ノルマンディー地方コタンタン出身。生家は古貴族にして軍人・大地主という由緒ある家柄だったものの、フランス革命の際に主な家族や親戚の多くが処刑されたことから、リベラル思想について研究を行っていた。その後ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に記述した(後の『アメリカのデモクラシー』)。
30歳の時、家族の反対を押し切り、英国人で平民階級の3歳年上の女性メアリー・モトレーと結婚。1848年の二月革命の際には革命政府の議員となり、更に翌年にはバロー内閣の外相として対外問題の解決に尽力した。彼の政治的手腕はなかなか鮮やかなものであったが、1851年、ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)のクーデターに巻き込まれて逮捕され、政界を退くことになる。その後は著述及び研究に没頭する日々を送り、二月革命期を描いた『回想録』と『旧体制と大革命』を残し、1859年に母国フランスで肺結核のため54歳の生涯を終えた。フランスが誇る歴史家・知識人である。
[3]
- 1805年、7月29日、コタンタンの古い貴族の家に誕生。
- 1826年、6月、パリ大学で法学学士号を得る。
- 1827年、4月、ヴェルサイユ裁判所の判事修習生となる。この時ギュスターヴ・ド・ボーモンと知り合う
- 1829~1830年、フランソワ・ギゾーの歴史講義で多大な影響を受ける。
- 1831年、4月、ボーモンと共にアメリカを旅行(32年2月迄)。
- 1832年、5月、ヴェルサイユ裁判所陪席判事を辞職。
- 1833年、ボーモンと共に『合衆国における監獄制度とそのフランスへの適用について』を出版、アカデミー・フランセーズのモンティオン賞受賞
- 1835年、1月、『アメリカのデモクラシー』第一巻出版。
- 1835年、10月、メアリー・モトレーと結婚。
- 1838年、1月、道徳・政治科学アカデミー会員となる。
- 1839年、3月、バローニュ選出の下院議員となる。
- 1840年、4月、『アメリカのデモクラシー』第二巻出版。
- 1841年、12月、アカデミー・フランセーズ会員に選出される。
- 1849年、6-9月、オディロン・バロー内閣の外務大臣となる。
- 1851年、12月、クーデターにより身柄を拘束され、以後政治の世界から身を引く。
- 1856年、6月、『旧体制と大革命』出版。
- 1859年、4月26日、カンヌにて死去、5月に埋葬。
- 1893年、『回想録』出版。
思想・哲学編集トクヴィルが19世紀初頭に当時新興の民主主義国家であったアメリカ合衆国を旅して著した『アメリカの民主政治(アメリカのデモクラシー)』(De la démocratie en Amérique)は近代民主主義思想の古典であり、今もなおアメリカの歴史及び民主主義の歴史を学ぶ際には欠かせない教科書の一つとなっている。日本では福澤諭吉が紹介している。
彼は著作の中で、当時のアメリカは近代社会の最先端を突き進んでいると見なし、新時代の先駆的役割を担うことになるであろうと考えた。だが同時に、その先には経済と世論の腐敗した混乱の時代が待ち受けているとも予言している。さらに民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」だと断じ[4] 、その多数派世論を構築するのは新聞、今で言うところのマスコミではないかと考えた。現代のメディアの台頭と民主主義政治との密接な関わり合いをいち早く予想していたのである。彼は大衆世論の腐敗・混乱に伴う社会の混乱を解決するには宗教者や学識者、長老政治家などいわゆる「知識人」の存在が重要であると考えており、民主政治は大衆の教養水準や生活水準に大きく左右されることを改めて述べている。
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- 「道徳の支配なくして自由の支配を打ち立てることは出来ない。信仰なくして道徳に根を張らすことは出来ない」(『アメリカのデモクラシー』序文)
- (…)je comprends que ceux-là vont se hâter d’appeler la religion à leur aide, car ils doivent savoir qu’on ne peut établir le règne de la liberté sans celui des mœurs, ni fonder les mœurs sans les croyances(…)("De la démocratie en Amérique", Édition 1848, Introduction)。
- 「平等と専制が結合することになれば、心情と知性の一般的水準は低下の一途をたどるだろう」
- 「生きて活動し生産するものは全て、どんなに新しく見えても、新しさの背後には古い起源を有しているものである」
誤って帰せられたもの編集
- 「民主主義国家は、自分達にふさわしい政府を持つ」、"In every democracy, the people get the government they deserve."
