまものという翻訳や著作を出している素晴らしい現役の哲学者です。今回の翻訳も一生懸命読みたいです。
読者の好みだと思いますが、熊野さんの翻訳は、文庫本より単行本があっていたかもしれない。長谷川訳が文庫本には向いているかも。ざっと読んで大意が分かるという点では、長谷川訳だと思う。熊野さんは原語も併せてくれて翻訳を表示してくれていて助かります。注をあまり入れず極力、本文で勝負しようというところは長谷川訳に近く、牧野さんほど語彙や文章を補わないが、カッコで補った部分を明示するやり方は牧野訳を踏襲しているような気もします。
ここでは、こんなことを案内してみます。本書の一つの肝になると思われるEinleitungの翻訳比較。
原文は
Dieses unterscheidet namlich etwas von sich, worauf es sich zugleich bezieht; oder wie dies ausgedruckt wird: es ist etwas fur dasselbe; und die bestimmte Seite dieses Beziehens oder des Seins von etwas fur ein Bewusstsein ist das Wissen. Von diesem Sein fur ein Anderes unterschieden wir aber des Ansichsein; das auf das Wissen Bezogene wird ebenso von ihm unterschieden und gesetzt als seiend auch ausser dieser Besiehung; die Seite dieses Ansich heisst Wahrheit.
熊野さんの翻訳は・・・
意識はすなわち、或るものを自分から区別すると同時に、この或るものに関係している。あるいはこう表現してもよい。或るものが意識に対して存在しているのである。そして、この関係の、あるいは或るものの意識に対する存在の一定の側面が、知ということになる。一箇の他のもの〔である意識〕に対するこの存在から、私たちはたほうでは自体的存在を区別する。知に関係づけられたものが、同様にまた知から区別されて、この知との関係の外部にも存在するものとして定立される。この自体的なものという側面が、真理と呼ばれるのである。
長谷川宏さんの翻訳は・・・
まず、意識のむこうに意識とは区別されるなにかがあって、意識は同時にそれと関係している。いいかえれば、意識にたいしてなにかがあって、そこでの関係という側面、つまり、なにかが意識に対してある側面が「知」である。が、なにかが他にたいしてあるのとは別に、それ自体であるという側面が考えられる。つまり、知の関係するものは、関係すると同時に知から区別され、この関係の外に存在するものとも考えられるのであって、この「それ自体(本体)」が「真理」と名づけられる。
牧野紀之さん・・
意識は自分が関係している相手から自分を区別する。換言するならば〔意識があるということは、その相手である〕或る物が意識に対面しているという面がすなわち知なのである。しかし、我々はこの或る物が他者〔意識〕に関係づけられたものは知から区別され、この関係の外にも存在するものとされることになるのである。そして、このそれ自体という側面がすなわち真理と呼ばれるのである。
三浦和男さんは・・
すなわち、意識は、そこに向けて自分を同時に関わらせている「或る物」を、自分から区別しているのである。あるいは、こう表現してもよい。「或る物」が意識に対して在る、と。そして、この「関わり運動」という限定を受けた側面、つまり「或る物」が一意識に対して「在る」という限定を受けた側面が、知の営みなのである。けれども、このように他の物に対して在るという在り方〔対他存在〕から、私たちは、それ自身において本来的に在る在り方〔即自存在〕を区別する。知の営みに関わりを持たせられている事態は、同じくこの知の営みから区別され、この関わりの外部の運動にも在る事態として定立される。この即自態〔本来〕の側面が真実相〔真理〕と名づけられているのだ。
精神現象学 下 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2018/12/11
