http://www.freeassociations.org/
NAMs出版プロジェクト: プロレタリア美術
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_35.html日本資本主義論争 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本資本主義論争日本資本主義論争(にほんしほんしゅぎろんそう)とは、1933年頃から1937年頃まで行われたマルクス主義に立つ経済学者の論争のこと。広義には1927年頃から1932年頃まで日本共産党と労農派の間で行われた日本民主革命論争を含めていうこともある。日本の資本主義の性格について、講座派と労農派の間で激しく論戦が交わされた。
日本資本主義論争は『日本資本主義発達史講座』(1932年5月から1933年8月)の刊行を機に起こった。共産党系の講座派は、明治維新後の日本を絶対主義国家と規定し、まず民主主義革命が必要であると論じた(「二段階革命論」)。これに対し、労農派は明治維新をブルジョア革命、維新後の日本を近代資本主義国家と規定し、社会主義革命を主張した。この論争によって、近代日本の本質規定をめぐって理解が深まり、「封建論争」「地代論争」「新地主論争」「マニュファクチュア論争」などの多くの小論争を引き起こした。しかし、明確な解決を得ぬままに弾圧により中断することになった。ただし、多くの論争点は第二次世界大戦後に引き継がれることになった。
講座派は、野呂栄太郎「日本資本主義発達史」などにより、資本主義の前近代性を明らかにし、二段階革命論を唱えた。このことは、コミンテルンの27年テーゼ、32年テーゼの位置付けにおいても重要な役割を果たした。
これに対し、労農派が批判を加え、議論は農業問題などに深化していった。
1936年の「コム・アカデミー事件」で講座派が壊滅状態になり、ついで1937年から38年の人民戦線事件で労農派が一斉検挙を受けると、議論も不可能となり、論争は終焉を迎えた。
戦後はGHQによって行われた農地改革の評価をめぐって論争が再開され、地主的土地所有がこれによって解体されたかが議論された[1]。
日本資本主義論争は独自の近代化を遂げた日本社会の発展史をマルクス・レーニン主義のモデルにあてはまるかどうかに焦点が当てられたイデオロギー論争であった。
日本資本主義の前近代性を主張する講座派の理論は、大塚久雄を中心とした「大塚史学」にも影響を与えたとされる。また第二次世界大戦後も、日本を「対米従属と大企業・財界の横暴な支配」と認識して当面の「民主主義革命」が必要とする日本共産党系[2]と、日本は既に帝国主義国家であると認識してそれを打倒すべきとする勢力(社会党左派、新左翼など)の、理論や活動の相違に影響を与えた。
労農派 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/労農派労農派(ろうのうは)は、戦前の非日本共産党系マルクス主義者集団。1927年創刊の雑誌『労農』に依ったので、こう呼ばれる。日本資本主義論争において講座派と対抗した経済学者、最左派の無産政党に拠った社会運動家、「文戦派」のプロレタリア文学者などからなる。
日本共産党は1922年7月創立されたとされる(第一次共産党)。堺利彦、山川均、荒畑寒村ら明治以来の古参の運動家も参加しその中心となった。しかし日本共産党結成はコミンテルンの働きかけなどによるものであり運動の盛り上がりの結果ではなかったため、セクト主義など組織的な未熟さが目立ち、更に国家権力の弾圧もあり、党員の多くは1924年2、3月頃当時の日本には共産党結成の条件はないとして解党を決定した。荒畑は解散に反対し、事後処理のための少人数の委員会(ビューロー)を作ることを主張し認めさせた。
