http://www.freeassociations.org/
①c
(以下、経済原論43頁より)
<労働力自身を商品として買入れるとき始めて資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁より)
投下労働説 支配労働説
①c
(以下、経済原論43頁より)
<労働力自身を商品として買入れるとき始めて資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁より)
投下労働価値説 支配労働価値説
A-W-G 投下労働価値
W-G-A 商品支配労働価値
ある商品の価値について考えるとき、
労賃を基準にして考えることにするとして、
その商品を作るためにかかった労賃
(直接労務費ばかりでなく、
その材料や生産に必要な道具を生産するのに要した
労賃も含む)を基準にして考えるのが
投下労働価値説。
つまり、その商品を生産するために
どれだけの労働が必要かを示すもの。
その商品の価格と労賃(時給)の比率で測るのが
支配労働価値説。
つまり、その商品と交換にどれだけの
労働を雇用(支配)できるかを示すもの。
52,63
labour commanded theory of value 支配労働説
labour embodied theory of value 投下労働説
https://www.dictjuggler.net/ecostock/?word=labour
投下の訳語に別訳あり?
employed
越村7
資本論3:5:27結び 岩波文庫7
信用制度に内在する二面的性格~~一面では、資本主義的生産のバネである他人の労働の搾取による致富を、もっとも純粋にまたもっとも巨大な賭博や詐欺の制度にまで発展させ、そして社会的富を搾取する少数者の数をますます局限するという性格、しかし他面では、新たな一生産様式への過渡形態をなすという性格、~~この二面性こそは、ローからイザーク・ペレールに至るまでの信用の主要宣伝者に、山師と予言者との愉快な混合性格を与えるものである。
河出
信用制度に内在する二面的性格、── 一面では、資本制的生産の発条、すなわち、他人の労働の搾取による致富をもっとも純粋かつ巨大な賭博=および詐欺制度に発展させ、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格、だが他面では、あらたな一生産様式への過渡形態をなすという性格、──この二面性こそは、ローよりイザク・ペレールにいたる信用の主要告知者にたいし、詐欺師で予言者だという彼らの愉快な混合性格を与えるものである。
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アイザックペレール
フランスの政治家
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アイザックペレール
アイザックpereire.tiff
Isaac Pereire著、Leon Bonnatによる。
機能
オードからのMP
5月23日 - 1869年12月27日
ピレネーオリエンタルのメンバー
1863年5月31日 - 1869年4月27日
ピレネーオリエンタル総評議員
1863 - 1867
伝記
誕生
1806年 11月 25 日 ウィキデータのデータを閲覧・編集する
ボルドー ウィキデータのデータを閲覧・編集する
死
1880年 7月 12 日 ウィキデータのデータを閲覧・編集する (73歳)
Gretz-Armainvilliers ウィキデータのデータを閲覧・編集する
国籍
フランス語 ウィキデータのデータを閲覧・編集する
活動
起業家 、 政治家 ウィキデータのデータを閲覧・編集する
家族
ペレール家族 ウィキデータのデータを閲覧・編集する
兄弟
エミール・ペレール ウィキデータのデータを閲覧・編集する
ジョイント
ファニー・ペレア( d ) ウィキデータのデータを閲覧・編集する
子供
ギュスターヴ・ペレイレ( d ) ウィキデータのデータを閲覧・編集する
その他の情報
の所有者
ChâteauPalmer、ChâteauPereire(アルマンヴィリエ) ( d ) 、ホテルChevalier ( d ) ウィキデータのデータを閲覧・編集する
区別
名誉軍団の役員 ウィキデータのデータを閲覧・編集する
墓Pereire.JPG
埋葬の眺め。
編集 - コードの 編集 - ウィキデータの編集 モデルドキュメンテーション
Isaac Pereire ( 1806年 11月 25 日 ボルドー - 1880年 7月 12 日 、 Châteaud'Armainvilliersはフランスの起業家で政治家です。
Sommaire
伝記
編集
ボルドーのブローカーおよび海事保険会社、Isaac Rodrigues Pereireの息子、および科学者、言語学者およびスピーチセラピストのJacob Rodrigue Pereireの孫であるRebeccaLopès-Fonsecaは、彼が親密に関わることになるでしょう。彼の財産と彼のすべての財務活動に。 彼は叔父のIsaac Rodrigues-Henriquesが主催するパリに引っ越しました 。
彼はリヨンの鉄道の最初の管理者の一人であり、すべての大企業によって採用されてきたタイプの鉄道義務を作成しています3 0/0。
ペルピニャン総評議員、彼は1863年6月1日にピレネーオリエンタルの単一選挙区によって立法機関の代理に選出されました。 この選挙は無効にされて、Pereireは次の12月20日に再選されます。 彼は王朝の大多数に座っています。
彼は1875年に非常に多数の株を購入したラ・リベルテの新聞に寄付したが、後に息子のギュスターヴ・ペレイレに経済問題に関する記事が掲載された。 彼は、貧困に関する最高の回顧録のために10万フランの賞金を生み出しました。 そして、彼の祖父である言語療法の前身であるJacob Rodrigue Pereireを記念して、1875年にパリで聴覚障害者のための学校を設立しました。
家族の生活
編集
アイザックは最初にレイチェル・ダ・フォンセカと結婚します。
ウジェーヌ・ペレイレ (1831-1908)、金融、起業家、 ターンのメンバー
https://fr.m.wikipedia.org/wiki/Isaac_Pereire
Isaac Pereire
homme politique français
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Isaac Pereire
Isaac pereire.tiff
Isaac Pereire par Léon Bonnat.