Georg Wilhelm Friedrich Hegel (原著), G.W.F. ヘーゲル (著), 熊野 純彦 (翻訳)
5つ星のうち 4.0 2件のカスタマーレビュー
2件中1 - 2件目のレビューを表示
トップレビュー
HIEN
5つ星のうち4.0単なる新訳ではなく、熊野訳であるということを意識して持つべき。
2018年12月16日
Amazonで購入
◆上巻のレビューが反映されたので内容を更新する。当初は低い評価をつけていたのだが、繰り返し検討するうちに本書の素晴らしさや意義に感銘を受けるようになったので、上巻を☆5にした。下巻については下記本論の問題を感じるので☆5にはしない。ともあれ、本書とともに訳者既刊の『ヘーゲル』や、レヴィナスやレーヴィットらの翻訳を読み、積年の深いヘーゲルへの思い入れを感じるに至った(『ヘーゲル』だけでなく関連翻訳の注などにおけるヘーゲルの存在感がすごい)。
==以下本論==
◆内容面にかかわるレビューは上巻に寄せた。そこそこ内容のある文になったと思うのでぜひ参照してほしい。間違いがあったらご指摘乞う。今回は下巻に関わる内容を述べる。
◆本書は、訳者の独自性こそあるものの、かなり達意の訳文になっていると言える。この点で、長谷川と同等以上に読みやすく、樫山版と同じ文庫という携帯性があることを考えると、突出した凄みというよりは、内容・形式ともどもの総合点によって、これまでの翻訳の多くを過去のものにしたとも言える。それでも金子訳・そしてそれを踏襲する牧野訳の意義は未だ残ると思われるが、とても有意義な全訳の品揃えとなった。
◆熊野訳のすぐれているところは新しいことと小見出しがついていることと熊野さんが書いているというところ、それから既存のヘーゲル業界と独立していそうなところである(後述)。「圧倒的な読みやすさ」(上巻表1帯)は熊野語のことを思うとやや疑問が残るが、まあわかる。「今後のヘーゲル研究に絶大な影響を与える」(下巻表4)は、ヘーゲル業界の性質を考えるとあまりなさそうに思える。が、ヘーゲル研究の登竜門としては実にいい本が出たと言えるのではないか。つまり、研究者なら金子、一般人なら長谷川、というような分裂が起きがちな推奨の場において「とりあえず熊野」と言ってよい局面に至ったとは思える(そして牧野は無視され続ける)。問題は組版であるが、これも後述する。
せっかくなので下巻の翻訳の方針を雰囲気的に示すために、現象学最後のシラーの翻訳を並べようと思う。
als dem Kelche dieses Geisterreiches schaumt ihm seine Unendlichkeit
もろもろの精神のかかる国という盃よりのみ 絶対精神に泡立つは その無限 (金子)
さまざまな精神の国の杯があってこそ 精神は無限に豊かに泡立つのである (牧野)
この精神の王国の酒坏から 精神の無限の力が沸き立つのだ (長谷川)
この精神の王国の杯から 精神に泡立つは その無限性 (熊野)
こうして見ると熊野さんがちょうど金子+長谷川みたいな訳になっているのはなんとも興味深い。ここを並べたのは象徴的だからだったのだが、改めて現象学全体を振り返ってみると、無限をどう取るかは重要である。たとえば「自己確信」の手前、「力と悟性、現象と超感覚的世界」の項目では「無限性」が扱われるが、長谷川はここをほぼ「無限運動」というようなやり方で処理しており、熊野は「無限性」で通している。手元に他の訳がなかったのでとりあえずこれだけだが、この微妙な違いが理解の総合性に関係してくると思う(正しい・間違いとは別のレベルで)。
◆なお小見出し一覧が下巻巻末についていて、実に素晴らしいと思う一方で当然だとも思うわけだが、それとは別次元の話として組版が最悪であって、特に序文などは小見出しが多い分、5~6Qくらいのサイズで文を敷き詰めていて、ふざけてるのかな?と思う。こんなに小さく詰め込んで実用性というものを編集者は考えたことがあるのだろうか? バカが、としか言いようがない。それから巻末資料につけるべきではなくて、原典の構造を見出してでも、目次の次に置くくらいのことをしなければ駄目であろう。こういう主体性のなさはヘーゲルの翻訳を編集する人としては全くもってどうかと思う。小見出しをつけた素晴らしさを毀損している。もちろん、無いよりはマシだが。老人なら卒倒するのではないか? 帯文という表4といい、吹きすぎの印象も拭えない。訳者は編集には口を出さないものだが、実際どう思われたことやら……まあ東大文学部長(元)の仕事となればその程度の社会的論証も適切ということであろうか。本人の方針とは無関係なので、かわいそうなものである。