山川らは、大衆から切り離された少数の革命党ではなく、あらゆる反ブルジョア階級、社会層を含む広範な無産階級政党を組織し、大衆を成長させながら前衛政党を作っていくことを考え、合法雑誌などで積極的に訴えた。ビューローは、1924年5月合法研究誌『マルクス主義』を創刊した。福本和夫は『マルクス主義』に「結合の前の分離」論(いわゆる福本イズム)に基づく諸論文を投稿し、山川均らを強く批判し、当時の知識人・学生に大きな影響を与えた。福本イズムはのちにコミンテルンに批判され没落したが、福本の影響はその後の共産党にも強く残った。山川らは、当初は『マルクス主義』にも協力していたが、山川批判が激しくなると公然と反論し、『マルクス主義』との関係を絶った。
ビューロー側はコミンテルンの指導もあり1925年1月共産党再建の方針を決定し、1926年12月共産党を正式に再建した(第二次共産党)。コミンテルンが1927年に決定した日本共産党綱領(いわゆる27年テーゼ)は福本とともに山川をも批判し、両者の対立は鮮明になった。荒畑も、第一次共産党以上のセクト主義に反発してビューローを離れ、第二次共産党に参加せず山川と行動を共にした。山川らは自己の拠点として1927年12月雑誌『労農』を創刊し、労農派が形成された。
労農派という名称について、山川は「『労農』の編集同人は「労農派」と呼ばれました。これはもちろんこちらでそう名乗ったわけではなく、一体「派」というものをつくる考えもなし、「派」と呼ばれることは不愉快だったのですが、そういう呼び名をつけられてしまったわけです。」(『山川均自伝』)と述べている。
なお、日本共産党は1928年2月山川均、荒畑寒村の除名を決定したが、労農派側では山川らは第二次共産党には参加せず自ら決別したから除名決定は無意味としている。
労農派は今日的に言えばネットワーク的集団で、明確な組織・指導部はなかったが、共通の認識はあった。(以下は、『社会主義協会テーゼ』収録・座談会「『社会主義協会テーゼ』学習のために」第一章「労農派と講座派」に基づく)
この派に参加した者の多くが、1938年2月の第2次人民戦線事件で検挙された。激しい弾圧の前に、第二次大戦中は四散を余儀なくされたが、戦後は、日本社会党左派の理論集団社会主義協会に継承され、日本社会党、総評の路線形成(いわゆる日本型社会民主主義)に大きな影響を与えた。
*第二次世界大戦前から活動している人物に限る。
経済学者
社会運動家・政治家
文学者
講座派 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/講座派講座派(こうざは)とは、日本資本主義論争において労農派と対抗したマルクス主義者の一派。岩波書店から1930年代前半に出版された、『日本資本主義発達史講座』を執筆したグループが中心となったのでこう呼ばれる。 目次概要明治政府下の日本の政治体制は絶対主義であり、また当時の社会経済体制の実態は半封建的地主制である、と捉え、天皇制を打倒するブルジョワ民主主義革命が社会主義革命に強行的に転化する、とする「二段階革命論」を唱えた。これはコミンテルンの32年テーゼを擁護するものとなり、当時の日本共産党の基礎理論となった。 主な人物影響講座派は1936年のコム・アカデミー事件で一斉検挙されたために壊滅状態になり、日本資本主義論争も途絶えた。彼らの歴史観は農地審議会や中央農地委員会で委員、農地改革記録委員会で委員長を務めた山田盛太郎らを通して戦後の農地改革に影響を与えたとされる。しかし、農地改革はナチス・ドイツの世襲農場法も参考にしたように当時の農林大臣松村謙三は反共政策として意図していたため[1]、山田は農地改革によって起こった零細分散錯圃を「零細地片的私的所有」として否定し[2]、集団化すべきとする大農主義を訴えた。