Fonctions
Député de l'Aude
23 mai - 27 décembre 1869
Député des Pyrénées-Orientales
31 mai 1863 - 27 avril 1869
Conseiller général des Pyrénées-Orientales
1863-1867
Biographie
Naissance
25 novembre 1806Voir et modifier les données sur Wikidata
BordeauxVoir et modifier les données sur Wikidata
Décès
12 juillet 1880Voir et modifier les données sur Wikidata (à 73 ans)
Gretz-ArmainvilliersVoir et modifier les données sur Wikidata
Nationalité
FrançaisVoir et modifier les données sur Wikidata
Activités
Entrepreneur, homme politiqueVoir et modifier les données sur Wikidata
Famille
Famille PereireVoir et modifier les données sur Wikidata
Fratrie
Émile PereireVoir et modifier les données sur Wikidata
Conjoint
Fanny Pereire (d)Voir et modifier les données sur Wikidata
Enfant
Gustave Pereire (d)Voir et modifier les données sur Wikidata
Autres informations
Propriétaire de
Château Palmer, Château Pereire (Armainvilliers) (d), Hôtel Chevalier (d)Voir et modifier les données sur Wikidata
Distinction
Officier de la Légion d'honneurVoir et modifier les données sur Wikidata
Tombe Pereire.JPG
Vue de la sépulture.
modifier - modifier le code - modifier WikidataDocumentation du modèle
Isaac Pereire (25 novembre 1806, Bordeaux - 12 juillet 1880, château d'Armainvilliers) est un entrepreneur et homme politique français.
Sommaire
Biographie
Modifier
Fils d'Isaac Rodrigues Pereire, courtier et assureur maritime à Bordeaux, et de Rebecca Lopès-Fonseca, petit-fils du savant, linguiste et orthophoniste Jacob Rodrigue Pereire, il est le frère cadet d'Émile Pereire, avec lequel il sera étroitement mêlé à sa fortune et à toutes ses opérations financières. Il s'installe à Paris, accueilli par son oncle Isaac Rodrigues-Henriques.
Il est l'un des premiers administrateurs du chemin de fer de Lyon, et crée le type des obligations de chemin de fer 3 0/0, adopté depuis par toutes les grandes compagnies.
Conseiller général de Perpign
河出
3:5:27末尾
信用制度に内在する二面的性格、~~一面では、資本制的生産の発条、すなわち、他人の労働の搾取による致富をもっとも純粋かつ巨大な賭博=および詐欺制度に発展させ、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格、だが他面では、あらたな一生産様式への過渡形態をなすという性格、~~この二面性こそは、ロー[ジョン・ローは巨大投資で失敗した政治家]よりイザク・ペレール[投資家兼政治家]にいたる信用の主要告知者にたいし、詐欺師で予言者だという彼らの愉快な混合性格を与えるものである。
岩波文庫9
ペレール Péreire, Isaac(1806-1880) Ⅶ183.
ロー Law, John of Lauriston(1671-1729) Ⅰ163,Ⅲ186,Ⅶ183,442.
佐藤茂行論考注
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31411/1/28%281%29_P207-227.pdf
以上が「一般貸借銀行」制度の概要であるが,アンファンタンによれば,けっきょくこの制度の「根本的有用性」は,無為徒食の人間の手から勤労者の手へ「資本を移動させ」うるような信用業務の中枢を形づくることにある,ということになる。そしてより具体的には,このような目的をもった一般貸借銀行へのフランス銀行の改組をかれは企図していたものと思われる。さて,この他に,より具体的な金融制度改革案として,1830年にベレーノレ兄弟によって発表された「相互保証会社」計画がある。この銀行は手形割引を目的とLたもので,その主な内容は以下のようなものであった。この銀行は500万フランの政府出資を予定しており,主要業務として2名の裏書のあるあらゆる期限付の手形を割引く。割引に際して持参入払の銀行券を発行する。利子は年率3.65%で,この他に0.5%~2%の手数料をとる。理事会は銀行家・代表的商工業者・政府の指名する個人からな2。この計画を,ただちに「一般貸借銀行Jの具体化であるとは断定はできないが,さきのァγファンタンの構想、の線上にあるひとつの提案とみることは
17)
1827-1837. Paris, 1930. p. 48. 1 n Isaac' PereirE'.. Le'}ons sur l'industrie et !es jinances, .Prononcees a la Salle de !' Athenee, par ]. Pereire, suvies d'un projet de banqlle. Paris, 1832凋pp.85-87.これは1830年9月6日の!eJ ourna! du Commerceーにのせられたものである。この改革案が1920年代に,ネオ=サンJ・ジモン主義者によって再ひ、注目されていることは興味深い。(cf.Je Producteur, t. N, no. 10, 1921. pp. 26 -28.J 18) Charlety. op. cit., p. 237-238. この段階でアンフアシタンが関
Emile and Isaac Pereire: Bankers, Socialists and ... - manchesterhive (Adobe PDF)
www.manchesterhive.com/.../9781526110954.00009.x...
Emile and Isaac Pereire set out with high ambitions and equally slender resources, Emile arriving in ...... 1830 alone.84 And while the number of industrial workers in France was still relatively small ...
