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100分de名著 スピノザ『エチカ』https://t.co/aMLxYbt9hl pic.twitter.com/ouOZ8gZe2Y
— 地域通貨花子1 (@TiikituukaHana) April 1, 2023
463 考える名無しさん[sage] 2018/12/04(火) 11:20:12.21 ID:0
たしかコレ孤独がEinsamkeitで「二人連れの孤独」がZweisamkeitなんだが
「前はひとりぼっちだったが、今はふたりぼっちだ」と訳した人がいてうまいと思った
https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/philo/1298297727/
プルードンは『革命と教会における正義』(邦訳なし)の第八章(「良心と自由」)でスピノザの『エチカ』から、
精神の感情に対する関係に関した部分(第5部定理20備考)を引用している。
この引用部分にはネグリによって有名になった「マルチチュード」という言葉が入っているが、実は『エチカ』には
「マルチチュード」という語の用例はここにしかないのだ。以下、プルードンの引用した箇所を転載する。
「これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一
切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
1 感情の認識そのものに。
2 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
3 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(継続)
という点でまさっているその時間(継続)という点に。
4 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数(引用者注:=マルチチュード、この場合「群
衆」の意味ではない)であるということに。
5 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ、相互に連結しうるその秩序に。
しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意し
なくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われ
るのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情
に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。」
(『エチカ』第5部定理20備考より。引用は岩波文庫から)
742 :741:2014/03/27(木) 00:47:22.34 0
ネグリは「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987.9)という論考で、ここでの「マルチチュード」という言葉の用法は
『国家論』で展開される群衆論とは一見無関係だが、思考法として深く関係するのだと述べている。
プルードンのスピノザへの評価はアンビバレントなものだが、のちにネグリによって評価された部分をいち早くピ
ックアップしているのは興味深い(ちなみに『以下ヲ欠ク』という言葉は未完となったスピノザの『国家論』最
後の言葉)。
ネグリ、フーコー、ドゥルーズらがプルードンに言及していないのは、マルクス主義的言説空間の中に彼らがいた
からだろう。サルトルはプルードンに言及している。
802 :考える名無しさん:2014/04/25(金) 13:10:02.07 0
「思想」No.1080 スピノザというトラウマ
カント遺稿関連論考が個人的には一番興味深かった。
ただしこのあたりは今後ニュートンあたりと一緒に総合的に検証するべきだろう。
対ユダヤ思想、対ライプニッツ、対カント、対現代フランス思想との関係等々、スピノザ自体よりも
こうした外側から切り崩した論考が集まるのは、日本の知識人に取り付いたカント批判哲学の
無意識の適用だろう。上野修編集ならホッブズあたりとの比較がもっと集まってよかった。
具体的にはところどころにあるスピノザ批判が興味深い。
マイモニデスの影響は検討するべきだろうが、、、ライプニッツによる批判は以下(本邦初訳のはず)、
<神だけが実体であり、他の一切は神の様態ないし偶有性である、と言いたい人々の誤謬をスピ
ノザが新たに呼び覚ましたが、この主張を洞察できたのがパルメニデスだった。かれらは、奇妙
にも、第一原因だけが活動し、第二原因は、その道具、もっとはっきり言えば、第一原因の機会
であると考える。>
Leibniz:N.421.De Religione Magnorum Virorum,偉大な人々の宗教について 1686
(邦訳は「思想」No.1080,松田毅「ライプニッツのアンビバレンス」107頁より)
