日曜日, 5月 07, 2017

無相大師遺誡(Kwanzan Kokushi’s Admonition 関山国師「無相大師遺誡」)


無相大師遺誡 #1 - web智光院

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無相大師遺誡 #1

妙心開山無相大師遺誡

宿昔吾大應老祖正元之間超風波大難地蚤入宋域遇着虚堂老禅于淨慈、眞參實證末後徑山盡其蘊奥是故得路頭再過之稱受兒孫日多之記單傳楊岐正脉吾於朝者老祖之功也、次先師大燈老人參得老祖于西京侍者京輦巨峯其随從之際、脇不到席者多年頗有古尊宿風、卒受老祖淵粋命長養者二十年、果彰大應遠大之高徳起佛祖已墜之綱宗殘眞風不地遺誡鞭策後昆者先師之功也、老僧爰受花園仙帝敕請創開此山先師嚼飯養嬰兒、後昆直饒有忘却老僧之日、忘却應燈二祖深恩不老僧兒孫、汝等請務其本、白雲感百丈之大功虎丘歎白雲之遺訓、先規如茲誤而莫摘葉尋枝好。

(題名)『妙心開山無相大師遺誡』

(現代語解釈)『大本山妙心寺開山・無相大師関山慧玄禅師が残された後人への訓戒』

(原文1)
宿昔吾が大應老祖正元の間、風波大難の地を超えて、蚤に宋域に入って虚堂老禅に淨慈に遇着して真参実証、末後径山にその蘊奥を尽くす。

(むかしわがだいおうろうそしょうげんのあいだ、ふうはだいなんのちをこえて、つとにそういきにいってきどうろうぜんにじんずにぐうじゃくしてしんさんじっしょう、まつごきんざんにそのうんのうをつくす。)



(意訳1)
その昔、先々代の師匠である大應国師・南浦紹明禅師は、正元元年(1259)に、荒れ狂う海を越え、険しい山中を歩き、大変な苦労を重ねて中国・宋へと渡った。
いくつかの寺院に参問した後、今の浙江省杭州にある淨慈寺に辿り着き、そこで虚堂智愚禅師と出会った。
大應国師は、虚堂智愚禅師のもとに留まって参禅工夫を実践され、虚堂智愚禅師が径山万寿寺に移られると、国師も虚堂智愚禅師に随従し、径山に修行の場を移し、そしてついに大悟徹底された。

(原文2)
是の故に路頭再過の称を得て、児孫日多の記を受け、楊岐の正脈を吾が朝に単伝する者は、老祖の功なり。

(このゆえにろとうさいかのしょうをえて、じそんにったのきをうけ、ようぎのしょうみゃくをわがちょうにたんでんするものは、ろうそのこうなり。)



(意訳2)
大悟された大應国師は、その2年後に虚堂智愚禅師に暇を告げ、帰国することとなった。帰国する際、虚堂智愚禅師からの手紙、いわゆる「児孫日多の記」を受け取った。それは『涅槃(宋)の道を極め、再びもと(日本)の道へ帰ってゆく』と人徳を称えられ、『わが弟子はこれから先、日ごと多くの高徳を輩出するであろう』という期待の言葉が書かれたものである。
こうして国師は、文永4年(1267)に帰国され、この臨済宗楊岐派の正法を、わが国に直伝された。まさに大應国師の功績は計り知れない。

(原文3)
次に先師大燈老人、老祖に西京に参得して、京輦巨峯に侍者たり。其の随従の際、脇席に到らざること多年、頗る古尊宿の風あり。

(つぎにせんしだいとうろうにん、ろうそにせいけいにさんとくして、けいれんこほうにじしゃたり。そのずいじゅうのあいだ、わきせきにいたらざることたねん、すこぶるこそんしゅくのふうあり。)



(意訳3)
さて次に、先代の師匠である大燈国師・宗峰妙超禅師であるが、師は嘉元3年(1305)、京都・韜光庵に住持していた大應国師に参禅し、その後大應国師が、京都・嘉元寺、鎌倉・建長寺に移られた時にも、侍者として随侍した。
その期間、怠ることなく参禅弁道に励み、その姿は、並みいる歴参の僧を超える、高僧としての風格をすでに持っていた。