1830年相互保証会社
http://www.mlit.go.jp/pri/kikanshi/pdf/pri_review_50.pdf
4)鉄道建設とアクセス道路の整備
ナポレオン3世とオスマンは、当時急速に拡大しつつあった鉄道網を、今後の公共交通の一翼を担うべきものとして位置付け、パリ改造の中に取り込んでいる。 フランスにおいては、1830年代から鉄道建設が始まっていたが、イギリスなどと比べると大きく遅れていた。しかし、1852年に、当時第2共和政の大統領であったナポレオン3世が鉄道の開発利権を最高99年(従来は40~50年)まで認める大統領令を布告したことや、政府主導で鉄道会社の合併を推進したことに加え、資金調達の面でもサン・シモン主義者であるペレール兄弟がナポレオン3世の後押しで、同年、同国で初めて本格的に長期信用を供与し、産業金融を行うクレディ・モビリエ(動産銀行)を設立し、資金供給を行うようになると、鉄道建設は急激に拡大した。鉄道会社による鉄道敷設距離は1852年には3,870kmであったが、わずか8年後の1860年には9,500kmにも及び、1850年代は鉄道の黄金期とも呼ばれている。そして、1870年にはさらに17,000kmにまで延長されている。 第2帝政期に建設されたこれらの路線はパリを起終点とする放射状の鉄道網が中心であったが、当時鉄道は煤煙と騒音をまき散らす迷惑施設であると考えられていたことから、鉄道駅は各方面ごとにパリの外縁部に設置された。このため、当時はアクセスが非常に不便であった北駅、東駅、サン・ラザール駅、モンパルナス駅、オステルリッツ駅、リヨン駅などとパリ中心部を結ぶ道路が新設あるいは拡幅により順次整備されていった。同時に、鉄道の駅舎も各地区の重要なモニュメントとして、景観には十分な配慮を払いながら建設された。
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ジョン・ロー
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ジョン・ロー
ジョン・ロー(仏: John Law de Lauriston, 1671年4月21日 - 1729年5月21日)は、スコットランド出身の経済思想家、実業家、財政家である。真手形主義[1] や稀少価値論 [2]を提唱した嚆矢とされる。後年にはコルベールやテュルゴー、ネッケルらが就いた財務総監に就任し、フランス(ブルボン朝、ルイ16世)初の紙幣を発行するに至った。
ホープ商会と同様にアムステルダムで金融キャリアを積んだ。
目次
経済思想
編集
ローはスコットランドの首都であったエジンバラ近郊で、金細工師・銀行家のウィリアム・ローとその妻ジャネットの第5子として出生した。1683年暮れ、12歳の時に、父親がパリで客死すると、かなりの遺産を遺した。14歳になるとファミリービジネスに加わり、銀行業を学んだ。1688年に、銀行業を放って、ロンドンに上京し、お金を湯水のように使い、賭博に手を出した。しかし、幸運が味方したのか、まもなく財産を築いた。世間からいかさま師との評判が立ったほどだった。1694年4月9日、エリザベス・ヴィリアースという貴族の娘をめぐってエドワード・ウィルソンと決闘して殺してしまい、投獄され、同年4月22日に絞首刑判決を受ける。1695年早々に友人の手引きで王座裁判所の監獄を脱獄し、指名手配される。アムステルダムへ逃れてからは、銀行家としての道を歩むことになり、パリ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどに赴き、ヨーロッパ各国の経済システムを注意深く観察し、経済思想家としても自分の思想を持った。ローは行く先々でその地の支配者に新銀行設立の建白書を提出するが拒否される。アムステルダム時代にジェームズ2世の息子ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートと知り合いになる。1705年にスコットランドに戻った後、フランスに渡る。ルイ15世の摂政であったオルレアン公爵フィリップ2世と懇意であったために、比較的に宮廷では早く出世した。ローは通貨の信用性を初めて強調し、重金主義の批判者としてフランスのジャン=バティスト・コルベール以来の経済政策を批判した。
ジョン・ローの貨幣理論は、先古典派経済学の時代の重商主義が全盛を迎えたフランス経済にパラドックスともいえる理論を提示した。王立銀行券の問題は、確かに全国土の貨幣制度を紙幣にする試みであり、ある種、夢想家[3]と思われても仕方がない。18世紀に入り、彼は独自の先駆的な貨幣理論を持ち歩いたが、いずれにしても失敗に終わっている。もっとも、ローの持つ貨幣理論には現実的な側面があった。それは兌換貨幣がもつ貨幣価値の保存において、貨幣鋳造に関連する不確実性によって多大な損失を被る可能性がある。このときリスクにバランスを保つということを考えた。
ローは、自らの貨幣理論を遂行するに当たって、金融政策のセオリーを採用している。すなわち、対外経常収支に関する禁止事項を作成し、「平価切下げ[4]」などの貨幣のハードルを高くする政策を採る。そして銀行の仲介業務を通じた信用を確保し、紙幣が物価を保証するというものである。だが、彼は大衆を良く理解しており、貨幣理論の持つ特徴である労働価値、安定性、無限時間といった性質を熟知し、「国家の利益のロジック[5]」を用いて自らの政策を説明している。
フランス政府の公債整理計画は、パニックを利用した計画性のある貨幣政策であるが、1926年の時(ルール問題に関連するフランス国内のインフレーション)のように、その一貫性がしばしば仇になった。ローは、金銀正貨が経済力を示す世界において、国内の影響を考えながら、「アンチジョンロー」を順化させる方針を採ったのである。一般銀行の王立銀行への組み入れはその第一歩であった。しかし、結局、ジョン・ローはバブル経済という事態には対応できなかったのである。
ミシシッピ会社
