日曜日, 7月 16, 2017

合成の誤謬(マクロ)、市場の失敗(ミクロ)


   ( 経済学リンク::::::::::
NAMs出版プロジェクト: 経済学日本人著者入門書
http://nam-students.blogspot.jp/2016/10/blog-post_9.html

NAMs出版プロジェクト: 合成の誤謬、市場の失敗

http://nam-students.blogspot.jp/2017/07/blog-post_16.html@

クルーグマン(流動性の罠、オークンの法則、経済循環フロー図):メモ

http://nam-students.blogspot.jp/2015/08/blog-post_19.html
:ベビーシッター協同組合(『世界大不況からの脱出』23頁参照)



リーマン・ショックと合成の誤謬:

http://haofu.blog.so-net.ne.jp/2012-06-15


合成の誤謬 一部分について真であることが、そうであることだけのゆえに、

全体についても必然的に真であるとみなされる誤謬。」


「経済学の分野ではとくにはっきりといえることだが、個人にとって真である

ようにみえることが、必ずしも社会全体にとっては真でないということ、また

逆に、全体にとって真であるようにみえることが、いずれか一個人にはまった

く当てはまらないかもしれないということが多い。行列をよく見ようとして、

ひとりだけ爪先立ちするなら効果があるけれど、誰もがそうしたのでは役に立

たない。経済学の分野では、この種の例を無数にあげることができよう」

P.A.サムエルソン『経済学(上)』(原書第11版、1980年)、岩波書店刊、

1981年、pp. 15-16)。

 


『カフェde読む 図解ケインズ』中野明

(ゲゼルに言及している数少ないケインズ入門書)


《72 ケインズは合成の誤謬の具体例としてマンドヴィルの『蜂の寓話』を揚げる(『一般理論』第23章、第7節)。なお、『蜂の寓話』については4-8節参照。》


倹約しても全体は良くならない…

  


ケインズは合成の誤謬の具体例としてマンドヴィルの『蜂の寓話』を揚げて

いる(『一般理論』第23章、第7節)。

倹約しても必ずしも全体は良くならない…

行動経済学でも同種の指摘がある。


サブプライム問題の本質(2) 合成の誤謬 - 水島正blog

http://blog.consulting-one.jp/archives/21

 …英語では、Fallacy of Composition といいます。日本語でも英語でもわかりやすい言葉ではない。「ミクロでは正しくても、それが合計されたマクロの世界では正しくない、あるいは予期せざる結果を生むこと」と定義されています。大学生になって、1年生の経済原論の時間に読んだ『サミュエルソンの経済学』。内容のほとんどを忘れましたが、「合成の誤謬」と「IS-LM曲線に現れる新古典派総合」だけは覚えています。当時の内田忠夫先生が出す試験問題のヤマはこの二つに掛ければ必ずあたると言われていました。

 サミュエルソンはこのように説きます。「多くの人々が何かを見物しているとする。見えにくいからと誰かが立ち上がった。そのときは立ち上がった人は良く見えるようになるだろう。ところが、全員が立ち上がると、見え方はみな同じになる。かように、個人にとって正しいと思われる行為も、多くが集まると正しくなくなる場合がある。これを合成の誤謬という」というのです。


参考:

サミュエルソン経済学序説で扱われる。

NAMs出版プロジェクト: クルーグマン/マンキュー/スティグリッツ/サミュエルソン:目次

http://nam-students.blogspot.jp/2015/02/httpnam-students.html#refta

サミュエルソンは論理学を応用、発展させた。


リーマン・ショックと合成の誤謬:mes pensées:So-netブログ

http://haofu.blog.so-net.ne.jp/2012-06-15

この本(『市場リスク』)の最初の方に、次のような記述がある。著者が、ある若いオプション・セールスマンとの間で交わした会話の要点だ。

Q) 株価指数が下がったら、あなたはどうするか?

A) 相場が下がれば株式を売って、さらなる損失を防ぐだけだ。

Q) では、全ての投資家が同じことをしたら、市場にどんな影響が及ぶか?