原文 http://www.uni-muenster.de/Leibniz/DatenVI4/VI4c1.pdf http://www.uni-muenster.de/Leibniz/bd_6_4_2009.html
<すべて無くなるものは、本性上、それが変化する実体であることが帰結し、その理由によって、
われわれはスピノザとアヴェロエスの教条に陥る。かれらは、神だけが実体ないし自然であると
考え、被造物は神の様態に他ならないとする。しかし、それが正しいなら、被造実体を無にする
変化を神にも移しおくことにならざるをえない。神も持続せず、たえず生成消滅する。それゆえ、
何も全体として存在しない。すべてが同時に無になるなら、ここからそれを修復するものもない
からである。無から無が生じ、何も自発的には生じない。>
ライプニッツ N. 209 De realitate accidentium 偶有性の実在性について 1688
(邦訳は「思想」No.1080,松田毅「ライプニッツのアンビバレンス」108頁より)
http://www.uni-muenster.de/Leibniz/DatenVI4/VI4a2.pdf http://www.uni-muenster.de/Leibniz/bd_6_4_2009.html
https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/philo/1298297727/
>>363
参考
エチカ
①より
https://video.twimg.com/ext_tw_video/1070283774590574592/pu/vid/1280x720/NM2o3gzZZtZOxunl.mp4
②より コナトゥス 変状 欲望 感情
https://video.twimg.com/ext_tw_video/1072136359614136322/pu/vid/1280x720/gQPQ5QND7qY5QGxa.mp4
トーベヤンソン
植物園
主人公のベンチ取りのライバルが
読んでいるのがスピノザ
スピノザ『エチカ』を図解すると以下になる。
1実体
/\
/無限\
/_無限定_\
________/_2a属性__\________
\知 抑制 / 小←/\→大 完全性 至福/
\ 悪/___2b様態\_____\善 /
\受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
\/ 憎しみ \努力/ 愛/ \/
/\対象/ /_\/_\ \認識/\
所産的自然/物体__欲望__観念\/ \
/ 延長\ 身体3感情/精神 /思惟 \能産的
神/______\___\/_第三種認識____\自然
\ 4理性 /
\ /
\_徳_/
\/
5自由
文字化けしているかもしれないし、妥当性に疑問があるかもしれないが、
肝心なのは私見では縦の中心線にある、「努力」、「欲望」、「徳」だ。(コナトゥスを努力ではなく傾力と訳す人もいる。)
逆にいうとコナトゥスと徳が位置づけられないと欲望もわからない。
ドゥルーズ的には思惟と延長の平行する系列が重要。
(ラカンなら欲望とそれに対応するシニフィアンが大事だというだろうが、、、)
系列がなければドゥルーズはニーチェと同じ狂気に陥っていただろう。
(ドゥルーズはシネマ2第六章「偽なるものの力能」等でニーチェのツァラトゥストラ最終章の系列的思考を賞賛する。)
ドゥルーズの欲望も、欲望する諸機械(多元論的延長)vs. 器官なき身体(一元論的思惟)
ということで実は系列化され、相対化されているのがミソ。
國分のドゥルーズ論も一応ドゥルーズの系列的思考に触れていてその点は優秀だ。
コナトゥスを定義した定理が次のものです 。
おのおのの物が自己の有 〔引用者注 :存在 〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない 。 (第三部定理七 )
文中の 「有 」という訳語より 、 「存在 」としたほうが分かりやすいでしょう 。ここで 「努力 」と訳されているのがコナトゥスで 、 「自分の存在を維持しようとする力 」のことです 。大変興味深いのは 、この定理でハッキリと述べられているように 、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが 、その物の 「本質 e s s e n t i a 」であるとスピノザが考えていることです 。
スピノザ『エチカ』を図解すると以下になる。
1実体
/\
/無限\
/_無限定_\
________/_2a属性__\________
\知 抑制 / 小←/\→大 完全性 至福/
\ 悪/___2b様態\_____\善 /
\受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
\/ 憎しみ \努力/ 愛/ \/
/\対象/ /_\/_\ \認識/\
所産的自然/物体__欲望__観念\/ \
/ 延長\ 身体3感情/精神 /思惟 \能産的
神/______\___\/_第三種認識____\自然
\ 4理性 /
\ /
\_徳_/
\/
5自由
文字化けしているかもしれないが、肝心なのは私見では縦の中心線にある、「努力」、「欲望」、「徳」だ。