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ローはフランス領ルイジアナのミシシッピ開発の成功を担保とした不換紙幣の発行を主唱した。これがミシシッピ計画である。当時のフランスは極度の財政赤字であり、ローの提案する旨い話に乗ってしまい、ローに多大な権限を与えてしまう。ローの具体的な功績は管理通貨制度を実行し、フランスを金属貨幣経済から紙幣経済に移行させた点である。1716年5月2日、「バンク・ジェネラール」(一般銀行、総合銀行)を設立し、これは1718年12月に、ルイ15世の認証を受け、フランス初の中央銀行である「バンク・ロワイアル」(フランス王立銀行)に発展し、ローは同行総裁に就任する。1717年4月10日には同行の銀行券での納税を可能とし、紙幣の使用はフランス中に広まっていく。さらに、1717年9月6日に、「西方会社」を資本金1億リーブルで設立し、これは1719年5月に、東インド会社や中国会社など諸会社を統合継承し、フランスの海外貿易特権を一手に握る「インド会社」、通称「ミシシッピ会社」に改組され、ローは同社総裁に就任する。1718年にはミシシッピ川河口にニューオーリンズが建設される。しかし宣伝とは裏腹に、ミシシッピ開発は上手くいっていなかった(が、フランス国民は知らなかった)。当時、フランス国債は、既に信用を失っており、市場価格は額面価格を大きく下回っていた。ローは国債を額面価格でミシシッピ株式会社の株式に転換できるようにした。人々は争って(政府に償還義務のある)国債を(政府に償還義務の無い)株式に交換し、ローの銀行は大量の紙幣を刷って株式の配当の支払いに充てた。ミシシッピ計画は、フランス王室を巨額の債務から解放し、ルイ14世が生み出した多大な財政赤字の解消に寄与した。ミシシッピ会社株は、ミシシッピ開発が生み出す実際の価値以上の値を付けるバブルとなった。株価は一株500リーブルから10,000リーブルへと20倍に膨れ上がった。1720年5月までに、紙幣に換金可能な株と紙幣を合わせた通貨供給量は、リーブル換算で以前の4倍となり、フランス経済は空前の好景気に沸いた。1720年1月5日にローはフランスの財務総監に任命される。しかし、同年5月に取り付け騒ぎが起こると支払い能力以上の現金が引き出され、ミシシッピ会社株は暴落、バブルは崩壊し、ミシシッピ計画は破綻した。ローは同年5月29日、財務総監を辞任、同年12月20日、フランス国外へ逃亡し、イギリス(過去の殺人については赦免された)に4年間いた後、最期はヴェネツィアで亡くなった。計画の破綻はフランス大革命の遠因を作り出すこととなった。
ローの時代に間接税の徴収はミシシッピ会社が行っていた。解体されてから再び徴税請負制に戻された。1726年に国王が総請負人と契約し、年間8千万リーブル期間6年の徴税権を与えた。総請負人は株式会社をつくって国王への前貸し金800万リーブルを手形発行で調達した。前貸し金は短期公債の例にもれず累積していった。1750年の契約では徴税額8千万リーブルに対して前貸しは2000万リーブルに、1756年の契約では徴税額1.1億リーブルに対して6千万リーブルに、1768年では徴税1.32億に対し前貸し9200万となった。利幅のすさまじい原因は財政の苦しさの他、請負会社の暴力性にもあった。武装した会社は貴族やブルジョワの家宅捜査を自由に行い、脱税者を投獄する権限もあったという。この会社は革命で解体されるまで、税収の4割以上を徴収した。[6]
参考文献
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Money and trade considered, with a proposal for supplying the Nation with money', 1934
Charles Rist. 『Histoire des doctrines relatives au credit et a la monnaie:depuis John Law jusqu'a nos jours』Paris:Dalloz 2002 ISBN 1855063336
チャールズ・マッケイ著 塩野美佳・宮口尚子訳『狂気とバブル』2004年(原著は1852年)パンローリング社 ISBN 4-7759-7037-2
脚注・出典
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^ (The Real Bills Doctrine of Money)
^ (The Scarcity Theory of Value)
^ (visionnaires)
^ (dévaluation)
^ (logic au profit d'État)
^ 富田俊基 『国債の歴史 金利に凝縮された過去と未来』 東洋経済新報社 2006年 p.132.
ノート
ジョン・ロー (John Law), 1671-1729
原ページ
Google
WWW 検索 cruel.org 検索
ジョン・ローは、アルフレッド・マーシャル (1923: p.41) に言わせると「向こう見ずでバランス欠如だが、実に魅力的な天才」で、カール・マルクス (1894: p.441) が追加したように「詐欺師と予言者のおもしろい人格的な混合物」だった。博打打ち、銀行家、殺人者、王室顧問、亡命者、放蕩者、冒険家だったジョン・ローは、その独自の経済理論以外でもいろいろ有名だ。かれの一般的な名声(あるいは悪名?)は、かれがパリで行った二つのすばらしい事業からきている。Banque Générale とミシシッピー方式だ。その経済的な名声は二つの大きな発想からくる。価値の希少性理論と、通貨の真リアル手形 (real bill) ドクトリンだ。
ジョン・ロー (1705) は ダヴァンザティの「交換価値」と「利用価値」のちがいを拡張して、その有名な「水とダイヤモンド」パラドックスを導入した。つまり、利用価値の高い水は交換価値がなく、ダイヤモンドはものすごい交換価値を持つけれど、利用価値はほとんどない。でもアダム・スミス (かれは同じ例を使ったが、その説明として水とダイヤでは生産の労働コストがちがうからだ、と論じた) とはちがって、ローは財の相対的な希少性がその交換価値を作るのだ、と考えた。
