月曜日, 12月 25, 2017

ジョン・ケージと鈴木大拙

ジョン・ケージ初来日(1962)~鈴木大拙との会話
http://blog.goo.ne.jp/hirochan1990/e/d4a65ba9f6db638c74436e6215d47a14
【来日したジョン・ケージが鈴木大拙と交わした珍問答】

ケージ コロンビア大学時代(中略)先生の講義の中で、忘れられない言葉は、「山は山で
ある。春は春である」という、あの名句です。私は、そのとき、「音は音である」と霊感の
ように思ったんです。(中略)

鈴木 私はケージさんたちの現代音楽というものは、よくわからないのだけれど、現代音楽
というものは、非常に知的なものだということをいう人があるが―。

ケージ 現代音楽の中には、たしかに、そういうものもあります。

鈴木 ものもありますというと、そうじゃないものもあるわけですか。

ケージ 僕なんかは、それがあんまり、知的なものにならないように、一生懸命努力して
いるのです。知的なものじゃつまらない。

鈴木 なるほど。

ケージ 僕たちは、音は、ただ音であるようにしたいと思っています。

(芸術新潮1962年11月号「前衛音楽の発想と展開」より)


鈴木はケージに永平寺の暁の行事(午前3時の勤行)を音楽的に賞賛し、鑑賞を薦めている。


参考:

4分33秒』(よんぷんさんじゅうさんびょう、4'33")は、ジョン・ケージが1952年に作曲した曲の通称である。…

1950年代初頭にケージが創始した偶然性の音楽不確定性の音楽の最も極端な例である。

偶然性の音楽には鈴木大拙などの東洋思想の影響があり「音を音自身として解放する」

「結果をあるがままに受け入れる」という姿勢がある。

John Cage "Water walk"

https://youtu.be/gXOIkT1-QWY?t=41s
NHK永平寺



サイレンス──鈴木大拙、ジョン・ケージ、そして22世紀へ

連載: OCHANOMA Pre-View

掲載: 2012年08月17日 21:29

ソース: intoxicate vol.99(2012年8月20日発行号)

文/柿沼敏江

鈴木大拙、ジョン・ケージ、そして22世紀へ

John Cage and Daisetz Teitaro Suzuki (Japan, 1962)
Photographer: Yasuhiro Yoshioka
Courtesy of the John Cage Trust

インドから東アジアへ

ジョン・ケージ(1912-1982)と東洋思想の関わりは1940年代にニューヨークで出会ったインド の音楽家、ギタ・サラバイとの関わりに始まる。日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチの紹介によって、二人は知り合いになり、たがいに西洋音楽とインド音 楽を教えあう仲になった。インドの思想をよりよく知るためにケージはアーナンダ・クーマラスワミの著書『シヴァ神の踊り』や『芸術における自然の変容』な どを読んだ。またサラバイはインドに帰国するときに『シュリ・ラーマクリシュナの福音』をプレゼントしてくれた。こうした関わりを通じてインドの思想は ケージの音楽を大きく変え、《ソナタとインターリュード》《四季》《4部の弦楽四重奏曲》といった重要な作品を生むことになった。しかしその後、ケージの 関心は南アジアからさらに東アジアへと移っていき、その音楽は一層大きな変貌を遂げることになる。そのきわめて重要なきっかけとなったのが、仏教学者、鈴 木大拙(1870-1966)のコロンビア大学における講義であり、その教えであった。

石川県金沢市に生まれた鈴木大拙(本名は貞太郎)は、僧侶のような風貌をたたえてはいるものの、僧籍には入ったことのない宗教哲学者である。新制の第4中 学校では西田幾多郎と同級だったが、家計の都合で中学を途中退学し、小学校の英語教師となった。その後上京し、東京専門学校(現在の早稲田大学)、そして 東京帝国大学哲学科に入学。在学中に鎌倉の円覚寺で禅を学び、管長の釋宋演老師から「大拙」という道号を受けた。1897年、中国古典の英訳の助手として 渡米し、仏教書の英訳を行なって注目される。1909年に帰国した後、学習院大学教授に就任し、アメリカ人女性ビアトリス・アースキン・レーンと結婚。 1921年に京都の真宗大谷大学教授となり、英語の仏教雑誌などを創刊し、また海外各地の大学などで東洋思想を講義するようになった。ZENという横文字 を最初に用い、広めたのは大拙であった。

