金曜日, 4月 20, 2018

内省と遡行 付論 転回のための八章──「探究」からの抄録

内省と遡行

付論 転回のための八章──「探究」からの抄録


な視点に帰着するどころか、そういう吞気な視点を叩きつぶすものとなるだろう。たとえば、価値形態を事後的に成立させる交換(等置)という行為をみよ。


 だから、人々が彼らの労働諸生産物を諸価値として相互に連関させるのは、これらの物象が、彼らにとって同等な種類の、人間的な労働のたんなる物質的外被として意義をもつからではない。その逆である。彼らは、彼らの相異なる諸労働を人間的労働として相互に等置する。彼らはそれを意識していないが、そう行うのだ。 
 だから、価値なるものの額には、それが何であるかということは書かれていない。むしろ価値が、どの労働生産物をも一つの社会的象形文字に転化する。のちに至って、ひとびとは、この象形文字の意味を解こうとし、彼ら自身の社会的産物──けだし、価値としての諸使用対象の規定は言語と同じように彼らの社会的産物である──の秘密を探ろうとする。  労働諸生産物は、それらが価値であるかぎりでは、それらの生産に支出された人間的労働のたんに物象的な表現である、という後代の科学的発見は、人類の発達史において時代を劃するものだが、しかしけっして労働の社会的性格の対象的仮象を追いはらいはしない。(「資本論」)

   相異なる生産物が等置されるのは、それらが何らかの〝共通の本質〟(同質の労働)をふくんでいるからではない。実際にそれら

付論 転回のための八章──「探究」からの抄録


資本論の引用は青木文庫版の自己改訂版


 だから、人々がじぶんの労働諸生産物を価値として相互に連関させるのは、これらの物象が、彼らにとって同等な種類の・人間的な・労働の単なる物象的外被として意義をもつからではない。その逆である。彼らは、彼らの相異なる種類の諸生産物を交換において価値として相互に等置することによって、彼らの相異なる諸労働を人間的労働として相互に等置する。彼らは、それを意識してはいないが、そうするのである。だから、価値なるものの額には、それが何であるかということは書かれていない。価値は、むしろ、どの労働生産物をも一つの社会的象形文字に転化する。〔80〕のちにいたって人々は、この象形文字の意味をとこうとし、彼らじしんの社会的産物──けだし、価値としての使用対象の規定は、言語と同じように彼らの社会的産物である──の秘密をさぐろうとする。労働諸生産物は、それらが価値であるかぎりでは、それらが価値であるかぎりでは、それらの生産に支出された人間的労働のたんに物象的な表現である、という後代の科学的発見は、人類の発達史において時代を劃するものではあるが、しかし決して、労働の社会的性格の対象的仮象をおいはらいはしない。



熊野哲学:


 資本制的生産様式が支配している社会の富はひとつの 「とほうもない商品のあつまり 」としてあらわれて 、個々の商品はその富の原基形態として現象している 。私たちの探究はそれゆえ 、商品の分析からはじめられるのである 。

 商品はさしあたり外的対象であって 、その属性によってなんらかの種類の人間の欲求を満足させる事物である 。この欲求の性質は 、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと 、ことがらをなんら変更するものではない 。ここではまた 、物件がどのようにして人間の欲求を満足させるのかも問題ではない 。つまり直接に生活手段すなわち享受の対象としてであるか 、あるいは回り道をたどって生産手段としてであるのかも 、問題とはならないのである 。 ( K . I , S . 4 9 )



 あらわれ 、現象すると訳したのはどちらも e r s c h e i n e nということば 、ごくふつうのドイツ語の動詞です 。細かいことを言うようですが 、マルクスが 「あらわれる 」という語を使って 、 「である i s t 」という表現を使用していないしだいに注意してください 。



しかも、「かれらはそれとは知らずに、それをおこなう Sie wissen das nicht, aber sie tun es」。


「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて! Jeder nach seinen Fähigkeiten, jedem nach seinen Bedürfnissen !」




熊野哲学

1:

アリストテレスがそう定義していたように(『自然学』第三巻第一章)、運動しているものにとって、可能性でありつづけることだけが、その現実的なありかたです。目標に到達し、あるいは運動が阻まれて静止するなら運

アリストテレスは『政治学』のなかでこんなことを書いています(第一巻第九章)。所有されている事物にはどれも、ふたつの有用性がある。そのふたつは、ともに事物にそくしたものでありながら、その一方は事物に固有

 もういちど、アリストテレスに立ちかえってみます。ただしこんどは、『資本論』におけるマルクス自身の引用によることにしましょう。ただ、マルクスとはやや引証の重点を変更しておきます(K. I, S. 73 f.『ニコマコス倫理学』第五巻第五章参照)。

  たとえば「五台の寝台=一軒の家」(ずいぶんちいさな家のように思えますけど)という交換がなりたっているとするなら、一定量の寝台が特定数の家屋と等値され



2:


人間には「その本質からする近さへの傾向が存している。あらゆる種類の速度の進は私たちは今日、多かれすくなかれ強いられ、それに参加させられているのだ距たっていることの克服へ駆りたてる」。資本制自体の発展にともない、空間的距離はその距たりを不均等なしかたで取りさられる。すなわち距てて遠ざけられ、また距てを遠ざけられる。この最後の引用だけ、『資本論』からのものではありません。ハイデガー『存在と時間』の一節です。



「運輸機関の発達と同時に、空間運動の速度は高められて、かくして空間的な距離が時間的に短縮される die räumliche Entfernung zeitlich verkürzt」わけです(K. II, S. 252 f.)。


3 Comments:

Blogger yoji said...

熊野哲学


アリストテレスがそう定義していたように(『自然学』第三巻第一章)、運動しているものにとって、可能性でありつづけることだけが、その現実的なありかたです。目標に到達し、あるいは運動が阻まれて静止するなら運


アリストテレスは『政治学』のなかでこんなことを書いています(第一巻第九章)。所有されている事物にはどれも、ふたつの有用性がある。そのふたつは、ともに事物にそくしたものでありながら、その一方は事物に固有

4:43 午後  
Blogger yoji said...

人間には「その本質からする近さへの傾向が存している。あらゆる種類の速度の進は私たちは今日、多かれすくなかれ強いられ、それに参加させられているのだ距たっていることの克服へ駆りたてる」。資本制自体の発展にともない、空間的距離はその距たりを不均等なしかたで取りさられる。すなわち距てて遠ざけられ、また距てを遠ざけられる。この最後の引用だけ、『資本論』からのものではありません。ハイデガー『存在と時間』の一節です。

4:45 午後  
Blogger yoji said...

「運輸機関の発達と同時に、空間運動の速度は高められて、かくして空間的な距離が時間的に短縮される die räumliche Entfernung zeitlich verkürzt」わけです(K. II, S. 252 f.)。

4:47 午後  

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