- 正しい出典はジョゼフ・ド・メーストルの「Toute nation a le gouvernement qu'elle mérite.」(Correspondance diplomatique de Joseph de Maistre, 1811-1817. Recueillie et publiée par Albert Blanc [1])。この言葉は"Every country has the government it deserves"や"In a democracy people get the leaders they deserve."など複数の英訳がある。
- De la démocratie en Amérique、1835年-1840年
- 『自由言論』 肥塚龍訳。薔薇樓、有隣堂など7書店による共同出版[5]、1881年-1882年 ヘンリー・リーヴによる英訳版から重訳。
- 『米国の民主政治』 井伊玄太郎訳 研進社、1948年
- 『アメリカの民主々義』 杉木謙三訳 朋文社、1957年
- 『アメリカにおけるデモクラシーについて』 岩永健吉郎訳 - 『世界の名著33 フランクリン・ジェファソン・マディソン・トクヴィル ほか』に所収。中央公論社、1970年
- 『アメリカにおけるデモクラシー』 松本礼二・岩永健吉郎共訳 研究社出版、1972年、新版1983年。抜粋訳
- 『アメリカの民主政治』 井伊玄太郎訳 講談社学術文庫 全3巻[6]、1987年
- 『アメリカのデモクラシー』松本礼二訳 岩波文庫 全4巻、2005-2008年、ワイド版2015年
- Ancien Régime et la Révolution、1856年
- 『アンシァン・レジームと革命』井伊玄太郎訳、講談社学術文庫、1997年
- 旧版『アンシァン・レジームと革命』 りせい書房、1974年
- 『旧体制と大革命』小山勉訳、ちくま学芸文庫、1998年
- Alexis de Tocqueville sovenirs、1893年
- 『フランス二月革命の日々 トクヴィル回想録』喜安朗訳、岩波文庫、1988年
- 入門書
- 学術書
- 宇野重規 『デモクラシーを生きる トクヴィルにおける政治の再発見』 創文社〈現代自由学芸叢書〉、1998
- 松本礼二 『トクヴィル研究 家族・宗教・国家とデモクラシー』 東京大学出版会 、1991
- 松本礼二 『トクヴィルで考える』 みすず書房、2011
- 松本礼二、三浦信孝、宇野重規 編 『トクヴィルとデモクラシーの現在』 東京大学出版会、2009
- 2005年6月に行った生誕200年記念シンポジウム・論文集
- 河合秀和 『トックヴィルを読む』 岩波書店〈岩波セミナーブックス〉、2001
- 小山勉 『トクヴィル-民主主義の三つの学校』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2006
- 高山裕二 『トクヴィルの憂鬱』 白水社、2012
- レイモン・アロン 『社会学的思考の流れI モンテスキュー コント マルクス トックヴィル』 北川隆吉・宮島喬ほか2名訳
- 叢書ウニベルシタス・法政大学出版局、1974-第4章「トックヴィル」論考。
- フランソワ・フュレ 『フランス革命を考える』 大津真作訳、岩波書店、1989
- 新版は「岩波モダンクラシックス」、2000-第2部でトクヴィル「フランス革命論」を扱う。
- フランソワ・フュレ/モナ・オズーフ編 『フランス革命事典.7 歴史家』
- 富永茂樹ほか監訳、みすず書房〈みすずライブラリー〉、2000-トクヴィルの「革命論」を扱う。
- クラウス・オッフェ『アメリカの省察 トクヴィル・ウェーバー・アドルノ』
- 野口雅弘訳、法政大学出版局、2009-第2章「アレクシス・ド・トクヴィル、あるいは中産階級の暴政」を収録。
- 伝記
- アンドレ・ジャルダン 『トクヴィル伝』 大津真作訳、晶文社、1994-大著
- 中田豊 『二十一世紀を見抜いた男 トクヴィル物語』 現代思潮新社、2007
- ラリー・シーデントップ 『トクヴィル』 野田裕久訳、晃洋書房、2007