『鈴木大拙全集』の年譜によると、コロンビア大学との関わりは1951年に始まり、まずは「特別講義」と いう形で行なわれた。だが、1952年になると、通常の講義となり、週2回1時間ずつの講義として、2月5日から行なわれるようになった。ケージが出席し たのは、時期的にいって、このときからだと思われる。
ケージがこの講義から受けた影響は、ただ禅や仏教思想に関わるだけでなく、それ以上に大きな広がりをもつものであった。それはただケージの音楽を変

えただけでなく、その後生涯にわたってこの作曲家に影響を与え続けることになった。表現のあり方について 言えば、ケージは初期の作品ではときどき何かを「言う」ことに成功したこともあったが、「インドを発見して」、言うことが変わってきたと言う。そして「中 国と日本を発見」したときに、「何かを言うという行為自体が変わり」、「私は何も言わなくなった。沈黙したんです」と明確に述べている(『小鳥たちのため に』)。「私には言うべきことが何もない、と言いながらそう言っている」とはケージが好んで言うフレーズであるが、それはこの大拙との出会いから生まれて いるとも言えよう。

コロンビア大学での大拙の講義は、1952年から1957年まで、ときにはセミナーという形で、毎年行な われた。ケージはそのうち3年間にわたって出席したと述べているが、どのくらいの頻度で講義を聞いたのかは分かっていない。講義の内容は「華厳哲学」「禅 の哲学と宗教」「菩提達磨とその著述」などであったらしい。シルヴァーマンのケージの伝記によると、大拙は風呂敷に包んだ本を持って教室に入ってきて、 ゆっくりと静かに話した。講義が始まっても10分くらい何も言わないこともあったが、その沈黙で学生たちが苛立つことはなかった。ケージはそのかわりに 「クエイカー教徒の集会でも経験できないような美しい静けさ」を体験したという。

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4分33秒』(よんぷんさんじゅうさんびょう、4'33")は、ジョン・ケージが1952年に作曲した曲の通称である。ピアニストによる演奏が多くみられることから、ピアノ曲として取り上げられることが多い。正規の楽曲名と演奏形態については後述する。

目次

概要編集

音楽は音を鳴らすものという常識を覆す「無音」の音楽である。楽譜には次のように記されており、左側が原語、右側は日本語訳である。


I
TACET
II
TACET
III
TACET

第1楽章
休み
第2楽章
休み
第3楽章
休み

楽章を通して休止することを表すtacet[1]が全楽章で指示されており、演奏者は舞台に出場してから楽章の区切りを示すこと以外は楽器とともに何もせずに過ごし、一定の時間が経過したら退場する。

3楽章から成り、用いる楽器の選択と各楽章の所要時間は演奏者の裁量に委ねられており重奏オーケストラも可能で、合計所要時間をこの曲の曲名としている。1952年8月にニューヨーク州ウッドストックで、ピアニストデイヴィッド・チューダーが第1楽章を33秒、第2楽章を2分40秒、第3楽章を1分20秒で初演した合計時間4分33秒が曲名の通称となっている。初演後も稀にコンサートで「演奏」され、数種類の無音のコンパクトディスクも存在する。

「4分33秒=273秒」から本作品を「絶対零度(-273℃)=無」とする意見も散見されるが、ケージ自身の弁ではない[2]。「無」を聴くより、演奏会場内外のさまざまな雑音、鳥の声、木々の揺れる音、会場のざわめきなどを聴くものとされている。

背景編集

1950年代初頭にケージが創始した偶然性の音楽不確定性の音楽の最も極端な例である。偶然性の音楽には鈴木大拙などの東洋思想の影響があり「音を音自身として解放する」「結果をあるがままに受け入れる」という姿勢がある。