ローによる貨幣の「真リアル手形 (Real Bills) ドクトリン」は、「還流原理」をマネーサプライに適用したものだった。ローの議論によれば、貨幣は信用であり、信用は「取引ニーズ」によって決まってくる。結果として、存在する貨幣の量は、黄金の輸入だの貿易収支だのによって決まるんじゃなくて (これは重商主義の議論だった)、経済への信用供給で決まる。そしてマネーサプライは (貨幣数量説とはちがって) 内生的なもので、「取引ニーズ」によって決まる。
ローの方式は、この論理に基づいて実現された。決闘のためにイギリスからヨーロッパに追放されたローは、パトロンと皇太子のオルレアン公の友情を足がかりにフランス宮廷に入り込んだ。ルイ十四世が 1715 年に新出からのフランスの財政事情はあまりにひどいもので、オルレアン公はローに助けを求めた。ローは、国営特許銀行を設立して、非兌換紙幣を発行することを提案した (その紙幣の写真は ここにある)。これが Banque Générale で、1716 年に設立された。同時期に、ローはミシシッピー会社を設立した。これは当時フランス植民地だった、北米のルイジアナを開発するための企業だった。ミシシッピー会社による「取引ニーズ」によって、非兌換紙幣の根拠を作ったわけだね。
ローの紙幣発行銀行は大成功だった――1720 年に取り付け騒ぎが起こって、フランスとヨーロッパが極度の経済危機に陥るまでは。これは後のフランス革命の舞台を整えるにあたって重要な役割を果たした。それどころか、ローの銀行方式がフランスに与えた体験はあまりに強烈だったので、ごく最近までフランスの銀行はローの不運な仕組みの記憶を呼び覚ますのを避けようとして「banque」という名前を避けたほどだ(一般に、その代わりに使われたのは「credit」だった。たとえばクレディ・リヨネー、クレディ・アグリコール、クレディ・フォンシェール、等々)。
ジョン・ローの主要著作
Considérations sur le numéraire et le commerce, 1705 (翻訳. Money and Trade Considered with a Proposal for Supplying the Nation with Money, コピー)
Mémoire pour prouver qu'une nouvelle espèce de monnaie peut être meilleure que l'or et l'argent, 1707 -コピー.
ジョン・ローに関するリソース
HET ページ: 地金主義論争, マネーへのスコットランド式アプローチ
John Law and His Système by François Velde (at Chicago)
Charles MacKay on Law's Mississippi Scheme, extracted from his Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds, 1841.
John Law Page at McMaster
John Law Page at Akamac
"John Law: Monetarist or Keynesian?", by Fraser Hosford (1998, Student Econ Review)
Antoin Murphy's new book on Law.
New Book on Law.
Another adventurer: Law's modern comicbook namesake.
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51787086.html
2012年05月02日12:26
カテゴリ経済
史上最初の経済学者にして詐欺師、ジョン・ロー
ファーガソンが解説しているように、ローマ帝国からソ連に至るまで、歴史上の大国が崩壊する最大の原因は財政破綻とインフレである(ソ連の場合は物不足という抑圧されたインフレ)。日本の江戸幕府が崩壊した原因も、各藩の財政が困窮して下級武士の生活が成り立たなくなったことだが、実物経済だったのでインフレは起こらなかった。
財政破綻でインフレが起こるのは、政府債務を返済するために中央銀行が銀行券を大量に発行するためで、現代でも国家破綻のほとんどはこのパターンだ。このしくみを発明したのがジョン・ローである。彼は史上最大の詐欺師として知られているが、「需要と供給で価格が決まる」という法則を発見した経済学の元祖であり、中央銀行や金融システムを発明した銀行家の元祖でもある。経済学者や銀行家が詐欺師に似ているのは偶然ではない。
ローはルイ15世の蔵相になり、政府債務を解消する天才的なスキームを提案した。彼は政府の債務をまかなうために王立銀行を設立して銀行券を発行させ、それを国立の西方会社(通称ミシシッピ会社)に貸し付けた。ミシシッピ会社は15億リーブルの銀行券を年3%の金利で政府に貸し、その資金を自社株の売却でまかなった。これは日銀が国債を引き受けて、その資金を日銀株でファイナンスするようなものだ。
ローはミシシッピ会社に一度も行ったことがなかったが、その事業の将来性を誇大に宣伝したので、この株式はバブルを発生させ、株価は額面の36倍になった。しかしミシシッピ会社の事業は実態がほとんどないことがわかってバブルは崩壊し、年率80%のハイパーインフレが起こった(このへんの事情は 北村行伸氏の解説にくわしい)。これによってフランスの財政は最終的に破綻し、民衆が蜂起してフランス革命を起こす原因となる。
ローの政策は、いわば史上初のリフレ政策だが、彼の最大の間違いは、貨幣が実体経済に中立ではなく、貨幣の増発で誰もが豊かになると考えたことだ。貨幣というのは本質的にバブルなので、誰もがその価値を信じていれば誰もが豊かになれるが、誰も信じなくなれば価値は失われる。それは国家の信認が失われるときでもある。