◆内容面でこれらのことを残念に思うのは、岩波版の『存在と時間』訳では、全4巻にわたって巻頭に「梗概」なる独自要約・解説をそれぞれ30〜50P近く掲載する周到ぶりで、しかも3巻には60Pほどの解説までつけているほどの気合の入れようである。カント訳ではそこまでのことはなかったので、ハイデガーについてのみ特別ということかもしれないが、研究書を執筆しているレヴィナスの翻訳であっても解説を執筆していたので、『ヘーゲルーー"他なるもの"をめぐる思考』があるとはいえ、この淡白さは悔しいとこである。正直いろいろなことを述べてきたが、熊野さんという哲学者その人は非常に重要な存在であり、マルクスを日本で読めるようにした廣松からの流れを踏まえる上でも無視できない待望された仕事であった。マルクス的には新MEGAの編集によって明らかになりつつある最新の仕事を踏まえた成果の方が流石に期待されるのだが。
◆それにしてもいろいろ調べているとヘーゲル業界の閉鎖性にはうんざりする。正直、熊野さんが解説的な話法ではかなり抑制的になってしまっているのは、そのような業界的磁場のせいではないかと今更かなり強く感じられ、疑う気持ちになっている。たとえば牧野訳は学会系の専門家からは言及されることもないが、本書あとがき(下巻で恐縮だが)でしっかり言及されているのには感心した。その上で実際にはイポリットとヤルクツク+ラヴァリエールの仏訳ばかりを参照したと書いてあるのも、そういった「配慮」であるような気がしてならない。もっともカント訳でもノリは一緒だった気がするので、単に熊野さんのキャラの問題という説もなくはないが。
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チェシャ猫
5つ星のうち4.0精神現象学邦訳へのコメント
2018年12月18日
Amazonで購入
トップレビューのHIEN氏の上巻レビューを楽しみにしていたのだが、未だに掲載されていない。アマゾンはどうなっているのか。下巻レビューで一部私見について追記されているので、若干コメントしたい。
私の上巻レビューでは、熊野訳でStationenを「宿駅」としたのはまずいとしたところである。HIEN氏は、ひとまず「宿駅」でも悪くは無いという。私の問題意識では、既邦訳が揃いもそろって「宿駅、駅々、停車駅、停り場」と訳して、駅のイメージで事足りるかのようにしか見えないことである。上巻のレビューで書いたように、「自然的な意識のみちゆき」は、様々な意識の形態をまとい、懐疑と絶望を経て精神、絶対知へと歩む道程に他ならず、そこにはイエスの十字架への苦難の道が含意されている、というのが要旨であった。それがヘーゲルがStationenの用語を使った真意であって、たんなる通過点や停留する場所ではないということである。「宿駅等々」の既訳はベタにしか思えないのである。控えめなミラー英訳の欄外注を紹介したのは、当然参照しているはずの既訳への皮肉でもある。
ヘーゲルがだてにStationenを使っているのではない論拠をひとつあげておくと、ヘーゲルが書いたとされる「精神現象学 - 自著広告」である。「 (精神現象学は) 様々な精神の形態を旅路の宿駅( Stationen )として自分の内に含む。」加藤尚武編「 ヘーゲル「精神現象学」入門 ( 旧版 p223より )Stationenは挿入。
加藤編でも「宿駅」が使われているのは、本人がミラー訳付録のフィンドレーのコンメンタールを下敷きにしてこの本を作ったといっているだけに、どうしたことか。いずれにしても、Stationenを含むこのフレーズは、ヘーゲルのお気に入りだといえる。われわれも、なぜヘーゲルがイエスの十字架への足跡を表わすStationenを繰り返し使うのかに思いをいたすべきだろう。一言の用語で表現できるかは別として、宗教的な含意についてせめて註釈は必要だと、あえて主張したい。
上巻のレビューとして、新たに登録できなかったので、敢えて下巻レビューで書いたが、了としてほしい。
なを、滝紀夫氏のサイト「ドイツ観念論のページ」は、本当に素晴らしいので、興味のある方はぜひのぞかれると良い。
Das Reale ist vernünftig und das Rationale ist real.
