土曜日, 3月 02, 2019

ジュディス・バトラー、スピノザを語る

http://nam-students.blogspot.com/2006/05/nam_31.html#6

バトラー(ジュディス・).Butler,Judith,❸T.480,481@,
 『ジェンダー・トラブル』,❸T.480,
 (『身体こそが問題だ』),❸T.480,481@

スピノザエチカ第2部より
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2p13
定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2p23
定理二三 精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2p26
定理二六 人間精神は自己の身体の変状(アフェクトゥス)〔刺激状態〕の観念によってのみ外部の物体を現実に存在するものとして知覚する。


 「おのおのの物は自己の及ぶ限り ( i n  s o  f a r  a s  i t  i s  i n  i t s e l f )自己の存在に固執するように努める 」 ( 『エチカ 』第三部定理六 )



参考:

『権力の心的な生』2012^1997The Psychic Life of Power: Theories in Subjection

https://www.amazon.co.jp/dp/4901477951


 F r a m e s  o f  w a r , 2 0 0 9 , V e r s o , 『戦争の枠組み 』筑摩書房
ジュディス バトラー、 晶子, 清水


現代思想2019年3月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー
T i t l e : T h i s  L i f e , T h i s  T h e o r y
J u d i t h  B u t l e r


この生、この理論
ジュディス・バトラー/坂本邦暢訳
 私はここにいることを大変光栄に思っており、東京、そしてとりわけ明治大学への訪問を可能にしてくれた
すべての人に感謝いたします。私は自分の哲学上の歩みについて話せないかと頼まれました。私は回想録や
自叙伝を書こうと思ったことは一度もありません。なぜなら、私の自己は、私にとって最も不透明なものか
もしれないからです。私の自己が、著者として語る私の声にたいしてもっている関係は、少なく見積もっても
大変にぎこちないものなのです。…



若かりし頃の地下の書庫で 、私はスピノザの 『エチカ 』を見つけました 。一九三〇年に出版された古いヴァージョンです 。


私の関心はすぐに第二部の 「精神の本性および起源について 」 、そして第三部の 「感情の起源および本性について 」に向かいました 。

…スピノザいわく、人間の場合、人間の精神(神の属性と考えられています)の観念は、なにか存在する
ものとリンクしていなければならず、その存在するものと独立にあるということはないのです。このことが
スピノザを二つの重要で驚くべき定理に導きます。第一に、人間の精神の観念は、必然的に身体について
の観念であるという定理[2p13]です。身体は、人間の精神に対応して存在しているのです。第二の定理[2p23]は、
精神の観念というのは、触発される過程で形づくられるというものです(これは、神によって触発さ
れることだと考えられるでしょう。これが観念をもたらすのです)。さらに、人間の精神が別の個体を
触発できるのは、精神に対応して存在しているもの、すなわち身体を通してだけだ[2p26?]
ということがいえます。
スピノザは精神と身体を区別して話していますが、それらがダイナミックな統一体をなしていることは、
はっきりさせています。人間の身体は、私たちが知覚するようにそれが存在している限りで、精神の対象です。
しかし人間の身体というのは、精神が現実的に存在するあり方でもあるのです。…

訳註
[1]スピノザ 『エチカ 』第二部公理二、三、岩波文庫、2011年改版、上巻、113ページ(訳語を変更した)。
[2]スピノザ 『エチカ 』第二部要請五、141ページ 。
[3]スピノザ 『エチカ 』第二部要請四、141~141ページ 。
[4]スピノザ 『エチカ 』第三部定理七、214ページ 。
[5]スピノザ 『エチカ 』第三部定理一九、229ページ。
*この記事は 、二〇一八年一二月六日 、明治大学にて行われた講演会の発表原稿を載録したものです 。
『ジェンダー・トラブル』の著者、カリフォルニア大学バークレー校修辞学/比較文学科教授の
ジュディス・バトラー(Judith Butler)氏 特別講演会

 ◆ 講演会「This Life,This Theory」 
    日時:2018年12月6日(木)13:30~
    会場:明治大学 駿河台キャンパス リバティタワー1F リバティホール
    言語:英語(通訳あり)
http://www.meiji.ac.jp/bungaku/info/2018/6t5h7p00000tf8do-att/a1543882965377.pdf

https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/571042/b3bf0d486cc6094518b39653d98a56cc_0d8333648bd0af07fca2efb63e29635f.jpg


