木曜日, 12月 27, 2018

福田和也「天皇を京都へ」

インパクション, 第 118 号

前表紙
インパクト出版会, 2000

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 しかし、90年代に入ると、日本においても、天皇を語ることのない右派・保守派が登場し始めている(この辺は、天野さんと論争になったところだが)。天野さんには「そんな動きはない」といわれたが、「自由主義史観」や小林よしのりといった、新たな右派・保守派が、(少なくとも登場しつつあった時期には)、意識的に「天皇」を避けてきたのは明らかだ。一部で評判になった福田和也氏と大塚英志氏の『諸君』での対談(「天皇抜きのナショナリズム」)でも、政治機構としての天皇制評価はむしろ「戦後民主主義派」の大塚氏の方が高いくらいだ。福田氏の主張は、天皇主義右派のものというより、反共リベラル派のいう天皇の政治からの排除=文化装置としての徹底論(それを体現しているのが、「天皇を京都へ」という主張だ)に近いものだし、そもそも、おちょくりが感じられる部分以外では、「天皇陛下」ではなく、「天皇」と呼び捨てにしている。
 こうした天皇抜きのナショナリズムという新たな動きへの反応は、日本共産党系の人たちにも影響を生み出しつつあるようだ。たとえば日本共産党の路線において、日本の政治文化という面での代表的なイデオローグといってもいい渡辺治氏は、全日本教職員組合(全教)の機関誌『エデュカス』の「日の丸・君が代」特集で、こんな風にまとめている。