水曜日, 3月 15, 2017

白隠 隻手音声

                     (リンク:::::::::仏教 

NAMs出版プロジェクト: 臨済録
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_11.html  
Manual of Zen Buddhism by D.T. Suzuki 1935 便覧:解読 


NAMs出版プロジェクト: 大応国師(1235-1309)
NAMs出版プロジェクト: 大燈国師(1282-1338)
NAMs出版プロジェクト: 関山国師(1277-1361)「無相大師遺誡」
NAMs出版プロジェクト: 夢窓疎石(1275-1351)
NAMs出版プロジェクト: 白隠(1686-1769) 隻手音声


参考:
Manual of Zen Buddhism: V. From the Japanese Zen Masters
http://www.sacred-texts.com/bud/mzb/mzb05.htm
ダブルバインド(Double bind)Bateson, G.1956

白隠云く 、 「両掌相打って声あり 、隻手(せきしゅ)に何の音声(おんじょう)かある 」 。


白隠 慧鶴 禅師 日本の歴史 雑学の世界 
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den083.htm

また「荊叢毒蕊」に「題蟻遶磨図」賛があり、次のようにいう。 蟻、鉄磨を遶る、遶り遶って休歇無し。 六趣の衆生に似て、輪転して出期無し。  
此に生まれ、彼に死し、鬼と成り、蓄と成る。 此の患難を免れんと欲せば、須く隻手の声を聞くべし。  
石うすを遶る蟻を、六道輪廻から脱却できぬ衆生に譬え、その苦難から逃れるためには、何としても隻手の声を聞かねばならぬ、というのである。  

Hakuin Ekaku (1686-1769), Ant on a Stone Mill
http://terebess.hu/zen/hakuin/hakuin37.html





龍雲寺コレクション
http://iriz.hanazono.ac.jp/hakuin/rekihaku/
[32]蟻磨      Gima       Ant on a Mill

[ZOOMA画面へ][翻刻ビュー画面へ]
磨をめぐる 蟻や世上の耳こすり

Ma o meguru ari ya sejo no mimi kosuri
An ant circling the handmilla hint for the world.

「耳こすり」は「耳もとでささやくこと、耳語」、あるいは「あてこすり」の義である。渡世であくせくするのも所詮は「磨を遶る蟻」みたいなものだ、という意。
 『荊叢毒蘂』には「題蟻遶磨図」賛があり、次のようにいう。
 
   閑蟻、鉄磨を遶る、遶り遶って休歇{きゆうけつ}無し。
  六趣の衆生に似て、輪転して出期{しゆつご}無し。
  此に{ここ}生まれ、彼{かしこ}に死し、鬼{き}と成り、蓄{ちく}と成る。
  此の患難{げんなん}を免れんと欲せば、須らく隻手の声を聞くべし。

あくせくと石うすをめぐり歩く蟻を、いつまでも六道に輪回していて、いくたびも畜生に生まれ変わって、そこから脱却できぬ衆生に譬え、その苦難から逃れるためには、何としても隻手の声を聞かねばならぬ、という趣旨である。

In his inscription Hakuin suggests that the busy-ness of the world is of no more importance than the circling of an ant on top of a handmill. In his Keiso Dokuzui Hakuin writes, “A silent ant circles an iron handmill, around and around with never a rest. Beings in the Six Paths of Existence are like this, suffering rebirth and redeath and never finding release. Born here, dying there, becoming a demon, becoming an animal. If you seek liberation from this sorrow, you should hear the sound of one hand.”