第2部より
1
  人間は思惟する〈、あるいは他面から言えば、我々は我々が思惟することを知る〉。
  愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の様態が存しなくとも存在することができる。

2
  人間身体の流動的な部分が他の軟かい部分にしばしば突き当るように外部の物体から決定されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源である外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する。

3
  人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわば絶えず更生される。

第3部より
4
 定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。
 証明 おのおのの物の与えられた本質から必然的にいろいろなことが生ずる(第一部定理三六により)。また物はその定まった本性から必然的に生ずること以外のいかなることをもなしえない(第一部定理二九により)。ゆえにおのおのの物が単独であるいは他の物とともにある事をなしあるいはなそうと努める能力ないし努力、言いかえれば(この部の定理六により)おのおのの物が自己の有に固執しようと努める能力ないし努力は、その物の与えられた本質すなわち現実的本質にほかならない。Q・E・D・

5
 定理一九 自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これに反して自分の愛するものが鮭持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。
 証明 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものを(この部の定理一二により)、言いかえれば(この部の定理一三備考により)自分の愛するものを、できるだけ表象しようと努める。ところが表象力は物の存在を定立するものによって促進され、また反対に物の存在を排除するものによって阻害される(第二部定理一七により)。ゆえに愛するものの存在を定立する事物の表象像は、愛するものを表象しようと努める精神の努力を促進する、言いかえれば(この部の定理一一備考により)精神を喜びに刺激する。これに反して愛するものの存在を排除する事物の表象像は、精神のこの努力を阻害する、言いかえれば(同じ備考により)精神を悲しみに刺激する。 ゆえに自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう、云々。Q・E・D・



 ジュディス・バトラー『身体こそが問題(マター)である』(Judith Butler, Bodies That Matter, 1993)

◆『身体こそが問題(マター)である』の意義

①前作『ジェンダー・トラブル』(1990)とのつながり

 「セックスの自然な事実のように見えているものは、じつはそれとはべつの政治的、社会的な利害に寄与するために、さまざまな科学的言説によって言説上、作り上げられたものにすぎないのではないか。セックスの不変性に疑問を投げかけるとすれば、おそらく、『セックス』と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである。実際おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。そしてその結果として、セックスとジェンダーの区別は、結局、区別などではないということになる。」(『ジェンダー・トラブル』、竹村和子訳、青土社、1999年、28-29頁)
 「セックスを前-言説的なものとして生産することは、ジェンダーと呼ばれる文化構築された装置がおこなう結果なのだと理解すべきである。」(同上、29頁)

②この著作において展開されたこと

 「『ジェンダー・トラブル』を成り立たせている解釈の一つは、この世にセックスはない、ジェンダーしかない、ジェンダーはパフォーマティヴだというものです。そこで人々は、もしもジェンダーがパフォーマティヴならば、ジェンダーは自由に選択できるものだと考えていくのです。ここでは、肉体の物質性は無効にされるか、無視されるか、否定されるか――あるいは頭ごなしに否認されているようにさえ見えたのです(…)。そういうわけで、私が『問題なのは肉体だ』を書いたときに重要になってきたことは、セックスというカテゴリー、つまり物質性の問題にもう一度立ち戻って、セックス自体がいかに規範として作られるかということを問いなおすことだったのです。」
 「『ジェンダー・トラブル』ではセックスというカテゴリーをあまりに性急に乗り越えすぎたのかもしれません。だから『問題なのは肉体だ』で、それについてもう一度考え、セックスの生産そのもののなかの束縛の場所を強調しようとしたのです。」(ジュディス・バトラー、「パフォーマンスとしてのジェンダー」(1994)、ピーター・オズボーンとリン・シーガルによるインタビュー、竹村和子訳、『批評空間』第2期第8号、1996年、49頁)

 「私はある種の生物学的な差異を否定するつもりはありません。けれども私がつねに問いかけていることは、どんな条件のもとに、どんな言説上の条件、あるいはどんな制度上の条件のもとに、ある種の生物学的な差異が(そしてこの世には変異した肉体もあるので、かならずしも生物学的な差異も必要ではないのですが)、性の顕著な特徴になりえるかということです。(…)私がいまだにはっきりと信じていることは、セックスのカテゴリーを批判することが可能だということ、セックスがいかに強制的な再生産という無言の制度によって束縛されてきたかを見ることができるということです。」(同上、51-52頁)