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(ヘーゲル 『法の哲学』序文)
現実は合理的であり、そして合理的は現実です。
(google翻訳)
https://www.marxists.org/reference/archive/hegel/works/pr/philosophy-of-right.pdf
What is rational is real; And what is real is rational.
p.10
https://www.marxists.org/reference/archive/hegel/works/pr/philosophy-of-right.pdf
合理的なものは本当です。 そして本当のことは合理的です。
p.10
精神をmindとするかそのままspiritとするか
柄谷はspirit派だが現代のニュアンスとしてはmindが正しいらしい
分析哲学系はspiritを嫌うのかも
https://www.marxists.org/reference/archive/hegel/works/pr/philosophy-of-right.pdf
What is rational is real; And what is real is rational.
p.10
合理的なものは本当です。 そして本当のことは合理的です。
(google翻訳)
_____
例えば精神をmindとするかそのままspiritとするか
柄谷はspirit派だが現代のニュアンスとしてはmindが正しいらしい
分析哲学系はspiritを嫌うのかも
979 考える名無しさん[sage] 2019/07/20(土) 21:43:02.52 ID:0
https://www.marxists.org/reference/archive/hegel/works/pr/philosophy-of-right.pdf
What is rational is real; And what is real is rational.
p.10
合理的なものは本当です。 そして本当のことは合理的です。
(google翻訳)
_____
例えばヘーゲルの精神をmindとするかそのままspiritとするか
柄谷はspirit派だが現代のニュアンスとしてはmindが正しいらしい
分析哲学系はspiritを嫌うかも
熊野訳VI精神冒頭
理性から精神への移行と 、その条件
理性が精神となるのは 、 「いっさいの実在性である 」とする確信が真理まで高められたときである 。つまりそのばあい理性は 、じぶん自身をみずからにとっての世界として 、また世界をじぶん自身として意識することになる 。精神の生成は 、直接に先行する運動を示した 。その運動にあって意識の対象 、つまり純粋なカテゴリ ーが理性の概念にまで高められたのである 。観察する理性のもとでは 、 〈私 〉と存在とのこの 〔カテゴリ ーという 〕純粋な統一 、つまり対自的存在と自体的存在との純粋な統一が 、自体的なものあるいは存在として規定されており 、そこで理性の意識が自身を見いだすわけである 。とはいえ観察にとってその真のありかたはむしろ 、このように直接に見いだす本能を廃棄すること 、すなわち理性が示す 、こうした無意識的に現にあるありかたを廃棄することである 。直観されたカテゴリ ー 、見いだされた事物が意識のうちに入りこむのは 、 〈私 〉の対自的存在としてであって 、その対自的存在がみずからを 、いまや対象的な実在のうちで 「自己 」として知るにいたるのだ 。しかしカテゴリ ーのこの規定も 、それが自体的存在に対立した対自的存在というものであるかぎり 、やはり一面的なものであって 、じしん廃棄されるにいたる契機なのである 。カテゴリ ーが 、したがって意識に対して規定されているのは 、その普遍
理性から精神への移行と、その条件
理性が精神となるのは、「いっさいの実在性である」とする確信が真理まで高められたときである。つまりそのばあい理性は、じぶん自身をみずからにとっての世界として、また世界をじぶん自身として意識することになる。精神の生成は、直接に先行する運動を示した。その運動にあって意識の対象、つまり純粋なカテゴリーが理性の概念にまで高められたのである。観察する理性のもとでは、〈私〉と存在とのこの〔カテゴリーという〕純粋な統一、つまり対自的存在と自体的存在との純粋な統一が、自体的なものあるいは存在として規定されており、そこで理性の意識が自身を見いだすわけである。