VAN MORRISON LYRICS - Enlightenment


Play "Enlightenment"
"Enlightenment"

Chop that wood
Carry water
What's the sound of one hand clapping
Enlightenment, don't know what it is

Every second, every minute
It keeps changing to something different
Enlightenment, don't know what it is
Enlightenment, don't know what it is
It says it's non attachment
Non attachment. non attachment

I'm in the here and now, and I'm meditating
And still I'm suffering but that's my problem
Enlightenment, don't know what it is

Wake up

Enlightenment says the world is nothing
Nothing but a dream, everything's an illusion
And nothing is real

Good or bad baby
You can change it anyway you want
You can rearrange it
Enlightenment, don't know what it is
Chop that wood
And carry water
What's the sound of one hand clapping
Enlightenment, don't know what it is

All around baby. you can see
You're making your own reality. everyday because
Enlightenment, don't know what it is

One more time

Enlightenment. don't know what it is
It's up to you
Enlightenment. don't know what it is
It's up to you everyday
Enlightenment, don't know what it is
It's always up to you
Enlightenment, don't know what it is
It's up to you, the way you think


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Writer(s): van Morrison 
A-Z Lyrics V VAN MORRISON Lyrics
"Enlightenment" (1990)
 



白隠はその創始になる 「隻手音声 」の公案について 、 『藪柑子 』☆と題して出版された書物の中で 、次のように述べている 。

…この五 、六ヵ年以来は思い付きたること侍りて 「隻手の声を聞き届けたまいてよ 」と人毎に指南し侍るに 、従前の指南と抜群の相違ありて 、誰にも疑団起こり易く 、工夫進み易きこと雲泥の隔てこれあるように覚え侍り 、これによりて唯今専一に 「隻手 」の工夫勤め侍り 。


 けだし隻手の声とは如何なることぞとならば 、即今両手打ち合わせて打つ時は丁々として声あり 、唯だ隻手を挙ぐる時は音もなく香もなし 。これかの孔夫子のいわゆる烝天のことといわんか 、はたまたかの山姥がいいけん 、 「一丁空しき谷の響きは無生音をきく便りと成る 」とはこれらの大事にや 。これ全く耳を以て聞くべきにあらず 、思慮分別を交えず 、見聞覚知を離れて 、単々に行住坐臥の上において透間もなく参究しもて行き侍れば 、理尽き詞究まる処において忽然として生死の業根を抜翻し 、無明の窟宅を劈破し 、鳳 、金網を離れ 、鶴 、籠を抛つ底の安堵を得 。この時に当たりて何時しか心意識情の根盤を撃砕し 、流転常没の幻境を撥転し 、三身四智の宝聚を運び出し 、六通三明の神境を超越す。
 貴ぶべし。隻手纔かに耳に入る時は、仏性、神声、菩薩声、声聞声、円覚声、餓鬼声、修羅声、畜生声、天堂声、地獄声、世間所有の一切の音声毫釐も聞き残すことなし。これを清浄の天耳通という。
 隻手纔かに耳に入る時は 、広大劫来輪転昇沈の跡 、塵点劫後往復遷流の影 、照々焉として宝鏡に対するが如し。これを清浄の宿命通という。


 隻手纔かに耳に入る時は 、喫粥喫飯 、運動施為これ修得底にあらず 、学得底にあらず 、人々本具の活三昧なることを徹了す 。この時に当たりて 、 「華厳の四種の法界 」 、 「法華の唯有一乗 」 、 「空手にして鋤頭を把り 、歩行にして水牛に騎る 」 、 「穢土を転じて浄土となし 、凡身を変じて仏身と成す 」等の大事 、粲然として目前に充塞す 。これを清浄の神境通という 。




「不立文字、直指人心、 見性成仏」
白隠作

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 直指人心見性成仏の用語解説 - 禅宗用語。真理は自己の心の外にあるのではなく,自己の心のなかにこそ発見される,真理であるその自己の本性をみるならば,仏となることができる ...

見性 - Wikipedia

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この概念は、後に見性成仏という禅の特徴を表す4つの語句の1つとして定着した。教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)がそれであり、見性がそのまま成仏であるとする。

禅宗では、宝亮(444年 - 509年)の撰述といわれる『涅槃経集解』に、「案ずるに僧亮曰く、見性成仏、即ち性を仏と為すなり」とあるのが最初であるとされるが、宋 (南朝)時代にインド出身の訳経僧として活躍した求那跋陀羅(394年 - 468年)の訳『楞伽阿跋多羅宝経』に、すでに「直指人心 見性成仏 以って教外別伝と為す」とあり、これらが禅宗に取り入れられ、よって禅宗の言葉になったとみられる。