(コナトゥスを努力ではなく傾力と訳す人もいる。内在する力というイメージがなくなるからいい訳語ではない)
逆にいうとコナトゥスと徳が位置づけられないと欲望もわからない。
ドゥルーズ的には思惟と延長の平行する系列が重要。
(ラカンなら欲望とそれに対応するシニフィアンが大事だというだろうが、、、)
系列がなければドゥルーズはニーチェと同じ狂気に陥っていただろう。
(ドゥルーズはシネマ2第六章「偽なるものの力能」等でニーチェのツァラトゥストラ最終章の系列的思考を賞賛する。)
ドゥルーズの欲望も、欲望する諸機械(多元論的延長)vs. 器官なき身体(一元論的思惟)
ということで実は系列化され、相対化されているのがミソ。
國分のドゥルーズ論も一応ドゥルーズの系列的思考に触れていてその点は優秀だ。
以下は國分NHテキストより
コナトゥスを定義した定理が次のものです 。
おのおのの物が自己の有 〔引用者注 :存在 〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない 。
(第三部定理七 )
文中の 「有 」という訳語より 、 「存在 」としたほうが分かりやすいでしょう 。ここで 「努力 」と訳されているの
がコナトゥスで 、 「自分の存在を維持しようとする力 」のことです 。大変興味深いのは 、この定理でハッキリと
述べられているように 、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが 、その物の 「本質 e s s e n t i a 」であると
スピノザが考えていることです 。
スピノザ『エチカ』を図解すると以下になる。
1実体
/\
/無限\
/_無限定_\
________/_2a属性__\________
\知 抑制 / 小←/\→大 完全性 至福/
\ 悪/___2b様態\_____\善 /
\受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
\/ 憎しみ \努力/ 愛/ \/
/\対象/ /_\/_\ \認識/\
所産的自然/物体__欲望__観念\/ \
/ 延長\ 身体3感情/精神 /思惟 \能産的
神/______\___\/_第三種認識____\自然
\ 4理性 /
\ /
\_徳_/
\/
5自由
文字化けしているかもしれないが、肝心なのは私見では縦の中心線にある、「努力」、「欲望」、「徳」だ。
(コナトゥスを努力ではなく傾力と訳す人もいる。内在する力というイメージがなくなるからいい訳語ではない)
逆にいうとコナトゥスと徳が位置づけられないと欲望もわからない。
ドゥルーズ的には思惟と延長の平行する系列が重要。
國分のドゥルーズ論も一応ドゥルーズの系列的思考に触れていてその点は優秀だ。
以下は國分NHKテキストより
コナトゥスを定義した定理が次のものです 。
おのおのの物が自己の有 〔引用者注 :存在 〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない 。
(第三部定理七 )
文中の 「有 」という訳語より 、 「存在 」としたほうが分かりやすいでしょう 。ここで 「努力 」と訳されているの
がコナトゥスで 、 「自分の存在を維持しようとする力 」のことです 。大変興味深いのは 、この定理でハッキリと
述べられているように 、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが 、その物の 「本質 e s s e n t i a 」であると
スピノザが考えていることです 。
スピノザ『エチカ』を図解すると以下になる。
1実体
/\
/無限\
/_無限定_\
________/_2a属性__\________
\知 抑制 / 小←/\→大 完全性 至福/
\ 悪/___2b様態\_____\善 /
\受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
\/ 憎しみ \努力/ 愛/ \/
/\対象/ /_\/_\ \認識/\
所産的自然/物体__欲望__観念\/ \
/ 延長\ 身体3感情/精神 /思惟 \能産的
神/______\___\/_第三種認識____\自然
\ 4理性 /
\ /
\_徳_/
\/
5自由
文字化けしているかもしれないが、肝心なのは私見では縦の中心線にある、「努力」、「欲望」、「徳」だ。
(コナトゥスを努力ではなく傾力と訳す人もいるが、内在する力というイメージがなくなるからいい訳語ではない)
逆にいうとコナトゥスと徳が位置づけられないと欲望もわからない。
ドゥルーズ的には思惟と延長の平行する系列が重要。
國分のドゥルーズ論も一応ドゥルーズの系列的思考に触れていてその点は優秀だ。
以下は國分NHKテキストより
《コナトゥスを定義した定理が次のものです 。
おのおのの物が自己の有 〔引用者注 :存在 〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない 。
(第三部定理七 )
文中の 「有 」という訳語より 、 「存在 」としたほうが分かりやすいでしょう 。ここで 「努力 」と訳されているの