また、丸山真男ら[誰?]は講座派の思想に影響を受けていた[要出典]。 出典関連項目近代日本経済史の基本問題 著者名等 山崎隆三/著 ≪再検索≫ 出版者 ミネルヴァ書房 出版年 1989.4 大きさ等 22cm 285,3p NDC分類 332.106 件名 日本-経済-歴史-明治以後 ≪再検索≫ 要旨 戦間期日本資本主義論に一石を投じた著者が、日本経済の高度成長のなかで忘れられよう としていた「日本資本主義論争」に現代的な照明をあて、「講座派」理論の批判的継承を つうじて、天皇制論・地主制論・資本主義論の総合的理解のもとに、新しい歴史像をえが こうとした注目の論集。 目次 第1章 「講座派」理論の批判的継承のための序説(「講座派」理論の形成;「講座派」 理論の基本的性格;「講座派」理論の構造とその問題点);第2章 天皇制国家論の方法 論(旧来の天皇制国家論のアポリア;アポリア脱却のための模索―「上からのブルジョア 革命」論;天皇制国家論の方法論の確立―国家形態と国家の階級的性質の区別;天皇制国 家の国家形態と階級的性質);第3章 地主制論への歴史的接近(近代地主制の歴史的性 格;近世における形成過程の地主制;地主制の本質―都市周辺農村の事例よりの接近); 第4章 『日本資本主義分析』の方法とその批判史(『日本資本主義分析』の方法;『分 析』の方法にたいする諸批判;若干の結論);第5章 戦前・戦後の日本資本主義像(戦 前日本資本主義の「入超=外資依存構造」;戦前・戦後の媒介環としての戦時段階;戦後 高度成長過程における「出超=資本輸出構造」への転化) ISBN等 4-623-01891-1 書誌番号 3-0190303425
_____ 山田盛太郎―マルクス主義者の知られざる世界 (評伝・日本の経済思想) 単行本 – 2008/1 寺出 道雄 (著) …そうした『分析』の秘密については、第6・7章で語るとして、ここでは、苦痛に耐えながら、山田自身の言葉を追っていこう。 再生産論の具体化分析の「序言」は、こう書き出される。 「本書は、日本資本主義の基礎の分析を企図する。その基礎分析によつて、日本資本主義の基本構造=対抗・展望を示すことは、本書の主たる課題とする所である。本書は、これを、日本資本主義における再生産過程把握の問題として、謂はば再生産論の日本資本主義への具体化の問題として、果すことを期してゐる。」(「序言」一頁) ここで、「再生産論」の「具体化」とは、山田が、『再生産過程表式分析序論』において取り上げた、『資本論』の中の再生産表式論が、『分析』の構想の基本にあったことを語っている。再生産表式論とは、資本主義経済を生産財生産部門と消費財生産部門からなる二部門経済として捉え、その二部門の絡み合いの中で、資本主義経済における資本蓄積の過程を捉えていく議論である。 この『資本論』における再生産表式論は、二部門モデルによる経済成長論の研究にも発展させうる性格を有していた。しかし、山田の再生産表式論の利用の方向は、そうした経済理論的な利用の方向ではなかった。山田は、工業部門を生産財生産部門と消費財生産部門に分割して、その様相を具体的に分析するとともに、そうした二部門分割によっては捉えきれない性格を示す農業部門を、いわば第二の部門として捉えて、その様相を具体的に分析することによって、総体としての日本資本主義の姿を明らかにしようとしたのである。それは、文字通りに、再生産表式論の「具体化」であった。特殊な「型制」山田は、続いてこう述べる… しかし、大伽藍の形状がいかに複雑でも、立体模型の中心部の垂直方向の構造が、下からいって、 「地盤」=「半農奴制的零細耕作」 「礎石」=「巨大なる軍事機構=鍵鈴(キイ)産業」 大伽藍=「軍義的半農奴制的官府」+「二層弯窪」 という三層構造だったことは確かである(図1を参照)。 |
した...