◆Matter = 動詞としての意味:「重要である」「問題である」
       名詞としての意味:「物質」「材料」「事柄」「問題」「困難」「内容」

◆『身体こそが問題(マター)である』の内容の紹介

●イントロダクション(pp. 1-13)

 「身体の物質性の問題を、ジェンダーのパフォーマティヴィティにつなぐような道が存在するだろうか。そして、『セックス』のカテゴリーがそうした関係性のなかで姿を現してくるのはいかにしてなのか。」(1)
 「性的差異は、言説的実践によって何らかの仕方で徴しづけられ形成されていることのないような、さまざまな物質的差異の一つの機能では、けっしてない。」(1)
 「セックスは一つの規範として機能するばかりでなく、一つの統制的実践の一部であり、この実践は、それが支配している身体を生み出している。」(1)
 「『セックス』は、時間を通して強硬に物質化された一つの理念的な構築物である。それは身体の一つの単なる事実あるいは静的な状態ではなく、一つの過程であり、この過程によって、規制的な諸規範が『セックス』を物質化し、またこうした物質化をそれらの規範の強硬な反復reiterationを通して達成するのである。」(1-2)
 「身体の固定性、その輪郭、その運動を構成しているものは、完全に物質的なのであろう。しかし、物質性は、権力の効果として、権力のもっとも産出的な効果として思考し直されるだろう。」(2)

 「もしジェンダーが、セックスが引き受けるさまざまな社会的な意味からなっているとすれば、セックスは、さまざまな社会的意味を付け足しの特質として獲得するのではなく、むしろ、セックスが帯びているさまざまな社会的意味によって置き換えられる。」(5)
 「主体そのものが、諸関係のジェンダー化されたマトリックスのなかで、またそうしたマトリックスとして産出されると主張することは、主体を無用のものとして捨ててしまうことではなく、もっぱら、主体の出現と作用の諸条件がどうなっているかを尋ねるということである。」(7)

 立てられる問い 「いかなる統制的諸規範を通して、セックスそれじたいが物質化されているのか。また、セックスの物質性を所与のものとして扱うことは、セックスじたいの出現の規範的な諸条件を前提し、かつ強固なものにしているのはどういうわけなのだろうか。」(10) ⇒  「哲学的な用語で言えば、事実確認的主張は、つねに、ある程度、パフォーマティヴである。」(11)
 「パフォーマティヴィティとは、単独の『行為』ではない。というのも、それはつねに、ある一つの規範あるいはひとまとまりの諸規範の反復reiterationだからであり、パフォーマティヴィティは、それが現在において擬似行為的な地位を獲得するほどにまで、それがその反復であるような諸慣習を隠したり偽ったりするのである。」(12)

 「そうした沈殿作用あるいは我々が物質化と呼ぶかもしれないもののプロセスは、ある種の引用性citationalityとなるであろうし、権力の引用、すなわち、『私』の形成における権力との本源的な共犯を打ち立てるような引用を通しての存在の獲得、ということになるであろう。」(15)

 「身体がいかにしてまたいかなる目的で構築されているかを考えるのと同じくらいに、身体がいかにしてまたいかなる目的で構築されていないのかについて考えること、そしてさらに、物質化しそこなった身体が、規範を物質化するなかで問題(マター)となる身体を性格づけている身体にとっての必然的な「外部」――必然的な支えでないにせよ――をいかにしてもたらすかを問うことが重要となるだろう。」(16) 

 「では、生存可能な身体として規定するものの形成において異性愛のヘゲモニーが働いていることを確かめるために、統制的諸規範によって支配されたある種の物質化としての身体の問題(マター)を通して、人はいかに思考すべきだろうか。」(16) 

●第1章 身体こそが問題(マター)である(pp. 27-55) 