- レオ・ダムロッシュ 『トクヴィルが見たアメリカ 現代デモクラシーの誕生』 永井大輔・高山裕二訳、白水社、2012
4 Comments:
アーレントの大衆社会、全体主義批判が、トクヴィルの、「個人主義」(individualism)、「画一性」
(conformity)、「暴政」(despotism)についての考察にその多くを負っていることは明らかである。
彼女の思想的系譜としては、アリストテレス、カント、ニーチェ、ハイデガーなどが挙げられるが、トクヴィルの影響も決して小さくはない。
アーレントとトクヴィルの共通点はまず差異性や多様性の肯定と、画一性や多数の専制への批判にある。また絶対的真理の否定と判断力
(カントの言う、具体的個別的条件のもとに、恣意とは異なる一般性を持つ決定を行う力)の重視においても両者は共通する。
投稿者 Amehare 時刻: 12:16
アーレントとトクヴィルの相違点
ではアーレントとトクヴィルの最大の相違点は何だろうか。それは「社会」の捉え方にある。
周知のようにアーレントはギリシアのポリスに倣って、公的領域と私的領域を明確に分離する。その私的領域とは「家政」(household)
の領域であり、公的領域に比して、二義的なものである。
そこでは、生物的水準において生命の再生産を図ることが第一の目的とされるため、この領域は、生命の必然に拘束されているという点で、
「人間的意味」を持ちえない。つまり、そこには公開性と世界性が存在しないのである。他方、
公的領域とは生命の再生産から解放された自由な人間が織り成す政治的空間なのである。この私的領域の国家大への拡大がアーレントの言う
「社会」である。つまり政治と経済の境があいまいになり、
巨大な民族大の家政問題を解決するのがあたかも政治の役割であるかのような事態が出現したのである。
「経済的に組織された諸家族の集合体が一個の巨大な家族に模写されたものが、われわれのいう「社会」であり、その政治的諸形態が「国家」
と呼ばれているのである。」 そして「社会」の前提は「平等性」ではなく「同一性」(sameness)であるため、
まさに社会的なるものは政治的なるものとは敵対する。
「社会は常に単一の意見と単一の利害をもっている一つの巨大な家族のメンバーであるかのようにふるまうことを要求する。」
社会的なものが公的なものを凌駕している近代社会には、自由のための空間はなく、「顔のない支配」(non-man rule)、「活動」
の軽視、複数性の無視、単一で集合的な利害の重視、標準化と画一化の強制があるのみである。
つまりアーレントは、政治的なものから社会的なものを排除し、政治をより「純化」(purify)しようと努めているのである。
政治という営みには、その戦略的有効性や手段-目的連関性の側面を越えて、それ自体に固有の尊厳があるのであり、
同時にそれは複数の人々の自由な行為の総体なのである。この行為こそが、近代的政治機構が生み出す「規則性」(regularity)を、
その特異性と予見不可能性によって、「分裂」(disrupt)させるのである。
そのようにして彼女はトクヴィルが政治を構成する要素として考えた事柄を、ことごとく政治の外におく。
(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)
文中の引用部分は、「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳から
投稿者 Amehare 時刻: 13:02
ラベル: トクヴィル, ハンナ・アーレント, ハンナ・アーレント入門, 国家, 社会, 杉浦敏子, 政治
小林論考
http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hkg/file/8631/20110708032634/AA11439362_12_p.3%E3%80%80.pdf
2008:
89-1972a:
56)
を使って、
国民国家
(Nationalstaat)
を破壊しようとする動きである。