禅では、人間の本性は仏性そのものであり、それ以外に本性として認めるべき物はないという。この仏性を開き現すことを「見性成仏」という。自己に執着し、外物に執着する自己の心を徹底的に掘り下げ、自己の本性として見るべき物はないと悟ったとき、その身がそのまま仏であるとする。これは特に臨済宗の系統では多く用いられている。

直指人心 見性成仏『伝心法要』 | 實相寺 公式サイト
http://jissouji.main.jp/info/2011/08/直指人心%E3%80%80見性成仏『伝心法要』/
今日のjissoujiに贈る禅語は、「直指人心見性成仏『祖庭事苑』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo 
おはようございます。今日の禅語は「じきしにんしん けんしょうじょうぶつ」と読みます。
出典は『祖庭事苑』となっていますが、この『祖庭事苑』が何なのか?どういった書籍なのか存じませんでしたので『禅学大辞典』で調べますと、宋時代の睦菴善卿によって作られた禅書中最古の辞典なんだそうで、1154年に重刊されています。
一方、『禅語辞典』によると『伝心法要』十六とあります。『伝心法要』は黄檗希運禅師の提唱を裴休という人がまとめたものだそうで、857年に序文が書かれています。こちらの方が古いので出典は『伝心法要』が正しいですね。「禅語ったー」も訂正しておきます。
さてその意味について、『禅語辞典』から抜粋しますと「人の心そのものを直指し、その心性を洞見せしめて仏と成らせる」とあります。
ボキャブラリーが貧困なので「洞見」なんて言葉初めて知りましたが、要は心の奥底をのぞき込むような事でしょうかね。
昔から「月をさす指」ということが言われます。仏心・仏性というもの、或いは悟りというものが遠く離れたお月様であるならば、経典や語録に書かれている教えは、その月の方向を指し示す指ではあるが月そのものでは無い。一生懸命指を見てもそこに月は無いのだから、月そのものを見なさい、というような意味で使われます。達磨の「不立文字 教外別伝」というのもそういう事です。
その月そのものを体験的に理解することを、「直指人心 見性成仏」というのでしょう。
見性とは自己の本性、すなわち仏性を見ることです。それが仏陀、覚った者と成ると言うことです。

見性 - Wikipedia

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この概念は、後に見性成仏という禅の特徴を表す4つの語句の1つとして定着した。教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)がそれであり、見性がそのまま成仏であるとする。

禅宗では、宝亮(444年 - 509年)の撰述といわれる『涅槃経集解』に、「案ずるに僧亮曰く、見性成仏、即ち性を仏と為すなり」とあるのが最初であるとされるが、宋 (南朝)時代にインド出身の訳経僧として活躍した求那跋陀羅(394年 - 468年)の訳『楞伽阿跋多羅宝経』に、すでに「直指人心 見性成仏 以って教外別伝と為す」とあり、これらが禅宗に取り入れられ、よって禅宗の言葉になったとみられる。

禅では、人間の本性は仏性そのものであり、それ以外に本性として認めるべき物はないという。この仏性を開き現すことを「見性成仏」という。自己に執着し、外物に執着する自己の心を徹底的に掘り下げ、自己の本性として見るべき物はないと悟ったとき、その身がそのまま仏であるとする。これは特に臨済宗の系統では多く用いられている。

Zenrin gasanchūsei suibokuga o yomu

前表紙
每日新聞社1987 - 497 ページ


86 ページ
景徳伝灯録』の巻三「第二十八袓菩提達磨」 ... 不立文字、直指人心、見性成仏」とある
0 でんしんほラょラ此一心「伝心法要. ,に「九月一日師、休に謂ひて曰く、達磨大師中国
に到りてより、唯だ I 心のみを説き、唯だ一法のみを伝ふ。仏を以て仏を伝へて、余仏を

 ...


国立国会図書館デジタルコレクション - 景徳傳燈録30卷. [1]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569893?tocOpened=1

白隠禅師 (河出文庫) Kindle版

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1 Comments:

Blogger yoji said...

秋月龍珉、公案は趙州無字

12:51 午前  

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