 「ポスト構造主義の言語的理念主義」(27) ⇒ ここから、「すべてが言説なら、身体はどうなるのか」という問いが生じてきた。 
 「セックスの物質的な還元不可能性」:「私は、『物質性』が還元不可能性の印となったのはなぜ、いかにしてなのかを問いたい。つまり、セックスの物質性が、それのみがさまざまな文化的構築に耐え、その結果、一つの構築物とはなりえないようなものとして理解されているのはいったいいかにしてなのか、これを問いたいのである。こうした排除の地位とはどのようなものだろうか。」(28) … 「権力のマトリックス」とのかかわりで 


 「私は次のような問いを立てたい。セックスの問題(マター)と物質性に助けを求めることは、フェミニストの実践を根拠あるものにすると言われている還元不可能な特性を打ち立てるために、必要なのかどうか。」(28-29) 
 「問題(マター)が一つの歴史(確実に、一つ以上の歴史)を持っており、問題(マター)の歴史が一部、性的差異の交渉によって決定されていることは、最初から明らかである」(29) 

 「この『還元不可能な』物質性が、それを構成している歴史のなかで、問題のある一つのジェンダー化されたマトリックスを通して構築されているのを示すことができるとすれば、問題(マター)が還元不可能にされているという場合の言説的な実践が、同時に、そうしたジェンダー化されたマトリックスをその場所において存在論化し固定しているのだ。」(29) 
 おそらく物質性は「女性的なものの排除とおとしめを通して構成されているのだろう」(30)。 
 「記号に先立つものとして措定されている身体は、つねに、先立つものとして措定されておりあるいは意味されている。」(30) 

 「女性性と物質性との古典的な連合は、問題(マター)をおふくろmaterと母体matrix(あるいは子宮)とに、そしてそれゆえに、生殖の問題系に結びつけるような語源の一群にまでたどることができる。」(31) 
 「身体の物質性を記述しようとする努力において問題(マター)の与えられたバージョンを推定すると、理解可能な身体として現われるものと現われないものとを前もって示すことになるのはいったいどうしてなのだろうか。」(54) 

●第2章 レズビアン・ファルスと形態学的な想像界(pp. 57-91) 

※ Phallus … ラカンの用語。もともとは「男根」を意味する(例えば「男根期」はphallic phase)が、ラカンはこのファルスを欠如のシニフィアン、母親にペニスが欠けていることからその無を満たすそれじたいでは何も指示対象を持たないシニフィアンとして、提示している。このファルスは、あらゆる主体が被っている去勢を徴しづけるシニフィアンであり、去勢を被ること(=ファルスの徴しを身にまとうこと)によって主体は言語の世界に参入できるようになるという意味で、すべてのシニフィアンがシニフィエを持つことを可能ならしめる特権的なシニフィアンである。 

 「いかなる仕方であれレズビアン・ファルスに言及することが、男性的原物(オリジナル)のぼんやりした表象であるように見えるかぎりで、我々はおそらく、男性的なものの『オリジナリティ』なるもののぼんやりとした産出を問いに付すことになるだろう。」(63) 

 「ファルスがレズビアン的なものであるとき、それは権力の男権支持的形象であり、かつそうではない。シニフィアンははっきりと分割される。というのも、そのシニフィアンは、それが駆り立てられている男権主義を呼び戻し、かつ移動させるからである。そして、そのシニフィアンが解剖学の場において機能しているかぎりで、ファルスはペニスの亡霊を(再)生産するのだが、これはもっぱら、その消失を生じさせ、まさしくファルスの場合としてのその永続的な消失を反復し不当に利用するためである。このことは解剖学を――そして性的差異それじたいを――増殖する再意味作用の場として開放する。」(89) 
 「レズビアン・ファルスは、ファルスに別の仕方で意味する機会を与える。そしてそのように意味することで、ファルスじたいの男権支持的かつ異性愛的特権を、故意にではなく、意味し直すのである。」(90) 

◎「レズビアン・ファルスについて欲望の一つの可能な場所として語るということは、想像的な同一化を、および/あるいは、現実的な同一化に反して測られうるような欲望を参照することではない。反対に、それは単に、ヘゲモニー的な想像界に別の選択肢となる想像界を提唱すること、そして、そうした主張を通して、排外的な異性愛的形態学の自然化によってヘゲモニー的な想像界がみずからを構成している仕方を示すことである。」(91) 