フランスと中国の王朝に共通しているのは、税率が意外に低いことだ。清の税率は5~10%で、ブルボン王朝の税率もそれぐらいだったと言われる。これは専制君主に思いやりがあるためではなく、納税者が税負担を搾取と考えて逃亡や反乱で抵抗するためだ。都市国家では軍備のために30%ぐらい課税されたが、市民は反乱を起こさなかった。負担と公共サービスの関係が明確だったからだ。
財政が行き詰まると政治家が中央銀行に通貨の増発を迫るのは、ブルボン王朝から現代の「デフレ脱却議連」に至るまで変わらない。それが最終的に破局をもたらすことも、ロゴフの示す通りだ。ただ租税反乱がアンシャン・レジームを打倒するほど大規模な「革命」になるためには、バブルとその崩壊という劇的な事件が必要だった。ローのリフレ政策は、財政危機を延期し、バブルを膨張させて、それが崩壊したとき全国民の生活が破綻する事態を作り出し、フランス革命の爆発的なエネルギーを生み出した。現代のリフレ派がそういう革命をめざしているとすれば、ローにも比肩する天才的な戦略である。
ペレール
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9A%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%85%84%E5%BC%9F-130949
ペレール兄弟(読み)ペレールきょうだい(英語表記)Frères Pereire
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
ペレール兄弟
ペレールきょうだい
Frères Pereire
(兄) ジャコブ・エミール Jacob Émile 1800.12.3. ボルドー~1875.1.6. パリ
(弟) イーザク Isaac 1806.11.25. ボルドー~1880.7.13. セーヌエマルヌ,アルマンビリエ
フランスの銀行家の兄弟。サン=シモン主義者のユダヤ人。兄弟は 1822年パリに上り,ロスチャイルド家の援助で企業の世界に入り,35年パリ-サンジェルマンアンレ間の鉄道建設に成功,続いてリヨン鉄道,南フランス鉄道の経営に着手した。 52年動産銀行を創設し (新形式の事業銀行で企業への長期貸付けを行う) ,第二帝政期の産業発展の原動力となった。 68年に閉鎖。兄弟とも立法院議員。
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世界大百科事典 第2版の解説
ペレールきょうだい【ペレール兄弟】
フランスのユダヤ系産業家・銀行家兄弟。兄エミールJacob‐Émile Péreire(1800‐75),弟イザクIsaac Péreire(1806‐80)。ともにサン・シモン主義に心酔し,1830年代初頭に《グローブ》《ナシヨナル》両紙の編集に携わった後,草創期の鉄道建設に身を投じ,ロートシルト商会とともにパリ~サン・ジェルマン鉄道,北部鉄道を建設した。第二帝政の発足とともに,ナポレオン3世の支持を得て,52年に株式投資銀行クレディ・モビリエを創設した。
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世界大百科事典内のペレール兄弟の言及
【銀行】より
…それは長期の産業金融を主要業務とする事業銀行(バンク・ダフェールbanque d’affaires)である。その原型は,1852年にポルトガル系ユダヤ人ペレール兄弟によって創設されたクレディ・モビリエである。彼らは,銀行による産業の統制をスローガンとするサン・シモン主義を思想的背景としていた。…
【クレディ・モビリエ】より
…1852年に,サン・シモン主義者として知られるユダヤ系の銀行家ペレール兄弟がパリに創設した株式投資銀行。〈動産銀行〉とも呼ばれる。…
※「ペレール兄弟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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資本論3:5:27結び 岩波文庫7より
《 信用制度に内在する二面的性格~~一面では、資本主義的生産のバネである他人の労働の搾取による致富を、
もっとも純粋にまたもっとも巨大な賭博や詐欺の制度にまで発展させ、そして社会的富を搾取する少数者の数を
ますます局限するという性格、しかし他面では、新たな一生産様式への過渡形態をなすという性格、~~この
二面性こそは、ロー*からイザーク・ペレール**に至るまでの信用の主要宣伝者に、山師と予言者との愉快な
混合性格を与えるものである。》
*
ジョン・ロー
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51787086.html
**
ペレール
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9A%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%85%84%E5%BC%9F-130949
資本論3:5:27末尾 河出書房新社より
《信用制度に内在する二面的性格、~~一面では、資本制的生産の発条、すなわち、他人の労働の搾取に
よる致富をもっとも純粋かつ巨大な賭博=および詐欺制度に発展させ、社会的富を搾取する少数者の
数をますます制限するという性格、だが他面では、あらたな一生産様式への過渡形態をなすという
性格、~~この二面性こそは、ロー*よりイザク・ペレール**にいたる信用の主要告知者にたいし、
詐欺師で予言者だという彼らの愉快な混合性格を与えるものである。》
*
ジョン・ロー
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51787086.html
**
ペレール