山田盛太郎―マルクス主義者の知られざる世界 (評伝・日本の経済思想) 単行本 – 2008/1
寺出 道雄 (著)
…そうした『分析』の秘密については、第6・7章で語るとして、ここでは、苦痛に耐えながら、山田自身の言葉を追っていこう。
再生産論の具体化分析の「序言」は、こう書き出される。
「本書は、日本資本主義の基礎の分析を企図する。その基礎分析によつて、日本資本主義の基本構造=対抗・展望を示すことは、本書の主たる課題とする所である。本書は、これを、日本資本主義における再生産過程把握の問題として、謂はば再生産論の日本資本主義への具体化の問題として、果すことを期してゐる。」(「序言」一頁)
ここで、「再生産論」の「具体化」とは、山田が、『再生産過程表式分析序論』において取り上げた、『資本論』の中の再生産表式論が、『分析』の構想の基本にあったことを語っている。再生産表式論とは、資本主義経済を生産財生産部門と消費財生産部門からなる二部門経済として捉え、その二部門の絡み合いの中で、資本主義経済における資本蓄積の過程を捉えていく議論である。
この『資本論』における再生産表式論は、二部門モデルによる経済成長論の研究にも発展させうる性格を有していた。しかし、山田の再生産表式論の利用の方向は、そうした経済理論的な利用の方向ではなかった。山田は、工業部門を生産財生産部門と消費財生産部門に分割して、その様相を具体的に分析するとともに、そうした二部門分割によっては捉えきれない性格を示す農業部門を、いわば第二の部門として捉えて、その様相を具体的に分析することによって、総体としての日本資本主義の姿を明らかにしようとしたのである。それは、文字通りに、再生産表式論の「具体化」であった。特殊な「型制」山田は、続いてこう述べる…
しかし、大伽藍の形状がいかに複雑でも、立体模型の中心部の垂直方向の構造が、下からいって、
「地盤」=「半農奴制的零細耕作」
「礎石」=「巨大なる軍事機構=鍵鈴(キイ)産業」
大伽藍=「軍義的半農奴制的官府」+「二層弯窪」
という三層構造だったことは確かである(図1を参照)。
した...
山田盛太郎―マルクス主義者の知られざる世界 (評伝・日本の経済思想) 単行本 – 2008/1
寺出 道雄 (著)
…そうした『分析』の秘密については、第6・7章で語るとして、ここでは、苦痛に耐えながら、山田自身の言葉を追っていこう。
再生産論の具体化分析の「序言」は、こう書き出される。
「本書は、日本資本主義の基礎の分析を企図する。その基礎分析によつて、日本資本主義の基本構造=対抗・展望を示すことは、本書の主たる課題とする所である。本書は、これを、日本資本主義における再生産過程把握の問題として、謂はば再生産論の日本資本主義への具体化の問題として、果すことを期してゐる。」(「序言」一頁)
ここで、「再生産論」の「具体化」とは、山田が、『再生産過程表式分析序論』において取り上げた、『資本論』の中の再生産表式論が、『分析』の構想の基本にあったことを語っている。再生産表式論とは、資本主義経済を生産財生産部門と消費財生産部門からなる二部門経済として捉え、その二部門の絡み合いの中で、資本主義経済における資本蓄積の過程を捉えていく議論である。
この『資本論』における再生産表式論は、二部門モデルによる経済成長論の研究にも発展させうる性格を有していた。しかし、山田の再生産表式論の利用の方向は、そうした経済理論的な利用の方向ではなかった。山田は、工業部門を生産財生産部門と消費財生産部門に分割して、その様相を具体的に分析するとともに、そうした二部門分割によっては捉えきれない性格を示す農業部門を、いわば第二の部門として捉えて、その様相を具体的に分析することによって、総体としての日本資本主義の姿を明らかにしようとしたのである。それは、文字通りに、再生産表式論の「具体化」であった。特殊な「型制」山田は、続いてこう述べる…
しかし、大伽藍の形状がいかに複雑でも、立体模型の中心部の垂直方向の構造が、下からいって、
「地盤」=「半農奴制的零細耕作」
「礎石」=「巨大なる軍事機構=鍵鈴(キイ)産業」
大伽藍=「軍義的半農奴制的官府」+「二層弯窪」
という三層構造だったことは確かである(図1を参照)。