A) 株価の下降スパイラルへと突き落とされる。

「この結論にたどりつくことは造作もなく、どんな人でもそうした結論を導き出せたはずである。しかし、誰もがこの最新のイノベーション(引用者注:ポートフォリオ・インシュアランス・プログラムのこと)を売り込んで、カネ儲けをすることに興じすぎて、この種の不快なシナリオについて真剣に考えることなどできなかったのだろう。」(p. 35

 

この箇所を読んで、すぐに思い出したのは、昔、大学で経済学を勉強したときに読んだサムエルソンの教科書の最初に出てきた「合成の誤謬」(fallacy of composition)の話だ。

 

合成の誤謬 一部分について真であることが、そうであることだけのゆえに、全体についても必然的に真であるとみなされる誤謬。」

「経済学の分野ではとくにはっきりといえることだが、個人にとって真であるようにみえることが、必ずしも社会全体にとっては真でないということ、また逆に、全体にとって真であるようにみえることが、いずれか一個人にはまったく当てはまらないかもしれないということが多い。行列をよく見ようとして、ひとりだけ爪先立ちするなら効果があるけれど、誰もがそうしたのでは役に立たない。経済学の分野では、この種の例を無数にあげることができよう」(P.A.サムエルソン『経済学(上)』(原書第11版、1980年)、岩波書店刊、1981年、pp. 15-16)。

 

これは、経済学を勉強する場合の注意点をいくつか記した序章に出てくる。サムエルソンの教科書(日本語版)は、上下2巻に及ぶ分厚いもので、全部通読するのは正直しんどいが、最初の章くらいは当時の経済学部生の多くは読んだはずだ。そして、序章の中でも、合成の誤謬は最も印象深い指摘と言ってよい。実際、大学卒業後に出会った、ある理系出身者は私に、「経済学の勉強と言えば、サムエルソンを読んだくらいだけど、その中に、映画館で一人の観客が立てばよく見えるが、みんなが立ち上がると誰も見えなくなってしまうとかいう話が載ってたよね。あれはおもしろかった。覚えているのは、それくらいだけど・・・」と語ったものだ。確率微分方程式など高度な数学に通じたファイナンス研究者が開発した投資戦略プログラムが、このように単純な合成の誤謬を考慮していなかったとは、正直言って驚きだ。

 

ただ、今回、サムエルソン『経済学』のその後を調べてみて、少々合点がいった。サムエルソンの単著としての教科書は1985年の第12版が最後で、それ以降はノードハウスとの共著になる。そのヴァージョンにも「合成の誤謬」は載っているが、説明は簡略になっている。そして、サムエルソンとノードハウスの共著は、グローバル教科書市場での覇権を失い、ハーバードの若手経済学者マンキューの教科書が新たな覇者となる。しかし、マンキューの教科書には、「合成の誤謬」のゴの字も出てこない。

 



合成の誤謬 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%88%90%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%AC%AC

合成の誤謬(ごうせいのごびゅう、fallacy of composition)とは、ミクロの視点では正しい

ことでも、それが合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じる

ことを指す経済学の用語。


1990年代の日本における財政改革で、財政再建や消費増税をした結果、景気が著しく悪化し、

かえって財政構造が悪化した。これは、財政が経済に占める規模が大きいため、一家計や一

企業の収支を改善する方法が通用しないことを示している。経済学者の若田部昌澄は「財務省は

よく国の会計と企業・家計の会計とを同一視する比喩を用いる。こうした類推・比喩はたいへん

誤解を呼ぶものであり、論理的ではない」と述べている。



合成の誤謬 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/合成の誤謬

合成の誤謬(ごうせいのごびゅう、fallacy of composition)とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じることを指す経済学の用語[1]

解説編集

何かの問題解決にあたり、一人ひとりが正しいとされる行動をとったとしても、全員が同じ行動を実行したことで想定と逆に思わぬ悪い結果を招いてしまう事例などを指す[1]

例えば、家計貯蓄などがこれに当たる[1]所得が一定の場合、一家計が消費を削減した場合、必ず貯蓄額が増加する。これはミクロの視点において、一家計の支出削減は経済全体に影響せず、その家計の収入を減少させる効果はないと考えられているためである。そのため所与の収入において支出を削減すれば貯蓄額が増加する。

しかし、マクロの視点まで考えると状況が変わる。先に結論から述べると、ある経済に属するすべての家計が貯蓄を増加させようと消費を削減した場合、貯蓄は上昇するが、貯蓄は変わらない。まず、あるの経済主体の支出は、その相手方にとっては所得となる。したがって、家計全体が消費を削減した場合、その消費の相手方は全体としては同一の「家計全体」となるため、その所得が減少する。収入が減少するため、同一額の積立を継続しようとすれば貯蓄額が所得に占める割合は高まるので、貯蓄は上昇する。これにより、家計の支出削減の努力は自らの収入減少に帰結する。これは、マクロ経済において家計の貯蓄額を決定するのは企業・政府の投資と経常収支の合計だからである。