 「必要とされているのは、新しい身体の部分ではなくて、(異性愛主義的な)性的差異のヘゲモニー的な象徴界の移動であり、性感帯の快楽を構成しているさまざまな場所に対する、別の選択肢となる想像的なシェーマの批判的な解放の移動である」(91)。 

●第3章 幻想による同一化とセックスの引き受け(pp. 93-119) 

 「セクシュアリティとジェンダーを脱自然化しようとする努力が主要な敵としているのは、異性愛主義のさまざまな規範を自然化し実体化することを通して作用している、強制的な異性愛主義の規範的な枠組みである。」(93) 
 「私が示唆したいのは、パフォーマティヴィティは、反復可能性のプロセス、さまざまな規範の統制され強制された反復のプロセスの外部で理解されることはできない、ということである。そしてこの反復は、ある主体によって遂行されるのではない。この反復は、主体に能力を付与し、主体にとってのその時々の条件を構成する。こうした反復可能性は、『パフォーマンス』が単独の『行為』や出来事ではなく、儀式化された産物、強制のもとでまた強制を通して、禁止とタブーの力のもとにまたそれを通して、反復された儀式であることを含意している。」(95) 

 「権力の外部にセクシュアリティは存在せず、その産出態における権力が統制から完全に自由になることがけっしてないのだとすれば、統制作用それじたいが、セクシュアリティに対する産出的あるいは生成的な強制として構築されるのはいったいいかにして可能なのか。」(95) 
 「『セックス』はつねに、ヘゲモニー的諸規範の反復として産出されている。この産出的反復は、ある種のパフォーマティヴィティとして読まれうる。」(107) 

 言説的パフォーマティヴィティ … 名づけることが産出すること、作ることともなりうる。ただしそれは、無からの想像ではなく、反復可能性、再分節化、再意味化である。 

 「『私』がその性化された立場によって確保されているかぎりで、この『私』とその『立場』は、『引き受け』が単独の行為や出来事ではなく、むしろ反復可能な実践であるような場合に、繰り返し引き受けられることによってのみ、確保されることができる。性化された立場を『引き受ける』ことが、ラカンが言うであろうように、正当性に関する規範に助けを求めることであるとすれば、『引き受け』とは、そうした規範を反復すること、そうした規範を引用したり模倣することについての問題なのである。そして、引用は、ただちに、その規範についての一つの解釈、また、その規範を一つの特権化された解釈として提示する一つの機会となるだろう。」(108) 

 「ゲイとレズビアンのセクシュアリティを、棄却abjectionを通してあるいは棄却に抗して意味しなおすことresignificationは、それじたいが、象徴界そのものについての予見されない再定式化であり増殖である。」(110) 

●第4章 ジェンダーは燃えている:占有appropriationと壊乱についての問い(pp. 121-140) 

 映画『パリ、夜は眠らないParis Is Burning』(1991) … ジェニー・リヴィングストン監督・プロデュース。ジェニーは白人のレズビアン。ニューヨーク市ハーレムにおけるドラァグ・ボールズを描いた作品。ドラァグとは女装した男性のこと。アフリカ系アメリカ人あるいはラティーノの「男たち」によるパフォーマンス。 

 「諸規範をパロディー化することは、それらを移動させるのに十分かどうか」(125) 
 ドラァグは、自らがそこで構築されている権力の諸領域のなかに含まれている、と同時に、自らが対立している権力の諸領域のなかに含まれてもいる。 

 女装は女嫌い、女に対して攻撃的、という評価もある(ベル・フックス)(126) 
 ドラァグは「女性」の移動であり占有であって、根本的には女嫌いに基礎を置いている。レズビアニズムは男性の移動であり我がものにすることであって、根本的には男性憎悪の問題である。 
 ドラァグは、占有し、かつ、壊乱する。 

●第5章 「危険な交差」:ウィラ・キャザーの男性的な名(pp. 143-166) 

 ウィラ・キャザー(1873-1947) アメリカの女流小説家。 

 同一化を、虚構的な名前に対する関係のうちに読み取ること 
 キャザーの『私のアントーニア』(1918)の分析 

 『トミーに感傷は似合わない』(1896)では、「同一化はいつでもアンビヴァレントな過程であり、引き継ぎでもあるような立場を引き受けることであり、所有の放棄であり、犠牲である。」(148) 
「反復であり引用として、ジムの著述業は派生したものとして理解される。」(149) 
 ボヘミアンであるアントーニア 名前を尋ねることをやめないアントーニア 
満足させることができない言語的欲望 