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9A%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%85%84%E5%BC%9F-130949
発条
岩波文庫では バネ
5つ星のうち4.0裏返しの信用論
2018年3月17日
形式: 文庫Amazonで購入
『恐慌論』岩波文庫(2010)[1953]
目次
はしがき
序論 ☆☆☆
一 典型的恐慌現象
二 恐慌論と外国貿易
三 恐慌現象における商業資本の役割
四 資本主義社会におけ恐慌の可能性と必然性
第一章 好況
一 好況期における資本の蓄積
二 信用の演ずる役割
三 投機的発展と物価騰貴 ☆
第二章 恐慌
一 利潤率と利子率との衝突
A 資本の蓄積の増進に伴う利潤率の低下
B 最好況期における利子率の昂騰
C いわゆる資本の欠乏
二 資本の過剰と人口の過剰
A 労働賃銀騰貴の限界
B 商品の過剰としての資本の過剰
C 「豊富の中の貧困」
三 資本価値の破壊
第三章 不況
一 再生産過程の停滞
二 生産方法の改善による新たなる蓄積の発足
三 好況への転換
第四章 景気循環の回転期間
第五章 資本主義社会における恐慌の必然性
一 機械的必然性と歴史的必然性 ☆☆
二 恐慌の必然性と崩壊の必然性
三 恐慌論と恐慌の分析
附 録
一 『資本論』における恐慌理論の難点
二 『資本論』における恐慌の必然的根拠の論証について
解 説(伊藤誠)
『資本論』の引用、本論では長谷部訳、付録は岩波文庫訳を採用。一箇所新日本出版社訳23頁。
『価値論』は『資本論』第1部を拡大、『恐慌論』は第3部を拡大している。『恐慌論』は『経済原論』に比べ第3部からの引用の割合が大きい。裏返しの信用論である。
『経済原論』の後は『経済政策論』(未文庫化)、そして『恐慌論』と読み進めるべきだ。
☆
116頁:
(1)いわゆるインフレーションが社会的に問題となるのは、政府が財政収入によって確保し得ない資金を紙幣その他の通貨の発行増加によって人為的に造出するとき、いわゆる通貨膨脹から生ずる物価騰貴が各種の社会層に種々異なった影響を及ぼすからであるが、好況期の信用膨脹に伴う物価騰貴にもこれをインフレーションとする場合が少なくない。両者の物価騰貴はその原因を異にするのであって混同してはならない。
☆☆
200頁:
(1)私自身はしかしマルクスがその『資本論』第一巻第一章「商品」で直ちに労働価値説を展開していることには納得し得ない疑問をもっている。
☆☆☆
23頁:
商品交換は,共同体の終わるところで,諸共同体が他. の諸共同体または他の諸共同体の諸成員と接触する点で,始まる。しかし,諸物がひとたび対外的共. 同生活で商品になれば, それらのものは反作用的に,内部的共同生活においても商品になる。
資本論翻訳委員会訳『資本論』第一巻a,新日本出版社,1997年,149頁。
多々参照されるのが、
英国恐慌史論 (1931年) ツガン=バラノフスキー
はじめて学ぶ金融論 単行本 – 2005/2/1
建部 正義 (著)届
きました マルクスの引用から始まる金融論のテキストは初めてです
「銀行は金融仲介機関ではない」「本源的預金はどこから来たのか?」など面白い記述が続きます
建部 正義 はじめて学ぶ金融論 amzn.to/2uixVJG
英国恐慌史論―新訳 (1972年) - – 古書, 1972
ツガンーバラノフスキー (著), 救仁郷 繁 (翻訳)
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エム・ツガン・バラノウスキー 著,鍵本博 訳
詳細情報
タイトル 英国恐慌史論
著者 エム・ツガン・バラノウスキー 著
著者 鍵本博 訳
著者標目 Tugan-Baranovskiĭ, Mikhail Ivanovich, 1865-1919
著者標目 鍵本, 博
出版地(国名コード) JP
出版地 東京
出版社 日本評論社
出版年月日等 1931
大きさ、容量等 467p ; 24cm
JP番号 52009897
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902321
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目次・巻号
書誌情報
目次・巻号
↓ 英国恐慌史論 [249]
・ 標題
・ 目次
・ 譯者言
・ 著者序
・ 第一篇 恐慌の歷史/1
・ 第一章 十九世紀の第二四半期以後に於ける英國產業發達の槪觀/1
・ 一、―機械對手工勞働の鬪爭及販路の缺乏―一八二〇年以前に於ける機械製織の微弱なる發展―一八三〇年乃至一八五〇年 木綿織物業に於ける機械による手工勞働の排除―鐵道と蒸汽船―農業人口の減少―工業生產の莫大なる增加―販路缺乏―自由交易運動―英國勞働者の購買力の減退/1
・ 二、―機械の勝利及新販路の開拓―自由交易の勝利―全世界に於ける鐵道の擴張―カリフオルニヤ及オーストラリヤに於ける金鑛脈の發見―商品價格の騰貴―外國貿易の增大/13
・ 三、―英國産業覇權の衰微―英國商工業發展の澁滯―價格の下落―ドイツの競爭の激化―保護貿易主義―英國輸出商品の性質の變化―英國の中繼貿易の減退/21
・ 第二章 一八二五年より一八五〇年に至るまでの諸恐慌/32
・ 英國產業動搖の一般的特徵/32
・ 一八二五年の恐慌―南米に於ける新市場の開發―南米諸國の證券投機―投機熱 新木綿工場の設立―英國資本の南米への流出―恐慌の諸原因/39
・ 一八三六年の恐慌―豐作―英國資本の合衆國への流出―國有地投機―一八三五年の金融恐慌―一八三六年の投機熱の特徵―ジヤクソン大統領の廻章―金の對外流出と對内流出との差違―一八三六年の恐慌と一八二五年の恐慌との比較/60
・ 一八三九年の金融恐慌―米國投機の影響―金の對内流出の缺如―一八四〇年以後の事業沈滯/77
・ 一八四七年の恐慌―豐作―鐵道の敷設―一八四五年の金融恐慌―一八四六年及一八四七年の凶作―輸出の減退―英國資本が外國へ流出せざりし理由―英蘭銀行の割引政策に於ける變化―穀物價格の變動―一八四四年銀行法の停止―一八四七年の恐慌とそれ以前の恐慌との差違/84