ほかにも、企業の借金の返済[2]や人員削減[3]、関税障壁による貿易収支の改善など、ミクロでは正しくてもマクロでは違う結果をもたらすものは多い。それは、ミクロのメカニズムが経済の一片における仕組みであるのに対して、マクロのメカニズムは経済全体の循環における仕組みだからである。

現実の例編集

世界恐慌編集

世界恐慌後の世界では、各国が通貨切下げや関税障壁構築により自国経済からの需要漏出を防ごうとした(通貨安競争)が、主要国がこぞってこのような政策を採用した結果、ブロック経済が出現し、思うような改善を図れなかった。そのうえ、自由貿易の利益も喪失されて各国経済は著しく非効率な状態へ陥り、フランスやアメリカでは厳しい不景気が長引いた。それまでどおりの均衡財政を維持しようとしたアメリカ政府は、自らの歳出削減による経済縮小と歳入減少に苦しんだ。

ただし、このような通貨安競争が景気の後退要因になったとの説には、否定的な意見もある[4][5]

世界恐慌の時期には全ての国において拡張的金融政策がとられた結果、外需拡大の効果は相殺されあうこととなったが、国際学派のバリー・アイケングリーンジェフリー・サックスによると、世界的な拡張的金融政策は世界的なマネーサプライの増加をもたらし、その結果、各国で内需の拡大がもたらされ世界恐慌からの離脱の契機になった[6]

そのほかの例編集

  • 江戸時代において、米沢藩の財政改革は成功したのに対して、江戸幕府改革はたびたび失敗している。米沢藩が歳出削減や他藩への輸出興業を図ることにより財政収支を好転させることができたのに対して、当時は外国との交易が制限されていたため、幕府の自らの改革は、全体の経済活動を冷え込ませるだけに終わることになってしまった。領国経営において緊縮財政による財政改革に成功した徳川吉宗松平定信の改革が国政レベルでは失敗したのはこれによる。
  • 1990年代の日本における財政改革で、財政再建や消費増税をした結果、景気が著しく悪化し、かえって財政構造が悪化した。これは、財政が経済に占める規模が大きいため、一家計や一企業の収支を改善する方法が通用しないことを示している。経済学者若田部昌澄は「財務省はよく国の会計と企業・家計の会計とを同一視する比喩を用いる[7]。こうした類推・比喩はたいへん誤解を呼ぶものであり、論理的ではない」と述べている[8]
  • 1990年代半ばから2000年代の日本において、企業は傷んだバランスシートを改善するために借金返済を優先した。バランスシートの傷んだ企業がその改善を行なうこと自体は適切な行動であると考えられるが、多くの企業が同時に債務の返済に走ると経済全体では設備投資などが落ち込み、景気の悪化を招くこととなる。そして、バランスシートはその景気の悪化によって再度傷つくことになったため、図ったほどには改善しなかった。そこで、企業はバランスシート改善のためにさらなる債務の返済に走り、経済が縮小均衡へと向かうこととなった(バランスシート不況[9][10]
  • 円高になると個々人は輸入や海外旅行において有利になるため、円高を礼賛するような言説がしばしばなされることがあるが、円高になっても日本全体の輸入量を増やせるわけではない。これは、円高によって交易条件が改善するわけではない[11]こと、および、経常収支の黒字が資本収支の赤字と一致するよう国全体での純輸出が決まってしまうことから、円高とは関係なく輸入量・輸出量が決まるためである。貯蓄投資バランスも参照。

上記の例のように、国民経済の枠組みにおいて財政は割合が大きいが、世界経済の枠組みにおいては、一国の財政はミクロの客体となる。このため、通貨切り下げなどで自国経済を活性化させることで財政構造を改善することができる。しかし、この政策も結局、世界中の国で行われれば、合成の誤謬が発生する。

脚注編集

  1. a b c 野口旭 『「経済のしくみ」がすんなりわかる講座』 ナツメ社、2003年、45頁。
  2. ^ 橘木俊詔 『朝日おとなの学びなおし 経済学 課題解明の経済学史』 朝日新聞出版、2012年、146頁。
  3. ^ 三菱総合研究所編 『最新キーワードでわかる!日本経済入門』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2008年、13-13頁。
  4. ^ 歴史を誤認する藤井大臣PHPビジネスオンライン 衆知 2009年11月10日
  5. ^ メディアが書き立てる「通貨安戦争」悪者論を鵜呑みにするな G7で為替介入に理解を求めた政府のお粗末現代ビジネス 2010年10月11日
  6. ^ Barry Eichengreen and Jeffrey Sachs(1985), "Exchange Rates and Economic Recovery in the 1930s", The Journal of Economic History[1]
  7. ^ 税制について考えてみよう 日本の財政を家計に例えたら財務省
  8. ^ 財務省は経済成長が嫌い ~なぜ不景気なのに増税に固執するのかPHPビジネスオンライン 衆知 2008年3月8日
  9. ^ 日経BIZ PLUS リチャード・クー「koo理koo論」第八回2007.9.11
  10. ^ この人にインタビュー野村総合研究所(NRI) 2005年1月
  11. ^ 「円高で内需拡大」の嘘、飯田泰之(駒澤大学准教授 PHPビジネスオンライン 衆知)[2]