以上のようなユダヤ人と国家との関係は、実際には第一次世界大戦終結までには消滅する。しか
し国家と裏で密接に関係するユダヤ人という認識は、後にプロパガンダによって増幅されることに
なる
無機能な存在としてのユダヤ人
反ユダヤ主義形成の第2の視点は、無機能な存在としてのユダヤ人というものである。
1-3
本節では、
こうした無機能なイメージが形成される過程を明らかける。
アーレントは反ユダヤ主義の理由として、アレクシス· ド· トクヴィル(Alexis de Tocqueville)
が発見したフランス革命における貴族階級に対する民衆の憎悪がヒントになると指摘する(Arendt
[1951] 2008: 31-1972a : 3)。それまで、権力と富を併せ持つ貴族階級は、民衆にとって支配的ではあっ
ても、〈支配〉という社会形成の機能を持つ階級として認知されてきた。しかしフランス革命前の
貴族は支配権を失い、「明確な機能をまったく持たない富」(Arendt [1951] 2008: 32-1972a : 4)だけ
を持つ、社会的に無機能な存在として民衆は認知することになった。そしてこうした存在を堪えが
たいものとして感じる。このような社会的に無機能な存在として浮かびあがるのがユダヤ人だと
アーレントは考えた(Arendt [1951] 2008: 32-1972a : 4)。
以下では、
ユダヤ人が社会的に無機能な存在として形成される過程について簡単に整理する。
まず、アーレントが国家におけるユダヤ人の役割について述べている部分からみていく。ユダヤ
人は国家に金銭的援助をする集団としての役割を持ち、国家もそうしたユダヤ人を必要とした。国
家との関係において他の諸階級と違い、宙に浮いた存在であるユダヤ人は、相互作用に縛られる
となく国家に援助をしえた唯一の存在だった(Arendt [1951] 2008: 46-1972a : 17)。そこには国家と
ユダヤ人との相互利害関係が存在した。絶対君主制から国民国家への移行過程において国民全体を
代表しようとする国家は、それまでのどの階級からも距離を置くと同時に、各階級に与えていた
種々の特権を破棄した。そのため国家に対して財政的援助をする階級はなくなり、それを担う役割
が必要になった。その財政を担当したのが、どの階級にも属さないユダヤ人だった(Arendt [1951]
2008: 46-7-1972a : 17-8)。この財政的援助の見返りとして、国家はユダヤ人に居住地の自由など
の保護を行う (Arendt [1951] 2008: 48-1972a : 18)。こうして各地の宮廷へと散らばったユダヤ人
は独自のネットワークを持ち、ユダヤ人同士の緩やかな連帯を維持したArendt [1951] 2008: 48
9-1972a: 19)
しかし19世紀末から、他の資本家がこれまでユダヤ人が独占してきた財政的援助を担うようにな
る。すでに国家が必要とする財政援助の額は、ユダヤ人が援助できる額を大幅に超えてしまい、さ
らに国家援助の見返りの大きさに気づいた資本家たちが、こぞって国家に援助したために、ユダヤ
人はその財政的な役割を大幅に減らしていく (Arendt [1951] 2008: 63-4-1972a : 32-3)。
ユダヤ人に残ったのは、ヨーロッパに広がる独自のネットワークだった。このネットワークによっ
てユダヤ人は、「和平の仲介者」(Arendt [1951] 2008: 71-1972a : 39)の役割を担う。しかし戦争の
時代へと突入すると、その役割も失ってしまう。そして同時に国家は、「ユダヤ人を解放して他の
すべての国民と平等」(Arendt [1951] 2008: 74-1972a : 41)に扱うようになる。これはユダヤ人が特
別な任務に必要ではなくなったことを意味し、特権を失ったユダヤ人は、無用な富を持つ社会的な
機能を持たない存在として、認知されるようになるとアーレントは指摘する。
〈現代社会学
12)
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