 「父祖の名としての名は、法を担っているばかりでなく、法を創設してもいる。」(154) 
 キャザーにおける父祖の名の占有と移動 … セオドシアという少女が、留守がちな父親トーマスの仕事を手伝ううちにトミーと呼ばれるようになる。 
 父親に対する娘の忠実さ、ということばかりではなく、攻撃的な占有でもある。「名前を反復することは父祖の名を女性化し、男性的なものを、従属的、偶然的で、交換にゆだねられたものという地位に置く。」(156) 
 「トミー」は、ものや同一性を参照するのではなく、同性愛の禁止によって生み出された占有と押収への誘引を参照するような名となっている。 

 「語られない名前がキャザーにおいて視覚の屈折を生み出しているということは、禁止と、さまざまな身体の輪郭づけ及び分配との間の関係を読む、一つのやり方を示唆している。」(162) 
 身体は部分の集合として現れるが、諸部分は、身体の理想上の全体性を挫折させるような、ほとんど自律的な意味作用を備給されたものとして現れる。 
 『ポールの場合』(1905)における、ポールの身体 

●第6章 パッシング(〔白人として〕通用すること)、クィアリング(ぶちこわしにすること):ネラ・ラーセンの精神分析的挑戦(pp. 167-185) 

 ネラ・ラーセン(1891-1964) ハーレムルネッサンスの女性小説家。シカゴ生まれ。父親はカリブのヴァージン諸島出身、母親はデンマーク人。

 精神分析は性差を特権化している、という見立て。

 「同性愛と混血とが、規範的な異性愛――これは同時に、人種的に純粋な生殖の統制でもある――の構成的外部に、そして構成的外部として収斂するということ、これをどのように理解するべきであろうか。」(167) 
 「ネラ・ラーセンのテキストを、精神分析的な諸前提が性的差異の優位性を主張するようにではなく、性的差異が分節化され引き受けられるときの権力の収斂する諸様態を分節化するよう約束させるものとして、読むようなやり方が存在するだろうか。」(168) 

 『パッシング』(1929) … 主人公アイリーン。夫はブライアン。アイリーンの友人がクレア。アイリーンもクレアも色白の混血女性だが、白人として「パス」している。クレアの夫ベルーは人種差別主義者。アイリーンは夫ブライアンがクレアと浮気していると疑い、クレアがハーレムに来られないようにするために、クレアがその夫ベルーに、黒人仲間といっしょにいるところを発見されるよう仕向ける。クレアは夫にそれを発見されたとき、窓から落下して死ぬ。自分から飛び降りたのか、突き飛ばされたのかははっきりしない(そのときクレアの隣にいたのはアイリーン)。 

 ベルーが人種差別主義者であることをめぐるパラドクス:「彼の白さが構成されたものであることを否認することを通して、そしてそうした否認を創設することを通してのみ、彼の白さは永続的に――不安にかられつつ――再構成される。」(171) 
 ベルーはクレアを「ニグNig」とふざけて呼ぶ … ありえないものとしてそれを欲望する:クレアはフェティッシュの意味を明らかにしている 

 ラーセンの「クィア」という言葉の使用:謎をかけたり当惑させるということばかりでなく、詐取したりだましたりといった意味もある。例えば、クレアを白人として育てたおばたちは、クレアが自分の人種に気づくことを禁じるが、彼女たちは「クィア」だと記述されている。 

 「クィアすることとは、パスすることを転覆させその正体を暴くことである。それは、会話の、人種的かつ性的に抑圧された表面が、怒りによって、セクシュアリティによって、色への強調によって爆発させられる、そうした作用のことである。」(177) 

 超自我もまた、統制の心的エージェンシーである 
 「フロイトにとって、この超自我は、ある程度社会的に受容されているある規範、基準、理想を代表している。」(181) … それはひとつの規範ではなく、さまざまな規範のセットであり、セクシュアリティを統制する禁止として起こってくる。 
 「精神分析的フェミニストたちはさまざまな仕方で、性的差異が言語と同じくらい一次的であること、性的差異を前提としないでは話すことも書くこともありえないこと、を主張してきた。このことは次のような第二の主張へと導くが、私はこれに異義を唱えたい。それは、性的差異が、人種的差異を含む他の種類のさまざまな差異よりもいっそう一次的あるいはいっそう根本的だ、という主張である。」(181) 