関連項目編集



Fallacy of composition

The fallacy of composition arises when one infers that something is true of the whole from the fact that it is true of some part of the whole (or even of every proper part). For example: "This wheel is made of rubber, therefore the vehicle to which it is a part is also made of rubber." This is clearly fallacious, because vehicles are often made with a variety of parts, many of which may not be made of rubber.

This fallacy is often confused with the fallacy of hasty generalization, in which an unwarranted inference is made from a statement about a sample to a statement about the population from which it is drawn.

The fallacy of composition is the converse of the fallacy of division; it may be contrasted with the case of emergence, where the whole possesses properties not present in the parts.

ExamplesEdit

No atoms are alive. Therefore, nothing made of atoms is alive.

If someone stands up out of their seat at a cricket match, they can see better. Therefore, if everyone stands up, they can all see better.

If a runner runs faster, he can win the race. Therefore, if all the runners run faster, they can all win the race. Athletic competitions are examples of zero-sum games, wherein the winner wins by preventing all other competitors from winning.

In voting theory, the Condorcet paradox demonstrates a fallacy of composition: Even if all voters have rational preferences, the collective choice induced by majority rule is not transitive and hence not rational. The fallacy of composition occurs if from the rationality of the individuals one infers that society can be equally rational. The principle generalizes beyond the aggregation via majority rule to any reasonable aggregation rule, demonstrating that the aggregation of individual preferences into a social welfare function is fraught with severe difficulties (see Arrow's impossibility theorem and social choice theory).[citation needed]

In economicsEdit

  • The paradox of thrift is a notable fallacy of composition described by Keynesian economics.
  • Division of labour is another economic example, in which overall productivity can greatly increase when individual workers specialize in doing different jobs. An individual worker may become more productive by specializing in making, say, hatpins, but by satisfying the wants of many other individuals for a given product, the specialist worker forces other workers to specialize in making different things. What is true for the part (earning more by investing in the skills or equipment to make a given product faster) is not true for the whole (because not everybody can profitably make the same product).
  • Economists use the term representative agent to refer to the typical decision-maker of a certain type (for example, the typical consumer, or the typical firm); when this representative agent is poorly chosen in a model, it can be seen as a fallacy of composition.
  • In a tragedy of the commons, an individual can profit by consuming a larger share of a common, shared resource such as fish from the sea; but if too many individuals seek to consume more, they can destroy the resource.[1]
  • In the free rider problem, an individual can benefit by failing to pay when consuming a share of a public good; but if there are too many such "free riders", eventually there will be no "ride" for anyone.[1]

In chemistry and materials science, a single type of atom may form allotropes with different physical properties from each other, and from their individual constituent atoms, such as diamond and graphite each consisting of carbon atoms. What is true of a single carbon atom is not true of a collection of carbon atoms bonded into a material. Furthermore, the properties of an atom differ from the properties of the individual subatomic particles that constitute it.

In social network theory, a group of humans arranged into a social network can have abilities not possessed by the individual humans making up the network.[2] A simple example is the bucket brigade, in which humans arranged into a chain can move buckets of water or other similar items across a distance faster and with less effort than can a disorganized group of individuals carrying the loads across the same distance. What is true of the part (an individual needing to move his or her body across the whole distance to move a load) is not true of the whole (in which individuals can move loads across the distance merely by standing in place and handing off the load to the next individual).

