火曜日, 12月 31, 2019

国宝へようこそ 法隆寺

国宝へようこそ 第1集「法隆寺」

(オープニング)
オープニング
オープニング映像。今回は法隆寺の国宝を紹介。
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国宝法隆寺
(国宝へようこそ)
国宝「中門」
最初に紹介する国宝は「中門」。出入り口がふたつというかまえ。この門のむこうに仏の世界がひろがる。西院伽藍には世界最古の木造建築がたち並ぶ。
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中門国宝斑鳩町(奈良)法隆寺西院伽藍
国宝「五重塔」
続いて紹介する国宝は「五重塔」。釈迦の骨をまつるために建てられた。心柱の真下に安置されている。上にいくほど屋根が小さくなっており、これはより高く美しく感じさせる工夫だという。木の特徴を見極めて建てられているため、今でも一直線。軒下には縁の下の力持ちてきな存在として踏ん張る像がつくられている。
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五重塔国宝法隆寺西岡常一
国宝「金堂」
続いて紹介する国宝は「金堂」。寺の本尊をまつる重要な建物。法隆寺のなかで最も古く、まさに世界最古の木造建築!中国古来の建築様式で建てられている。中国にはもうのこっていないので貴重だという。大きな扉は一本のヒノキからきりだされた1枚板。当時すでに樹齢1000年はこえていたとみられている。注目は扉の格子の部分。格子をよく見ると、1枚の板をくりぬいてつくられていることがわかる。
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ヒノキ国宝法隆寺金堂
聖徳太子と法隆寺
法隆寺は再建されたものと考えられている。もともとの法隆寺はどこにあったのか?今よりすこし南側に建っていたという。それは落雷で全焼。あとかたもなく消えてしまった。聖徳太子が最初の法隆寺をつくった人物。仏教を積極的に学び日本の礎をきずいた。日本に仏教をひろめるため聖徳太子がみずから創建したのが法隆寺だった。聖徳太子はやまいにたおれ突然この世を去った。皇位継承をめぐる争いで一族も滅亡した。最初の法隆寺が焼けたのはその後のことだった。しかしおよそ40年後法隆寺は再建され、西院伽藍が完成した。一体何のために…?
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国宝法隆寺聖徳太子西院伽藍
国宝「釈迦三尊像」
法隆寺再建のワケが金堂の中に隠されていた。中央には国宝「釈迦三尊像」。法隆寺の本尊。釈迦三尊像のうしろには仏から放たれる光をあらわした光背が広がる。仏が人々を救済するために小さな姿となってあらわれ、炎のうずをまいて上へ上へとのぼっていく。あらわしているのは浄土の世界。天蓋からたれる細長いかざりは木でつくられ、その間にある小さなたまは当時貴重だったガラスなどをつかっている。鳳凰がまい、その上では天人が笛をふき、浄土の世界がにぎやかに演出されている。しかしそれらは下からはほとんど見えない場所にある。
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国宝法隆寺聖徳太子釈迦三尊像 (法隆寺)金堂
釈迦三尊像の光背の裏側にはこの像をつくったいきさつがきざまれていた。聖徳太子がやまいにふす。家臣たちは病気の回復を願いこの像をつくりはじめたという。しかし聖徳太子は死んでしまう。この像は太子の死後に完成したものだった。この像は聖徳太子と同じ身長でつくられており、人々は釈迦と聖徳太子の姿をかさねあわせたとみられている。
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国宝法隆寺聖徳太子釈迦三尊像 (法隆寺)金堂
国宝「薬師如来坐像」
当時聖徳太子を慕っていたのは僧侶や豪族など様々な人たち。人々の太子への思いがうんだもう1つの仏像が「薬師如来坐像」。この像は太子の死後数年経ってから釈迦三尊像にならってつくられたといわれている。釈迦三尊像、薬師如来坐像、そっくりなこの2つの像には、太子の時代を生きた人々と太子なき時代を生きた人々の思いが込められている。聖徳太子の浄土をつくるため金堂はたてられ、法隆寺は再建された。
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国宝法隆寺聖徳太子薬師如来坐像釈迦三尊像 (法隆寺)金堂
国宝「毘沙門天立像」
聖徳太子への信仰がつづくなか、様々な像がうみだされ金堂をいろどった。国宝「毘沙門天立像」。大陸から伝わった仏像に日本独自の彫刻技術が加わっている。
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国宝毘沙門天立像法隆寺聖徳太子金堂
国宝「吉祥天立像」
国宝「吉祥天立像」。赤を基調としたひときわ華やかな印象。そでの部分からは布のような質感を味わうことができる。
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吉祥天立像国宝法隆寺聖徳太子金堂
国宝「廻廊」
西院伽藍は周囲が廻廊で囲まれている。廻廊は神聖な場所をしきる役割をはたす。柱は宮大工によって大切に手入れされてきた。1300年ここにたちつづける柱。幾多の天変地異をたえてきたこの木に数え切れない人が触れた。柱のいたんだ部分は新しい木でうめられ、パッチワークのようなあとがのこっている。
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国宝廻廊法隆寺西院伽藍
国宝「百済観音」
法隆寺にはまだまだ国宝が!なかでもとりわけ神秘のベールにつつまれているのが国宝「百済観音」。作風から飛鳥時代後期につくられたとみられている。当時の仏像は正面からおがむため、横からみた姿はあまり考えられていなかった。しかし百済観音は横からみても美しい。表面には木屎漆がもりつけられ、厚みと柔らかさを表現している。微笑んでいるのかそうでないのか?この百済観音は多くのナゾに満ちている。はじめて寺の記録に登場したのは江戸時代の中頃になってから。そこには朝鮮半島百済からきたと記されていた。ところが百済ではクスノキで仏像はつくらない。日本でしかクスノキは使われていなかったことから、日本でつくられたと考えられている。明治になると寺の別の場所から宝冠がみつかり、頭にあててみるとピッタリ。百済観音のものだとわかった。しかしいつから法隆寺にあって、誰がつくったのかは今もナゾのまま。
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クスノキ国宝朝鮮半島法隆寺百済百済観音像
国宝「九面観音」
国宝「九面観音」。頭上に8つの顔をもつ仏様。驚くのは、釘もたたないというかたさのビャクダンの木からほられていること。顔はハリがあり若々しい。
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ビャクダン九面観音国宝法隆寺
国宝「伝 橘夫人念持仏 及び厨子」
国宝「伝 橘夫人念持仏 及び厨子」。自宅にまつられていた、今でいう仏壇。高さ2mの厨子に像が安置されている。聖徳太子によって仏教がひろまり100年ほどたつと、仏像が個人のもちものとしてもつくられるようになった。光背にはみごとなすかし彫りがほどこされている。蓮池は、さざなみが再現されている。うしろのびょうぶには天女の姿。女性も極楽浄土にゆけるよう願う思いが込められている。女性の極楽浄土へのおしえを日本にひろめたのは他でもない聖徳太子だった。仏様を覆う天蓋は、聖徳太子のためにつくられた釈迦三尊像の天蓋とおなじ模様がほどこされている。
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伝 橘夫人念持仏 及び厨子国宝法隆寺聖徳太子釈迦三尊像 (法隆寺)
(エンディング)
エンディング