●第7章 リアルと論争する(pp. 187-222) 

 パフォーマティヴィティを、言説としての権力の特殊な様式として鋳直すこと 
 「言説」そのものは、さまざまな「効果」がそこでは権力の諸ベクトルとなっているような、複雑で収斂するいくつかの連鎖として理解されるべき 
 この意味において、言説において構成されるものは、言説のなかであるいは言説によって固定されることはなく、よりいっそうの行動のための条件および機会となる。 

 「『パフォーマティヴィティ』を、故意の、恣意的な選択として読むことは、以下の点を見逃している。それは、言説の歴史性と、とりわけ、諸規範(命法的な語調のなかで援用され隠されている反復のさまざまな「連鎖」)の歴史性が、言説が名づけるものを成立させるという言説の権力を構成している、という点である。」(187) 

 精神分析の有効な点を認めつつ、そのさまざまな限界を強調する。異性愛的な禁止命令が普遍項として捉えられている点に関して(189) 
 「現実的なもの」を「言語化できないもの」というポジションに置くこと 

 ジジェク(『イデオロギーの崇高な対象』):言語において主体はある排除の作用を通して産出される。主体の形成において否認されたものが、その主体を規定し続ける。 
 政治的なシニフィアン:「女性」「民主主義」「自由」 幻想によるもの、空虚なシニフィアン 

 バトラーは、それらの政治的なシニフィアンを、それらのシニフィアンの歴史性との関係において考える必要がある、とする。そのとき、パフォーマティヴィティを、デリダ的な引用可能性と接続して考え直す戦略をとる。 

 ジジェク:言語のなかでは直接に象徴化されることのできないトラウマ的「外部」が、言説の形成を偶然的なものとする 
 ラクラウ&ムフ(『ヘゲモニーと社会主義の戦略』):「いかなるイデオロギー的形成物も、構成的対立を通して、またそれに抗して構成され、その結果、そうした形成物は、偶然的な諸関係の一式を覆うあるいは「縫合する」努力として理解されるべきである。」(192) 

 政治的なシニフィアンは、何かを表象する項ではなく、パフォーマティヴな項として作用する。 
 「現実的なもの」 … 基礎、核、喪失、否定性、欠如等々 ← 去勢の法 
 「政治化の外部にとどまり続けなければならず、ジジェクにとって、つねに同じものでなければならないもの」(199) 

 「ある二重の運動を学ぶ必要がある。それは、カテゴリーを行使すること、そしてそれゆえに、暫定的に、ある同一性を創設すること、また同時に、そのカテゴリーを恒常的な政治的抗争の場として開いておくことである。」(222) 

●第8章 批判的にクィアーな(pp. 223-242) 

 「パフォーマティヴな行為とは、権威のある発話の諸形態のことである。」(225) 
 言説が持つ権力は、先行する文章を反復することからなる。 … 引用の権力 
 「承認とは、ある主体に贈られるものではなく、その主体を形づくるのだ。」(226) 

 「クィア」 … 「それが告発、病理化、侮辱と結びつけられるときの、反復された訴えかけを通して、その力を引き出している」(226) 

 「『女の子だね』という名づけが他動的である限り、すなわち、ある『女の子化girling』が強制される過程を起動させる限りで、『女の子』という言葉、あるいはむしろその象徴的な力は、身体的に制定された女性性の形成、けっしてその規範に完全には合致しないような女性性の形成を統御している。しかし、これこそが、規範を『引用』することによって、生存可能な主体の資格を得てそれを維持するよう強いられる『女の子』なのである。したがって女性性とは、選択の産物ではなく、ある規範の強制的な引用であり、この規範の複雑な歴史性は、規律、統制、懲罰からなる強制的な諸関係と切り離すことができない。」(232) 

 「性的な実践とジェンダーとの関係は、まさか、構造的に決定された関係ではないものの、構造主義の異性愛的な推定を不安定にすることは、いまだに、そうした二つのものを互いに力動的な関係のもとに考える一つのやり方を与えてくれる。」(239) 

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