ジョン・ケージ初来日(1962)~鈴木大拙との会話
http://blog.goo.ne.jp/hirochan1990/e/d4a65ba9f6db638c74436e6215d47a14
【来日したジョン・ケージが鈴木大拙と交わした珍問答】1962年 東慶寺

ケージ コロンビア大学時代(中略)先生の講義の中で、忘れられない言葉は、「山は山で
ある。春は春である」という、あの名句です。私は、そのとき、「音は音である」と霊感の
ように思ったんです。(中略)
鈴木 私はケージさんたちの現代音楽というものは、よくわからないのだけれど、現代音楽
というものは、非常に知的なものだということをいう人があるが―。
ケージ 現代音楽の中には、たしかに、そういうものもあります。
鈴木 ものもありますというと、そうじゃないものもあるわけですか。
ケージ 僕なんかは、それがあんまり、知的なものにならないように、一生懸命努力して
いるのです。知的なものじゃつまらない。
鈴木 なるほど。
ケージ 僕たちは、音は、ただ音であるようにしたいと思っています。
(芸術新潮1962年11月号「前衛音楽の発想と展開」より)

http://tower.jp/article/series/2012/08/20/silence
http://tower.jp/article/series/2012/08/20/%7E/media/2A187F16FF78474596F627FDBC7AFCD6.jpg


参考:
https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E5%88%8633%E7%A7%92
『4分33秒』(よんぷんさんじゅうさんびょう、4'33")は、ジョン・ケージが1952年に作曲した曲の通称である。…

John Cage "Water walk"
https://youtu.be/gXOIkT1-QWY?t=41s

鈴木はケージに永平寺の暁の行事(午前3時の勤行)を音楽的に賞賛し、鑑賞を薦めている。

NHK永平寺
https://youtu.be/MOHHS8rG8TQ?t=26m20s


五木寛之の 百寺巡礼  永平寺

「五観の偈(ごかんのげ)」

※食事前に全員で唱えます。

一には、功の多少を計り、彼の来所を量る (感謝)
二には、己が徳行の全欠とはかって供に応ず (反省)
三には、心を防ぎ過(とが)を離るることは、貧等(とんとう)を宗とす (修養)
四には、まさに良薬をこととするは、形枯(ぎょうこ)を療ぜんがためなり (目的)
五には、成道のための故に、いまこの食を受く (理想)

①私たちと平等の命をいただく
②今頂く命を食べるだけのことをしたか?
③三毒(むさぼり、いかり、おろかさ)をおさえ、修行の心をもって頂く
④健康と保つための良薬として、この食事を頂く。
⑤私の煩悩を満たすためでなく、天地のまことの道理を実践、究めるめに、この食事を頂きます。


道元禅師と『典座教訓』 – 典座ネット
http://tenzo.net/kokoro1/


永平寺 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/永平寺

永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ 日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋( 久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山(1244年)は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀 如来の三世仏である。 目次. [非表示]. 1 歴史. 1.1 道元の求法; 1.2 越前下向; 1.3 道元 以降. 2 伽藍; 3 歴代貫首; 4 文化財. 4.1 国宝; 4.2 重要文化財; 4.3 福井県指定有形 文化財. 5 交通; 6 門前再構築事業と宿泊施設; 7 関連項目; 8 脚注; 9 参考文献; 10 外部リンク ...