がコナトゥスで 、 「自分の存在を維持しようとする力 」のことです 。大変興味深いのは 、この定理でハッキリと
述べられているように 、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが 、その物の 「本質 e s s e n t i a 」であると
スピノザが考えていることです 。》
スピノザ『エチカ』を図解すると以下になる。
1実体
/\
/無限\
/_無限定_\
________/_2a属性__\________
\知 抑制 / 小←/\→大 完全性 至福/
\ 悪/___2b様態\_____\善 /
\受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
\/ 憎しみ \努力/ 愛/ \/
/\対象/ /_\/_\ \認識/\
所産的自然/物体__欲望__観念\/ \
/ 延長\ 身体3感情/精神 /思惟 \能産的
神/______\___\/_第三種認識____\自然
\ 4理性 /
\ /
\_徳_/
\/
5自由
文字化けしているかもしれないが、肝心なのは私見では縦の中心線にある、「努力」、「欲望」、「徳」だ。
(コナトゥスを努力ではなく傾力と訳す人もいるが、内在する力というイメージがなくなるからいい訳語ではない)
逆にいうとコナトゥスと徳が位置づけられないと欲望もわからない。法学でいう自然権とも関わる。
ドゥルーズ的には思惟と延長の平行する系列が重要。
國分のドゥルーズ論も一応ドゥルーズの系列的思考に触れていてその点は優秀だ。
以下は國分NHKテキストより
《コナトゥスを定義した定理が次のものです 。
おのおのの物が自己の有 〔引用者注 :存在 〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない 。
(第三部定理七 )
文中の 「有 」という訳語より 、 「存在 」としたほうが分かりやすいでしょう 。ここで 「努力 」と訳されているの
がコナトゥスで 、 「自分の存在を維持しようとする力 」のことです 。大変興味深いのは 、この定理でハッキリと
述べられているように 、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが 、その物の 「本質 e s s e n t i a 」であると
スピノザが考えていることです 。》
ちくま新書
自己を精錬する証明ただ 、問題は三つ目の証明があることです 。しかもそれは先の二つとは全く観点の異なるア ・プリオリと呼ばれる証明であり 、 『省察 』ですと 、 「再び神について 」と題された第五省察に現れます 。もちろん読者としては 、なぜ既に存在を証明しているのに 、 「再び 」証明しなければならないのか気になります 。第五省察のタイトルはそのような読者の感想を先取りしているかのようです 。そのア ・プリオリな証明とは 「神の存在は 、単に神の本性を考察するだけで認識される 」というものです 。拍子抜けしてしまうような証明ですが 、これはライプニッツによって三段論法として定式化された ─ ─そしてまた後にカントによってその無効を宣告された ─ ─存在論的証明と呼ばれるものに似ています 。ライプニッツの定式とは次のようなものです 。神の観念はすべての完全性を含んでいる 。ところで実在は完全性の一つである 。したがって神は実在する 。さて 、神の本性を考察すれば 、そこにすべての完全性が備わっていることが分かるという風に理解するならば 、デカルトのア ・プリオリな証明はこの存在論的証明の一例ということになるかもしれません 。しかし 、実際にデカルトのテキストを見ていくと 、ライプニッツの定式とは微妙に 、しかし決定的に異なる点のあることが見えてきます 。その点を明確に指摘した持田辰郎の論文 、 「デカルトにおける神の観念の精錬と 、神の実在のア ・プリオリな証明 」 ( 『現代デカルト論集 Ⅲ ─ ─日本篇 』勁草書房 )を参照しながらこの点を検討していきましょう 。持田はデカルトの提示したア ・プリオリな証明にはライプニッツの定式には見られない 「神の何たるかを充分精密に探究した後は 」という条件が付されていることに注目します 。これは三段論法という論理にとっては不要です 。論理的には不純な要素と言えるでしょう 。しかし 、実はデカルトにとってはこの要素こそが決定的に重要であったのです 。どういうことでしょうか 。
─ ─たくさんの哲学者がいて 、たくさんの哲学がある 。それらをそれぞれ 、スマホやパソコンのアプリ (アプリケ ーション )として考えることができる 。ある哲学を勉強して理解すれば 、すなわち 、そのアプリをあなたたちの頭の中に入れれば 、それが動いていろいろなことを教えてくれる 。ところが 、スピノザ哲学の場合はうまくそうならない 。なぜかというと 、スピノザの場合 、 O S (オペレ ーション ・システム )が違うからだ 。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには 、思考の O S自体を入れ替えなければならない … … 。