Modo hoc fallacyEdit

The modo hoc (or "just this") fallacy is the informal error of assessing meaning to an existent based on the constituent properties of its material makeup while omitting the matter's arrangement.[3] For instance, metaphysical naturalism states that while matter and motionare all that compose humans, it cannot be assumed that the characteristics inherent in the elements and physical reactions that make us up ultimately and solely define our meaning; for, a cow which is alive and well and a cow which has been chopped up into meat are the same matter but it is obvious that the arrangement of that matter clarifies those different situational meanings.[3]

See alsoEdit

  • Synecdoche, the figure of speech of two forms:
    • Pars pro toto using the word for a part by way of referring to the whole
    • Totum pro parte using the word for the whole by way of referring to a part

ReferencesEdit

  1. a b Pigliucci, Massimo (2012). "Chapter 15: On Justice". Answers for Aristotle: How Science and Philosophy Can Lead Us to A More Meaningful Life. Basic Books. ISBN 0465021387.
  2. ^ Christakis, Nicholas A.Fowler, James H. (2009). Connected: The Surprising Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives. Little, Brown and Co. ISBN 978-0316036146.
  3. a b Carrier, Richard (2005). Sense and Goodness Without God: A Defense of Metaphysical Naturalism. Prometheus Books. p. 130. ISBN 1-4208-0293-3.
Talk


池田信夫 blog : 「合成の誤謬」の誤謬*

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51435877.html

「合成の誤謬」の誤謬*

バロー マクロ経済学きのうの続き。テクニカルな話なので菅首相にはわからないだろうけど、官邸スタッフには優秀な元同僚もいるので、彼へのメッセージとして書いておく。首相は所信表明で、こう言っている:
その後の十年間は、行き過ぎた市場原理主義に基づき、供給サイドに偏った、生産性重視の経済政策が進められてきました。これが「第二の道」です。この政策は、一企業の視点から見れば、妥当とも言えます。企業では大胆なリストラを断行して業績を回復すれば、立派な経営者として賞賛されるでしょう。しかし、国全体としてみれば、この政策によって多くの人が失業する中で、国民生活はさらに厳しくなり、デフレが深刻化しました。「企業は従業員をリストラできても、国は国民をリストラすることができない」のです。
これは経済学部の学生ならみんな学ぶケインズ(正確にはサミュエルソン)の合成の誤謬(負の乗数効果)だが、ミクロ経済学と矛盾する。

価格理論によれば、リストラで労働が超過供給になると、その価格(賃金)が下がって需要が増え、均衡は回復されるはずだ。小野善康氏は「不完全雇用のもとでは価格調整が働かない」というが、経済学の普遍的な法則がなぜ不完全雇用になると働かないのか。そもそも実際の経済はつねに不完全雇用であり、失業率ゼロの国は存在しない。

合成の誤謬が成り立つためには、実は賃金も価格も変化しないという条件が必要である。これがケインズの(暗黙の)前提であり、それを明示的に数学モデルに組み込んだ不均衡理論が、私の学生のころには流行した。岩井克人氏や吉川洋氏などは、この世代だ(林文夫氏の卒業論文もClowerモデルの安定証明だった)。

しかし価格調整がまったく行なわれないという条件は不自然で、それが行なわれるとすると長期では新古典派と同一になる。これがLucas以降の「合理的予想」理論である。それを極端につきつめて、不況だろうと好況だろうと価格調整が瞬時に行なわれると想定したのがPrescottなどの「実物的景気循環」理論で、このバローの教科書はこうした新しい古典派の入門的な解説だ。

だから「需要か供給か」という菅首相の分類はナンセンスで、短期の数量調整と長期の価格調整のどっちを重視するかが問題である。すべてを数量調整で説明するのがカレツキの理論で、これはケインズより早く、数学的にも明快だ。すべてを価格調整で説明するのがプレスコットやバローで、ここではミクロとマクロの区別はまったくなくなる。

現在のマクロ経済学のスタンダードは両者の中間で、Mankiwの教科書に代表される「ニューケインジアン」である。ここでは短期的には価格の硬直性があって数量調整のほうが速いが、長期的には価格調整が行なわれると想定する。ここで重要なのは、短期と長期で別のメカニズムを想定せず、不況期に価格調整も行なわれると考えることだ。

したがってリストラは、雇用を減らす数量調整であると同時に、賃金を下げる価格調整でもあり、市場経済が成熟して後者が大きくなるほど「乗数効果」は小さくなる。現在の実証研究では、1940年代以降ずっと乗数は1以下だったという結果も出ており、ケインズ理論はもともと間違いだったのかもしれない。

大恐慌や2008年のアメリカのように金融仲介機能が崩壊したときは別として、通常の景気循環の中では価格調整は働いていると考えるのが妥当で、今の日本で「合成の誤謬」は起こりえない。「国は国民をリストラできない」などというバカな話はやめて、まず価格調整がスムーズに行なわれる環境をつくるのが政府の仕事である。「構造改革」とは、理論的にいえばそういうことだ。






参考:
http://homepage1.nifty.com/gujyo-economic-res/micro.files/w-antei.htm
マーシャル安定とワルラス安定:


 P|
  |D      S
P0| \a  c/
  | |\e /|
  | |➡︎\/⬅︎|
  | | /\ |     
P1| b/  \d
  |S/    \D
 0|_|____|________
    Q0   Q1   Q

上図で取引量がQ0の水準にあるときには需要価格PDが供給価格PSをabだけ上回っているために超過需要価格が生じていることから、取引量は均衡eの方向に移動して需給均衡が成立します。
 一方、取引量がQ1の水準にあるときにはcdだけ超過需要価格が発生していることから、取引量はeに向かって減少し需給均衡が成立します。
 このように、取引量(数量)の調整によって、市場均衡が成立することをマーシャル安定といい、数量調整が需給を均衡させる方向に作用しない場合にはマーシャル不安定と呼びます。

 P|
  |D      S
P0|_\a__b/
  |  \ ⬇︎/
  |   \/e
  |   /\     
P1|_c/_⬆︎\d 
  |S/    \D
 0|____________
          Q

上図の場合で考えてみよう。価格がP0の水準にあるとき、abだけの超過供給が生じているために均衡点eに向かって価格は下落します。
 一方、価格がP1のときにはcdだけ超過需要の存在のために価格はeに向かって上昇します。
 このように価格の変動を通して、需給が均衡することをワルラス安定といいいます。均衡への収束が生じないケースはこれに反してワルラス不安定と呼ばれます。


市場の失敗

ページの問題点

市場の失敗 (しじょうのしっぱい、market failure)とは、市場メカニズムが働いた結果において、パレート最適ではない状態、つまり経済的な「効率性」が達成されていない現象を指す。

概要編集

ある前提の下では、需要供給の均衡によりパレート最適な配分を実現し、安定した経済を形成すると考えられている市場メカニズムは、多くの経済学者から支持を得ている方法である。ただし、人々や企業が利潤を最大化しようと利己主義的に行動(見えざる手)したことで、社会的に望ましくない・最適(パレート最適)ではない結果がもたらされるケースもある[1]。例えば、独占寡占失業公害、貧富や地域格差などの「市場の失敗」が生じる[2]

事例編集

経済学者の八田達夫は市場の失敗は一般的に、1)外部性(外部経済・外部不経済)、2)公共財、3)情報の非対称性、4)規模の経済、の4つの類型があるとしている[3]

経済学者の飯田泰之は市場の失敗は、1)自然独占、2)外部性、3)情報の非対称性、の3つに大別できるとしている[4]

市場の失敗の代表的なものとして、次のようなものが挙げられる。

  • 不完全競争による独占寡占の存在[5]
  • 外部性の存在[5](正の外部性による過少供給、負の外部性による過大供給。例:公害、発明[6]
  • 情報の非対称性の存在[7]
  • 公共財の存在[8]フリーライダーによる過少供給)
  • 失業[6]
  • 市場の欠落[6]
  • 不確実性(リスク回避的な供給者による過少供給)
  • 費用逓減産業の存在[8]。巨大な固定費のかかる産業(電力産業が典型)では供給曲線が右下がりとなる。このような場合、自然独占状態を認め、かつ価格規制を行うことが最適となる。日本では電力産業に事実上の地域独占が認められており、そのかわり、電力価格は国会で決められる公共料金となっている(生産規模の拡大でコストが低下する場合の独占や寡占)

市場の失敗と公平性・社会問題編集

失業貧困犯罪率増加、自殺などの社会問題格差社会の発生は、従来の定義では経済的な「公平性」が達成されていない現象に属し、定義の上からは市場の失敗とは別の分類であるとされた。しかしアマルティア・センらの研究などにより社会的費用の拡張が試みられ失業や貧困などの社会問題が経済成長などに大きく寄与することとなると貧困などの社会問題が市場の失敗と見なされるようになっている。

環境問題として、ダイオキシンアスベストのほか、身近なものとして騒音大気汚染水質汚濁・廃棄物の不法投棄などがある[9]。こうした環境問題は、環境を悪化させた当事者が社会全体のコストを負担せずに済むという「外部性」が存在するため、汚染した当事者が「出し得」となり、環境を改善させようとするインセンティブが働きにくい[9]。これは市場の失敗の典型例であり、市場に任せていては解決が困難な問題の典型例である[9]

識者の見解編集

市場の失敗について、西部邁(評論家)は次のように述べている。「市場経済そのものが「失敗」の危険にさらされている。「不確実性」、「大規模生産の有利性」そして「公共財の存在」という条件があれば、それらの条件は遍在している市場競争は効率的たりえず、その意味でいわゆるマーケット・フェイリュア(市場の失敗)は必然なのである。」[10]