・ 第三章 一八五〇年より一八七〇年に至るまでの諸恐慌/103
・ この期に於ける英國產業變動の特性/103
・ 一八五七年の恐慌―その世界的性質 歐州資本の合衆國への流出―土地及鐵道投機―穀價の下落及破產米國投機に於ける英國資本の役割、英國の恐慌 金の國内及國外への同時的流出…ピール條例の停止/107
・ 一八六四年の金融恐慌―東洋への正貨流出、英蘭銀行の割引政策―一八六六年の信用恐慌―「棉花飢饉」が英國產業の一般狀態に及ぼせる影響―投機熱―オーヴアレンド會社の崩壞―パニツク―第三回目のピール條例停止―一八六六年の恐慌と他の諸恐慌との比較―產業恐慌が通常秋に起る理由/125
・ 第四章 十九世紀末數十年間に於ける週期的產業變動/141
・ 第五章 最近十年間に於ける英國產業の週期的變動/173
・ 第二篇 恐慌の理論/187
・ 第一章 販路の理論/187
・ 一、社會的資本の流通 資本が表示する各種の形式―商品、貨幣、生產―販路の問題/187
・ 二、古典的販路理論―セーの見解―社會的生產の價値の社會的所得諸要素への分解に關するスミスの命題―資本の蓄積に關するスミス及リカードの理論/193
・ 三、シスモンデイの販路理論―生產過剩―外國市場―マルクス及その一派の見解―シスモンデイの理論の長所及短所/198
・ 四、販路の問題の解決―社會經濟全體を硏究する方法、ケネー、マルクス―社會的資本の再生產の表式―資本の蓄積―資本主義的生產の矛盾―資本主義の桎梏/203
・ 五、事實によるこの理論の立證―消費物生產に從事する人口の減少―資本主義諸國に於ける國内及外國市場/221
・ 六、資本の國際的移動及新資本主義國に於ける市場―資本の國際的移動の原因―新資本主義國に於ける市場のヨリ有利な條件/229
・ 第二章 各種の恐慌理論/233
・ 第三章 產業循環及恐慌の週期性の說明/245
・ 第三篇 產業恐慌の社會的影響/277
・ 第一章 產業循環が國民生活に及ぼす影響/277
・ 一、一八二五年より一八五〇年に至る英國々民生活の週期的變動―この期に於ける英國人民の經濟狀態の一般的特徵―人民大衆の貧窮化の原因―手織工―國民生活の週期的變動と產業恐慌との關係―新救貧法の效果―失業―一八三〇年の委員會の提案せる方策/277
・ 二、一八五〇年より一八七〇年に至る國民生活の變動―棉花飢饉―一八五八年のヨークシヤーの罷業―企業家及勞働者にとつての產業變動の重要性/310
・ 三、一八七〇年より一九〇〇年に至る變動―この變動の新性質―賃銀の比較的安定―この點に關して勞働組合の重要性/321
・ 四、最近の變動―產業變動と國民生活變動との關係の消失/333
・ 第二章 一八二五年より一八五〇年に至るまでの勞働者大衆の失業及革命運動/341
・ 第三章 棉花飢饉/396
・ 第四章 一八七〇―一九〇〇年に於ける失業及失業者運動/426
・ 第五章 現代失業の一般的性質/454
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450 考える名無しさん[] 2019/04/01(月) 20:58:32.96 ID:0
ファシズムは完全雇用を目指しその弊害が戦争を生む
対外的な緊張が国家の宿命だ
今起こっているのは経済戦争でドル支配の代替案が必要だ
5つ星のうち4.0裏返しの信用論
2018年3月17日
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『恐慌論』岩波文庫(2010)[1953]
目次
はしがき
序論 ☆☆☆
一 典型的恐慌現象
二 恐慌論と外国貿易
三 恐慌現象における商業資本の役割
四 資本主義社会におけ恐慌の可能性と必然性
第一章 好況
一 好況期における資本の蓄積
二 信用の演ずる役割
三 投機的発展と物価騰貴 ☆
第二章 恐慌
一 利潤率と利子率との衝突
A 資本の蓄積の増進に伴う利潤率の低下
B 最好況期における利子率の昂騰
C いわゆる資本の欠乏
二 資本の過剰と人口の過剰
A 労働賃銀騰貴の限界
B 商品の過剰としての資本の過剰
C 「豊富の中の貧困」
三 資本価値の破壊
第三章 不況
一 再生産過程の停滞
二 生産方法の改善による新たなる蓄積の発足
三 好況への転換
第四章 景気循環の回転期間
第五章 資本主義社会における恐慌の必然性
一 機械的必然性と歴史的必然性 ☆☆
二 恐慌の必然性と崩壊の必然性
三 恐慌論と恐慌の分析
附 録
一 『資本論』における恐慌理論の難点
二 『資本論』における恐慌の必然的根拠の論証について
解 説(伊藤誠)
『資本論』の引用、本論では長谷部訳、付録は岩波文庫訳を採用。一箇所新日本出版社訳23頁。
『価値論』は『資本論』第1部を拡大、『恐慌論』は第3部を拡大している。『恐慌論』は『経済原論』に比べ第3部からの引用の割合が大きい。裏返しの信用論である。
『経済原論』の後は『経済政策論』(未文庫化)、そして『恐慌論』と読み進めるべきだ。
☆
116頁:
(1)いわゆるインフレーションが社会的に問題となるのは、政府が財政収入によって確保し得ない資金を紙幣その他の通貨の発行増加によって人為的に造出するとき、いわゆる通貨膨脹から生ずる物価騰貴が各種の社会層に種々異なった影響を及ぼすからであるが、好況期の信用膨脹に伴う物価騰貴にもこれをインフレーションとする場合が少なくない。両者の物価騰貴はその原因を異にするのであって混同してはならない。
☆☆
200頁:
(1)私自身はしかしマルクスがその『資本論』第一巻第一章「商品」で直ちに労働価値説を展開していることには納得し得ない疑問をもっている。
☆☆☆
23頁:
商品交換は,共同体の終わるところで,諸共同体が他. の諸共同体または他の諸共同体の諸成員と接触する点で,始まる。しかし,諸物がひとたび対外的共. 同生活で商品になれば, それらのものは反作用的に,内部的共同生活においても商品になる。
資本論翻訳委員会訳『資本論』第一巻a,新日本出版社,1997年,149頁。
多々参照されるのが、
英国恐慌史論 (邦訳1931年) ツガン=バラノフスキー