宇野弘蔵著作集別巻 (1974年8月16日発行 岩波書店)73〜75頁
犬・猫・人間
ーー猫は封建的であるーー
谷崎潤一郎も大体そういうふうにいっていたと思うが(1)、猫は人前では決してフザケないものである。客が来ると主
人の方は見向きもしないようなふりをして客の膝の上にあがって愛想をする。また主人の方でもさも御迷惑なものを
飼っていますといった態度でこれをつまんで障子の外に出したりする。猫をつれて散歩に出かける主人はない。勿論
猫は散歩の連れとして多少小さ過ぎるという欠点は否定出来ない。が、しかし散歩には向かないような小さなのでも
犬なら連れて歩く人かある。どうも猫には元来そういう性質が欠けているのではないかと思う。そしてそれは猫が封
建的であることの有力な論拠をなすものである。というのは散歩は資本主義の産物の一つであるからだ。わが国でも
西洋文明が入って開化するまでは二人連れで散歩というようなことはなかったらしいが、最近では諸君の御覧の通り
だ。もっとも僕は人間を猫と混同するわけではないが、最近の資本主義の発展がこういうことにも随分著しい変化を
齎らしたものだということからつい連想する。つまり最近の日本資本主義は猫文明が犬文明にかなりの程度に交替し
たものだと思われて仕方がないのだ。或る有名な西洋の学者の説によると犬が喰い余した骨を地中に埋めて置くこと
から人間は資本の蓄積を学んだということだが、犬は何といっても資本主義的である。或いはこの学者のいうように
資本主義の元祖かも知れない。犬は始めての客であるとしばらくは敵意を示し、漸くお愛想を始めても主人にジャレ
つくことを寧ろ見せびらかせる。犬はなかなかに西洋風だ。もっともこの頃は日本犬が大分もてはやされることにな
ったが、これなども日本資本主義の特殊性を示すものであろう。とにかく我が国が資本主義化して来たことを表わし
ているといってよい。犬公方なんかはその点では世に理解されなかった先覚者だったといえる。例えば映画にしても
猫が活躍するというものは少ない。芝居の方になると犬が出るとやや滑稽なものになり易い。犬に芝居がやれないと
いうのではないが、すればいわゆる犬芝居になるわけだ、大体糸[ママ]にのらない。然るに蓄音機による西洋音楽は犬には
理解されるものらしい。もっともあの主人の声に聞き入っているマークは僕の余り好まないところである。あれでは
蓄音器愛好者を犬に見たてたものとしか考えられない。何とかして改めてほしいと思うが、不適当とは言えない。先
年なくなられたわが国社会主義者の巨頭堺利彦氏は猫が好きだった。これに反して山川均氏の一党は犬が好きのよう
だ。社会主義者の間にも時代の推移は免れないものと見える。堺氏の理論に何だか古風なものが残っていたのはこの
猫のせいではないかと思われる。山川氏の如きはしかし最近では鳥が随分気に入ったと見えて犬が万物の霊長だとす
れば鳥は万物の次長ぐらいにはなるといって、犬好きの荒畑寒村氏に答えている。いささか行き過ぎた文明のようで
ある。考えて見ると先年来の封建論争で最初はかなり山川君に感心して居られた大内兵衛氏はその時分までは猫を飼
っておられたようだ。その後間もなく労農派の重鎮として奮闘せられるようになったが、それはセッパードの立派な
のを飼われてからのことだ。描や犬を飼うということも馬鹿にならぬことである。向坂君の犬好きはまた大変だ、僕
等は会う度に犬の飼い方の注意を受けている。ことによると山田盛太郎君なども最近まで描を飼っていたのかも知れ
ない。われわれの連中では和田君は一時犬を飼っておられたが最近はそうでもないようだ。長谷田君の家には名犬秋
田犬がいる。服部君のところにもたしかに犬がいる。僕の処には犬も猫もいる。
(1)谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のをんな」参照。なおこの小説は全くつまらぬことに異常な努力を払ったものであるとは思
うが、猫を描いて技まさに神にちかいものがあるといってよい。漱石の『猫』の如きは猫のかいた『吾が輩は人間である』
に過ぎない。
(東北帝国大学経済学友会『経済学友会報』第二号、一九三六年一一月刊)