また市場の失敗の原因について、西部は次のように述べている。「市場経済そのものは人類史における偉大な発明品の一つである。それに対立するものとしての計画経済は、とくに情報の生産・交換・消費の効率において、市場経済にはるかに遅れをとっている。しかし、すでに指摘したように、マーケット・フェイリュア(市場の失敗)もまた遍在している。通常に指摘されているその失敗因はおおよそ三つであって、第一に「将来の不確実性が強い場合」、第二に「規模の経済(つまり大規模生産の効率性)が大きい場合」、そして第三に「公共財(つまり人々が集合的に消費する財)が重きをなす場合」に市場経済は効率的たりえない。第四の要因として「市場の均衡が不安定な場合」も挙げられるが、それは以上の三つの場合から派生した結果であることが多い。」[11]

経済学者の大竹文雄は「サブプライム問題は、市場の失敗の一例であり、情報の非対称性の問題である」と指摘している[12]

経済学者の中谷巌は「市場メカニズムが果たしている役割の本質、効率的な資源配分の意味、所得分配の決まり方、人々にインセンティブを与えている機能などの市場の利点を充分理解しないで、市場の欠点だけをあげつらうと『政府にすべて介入してもらおう』という間違った方向に関心がいってしまう可能性がある」と指摘している[13]

経済学者のゲーリー・ベッカーは「市場は決して完璧なものではなく、それは世界的に深刻化する公害に歯止めをかけられない点からも明白である。(ただし)中央政府による計画経済などの選択肢に比べれば、多くの状況においてはまだ機能する。正しくは、それ以上でもそれ以下でもない」と指摘している[14]

経済学者の岩田規久男は「市場とは資源配分・所得分配を決める手段であって、規制・ルールのあり方によってその性能は良くも悪くもなる。性能に問題が生じた場合は原因を追究し、規制・ルールを変えることが重要である」と指摘している[15]

大竹文雄は「市場の失敗は、完全に解決することはできない。規制はきちんと働くように監視するコストがかかる。様々なトレードオフを考え、社会の仕組みを考えていくしかない」と指摘している[16]

「市場の失敗に対策を立てた場合、市場に任せておけば効率的な資源配分が達成される」という「厚生経済学の基本定理」という命題がある[3]。八田達夫は「このときの効率的な資源配分が達成されている状況とは、誰かの生活水準を引き上げるために、ほかの誰かの生活水準を引き下げざるをえないという状況を指す」と指摘している[3]。また八田は「誰かの生活水準を引き下げずに、ほかの誰かの生活水準を引き上げることができるなら、それは無駄のある、非効率的な状況だったと言える」と指摘している[3]

政府の役割編集

政府の役割の一つは、市場メカニズムが働かない分野、つまり市場の失敗を是正することである[17]。政府は、市場の失敗を補うために公共財を供給したり、独占企業を規制したりし、市場の失敗に対応する[18]。またもう一つの役割として所得の再配分がある[19]

政府は、麻薬の取り締まりや[20]、国防・警察・義務教育・国立病院などの公共サービスの提供・拡充を行う[21]。警察・検察・司法制度は自発的な交換ルールを破ったものに対してペナルティを科すための制度であり[22]、医師の資格免許制度は不適切な医療行為から患者を守るための制度であり[22]、弁護士・税理士・会計士の国家資格制度は情報の非対称性を原因とする被害から人々の守る制度であり[23]、銀行業の開業に対する許可制度は人々の預金の安全性維持するための制度である[23]

政府は、外部経済がある場合は、そのような社会によい影響を与える活動をより増やそうとし、一方で外部不経済がある場合は、そのような社会に悪い影響を与える活動を制限しようとする[24]。外部経済に対しては、公園・都市計画をつくったり、補助金をつけたりするなどの手段を用い、外部不経済に対しては、規制を設けて禁止したり、徴税を行うなどの手段を用いて、外部経済を増やし外部不経済を減らすように努める[24]。独占企業によって自由な競争が阻害される場合(価格の釣り上げなど)、独占を禁止したり(独占禁止法)、価格の制限を行う[17]

経済学者の竹中平蔵は「民間企業の活動は市場ルールに基づいて行われるべきであるが、市場ルールの違反を取り締まるのは政府の役割である」と指摘している[25]

経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは「政府と市場は相互で補いあう同士である。市場に任せっきりにせずバランスをとるべきである」と指摘している[26]