(原文4)
卒に老祖淵粋の命を受けて長養すること二十年、果たして大應遠大の高徳を彰わし、仏祖已墜の綱宗を起こし、真風不地の遺誡を残して、後昆を鞭策する者は、先師の功なり。

(ついにろうそえんすいのめいをうけてちょうようすることにじゅうねん、はたしてだいおうおんだいのこうとくをあらわし、ぶっそいついのこうじゅうをおこし、しんぷうふちのゆいかいをのこして、こうこんをべんさくするものは、せんしのこうなり。)



(意訳4)
徹底した修行の末、大悟を認められた大燈国師は、大應国師より印可証明(悟りの証)と、これから後の修行についての命令を受けて、その直後より20年間、「聖胎長養」と呼ばれる総仕上げの修行に入られた。
その長期修行の結果、ついに大應国師より継承された高徳と資質が、世間に知られるところとなった。釈尊入滅後の末法思想の今日にあって、仏教の大綱と禅宗教義の布教に尽力され、そして、真実の仏祖の教えを堕落させることのないように、という願いを遺誡として残された。われら弟子どもを、今もなお指導鞭撻し、励ましている。大燈国師の功績もまた、賞賛し余りあるものである。

(原文5)
老僧爰に花園仙帝の敕請を受けて、此の山を創開するも、先師飯を嚼んで嬰児を養う。後昆直饒老僧を忘却するの日ありとも、應燈二祖の深恩を忘却せば、老僧が児孫にあらず。

(ろうそうここにかえんせんていのちょくしょうをうけて、このやまをそうかいするも、せんしはんをかんでようにをやしなう。こうこんたといろうそうをぼうきゃくするのひありとも、おうとうにそのじんのんをぼうきゃくせば、ろうそうがじそんにあらず。)



(意訳5)
私(無相大師・関山慧玄禅師)は、花園上皇の勅命を頂戴し、この正法山妙心寺を開創したが、これは先代の師匠・大燈国師が、まるで幼い子供に対して、ご飯を噛んで柔らかくしてから与えるように、われわれ修行者を誠心誠意鍛え育て上げてくれたからこそ、今この縁が結ばれているのである。
これから先、遠い後世になり、我が法系(師匠と弟子のつながり・仏法の系譜)が栄えて弟子が増えたとして、いつかは私のことが忘れ去られる時代が来るであろう。
しかし、大應・大燈両国師の深い恩愛は決して忘れてはならない。もしも両祖師への報恩感謝を忘れたとしたら、その弟子どもは私の法孫(系譜に連なる僧)ではない。「関山慧玄の法系につながる者だ」と言ってはならないし、それを私が決して許さない。

(原文6)
汝等請う其の本を務めよ。

(なんじらこうそのもとをつとめよ。)



(意訳6)
あなたたちに一番重要なこと、それは己事究明、おのれとは何者であるか? これを突き止めることである。

(原文7)
白雲は百丈の大功を感じ、虎丘は白雲の遺訓を歎ず。先規茲の如し、誤って葉を摘み枝を尋ぬること莫んば好し。

(はくうんはひゃくじょうのだいこうをかんじ、くきゅうははくうんのゆいくんをたんず。せんきかくのごとし、あやまってはをつみえだをたずぬることなくんばよし。)

(『無相大師遺誡』おわり)



(意訳7)
白雲守端禅師は、百丈懐海禅師が昔、禅宗道場の規則を整備されたという、大きな功績に深く感服し、虎丘紹隆禅師は、白雲守端禅師の残された訓戒を、称歎し奉読していた。
このような過去の祖師方の行状や報恩行は、たくさん残っており、皆このようにして、祖師方の恩愛を感じ、自己の訓戒としていたのだ。
間違っても、葉を摘んだ後に、その木が何であるかを確認するような、本末転倒な真似をしてはならない。日常の修行をおろそかにせず、「自己とは何か」を専一に追求すること、決して仏法の根本儀を忘れてはならないぞ。