曹洞宗-總持寺-道元-永平寺町の歴史


http://www.asahi-net.or.jp/~VS6H-OOND/k.html


道元が入宋、修行の結果、大悟したということで、

日本に帰国したのだが、

弟子のひとりが、道元にその悟りの内容を質問したときに


道元は、


《「眼横鼻直(何故、顔の上に眼が横についており、鼻がまっすぐに通っているのか)」

がわかっただけだ》


とのみ答えた

弟子はそのあまりにもそっけない答えに、

困惑し、煙にまかれる思いがして、唖然とした…



眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず。|夢中説夢

https://ameblo.jp/70702/entry-10758775101.html

只是等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず、便乃ち空手にして郷に還る。所処に一毫も仏法なし。任運に且く時を延ぶ。朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。良久して云く、三年に一閏にあい、鶏は五更に啼く。

訳)ただはからずも先師天童如浄禅師にお目にかかり、その場で目は横、鼻は縦であることがわかって、もはや人にだまされなくなった。そこでなにも携えず故郷に還ってきた。だからして、私にはいささかも仏法はない。ただなんのはからいもなく自分の思うままに時を過ごしているだけだ。見よ毎朝毎朝、朝日は東に昇るし、毎夜毎夜、月は西に沈む。雲がはれあがると山肌が現れ、雨が通り過ぎると辺りの山は低い姿を現す。結局、どうだというのだ。しばらくしていうには、三年ごとにうるう年が一回やってくるし、鶏は五更(午前四時)に啼く。

『道元禅師語録』永平広録
道元禅師語録 (講談社学術文庫)/鏡島 元隆



眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師|気功 ...

ameblo.jp/kikouhealing/entry-12210353615.html

ことを伝えればいいだけなのに、ものを伝えることで、事実が湾曲される。 ことがわかれ ばいいだけなのに、ものを理解しようとする。 道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」というのがある。 道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ「目は横に、鼻は縦についていることが わかって、空手で帰ってきた」と言った。(※これまでの人達は膨大な経典を持ち帰っ ていたのだけれど、道元禅師は経典が大切なのではないということを指し示し ...

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永平広録 - つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉 - Seesaa Wiki

seesaawiki.jp/w/turatura/d/永平広録

【定義】 日本に曹洞宗を初めて将来された道元禅師が生前に行った上堂・小参、或いは 自ら書かれた法語・頌古・偈頌などを集めた語録。全10巻。詳しくは『道元和尚広録』( 表題、内題は以下に記載)と呼ばれる。中国留学中の偈頌、道元禅師が深草に興聖寺 を開かれてから越前の大仏寺(後には永平寺に改称)に移られて、遷化される前年まで の説法を弟子達が記録・編集したものである。編年体の伝記ではないけれども、道元 禅師の一生の記録といって過言ではない。 応時応節に説かれた説法の記録 ...


スティーブ・ジョブズが影響を受けたのは鈴木俊隆(曹洞宗)の方

ただし鈴木大拙がケージに薦めた永平寺には行っている(鈴木大拙は臨済宗の方が縁が深いが)


鈴木俊隆著

"Zen Mind, Beginner's Mind "は45ヶ国語に翻訳されている(日本語訳は「禅へのいざない」)。


<スティーブ・ジョブズ氏>伝記翻訳者が明かす日本とのエピソード 「アップル製品に禅の影響」

http://seiryouzan.exblog.jp/16733526/
 [ジョブズが]もともと、禅に傾倒したのは、60~70年代のアメリカ西海岸で東洋思想の流行があって、
興味を持ったということのようだ。若気のいたりで「かじってみた」という人も多いと思うが、
彼(ジョブズ氏)はかなりまじめにやった。永平寺(福井県)に行って、出家しようとまで考え
たということは、今回(翻訳して)初めて知った。出家は、禅の師匠、知野弘文氏に止められたという。

[ジョブズの]師匠は、知野氏(改名後、乙川氏)と鈴木俊隆氏の2人。鈴木氏は彼(ジョブズ氏)が住んでい

た米カリフォルニア・ロスアルトス近郊で禅を教え、知野氏はサンフランシスコ禅センターで座禅の会をや

っていたという。彼(ジョブズ氏)は結婚式も仏式で、お経を上げた。東洋思想のなかで、なぜ禅になった

のかという経緯は分からないが、かなりの傾倒ぶりだ。禅の簡素で華美を排するところに引かれたらしい。

それは彼の製品に表れていると思う。伝記にも「シンプルにしろ」という表現が出てくる。



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