経済学者の田中秀臣は「政府自身が必ずしも『完全な情報』を所有しているとは限らない」と指摘している[27]

竹中は「ミルトン・フリードマンは市場が失敗することもありうるが、政府も失敗する。市場の失敗は、不景気やインフレをもたらす程度で済むが、政府の失敗ははるかに大きな犠牲をもたらすと主張している」と指摘している[28]

八田達夫は「政府の失敗がある場合にも、政府は介入する必要がある」と指摘している[3]

脚注編集

  1. ^ 野口旭 『ゼロからわかる経済の基礎』 講談社〈講談社現代新書〉、2002年、156-157頁。
  2. ^ 日本経済新聞社編 『やさしい経済学』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、112頁。
  3. a b c d e 政治家と官僚の役割分担RIETI 2010年12月7日
  4. ^ 飯田泰之 『世界一シンプルな経済入門 経済は損得で理解しろ! 日頃の疑問からデフレまで』 エンターブレイン、2010年、113頁。
  5. a b 伊藤元重 『はじめての経済学〈上〉』 日本経済新聞社〈日経文庫〉、2004年、145頁。
  6. a b c 田中秀臣 『日本型サラリーマンは復活する』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2002年、147頁。
  7. ^ 伊藤元重 『はじめての経済学〈上〉』 日本経済新聞社〈日経文庫〉、2004年、148頁。
  8. a b 伊藤元重 『はじめての経済学〈下〉』 日本経済新聞社〈日経文庫〉、2004年、17頁。
  9. a b c 三菱総合研究所編 『最新キーワードでわかる!日本経済入門』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2008年、81頁。
  10. ^ 西部邁 『虚無の構造』 中央公論新社〈中公文庫〉、2013年、144頁。
  11. ^ 西部邁 『虚無の構造』 中央公論新社〈中公文庫〉、2013年、204頁。
  12. ^ 大竹文雄 『競争と公平感-市場経済の本当のメリット』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年、65頁。
  13. ^ 中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、175頁。
  14. ^ ノーベル賞経済学者 ゲーリー・ベッカー自殺の経済学を手がけた真意市場万能論が看過する社会を動かす“生身の人間”の行動 2007年2月10日号掲載ダイヤモンド・オンライン 2010年2月2日
  15. ^ 岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、41頁。
  16. ^ 大竹文雄 『競争と公平感-市場経済の本当のメリット』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年、67頁。
  17. a b 中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、184頁。
  18. ^ 中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、185頁。
  19. ^ 中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、186頁。
  20. ^ 中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、180頁。
  21. ^ 中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、181頁。
  22. a b 岩田規久男 『経済学的思考のすすめ』 筑摩書房、2011年、136頁。
  23. a b 岩田規久男 『経済学的思考のすすめ』 筑摩書房、2011年、136頁。
  24. a b 中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、183頁。
  25. ^ 竹中平蔵 『あしたの経済学』 幻冬舎、2003年、132頁。
  26. ^ 中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、210頁。
  27. ^ 田中秀臣 『日本型サラリーマンは復活する』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2002年、201頁。
  28. ^ 竹中平蔵 『経済古典は役に立つ』 光文社〈光文社新書〉、2010年、184頁。

関連項目編集

外部リンク編集


安倍首相は
「消費税を8%に引き上げたら景気が冷え込んだ。上げなければ、税収は今頃もっと増えていただろう」
と、半ば悔やむように語っている。


消費税率の再引き上げは見送るべきだし、その後も引き上げるべきではない。

むしろ、5%に戻したり、0%にして消費税をなくす方が良い。

なぜ8%に引き上げる前に予測できなかったのか?!


平成9年(1997年)に消費税率を3%から5%に引き上げた橋本龍太郎も後悔して謝罪したのに、安倍晋三には学習能力がないのか?

★橋本龍太郎(責任者)の謝罪
「私は97年から98年にかけて緊縮財政をやり、国民に迷惑をかけた。私の友人も自殺した。本当に国民に申し訳なかった。これを深くお詫びしたい」
(自民党総裁選 2001年4月)


カナダは、1991年に消費税(商品サービス税=GST)7%を導入したが、
景気の減速を懸念して消費税率の引き下げを実行し、2006年に消費税率を6%に引き下げ、さらに2008年に5%に引き下げた。
その結果、カナダのGDPが増大し、全体の税収も増加している。
カナダは消費税率を引き下げたが、それ以上に経済成長による自然増収が上回ったのだ。

日本がどんどん消費税率を引き上げてGDPを減少させ、全体の税収も減少させているのとは正反対だ。 


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