精神現象学 下 ちくま学芸文庫
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基本情報
ジャンル : 哲学・歴史・宗教 ISBN/カタログNo : ISBN 13 : 9784480097026
ISBN 10 : 4480097023 フォーマット : 本出版社 : 筑摩書房 発行年月 : 2018年12月発売国 : 日本 共著・訳者・掲載人物など : ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘ, 熊野純彦, G.W.F.ヘーゲル ,
追加情報 : 624p;15
内容詳細
長大な遍歴のすえ、人間はいかにして「絶対知」へと到達するのか?この書により、哲学史上、かつてない壮大な哲学体系をつくりあげたヘーゲルが、最後に出した答えとは―。平明な語り口でありながら、今後のヘーゲル研究に絶大な影響を与えるであろう緻密な新訳が、その核心を明らかにする。下巻の巻末には、『精神現象学』に数多くちりばめられた、広く知られる名言を拾いあげた「フレーズ索引」を収録。従来のはるか先へと読者の理解を導く。「精神が偉大なものとなるのは、より大きな対立からみずからへと立ちかえる場合である」。
目次 : (BB) 精神(精神/ (真の精神 人倫/ じぶんにとって疎遠となった精神 教養/ じぶん自身を確信した精神 道徳性))/ (CC) 宗教(宗教/ (自然的宗教/ 芸術宗教/ 啓示宗教))/ (DD) 絶対知(絶対知)
【著者紹介】
G.W.F.ヘーゲル : 1770‐1831年。近代ドイツを代表する哲学者。精神の発展過程を意識経験の学として探究し、その論理を解明したことで、ドイツ観念論の完成者と言われる。イエナ大学、ベルリン大学などで教鞭をとった
熊野純彦 : 1958年生まれ。思想史家。東京大学文学部教授。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
反復説 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org>wiki>反復説
反復説(はんぷくせつ)とは、動物胚のかたちが受精卵から成体のかたちへと複雑化することと、自然史における動物の複雑化との間に並行関係を見出したものである。
個体発生は系統発生を反復する(E.ヘッケル1866年)
http://fnorio.com>Haeckel1>ontogeny_phylogeny1
個体発生は系統発生を反復する(E.ヘッケル1866年) ... ダーウィンが「種の起原」(1859)で述べた自然淘汰説に賛同し、生物進化の一つの例証としてこの説を提唱した。
個体発生は進化を くりかえすのか - CoSTEP
https://costep.open-ed.hokudai.ac.jp>news
一つの受精卵が生物の形になっていく過程を個体発生と呼びます。この過程が系統発生、すなわち進化のみちすじをくりかえしているのではないかという考え方、「反復説」 ...
生物発生原則(せいぶつはっせいげんそく)とは - コトバンク
https://kotobank.jp>word>生物発生原則-86441
そのうち、図Aに示したような場合に、ヘッケルのいう反復が生じる。つまり、新たな変化が個体発生の先へ先へと付け加わっていく形で進化がおこる場合である。ヘッケルに ...
個体発生と系統発生 - JT生命誌研究館
https://www.brh.co.jp>語り合う
2017/12/15 -進化の過程で生まれた形態や機能(系統発生)は、個体発生過程を制限するため、個体発生では系統発生が短い時間に反復されることが多いという考え方だ ...
[編集]
反復説は1824-26年にエチエンヌ・セールが提唱したのが最初である。科学史上、エルンスト・ヘッケルの反復説と区別するために『メッケル・セールの法則』と呼ばれることもある。反復説とはもともと進化的な視点を伴ったものではなかったが、ダーウィン進化論の影響を受けたヘッケルが、1866年に『ヘッケルの反復説』として提唱したものが広く知られるようになった。
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